【DRY-RUN】主 文 被告人両名につき、それぞれ、原判決を破棄する。 被告人Aを罰金二十五万円に、被告人Bを罰金十万円に、それぞれ処す る。 右罰金を完納することができないときは
主文 被告人両名につき、それぞれ、原判決を破棄する。 被告人Aを罰金二十五万円に、被告人Bを罰金十万円に、それぞれ処する。 右罰金を完納することができないときは、金千円を一日に換算した期間、当該被告人を労役場に留置する。 原審における訴訟費用は、全部被告人両名の連帯負担とする。 理由 検察官の控訴の趣意は、別紙東京地方検察庁検事正検事馬場義続名義の控訴趣意書と題する書面(昭和二十七年七月九日第一回公判期日において別紙正誤表のとおり訂正)記載のとおりであり、被告人Aの弁護人正木・、同環昌一、同環直弥の各控訴の趣意は、それぞれ別紙同人ら名義の控訴趣意書と題する書面及び弁護人正木・名義の主任弁護人の控訴趣意書の補充と題する書面記載のとおりであり、被告人A、同Bの弁護人正木・、同環昌一、同環直弥の検察官の控訴の趣意に対する答弁は、別紙同人ら連名名義の答弁書と題する書面記載のとおりである。これに対し当裁判所は左のとおり判断する。 検察官の控訴の趣意に対する判断第一、 被告人Aに関する部分一、 (理由のくいちがい、法令適用の誤、採証法則違反による事実誤認)(同控訴趣意書二頁乃至三九頁)について。 原判決が事実の摘示の項において、『被告人Aは東京都千代田区a町b丁目c番地出版業株式会社C書店の社長として出版販売等一切の業務を統轄して居るものであるが、D・Hロレンスの著作なる「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳出版を企図し、Bに之れが飜訳を依頼しその日本訳を得たる上、その内容に別紙(一)の如き性的描写記述のあることを知悉し乍ら之れを上、下二巻に分冊して出版し、昭和二十五年四月中旬頃より同年六月下旬頃までの間前記会社本店等に於いてD株式会社等に対し上巻八万二十九冊、下巻六万九千五 の如き性的描写記述のあることを知悉し乍ら之れを上、下二巻に分冊して出版し、昭和二十五年四月中旬頃より同年六月下旬頃までの間前記会社本店等に於いてD株式会社等に対し上巻八万二十九冊、下巻六万九千五百四十五冊を売渡し以つて猥褻文書の販売を為したものである。』との事実を認定し、法律適用の項において、右事実に対し、刑法第百七十五条前段罰金等臨時措置法第三条第一項を適用し、罰金刑を選択の上、被告人Aを罰金二十五万円に処し、証拠説明の項において、同被告人の右「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻(以下本件訳書と略称する)が猥褻文書でないとの主張に対し、一、 猥褻文書の意義二、出版自由と刑法第百七十五条三、本件訳書と猥褻性 (イ)本件訳書と春本等との関係 (ロ)本件訳書の存在意義 (ハ)本件訳書と一般読者等の項目を設け、一、猥褻文書の意義の項の結論として、猥褻文書とは、「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義すべきであると説明し(原判決一一頁、一二頁)、二、出版自由と刑法第百七十五条の項の結論として、「刑法第百七十五条の猥褻文書を前記の如く定義するときは、かゝる文書は公共の福祉に反するものといふべきであるから、之が出版は基本的人権の行使と解し得ないのであつて、これを刑法によつて処罰することは基本的人権の侵害とはならないのである。所謂春本が刑法第百七十五条に該当する猥褻文書とせられることは異論のないところであるが、かゝる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険が る文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである。従つてかゝる結果を招来する危険のある文書は所謂春本であると否とを問わず刑法第百七十五条の猥褻文書として排除することが、社会的共同生活の幸福を確保する所以であるといふべきである。」と説明し(原判決一五頁、一六頁)、三、本件訳書と猥褻性(イ)本件訳書と春本等との関係の項の結論として、証人E1の供述を引用し、「本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものであると認むべきである。」と説明し(原判決一七頁)、同(ロ)本件訳書の存在意義の項において「弁護人は本書は性の意識を解放せんとするところの純文学作品であるから、これを戦後の我が国の読者に与えることは公共の福祉に合するものであると主張するを以てその点について考察する。」と前提して、「大英百科辞典」(証五五)、リチヤード・オールデイントン著「D・H・ロレンス」(証六〇)、中橋一夫著「二十世紀の英文学」(証一三)、「世界文学辞典」(証一四)、「西洋文学辞典」(証一五)、志賀勝著「ロレンス」(証九)、E2著「D・H・ロレンス」(証五三)、ステイヴン・スペンダー著「破壊的要素」(証五六)、エー・シー・ウオード著「一九二〇年代」(証五八)等の証拠物及び証人E2、同E3、同E4、同E5の各供述を引用して、本書の文学的価値に関する研究の結果を紹介した上、「この小説をロレンスの傑作であるとすることは一般的に言ひ得ないと思われるが、英文学殊にロレンスを研究する人々にとつては価値あるものとして遇せられるべきものであることは認め得るのであるから、本書は英文学殊にロレンスを研究する人々より奪ふことは出来ないと 得ないと思われるが、英文学殊にロレンスを研究する人々にとつては価値あるものとして遇せられるべきものであることは認め得るのであるから、本書は英文学殊にロレンスを研究する人々より奪ふことは出来ないと云ふべきである。」と結論し(原判決二五頁乃至三三頁)、更に進んで、「然るところ、本件訳書はかゝる研究家にのみ与ふるものとして出版せられたものではなく、一般読者に対して無制限に購読せしめんとして出版せられたものであるから、英文学やロレンス研究家以外の者に対する関係について更に考察しなければならないのである。」とし(原判決三三頁)、英文学を専攻し、ロレンスを研究したもの以外の者が本件訳書を如何に理解したかについて、証人E6、同E7、同E8、同E9、同E10(以上弁護人申請で、被告人に有利な証言をしているもの)及び同E11、同E12、同E13、同E14、同E15、同E16、同E17、同E18、同E19、同E20(以上検察官申請で、検察官に有利な証言をしているもの)等の各供述を比較対照し、右各証人がそれぞれ現解を異にする理由を説明するについて、桑原武夫著「文学入門」(証六四)中の、「作品を書くことは主観的なインタレストを客観世界との連関の内におくことであり、読者はこの作品を読むことによつてインタレストを感ずるのである。この様なインタレストは読者が作者と共通な基盤の上にあり、作品が伝達可能即ち作品の精神が読者に働きかけて影響を与えるものでなければならぬのであつて、『共通なもの』を読者が持たぬときは、それによつてインタレストを覚えないのである。」との部分等を引用し、本件訳書を読んで共感を覚えないのは、ロレンスとその基盤を異にし、共通なものがないからであるとし、次いで、ロレンスが、「誰が何と言つても、この小説が今日の人間に心要な、真摯な健全な作品であること し、本件訳書を読んで共感を覚えないのは、ロレンスとその基盤を異にし、共通なものがないからであるとし、次いで、ロレンスが、「誰が何と言つても、この小説が今日の人間に心要な、真摯な健全な作品であることを私は断言する」と強く宣言しているのに対し、エドウイン、ミユア著「一九一四年以後の現代」(証五七)、エー・シー・ウオード著「一九二〇年代」(証五八)(チヤクレイ夫人の恋人を一般に販売するのは疲労し切つた熱病患者にビフテキとビールを与えるような無思慮なことである。)及び中橋一夫著「二十世紀の英文学」(証一三)の酷評並びに証人E5(この書を戦後の日本の社会に与えたいと考えて敢然と飜訳したBの勇気に敬服した。フランスでは完本が自由に出ているときいていたので、日本もフランスの様な国になつたかとも思つた。広く世界の文学史上においてロレンスに似通つた作家は知らないし、「チヤタレイ夫人の恋人」に似たような小説も知らない。)、同E8(性に関する内外の著書を沢山読んだが、本訳書より詳しく性行為を書いたものを見たことがないし、文芸書でも本訳書ほど性行為を赤裸々に詳しく書いたものはなかつた。)、同E3(ロレンスは性慾について行き過ぎの考を持つて居るから、本書の性描写はない方がよいと思う。)及び同E2(ロレンスと同じ問題を悩んで居る人々のみが共鳴するものである。)等の否定的な批判に関する供述を引用して、「『チヤタレイ夫人の恋人』は検事指摘のような性描写がある為外国に於けるが如く我が国に於いても容易に一般の共感を得られるものでないと謂わざるを得ないのである。」とし、「D・H・ロレンス書簡集」(証五四)の一部、本件訳書のあとがきに記載されたロレンスの妻Fの言として、「僕はこれを出版したものだろうか、それともこれはまた、罵詈と憎悪しか齎らさないものか知ら?」とロレンスが ロレンス書簡集」(証五四)の一部、本件訳書のあとがきに記載されたロレンスの妻Fの言として、「僕はこれを出版したものだろうか、それともこれはまた、罵詈と憎悪しか齎らさないものか知ら?」とロレンスが語つたとの部分を引用し、「ロレンスもこの小説は一般的には容れられないものであり、本訳書の序文にある如く、『わづかな場所にこの作品の範囲は限られている』という特殊なものであることを知つていたことによつても裏付けられる。」と説明している(原判決三三頁乃至四六頁)。次に、証人E1の供述によつて、心理学上の「素地」と「図柄」という学術語を説明し、本件訳書特に検事指摘の性描写の部分が読者から、どのように受取られるかについて、同証人、証人E4、同E2、同E16、同E17、同E5、同E15、同E3、同E19、被告人B等の各供述を引用した上、「読者の多数は本訳書を読んでその性的描写を『図柄』として受取るのであり、更にその『図柄』よりロレンスの思想を汲みとるまでには至らないのが普通の状態と思はれるのである。然るところE15証人は少数の生徒に教育的な立場から読書指導をして、共に勉強するのであれば意味があると思ふが、それには生徒や教師その他いろいろの条件がうまく行かなければ出来ないことであると供述したのである。このことからすれば、条件にして本訳書を理解するに適するものであれば、その性的描写により刺戟を受くるも、理性によりその性的興奮を制御し得ないような結果を招来せしめない場合もあり得るものと解すべく、本訳書はかゝる条件下の読者に与うることは有意義であるとしなければならぬ。従つて本訳書は条件の如何によりその理解を異にせられるものであるから、猥褻文書に頗る類似(紙一重といふべきもの)したものといふべきものである。」と説明し(原判決四六頁乃至五九頁)、同(ハ)本件訳書と 従つて本訳書は条件の如何によりその理解を異にせられるものであるから、猥褻文書に頗る類似(紙一重といふべきもの)したものといふべきものである。」と説明し(原判決四六頁乃至五九頁)、同(ハ)本件訳書と一般読者の項においては、先ず証人E1の供述及びこれに引用せられている相良守次著「行動の理解」によつて、読者が書物を読んで猥褻感を受ける場合を分析して、その猥褻感(B)は読者(P)と書物並びに環境(E)の函数(f)である[B=f(P・E)]とし、「本訳書の如く僅かに猥褻文書たることを免れておる文書は読者並に環境の変化により、猥褻文書となることも考えられるのでその点について考察する。」とし(原判決五九頁)、前記桑原武夫著「文学入門」、G新聞の行つた「読書世論調査」(証一六)によつて、「従つて、本書が如何様に読みとられるべきかについては、青少年を主なる対象として、考察しなければならないのである。その学歴について見るに、前記調査によれば中学卒業者(新・旧中学・新高校)は半数以上の多数で、小学卒業者上高専卒業者以上は夫々同数位であるから、そのほとんどは中学卒業者以下であると言ふべく、従つて難解なる本訳書はE1証言によつて明らかである如く文学形象の第二層を掴む程度に読まれるのが通常であると認むべきある。」とし、その裏付けとし、証人E6、同E9の供述を引用し(原判決五九頁乃至六二頁)、次に、戦後の社会情勢について、証人E21、同E10、同E11、同E14、同E18、同E19、同E5、同E1の各供述、押収にかかる戦後的出版物によつて、戦後的出版物は、「その装幀、挿絵は極めて煽情的で、その記述も露骨或は擽り的な物で、いづれも煽情的である。従つてこれを購讀する者は勿論、店頭に於いて披見し或は瞥見した者は、公然と街頭に貼出されてあるところのこの種出版物の露骨煽情 は極めて煽情的で、その記述も露骨或は擽り的な物で、いづれも煽情的である。従つてこれを購讀する者は勿論、店頭に於いて披見し或は瞥見した者は、公然と街頭に貼出されてあるところのこの種出版物の露骨煽情的なる広告、新聞紙上に掲載されたる内容目次の広告を瞥見することと相俟つて性的刺戟を累加されているものと認められるのである。」とし、証人E18、同E22の供述によつて、青少年の性的虞犯化の原因の一として、映画も重視すべきであるが、映画も時には社会的批判を甘受しなければならぬ作品を世に送つた実情であるとし、次いで、証人E18、同E17、同E5、同E12、同E19、同E20、同E13の各供述を引用して、「戦後は性的不良出版物が多く現われ、街娼の出現も加つて、性に関する考え方は乱れて居り、思慮の不十分な青少年に於ては、性的衝動について現性による制御力を著しく鈍化せしめられて居るものと解すべきである。」とし(原判決六二頁乃至六八頁)、戦後における性意識の解放について、証人E7、同E23、同E6の各供述を引用し、「このような点からすれば、戦後の性の混乱は単なる混乱であり、ロレンスの所謂『乱痴気騒ぎ』に過ぎないのであつて、性の意識はまだ『羞かしいもの』として、その脳裡に刻まれて居り、暴露的快楽を追ふている状況であると解すべきである。従つて我が国に於ける性についての社会的意識は、しかく解放されていないと認めなければならない。」とし、性教育の観点から、本件訳書について、証人E1、同E24、同E15、同E17、同E19、同E23、同E9、同E10、同E7及び被告人Bの各供述を引用し、「性教育との関係において、本書が如何に厳しい取扱ひをせられねばならぬかを示唆しているものである。」とし、次に性科学書と本件訳書との関係について、「証人E1、E13が指摘した如く通常猥 供述を引用し、「性教育との関係において、本書が如何に厳しい取扱ひをせられねばならぬかを示唆しているものである。」とし、次に性科学書と本件訳書との関係について、「証人E1、E13が指摘した如く通常猥褻文学は性を禁止されたものであるとし、快楽的に下等な態度でこれを扱ひ、作中の人物に個性を持たせ、実在するが如く書かれているに反し性科学書は性を純粋に客観的に扱ひ作中の人物は人間という抽象的なもの(即ち人格のない物とも謂い得るもので親近感がない)としそれにより情緒的なものを受取らないような記述が為されて居るのである。 従つて性科学書に於いても抽象的でなく人物に個性を持たせて記述することにより情緒的なものを読者に与えるにいたれば猥褻文書となる可能性は強いのである。 従つて読者にインタレストを与えることを本質とする文学作品に於いて性の探求を為さんとするときはその記述により読者が情緒的なるものを、どの程度に受くべきかに充分なる考慮が払わるべきものである。)とし(原判決六八頁乃至七八頁)、更に、本件訳書の出版発売に当つての取扱について、第一に、本件訳書が上、下巻二冊に分冊されたこと、第二に、本件訳書の発売についての広告が適当でなかつたことを取り上げ、「本書は性についてのロレンスの考え方が小説として書かれて居るのであるが、これは他の小説と異なり上巻より下巻へと真面目なる態度で読むのでなければ、その意図を汲むことが困難であることは叙上の説明によつて明らかである。従つて本訳書が読者に与えられる際には如何にしたら真面目に読まれるかという点に重点をおいて考えられ、措置せらるべきであつて、手軽に、気安く買はれるというが如きは却つて本書を誤読することへの拍車となるのである。」、「読者はこれを低俗なる性慾小説と速断する疑は多分にあるのである。(中略)本訳書が広告によ らるべきであつて、手軽に、気安く買はれるというが如きは却つて本書を誤読することへの拍車となるのである。」、「読者はこれを低俗なる性慾小説と速断する疑は多分にあるのである。(中略)本訳書が広告により低俗化せられたとの感を深くするものであり、B被告が『煽情的な、刺戟的な広告をすると夫婦雑誌のような種類のものと誤解し、起訴状のように、春本的にとられる危険性がある』と懸念したことが、事実となつて現われたものと言ふべきである。」とし(原判決七八頁乃至八五頁)、ロレンスのような思想が生活そのものであり、その間に幾変転かして居るものにとつては、全集で出版するのが適当であり、被告人Aが選集とし、しかも第一回に本件訳書を売出したことも適当でなかつたとし、「前叙認定の如き環境下にこの書を出版するについて、A被告は何等の措置を為さなかつたことはエー・シー・ウオードの指摘する如く『疲労し切つた熱病患者にビフテキとビールを与えるような無思慮な』企図であり、かくして出版された本訳書は読者の多数には低俗なる性慾小説として、春本的に受取られるであらうことが認められるのである。証人E25が『チャタレイ夫人の恋人』を出版するに際しA被告はこの書は性描写のところが世間で誤解されるおそれがあるといい、上巻発売の日に社員を一堂に集めて、この書は昔から問題になつて居るから、若しかしたら或反響を起すかも知れないが、一つの警世的意味で出版するから、社員は、誤解に対してはつきりした態度がとれるように本訳書を読んでおけと言つた、と供述し、A被告がアンケートを挿入するに際してその五項に『あなたがもし検閲官だつたら、本書を発禁にするか』との問があることについて、若し『発禁にせよ』という回答が五〇%以上あれば、私の独善的な考え方を訂正して出版を見合せなければならないと思つたから、アンケート もし検閲官だつたら、本書を発禁にするか』との問があることについて、若し『発禁にせよ』という回答が五〇%以上あれば、私の独善的な考え方を訂正して出版を見合せなければならないと思つたから、アンケートの発案者に対してその間の訂正を申入れたが、研究上是非必要であるといふので、私は重大なる決意を以つてそのアンクートを挿入したのであると供述したことからすれば、そのことはA被告も予め知つていたものと認むべきである。」とし、更にこれを裏付けるため、証人E14、同E16、同E19、同E25、同E26の各供述、E27提出の販売一覧表、E28作成の出版発行一覧表を引用すると共に、証人E25作成のアンクート集計表(証一〇七)についてG新聞社の調査と対比して説明し(原判決八五頁乃至九三頁)、本件起訴と本件訳書の春本的な取扱いとの関係については、証人E7、同E1、同E6、被告人Aの各供述及び前出G新聞社の調査を引用し、「起訴以前に於いて既に猥本的に取扱われ、それによつて爆発的売行を呈していたものと認むべきである。」とし(原判決九四頁)、前出「文学入門」中から、「読者はそこに表現された人生に強いインタレストを感じ作中人物に共感し、その行動をわがこととしてそこに強いインタレストを感ずる。しかしその人物は現実世界に実在する人間でないからインクレストは人生そのものえのものとなり、この作品から受けたインタレストを直に現実的行動に出ることはないが、然も行動直前ともいふべき状態におかれるのである。即ちあらゆる条件が揃つたならばそのように振舞つて見たいという気持、行動をはらんだ心的態度が心の中に生じ、それは心に痕跡をのこしたまゝ蓄積され、何らかの程度で読者の将来の行動に影響を及ぼし、これを規制する。例えば恋愛小説を読んで異性一般えの愛情の目ざめから特定の異性に改めて愛情を覚 度が心の中に生じ、それは心に痕跡をのこしたまゝ蓄積され、何らかの程度で読者の将来の行動に影響を及ぼし、これを規制する。例えば恋愛小説を読んで異性一般えの愛情の目ざめから特定の異性に改めて愛情を覚えることなどである。」との引用を為し、「本訳書を読んで、その性的描写記述を『図柄』として受取るところの多くの読者は、行動直前的とも謂ふべき性的興奮を覚え現性により制御するを得ざるか、著しく因難を感ずるに至るでおろうと思われるのである。」とし、証人E6、同E15、同E17、同E19の各供述によつて、これを例証し、「叙上の如き環境下に販売せられたる木訳書は、読者の性慾を刺戟し、性的に興奮せしめ、理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめるところのものとなり、ここに刑法第百七十五条に該当する所謂猥褻文書と認めらるるに至るのである。」と結論している(原判決九四頁乃至九七頁)ことは所論のとおりである。 よつて案ずるに、刑法第百七十五条の猥褻の文書(以下「猥褻文書」と略称する)の意義については、従来の大審院の判例は、「刑法第百七十五条に所謂猥褻の文書図画其他の物とは性慾を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画其他一切の物品を指称し、従て猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものなることを要することは、其前条の猥褻行為に関する規定と対照して、之を解するに余あり。」(例えば、大正七年六月十日刑事第二部判決、法律新聞一四三三号二二頁)としていたが、昭和二十六年五月十日の最高裁判所の判決は、「刑法第百七十五条にいわゆる『猥褻』とは、徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」と定義している(第三小法廷判決、最高裁判所刑事判例集第五巻第六号一〇二六頁以下)。検察宮はこれを引用して、 戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」と定義している(第三小法廷判決、最高裁判所刑事判例集第五巻第六号一〇二六頁以下)。検察宮はこれを引用して、「我が国現代の一般読者に対し、欲情を連想せしめ、性慾を刺戟し、興奮し、且つ人間の羞恥と嫌悪の情を催さしめるもの」としたのに対し、弁護人は、「専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に触れることを予想し、性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ、肉体を消耗的享楽の具たらしめ、未成年者をして恢復し難い心身の損失を招かしめるような悪意ある性関係の文書」即ち『(個人差の無限に多い主観的の感覚によつて判断すべきものでなく)客観的に観察し、性器又は性行為を人間の現性又は情操等の高等なる精神機能(主として判断力)を前提とし、これに訴えて描写又は記述した文書図画(医学書類、哲学、文芸、宗教書、ロダンの作品等)を除外し、専ら感覚的官能的な描写又は記述(子供でも感覚的描写は分る、スースー、ハーハーの類は高等な判力を要しない)によつて興味的又は享楽的の効果を期待したと判断される「非学術的又は人道的の図書」』と定義すべきであると主張し、原判決は、前記引用のように、「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し、理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら、羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義すべきであるとしている。 当裁判所は、「猥褻」又は「猥褻文書」の意義については、右大審院及び最高裁判所の例に従うをもつて正当と解するものであるが、右二つの判例は互に多少その表現の方法を異にし且ついずれも極めて抽象的であるから、これを補足的に説明すると共に、検察官、弁護人び原判決の各定義の当否を検討することとする つて正当と解するものであるが、右二つの判例は互に多少その表現の方法を異にし且ついずれも極めて抽象的であるから、これを補足的に説明すると共に、検察官、弁護人び原判決の各定義の当否を検討することとする。 <要旨第一>第一に、「猥褻文書」たるには、従らに、性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る描写又は記述の記載があるこ</要旨第一>とを要することはいうまでもないところであつて、如何なる記載がこれに該当するかは、当該文書の具体的な記載を客観的に一般社会人の良識に照らし判断すべきものと考える。そして、一般的にいえば、個人又は小説等の作中の人物の性器又は性交等の性的行為の露骨詳細な描写又は記述の記載がこれに該当すると解すべきである。例えば、個人又は小説等の作中の人物の性交、性交の前後に接着する接吻、抱擁その他性交の前技若しくは後技、これらの行為に関連して発せられる言語若しくは音声の表現、行為者の受ける感情若しくは感覚の表現又は性交に関連する性器の状態の露骨詳細な描写又は記述の記載の如きものが、従らに性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る記載に該当することは疑のないところであろう。 元来性慾は、生物たる人間の本能であつて、性慾の発現である人間の性生活は、種族保存の作用を営み、人類存続の基礎を為しているのである。そして、性慾は、その本能たるの性質上不覊奔放に陥る虞があるのであるが、人間の性生活は、集団的共同生活たる社会生活において行われるがために、人間の社会生活における他のあらゆる行動が、程度の差こそあれ、ある程度の制約を受けると同様に、性慾の発現及び満足の形式において、ある一定の制約を受けることは避くべからざることというべく、この社会的制約は、性的秩序ともいうべき一定の社会生活上の秩序を形成しているのである。この性的秩序の態様は、時と処を異にするに従い、幾多 て、ある一定の制約を受けることは避くべからざることというべく、この社会的制約は、性的秩序ともいうべき一定の社会生活上の秩序を形成しているのである。この性的秩序の態様は、時と処を異にするに従い、幾多の相違変遷があつたにもせよ、近代文明社会においては、性行為が男女両性の間に無秩序に行わるべからざること、性的行為を公然行うべからざること、性的行為についてこれを公然行つたと同一の効果を生ずる虞ある程度に描写又は記述した文書図画を公表すべからざること等をその内容と為すものであることは、否定し得ないところである。尤も、右の性的行為の秘密性保持の制約も、性慾延いては性生活について正しい理解を与えて人間の幸福な生活に資することを目的とする性教育等のために、漸次撤廃解放されて行く傾向にあり、かような正しい目的を有する限り、右の撤廃解放は望ましいことではあるが、これにも一定の限度があるものといわなければならない。わが国においても、右のような性生活に関する社会的制約が、善良の風俗の一つである性的秩序として侵すべからざるものとして保護されていることは、刑法第百七十四条乃至第百八十二条及び第百八十匹条の規定の存することによつて明らかである。されば、一般社会人が、前記の社会的制約を超えた前記のような性器又は性交等の露骨詳細な描写又は記述ある文書図画に接するときは、人間の本能としての性慾は、右描写又は記述が社会的制約を無視したという異常性に影響されて過度に興奮又は刺戟せしめられるものと解すべきであり、最高裁判所の判決にいう『徒らに』とは、その他の説明と相俟つて、右社会的制約従つて性的秩序に違反し、過度に性慾を興奮又は刺戟せしめることを意味するものと解すべきである。 第二、 『猥褻文書』たるには、右第一の徒らに性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る記載がある結果、普通 約従つて性的秩序に違反し、過度に性慾を興奮又は刺戟せしめることを意味するものと解すべきである。 第二、 『猥褻文書』たるには、右第一の徒らに性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る記載がある結果、普通人即ち一般社会人の正常な性的羞恥心を害し且つ善良な性的道義観念に反するものたることを要する。 人間の性生活は、性慾の発現及び満足の形式において、ある一定の社会的制約を受け、この社会的制約は、性的秩序ともいうべき一定の社会生活上の秩序を形成しており、その性的秩序は、性交の秩序保持、性的行為の秘密性保持等の制約をその内容としており、わが国においても、右の性的秩序は、刑法の規定によつて保護されていることは、前記説明のとおりである。又この性的秩序は、法規によつて保護される以前において、この秩序を善良の風俗として破るべからざるものとする一般社会人の性的道義観念ともいうべき道義観念によつて支持されていることはいうまでもなく、このことは、刑法の他の諸規定が保護しようとする諸法益の根柢にいずれも道義観念の存在することによつても疑うの余地はないものといわなければならない。従つて、ある行為が社会的秩序を破り延いてこれを保護する法規に違反するときは、社会的秩序を支持している道義観念にも亦反するものなることは、当然の論結というべきであり、この道義観念に反する行為があつた場合には、一般社会人は、恐怖、憤怒、羞恥、嫌悪等各種の感情を抱くに至るものであることも多く説明を要しないところである。これを性的秩序の場合について考えてみると、前記の性生活に関する社会的制約に反し、文書によつて徒らに性慾を刺戟又は興奮せしむるに足る事項を表現し、一般社会人の閲読に供するときは、このことは一般社会人の性的道義観念に反すると共に、右の表現が右社会的制約を無視したという異常性に影響されてそ て徒らに性慾を刺戟又は興奮せしむるに足る事項を表現し、一般社会人の閲読に供するときは、このことは一般社会人の性的道義観念に反すると共に、右の表現が右社会的制約を無視したという異常性に影響されてその性慾は過度に興奮又は刺戟せしめられ、延いては羞恥感と嫌悪感との複合した特異の感情を抱くに至るものと認められるのである。(後記弁護人正木・の控訴の趣意[32]に対する判断参照)第三に、以上第一及び第二の要件に該当するか否かは、一般社会人の良識に照らして客観的に判断しなければならない。一般社会人の良識は、これを社会通念といい換えても差支なく、又この判断は、法律判断であり、価値判断である。 一般社会人中には、未成年者、未婚の青少年も含まれるけれども、弁護人主張のように、「自ら日発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に触れることを予想し云々」として、未成年者のみを対象としてこの判断を為すべきものでなく、国民各層を広く包括した一般社会人を対象として考察判断すべきである。そして、右の客観的判断とは、裁判所が、国民各層を広く包括した一般社会人の抱くであろうと考えられるところの通念を基礎とし、当該文書自体の記載に即して判断することを意味するから、当該文書の作成者の意図目的で当該文書に表現されていないものは、判断の対象となり得ないものというべきである。このことは、著者の序文その他当該文書に共に記載された意図目的そのものが、本文と共に一体を為し、本文の性質に作用することを何ら妨げる意味ではないこと勿論である。又一般社会人の良識又は社会通念とは、個々人の認識の集合又はその平均値を指すものでなく、これを超えた集団意識を指すものであるから、個々人がこれに反する意識を持つことを否定するものでなく、かかる個々人が存在することによつて、一般社会人の良識又は社会通念た はその平均値を指すものでなく、これを超えた集団意識を指すものであるから、個々人がこれに反する意識を持つことを否定するものでなく、かかる個々人が存在することによつて、一般社会人の良識又は社会通念たることを否定されることのないこともいうまでもないところである。 そして、集団意識たる性的秩序又は性的道義観念に関する一般社会人の良識又は社会通念も、不動のものでなく、時代による変遷、社会による相違はあり得べく、性的行為の秘密性を極めて厳格に維持しようとする社会と、正しい性の理解のためにする性教育の必要性を認め、その必要に応じて、性的行為の秘密性の緩和を図ろうとする社会とでは、自らその内容に変化があるのである。近代社会においては、政治、経済、文化の進歩に伴い、性に関する一般社会人の良識又は社会通念は、盲目的無批判的な性的行為の秘密性の厳守から漸次意識的批判的な正しい性の解放に向つて進んで行くような傾向にあるものと解し得られ、その限度において、次第に「猥褻文書」を認める範囲を減縮して行く結果を招来することは窺われるが、前記説明のように、これにも一定の超ゆべからざる限界があり、社会生活において、個人の性器若しくは性的行為を公然表示し、又は公然表示したと同一効果を生ずべき、個人又は小説等の作中の人物の性器若しくは性的行為の露骨詳細な描写又は記述を公然表示することは許されないものと解すべきである。 以上説明のとおりであるから、大審院及び最高裁判所の判決の各定義は、その表現に多少の相違はあるが、同一趣旨のものと解すべく、又右と検察官及び原判決の各定義もそれぞれ趣旨において右両判決の定義と異るところはないものというべきである。即ち、先ず大審院及び最高裁判所の判決の各定義を比較すると、前者中の「人」は後者中の「普通人」と同一意義で、一般社会人を意味することが 旨において右両判決の定義と異るところはないものというべきである。即ち、先ず大審院及び最高裁判所の判決の各定義を比較すると、前者中の「人」は後者中の「普通人」と同一意義で、一般社会人を意味することが明らかであるし、後者中には「嫌悪の感念を生ぜしむる」という文言がないが、嫌悪の感情は性的羞恥心を害せられた場合当然同時に随伴して生ずるものであることは前記説明のとおりであるから、後者のように「正常な性的羞恥心を害し」とのみ表現しても決して不充分なものということはできないし、前者中には「善良な性的道義観念に反する」という文言がないが、性的秩序を無視して性慾を刺戟し興奮せしめるような事項の表現に接することは当然性的道義観念に反することも前記説明によつて理解し得るところと考えられるし、又前者中には、「徒らに」という文言がないが、この「徒らに」とは、「過度に」という意味であることは、前記説明のとおりであつて、前者も正常な性慾の刺戟興奮は問題外としていることは明らかであるから、右両判決の各定義は、同一趣旨のものと解し得るのである。次に検察官の定義は、その中の「我が国現代の一般読者」は、大審院判決の定義中の「人」及び最高裁判所判決の定義中の「普通人」と同一意義であり、前記説明によつて理解し得るように、最高裁判所の判決の宗義中にある「善良な性的道義観念に反する」という要件を不必要としている趣旨とも解し得られないし、その他の表現の相違も亦本質的なものでないと解せられるから、結局右両判決中の定義と同一趣旨と認むべきである。更に、原判決の定義も、その中にある「人」は右両判決の定義中の「人」又は「普通人」と同一意義であり、その中にある「理性による制御を否定又は動揺するに至るもので」とは、最高裁判所の判決の定義中の「徒らに」の部分を具体的に説明したものと解せられ、 判決の定義中の「人」又は「普通人」と同一意義であり、その中にある「理性による制御を否定又は動揺するに至るもので」とは、最高裁判所の判決の定義中の「徒らに」の部分を具体的に説明したものと解せられ、その他の表現の相違も亦本質的なものでないと解せられるから、結局右両判決の定義と同一趣旨と認められる。 しかるに、弁護人の「猥褻文書」の定義は、前記のように、最高裁判所の判決に「普通人」とあるのを「未成年者」に限走しようとするもので、この点において狭きに失し、「性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ肉体を消耗的享楽の具たらしめ恢復し難い心身の損失を招かしめるような」高度の弊害を生ずるものだけが「猥褻文書」となるものとも解し難く、「客観的に観察し、性器又は性行為を人間の理性又は情操等の高等なる精神機能を前提とし、これに訴えて描写又は記述した文書図画」がすべて「猥褻文書」から除外されるのも行き過ぎであり、『専ら感覚的官能的な描写又は記述によつて興味的又は享楽的の効果を期待したと判断される「非学術的又は非人道的の図書」』のみが「猥褻文書」に該当するというのも亦狭きに失するのであつて、前記大審院及び最高裁判所の判決の各定義に反する限度において失当たるを免かれ難いのである。 右に関連して文学書及び科学書と「猥褻文書」との関係を考察する。 文学は、一般的について、人生におけるあらゆる問題を探究し、人間生活の重要部分を占める恋愛及び性の問題は、好んで採り上げられる傾向にあることは否定できないところである。しかしながら、文学も亦社会生活を基盤とし、社会生活上の問題を捉え、社会の中にあるのであるから、社会的秩序がよつてもつて形成される諸制約に従わなければならないのであつて、文学書にだけこの制約を無視するが如き絶対的自由が許されるものと解することはで 上の問題を捉え、社会の中にあるのであるから、社会的秩序がよつてもつて形成される諸制約に従わなければならないのであつて、文学書にだけこの制約を無視するが如き絶対的自由が許されるものと解することはできない。即ち、文学書にも亦その表現に右の諸制約より来る一定の限界があるのであつて、その限界を超え、その表現が、前記「猥褻文書」の定義に該当する部分があれば、社会的秩序を維持するための刑罰法規の適用を受けることもやむを得ないところである。又その文学書の表現中極めて僅少な部分が「猥褻」に該当するものと認められる場合でも、当該部分を削除する等の手段を講じない以上、その文学書は右当該部分と不可分的に文学書の全部について「猥褻文書」の取扱を受けることも避け難いところである。尤も、文学書の芸術性がその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめて、猥褻性を解消せしめ、或いは、その哲学又は思想の説得力が性的刺戟を減少又は昇華せしめて猥褻性を解消せしめる場合があり得ることは考えられるのであつて、かかる場合には、多少の性的描写があつても、「猥褻文書」に該当しないこととなるのである。しかし、文学書の芸術性やその哲学又は思想の説得力が未だその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめるに足りない場合もあり得べく、かかる文学書は、未だもつて「猥褻文書」の域を脱しないものというべきである。それ故、性的刺戟以外に一層高度な思惟的刺戟を与えることから、過度の性的刺戟を与える点を度外視することは許されないものといわなければならない。これを要するに、文学書としての芸術的価値があることと、当該文学書が猥褻性を持つこととは、全く別個の問題であつて、前者は人生の探究の観点から、後者は社会的秩序維持の観点からそれぞれ判断される結果の避け難い結論であるといわ しての芸術的価値があることと、当該文学書が猥褻性を持つこととは、全く別個の問題であつて、前者は人生の探究の観点から、後者は社会的秩序維持の観点からそれぞれ判断される結果の避け難い結論であるといわなければならず、当該文学書の芸術性又は説得力が猥褻性を解消する程高いものか否かも、後者の立場から決定されなければならないことは、いうまでもないところであろう。 右の理は科学書についても異るところはないというべきである。ただ、一般的にいつて、科学書は、対象たる事物を客観的に観察し、普遍的な法則を研究することを目的とし、記述も亦客観的に為され、人間の肉体及び精神を探究するに際しても、人間一般に通ずる普遍的な法則を客観的に記述するを通例とする。従つて、人間の性慾、生殖作用、性器、性交、性感覚等を研究する医学、心理学等の分野における記述においても、通例、普遍的にこれを探究し、又は解説し、個別性、具体性を持たないのである。尤も、科学書において、具体的事例を取り扱うことがあることは否定できないけれども、この場合にも、対象たる右事例を客観的に観察又は研究した結果を普遍的な法則との関連において記述し、性的な具体的事例を取り扱う場合にもこれと異なるところなく、且つ、性的刺戟を与える虞ある露骨詳細な記述を避くるなもつて通例とする。もとより、少数の個々の読者がその年齢、生活環境等に原因して、科学書によつて過度に性慾を興奮又は刺戟せしめられることのあることは否定できないけれども、一般社会人は、かかる記述によつては、右のような影響を与えられないものと解せられる。これに反し、一般的にいつて、文学は、人生のあらゆる分野を探究しながらも、これを生きた人間の個別的な具体的事件として表現し、これを一般社会人に与えるのである。即ち文学においては、その根本において哲学、思想を探究 般的にいつて、文学は、人生のあらゆる分野を探究しながらも、これを生きた人間の個別的な具体的事件として表現し、これを一般社会人に与えるのである。即ち文学においては、その根本において哲学、思想を探究し、これを一般社会人に説得しようとする意図がある場合でも、これを生きた人間の行為として表現するのである。一般社会人は、これらの表現から、生きた人間の行為を見るが如く、聞くが如き印象を受けるのである。それ故、科学書の客観的な記述と比較すると、性器、性交、性感覚に関する表現から受ける性慾の興奮度又は刺戟度が強いこととなるのである。これを要するに科学書が「猥褻文書」に該当するか否かも亦、前記基準に照らして決定すべきものと考えられるのである。 よつて進んで、本件訳書が「猥褻文書」に該当するか否かの判断について、原判決に所論の理由のくいちがい、刑法第百七十五条の解釈を誤つた違法又は事実誤認があるか否かについて案ずるに、記録を精査し、証拠物を通覧し、特に本件訳書(東京高等裁判所昭和二七年押第八七六号の一)を通読し、証人E22、同E24、同E11、同E12、同E13、同E14、同E17、同E18、同E19、同E20、同E5、同E8、同E3、同E2の各供述記載、エドウイン・ミュア著「一九一四年以後の現代」(同押号の五七)、エー・シー・ウオード著「一九二〇年代」(同押号の五八)、中橋一夫著「二十世紀の英文学」(同押号の一三)の各記載、「D・H・ロレンス書簡集」(同押号の五匹)、本件訳書のあとがきに記載されたロレンスの妻Fの言葉の部分、本件訳書の序文の各記載を参酌し、本件訳書を、前記「猥褻文書」を判定すべき基準に照らして判断すると、本件訳書には、検事指摘の十二個所に及ぶ原判決別紙(一)記載のような性的描写の記載があり、右記載は、それぞれ小説の作中の人物の性交、 件訳書を、前記「猥褻文書」を判定すべき基準に照らして判断すると、本件訳書には、検事指摘の十二個所に及ぶ原判決別紙(一)記載のような性的描写の記載があり、右記載は、それぞれ小説の作中の人物の性交、その前後に接着する性的行為、これらに関連して発せられる言語若しくは音声の表現、行為者の受ける感情若しくは感覚の表現又は性交に関連する性器の状態の露骨詳細な描写であつて、前記説明の一般社会人をして過度に性慾を刺戟興奮せしめるに足る記載に該当するものと認められ、従つて、公表すべからざる事項を公表したことによつて、一般社会人の正常な性的羞恥心を害し、性的道義観念に反するものと認定することができる。もとより、本件訳書は、その原作者ロレンスの序文や飜訳者たる被告人Bのあとがき等によつて明らかなとおり、その内容全体から見れば、ロレンスの真摯なる探究心の下に性に関する哲学又は思想を展開し、性を罪悪感から解放し、正しく現解せしめる意図をもつて書かれていることを知り得るのであり、この点に関する思惟的刺戟を与えられると共に、性的描写の部分もいわゆる春本と違つた文学的美しさがあり、その分量もいわゆる春本と異り全体の十分の程度に過ぎず、いわゆる春本程の極度の猥褻性がないことは認められるけれども、本件訳書中の性的描写は余りにも露骨詳細であるためこれによる過度の性的刺戟が解消又は昇華されるに至つておらず、その芸術的価値又は原作者の意図の如何にかかわらず、文学において許される前記説明の一定の限界をも超えているものと解することができる。 原判決引用の証人E6、同E7、同E9、同E10らの供述記載中に、右認定と反する趣旨の記載があることは、前記認定を左右するに足る程有力なものということはできない。蓋し、「猥褻文書」であるか否かを判断する基準たる一般社会人の良識又は社会通念は 0らの供述記載中に、右認定と反する趣旨の記載があることは、前記認定を左右するに足る程有力なものということはできない。蓋し、「猥褻文書」であるか否かを判断する基準たる一般社会人の良識又は社会通念は、個々人の意識とは別の集団意識であつて、個々人がそれに相反する意識を持つことは何ら妨げとならぬことは既に説明したとおりであるからである。 しかるに、原判決は、前記引用のように、「本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものである。」「本訳書は条件の如何によりその理解を異にせられるのであるから、猥褻文書に頗る類似(紙一重よいふべきもの)したものといふべきである。」「敍上の如き環境下(読者層の構成、戦後の社会情勢、本件訳書の販売方法及び広告方法の不当等)に販売せられたる本訳書は、読者の性慾を刺戟し、性的に興奮せしめ、理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめるところのものとなり、ここに刑法第百七十五条に該当する所謂猥褻文書と認められるに至るのである。」と説明しているのであるから、本件訳書を「猥褻文書」と認むるか否かの判断に誤があるものといわれなければならない。即ち、「猥褻文書」なりや否やの判断は、前記説明の基準によつてこれを為すべきであり、「猥褻文書」の代表的なものとされる春本とその描写の方法を異にする一事をもつて「猥褻文書」にあらずと断定することの許されないことはいうまでもなく、原判決の説明も決して春本と異なることから、直ちに「猥褻文書」にあらずとの結論を出している趣旨に読むべきでないが、本件訳書が、読者層の構成、戦後の社会情勢、被告人Aの本件訳書の販売方法及び広告法の不当等に関する特殊の環境下に販売されたことによつて、はじめて刑法第百七十五条に該当するに至つたとの結論は、当裁判所の本件訳書を「猥褻文書」と認める前記判断に照らして、明らかに 販売方法及び広告法の不当等に関する特殊の環境下に販売されたことによつて、はじめて刑法第百七十五条に該当するに至つたとの結論は、当裁判所の本件訳書を「猥褻文書」と認める前記判断に照らして、明らかに誤といわなければならない。もとより、読者層の構成、戦後の社会情勢等の環境は、「猥褻文書」を判定すべき基準たる一般社会人の良識又は社会通念を定めるにあたつては参酌さるべきものであるけれども、被告人Aの本件訳書の販売方法及び広告方法の不適当であつたことは、「猥褻文書」を判定するにあたつて考慮さるべき環境には該当しないものと解すべきである。そして、右の誤は、刑法第百七十五条の解釈の誤が延いて事実誤認を来した場合に該当するものというべきである。即ち、刑法第百七十五条の解釈としては、「猥褻文書」であるか否かは当該文書自体の記載を前記基準に照らして決すべきものと為すべきにかかわらず、特殊の環境下に販売されたことによつて「猥褻文書」に該当する場合もありと為した点において同条の解釈を誤り、延いて事実誤認を来したものというべきである。尤も原判決は、前記引用のように、事実摘示の項において本件訳書を販売した事実のみを掲げてこれを犯罪事実としているようにも解せられ、かく解するときは、原判決の犯罪事実の摘示には誤がないようにも考えられるが、原判決は、前記引用のように、証拠説明の項において被告人Aの主張に対する判断を併せて為す形式を採用し、本件に顕われた証拠の価値判断及び証拠によつて認められる事実を基礎として本件訳書を「猥褻文書」と認定しているのであるから、この被告人Aの主張に対する判断は、事実摘示との関係においては、証拠説明の範囲を超えて事実摘示の一部たる関係を有し、事実摘示との間に密接不可分の関係あるものと認むべく、従つて、原判決は、前記認定のとおり、本件訳書を前 対する判断は、事実摘示との関係においては、証拠説明の範囲を超えて事実摘示の一部たる関係を有し、事実摘示との間に密接不可分の関係あるものと認むべく、従つて、原判決は、前記認定のとおり、本件訳書を前記の特殊の環境下に販売した事実をもつて犯界事実の摘示と為すものと認むべきである。そして、本件訳書を「猥褻文書」と認めるか否かの問題は、本件の中心点であり、若し前記の誤認がなかつたならば、原判決の事実摘示及び証拠説明の項に包含せられている認定事実は、原判決の説示するところとは根本的に相違があつたであろうと考えられるから、前記の事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、原判決中被告人Aに関する部分を破棄する事由となり得べく、この点に関する論旨は理由があるのである。 なお、原判決が証人E1の供述を全面的に肯定し、「証人E1は、世に猥褻図書として定評のある『ガミアニ』『バルカン戦争』を取上げてその一部と本件訳書の性描写の部分とを、文章心理学的立場より検討したところ、本訳書は所謂猥褻文書の要件を具備していないとの結論(別紙(四))を得たと供述した。依つて該二図書(証六八、六九)を閲読するにその行文は所謂春本と異ならざるものであり、同証人の供述を詳細に検討したところ首肯し得べきものであるから、本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものであると認むべきである。」と説明していることは、所論のとおりであるけれども、右説明の結論は「本訳書の性描写は所謂春本と異なる」というだけのことであり、「猥褻文書」でないと認定したものでないことは、原判決の後の説明によつて、明らかである。従つて、原判決の説明に多少不明確な点はあるにしても(本件訳書が「猥褻文書」でないとの結論を肯定したものの如く誤解せられる虞ある点である。但し、右の「所謂猥褻文書」は「春本」の同意語とし かである。従つて、原判決の説明に多少不明確な点はあるにしても(本件訳書が「猥褻文書」でないとの結論を肯定したものの如く誤解せられる虞ある点である。但し、右の「所謂猥褻文書」は「春本」の同意語として用いられたもので、刑法第百七十五条にいわゆる「猥褻ノ文書」の意味でないと解せられるので、このように解する限りにおいては、所論の矛盾はない)、所論の理由のくいちがいや採証法則の違反あるものとは解し難い。即ち、いわゆる春本と「ガミアニ」「バルカン戦争」の二図書が同一類似したものであることは、原判決説明のように、これを閲読することによつて、明らかになし得るところであり、該二図書と本件訳書の性描写の方法とが文章心理学的に多少異なることについては、原判決の別紙(四)並びにこれに関する証人E1の供述記載を調査することによつて明らかになし得るところであるし、又、原判決は春本以外の「猥褻文書」の存在を肯定していることは、所論引用のとおりであり、原判決の前記判断は後の説明と相俟つて、本件訳書が春本の性描写と異なる点に関するものであり、所論のように、本件訳書が「猥褻文書」でないと認定した趣旨ではないと解すべきことは、明らかであるからである。以上説明のとおり、原判決には同証人の供述を採用して右事実認定をした点においては、何等所論の理由のくいちがいや、採証法則違反による事実誤認はないものというベきである。 第二、 被告人Bに関する部分(事実誤認、法令適用の誤)(同控訴趣意書四七頁乃至六七頁)について。 原判決が四、B被告の刑事責任の項において、「敍上の如く、本訳書は、A被告の手により、猥褻文書として販売されたものであるが、B被告はこれに共犯として加功したかどうかについて考察する。作者或は飜訳者は作品をつくることによつてそのことを終り、その作品を販売することは出版 告の手により、猥褻文書として販売されたものであるが、B被告はこれに共犯として加功したかどうかについて考察する。作者或は飜訳者は作品をつくることによつてそのことを終り、その作品を販売することは出版業者の為すところであるが、作品は読者に読まれること即ち販売されることを予定してつくられるものであるから、作者と出版者は、作品を介し、販売なることを共にするものと解し得られるのが通常の事態であり、その共にすることの態様により、これを刑法上の正犯又は幇助犯と認め得るのである。然るところ『チャタレイ夫人の恋人』は所謂春本とは異なり本質的には刑法第百七十五条の猥褻文書と認め得ないものであるが、敍上のような環境下に本訳書が販売されたことによつて、猥褻文書とせられたものと認むるを以つて、訳者たるB被告はかかる環境下のものとして本書を販売することに積極的なる加功を為したかどうかを審らかにしなければならないのである。証人E26は本訳書上巻の原稿をB被告より受取つたとき同人は、完訳したが、出すかどうかはC書店に一任すると言つた。それは性的描写のところが誤解されるのではないかとの考慮からであると思つた。上巻発売後の昭和二十五年四月末頃B被告より、本訳書の短い広告文を取上げて、長い文章だと間違はないが、性を厳粛に、知的に扱つたことを書かずに、大胆な描写であるとだけ書くと誤解され易いからと注意されたことがあつたと供述し、A被告は、B被告に『チャタレイ夫人の恋人』の飜訳を依頼したところ、同人はこの書にはこういうことが書いてある、過去に外国で問題が起つて、色々と論争され、非難もあつたから、慎重に考慮して、完訳のまゝ出版するなり、多少の手加減を加えるなり、よく考えてくれと言つた。B被告は読者がこの書の性描写のところをロレンスの考えて居るように正しく受入れるかどうかを懸念 あつたから、慎重に考慮して、完訳のまゝ出版するなり、多少の手加減を加えるなり、よく考えてくれと言つた。B被告は読者がこの書の性描写のところをロレンスの考えて居るように正しく受入れるかどうかを懸念しての申出と思つたと供述し、B被告は、A被告より『チヤタレイ夫人の恋人』の飜訳を依頼されたときに、私はロレンスの性格、この書の性格、殊に先に誤解されたことがあること、現在では、英文学では第三番目に論ぜられる位で、これをぬきにしては、現代英文学は考えられないほどの重要な作品であることを説明し、全部訳してお目にかけるから、それを読んで慎重に考えた上でC書店側の決意に於いて完訳を出版するなり、多少の手加減をするなりしてくれと話した。この手加減というのは性的描写の部分で同じ意味の日本語のどれを使ふか、原文とかラテン語とか、学術語にするか、或は削除するかという意味であつた。その後にC書店の者に『広告はカストリ雑誌のように煽情的な感じを絶体に出さないようにしてくれ。誤解されるから』と注意したが、それは、この書は性を取扱つたものであるから、そのことを書くのはよいが、下手な文章で書くと煽情的となり夫婦雑誌のような種類のものでないかとの誤解の下に読み起訴状のように春本的にとられる危険性があると思つたからである。この原著が世に出たときは世間の反抗を受けたので、現在では一流の批評家は猥褻であるとは言わないのであるが、これを飜訳するのには気をつけなければならぬと考え、思想的な固苦しさと文体とを合致するように直訳体をとつたのであると供述した。これらのことから考察すれば、B被告は本訳書を正しく読みとるものを読者と想定し、これらの人々にのみ買われることを希望し、その具体策をA被告に申出でたことが認められる。証人E21、E29、E30の供述並にC書店出版図書目録によれば、A 本訳書を正しく読みとるものを読者と想定し、これらの人々にのみ買われることを希望し、その具体策をA被告に申出でたことが認められる。証人E21、E29、E30の供述並にC書店出版図書目録によれば、A被告はH協会の有力会員であり、高級出版物を多数に出版して居るのであるから、B被告が、A被告を信じ右の申出を以て足れりとしたことは諒し得るところである。従つてB被告は本件販売行為が、前敍の如き環境を利用、醸成して為されたことについては、法律上加功しなかつたものと解すべく、刑法上共犯と目することは出来ないのである。尤も本訳書がその後爆発的売行を呈するにいたつたのであるから、さきに懸念したことの現れであることに考えを致し、その対策を講ずべきに、ことここに出でなかつたのは、文学を愛する者として怠慢であるとのそしりを免れないのであるが、これは文人としての徳義上のことに属し法律上の責任を問うべきではないのである。」とし、被告人Bに対しては、無罪の言渡を為すべきであるとの説明を為し(原判決九七頁乃至一〇一頁)、主文において、同被告人に対し、無罪の言渡をしたことは、原判決の記載によつて明らかである。 よつて案ずるに、被告人Bの飜訳にかかり、被告人Aが出版した本件「チヤクレイ夫人の恋人」上、下二巻が、その文学的価値の問題とは別に、刑法第百七十五条の「猥褻文書」に該当し、原判決認定のように、読者層の構成、戦後の社会情勢、被告人Aの販売方法及び広告方法が不適当であつたこと等に関する特殊の環境下に販売されたことによつて、はじめて同条の「猥褻文書」に該当するに至つたものとは認め得ないので、右のような原判決の認定は判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認に該当するものであることは、既に、前記第一、被告人Aに関する部分、一、について説明したとおりである。従つて、右特殊の 認め得ないので、右のような原判決の認定は判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認に該当するものであることは、既に、前記第一、被告人Aに関する部分、一、について説明したとおりである。従つて、右特殊の環境下に販売せられたことによつて、はじめて、本件訳書が「猥褻文書」となつたということを前提とする原判決の前記説明には、この点において既に、事実誤認があることが明らかである。 <要旨第二>又刑法第百七十五条の猥褻文書販売罪における犯意の成立については、当該文書の内容たる記載のあること</要旨第二>を認識し、且つこれを販売することの認識あるをもつて足り、右文書の内容たる記載の猥褻性に関する価値判断についての認識、即ち、右文書の内容たる記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当することの認識はこれを必要としないものと解すべきである。即ち、性交等性的行為に関する記載あるが故に猥褻文書販売罪が成立する場合においては、当該性的行為に関する記載のあることを認識し且つこれを販売することの認識あるをもつて足り、右性的行為に関する記載の猥褻性に関する価値判断についての認識即ち、右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当することの認識はこれを必要としないものというべきである。 尤も、客観的には、右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当するも、主観的には「猥褻文書」に該当しないものと信じて、当該文書を販売する場合もあり得べく、かような場合には、「猥褻文書」に該当することを知りながら販売した場合に比し、情状軽きものと考えられることは否定できないけれども、右の場合は、法律的評価の錯誤即ち法律の錯誤あるものとして刑法第三十八条第三項但書によつてその刑を減軽し得るに止まり、犯意を阻却しないものというべきである。又同様に、客観的には、右 きないけれども、右の場合は、法律的評価の錯誤即ち法律の錯誤あるものとして刑法第三十八条第三項但書によつてその刑を減軽し得るに止まり、犯意を阻却しないものというべきである。又同様に、客観的には、右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当するも、主観的には、「猥褻文書」に該当しないようにも考えられるが、或いは「猥褻文書」に該当するかも知れないと考えながら、当該文書を販売する場合もあり得べく、かような場合は、未必的に猥褻性の認識を有していた場合として、犯意を阻却せず、全く「猥褻文書」に該当しないものと信じて販売した場合に比し、その情状重きものありというべきであることも亦多言を要しないであろう。 更に、飜訳書の出版販売が右猥褻文書販売罪に該当する場合における飜訳者と飜訳書の出版販売者との間の刑法上の共犯関係の成立について考えてみると、飜訳者は飜訳を完成し、出版販売者は右飜訳を出版販売するのであつて、飜訳行為と出版販売行為との両者が協力してそれぞれ分担するところを完了しなければ当該飜訳書の出版販売は実現し得ないのであるし、飜訳者は特別の事情の存しない限り、自己の飜訳がそのまま出版販売されることを知悉しているものというべきである。そして、この協力の態様は種々これあるべく、飜訳者の協力の程度如何によつては、飜訳者が幇助犯の責任を負うに止る場合のあることも否定できないが、少くとも飜訳者が出版販売者の依頼にもとずいて飜訳全部を独力をもつて完成してこれを引き渡し、出版販売者がそのままこれを出版販売し、その飜訳書が「猥褻文書」と認められる場合においては、飜訳者と出版販売者との間には、猥褻文書販売罪成立についてのいわゆる共同加功の意思と行為の分担が当然存在し、刑法第六十条の同正犯の成立があるものというべきである。 これを本件について考 においては、飜訳者と出版販売者との間には、猥褻文書販売罪成立についてのいわゆる共同加功の意思と行為の分担が当然存在し、刑法第六十条の同正犯の成立があるものというべきである。 これを本件について考えてみると、本件訳書は検事指摘のような十二個所に及ぶ性的描写の記載があり、右記載のあることによつて、客観的に刑法第百七十五条の「猥褻文書」に該当することは、前記説明のとおりであるから、本件における猥褻文書販売罪の成立に必要な犯意即ち事実の認識としては、本件訳書中に右十二個所の性的描写の記載が存在すること及びこれを出版販売することの認識あるをもつて足り、右十二個所の性的描写の記載あるが故に本件訳書が「猥褻文書」に該当するとの認識はこれを必要としないものというべきである。 前記のように、原判決が被告人Bの刑事責任を説明するについて引用した被告人A、同Bその他の各供述記載その他本件記録中にある証拠によれば、被告人Bは、被告人Aの依頼によつて本件訳書の飜訳を独力をもつて完成したのであり、右性的描写のあること及び右の飜訳が被告人Aによつて出版販売されることについて認識があつたことは明らかであると認むべく、殊に、被告人Bは、本件訳書の飜訳原稿中に前記性的描写の部分があるため誤解される虞のあることを考え、C書店側の決意において完訳を出版するなり多少の手加減をするなりしてくれと話したのであつて、被告人Aが、その決意において、完訳を出版することのあり得る場合も予想していたのであるし、出版販売までの間に、被告人Aから、訂正又は削除について何等相談がなかつたのであるから(原審第十六回公判調書中被告人Aの供述記載によれば、被告人Aが、被告人Bの申出によつて、訂正又は削除するを可としたならば、飜訳者たる被告人Bにこれを伝え又はその方法を相談するのが通例であると認めら 原審第十六回公判調書中被告人Aの供述記載によれば、被告人Aが、被告人Bの申出によつて、訂正又は削除するを可としたならば、飜訳者たる被告人Bにこれを伝え又はその方法を相談するのが通例であると認められる)、被告人Bは、右飜訳が完訳のまま出版販売されることを認識していたものと認むべきである。従つて、被告人Bについて本件猥褻文書販売罪が成立するに必要な犯意には何ら欠けるところなく、又同被告人と被告人Aについて木件猥褻文書販売罪が成立するに必要な共同加功の意思及び行為の分担のあつたことも、前記原判決の説明中に引用された各証拠その他本件記録中にある証拠によつて明らかであるから、右被告人両名に共同正犯の責任を負わしむべきものと認定するに何らの妨げもないものといわなければならない。 更に進んで、被告人Bが、所論のように、本件訳書が「猥褻文書」に該当することについての認識を持つていたか否かについて案ずるに、被告人Bの供述記載によつて明らかなとおり、同被告人が各大学において英文学を講じ、ロレンスの研究に従つていたこと、昭和十一年イギリス、セツカー版を底本とする削除版「チヤタレイ夫人の恋人」全一冊をI書房から飜訳出版したこと、右I書房から出版された「チヤタレイ夫人の恋人」に同被告人が書いた序文中に『一九二五年に彼はイタリイのフロオレンスの郊外で別荘を借りて住み、そこで「チヤタレイ夫人の恋人」を書きはじめた。この作品の原稿を書き改めること三度に及んだといわれてゐる。余り直截な表現を含んでいたため、ロレンス自身もそれを発表する決意がつかずFに相談した。 Fは、この内容が世に容れられないのではないかと心配したが、あなたが芸術家として信ずる処があつて書いたのなら発表したらいいではないかと言つた。それでロレンスも発表の決心をし、フロオレンスの小さな本屋Jから最初 内容が世に容れられないのではないかと心配したが、あなたが芸術家として信ずる処があつて書いたのなら発表したらいいではないかと言つた。それでロレンスも発表の決心をし、フロオレンスの小さな本屋Jから最初の限定版を出した。英国では発売禁止になつたが、後剪除版を出した。』と書いてあり、同書末尾に訳者の言葉としてロレンスの死後その妻Fがフロオレンスにおいて「チヤタレイ夫人の恋人」を書いていた頃のことを次のように述べているとし『彼は画を描くことを楽しんでいた……どんなに彼はそれに熱中したことだつたろう……それから彼は「チヤタレイ夫人」を書いた。朝食―大抵七時かそこらにした―が済むと彼は本とペンとクツシヨンを持つて、犬のジヨンをお伴に、ミレンダ荘の背後の森へ入つて行く。そして昼食には書き上げた原稿をもつて帰つてくるのだつた。私は毎日それを読んで、どんな風に章が組み上げられて行くのか、まだどんな風にしたらそれらすべてが彼の頭に浮んでくるのか、不思議に思つた。私はまた、誰一人書いたり言つたりしようとはしないああした秘密事を直視したり書いたりする彼の勇気と大胆さに驚歎した。「チヤタレイ夫人」は二年間というもの、ロレンスが緑黄色の地に薔薇の花を描いた古い箱の中に仕舞つておかれた。私はその箱の前を通つた時、度々どう考へたものであつた。「この本がいつかここから出る時があるだろうか?」ロレンスは私に訊いた。「僕はこれを出版したものだろうか、それともこれはまた、罵詈と憎悪しか齎らさないものかしら?」私は答えた「貴方はそれをお書きになり、それを信じていらつしやる。それでいいのだわ。是非出版なさいよ。」で、ある日私達はそれについて詳しくJと話し合つた。私達は小さい古い印刷機を持つてゐる、小さな旧式の印刷屋を訪ねた。そこには本を半分印刷するだけの活字があるきりだつた、― だわ。是非出版なさいよ。」で、ある日私達はそれについて詳しくJと話し合つた。私達は小さい古い印刷機を持つてゐる、小さな旧式の印刷屋を訪ねた。そこには本を半分印刷するだけの活字があるきりだつた、―かうして「チヤタレイ夫人」は印刷された。印刷が出来上ると、「チヤタレイ夫人」―もしくは私達の言葉を使つていへば「私達の夫人」の夥しい堆積が、Jの店の床に積み上げられた。余り沢山の数に見えたので、私は恐れをなしてかう言つた位だ。「これをみんな売ることは、とても出来ないに相違ないわ」騒動が起る前に、大部分が売れて行つた。最初亜米利加へ送つたものが送り先へ届かず、その次に英国から悪罵が送られた……然しそれは、彼の最後の大努力が成し遂げられたのである。(足立重氏訳)ロレンスがこの小説を書きはじめたのは、一九二六年、彼が四十才の時である。フロオレンスのJ書店から出版されたのは一九二八年である。この小説については原稿が三つ作られた。彼は一九三〇年に死んでゐるから、死に先立つこと幾ばくでもなかつた。Fが書いてゐるやうに、彼はこの小説を初めから世に行はれる目あてがあつて書いたのではないらしい。だが彼がこれだけのことをそれにもかかはらず書かねばならぬ内的必要を感じていたといふととは特筆すべきだと思ふ。この小説は版行されるあてを作者が持てなかつたほどの神聖な露骨さで有名なものである。その原版はいまパリのKから発行されてゐる。しかし英国ではこの版はゆるされてゐない。ここに私が使用した原書は、危険な個所だけをとり去つて特に英国のLから流布されている「公認英国版」である。それだけ原著者の意志は満されてゐないものであるが、この作品の小説としての力量形態を知るには、これで足れりと言つていいであろう。とにかくロレンスがこの小説で語らんとしてゐた思想はこの「公認英国版」で尽さ だけ原著者の意志は満されてゐないものであるが、この作品の小説としての力量形態を知るには、これで足れりと言つていいであろう。とにかくロレンスがこの小説で語らんとしてゐた思想はこの「公認英国版」で尽されてゐるのである。』との記載があること、証人E31の供述記載中に、所論引用のように、ロレンスの原著書の外国における取扱例の記載があること、証人E5の供述記載中に、所論のように、被告人Bが本件訳書の完訳をしたことは大胆に過ぎるとの趣旨(「勇気に敬服」といつている)があること、その他所論引用の被告人両名の供述記載(その内容は既に、前記原判決の説明を引用した際にその内容として掲記してある)を総合すると、被告人B(被告人Aについても同様であると解せられる)において、本件訳書が「猥褻文書」に該当することについて、前記説明の未必的な認識程度の認識があつたことも充分これを認定することができるのである。 しかるに、原判決は、前記のように、その前提において事実誤認をした結果、その結論においても、被告人Bに文人としての徳義上の責任はあるにしても、法律上の責任がないものとして無罪の言渡をしたのであるから、明らかに判決に影響を及ぼすべき事実の誤認があるのである。従つて、論旨は理由がある。 被告人Aの弁護人正木・の控訴の趣意に対する判断〔32〕について。人間の羞恥心又は羞恥感と嫌悪感は人間の精神機能中感情的又は感覚的機能によつて、外界から受ける刺戟又はこれと結合した身体的変化等の誘因に対して発生するもので、社会生活上人間に自然に存するに至るものであり、性的羞恥心又は性的嫌悪感は性的な事柄に対する部面を抽出して考察したものであると解し得るのである。即ち、既に説明したように、集団的共同生活たる社会生活においては、性的な礼儀、慣習、道徳及び性的秩序が形成せられ、その秩序 悪感は性的な事柄に対する部面を抽出して考察したものであると解し得るのである。即ち、既に説明したように、集団的共同生活たる社会生活においては、性的な礼儀、慣習、道徳及び性的秩序が形成せられ、その秩序の中に生活する一般社会人の性的な羞恥嫌悪感情や性的道義観念の基礎となっている。であるのそして、人間が青春期になり、心身の発達によつて、性感覚が起ると共に、自ら、性的な羞恥嫌悪感情や性的道義観念が生ずるものと考えられるのである。 「猥褻行為」又は「猥褻文書」は、前記説明のように、露骨詳細(「猥褻行為」は露骨をもつて足ることはいうまでもない)で過度に性感覚を刺戟し、性慾を興奮させるものであり、且つ社会的慣習と衝突し、社会的制約を無視し、性的秩序及び性的道義観念に反したものであるから、一般社会人は正常な性的羞恥心を害せられ、同時にこれに嫌悪感を随伴するものと解せられるのである。換言すれば、一般社会人は過度の性的刺戟興奮から来る心身的変化に原因して、異常に恥かしさと嫌らしさの複合した感情を抱くものと認められるのであつて、この状態を前記最高裁判所の判決が「普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」と表現し、原判決が、「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し、理性にある性慾の制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く」と説明したものと解せられるのである。原判決の「吾人は嫌悪感を抱き、自らは羞恥を感ずる」、「自ら羞恥を感じ、かゝる文書に対しては嫌悪感を覚える」との説明も、以上説明したところと同一の趣旨に帰するのであつて、羞恥嫌悪の感情を抱く者は一般社会人であり、その対象は「猥褻行為」又は「猥褻文書」であることが明らかであるから、所論のように羞恥嫌悪の感情の主体 、以上説明したところと同一の趣旨に帰するのであつて、羞恥嫌悪の感情を抱く者は一般社会人であり、その対象は「猥褻行為」又は「猥褻文書」であることが明らかであるから、所論のように羞恥嫌悪の感情の主体に不分明な点や羞恥嫌悪の感情の実体に不明確な点はないものと認められる。又弁護人が、原審において、「嫌悪」とは、ヒューマニテイの自覚からこれに反する物件に対する排除を意味し、「羞恥」とはかかる物件を同胞が提供することに対する人類的自責の感以外にはあり得ないと主張したことは、本件記録によつてこれを認められるが、右の主張は、「羞恥」「嫌悪」の字義からかなり離れたものであり且つ前記説明の趣旨と反するものであるから採用し難く、前記説明の一般社会人の抱く羞恥嫌悪の感情とは既に屡々説明したとおり、個々人の感覚乃至感情に基礎をおくにしても、これを超えた集団意識を意味するものであるから、単なる個々人の感覚的な現象それ自体ではなく、一の客観的な基準であると考えられる。それ故前記説明の羞恥嫌悪の感情を単なる感覚的な現象として非難する所論は失当である。 尤も、右の羞恥嫌悪の感情は、性的好奇心とは別異のものと解し得るのであつて、人が性的好奇心を持つていることは否定できないし、それが「猥褻行為」又は「猥褻文書」に接する機縁を作ることが考えられるのであるが、性的好奇心によつて、「猥褻行為」又は「猥褻文書」に接して生ずべき一般社会人の羞恥嫌悪の感情が、すべて消失してしまうものとは到底認められないところである。 なお、「猥褻行為」又は「猥褻文書」に関する処罰規定の存在理由は、善良な風俗としての性的秩序及び性的道義観念を保護するにあるけれども、刑法第百七十四条又は第百七十五条の犯罪成立の要件としては、「猥褻行為」又は「猥褻文書」が前記説明の意味で、性的秩序及び性的道義観念に反 俗としての性的秩序及び性的道義観念を保護するにあるけれども、刑法第百七十四条又は第百七十五条の犯罪成立の要件としては、「猥褻行為」又は「猥褻文書」が前記説明の意味で、性的秩序及び性的道義観念に反するをもつて足り、その結果として発生を予想される性慾の濫用及びこれにもとずく風紀の頽廃等の具体的な弊害又はその発生の具体的危険性を必要としないものと考えられるから、弁護人主張の定義のように、「性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ」との具体的危険性乃至現実の弊害の発生を要しないものというべきである。 従つて、原判決には、理由を附せざる違法又は理由のくいちがいありとは認められない。 同四、〔33〕乃至〔45〕(理由不備、理由のくいちがい、法令適用の誤)(出版自由と刑法第百七十五条』の部に記された部分について。二〇丁乃至二九丁)について。 日本国憲法(以下憲法と略称する)第二十一条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定し、大日本帝国憲法(以下旧憲法と略称する)第二十九条が、「日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と規定していたのに比し、他の表現の自由と共に、出版の自由についても、法律の範囲内においてという制限を撤廃した。その結果として、旧憲法下の出版法、新聞紙法等、いわゆる事前検閲及び発売禁止処分に関する制度や出版物又は新聞紙等によつて、「猥褻文書」を出版又は発行する行為に関する処罰規定(出版法第二十七条、新聞紙法第四十一条)を定めていた諸法律が廃止されたのである。そして、旧憲法下においては、出版物又は新聞紙によつて、「猥褻文書」を出版又は発行した場合においては、出版法第二十七条又は新聞紙法第四十 、新聞紙法第四十一条)を定めていた諸法律が廃止されたのである。そして、旧憲法下においては、出版物又は新聞紙によつて、「猥褻文書」を出版又は発行した場合においては、出版法第二十七条又は新聞紙法第四十一条によつて処罰され、右処罰規定は、刑法第百七十五条の特別法であると解されていたので、右刑法の規定の適用がなかつたのである。右のように、憲法第二十一条が、規定上、何等の制限をつけないで、出版その他の表現の自由を保障すると共に検閲制度を禁止し、旧憲法下の出版法、新聞紙法等め諸法律が廃止されたので、出版物又は新聞紙の内容に猥褻に該当する部分が存在する場合に、当該出版物又は新聞紙の出版又は発行を刑法第百七十五条をもつて処罰し得るかとの問題を生ずる余地があるに至つたのである。 出版その他の表現の自由は、他の基本的人権と共に憲法が強力に保障するものであり、本質的には、天賦の自然的人権であると考えられて来たのであるが、憲法の保障する基本的人権は、憲法が日本国民に保障したことにその存立の基礎があるものを考えなければならない。即ち、本質的には人類普遍のものであると考えられるにしても、現実的には、憲法の各条章の範囲内においてのみ保障されるものである。憲法第十一条には、『この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とあり、又同法第九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と規定していることからもその趣旨を窺うことができる(旧憲法が多数の規定において法律の範囲内においてという制限を附していたことと対比すれば、この「与え きない永久の権利として信託されたものである。」と規定していることからもその趣旨を窺うことができる(旧憲法が多数の規定において法律の範囲内においてという制限を附していたことと対比すれば、この「与えられる」という意味を一層明らかにすることができる)。そして、国民各自が享有する基本的人権も絶対無制限であり得ないことは、一人の基本的人権の絶対無制限の行使が、他人の基本的人権を侵害することのあり得ることによつて明らかである。従つて、国民相互の基本的人権行使の調節の問題を生ずることは看易き道理である。それ故、憲法は個別的な規定例えば、第二十二条、第二十九条等において、公共の福祉の範囲内においてのみ、その行使を保障し、或いは、第二十六条第一項において、法律の定めるところにより教育を受ける権利を保障しているのであるが、「公共の福祉の範囲内」又は「法律の定めるところにより」との制限がない憲法の各規定といえども、絶対無制限の行使を保障しているものとは解し得られないのであつて、このことは憲法が一般的にその第十二条において、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」、その第十三条において、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の<要旨第三>尊重を必要とする。」と規定していることによつてこれを知り得るのである。即ち、憲法第二十一条の表現の</要旨第三>自由も、右第十二条及び第十三条による制限に服するものと解すべく、従つて、国民個人の基本的人権の行使が、公共の福祉のために利用すべき責任に違反し、権利の濫用と 、憲法第二十一条の表現の</要旨第三>自由も、右第十二条及び第十三条による制限に服するものと解すべく、従つて、国民個人の基本的人権の行使が、公共の福祉のために利用すべき責任に違反し、権利の濫用となる場合においては、権利の行使たることが否定され、憲法の保障を受けないものといわなければならない。そして、権利濫用に該当する行為が、憲法の条章に照らし、有効と認められる刑罰規定に触れる場合は、その規定によつて処罰を受けるものと解すべきである。この意味において、出版その他表現の自由も絶対無制限ではなく、公共の福祉の範囲内においてのみ、その行使を許さるべきものと解すべきであるから、公共の福祉のために利用すべき責任に違反し、権利濫用となる場合においては、憲法の保障を受けず、犯罪行為として処罰されることもあり得るのである。 そして、ここに公共の福祉とは、日本国民全体の幸福を指すが、本質的には同時に人類全体が理想として有する永遠の幸福にも関連あり、これに寄与する概念であり、その構成員たる個々人の基本的人権を最大限度に尊重することも同時に包含するのである。しかしながら、時と処を超え、人類全体に共通した公共の福祉は、理想としては考えられるにしても、現実的にはあり得ないのであつて、時代を異にし、国を異にするに従い、その間に共通性と類似性とはあるにもせよ、公共の福祉の内容は異なるのであり、憲法の規定する公共の福祉は、わが国の現在(過去を承継し、未来に向上発展を目指すものであることは勿論である)のそれであるといわねばならない。その内容は、日本国民各個の基本的人権を最大限に尊重することを基礎としつつも、それを超越した日本国民全体の幸福の維持発展に必要な各種の要素によつて構成されているのである。これを例示すれば、個人の生命、身体、自由、財産、名誉等の保護のほか、憲 に尊重することを基礎としつつも、それを超越した日本国民全体の幸福の維持発展に必要な各種の要素によつて構成されているのである。これを例示すれば、個人の生命、身体、自由、財産、名誉等の保護のほか、憲法を根拠とする国家の基本的組織の保持、国家作用の保護、社会生活の平穏の維持、文化の保持発展、善良な風俗の維持等があり、わが国現代における政治的、経済的、文化的、社会的諸利益を包括するのである。これらの諸利益を侵害する行為は、憲法の公共の福祉に違反するものとして、刑法その他の刑罰法規によつて処罰される場合があり、国家の刑罰法規は、公共の福祉の維持に奉仕するものと解し得るのである。従つて、国民各自の政治的、経済的、文化的、社会的な各般の活動が、公共の福祉に遵つて行われることが要請されているものということができるのである。「猥褻文書」はたとえ出版物として販売、頒布される場合であつても、前記説明の理由によつて、善良の風俗の一部である性的秩序に悪影響を及ぼす危険性があり、公共の福祉に違反するものというべきである。そして、刑法第百七十五条は右性的秩序維持に向けられた公共の福祉維持を目的とする刑罰法規てあつて、憲法に違反する点のないことが明らかであるから、前記出版法、新聞紙法等特別法の廃止後においては、一般法として、出版物による「猥褻文書」の販売、頒布の場合にも亦適用されるものと解し得るのである。 原判決の説明は、多少その表現を異にし又「猥褻文書」の危険性を、「人類の滅亡を招来するに至る危険」としている点に行き過ぎもあるのであるけれども、その趣旨は右と同一に帰着するのであつて、原判決には所論の理由を附せざる違法若しくは理由のくいちがいがあり又は法令適用の誤ありとは認められない。従つて論旨は理由がない。 以下順次項目毎に説明することとする。 〔33〕 に るのであつて、原判決には所論の理由を附せざる違法若しくは理由のくいちがいがあり又は法令適用の誤ありとは認められない。従つて論旨は理由がない。 以下順次項目毎に説明することとする。 〔33〕 について。 この点は前記説明及び以下説明のとおりであつて所論の誤はない。 〔34〕 について。原判決が「憲法がかゝる自然権を法上の権利として確認するに至つたのは、この基本的人権を認めることが、人の社会生活をして価値あらしめるからである。」と説明していることは所論のとおりである。「社会生活をして価値あらしめる」とは、前記説明のとおり、個人の基本的人権を保障することが、その個人の幸福を増進すると共に、公共の福祉にも適合するとの趣旨であると解せられるから、所論のように不当の点は認められない。 〔35〕 について。原審において、主任弁護人正木・が「公共の福祉」の意味を「ヒューマニテイ」との関係にておいて詳細に論じていること(最終弁論「その二」)は所論のとおりであり、その要旨は、「知性と文化の向上、進歩、『増大しつつある世界の過去、現在、未来に亘るあらゆる可能性』を我が身の中に感じ、また我が身もその中に厳存していることを感じつつ進んで行く当体が『ヒューマニテイ』であつて、これは各自が、自分達の『自我』が存在していると思つているのと同様なる直観的事項と信じます。……凡て、人類の、この向上進歩、頭脳活動の無限の可能性を否定するものは悪であります。……凡て、部分だけをみて、全体との関係を、一元的に認識しないことは理性を否定することであつて、論理的には誤謬であり、実行的には不正であります。 論理の統一、法律の統一、人類の統一、科学原則の統一等、人類文化は、統一、無矛盾に対する一元化への強烈な要請を持つて居り、これを否定する時には、今日までの人類文化は崩壊する 的には不正であります。 論理の統一、法律の統一、人類の統一、科学原則の統一等、人類文化は、統一、無矛盾に対する一元化への強烈な要請を持つて居り、これを否定する時には、今日までの人類文化は崩壊する運命をもつています。これは現代人類文化成立上の仮定であると共に信仰であります。凡て、真実を尊び、虚偽を憎み、実行を愛し、観念の遊戯を排斥するのは、人類社会の健全なる新らしい風紀又は教育上の方向であり、これに反するものは、人類社会を停頓、混乱、不和、暴力使用等の未開時代に逆行させる悪であり、公共機関に関して行えば許し難き不正であると信じます。何故なら、地上の生命は幻でなく、永遠の現実だからであります。右の如く『ヒューマニテイ』を解する時は、日本国憲法の規定する公共の福祉は『ヒューマニテイ』に関するあらゆる条件を充たし、且つ不足するものがない故に、この五つの文字『公共の福祉』は生々とした新日本の指導原理となつて、憲法全体、法律全体を活かすことになります。……」というに帰すると考えられるのである。従つて、原判決の「『公共の福祉』の本来の意味は人間の共同生活に於ける幸福をいうのである。」という説明と比較して、より詳細であり、含蓄あるやに認められる。しかしながら、「公共の福祉」は前記説朝のとおり、日本国民全体の幸福を意味するのであり、たとえ抽象的な嫌いはあるにしても、原判決の言わんとするところは、理解できるのであるし、弁護人の主張は「公共の福祉」が、「ヒューマニテイ」に由来し、且つ、日本国憲法の指導原理であるというのであるが、右主張といえども原理、原則の解明に当然伴う抽象性を免かれているものとは認めることができないのである。されば、原判決の説明と、右弁護人の主張とは、抽象的に公共の福祉を「人間の共同生活の幸福」と解する点においては、相矛盾するものとは解 当然伴う抽象性を免かれているものとは認めることができないのである。されば、原判決の説明と、右弁護人の主張とは、抽象的に公共の福祉を「人間の共同生活の幸福」と解する点においては、相矛盾するものとは解し得られない。従つて、原判決に前記抽象性を免れない点があるにもせよ、所論指摘の欠点があるものとはいえない。 〔36〕 について。原判決が「人間は、自然的には心身の慾望を満足し、理性的には人格を向上せしめることによつて幸福を感ずるのであるが……」と説明していて、「自然的」と「理性的」との用語において、所論指摘のように、不正確な憾があるのであるが、右は人間に精神的及び肉体的方面における幸福追求の努力が存在することを説明した趣旨と解し得ない訳ではないから、原判決には、所論の違法はない。 〔37〕 について。原判決が「人間の人間たる所以を自覚すれば、自他共に平和と幸福をもたらす如く、行動すべきであり、かくてこそ、社会的共同生活の幸福が保たれるのである。」と説明していることは所論のとおりであるが、右は、当然のこととはいえ、正当なことを言つているのであるから、所論の非難は当らない。 〔38〕乃至〔41〕について。原判決が、「ここにいふ『公共の福祉』は我が憲法上の概念であるから、その『公共の福祉』は、日本国における国民の共同生活に於ける幸福と解すべく、何が公共の福祉であるかは、我が国の現在と近き将来を基準とし、一般社会通念に従つて決すべきものである。」と説明していることは所論のとおりである。そして、原判決の説明の趣旨は、既に説明したように、公共の福祉は本質的には人類全体に通ずる概念であるが、日本国憲法の規定する公共の福祉は、世界人類の進歩発展に寄与することを目指すにしても、日本の現代という時と処によつて制約されたものであり、従つてその時と処に適合する具 は人類全体に通ずる概念であるが、日本国憲法の規定する公共の福祉は、世界人類の進歩発展に寄与することを目指すにしても、日本の現代という時と処によつて制約されたものであり、従つてその時と処に適合する具体的内容を持つものと考えられることをいおうとするものと解すべきである。又、既に説明したように基本的人権は、これを享有する個人の立場から見たものであるに反して、公共の福祉は、個人の基本的人権を包摂しつつも、これを超えた集団的共同生活に関するものであるから、公共の福祉の解釈については、個人的立場を離れた国民全体の集団意識の立場において判断されなければならない。このような集団意識は、国家意識又は社会意識と観念し得るのであつて、これを合して、国民意識としての「一般社会通念」と称することもできるのである。従つて、前段の説明中「人類が天賦の権利として有したもの」、「自然権」、「永久の権利」、「侵すことができない」との用語を用い、後段に「日本国に於ける国民の共同生活の幸福」、「わが国の現在と近い将来」、「一般社会通念に徒つて定む」との用語を用いて説明したことは明らかであるが、かように説明したことについては何等所論の誤は認められない。 次に、原判決が、弁護人の主張の要旨を挙げ、「弁護人の主張は人類の現想そのものを我が憲誌上の公共の福祉となすもので、現実の国家社会を直視しないうらみがある」としていることは所論のとおりであるが、その趣旨は、前記〔35〕に対する説明のように、弁護人は、わが憲決の公共の福祉は、ヒユーマニテイのあらゆる条件を充たすものとして、その指導原理であると主張するものであり、わが国の現在という時と処に対応したより具体的な内容を持つた公共の福祉を超えて人類全体に通ずるものとして、公共の福祉の意味を定めようとする点を指したものであると解し得るの あると主張するものであり、わが国の現在という時と処に対応したより具体的な内容を持つた公共の福祉を超えて人類全体に通ずるものとして、公共の福祉の意味を定めようとする点を指したものであると解し得るのである。既に説明したように、わが憲法の公共の福祉は、人類全体に通ずることを目指すとしても、わが国の現在という時と処を超えることができないものと解せられること、既に説朗したとおりであるし、わが国現在における公共の福祉を考えるに際しても、この立場から、人類全体に目を向け、国家百年の計を樹て、現代社会の風習や制度を批判し、これを改革することのできることはいうまでもないところであつて、ただ現在の状態を超越して、数百年後或いは数千年後にあるべき人類の理想状態を尺度として、現在の状態の可否を批判することの誤であることはいうまでもないところであるから、原判決の右説明には不当の点はないというべきである。(以上〔38〕、〔41〕)なお、弁護人は、その主張する公共の福祉の意味を、憲法前文及び各条並びに「ヒューマニテイ」の立場から主張し、最終弁論その一末尾添附のグラフ五枚をもつて説明しているが、その要旨は、前記〔35〕に対する説明に引用したとおりであり、第十八回公判期日に、証人E2が思想の自由、出版の自由に関連する公共の福祉の解釈についての見解を示していること等所論引用のように公共の福祉の概念の主張立証に努力し、原理的な説明としては、理解できるけれども、その具体的適用に関する点については、後記説明のように、弁護人主張の結論は、わが国現在の公共の福祉に照らし、到底採用し難いところである。従つて、原判決に所論の理由を附せざる違法はない。(以上〔39〕、〔40〕)〔42〕及び〔43〕について。弁護人が、最終弁論その一末尾添附のグラフをもつて、公共の福祉及び「ヒュー いところである。従つて、原判決に所論の理由を附せざる違法はない。(以上〔39〕、〔40〕)〔42〕及び〔43〕について。弁護人が、最終弁論その一末尾添附のグラフをもつて、公共の福祉及び「ヒューマニテイ」の概念を説明しているのに対し、原判決が、その添附の別紙(三)の図をもつて、公共の福祉の概念を説明しており、原判決が、弁護人のグラフについては特別に説明を加えていないことは所論のとおりである。右グラフ及び図はいずれも、その説明によつて、その趣旨を理解することはできるけれども、あくまで一応理解し得るというに止まり、社会的共同生活から発生するすべての社会現象を数学的正確性をもつて割り切ることは不可能であるし、又図をもつて説明し尽すこともできないと考えられるから、弁護人のグラフも原判決の別紙(三)の図も、公共の福祉の概念を理解する手段としての有用性を認め得るに過ぎないものというべきである。従つて、原判決が、弁護人のグラフに説明を加えず、原判決の別紙(三)の図に所論指摘のような不正確な点があつたとしても、原判決が右の図を援用して説明している公共の福祉の意味は理解することができ、且つ正当であると考えられるし、弁護人のグラフについては、原判決は間接にはその採り得ないことを文章をもつて前記〔38〕乃至〔41〕に引用したとおり判断しているのであるから、原判決には理由を附せざる違法又は理由にくいちがいあるものということもできない。 〔44〕及び〔45〕につて。原判決が、「人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険」ありと説明して、「猥褻文書」排除の理由としていること、いかに春本が悪影響を及ぼす文書であるにしても、それだけによつて、人類の滅亡が生じないで を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険」ありと説明して、「猥褻文書」排除の理由としていること、いかに春本が悪影響を及ぼす文書であるにしても、それだけによつて、人類の滅亡が生じないであろうことはいずれも所論のとおりである。従つて、原判決の説明中「延いては人類の滅亡を招来する危険」との部分は行き過ぎであり、他の政治的、経済的、文化的諸原因が結合してかかる危険を生ずると説明すべきであるといわなければならない。しかし、原判決は、一、猥褻文書の意義の項で「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより、人が性的興奮を惹起し、理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義すべきものとし、右の危険性を法律上の「猥褻文書」の成立要件とはしてはいない趣旨が窺われ、その限度において、右危険性を要せずして、既に「猥褻文書」となるものと解しておるのである。他方、弁護人の「猥褻文書」の定義も亦狭きに失すること既に説明したとおりである。従つて、原判決の右の部分には所論の違法はないものというべきである。 (その他の判決理由は省略する。)(裁判長判事下村三郎判事高野重秋判事真野英一)
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