平成23年(わ)第1722号自動車運転過失傷害被告事件平成25年10月8日千葉地方裁判所刑事第3部判決 主文 被告人は無罪。 理由 1 公訴事実 主位的公訴事実被告人は,平成22年4月29日午後5時35分頃,普通乗用自動車を運転し,千葉県長生郡A町BC番地D先の信号機により交通整理の行われている交差点を,同町E方面から同町F方面に向かい直進するに当たり,同交差点の対面信号機の信号表示に留意し,これに従って進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,同信号機の信号表示に留意せず,同信号機が赤色の灯火信号を表示していたのを看過したまま漫然時速約40キロメートルで同交差点に進入した過失により,折から右方道路から青色信号表示に従って進行してきたG運転の普通乗用自動車前部に自車右側面部を衝突させて,その衝撃により,同人運転車両を横転させ,よって,別紙被害者受傷状況一覧表(省略)記載のとおり,前記Gほか5名に対し,同表記載の各傷害をそれぞれ負わせた。 予備的公訴事実被告人は,平成22年4月29日午後5時35分頃,普通乗用自動車を運転し,千葉県長生郡A町BC番地D先の信号機により交通整理の行われている交差点を,同町E方面から進行してきて対面信号機の赤色の灯火信号表示に従い同交差点入口に設けられていた横断歩道上で停止後,発進して同町F方面に向かい直進するに当たり,同信号表示に留意し,これに従って発進進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,同信号表示に留意せず,同信号 機がいまだ赤色の灯火信号を表示している 町F方面に向かい直進するに当たり,同信号表示に留意し,これに従って発進進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,同信号表示に留意せず,同信号 機がいまだ赤色の灯火信号を表示しているのを看過したまま漫然発進して時速約15ないし20キロメートルで同交差点内に進入した過失により,折から右方道路から青色信号表示に従って進行してきたG運転の普通乗用自動車前部に自車右側面部を衝突させて,その衝撃により,同人運転車両を横転させ,よって,別紙被害者受傷状況一覧表(省略)記載のとおり,前記Gほか5名に対し,同表記載の各傷害をそれぞれ負わせた。 2 当事者の主張と本件の争点 被告人は,平成22年4月29日午後5時35分頃,普通乗用自動車を運転し,千葉県長生郡A町BC番地D先の信号機により交通整理の行われている交差点を,同町E方面から同町F方面に向かい直進して進行しようとしていたこと,被告人の車は,対面信号機が赤色信号表示であったのに,事故現場の交差点に進入し,折から右方道路から青色信号表示に従って進行してきたG運転の普通乗用自動車前部に自車右側面部を衝突させて,その衝撃により,同人運転車両を横転させ,よって,別紙被害者受傷状況一覧表(省略)記載のとおり,Gほか5名に対し,同表記載の各傷害をそれぞれ負わせたことは,証拠上明らかに認められ,当事者も争わない。 弁護人は,本件事故状況は概ね前記1の予備的公訴事実のとおりであり,被告人の車が,対面信号機の赤色信号表示に従い,交差点入口に設けられた横断歩道上でいったん停止した後,対面信号機がまだ赤色信号表示をしている間に発進して交差点に進入したというものであったとした上,「被告人は,本件事故当時,睡眠時無呼吸症候群に罹患していたところ,本件事故直前,上記疾患により予兆なく急激に睡 がまだ赤色信号表示をしている間に発進して交差点に進入したというものであったとした上,「被告人は,本件事故当時,睡眠時無呼吸症候群に罹患していたところ,本件事故直前,上記疾患により予兆なく急激に睡眠状態に陥った。その結果,前方注視ができないまま,車を発進させて交差点内に進入させ,本件事故を起こした。被告人には本件事故当時,予備的公訴事実の注意義務の現実的な履行可能性がなかったから,過失はなく,被告人は無罪である。」と主張する。 なお,被告人は,本件事故直前からの記憶がないとし,「事故現場の交差点 の一つ手前の交差点で,赤色信号表示に従い先頭車として停止し,そこから事故現場までの途中にあるA町役場入口付近(A町役場の看板の設置地点付近)まで時速約45キロメートルから50キロメートルで走行した記憶はあるが,そこからの記憶がなく(なお,A町役場入口付近から事故現場の交差点までは約185メートルである。),事故現場の交差点に進入した記憶はない。」旨供述している。 そこで,まず,本件事故状況,とりわけ本件事故直前の被告人の車の挙動がどのようなものであったかを明らかにした上,それを前提として被告人に過失があったといえるか否かについて検討する。 3 本件事故直前の被告人の車の挙動について 検察官は,主位的には,前記1のとおり,被告人が事故現場の交差点(以下,特に断らない限り,「交差点」というときは事故現場の交差点をいう。)を直進するに当たり,対面信号機の赤色信号表示を看過し,漫然と時速約40キロメートルで交差点に進入したと主張する。その根拠とするのは,第5回公判調書中の証人Hの供述部分及び同人の鑑定書(以下,これらを併せて「H鑑定」という。)である。そこで,まずH鑑定の内容及び信用性について検討する。 H鑑定の内容 その根拠とするのは,第5回公判調書中の証人Hの供述部分及び同人の鑑定書(以下,これらを併せて「H鑑定」という。)である。そこで,まずH鑑定の内容及び信用性について検討する。 H鑑定の内容交差点の路面に印象されたタイヤ痕(タイヤが路面と擦過し,こすられて印象された痕跡)及び被告人とGの運転する車(以下「Gの車」という。)の損傷状況(車体の変形,凹損状態等)等によると,被告人の車とGの車の衝突角度,衝突前後の挙動及び重心移動距離は,次のとおり推測される。 Gの車は,道路中央をほぼ直進し,被告人の車は交差点に進入して若干左転把した状態で衝突した。なお,被告人の車が衝突直前に若干左転把した状態であったことは,被告人の車の右前輪のガウジ痕(金属部分が路面と擦過し路面をえぐって印象された痕跡をいう。事故現場のガウジ痕は,右前輪のタイヤ痕 と一緒に印象されていること,被告人の車の右前輪上部が内側に倒れ込み大きく変形していることから,衝突によって右前輪内側の車軸が曲がり,ホイールの金属部分が直に路面に接触し擦過して印象されたと考えられる。)の開始地点を衝突時の右前輪の位置として,被告人の車を直進状態にしてみると,被告人の車が道路外を走行していたことになるからである。衝突角度は,Gの車の進行方向の角度を0度とすると70度から80度であった。衝突後,被告人の車はGの車に押し出されて10.78メートル左方に移動して停止し,Gの車は被告人の車に前面を強く押されたため,右方向に進路を変更され,左前輪を3.8メートル,左後輪を5.3メートル横滑りさせて横転し,6.81メートル移動して停止したと考えられる。 上記のとおりの被告人の車とGの車の衝突角度,衝突前後の挙動及び重心移動距離に加え,飛び出し角度,車の質量を前提とし,推測した数値を運動量保存 し,6.81メートル移動して停止したと考えられる。 上記のとおりの被告人の車とGの車の衝突角度,衝突前後の挙動及び重心移動距離に加え,飛び出し角度,車の質量を前提とし,推測した数値を運動量保存則(運動する2つの物体が衝突し移動する場合,衝突前後において運動量《物体の質量と速度の積》の総和は変化せず一定であるという物理法則)の式に代入して,衝突直後の速度(「飛び出し速度」)を算出し,さらにそれを前提として衝突直前の速度(「衝突速度」)を算出すると,衝突直前の速度は,被告人の車が時速38.2キロメートルから40.0キロメートル,Gの車が時速33.1キロメートルから36.0キロメートルであったと考えられる。 H鑑定の信用性ア H鑑定の手法は,車を質点,すなわち,大きさ等の他の属性を度外視して単に質量をもった点と見立て,衝突事故における車の運動を平面的な重心移動として単純化し,不明な点は推測又は仮定して,車の速度を解析するものといえる。しかし,実際の車は,長さ,幅,高さといった大きさ,固有の形状,固さ,均質でない実質を有し,回転する4輪で地面に接する物体である。 また,衝突地点から停止地点までの運動は単純でなく,移動の軌跡は曲線で,1個ないし4個の回転するタイヤによる移動のほか,横滑り,横転擦過によ る移動も含まれる上,回転運動,上下・左右・前後の複雑な重心移動も加わる。H鑑定の手法においては,衝突後の車の運動に作用したと考えられるこのような諸要素が,全て正確に反映されるわけではなく,かなりの要素が単純化,仮定又は捨象されざるを得ず,そのためにかなりの誤差が生じる可能性があると考えられる。したがって,H鑑定の精度には自ずから限度がある。 しかも,被告人の車の衝突直前の速度の算出過程において,どの程度の誤差が生じるのかも具体的に そのためにかなりの誤差が生じる可能性があると考えられる。したがって,H鑑定の精度には自ずから限度がある。 しかも,被告人の車の衝突直前の速度の算出過程において,どの程度の誤差が生じるのかも具体的に明らかでない。 イ また,H鑑定の結果は,次のとおり,Gの供述及び同人立会の実況見分の結果を前提として計算される被告人の車の衝突直前の速度とも大きく食い違う。 Gの指示説明によると,同人が被告人の車を発見した地点から衝突地点までの距離は約6メートルであり,Gは被告人の車を発見した地点まで時速約40キロメートルで走行していたという。 ところで,Gは被告人の車を発見して直ちに急ブレーキをかけ,右転把したと供述するが,衝突地点に至るまでに上記ブレーキ及び右転把の効果が現れた形跡は認められない。このことは,Gが指示説明するとおりGの車の速度が時速約40キロメートルであったとすると,被告人の車の発見地点から衝突地点までの距離が,概ね空走距離(ブレーキ操作の空走時間は約0.75秒,ハンドル操作の空走時間は約0.5秒とされるから,速度が時速40キロメートル《秒速11.11メートル》であったとすると,空走距離はブレーキ操作につき約8.33メートル,ハンドル操作につき約5.55メートルとなる。)の範囲内にあるため,Gは被告人の車を発見して直ちに急制動及び右転把をしたが,いずれの効果も現れないうちに衝突地点に至ったとの合理的説明が可能である(なお,例えば,Gの車の速度が時速30キロメートル《秒速8.33メートル》であったとすると,ブレーキ操作の空走距離は約6.24メートル,ハンドル操作の空走距離 は約4.16メートルとなり,衝突地点に至るまでに,少なくとも右転把の効果は現れるはずである。)。したがって,Gの指示説明のとおり,同人が被告 走距離は約6.24メートル,ハンドル操作の空走距離 は約4.16メートルとなり,衝突地点に至るまでに,少なくとも右転把の効果は現れるはずである。)。したがって,Gの指示説明のとおり,同人が被告人の車を発見した地点から衝突地点までの距離は約6メートルであり,発見地点までは時速約40キロメートルで走行していたことはほぼ正確であると考えられる。 これを前提とすると,Gが被告人の車を発見した地点から衝突地点までの移動時間は約0.54秒と計算できる。そして,Gが発見した時点での被告人の車の位置から衝突時の被告人の車の位置までの距離は約2.4メートルから3.6メートルであり,その間の移動速度は時速約15.99キロメートルから23.99キロメートルであると計算される。 この速度は,H鑑定による被告人の車の衝突直前の速度とはかなり食い違う。もっとも,前記の計算の前提とした,Gが発見した時点での被告人の車の位置から衝突時の被告人の車の位置までの距離は,厳密な記憶に基づくものとはいえず,かなりの誤差を含む可能性があると考えられる。 この点,例えば,Gが発見した時点での被告人の車の位置から衝突時の被告人の車の位置までの距離につき,正負1.5メートル程度の誤差があるとすると,その距離は約0.9メートルから5.1メートルとなり,これを前提として被告人の車の速度を計算すると,時速約5.99キロメートルから33.99キロメートルとなる。しかし,このような誤差が含まれることを考慮しても,Gの供述及び同人立会による実況見分の結果は,H鑑定による衝突直前の被告人の車の速度を積極的に裏付けるものとはなり得ない。 ウさらに,H鑑定の結果は,J及びKの供述する被告人の車の挙動とも明らかに反しているが,次に述べるとおり,J及びKの供述は,そ 直前の被告人の車の速度を積極的に裏付けるものとはなり得ない。 ウさらに,H鑑定の結果は,J及びKの供述する被告人の車の挙動とも明らかに反しているが,次に述べるとおり,J及びKの供述は,その信用性を容易に否定することができない。 J及びKの供述内容 Jは,本件事故直前,被告人の車のすぐ後方を走行していた車を運転していた者,Kは同車の助手席に乗っていた者で,いずれも本件事故の目撃者である。J及びKは,本件事故直前の被告人の車の挙動につき,いずれも,「被告人の車は,交差点手前で,対面信号機の赤色信号表示に従って交差点入口の横断歩道付近(被告人の車が交差点に進入していたとしても,車の前部が交差点入口の横断歩道の交差点内側の端に位置する地点まで)で停止したが,間もなくして対面信号機がまだ赤色信号表示であったのに,ゆっくりとした速度で発進して交差点に進入し,右方道路から直進して交差点に進入したGの車と衝突した。」旨供述している。 上記供述の信用性aJ及びKは,被告人の車の挙動について,上記のとおり明確に供述している。J及びKは,いずれも本件事故当時,偶然現場付近を通りかかり,本件事故を間近で目撃した者で,被告人及びGら被害者らと面識はなく,殊更に虚偽の供述をする理由はない。また,J及びKの供述する本件事故直前の被告人の車の挙動がかなり特異で印象的なものであることや,目撃状況,供述経過に照らしても,少なくとも,前記の限度での,①本件事故直前の被告人の車の挙動(交差点進入前にいったん停止したこと),②停止位置,③交差点への進入速度については,認識違い,記憶違いをしたとは考え難い。 なお,検察官は,「Jの供述は,①被告人の車の挙動,②停止位置,③交差点への進入速度について,供述内容が変遷し ,③交差点への進入速度については,認識違い,記憶違いをしたとは考え難い。 なお,検察官は,「Jの供述は,①被告人の車の挙動,②停止位置,③交差点への進入速度について,供述内容が変遷しているから,信用性は低い。」と主張する。しかし,①については,変遷後の供述は,これと合致するKの供述によっても強く裏付けられているといえる。②については,厳密な停止位置の記憶が保たれていないとしても不自然とはいえない。③については,検察官が問題視する部分は,「ゆっくりとした速度」を,後になって具体的に述べたものにすぎず,不自然な変遷とは いえない。したがって,検察官の問題視する諸点を踏まえても,前記のようなJ及びKの供述の信用性は揺るがない。 b 前記イのとおり,Gの供述及び同人立会による実況見分の結果を前提とすると,交差点進入時の被告人の車の速度は,時速約15.99キロメートルから23.99キロメートルと計算されるが,前記イのとおり,これにはかなりの誤差が含まれる可能性があることを踏まえると,J及びKの供述する被告人の車の挙動は,Gの供述及び同人立会による実況見分の結果と矛盾するとはいえない。 c 被告人車両の発進加速性能等実験報告書によると,被告人の車が,その前部が交差点入口の横断歩道の交差点内側の端に位置する地点からクリープ発進すると,エアコンを入れた場合,衝突地点までの所要時間は約9秒で,同地点での速度は時速7.0キロメートルである。 また,被告人の車が交差点入口の停止線の手前からクリープ発進すると,エアコンを入れた場合,衝突地点までの所要時間は約10秒で,同地点での速度は時速7.5キロメートルである。エアコンを切った場合,衝突地点までの所要時間は約13秒で,同地点での速度は時速5.5キロメートルであ 入れた場合,衝突地点までの所要時間は約10秒で,同地点での速度は時速7.5キロメートルである。エアコンを切った場合,衝突地点までの所要時間は約13秒で,同地点での速度は時速5.5キロメートルである。 ⒝ J及びKの供述によると,前記ウのとおり,被告人の車の停止位置は,交差点入口の横断歩道付近であり,被告人の車が交差点に進入していたとしても,車の前部が交差点入口の横断歩道の交差点内側の端に位置する辺りまでであったとされる。そして,被告人は本件事故当時,エアコンを入れていなかったというのであり,その場合,エアコンを入れた場合に比べると,速度は若干遅くなると考えられる。したがって,被告人の車が,停止位置からクリープ発進して衝突地点に至った場合,衝突地点での速度はせいぜい時速5.5キロメートル程度であったと考えられる。 ⒞ 他方,被告人の車が,その前部が交差点入口の停止線に位置する地点から通常の加速(エアコン入り)で発進すると,衝突地点までの所要時間は約5秒,衝突地点での速度は時速20.7キロメートルとなる。 ⒟ J及びKの供述する被告人の車の挙動は,前記ないし⒞の事実(特に,被告人の車の衝突地点での速度が時速5.5キロメートルから20.7キロメートルであったと考えられること)とは矛盾しない。 エ以上のとおり,H鑑定の信用性には限度があると考えられる上,J及びKの供述には,その信用性を支える積極的事情があり,かつ,これを低下させる有力な証拠が存在しないことに照らせば,H鑑定と食い違うことの一事をもって,J及びKの供述の信用性を否定することはできない。 したがって,本件事故直前の被告人の車の挙動については,J及びKの供述するとおり,事故現場の交差点に進入する前,対面信号機の赤色信号表示に従い,交差 の供述の信用性を否定することはできない。 したがって,本件事故直前の被告人の車の挙動については,J及びKの供述するとおり,事故現場の交差点に進入する前,対面信号機の赤色信号表示に従い,交差点入口の横断歩道付近(被告人の車が交差点に進入していたとしても,車の前部が交差点入口の横断歩道の交差点内側の端に位置する辺りまで)においていったん停止したが,間もなくして,対面信号機がまだ赤色信号表示をしている間に,ゆっくりとした速度で発進して交差点に進入し,右方道路から直進して交差点に進入したGの車と衝突した可能性を否定し切れない。すなわち,本件事故直前の被告人の車の挙動が主位的公訴事実のとおりであったとは認められない。 4 被告人の車の交差点進入時,被告人が意識障害に陥っていなかったことを明らかに示す被告人の車の挙動があったか否かについて 被告人が交差点に進入する前,対面信号機の赤色信号表示に従い,交差点入口の横断歩道付近で車をいったん停止させたとすれば,被告人は少なくともその時点では意識障害に陥っていなかったといえる。 そうすると,被告人が車をいったん停止させた後,車を発進させて交差点に 進入させた時に意識障害に陥った可能性があるといえるかが,次に問題となる。 そこで,被告人が交差点進入時,意識障害に陥っていなかったことを明らかに示す,意図的な操作に基づくと考えられる車の挙動があったか否かについて検討する。具体的には,被告人が,交差点進入時,①意図的に左転把をしたと認められるかどうか,②アクセルを踏み込んで加速したと認められるかどうかが問題となる。なお,被告人が衝突前に制動措置をとった形跡は認められない。 被告人が意図的に左転把したと認められるか否かについてア衝突地点で被告人の車の右前輪のあった位置 れるかどうかが問題となる。なお,被告人が衝突前に制動措置をとった形跡は認められない。 被告人が意図的に左転把したと認められるか否かについてア衝突地点で被告人の車の右前輪のあった位置は,タイヤ痕又はガウジ痕の開始地点であると考えられるが,それを基に被告人の車を直進状態にすると道路外を走行していたことになるので,被告人の車は交差点に進入して若干左転把した状態で衝突したと認められる。 そして,被告人の車の挙動,走行軌跡,Gの車との衝突角度を見ると,被告人の車は交差点に進入してから直進進路に対し8度から18度の範囲で左に進路を変え,Gの車と衝突したと推定される。 もっとも,タイヤ痕がガウジ痕の開始地点より(被告人の車から見て)若干右側から印象されていることに照らすと,衝突時の被告人の車の右前輪の位置は,ガウジ痕の開始地点(H鑑定が前提とする地点)ではなく,同地点より(被告人の車から見て)若干右側にずれた地点であった可能性がある。 また,J及びK並びにGは,いずれも被告人の車が左転把したことを供述していないから,被告人の車が左転把したとしても,その程度はJ及びK並びにGが気付かないくらい小さかったとも考えられる。さらに,ガウジ痕が真っ直ぐ明確に印象されていること(左転把の程度が大きければ,後ろから押され回転するタイヤで移動する状態に近くなるので,ガウジ痕は印象されにくい。)も併せ考えると,被告人の車の進路が左側にそれた程度(左転把をした程度)は,前記推定(8度から18度)よりも更に小さかった可能性がある。 そして,被告人の車が直進進路に対し8度から18度の範囲で左に進路を変えた場合,ハンドルの切れ角は90度から154度であると推定される。 また,被告人の車は低速度で進行していたので,操縦性は高かったと考えられる(低速 直進進路に対し8度から18度の範囲で左に進路を変えた場合,ハンドルの切れ角は90度から154度であると推定される。 また,被告人の車は低速度で進行していたので,操縦性は高かったと考えられる(低速度の方が横滑りしないので操縦性が高まる。)。 イ以上の事情をもとに考えると,被告人が停止位置から発進後,意識を消失した状態で,意図的でなく上記程度のハンドル操作(ハンドル切れ角90度程度の左転把)をした結果,被告人の車の進路が若干左側にそれた可能性がないとはいい切れない。 被告人が交差点入口の横断歩道付近で車をいったん停止させた後,アクセルを踏み込んで加速発進したと認められるか否かについてア被告人が車をいったん停止させた後,アクセルを踏み込んで加速発進したとすれば,被告人がその操作を意図的に行ったと考えるのが自然である。そこで,被告人の車がそのような挙動をしたと認められるか否かについて検討する。 イ前記3ウcのとおり,被告人の車が,交差点入口の横断歩道付近(被告人の車が交差点に進入していたとしても,車の前部が交差点入口の横断歩道の交差点内側の端に位置する辺りまで)の停止位置からクリープ発進した場合,衝突地点での速度はせいぜい時速5.5キロメートル程度であったと考えられる。また,被告人の車が,その前部が交差点入口の停止線に位置する地点から通常の加速(エアコン入り)で発進すると,衝突地点での速度は時速約20.7キロメートルとなる。 ウところで,前記3のとおり,H鑑定の結果は,前提条件において事故状況を忠実に反映し切れておらず,実際の被告人の車の衝突直前の速度が正確に算出されていない可能性が強く,どの程度の誤差が生じているのかも具体的に明らかでない。 したがって,H鑑定によっては,被告人の車がクリー れておらず,実際の被告人の車の衝突直前の速度が正確に算出されていない可能性が強く,どの程度の誤差が生じているのかも具体的に明らかでない。 したがって,H鑑定によっては,被告人の車がクリープ発進して衝突地点 に至った可能性を否定することはできない。 エまた,前記3イのとおり,Gの供述及び同人立会による実況見分の結果に基づいて算出される衝突直前の被告人の車の速度は,時速約15.99キロメートルから23.99キロメートルである。 上記速度は,被告人の車が,交差点入口の横断歩道付近でいったん停止した後,クリープ発進して衝突地点に至った場合の速度(時速5.5キロメートル程度)とは合致しない。しかし,前記3イで述べたとおり,Gの供述及び同人立会による実況見分の結果を前提として算出される衝突直前の被告人の車の速度には,かなりの誤差が含まれる可能性があると考えられるから,これと合致しないことだけをもって,被告人の車がクリープ発進して衝突地点に至った可能性がないといい切ることはできない。 オさらに,J及びKの供述内容は,前記3ウのとおりである。 特に,Jは,「被告人の車は,ゆっくりと発進し,ちょうど,オートマチック車の運転で,アクセルペダルを踏まないで,ブレーキペダルを離したときのような発進の仕方をした。」,「衝突するまで,人間の歩く速度と変わらないような速度で交差点に進入した。」旨供述している。 カ以上によると,被告人の車が交差点入口の横断歩道付近でいったん停止した後,クリープ発進して衝突地点に至った可能性を排斥することはできず,被告人がアクセルを踏み込んで加速発進したとは断定できない。 以上のとおり,被告人の車が,交差点入口の横断歩道付近で,対面信号機の赤色信号表示に従いいったん停止した後,対面信号機がま できず,被告人がアクセルを踏み込んで加速発進したとは断定できない。 以上のとおり,被告人の車が,交差点入口の横断歩道付近で,対面信号機の赤色信号表示に従いいったん停止した後,対面信号機がまだ赤色信号表示をしている間に発進して交差点に進入した可能性は否定できない。そして,その場合,被告人が大きくハンドルを転把したり,アクセルを踏み込んで加速発進したりするなどの,意図的な操作をしたことを明らかに示す車の挙動等があったとは認められない。 5 以上のとおり,被告人が,本件事故直前,対面信号機の赤色信号表示を認識し, いったんはこれに従って停止した後,対面信号機がまだ赤色信号を表示している間に,アクセルを踏み込まずに車をクリープ発進させ交差点に進入させた可能性は否定できない。すなわち,予備的公訴事実中,被告人の車が時速約15ないし20キロメートルで交差点内に進入したとの事実は認められない。 被告人が,本件事故直前,対面信号機の赤色信号表示を認識し,いったんはこれに従って停止した後,対面信号機がまだ赤色信号を表示している間に,アクセルを踏み込まずに車をクリープ発進させ交差点に進入させたとする場合,このような挙動が被告人の何らかの不注意によって起きた可能性は否定できない。しかしながら,他方,このような挙動が不注意によるものとすれば,不注意の内容や挙動の態様がやや奇異であるとも考えられる。このことからすると,前記の挙動は不注意によるものではなく,被告人が,対面信号機の赤色信号表示を認識し,いったんこれに従って停止した後,何らかの突発的な身体的異変によって意識を失った結果,車をクリープ発進させてしまった可能性も,全くないとはいい切れないのではないかと考えられる。 6 そこで,被告人が本件事故当時,睡眠時無呼吸症候群による突発的意識障害に 変によって意識を失った結果,車をクリープ発進させてしまった可能性も,全くないとはいい切れないのではないかと考えられる。 6 そこで,被告人が本件事故当時,睡眠時無呼吸症候群による突発的意識障害に陥った可能性の有無・程度について,次に検討する。 関係証拠によれば,次の事実が認められる。 ア睡眠時無呼吸症候群についての一般的医学知見について 睡眠時無呼吸症候群(sleepapneasyndrome, SAS)とは,睡眠中,気道の閉塞によって繰り返し呼吸が停止する病態である。その結果,中途覚醒を繰り返し,深い睡眠を得られないため,日中の眠気のほか,起床時の頭痛,集中力・知的能力の低下等,種々の精神神経症状が現れるほか,様々な合併症を引き起こすおそれもある。 睡眠時無呼吸症候群の患者の主観的な眠気(どれくらい患者が眠気を自覚しているか)と客観的な眠気(実際にどれくらい容易に入眠してしまうか)は乖離する場合がある。重度の睡眠時無呼吸症候群に罹患している場 合でも,日中に強い眠気を感じない人も多い。 睡眠時無呼吸症候群の重症患者が,この疾患のもたらす眠気を原因として自動車運転中に事故を起こすリスクは,健常者より有意に高いと報告されている。本邦でも,平成14年6月1日施行の改正道路交通法で,「重症の過眠症状を呈する睡眠障害を免許の保留,停止条件の一つとする」項目が追加され,症状軽快の診断書がない限り,運転が許可されないという制度が運用されている。国土交通省も,職業ドライバーにおける睡眠時無呼吸症候群の早期診断・治療を行うよう,関連交通機関に通達している。 イ被告人の睡眠時無呼吸症候群の診療歴,被告人が本件事故当時罹患していた睡眠時無呼吸症候群の程度について 被告人は,平成20年12月25日,無呼 を行うよう,関連交通機関に通達している。 イ被告人の睡眠時無呼吸症候群の診療歴,被告人が本件事故当時罹患していた睡眠時無呼吸症候群の程度について 被告人は,平成20年12月25日,無呼吸低呼吸指数(睡眠中1時間当たりに無呼吸低呼吸が起きる回数,apneahypopneaindex, AHI,20以上で睡眠時無呼吸症候群と診断される。20から40が軽度,40から60が中度,60以上が重度とされる。)が73.7回/時であり重度の睡眠時無呼吸症候群であると診断されたが,その後特に通院治療等をしなかった。 被告人は,平成22年10月15日,睡眠時ポリソムノグラフィー(夜間睡眠中の状態の総合的検査で,睡眠中の脳波,呼吸パターン等を検査するもの)を受けた結果,睡眠中1時間当たりの無呼吸低呼吸値は62.7回,平均無呼吸持続時間は39.9秒,最長無呼吸持続時間は74秒,睡眠中の体内の酸素量は平均92.6パーセント(正常は95パーセント以上)であり,酸素量が85パーセント未満の合計時間は睡眠中の15パーセントであった。 このような被告人の診療経過等によれば,被告人は本件事故当時,重度の睡眠時無呼吸症候群に罹患していたと認められる。 被告人の罹患していた睡眠時無呼吸症候群が,本件事故直前の被告人の車の 挙動に及ぼした影響について,被告人の診療に当たった耳鼻科医であるLは,次のとおり供述する。 ア一般に,重度の睡眠時無呼吸症候群の患者が,日中眠気等の予兆を感じることなく寝てしまうことはあり得る。実際に,自分の診療した重症患者には,会話中や車の運転中,突然寝てしまった経験をもつ者がかなりいる。 イ被告人が本件事故当時,重度の睡眠時無呼吸症候群に罹患していたことに照らすと,本件事故直前,睡眠時無呼吸症候群が 症患者には,会話中や車の運転中,突然寝てしまった経験をもつ者がかなりいる。 イ被告人が本件事故当時,重度の睡眠時無呼吸症候群に罹患していたことに照らすと,本件事故直前,睡眠時無呼吸症候群が原因で,予兆なく急激に睡眠状態に陥った可能性は十分にある。 ウ以上のようなLの見解は,前記ア,イのような睡眠時無呼吸症候群の一般的医学知見及び被告人が本件事故当時罹患していた睡眠時無呼吸症候群の重症度とも整合しており,合理的であると考えられるから,信用することができる。 7 以上のとおり,本件事故直前の被告人の車の挙動が不注意によるものとは断定し切れないこと(前記5)に加えて,被告人が本件事故当時,睡眠時無呼吸症候群による慢性的な睡眠不足に陥っていたという身体的素地があったことにより,睡眠時無呼吸症候群により突発的に意識障害に陥った可能性も,単なる抽象的可能性にとどまるとはいえないこと(前記6)も併せ考えると,被告人が,本件事故直前,対面信号機の赤色信号表示を認識し,いったんはこれに従って停止した後,予兆なく急激に睡眠状態(意識障害)に陥り,対面信号機がまだ赤色信号を表示している間に,アクセルを踏み込まずに車をクリープ発進させ交差点に進入させた結果,本件事故を起こしてしまった可能性が全くないといい切ることはできない。 なお,被告人は前記2のとおり供述している。被告人は,交差点ではいったん対面信号機の赤色信号表示に従って車を停止させており,少なくともその時点までは意識があったと考えられるから,前記2のような被告人の供述内容は不自然ともいえる。しかし,被告人が,捜査・公判段階を通じて一貫して前記2 のとおり供述していることなどに照らし,前記被告人の供述が自己の刑責を回避するためにした虚偽供述であるとは認められない。被告 ともいえる。しかし,被告人が,捜査・公判段階を通じて一貫して前記2 のとおり供述していることなどに照らし,前記被告人の供述が自己の刑責を回避するためにした虚偽供述であるとは認められない。被告人は本件事故で頭部を強打するなどしているから,事故の衝撃で事故直前の記憶がなくなった可能性も否定できない。したがって,被告人が前記2のような供述をしていることは,被告人が本件事故当時,睡眠時無呼吸症候群による突発的な意識障害に陥った可能性を否定するほどの事情とはなり得ない。 8 以上を前提とし,被告人の過失が認められるかどうか検討する。 一般に過失犯において被告人に当該結果発生の回避措置をとるべき注意義務(結果回避義務)が認められるためには,当該注意義務が現実的に被告人において履行可能なものであること(注意義務の現実性)が必要である。 本件においては,被告人が本件事故当時,睡眠時無呼吸症候群を原因として予兆なく急激に睡眠状態に陥り,対面信号機の信号表示に留意する義務を履行することができない状態に陥っていたとの合理的疑いを払拭することができない。したがって,被告人に前記義務違反の過失を認めることはできない。 以上によれば,被告人に予備的公訴事実にある対面信号機の信号表示に留意する義務を課すことには合理的疑いの余地が残るといわざるを得ない。したがって,被告人には本件自動車運転過失傷害罪の成立を認めることができない。 よって,本件公訴事実については犯罪の証明がないということに帰するから,刑事訴訟法336条により,被告人に対し無罪の言渡しをする。 (裁判官出口博章) (裁判官出口博章)
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