平成14(ワ)959 損害賠償請求事件

裁判年月日・裁判所
平成17年1月28日 那覇地方裁判所
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判決文本文47,188 文字)

平成14年(ワ)第959号損害賠償請求事件平成15年(ワ)第1274号損害賠償請求事件判決 主文 1 原告らの請求をいずれも棄却する。 2 訴訟費用は原告らの負担とする。 事実及び理由 第1 請求被告らは,原告らそれぞれに対し,連帯して,10万円を支払え。 第2 事案の概要本件は,原告らが,内閣総理大臣である被告小泉純一郎(以下「被告小泉」という。)による靖国神社への参拝が,日本国憲法(以下「憲法」という。)の規定する政教分離原則に違反するものであり,これにより,原告らの政教分離を厳格に求める法的権利を侵害され,あるいは,信教の自由,思想信条の自由,平和的生存権等が侵害され,精神的苦痛を被ったとして,被告小泉に対しては民法709条に基づき,被告国に対しては国家賠償法(以下「国賠法」という。)1条1項に基づき,連帯して,原告らそれぞれに10万円の慰謝料の支払を求めるものである。 1 前提事実(証拠掲記のないものは,当事者間に争いがない。)(1) 当事者ア原告らは,自ら沖縄戦を体験し,あるいは,沖縄戦で家族,親族を失うなどした沖縄県出身者,沖縄戦以外の戦争で家族,親族を失った者,沖縄県又は本土に在住して宗教活動を行う者(以下「宗教者」という。)及びそれ以外の者である(甲1,5,6,21~23,25,27~45)。 イ被告小泉は,内閣総理大臣である。 (2) 靖国神社への参拝被告小泉は,平成13年8月13日及び平成14年4月21日,次の方法で,宗教法人である靖国神社の宗教施設である靖国神社を参拝した(以下,両参拝を併せて「本件各参拝」という。)。 ア被告小泉は,平成13年8月13日,秘書官を伴い,往復に公 4月21日,次の方法で,宗教法人である靖国神社の宗教施設である靖国神社を参拝した(以下,両参拝を併せて「本件各参拝」という。)。 ア被告小泉は,平成13年8月13日,秘書官を伴い,往復に公用車を使用して靖国神社に赴き,「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳するとともに,私費で献花代3万円を支出して「内閣総理大臣小泉純一郎」と名入りの献花を行い,本殿において一礼する方式で参拝した(記帳の方式及び献花代が私費で支出したものであることについて,乙ロ4の2。以下,当該参拝を「平成13年参拝」という。)。 イ被告小泉は,平成14年4月21日,秘書官を伴い,往復に公用車を使用して靖国神社に赴き,「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳するとともに,私費で献花代3万円を支出して「内閣総理大臣小泉純一郎」と名入りの献花を行い,本殿において一礼する方式で参拝した(記帳の方式及び献花代が私費で支出したものであることについて,乙5。以下,当該参拝を「平成14年参拝」という。)。 2 争点(1) 本件訴訟の適法性(本案前の争点)(2) 本案の争点ア原告らの法的権利ないし利益の侵害の有無イ被告らの損害賠償責任の有無ウ原告らの損害 3 争点に対する当事者の主張別紙「当事者の主張」のとおりである。 第3 当裁判所の判断 1 本件訴訟の適法性(本案前の争点)について(1) 被告小泉は,原告らの被告小泉に対する本件各請求に係る訴えは,被告小泉が一人の自然人として有する信教の自由等の実現を違憲,違法と断じた上で損害賠償を求めるものであり,訴訟の名を借りて,被告小泉の有する人権を制限しようとする不当な目的のものであるから,不適法である旨主張する。 しかしながら,原告らの被告小泉に対する本件各請求に係る訴えは,被告 るものであり,訴訟の名を借りて,被告小泉の有する人権を制限しようとする不当な目的のものであるから,不適法である旨主張する。 しかしながら,原告らの被告小泉に対する本件各請求に係る訴えは,被告小泉が内閣総理大臣の職務として本件各参拝を行ったことにより精神的苦痛を被ったと主張して損害賠償を請求するものであって,被告小泉が一人の自然人として私人の立場で本件各参拝を行ったことを前提として損害賠償を求めるものではない。 また,本件全証拠によっても,原告らにおいて被告小泉の有する信教の自由等を制限しようとする目的で,被告小泉に対する本件各請求に係る訴えを提起したとは認めるに足りない。 (2) したがって,原告らの被告小泉に対する本件各請求に係る訴えがいずれも不適法である旨の被告小泉の上記主張は,採用することができない。 2 本案の争点ア(原告らの法的権利ないし利益の侵害の有無)について(1) 原告らは,別紙「当事者の主張」(2)ア(原告らの主張)のとおり,一般的に,あるいは各原告ごとの立場に応じて,被告小泉による本件各参拝は,原告らの政教分離を厳格に求める権利,信教の自由,宗教的人格権,平和的生存権等を侵害するものである旨主張するので,以下,順次検討する。 (2) 政教分離違反による侵害について原告らは,別紙「当事者の主張」(2)ア(原告らの主張)(ア)のとおり,被告小泉による本件各参拝は,政教分離規定に違反する行為であり,同規定が制度的保障のみならず個人の人権をも保障している以上,原告らの国に対して政教分離を厳格に求め得る法的権利を侵害された旨主張する。 しかしながら,政教分離規定は,いわゆる制度的保障の規定であって,信教の自由そのものを直接保障するものではなく,国家と宗教との分離を制度として保障することにより, 利を侵害された旨主張する。 しかしながら,政教分離規定は,いわゆる制度的保障の規定であって,信教の自由そのものを直接保障するものではなく,国家と宗教との分離を制度として保障することにより,間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものであると解される(最高裁判所昭和52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁等参照。以下,同判決を「地鎮祭最高裁判決」という。)から,政教分離の規定が個人の人権をも直接保障している旨の原告らの主張は失当であって,原告らの主張する,国に対して政教分離を厳格に求め得る法的権利などというものをもって,法律上保護された具体的な法的権利ないし利益と認めることはできない。 したがって,かかる法的権利なるものを被侵害利益として,直ちに損害賠償を請求するなどの法的救済を求めることはできないというべきであり,被告小泉による本件各参拝によって,原告らの上記のような法的権利が侵害された旨の原告らの主張は,採用することができない。 なお,原告らは,政教分離規定に違反する本件各参拝行為が,原告らの人格的利益を侵害する不法行為になると主張するが,ここにいう人格的利益とは内容的にみて後記(4)の宗教的人格権と同義のものと解される。そのため,原告らの上記主張の当否については後記(4)で検討することとする。 (3) 信教の自由の侵害について原告らは,別紙「当事者の主張」(2)ア(原告らの主張)(イ)のとおり,被告小泉の本件各参拝により,原告らの信教の自由が侵害されたと主張する。 しかしながら,信教の自由の保障は,国家から公権力によってその自由を制限されることなく,また,不利益を課せられないとの意味を有するものであり,国家によって信教の自由が侵害されたといい得るためには,少なくとも国家による信教 の保障は,国家から公権力によってその自由を制限されることなく,また,不利益を課せられないとの意味を有するものであり,国家によって信教の自由が侵害されたといい得るためには,少なくとも国家による信教を理由とする不利益な取扱い又は強制・制止の存在することが必要であると解される(最高裁判所昭和63年6月1日大法廷判決・民集42巻5号277頁等参照。以下,同判決を「自衛官合祀最高裁判決」という。)。そして,本件全証拠によっても,被告小泉による本件各参拝が,原告らの信教を理由として,原告らに対し不利益な取扱い又は強制・制止をするものであるとは認めるに足りない。 この点について原告らは,今日においては単に物理的強制による侵害のみならず,心理的・精神的強制による信教の自由の侵害からも保護を図らなければ,個人の信教の自由は維持され得ないとした上で,本件各参拝が政教分離の義務を課されている国家機関である内閣総理大臣によってなされたものであることや,参拝の対象がかつて国家神道の中核として信仰の自由を踏みにじった靖国神社であること,参拝自体がこれまで政治的・社会的批判が強くされていたにもかかわらず敢えて行われたこと,被告小泉に靖国神社の国家護持に向けた政治的意図が存したこと,これに対して原告らはいずれも戦没者をどう追悼するかという個人の内面奥深くに関わる内心的信仰に強い圧迫を受けたことなどからすれば,本件各参拝は,原告らに対して物理的強制を加えたものでないとしても,なお,原告らの内面的信仰の自由を侵害したというべきであるなどと主張する。 しかしながら,内面的信仰の自由への侵害が,物理的強制のみならず,心理的・精神的強制にまで及ぶと解した場合には,対象となる人間の意識,考え方という主観的な状況によって侵害の成否が左右され,非常に曖昧なものとなるの 内面的信仰の自由への侵害が,物理的強制のみならず,心理的・精神的強制にまで及ぶと解した場合には,対象となる人間の意識,考え方という主観的な状況によって侵害の成否が左右され,非常に曖昧なものとなるのみならず,被害を受けたとする者が無限定に広範囲に及ぶ危険性も否定できないことなどを考慮すると,特段の事情のない限り,心理的・精神的強制による内面的信仰の自由への侵害を認定することは相当でないといわざるを得ない。しかるに,本件においては,関係証拠を総合しても,かかる特段の事情を認めることはできない。 したがって,被告小泉による本件各参拝によって,原告らの信教の自由が侵害されたとの原告らの主張は,採用することができない。 (4) 宗教的人格権の侵害について原告らは,別紙「当事者の主張」(2)ア(原告らの主張)(ウ)のとおり,被告小泉の本件各参拝によって宗教的人格権又は宗教的な心の静謐といった法的利益が侵害された旨を主張する。 なるほど,人が自己の信仰生活や戦争被害者回顧の方法に関する静謐を,他者の宗教上の行為によつて害されたとし,そのことに不快の感情を持ち,そのようなことがないよう望むのは当然であり,被告小泉の本件各参拝行為によって原告らが抱いたとされる感情についても,心情的に理解できなくはない。しかし,原告らが宗教的人格権または保護に値する法的利益であると主張する「日常の市民生活において平穏かつ円満な宗教的生活を享受する権利」なるものが内容的に極めて漠然としたものであることは否定し難く,また,宗教的な意識・信条といった人の主観的側面と密接不可分に結びついている点で,前記(3)の心理的・精神的強制による内心的信仰の自由への侵害について検討したのと同様の問題が存するところである。したがって,かかる原告らの主観的感情のあり方 的側面と密接不可分に結びついている点で,前記(3)の心理的・精神的強制による内心的信仰の自由への侵害について検討したのと同様の問題が存するところである。したがって,かかる原告らの主観的感情のあり方をもって,法律上保護された具体的な法的権利ないし利益と認めることはできず,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を請求するなどの法的救済を求めることはできないと解される(自衛官合祀最高裁判決等参照)。 したがって,被告小泉による本件各参拝によって,原告らの上記のような宗教的な感情を内容とする宗教的人格権という法的権利ないし利益が侵害されたとする原告らの主張は,これを採用することができない。 なお,個別の原告らの主張の中には,被告小泉による本件各参拝によって原告らのプライバシー権が侵害されたとの主張がされている箇所が見受けられる。 これは,内容的に見て,前記宗教的人格権とも呼称される法的利益について憲法上異なった根拠付けをしようとしているものと解される。しかし,原告らの主張する宗教的人格権が法律上保護された具体的な法的権利ないし利益と認めることはできないことは前記のとおりであり,同様に憲法13条の保障するプライバシー権によって根拠付けることもできないというべきである。 (5) 平和的生存権の侵害について原告らは,別紙「当事者の主張」(2)ア(原告らの主張)(エ)のとおり,被告小泉の本件各参拝により,原告らの平和的生存権が侵害されたと主張する。 確かに,憲法は,前文において,恒久の平和を念願し,全世界の国民が,平和のうちに生存する権利を確認する旨を謳っている。しかし,ここに規定された平和的生存権は,理念ないし目的としての抽象的概念であって,権利としての具体的内容を有するものとはいい難く,これによって国民に何らの具体的 存する権利を確認する旨を謳っている。しかし,ここに規定された平和的生存権は,理念ないし目的としての抽象的概念であって,権利としての具体的内容を有するものとはいい難く,これによって国民に何らの具体的な権利ないし利益が保障されていると解することはできないから,このような平和的生存権を被侵害利益として,直ちに損害賠償を請求するなどの法的救済を求めることはできないというべきである。 そうすると,被告小泉による本件各参拝によって,原告らの平和的生存権が侵害されたとの原告らの主張もまた,採用することができない。 (6) 原告ら各自の被侵害権利ないし利益についてア沖縄戦戦没者遺族及び沖縄出身者である原告らについて(ア) 証拠(各項末尾掲記のほか甲1)及び弁論の全趣旨によると,次の各事実が認められる。 a 靖国神社では,軍人軍属の他,学徒,徴用工,女子挺身隊員,日赤救護看護婦等国家総動員法に基づく徴用又は協力中の死没者を,また,沖縄県一般邦人については軍の要請に基づいて戦闘に参加し,当該戦闘に基づく負傷又は疾病により死亡した者も,準軍属として合祀対象者としている。(甲8)b 原告Aは,沖縄戦の最中に,父親を亡くし,また,日本軍関係者の指示による渡嘉敷島における「集団自決」の際に,兄と共に,母親,弟及び妹を自らの手で殺害し,自分らも死のうとしたが生き残った。原告Aの父母弟妹は,戦後,靖国神社に合祀された。(甲22)c 原告Bは,沖縄戦当時6歳であった。原告Bの父は,沖縄戦末期である昭和19年10月10日のいわゆる10・10空襲の直前に再び召集され,小禄の海軍に入隊し,同軍の玉砕により死亡した。また,原告Bは,家族と共に戦火を逃れて逃避行動を取っていたが,その最中,祖母,母,当時2歳の弟は,砲弾の のいわゆる10・10空襲の直前に再び召集され,小禄の海軍に入隊し,同軍の玉砕により死亡した。また,原告Bは,家族と共に戦火を逃れて逃避行動を取っていたが,その最中,祖母,母,当時2歳の弟は,砲弾の直撃を受け,また,上の姉は,東風平小学校に避難中に砲弾の破片が頭に当たって死亡した。(甲23,原告B)d 原告Cは,沖縄戦で自宅を焼失し,家族らと共に避難していたが,昭和20年6月,避難壕の前で兄と従姉が砲弾の直撃を受けて死亡し,更に2日後,同じ場所で母と伯母2人が砲弾の直撃で死亡した。原告Cの母と兄は,戦後,靖国神社に合祀されている。(甲5,30)e 原告Dの姉D2は,ひめゆり学徒隊の一員として看護活動に従事中,昭和20年6月19日明け方,伊原第三外科壕で,米軍の毒ガス弾により死亡した。同日,原告Dの家族らは喜屋武部落の空き家で米軍の捕虜となったが,原告Dの祖母D3は護送される途中,衰弱で死亡した。D2は,戦後,靖国神社に合祀されている。(甲34)f 原告Eの祖母(当時70歳)及び叔父(当時40歳。県鉄バス勤務)は,いずれも沖縄戦で死亡し,叔父は戦後靖国神社に合祀されている。 g 原告Fの長兄(当時23歳)及び次兄(当時21歳)は,いずれも徴兵され,沖縄戦の最中に死亡した。原告Fの長兄は,戦後,軍人として靖国神社に合祀されている。 h 原告Gの兄G2(当時14歳)は,沖縄戦のさなか,父や叔母たちと沖縄南部の大里村へ避難し,夕食を取ろうとしていた時に,砲弾の直撃を受け即死した。(甲41)(イ) (ア)のうち原告Gを除くその余の原告らは,いずれも我が国で唯一民間人を巻き込んで地上戦が行われた沖縄戦を直に経験し,家族共々戦火から逃げ惑う中で肉親を失った者であるところ,かかる経験をした者 イ) (ア)のうち原告Gを除くその余の原告らは,いずれも我が国で唯一民間人を巻き込んで地上戦が行われた沖縄戦を直に経験し,家族共々戦火から逃げ惑う中で肉親を失った者であるところ,かかる経験をした者は,原告Aら7名以外にも原告らの中に相当数いるものと考えられる。そして,沖縄戦で死亡した肉親が特に軍人・軍属でなかったにもかかわらず,集団自決を強いるなどし沖縄県民にとって加害者とも受け取られている旧日本軍関係者らと共に靖国神社に合祀され,被告小泉による本件各参拝の対象とされたということで,上記原告らの感じる精神的苦痛については,単に靖国神社の過去及び現在のあり方に疑問を呈する者のそれに比して,より具体的に理解し得るものであることは確かである。 しかしながら,かかる原告らが被告小泉の本件各参拝によって侵害されたとする,各自が肉親の死について各自の価値観に従って戦没者への思いを巡らせる自由とは,結局前記(4)の宗教的人格権にほかならず,同原告らの主張する思想信条の自由及びプライバシー権も宗教的人格権と同内容のものであるといえる。そして,原告らが主張するような宗教的人格権が法律上保護される具体的な法的権利ないし利益と認めることができないことは前記(4)で説示したとおりであり,このことは,沖縄戦で肉親を失った原告らについて,前記のような事情を考慮しても,別異に扱うべき理由はない。 イ沖縄戦以外における遺族の被侵害利益証拠(甲1)及び弁論の全趣旨によると,原告H,原告I,原告J,原告K,原告L,原告M及び原告Nは,いずれも第二次世界大戦中,沖縄戦以外で親族を亡くしたこと,原告H,原告I,原告J及び原告Lの親族である戦没者はいずれも軍人として,戦後靖国神社に合祀されていることが認められる。 上記原告らは,被告小泉に 界大戦中,沖縄戦以外で親族を亡くしたこと,原告H,原告I,原告J及び原告Lの親族である戦没者はいずれも軍人として,戦後靖国神社に合祀されていることが認められる。 上記原告らは,被告小泉による本件各参拝が同原告らの思想信条の自由を侵害した旨を主張する。しかし,国家によって思想信条の自由が侵害されたといい得るためには,信教の自由において説示したのと同様の理由により,少なくとも国家による思想信条を理由とする不利益な取扱い又は強制・制止の存在することが必要であると解されるところ,本件全証拠によっても,被告小泉による本件各参拝が,同原告らの思想信条を理由として,同原告らに対し不利益な取扱い又は強制・制止をするものであるとは認めるに足りない。 ウ宗教者である原告らの被侵害利益甲42号証によると,原告Pは,日本基督教団うるま伝道所主任担当教師であることが認められ,また,証拠(甲22,29,31)によると,原告A,原告Dもキリスト教徒であること,原告Rもキリスト教の牧師であることが認められる。これに対し,原告O及び原告Qが宗教者であることについては,本件証拠上これを認めるに足りない。 そして,宗教者である原告らは,被告小泉が内閣総理大臣として靖国神社に参拝することは,靖国神社に公的権威を与えるものであり,その余の宗教を靖国神社の劣位において抑圧する効果を持つものとなり,宗教者である原告らの信仰を侵害するものであると主張する。 神道以外の宗教を信仰する宗教者である原告らにおいて,被告小泉の本件各参拝によって,国家が靖国神社という特定の宗教を勧奨し,同原告らの信仰に干渉したものと受け止めて不快感を抱き,あるいは,戦前のように国家と神道が結びついて他宗教を圧迫する時代が再来するのではないかといった危惧感を抱いた 靖国神社という特定の宗教を勧奨し,同原告らの信仰に干渉したものと受け止めて不快感を抱き,あるいは,戦前のように国家と神道が結びついて他宗教を圧迫する時代が再来するのではないかといった危惧感を抱いたことは,理解し得なくもない。しかしながら,前記(3)のとおり,信教の自由が侵害されたといい得るためには,少なくとも国家による信教を理由とする不利益な取扱い又は強制・制止の存在することが必要であると解されるところ,同原告らが上記のような感情を抱いたことは,あくまでも被告小泉が本件各参拝行為を行った事実を同原告らが知ったことによる,いうなれば間接的・反射的なものにすぎず,同原告らに対する不利益な取扱い又は強制・制止が行われたことによるものでないことは明らかである。 エその他の原告らの被侵害利益特定の宗教を持たず,また親族に戦没者を有しない原告らは,被告小泉の本件各参拝が同原告らの思想信条の自由ないし平和的生存権を侵害するものである旨を主張する。 しかしながら,上記原告らのいう平和的生存権が権利としての具体的内容を有するものでないことは前記(5)のとおりである。また,思想信条の自由の侵害についても,前記イのとおり,少なくとも国家による思想信条を理由とする不利益な取扱い又は強制・制止の存在が必要と解されるところ,本件各参拝によって上記原告らに対する不利益な取扱い又は強制・制止が行われたとは認め難いというべきである。 (7) 小括以上(2)ないし(6)で検討したところによれば,被告小泉による本件各参拝によって,原告らの法的権利ないし利益が侵害されたとする原告らの主張は,いずれも採用することができないというべきである。 第4 結論以上の次第で,その余の点について判断するまでもなく,原告らの被告小泉及び被告 法的権利ないし利益が侵害されたとする原告らの主張は,いずれも採用することができないというべきである。 第4 結論以上の次第で,その余の点について判断するまでもなく,原告らの被告小泉及び被告国に対する本件請求は,いずれも理由がないこととなる。 よって,主文のとおり判決する。 那覇地方裁判所民事第1部裁判長裁判官西井和徒裁判官松本明敏裁判官岩崎慎別紙当事者の主張(1) 本件訴訟の適法性(本案前の争点)について(被告小泉の主張)原告らによる本件訴訟は,これをなすことによって憲法によって保障された被告小泉の思想,信条,信教の自由を制限しようとする不当な目的を達成しようとするものというほかない。 被告小泉は,一人の自然人として,憲法によって保障された思想,信条,信教の自由を享受し得る地位を有しているものであるところ,本件各参拝は,自然人たる被告小泉に認められた思想,信条,信教の自由の実現にほかならない。すなわち,被告小泉は,戦没者の追悼のためには靖国神社に参拝することがふさわしいとの思想・信条を有していることから,職務行為としてではなく一人の自然人として靖国神社に参拝しているのである。 ところが,原告らによる本件訴訟は,このような被告小泉に認められた思想,信条,信教の自由の実現を違憲・違法と断じた上で損害賠償の請求をなすものであるから,このような訴訟を提起した原告らの目的は,訴訟提起という圧力を被告小泉に対して加え,これにより間接的に被告小泉に対して,憲法上保障された思想,信条,信教の自由の実現としての靖国神社参拝を抑止することを企図してのものというほかない。 訴訟提起という圧力を被告小泉に対して加え,これにより間接的に被告小泉に対して,憲法上保障された思想,信条,信教の自由の実現としての靖国神社参拝を抑止することを企図してのものというほかない。 すなわち,本件訴訟は,訴訟の名を借りて,被告小泉の有する憲法上保障された人権を制限しようとするものにほかならないので,その違法性の程度は極めて著しく,訴訟提起自体が不当なものと評価されるから,原告らの本件各請求に係る訴えは,いずれも却下を免れない。 (原告らの主張)本件訴訟は,公務員たる内閣総理大臣としての資格で行われた本件各参拝を違法と主張するものであり,被告小泉が個人として行ういかなる信仰行為に対しても,これを違法であると主張するものではない。 したがって,被告小泉の主張は失当である。 (2) 本案の争点ア本件各参拝が,原告らの法的権利ないし利益を侵害するものかどうか。 (原告らの主張)被告小泉による本件各参拝は,次のとおり,原告らの法的権利ないし利益を侵害するものである。 (ア) 政教分離規定違反による侵害a 政教分離規定の意義(a) 憲法20条1項前段は信教の自由を保障する。ここでいう信教とは宗教と同義であり,神,仏,霊など超自然的,超人間的本質の存在を確信し,畏敬崇拝する心情と行為を指す。そして,保障の内容としては,内心における信仰の自由,宗教活動の自由,宗教的結社の自由がある。加えて,憲法は,「いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない」(同項後段),「国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(同条3項),「公金その他公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のためこれを支出し,又はその利用に供してはならない」( 関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(同条3項),「公金その他公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のためこれを支出し,又はその利用に供してはならない」(89条)と規定しており,国家権力と宗教とを分離する規定,いわゆる政教分離規定を置いている。政教分離規定が置かれた趣旨は,政治権力と特定の宗教が利用あるいは依存の関係で結び付くとき信教の自由及び民主主義を破壊する可能性が大であることが歴史上明らかであり,かつ,大日本帝国憲法(以下「帝国憲法」という。)下では信教の自由は制限付きで保障されていたにすぎず,神道が事実上国教化された結果,信教の自由が侵害された経験があるところから,このような事態の発生を未然に防止しようとするものである。 (b) かかる政教分離規定は,制度的保障であるとともに人権規定でもあると解するのが相当である。すなわち,信教の自由は,強制,抑圧,禁止による侵害からの保障の役割を持つ狭義の信教の自由(信仰の自由)と,国家的関与の宗教的活動(宗教的活動の主体となること,宗教的活動・行為への参加・賛助,宗教団体に対する特権・援助の賦与)による侵害からの保障の役割を持つ広義の信教の自由(政教分離)を内容としており,両者が一体となって,信教の自由を保障するものというべきである。もちろん,政教分離規定が信教の自由の保障を十全ならしめるために国家と宗教の分離を制度的に保障する側面があるのは当然であるが,信教の自由に対する国家による侵害,強制が,物理的意味のものだけでなく,政治権力による個人の力では抗し難い心理的・精神的圧力によってもなされ得るデリケートなものであるという特質に照らせば,単に信教の自由そのものを直接保護するだけでは足りず,国家が宗教との結びつきを持つことを拒否し得る個人の権 は抗し難い心理的・精神的圧力によってもなされ得るデリケートなものであるという特質に照らせば,単に信教の自由そのものを直接保護するだけでは足りず,国家が宗教との結びつきを持つことを拒否し得る個人の権利と解することこそ不可欠である。このことは政教分離原則の趣旨,目的から一層明らかである。すなわち,その目的は,第1には,前記のとおり狭義の信教の自由を保障するところにあるが,それのみならず,第2には,政府を破壊から救い,宗教をして堕落から免れしめるところにある。諸々の宗教的価値は相互に,または宗教と無神論は相互に相容れない観念であるから,国家が特定の宗教を支援するならば,他の宗教若しくは無神論との間での確執が必然となり,国家の基礎が危うくされるとともに,本来人の信仰は純粋に内面的信念によって生み出され変更せしめられるものであるにもかかわらず,特定の宗教が国家と結び付くことによって,その宗教的価値自身を破壊するという懸念に基づくのである。だからこそ,個人の内面とその存立を維持するためには,単に狭義の信教の自由を保障するだけでは不十分といえるのである。憲法29条1項にいう財産権の保障について,通説によれば,私有財産性の中核を侵害してはならないという制度的保障とともに,各人が現に有する財産権の不可侵の保障を含むと解されているところからも,政教分離についても同様に多層的な保障をしていると解釈することに何ら不都合はない。 (c) そして,国家と宗教との関わりについては,前述の政教分離規定の趣旨を踏まえるならば,国家と宗教を緩やかに分離する立場を採ったものとはおよそ考えられず,国家と宗教とを厳格に分離する立場を採ったものであるといわなければならない。この点について,地鎮祭最高裁判決によれば,憲法20条3項によって禁止される宗教的活動は,「行為の目 とはおよそ考えられず,国家と宗教とを厳格に分離する立場を採ったものであるといわなければならない。この点について,地鎮祭最高裁判決によれば,憲法20条3項によって禁止される宗教的活動は,「行為の目的が宗教的意義をもち,その効果が宗教に対する援助,助長,促進又は圧迫,干渉等になるような行為」であるとされ(目的効果基準論),政教分離の程度については,「国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが,国家が宗教との関わり合いを持つことを全く許さないとするものではなく,宗教との関わり合いをもたらす行為の目的及び効果に鑑み,その関わり合いが国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである」とされている。しかし,前記政教分離規定の趣旨に照らせば,最高裁判例のいう目的効果基準は,「宗教的活動」を極めて限定的に解することになる危険性が大きいことから,妥当とはいえない。我が国において政教分離規定が置かれた歴史的経緯に照らせば,当然にその分離は厳格に解されなければならず,そうでなければ信教の自由の保障は全うできないというべきである。国家と宗教との関わりをつきつめてみれば,宗教系教育機関への助成や被拘禁者への教誨など現実に問題となり得る場面ごとに,個人の信教の自由や平等原則等他の憲法上の要請に基づいて判断すれば足りるのであって,それを超えて国家が宗教との関わりを持つ必要性など存しないはずである。また,かかる関わりは,個人の信教の自由の尊重目的のためであったり,福祉的財政援助が問題となる場合を想定しているのであり,少なくともそのような他の行政目的のために関わらざるを得ない場合に当たらず,純粋に宗教的行為そのものを目的とする場合(本件各参拝がまさにそうである。)に,同様の基準を適用するのはふさ いるのであり,少なくともそのような他の行政目的のために関わらざるを得ない場合に当たらず,純粋に宗教的行為そのものを目的とする場合(本件各参拝がまさにそうである。)に,同様の基準を適用するのはふさわしくない。さらに,最高裁判例の採用する目的効果基準では,国家の関与の程度が「相当とされる限度を超えるものと認められる場合」に違憲とされるものであるが,かかる基準そのものが,国家と宗教との癒着という社会的実態によって生まれる社会通念によって左右される危険が極めて高いといわなければならない。厳格な分離との関連では,国家の宗教的中立性が,単に国家による財政的支援を拒否するのみならず,国家と宗教とが象徴的意味を持って結合することをも禁止するものであることに留意しなければならない。これまで述べた宗教の本来的な内面性と,それに対する国家による侵害の容易性に照らせば,単なる国家と宗教との象徴的結合でさえ,国家が特定の宗教を特別視し,他の宗教に比して優遇しているとの印象を一般に与え,その結果,国家が特定の宗教への関心を呼び起こすような効果を惹起することになって,国家の宗教的中立性若しくはその外観を否定することになり,ひいては,その信仰者でない者をその共同体から疎外する結果となってしまうからである。 したがって,政教分離規定によって禁止される「宗教的活動」は,最高裁判例のいう目的効果基準によって絞りをかけられた狭いものではなく,宗教上の祝典,儀式,行事等を行うことなど,広く宗教行為そのものととらえるべきである。 b 本件各参拝が政教分離規定違反であること(a) 靖国神社の宗教性靖国神社は,その法人規則(昭和27年9月靖国神社規則)に明記された創設理念によれば,「本法人は明治天皇の宣らせ給うた『安国』の聖旨に基づき,国事に殉ぜられ こと(a) 靖国神社の宗教性靖国神社は,その法人規則(昭和27年9月靖国神社規則)に明記された創設理念によれば,「本法人は明治天皇の宣らせ給うた『安国』の聖旨に基づき,国事に殉ぜられた人々を奉斉し,神道の祭祀を行い,その神徳をひろめ,本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し,社会の福祉に寄与し,その他,本神社の目的を達成するための業務を行うことを目的とする。」と謳っており,それが特定の宗旨に基づく宗教施設であることは疑う余地がない。 そもそも「宗教」とは,「神または何らかの超越的絶対者,或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また,それらの連関的体系」(岩波書店「広辞苑」より)のことである。靖国神社は古来の神道を基盤としつつ,天皇の軍隊により殉死した軍人すべてを祭神として祀り,信仰する宗教そのものである。靖国神社の「非宗教論」は,池田権宮司の「靖国神社は,憲法にいう宗教ではない。日本人なら誰でも崇敬すべき“道”(道徳)である。靖国神社のこの本質と祭祀の内容は,戦前も戦後も,また将来,靖国法案が成立して国営化された後も変わらない。」という発言に象徴される。ここには,自らの宗教を絶対視して他に押しつけようとする排他的宗教観しかなく,そもそも戦没者の追悼がすぐれて個人の内面の問題であるにもかかわらずそれを公に強制するのが当然との誤った発想が内在している。 神社非宗教論は,神道の性格や日本における社会生活との関わりから主張されるものである。古代に成立したもともとの神道は,自然崇拝やアニミズムを特徴とするものであり,身近な自然物への畏敬の念を抱くものであって,地域の祭りや行事,祠など,その意味で日常生活の傍にあって多くの人々にとって習俗的にとらえられ得るものである。それとて宗教的意義の有無 とするものであり,身近な自然物への畏敬の念を抱くものであって,地域の祭りや行事,祠など,その意味で日常生活の傍にあって多くの人々にとって習俗的にとらえられ得るものである。それとて宗教的意義の有無については政教分離の趣旨から厳格にとらえられるべきものである。しかし,靖国神社は,これら古来の神道とは全く異質の国家神道に由来する信仰を有するものであって,いかなる意味でも習俗的存在とはいえないものである。 (b) 靖国神社が歴史的に果たしてきた役割靖国神社は,国家機関として,明治初期から太平洋戦争の敗戦に至るまでの七十数年にわたって,国家神道体制の中核に位置した。「神聖不可侵」「現人神」天皇制のもと,「天皇のために」戦没死・戦病死(以下,単に「戦死」という。)した人(戦没者)を「英霊」として祭祀・顕彰し,軍国主義の精神的支柱としての役割を果たしてきた。 戦前日本の軍国主義は,天皇の統帥権を嵩にきた軍部の専横のみで独り成立し得たのではない。「八紘一宇」に代表されるような独善と覇権の思想,「現人神」天皇制と国家神道のもとで培われた忠君愛国,滅私奉公等,近代の「自我」を排する当時の国民の道徳観・世界観が,その生成に大きな力を与えている。だが,このような国民の道徳観・世界観は,決して国民の側から自発的に生まれたものではない。学校を布教所とし,「教育勅語」を教典とする徹底した皇民化教育,国家神道の宗教教育によって国家が強制したものである。これら皇民化政策は,日本の植民地支配によって「帝国臣民」とさせられた植民地人民に対しては,「創氏改名」を始めとして,異民族性を徹底的に解体するなど,熾烈を極めたものであった。これを明確な死生観,宗教観念によって支えたのが,「天皇のために」戦死すれば神として祀る靖国神社であった。 戦没者の霊は,国家と靖国 して,異民族性を徹底的に解体するなど,熾烈を極めたものであった。これを明確な死生観,宗教観念によって支えたのが,「天皇のために」戦死すれば神として祀る靖国神社であった。 戦没者の霊は,国家と靖国神社が一方的に,遺族に何の断りもなく,靖国神社に合祀し,これを「英霊」(すぐれた人の霊魂-広辞苑第三版)として扱った。それによって,累々と続く戦死が正当化・美化された。靖国神社は,戦闘意欲旺盛な「帝国臣民」を無限に生み出す宗教的,思想的装置であった。戦争に駆り出された兵士に,戦死が犬死だとの疑念を挟ませず,その怨念を周到にも生前から鎮めるために,国家は皇国史観を教育し,靖国神社に祀られることがあたかも栄誉であるかのような意識を「帝国臣民」に植え付け,靖国信仰を強制していったのである。 このように,靖国神社は,軍国主義日本の象徴であり,植民地人民も含めて「帝国臣民」を戦争に向けて統合する精神的装置として,まさに「軍事施設」でもあった。靖国神社は,政治と宗教が結合したときの恐ろしさを如実に示している。 靖国神社は,わが国最初の本格的な対外戦争である日清・日露戦争を機に,戦没者の慰霊顕彰と天皇制帰依教化の施設としての機能をいかんなく発揮し,軍国主義の生成・発展についての最大の精神的支柱としての役割を果たした。 昭和6年の満州事変に引き続く日中戦争,更には昭和16年12月に始まる太平洋戦争による戦火の拡大に合わせて,靖国神社は連年戦没者を合祀して臨時大祭を執行した。そして,合祀された祭神たちは護国の英霊とされ,全国民は靖国神社への崇敬を義務付けられ,戦争完遂のために戦死者を正当化する宗教的あるいは思想的措置として極めて重要な役割を担った。 昭和21年,靖国神社は単立の宗教法人として運営されることとなった。しかし,天皇を「現人神」とする国家神道を志 遂のために戦死者を正当化する宗教的あるいは思想的措置として極めて重要な役割を担った。 昭和21年,靖国神社は単立の宗教法人として運営されることとなった。しかし,天皇を「現人神」とする国家神道を志向するその根本的性格は変わらなかった。靖国神社と天皇との結び付きは,戦後においても色濃く残され続けてきており,昭和27年以後も前後7回にわたって天皇参拝が繰り返されたが,これは天皇の参拝を最も重要なものとしてその祭祀の中心にとらえてきた靖国神社の本質が失われていないことを示すものである。 また,靖国神社はキリスト教などの遺族からの切実な合祀取下げ要求を頑として拒否し,その合祀事務は今日もなお国が協同して行っており,政教分離原則を踏みにじる靖国神社と国家のこのような結び付きは,戦後40年以上を経ても離れることのできないほど強固なものとして連綿として続いている。 以上のとおり,戦前は軍事宗教施設であった靖国神社は,戦後,憲法及び「神道指令」により,国家との結び付きを遮断された。しかし,靖国神社の国家護持あるいは公的復権を目指す動きは,執拗に続けられてきた。 (c) 本件各参拝が宗教的活動に当たること① 平成13年参拝では,被告小泉は,靖国神社に赴いて参集所で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し,続いて本殿に昇殿し,祭神の霊を祀った祭壇に黙祷した後,深く一拝した。昇殿に先立ち,同神社拝殿において,「献花内閣総理大臣小泉純一郎」という名入りの献花をし,献花料として3万円を支払った。このとき被告小泉は,靖国神社への往復に公用車を用い,飯島勲秘書官を随行させた。 かかる参拝行為は,「二拝二拍手一拝」という正式な神道方式によるものではないが,宗教的儀式の中心的場所である本殿において,祭神たる英霊に対して畏敬崇拝の心情を示す行為であり,それ自体宗教 行させた。 かかる参拝行為は,「二拝二拍手一拝」という正式な神道方式によるものではないが,宗教的儀式の中心的場所である本殿において,祭神たる英霊に対して畏敬崇拝の心情を示す行為であり,それ自体宗教的活動にほかならない。8月15日は終戦記念日であるが,靖国神社自身には特別の宗教的行事はない。しかしながら,昭和50年に三木武夫内閣総理大臣が参拝して以来,同日の参拝が注目を集めるようになり,「靖国神社こそ戦没者追悼の国家的施設」と自認する靖国神社にとって,その宗教的意義は重きをなすようになり,社会の批判によって内閣総理大臣の参拝がなされなくなると,それを強く非難するようにまでなった。したがって,被告小泉の終戦記念日に合わせた本参拝は,その外形,方式が宗教的活動となるにとどまらず,その時期においても重要な宗教的意義を持つものであったといえる。 平成14年参拝では,被告小泉は,拝殿にてお祓いを受けた後,同様に参拝を行った。このときも被告小泉は,公用車を用い,「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し,「内閣総理大臣小泉純一郎」と記載された名入りの献花をした。 この参拝は,靖国神社の宗教行事の一つである春季例大祭の前日の「清祓(きよはらい)」が行われる日であり,靖国神社側がその宗教行事に際して被告小泉が参拝したと認めており,本参拝も宗教的行事への参加という意味でより宗教的活動の意義を持つものといえる。 また,被告小泉は,平成14年参拝の後に靖国神社内で記者会見し,「心ならずも家族を残して戦争に赴き,命を捧げた御霊に敬意と感謝を捧げた。」と述べた。この姿勢は,この参拝もまた,靖国神社が布教・伝道する教義・信仰に沿った参拝であったことを示しており,例大祭という靖国神社の最も重要な儀式の期間中を特に選んで行われたことからして,靖国神社 と述べた。この姿勢は,この参拝もまた,靖国神社が布教・伝道する教義・信仰に沿った参拝であったことを示しており,例大祭という靖国神社の最も重要な儀式の期間中を特に選んで行われたことからして,靖国神社の宗教教義を十分に理解した上で,その宗教儀式に積極的に関与することにより,靖国神社の宗教を鼓舞し,これに権威を付与したといわなければならない。 したがって,政教分離規定が制度的保障のみならず人権保障と解する立場からは,当然に被告小泉の本件各参拝はいずれも同規定に反する「宗教的活動」に該当し,原告らに対する違憲の人権侵害行為になるというべきである。 ② 仮に,政教分離規定において禁止されている「宗教的活動」が目的効果基準によって判断されるとしても,本件各参拝は,被告小泉が,靖国神社の教義に基づいてその祭神たる天皇のために殉じた軍人等の英霊を畏敬崇拝することそのものを目的とした行為であり,その教義の特異性や政治目的などを論ずるまでもなくこれが宗教的意義を有することは自明のことである。また,本件各参拝が靖国神社の祭祀への国家的関与という政府及び靖国神社が長年追求してきた宗教的目的の実現を目指したものであることは,明らかである。そもそも被告小泉は,「首相になったら靖国神社の公式参拝を行う」などと公約して自民党総裁に当選して内閣総理大臣に就任したのであり,その後平成13年6月20日の党首討論でも「戦没者慰霊の中心施設は靖国神社だという人が多い。」と発言するなどしているので,同年8月13日の参拝時には,被告小泉は,「公的とか私的とか私はこだわらない。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した。」と語り,靖国神社公式参拝が憲法違反であることをつとに指摘されているもとでも公私の別を敢えて明らかにしなかった。これらの言動から,被告小泉の本件各参拝が 理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した。」と語り,靖国神社公式参拝が憲法違反であることをつとに指摘されているもとでも公私の別を敢えて明らかにしなかった。これらの言動から,被告小泉の本件各参拝が靖国神社の国家護持を指向しつつ公式参拝を強行したものであることは明らかである。靖国神社への参拝について,戦没者を追悼するのは自然の感情であり,宗教的意義を有するものではないとの論調があり,被告小泉もかかる言明をしている。しかし,前述したように,靖国神社は一般的な戦没者の追悼施設ではなく,あくまでも天皇の軍隊のために殉じた軍人軍属,準軍属等を祀ることだけが目的であって,例えば西南戦争における賊軍の死者,15年戦争でアジアに及ぼした2000万人の犠牲者と一般日本国民の死者らは,いずれも天皇のために死んだものではなく,祭祀の対象となっていないのである。このような特定のイデオロギーに殉じた者だけを追悼するのが,国家として戦没者を追悼する一般的な感情とはいい難いことはあまりにも明らかである。このように,本件各参拝は,単なる戦死者追悼の習俗的行為や社会的儀礼の範疇にはおよそとどまらない特定の宗教法人たる靖国神社に係る宗教的意義を持った行為であることは明らかである。 また,本件各参拝がもたらした効果についてみると,靖国神社は国家護持をそもそもの目的としており,内閣総理大臣が公式参拝することはその目的そのものの実現に直接寄与するものであるから,その援助助長となることは明らかである。また,国は,本来戦没者のプライバシーに係る情報に関し,戦没者遺族らの同意もないまま,靖国神社がそれら戦没者を祭神として合祀する手続に協力する目的で,都道府県に対して戦没者身上事項の調査,合祀通知状の交付等について靖国神社に協力するよう通知するなどしてきたところ,更なる靖国神社への 靖国神社がそれら戦没者を祭神として合祀する手続に協力する目的で,都道府県に対して戦没者身上事項の調査,合祀通知状の交付等について靖国神社に協力するよう通知するなどしてきたところ,更なる靖国神社への公式参拝により,同神社への援助助長はより甚だしいものになるというべきである。とりわけ,平成13年参拝は,靖国神社にとってその影響力を高める絶大な効果をもたらした。すなわち,被告小泉が靖国神社に参拝した2日後の終戦記念日である同年8月15日には,参拝者は前年の2倍強の約12万5000人にも上った。また,そればかりか靖国神社自身が,「…ふだん意識的に靖国神社に関する報道を避けてきた嫌いのあるマスコミ各社が今回ばかりは一斉に取り上げ,首相参拝の是非論のみならず,靖国神社創建以来の歴史にまで遡って解説する特集記事や特別番組等が競って組まれた。こうした影響を受けてか靖国神社への国民の関心も日に日に高まり,当神社のインターネットホームページへのアクセス件数も6月が1万4000件,7月は4万8000件,8月には19万3000件に急増した」と自慢げに報じている(「やすくに」平成12年10月号)とおり,多方面での宣伝効果をもたらしたのである。まさに,靖国神社がその祭神の「神徳をひろめ」「教化育成」する目的に多大な貢献となったのである。他方で,本件各参拝は,靖国神社を信奉しない他の宗教者や無宗教者らに対して大変な衝撃を与え,その宗教的自由への重大な脅威となったのであり,これらの者に対する重大な圧迫,干渉の効果をもたらしている。 以上によれば,目的効果基準によっても,被告小泉による本件各参拝は,いずれもその目的が宗教的意義を持ち,その効果が特定の宗教に対する援助,助長,促進になる行為と評価するほかない。そして,これによってもたらされる被告国と靖国神社の関わり合 告小泉による本件各参拝は,いずれもその目的が宗教的意義を持ち,その効果が特定の宗教に対する援助,助長,促進になる行為と評価するほかない。そして,これによってもたらされる被告国と靖国神社の関わり合いが社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって,憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たることは明らかである。 c 原告らに対する権利侵害(a) 本件各参拝は,政教分離規定違反として違憲であり,同規定が制度的保障のみならず個人の人権をも保障している以上,原告らが国に対して政教分離を厳格に求める法的権利を侵害されたというべきである。 (b) 仮に,政教分離規定が制度的保障にすぎないとしても,違憲の本件各参拝行為によって,原告ら個人の精神的苦痛を著しく増大させたのであり,その人格的利益を侵害する不法行為になるというべきである。被告小泉は,過去に司法の場においても,社会的にもその問題点が幾度となく指摘されてきたにもかかわらず,本件各参拝を強行したのであり,無断で合祀の対象とされている沖縄戦戦没者の遺族らの無念の感情を一顧だにしないその姿勢,態度などを合わせ考慮すれば,本件各参拝行為を違法というべきは当然である。 (イ) 信教の自由の侵害a 信教の自由の意義憲法20条1項,2項にいう信教の自由は,近代における人間の精神的自由確立の先駆をなし,かつその核心をなすものであって,近代憲法史における自由権保障の根幹をなすものとして形成されてきたものである。信教の自由は,具体的には,①内心における信仰の自由(積極的信仰の自由,消極的信仰の自由と,積極的信仰告白の自由,消極的信仰告白の自由),②宗教的行為の自由(積極的宗教的行為の自由,消極的宗教的行為の自由),③宗教的結社の自由(積極的宗教的結社の自由,消 信仰の自由,消極的信仰の自由と,積極的信仰告白の自由,消極的信仰告白の自由),②宗教的行為の自由(積極的宗教的行為の自由,消極的宗教的行為の自由),③宗教的結社の自由(積極的宗教的結社の自由,消極的宗教的結社の自由)が含まれるとされるが,本件各参拝においては,内心における信仰の自由への侵害があったか否かが問題となる。 b 信教の自由に対する侵害の意味今日における信教の自由の侵害は,江戸幕府のキリシタン弾圧や戦前の治安維持法による暴力による苛烈な宗教弾圧のような露骨な形態では現れにくくなっている。むしろ,昭和天皇死亡に関わる社会全般を覆い尽くした「自粛」現象,大喪の礼に際しては,あたかも歌舞音曲禁止令が布かれたかのように野外音楽堂の使用が拒否されたような事態が,今日の信教の自由への侵害のあり方である。我が国における信教の自由への侵害が,天皇教とでも呼ぶべき国家神道を強制することによってなされてきた歴史からすれば,これらの事態は,単なる社会的現象としてとらえるべきものではない。戦後靖国神社の復権と国家護持の運動,これに呼応する歴代総理大臣の公式参拝などの政治権力による既成事実の積み重ねによる天皇教もしくは国家神道の復活を目指してきた長年の行為によって生じたものである。したがって,今日においては,単に物理的強制による侵害のみならず,心理的・精神的強制による信教の自由の侵害からも保護を図らなければ,個人の信教の自由は維持され得ないというべきである。 もっとも,内心的信仰の自由への侵害が物理的強制のみならず,心理的・精神的強制にまで及ぶと解した場合には,人権侵害となる行為とそうでない行為との区別が問題となるが,具体的に信教の自由への侵害となるか否かについては,その侵害行為を行う者の立場や行為の態様,性質,意図から,他者へ及ぼす影響の程 た場合には,人権侵害となる行為とそうでない行為との区別が問題となるが,具体的に信教の自由への侵害となるか否かについては,その侵害行為を行う者の立場や行為の態様,性質,意図から,他者へ及ぼす影響の程度を考慮し,他方でそれを受ける相手方との関係,相手方自身の立場,属性などを検討することによって,その相手方に対して許容し得ない程度の侵害行為となっているかどうかを判断すればよい。その際,特に国家機関が行う心理的・精神的強制については,憲法が厳格な政教分離規定を定めていることからすれば,私人間の場合と異なり,その行う侵害行為については厳格に判断すべきである。 c 本件各参拝が原告らの信教の自由を侵害すること被告小泉による本件各参拝は,確かに,原告ら個人に対して直接その内心的信仰の自由を妨げる行為をしたものではない。 しかし,本件各参拝は,政教分離の義務を課されている国家機関である内閣総理大臣によってなされたものであって,私人間における信教の自由相互の対立が生じるものではないこと,参拝の対象がかつて国家神道の中核として信仰の自由を踏みにじった靖国神社であること,参拝自体がこれまで政治的・社会的批判が強くされていたにもかかわらず敢えて行われたこと,被告小泉に靖国神社の国家護持に向けた政治的意図が存したこと,これに対して原告らは後記のとおり,戦没者の遺族である者と,そうでない者とがいるが,いずれも戦没者をどう追悼するかという個人の内面奥深くに関わる内心的信仰に強い圧迫を受けたことなどからすれば,本件各参拝は,原告らに対して物理的強制を加えたものでないとしても,なお,原告らの内面的信仰の自由を侵害したというべきである。 (ウ) 宗教的人格権の侵害a 宗教的人格権の意義宗教的人格権は,「日常の市民生活において平穏かつ円満な宗教的生活 としても,なお,原告らの内面的信仰の自由を侵害したというべきである。 (ウ) 宗教的人格権の侵害a 宗教的人格権の意義宗教的人格権は,「日常の市民生活において平穏かつ円満な宗教的生活を享受する権利」と定義され得る。ここにいう「宗教的生活」には,「特定の宗教を信仰し,これに則る生活」のみならず「無宗教ないし無信仰という生活(非宗教的生活)」も当然に含まれる。これは,従来の信教の自由が前記のとおり,個人の信仰そのものや信仰に基づく行為に対する直接の侵害に対する保護を対象としていたのに対し,その保護の縁辺を拡大するものということができる。 自衛官合祀訴訟において,山口地方裁判所昭和54年3月22日判決は,これを「人が自己もしくは親しい者の死について他人から干渉を受けない静謐の中で宗教上の感情と思考を巡らせ,行為をなすことの利益を宗教上の人格権の一内容としてとらえることができる」として承認した。これに対し,自衛官合祀最高裁判決は,「かかる宗教上の感情を被侵害利益として,直ちに損害賠償を請求し,又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば,かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは,見易いところである。信教の自由の保障は,何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して,それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。」として,これを否定した。しかし,宗教的人格権を認めれば,宗教行為の自由,特に祀る自由が損なわれるという理由については,人権同士が対立する局面において相互の調整が必要となることは当然であって,そのことを人権性を否定する根拠とはなし得ない。重要なのは,宗教的人格権が,人間の本質的な自 損なわれるという理由については,人権同士が対立する局面において相互の調整が必要となることは当然であって,そのことを人権性を否定する根拠とはなし得ない。重要なのは,宗教的人格権が,人間の本質的な自由,尊厳を支える否定し難い権利かどうかである。 この点,平野武教授は,その現代的意義について,「常識的にいって,個人が国家の管理や干渉から自由に,それぞれの思いと感情のもとに信仰生活を送ること,とくに自己の死の意味について考え,永遠なるものについて思索し,また,肉親の死をどのように宗教的に位置付けるかについて思い巡らすことを否定すべきであろうか。自己の死や肉親の死をどのように受けとめ,信仰や精神生活の中でどのように位置付けるかは,その人にとってその後の生き方にもかかわる重大な意味を持つ。そのような死や永遠なるものに対する感情は十分に尊重されるべきであり,法的な保護を考えてしかるべきであろう。さらに,各人が,自己の信仰,信心,信念に従って生きることは,個人の尊重,個人の尊厳を基調とする憲法のもとで最大限に尊重されるべきものであるといえる。個人の尊厳は自立と自律に求められる。自立・自律した個人によって組織される社会こそ憲法が前提にするものと考えられるが,そのような個人の自立・自律を支えるものとして,独立した個人の道徳基礎として,信教の自由,精神生活の自由は拡充されるべきであろう。また,今日,多様な宗教が共存し,個人の価値観も多様化し,多元的な信仰形態が広がっている現実を考えても,従来の信教の自由を超えた新たな展開,いわば現代的展開を考えるべきであるように思われる。」と述べているが,ここでは,まさに現代社会において,狭い意味での信教の自由にとどまらず,自らやその家族の死生観を中心とした宗教的生活の自由が,個人の極めて重要な私事事項であって,その自 に思われる。」と述べているが,ここでは,まさに現代社会において,狭い意味での信教の自由にとどまらず,自らやその家族の死生観を中心とした宗教的生活の自由が,個人の極めて重要な私事事項であって,その自立・自律のために不可欠のものであることが明らかにされており,そこに宗教的人格権の存在意義があるというべきである。 仮に,宗教的人格権が信教の自由の一角を占める人権とまで認められないとしても,その法的保護の必要性が高いことは,より広汎に認められるところである。自衛官合祀最高裁判決における伊藤正己裁判官の反対意見は,宗教的人格権=宗教プライバシー権について,「このような心の静謐は,人格権の一つということはできないわけではないが,まだ利益として十分強固なものといえず,信仰を理由に不利益を課したり,特定の宗教を強制したりすることによって侵される信教の自由に比して,なお法的利益としての保護の程度が低いことは認めざるをえないであろう。 しかし,そうであるからといって,宗教的な心の静謐が不法行為における法的利益に当たることを否定する根拠となりえないことはいうまでもない。」と不法行為成立の可能性を指摘している。 したがって,原告らが主張している宗教的人格権は,人権として,また仮にそうでなくとも,十分な法的保護の対象となるものというべきである。 b 本件各参拝による宗教的人格権の侵害被告小泉による本件各参拝は,原告ら,なかんずく靖国神社に家族に無断で合祀されている戦没者遺族らに対して,国家神道によって精神的な圧迫,干渉を受けずに平穏かつ円満な宗教的生活を送ることを妨げる結果となり,原告らに対してそれぞれの宗教的生活を踏みにじり,屈辱,不安,恐怖を与えたものであって,その宗教的人格権を侵害したというべきである。 (エ) 平和的生存権の侵害a とを妨げる結果となり,原告らに対してそれぞれの宗教的生活を踏みにじり,屈辱,不安,恐怖を与えたものであって,その宗教的人格権を侵害したというべきである。 (エ) 平和的生存権の侵害a 平和的生存権の意義憲法は,戦前の日本が,個人を国家に直結して支配管理するファシズム体制により,靖国神社を中核とする国家神道の下で,個人の生命・自由・権利を国家において一元的に支配管理して,第二次大戦に突入し,日本とアジア各国で,数百万,数千万人の無辜の市民の命を奪ったことへの深い反省を踏まえて成立したものである。その反省を踏まえ,憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」し,「全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免れ,平和のうちに生存する権利」,すなわち平和的生存権が存することを宣言し,憲法9条がそれを具体化したといえる。 この,平和的生存権については,抽象的概念であって具体的な人権としてとらえることは不可能であると批判がなされている。しかし,平和的生存権は,まず第1に「平和のうちに文字通り生存する権利」それ自体をさすものととらえることができ,第2に,より広く「戦争の脅威と軍隊の強制から免れて平和のうちに諸々の人権を享受しうる権利」ということができる。この広義の平和的生存権は,軍事目的のために個人の自由や財産などを剥奪・制限されない権利ということであり,例えば,軍事情報の開示を求め,かつその取材・報道の自由を完全ならしめるためには,表現の自由のみならず平和的生存権こそが重要な意義を持つことになるのである。 b 平和的生存権の侵害そして,前記のような靖国神社の成立の歴史的経緯と戦後のあり方と,その国家護持を目指す政府と靖国神社双方の経過を踏まえるならば,被告小泉の本件各参拝は,まさしく靖国 b 平和的生存権の侵害そして,前記のような靖国神社の成立の歴史的経緯と戦後のあり方と,その国家護持を目指す政府と靖国神社双方の経過を踏まえるならば,被告小泉の本件各参拝は,まさしく靖国神社及びそれが体現している尽忠報国,英霊顕彰という戦前の全体主義的な政治的象徴を承認し,称揚し,鼓舞しているものであり,明白に憲法の平和主義,戦争放棄の大原則に違反するといえる。これによって,原告らに忌まわしい戦争を再体験,想起させ恐怖,不安をもたらしているのであって,国家による戦争の脅威から免れて平和のうちに生活をすることが妨げられたのであるから,その平和的生存権を侵害しているというべきである。 (オ) 原告ら各自の被侵害権利ないし利益原告ら各自の被侵害権利ないし利益の内容は,次のとおりである。 a 沖縄戦戦没者遺族及び沖縄出身者である原告ら原告A,原告B,原告C,原告D,原告E,原告F及び原告Gは,いずれも沖縄戦において親族を失った者らである。 (a) 本件訴訟において,上記原告らが主張する最も主要な原告らの被侵害権利ないし利益は,沖縄戦において,戦争の被害者として無念の死を遂げた者を国に殉じた英霊として靖国神社に合祀されてしまったことに対する許し難い苦痛であり,合祀手続に積極的に協力した国,更にはこれを積極的に擁護し,正当化する目的で強行される内閣総理大臣である被告小泉の本件各参拝に対する許し難い怒りである。 戦没者の合祀は,遺族の意思とは無関係に,政府,都道府県,靖国神社,三者の共同行為によって行われ,そこには,当事者の意思は無視されている。沖縄戦における合祀者には,多くの非軍人軍属が含まれており,靖国合祀者名簿には,「陸軍軍属無給戦闘協力者」として「戦闘参加者」が「準軍属」として合祀されているが,当該合祀は,個 思は無視されている。沖縄戦における合祀者には,多くの非軍人軍属が含まれており,靖国合祀者名簿には,「陸軍軍属無給戦闘協力者」として「戦闘参加者」が「準軍属」として合祀されているが,当該合祀は,個々の遺族が靖国神社に合祀を依頼したものではなく,厚生省引揚局の通達により都道府県に対して,祭神名簿が作成できるような戦没者の身上事項の記載された原簿を作成させ,これを靖国神社に提供し,合祀を行わせたものである。 そして,そのうち準軍属として合祀されてしまった者は,戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)に基づいて,戦闘参加者として届け出,援護年金の受給を受けた者らである。援護法は,軍人・軍属及び準軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人・軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的とした法律であり,軍人や軍属として戦争により亡くなったり,けがや疾病などで障害の身となった者らを対象に,その本人や遺族に対して国が経済的・精神的補償を行うものである。すなわち,援護法は,軍人・軍属又は準軍属という国家と特別の雇用又は雇用類似の関係にあった者が戦争公務等により受傷,罹病し,これにより障害の状態となり又は死亡した場合に,国が使用者としての立場から国家補償の精神に基づいて障害者本人に障害年金の支給を,死亡者の遺族に遺族年金及び弔慰金の支給をすることをその内容としている。その適用対象者には,軍人・軍属の外,準軍属が含まれる。準軍属とは,法令又は命令等により軍人又は軍属の行う業務の補完的業務に従事した者であり,これには,戦闘参加者も含まれるところ,沖縄戦では,この戦闘参加者に,①皇軍により壕から追い出され,死亡した住民,②皇軍により食料を強奪され,食料収集のため死亡した住民,③皇軍により,集団死を強要 これには,戦闘参加者も含まれるところ,沖縄戦では,この戦闘参加者に,①皇軍により壕から追い出され,死亡した住民,②皇軍により食料を強奪され,食料収集のため死亡した住民,③皇軍により,集団死を強要された者,④皇軍からスパイ嫌疑をかけられ惨殺された者までもが含まれている。これらの行為による死亡は,如何なる理屈を述べようとも,日本軍による犯罪行為による死であり,住民は皇軍の犯罪行為による被害者である。ところが,戦傷病者戦没者遺族等援護法は,これらの者を「皇軍の要請により軍事行動中の住民としての戦闘参加者」であるとして「準軍属」として取り扱うというのである。沖縄戦の被害者である住民を加害者である日本軍に取り込むことは到底許されないのであり,死者に対する冒涜にほかならない。 沖縄戦は,天皇制国体護持及び「本土」防衛のための捨て石作戦であった。沖縄住民を犠牲にし,捨て石作戦に駆り立てたのは,「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話しは難しいと思う。」との天皇の言葉であり,これにより悲惨な敗戦へと突き進んでいったのである。天皇制存続を展望できる“敗戦の条件”作りを至上目的とし,そのための時間稼ぎと連合国(とりわけ米国)側の“容認”を引き出すことのできるような作戦―戦果こそが必要であった。沖縄戦は,「天皇制存続のための捨て石」であり,天皇制存続のための時間稼ぎ作戦であり,かつ「玉砕は不可避」と考えられた作戦であった。渡辺軍司令官は,非戦闘員の安全対策に取り組むより,むしろ,軍民共生共死の考えを鼓吹し,敵が上陸したら「住民は軍隊とともに玉砕するのだ。」と公言していた。沖縄守備軍の作戦計画は,防衛軍の不足を地元住民で穴埋めするというものであった。法令的根拠がないにもかかわらず,昭和20年2月中旬には地元住民の中から17才以上45才までの男子を防衛召集 言していた。沖縄守備軍の作戦計画は,防衛軍の不足を地元住民で穴埋めするというものであった。法令的根拠がないにもかかわらず,昭和20年2月中旬には地元住民の中から17才以上45才までの男子を防衛召集していくつかの戦闘部隊に配備し,同年3月には,沖縄県下の男女中学校の職員生徒まで動員し,男子生徒には各学校ごとに鉄血勤皇隊を組織させ,銃を取らせて戦場に投入した。女子生徒には速成の看護訓練を施しただけで看護要員として従軍させた。戦争の何たるかさえも知らない若い学徒を戦場に送り込んだのである。援護法は,これらの者を準軍属として扱い,補償の対象とした。戦闘参加者・準軍属については軍人の如く軍籍簿がないことから,遺族からの申告に委ねられた。申請は,各市町村を通じて琉球政府社会局援護課に送られ,そこから那覇日本政府南方連絡事務所事務所長,引揚援護局業務第2課長に送られ,戦闘参加者の認定の有無が判断された。戦闘参加者該当者については,戦闘参加者確定名簿が作成されたが,戦闘協力内容が消極的であると戦闘参加者として認定されず,積極的戦闘協力であることが要求された。沖縄戦の被害者でありながら,「積極的戦闘協力」を自己申告し,これを証明することが求められたのである。沖縄住民は,「国家賠償」を求める意思で援護法の適用による補償を求めたのである。前記のとおり,スパイ嫌疑による虐殺強制された集団死等,皇軍による死の強要を,沖縄県民は当然のこととして受け入れ,天皇制護持の捨て石として自ら犠牲となったものではない。沖縄県民は,死を強要されたものであり,皇軍により虐殺されたものである。ところが援護法はその適用において,その要件として積極的戦闘協力を求め,被害者であるべき沖縄県民を虐殺者である皇軍と同じ立場に立つことを強制したのである。さらに,戦闘参加者として準軍属として である。ところが援護法はその適用において,その要件として積極的戦闘協力を求め,被害者であるべき沖縄県民を虐殺者である皇軍と同じ立場に立つことを強制したのである。さらに,戦闘参加者として準軍属として扱われた者は,戦闘参加者名簿が作成され,これが靖国神社に報告され合祀の上,祭神名簿として作成されることになる。戦争被害補償を求める住民の心を逆手に取って,被害者であるにもかかわらず,積極的戦闘参加の事実を申し述べさせ,さらには,遺族の意思を無視して靖国神社に名簿を送り,合祀を行わせたのである。 また,靖国神社は,沖縄の住民の生命を蹂躙する行為を行った者らを「英霊」とするものであり,沖縄にとって,到底許されざる存在である。そのような場に,戦争被害者たる住民が,戦争加害者と共に合祀され祭神とされることは,到底許し難く受け入れられない行為である。 (b) 原告Aについて。 原告Aは,渡嘉敷島において,父50才代,母40才代,妹9才,弟6才を「集団自決」で失っている。この死は,皇軍により強制された「集団死」である。原告Aは,著書「集団自決を心に刻んで」の中で次の趣旨の記述をしている。「渡嘉敷島の『集団自決』は1945年3月28日,米軍上陸の翌日に発生した。その1週間前に,軍は兵器軍曹を通じて村役場の男子職員や青年たちに手榴弾を配り,『1個は敵に投げ込み,1個で自決しなさい。』と指示を与えていた。敵軍との戦闘状態にはいることが必至であることを想定しながら,非戦闘員に重要な武器を配ったのは,軍との『共死』を強制したということだ。村の青壮年と防衛隊員に配られた手榴弾が,一個ずつ手渡され,その周りに家族・親戚が10人,20人と群がりました。私どもの家族には手榴弾はありませんでした。炸裂音とともに悲鳴があがります。しかし手榴弾は,栓を抜いて発火させようと試み 榴弾が,一個ずつ手渡され,その周りに家族・親戚が10人,20人と群がりました。私どもの家族には手榴弾はありませんでした。炸裂音とともに悲鳴があがります。しかし手榴弾は,栓を抜いて発火させようと試みても,操作ミスも手伝って多くが不発に終わりました。したがって,手榴弾による死傷者は少数にとどまったのです。そのことが,逆により恐ろしい惨事を招く結果になろうとは,誰が想像し得たでしょう。その後は混乱状態に陥りました。迫撃砲の至近弾に弾き飛ばされ,私は自分の死を誤認してしまいましたが,体の一部をつねってみてまだ生きている自分を確認します。“死”に取りつかれた異常心理と混乱の中で,人々は右往左往しました。その時,多くの人々は他の場所へ避難したようですが,私どもはそのことを全く知りませんでした。どれほど時間がたったかわかりません。 突然,私の目に一つの異様な光景が飛び込んできました。一人の中年の男性が,一本の小木をへし折っているのです。私は,いぶかりながら目を凝らしました。男性はついに小木をへし折りました。そしてその小木が彼の手に握られるや否や,それは“凶器”へと変わったのです。彼は,自分の愛する妻子を狂ったように殴殺し始めました。この世で目撃したことのない,いや想像したことさえない惨劇が,私の眼前に出現したのです。以心伝心で,私ども住民は,愛する肉親に手を掛けていきました。地獄絵さながらの阿鼻地獄が展開していったのです。剃刀や鎌で頸動脈や手首を切ったり,紐で首を締めたり,棍棒や石で頭部を叩くなど,戦慄すべきさまざまな方法が取られました。母親に手をかした時,私は悲痛のあまり号泣しました。私たちは『生き残る』ことが恐ろしかったのです。わが家は両親弟妹の4人が命を断ちました。私はその時,16歳と1カ月で,多感な少年でした。 人間は死の恐怖に直面した時,“ 私は悲痛のあまり号泣しました。私たちは『生き残る』ことが恐ろしかったのです。わが家は両親弟妹の4人が命を断ちました。私はその時,16歳と1カ月で,多感な少年でした。 人間は死の恐怖に直面した時,“生きたい”という生への本能的欲求が強烈に働きます。しかし,生がより恐ろしい容貌を帯びて来る時,死に救いを求めるものです。キェルケーゴールが,『死にいたる病』の中で語っている次の言葉を想い起こします。『死が最大の危険であるときには,ひとは生きることをこいねがう,しかし,さらに怖るべき危険を学び知るとき,ひとは死を願う。』。混乱と絶望の中にも,幼い者・女性・老人など,自らは死ねない弱い者,幼い者の命を先に処理してから,男たちは死んで行く,という手順があったように思います。決して,われ先に死に赴く男性は,一人もおりませんでした。愛する者を放置しておくということは,彼らを,最も恐れていた『鬼畜米英』の手に委ねて惨殺させることを意味したからです。『集団自決』が進行するにつれ,『生き残る』ことへの恐怖心と焦燥感のボルテージが,極度に高まってくるのを強烈に感じました。『生き残ったらどうしよう』と“共死”の定めから取り残されることへの恐怖は頂点に達しました。私どもは死の虜になってしまっていたのです。当時の『教育』の凄まじさに身震いがします。こうして315名の村民が残酷な死を遂げました。阿波連の人口の3分の2が失われました。『集団自決』を遂げた住民の遺体は塁をなし,流された血は小川を真っ赤に染め,その色は幾日も消えませんでした。」原告Aの父母弟妹は,靖国神社に合祀され,国事に殉じたものとされ,父母に集団死を強制し命じた者らと共に合祀されている。天皇制護持のための捨て石として行われた沖縄戦において,原告Aは,父母妹弟と共に「集団死」を強制され,生き残ったので れ,国事に殉じたものとされ,父母に集団死を強制し命じた者らと共に合祀されている。天皇制護持のための捨て石として行われた沖縄戦において,原告Aは,父母妹弟と共に「集団死」を強制され,生き残ったのである。 原告Aは,キリスト者であり,靖国神社における合祀は,宗教的信条にも反する行為である。靖国神社による合祀は,単に家族をいかに祀るかという信条に止まらず,戦争被害者である亡き家族を,特定の宗教観,国家観によって取り込み,戦争被害者に,戦争協力者としての評価を与えるものであり,このことによって原告Aの被る苦痛は耐え難いものである。 被告小泉の公式参拝行為は,国による不当な合祀協力行為によってなされた靖国神社の合祀を追認し,これに賛意を与え,助力するものであり,合祀を拒否する遺族に対する許し難い行為であり,その被る精神的苦痛は,回復し難いものである。 (c) 原告Bについて原告Bは,沖縄戦当時6歳であった。家族は,父母,姉3人,妹1人,弟1人の8人家族であったが,生き残ったのは姉2人(10歳,9歳),原告B(6歳),弟(4歳)の4人の子どもだけであった。原告Bは,その戦争体験について,要旨,次のように陳述している。「父は,退役して役所で働きながら農業もしていたが,沖縄戦末期の10・10空襲の直前になって再び召集され,小禄の海軍に入れられた。父は,10・10空襲の後,一度家に帰ってきた。家族の様子を見に来たのである。数時間家にいただけで,そのまま軍隊に帰っていったが,父は帰っていくとき,姿が見えなくなるまで,最後まで手を振っていた。おそらく,もうこれで会えないと思っていたのだろうと思われ,父の手を振る姿は,今も忘れられない。 父を見た最後の姿であった。裏の山まで米軍が迫っているという話から,逃げまどう生活が始まった。家族7人と,叔 く,もうこれで会えないと思っていたのだろうと思われ,父の手を振る姿は,今も忘れられない。 父を見た最後の姿であった。裏の山まで米軍が迫っているという話から,逃げまどう生活が始まった。家族7人と,叔父の家族4人,叔母の家族4人の合計15人で,南へ,南へと逃げて行った。状況はどんどん悪くなり,与那原では,墓に入って隠れていたこともあった。夜移動して,昼間は,隠れているという状況で,与那原から大里,東風平,さらに糸満大渡に逃げて行った。その間,同行した人達は一人一人と死んでゆき,残った者だけで逃げたが,最後まで生き残ったのは,子どもたちだけになってしまった。長姉は,こめかみに小さな破片が当たり,静かに血を流し,埋葬する際には,まだ息をしていたと聞いている。叔父の子は6歳であったが,母親(叔父の妻)の止めるのも聞かずにトイレに飛び出して砲弾に直撃され不明になった。母親(叔父の妻)もその時,爆弾の破片を受けて死亡した。逃げる途中で,戦闘機に機銃掃射をされたこともあった。ある真っ暗な夜,糸満の大渡に隠れていた時,目の前で爆発があった。光と爆音の中で,痛みも何も感じないので,死んだと思った。当時,6歳の子どもなのに,死もいいものだと思った。その爆発で,叔父らが所在不明になった。原告Bの姉2名,自分,弟の4名と,従兄弟4名,隣家の4名の合計12名の子どもたちだけが助かった。その後,玉城百名に連れて行かれ,孤児院に入れられたが,戦争が終わったことは知らなかった。」わずか6才の子どもから父母を奪った沖縄戦を正当化し,美化する行為は到底許されず,受け入れ難い行為である。 (d) 原告Cについて。 原告Cは,沖縄戦の当時は10歳で,国民学校の3年生であった。家族は,父,母,祖母,兄,姉,原告Cの6人家族であったが,母,祖母,兄の3人が沖縄戦で 為である。 (d) 原告Cについて。 原告Cは,沖縄戦の当時は10歳で,国民学校の3年生であった。家族は,父,母,祖母,兄,姉,原告Cの6人家族であったが,母,祖母,兄の3人が沖縄戦で死亡した。 すなわち,昭和19年12月に学校が野戦病院に接収され,さらに,これに止まらず民家まで接収され,原告Cは,昭和20年3月24日に,米軍艦からの艦砲射撃が始まる少し前に,家を離れて壕に避難した。そのうち,壕の前を敗残兵が通るようになり,壕の入り口に砲弾が飛んできて避難民が死亡する事態が生じるようになり,この場所では危ないので,更に山の上の壕に移ることになった。祖母は,84歳の高齢で山を登ることはできないので,元の壕に食料を置いて残した。祖母と会ったのは,これが最後であった。父母が,元の壕に食料などを取りに行った際,壕の入り口近くに砲弾が落ち,母はこれにより死亡した。父は,倒れている母の姿を見たが,片付けることもできず,遺体はそのままにせざるを得なかった。結局,壕で生き延びたのは,原告Cと,父と姉との3名だけであった。母も亡くなり,姉は,14歳から,母代わりで家事を切り盛りし,学校にもほとんど行けなかった。 戦争は原告Cの家族の生活をことごとく破壊し,人生も大きく変えてしまった。原告Cにとって,親兄弟は,天皇のためや,国のために死んだのではなく,天皇や,国のために殺されものである。 被告小泉の靖国参拝は,戦争被害者である原告Cの母,祖母,兄をあたかも戦争協力者であるかのように扱い,国民や,その遺族である同原告に,これを押しつけるものであって許されざる行為である。 (e) このように,沖縄戦犠牲者の遺族は,戦闘協力者としてではなく,天皇及び天皇制軍隊によって死を強要されたものであり,「天皇制護持のための捨て石」として虐殺された されざる行為である。 (e) このように,沖縄戦犠牲者の遺族は,戦闘協力者としてではなく,天皇及び天皇制軍隊によって死を強要されたものであり,「天皇制護持のための捨て石」として虐殺されたものである。沖縄は,戦後も「天皇メッセージ」により米軍事支配に売り渡され,長期にわたる過酷な異民族支配を受けることとなった。その原因は,天皇制であり,天皇の軍隊であり,死を強要する軍隊と戦争である。沖縄民衆を避難壕から追い出し,集団死を強要し,食料を強奪し,更にはスパイの嫌疑をかけて住民を虐殺した天皇の軍隊を,国を護る「英霊」として祀り,日本政府の内閣総理大臣が,かような者らに対して頭をたれ,感謝の意を表すことは到底許されざる行為である。 肉親の死に対してその遺族がどのように悲しむかは,国家が干渉すべきでない個人的な事柄であって,これは,憲法19条により保障された思想信条の自由であり,同法13条により保障されたプライバシー権である。死を管理することは,実は生を管理することであり,死者を管理することは,生者を管理することでもある。肉親の死の意味付けを遺族に対して他者が干渉・介入することは,生者である遺族の遺族感情という思想信条及びプライバシーの領域を侵害するものであり,これが公権力ないし公権力を背景に持つ公人によってなされた場合には,憲法で保障された思想信条の自由及びプライバシー権の侵害となる。靖国神社は,戦没者を祭神に奉斎し,英霊と讃えて慰霊顕彰している特定の宗教施設である。内閣総理大臣である被告小泉による本件各参拝は,被告国が戦没者を英霊として慰霊顕彰する靖国神社の特殊な信仰・思想を援助・助長・促進したものであり,その結果必然的に,戦没者遺族原告らの有する思想信条及び信仰に対する圧迫・干渉をもたらす行為となっている。また,内閣総理大臣たる 顕彰する靖国神社の特殊な信仰・思想を援助・助長・促進したものであり,その結果必然的に,戦没者遺族原告らの有する思想信条及び信仰に対する圧迫・干渉をもたらす行為となっている。また,内閣総理大臣たる被告小泉が,平和主義を基本原理とする憲法の下において,帝国憲法下での天皇制,天皇制の軍隊による沖縄に対する犯罪行為を,これらの行為者に対して国を護る「英霊」として正当化し,頭をたれ,感謝の意を表す行為を行うことは,国家の行為として,特定の思想信条,宗教観を,国民,とりわけ沖縄県民に強要するものである。そのため,沖縄戦戦没者遺族及び沖縄出身者である原告らは,各自が肉親の死について,それぞれの価値観に従って戦没者への思いを巡らせる自由を直接的に侵害され,もって,精神的な苦痛を被ったのである。 b 沖縄戦以外における遺族の被侵害利益原告H,原告I,原告J,原告K,原告L,原告M及び原告Nは,いずれも沖縄戦以外で親族を亡くした遺族である。 靖国神社は,三光作戦(殺光=殺し尽くす,槍光=奪い尽くす,焼光=焼き尽くす)と呼ばれる非人道的掃討,粛正作戦によって中国民衆を殺害し,アジア民衆を殺害した戦争を賛美し,侵略戦争に狩り出され亡くなった民衆を,天皇に殉じた者として取り込むものであり,これは,遺族に対する宗教的観点に止まらず,その思想信条の自由を侵害する極めて違法性の高い行為である。かような合祀行為は,一宗教団体の行為として行われたに止まらず,憲法下において,被告国の行為と協力に基づいて行われたのであり,遺族の思想信条を侵害する合祀に対する国の違法行為責任は免れないというべきである。被告国は,憲法に保障された思想信条の自由,信教の自由を侵害する行為に積極的に荷担し,協力し,助力を与えたものであり,被告国として,違憲状態の回復を図るべき義務があ 為責任は免れないというべきである。被告国は,憲法に保障された思想信条の自由,信教の自由を侵害する行為に積極的に荷担し,協力し,助力を与えたものであり,被告国として,違憲状態の回復を図るべき義務があるというべきである。ところが被告小泉は,国家機関たる内閣総理大臣として違憲状態の回復を図るどころか,遺族の思想信条の自由を侵害する靖国神社に内閣総理大臣として参拝することにより,靖国神社の合祀行為を容認し,更にこれを援助助長したものであり,その違法性は極めて高いといわざるを得ない。 また,当該行為によって被った遺族の精神的苦痛も甚大である。 c 宗教者である原告らの被侵害利益原告A,原告O及び原告Pらはキリスト者であり,原告Qは,仏教徒である。宗教者たる原告らの被った損害については,次のとおりである。 すなわち,これら宗教者である原告らは,憲法13条により「個人として尊重され」,また,原告らの「生命,自由及び幸福追求に対する権利」は,国政の上で最大限の尊重が必要と同条には定められている。その具体的内容は,基本的人権として憲法14条以下に定められているとおりであるが,憲法19条の「思想及び良心の自由」及び憲法20条の「信教の自由」は,あらゆる基本的人権の根幹をなすものとして絶対不可侵の権利であり,原告らはこの内心の自由を保障されることによって初めて,各自の幸福を追求し人間としての生活が保障される。特に「信教の自由」は,近代市民社会成立の普遍的根拠であるとともに,わが国においては,かつて国家神道体制下にあって,国家によって個人の生命が支配・管理され,基本的人権が大きく侵害されていたことへの反省から生まれた憲法の基本精神でもある。この「信教の自由」には,信仰する自由,布教伝道する自由,自己の信仰に基づいて社会的実践をする自由,自己の信じな れ,基本的人権が大きく侵害されていたことへの反省から生まれた憲法の基本精神でもある。この「信教の自由」には,信仰する自由,布教伝道する自由,自己の信仰に基づいて社会的実践をする自由,自己の信じない宗教を批判する自由,何も信仰しない自由などが考えられる。それらは最大限に尊重されるべきであって,国家が特定の宗教を強制することはもとより,人の内心の自由を侵害することは決して許されない。靖国神社は,昭和20年8月15日に敗戦によって終結した戦争について,戦没者を神道教義によって英霊として祀ることを目的とした神社である。靖国信仰の役割は,個人を国家の命令により戦場に駆り出し,戦死した後は英霊として祀って戦争を賛美し,次の新たな兵士を送り出すというものであった。 宗教者である原告らは,教団あるいは教会の歴史を反省しつつ,再び靖国神社が国家と一体となり,国家神道として復活することに強い恐怖感を抱いている。国家神道が支配していた時代の復活は,信教の自由の死滅を意味するものにほかならない。被告小泉が内閣総理大臣として靖国神社に参拝することは,靖国神社に公的権威を与えるものであり,その余の宗教を靖国神社の劣位に置いて,抑圧する効果を持つものとなり,宗教者である原告らの信仰を侵害するものである。 また,靖国神社の合祀行為は,単なる一宗教団体がその信仰に基づいて合祀を行い,祭神としたものではなく,行政機関である厚生省引揚局援護課が各都道府県に命じて合祀予定者の報告を行わせ,合祀通知書の交付を行わせる等,積極的にこれに関与してきたものである。これらの行為は,如何なる意味においても特定の宗教団体を援助,助長する行為であり,政教分離原則,信仰の自由に対する重大な侵害行為である。さらに,これら行政の行為は,宗教者が合祀を拒否しているか否かと無関係に,その意思を無 意味においても特定の宗教団体を援助,助長する行為であり,政教分離原則,信仰の自由に対する重大な侵害行為である。さらに,これら行政の行為は,宗教者が合祀を拒否しているか否かと無関係に,その意思を無視して合祀予定者として報告し,靖国神社による合祀を行わせ,あるいは,合祀を容易にさせるものであって,国民の信仰の自由を侵害する行為として,その違法性の程度は極めて高いといわなければならない。このように,靖国神社の合祀行為は単なる一宗教団体の宗教行為に止まらず,国の関与した行為として違憲状態にあるにもかかわらず,これに参拝する被告小泉の行為は,違憲状態を追認し,特定の宗教団体を援助・助長する行為であり,宗教者である原告らの信仰の自由を侵害する行為であるといわざるを得ない。 以上のとおり,宗教者である原告らは,本件各参拝によって信教の自由を侵害され,重大な精神的苦痛を被った。 d その他の原告らの被侵害利益原告S,原告T及び原告Uらは,いずれも,特定の宗教を持たず,また親族に戦没者を有しない者である。これらの者の被った損害については次のとおりである。 すなわち,本件各参拝は,自ら及び親族に沖縄戦の経験を有せず,かつ,特定の宗教を有しない本土出身者である原告Sらに対しても,思想信条の自由及び「平和のうちに生存する権利(平和的生存権)」を侵害するものである。 憲法は,帝国憲法の下における軍国主義とこれによる植民地支配,占領地支配を反省し,二度と戦争の惨禍の起こることのないことを希求して制定されている。沖縄の歴史,本土と沖縄の関係性を直視する原告らは,沖縄において天皇制のもたらした重大な加害性を自らの加害性として自覚し,反省し,天皇制と天皇制軍隊が沖縄住民に対して行った人間の尊厳を破壊する加害行為が,再び起きることのないことを願い,憲法の理 ,沖縄において天皇制のもたらした重大な加害性を自らの加害性として自覚し,反省し,天皇制と天皇制軍隊が沖縄住民に対して行った人間の尊厳を破壊する加害行為が,再び起きることのないことを願い,憲法の理念が実現されることを強く望んでいる。ところが,被告小泉による本件各参拝は,沖縄において天皇制護持の名の下に沖縄住民に圧倒的犠牲を強いた天皇制軍隊を英霊として正当化し,さらに,天皇制の護持と日本の独立のために沖縄を長期にわたって米軍事支配のもとに売り渡した行為を正当化するものである。被告小泉が,内閣総理大臣として靖国神社に参拝し,天皇制軍隊を英霊として祀り,正当化する行為は,過去において日本国が行ってきた他国を無視する偏狭で独善的な天皇制軍国主義と,その精神的支柱としてあった国家神道の復活につながるものであり,その行為は,原告らが権利として有する憲法の保障する人間の尊厳の基本である「思想信条の自由」及び「平和のうちに生存する権利」を侵害するものである。原告Sらは,本件各参拝によって思想信条の自由等を侵害され,重大な精神的苦痛を被ったものである。 (被告らの主張)本件各参拝は,原告らの権利ないし法益を侵害するものではない。 (ア) 沖縄戦戦没者遺族等の原告らの主張する「自由」(宗教的人格権)を侵害するとの主張についてa 原告らは,本件各参拝が,「戦没者遺族原告らの有する思想信条及び信仰に対する圧迫・干渉をもたらす」,「特定の思想信条,宗教観を国民,とりわけ沖縄県民に強要する」などとして,「沖縄戦戦没者遺族及び沖縄出身者たる原告らは,遺族ら各自が,肉親の死について,それぞれの価値観に従って,戦没者への思いを巡らせる自由」を侵害された旨主張する。 b しかし,沖縄戦戦没者遺族等の原告らが被侵害利益として主張している上記「自由」は 各自が,肉親の死について,それぞれの価値観に従って,戦没者への思いを巡らせる自由」を侵害された旨主張する。 b しかし,沖縄戦戦没者遺族等の原告らが被侵害利益として主張している上記「自由」は,その内容に照らせば,いわゆる「宗教的人格権」と呼ばれているものと解されるところ,原告らの主張する「宗教的人格権」なるものは,憲法上保障される権利でないことはもとより,国賠法上保護された法益とは認められない。 この点について,原告らが掲げる平野武の見解は,政教分離規定が制度的保障の規定であって,「信教の自由」ないし「私人の法的利益」といったものを直接保障する規定ではないことを明確に判示する確立された判例法理に正面から反する独自の見解である。 なお,原告らは,原告らが主張する「肉親の死について,それぞれの価値観に従って,戦没者への思いを巡らせる自由」の侵害が,原告らの思想信条の自由(憲法19条)及びプライバシー権(憲法13条)を侵害するものである旨主張するが,結局,原告らの主張する利益の内容は,原告らの主張する「宗教的人格権」と同一であるから,この原告らの主張も理由がない。 また,原告らは,憲法20条3項が規定する政教分離は,個人の信教の自由を保障する人権規定であるとし,これをも原告らの主張する自由の根拠としているようであるが,同項の政教分離規定が制度的保障であることは明らかであり,原告らの上記主張は,失当である。 (イ) 信教の自由を侵害するとの主張についてa 原告らは,本件各参拝により,宗教者である原告ら及び特定の宗教を持たない本土出身者である原告らの信教の自由が侵害された旨主張する。 b しかし,信教の自由の保障は,国家から公権力によってその自由を制限されることなく,また,不利益を課せられないという意味のものであり,国家によ 者である原告らの信教の自由が侵害された旨主張する。 b しかし,信教の自由の保障は,国家から公権力によってその自由を制限されることなく,また,不利益を課せられないという意味のものであり,国家によって信教の自由が侵害されたといい得るためには,少なくとも国家による信教を理由とする不利益な取扱い又は強制・制止の存在することが必要である。 そして,本件各参拝は,原告らの信教を理由に,原告らを不利益に取り扱ったり,原告らに特定の宗教の信仰を強要したり,あるいは原告らの信仰を妨げたりするものではないから,原告らの信教の自由を侵害しないことは明らかである。 したがって,本件各参拝により,原告らの信教の自由が侵害された旨の原告らの主張は理由がない。 (ウ) 思想信条の自由を侵害するとの主張についてa 原告らは,本件各参拝が原告らの思想信条の自由を侵害する旨主張する。 b しかし,本件各参拝は,原告ら個人の思想信条を理由として,原告らを不利益に取り扱ったり,原告らに特定の思想・良心を持つことを強要したり,あるいは原告らが特定の思想・良心を持つことを妨げたりするものではないから,原告らの思想信条の自由を侵害するものでないことは明らかである。 したがって,本件各参拝により,原告らの思想信条の自由が侵害された旨の原告らの主張には理由がない。 (エ) 「平和のうちに生存する権利(平和的生存権)」を侵害するとの主張についてa 原告らは,憲法は,帝国憲法の下における軍国主義とこれによる植民地支配,占領地支配を反省し,二度と戦争の惨禍の起こることのないことを希求して制定されているとして,本件各参拝が特定の宗教を有しない本土出身者である原告に対しても,「平和のうちに生存する権利」を侵害するものである旨主張する。 b しか 惨禍の起こることのないことを希求して制定されているとして,本件各参拝が特定の宗教を有しない本土出身者である原告に対しても,「平和のうちに生存する権利」を侵害するものである旨主張する。 b しかし,そもそも原告らの主張する「平和のうちに生存する権利」なるものは,その概念そのものが抽象的かつ不明確であるばかりでなく,具体的な権利内容,根拠規定,主体,成立要件,法的効果等のどの点をとってみても一義性に欠け,その外延を画することさえできない,極めてあいまいなものである。したがって,このような「平和のうちに生存する権利」なるものをもって,国賠法上保護された法益と認めることはできない。 (被告小泉の主張)原告らは,原告らに宗教的人格権等が存在するものとして,これを保護法益であると主張しているが,確立した判例理論においては,原告ら主張の権利は,いずれも保護法益としては認められていない。 イ被告らの損害賠償責任の有無(原告らの主張)(ア) 被告国の責任a 本件各参拝は,被告小泉が公務員である内閣総理大臣としての資格で,次のとおり,公務員の職務行為として,故意をもって行った,上記ア(原告らの主張)の原告らの法的権利ないし利益を違法に侵害するものであって,その結果,原告らは,下記ウ(原告らの主張)の損害を被ったものであるから,被告国は,国賠法1条1項に基づき,上記損害を賠償する責任がある。 b 本件各参拝の職務行為性国賠法1条の「職務を行うについて」の解釈は,「客観的に職務行為の外形を備える行為」と評価し得る事実が存在すれば足りる。 被告小泉は,平成13年参拝において,同年8月13日,秘書官を伴い,公用車で靖国神社に赴き,参集所で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し,本殿で神官から神道方式の「お祓い 存在すれば足りる。 被告小泉は,平成13年参拝において,同年8月13日,秘書官を伴い,公用車で靖国神社に赴き,参集所で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し,本殿で神官から神道方式の「お祓い」を受けた上,一礼方式で参拝した。参拝後,被告小泉は,マスコミの公的参拝か私的参拝かとの質問に対し,「私はこだわらない。首相である小泉純一郎が心をこめて参拝した。」と語り,自らの認識についてあいまいにした。平成14年参拝についても,参拝後の記者会見を除き,平成13年参拝と概ね同じである。このように,被告小泉は,秘書官を伴い,公用車を使用して靖国神社に赴いていること,記帳に内閣総理大臣という公務員の肩書を使用していること,行為者本人が私的な参拝であると述べていないことなどからすると,公務員として公的に参拝したことは明らかであり,憲法20条3項のいう「国又はその機関」が行った参拝であるといえる。 (イ) 被告小泉の責任本件各参拝は,被告小泉が故意に行った,上記ア(原告らの主張)の原告らの法的権利ないし利益を違法に侵害する不法行為であり,その結果,原告らは,下記ウ(原告らの主張)の損害を被ったものであるから,被告小泉は,民法709条に基づき,上記損害を賠償する責任がある。 なお,国賠法の規定が適用される場合であっても,少なくとも加害公務員に故意又は重大な過失があったときは,加害公務員自らも民法709条の責任を負うべきである。被告小泉は,内閣総理大臣としての地位にあり,行政の長として,市民の基本的人権を擁護すべき憲法上の義務を負うもので,本件各参拝が憲法に反することを熟知しながら,あえて,本件各参拝を行っている。したがって,被告小泉は,被告国が本件各参拝による原告らへの賠償責任を負うことを理由として,自らの責任を免れることはできな 件各参拝が憲法に反することを熟知しながら,あえて,本件各参拝を行っている。したがって,被告小泉は,被告国が本件各参拝による原告らへの賠償責任を負うことを理由として,自らの責任を免れることはできない。 (被告らの主張)原告らの主張については,否認ないし争う。本件各参拝は,内閣総理大臣としての資格で行われたものではないし,公務員の職務行為として行われたものではない。 (ア) 本件各参拝における被告小泉の立場について,本件各参拝は,被告小泉が私人の立場で行ったものであり,内閣総理大臣としての資格で行ったものではない。 a 内閣総理大臣としての資格で行われたか否かの区別内閣総理大臣その他の国務大臣による靖国神社への参拝に関しては,昭和53年10月17日,安倍晋太郎内閣官房長官が参議院内閣委員会において,「内閣総理大臣その他の国務大臣の地位にある者であっても,私人として憲法上信教の自由が保障されていることは言うまでもないから,これらの者が,私人の立場で神社,仏閣等に参拝することはもとより自由であって,このような立場で靖国神社に参拝することは,これまでもしばしば行われているところである。閣僚の地位にある者は,その地位の重さから,およそ公人と私人との立場の使い分けは困難であるとの主張があるが,神社,仏閣等への参拝は,宗教心のあらわれとして,すぐれて私的な性格を有するものであり,特に,政府の行事として参拝を実施することが決定されるとか,玉ぐし料等の経費を公費で支出するなどの事情がない限り,それは私人の立場での行動と見るべきものと考えられる。靖国神社参拝に関しては,公用車を利用したこと等をもって私人の立場を超えたものとする主張もあるが,閣僚の場合,警備上の都合,緊急時の連絡の必要等から,私人としての行動の際にも,必要に と考えられる。靖国神社参拝に関しては,公用車を利用したこと等をもって私人の立場を超えたものとする主張もあるが,閣僚の場合,警備上の都合,緊急時の連絡の必要等から,私人としての行動の際にも,必要に応じて公用車を使用しており,公用車を利用したからといって,私人の立場を離れたものとは言えない」し,「記帳に当たり,その地位を示す肩書きを付すことも,その地位にある個人をあらわす場合に,慣例としてしばしば用いられており,肩書きを付したからといって,私人の立場を離れたものと考えることはできない。」と政府の統一見解を明らかにしており,以来,政府は二十数年にわたり,この政府統一見解に基づいて判断してきている。この政府統一見解は,内閣総理大臣その他の国務大臣が私人の立場で有する信教の自由等の人権との調和を図りつつ,客観的かつ合理的な基準を示している。そして,内閣総理大臣の地位にある者が,内閣総理大臣の資格で行動する場合には,行政府の長として政府の統一見解に基づいて行動するのである。 b 本件各参拝について本件各参拝は,①閣議決定などによりこれを政府の行事として実施することが決定されたものではなく,また,②献花代は被告小泉の私費により賄われており,玉ぐし料等の経費が公費で支出された事実はない。 また,本件各参拝において,被告小泉は,他の閣僚を伴わないで参拝している。 原告らは,「内閣総理大臣小泉純一郎」として参拝したものであり,私人としての「小泉純一郎」として参拝したというのではない旨主張するが,被告小泉は,平成13年参拝後,「総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した。」と答えたのであり,また,平成14年参拝について,「先日の参拝は,内閣総理大臣である小泉純一郎が……心を込めて参拝したものであります。」と国会で答弁し 総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した。」と答えたのであり,また,平成14年参拝について,「先日の参拝は,内閣総理大臣である小泉純一郎が……心を込めて参拝したものであります。」と国会で答弁しているのであって,いずれも内閣総理大臣としての資格での行為を表す「内閣総理大臣として」との表現を用いていない。「内閣総理大臣である」という部分は,私人である「小泉純一郎」が内閣総理大臣の地位にあることを述べているにすぎないから,このように述べたからといって,内閣総理大臣としての資格で参拝したことを示すものとはいえない。そして,被告小泉は,本件各参拝以後現在に至るまで,本件各参拝に関して,「内閣総理大臣として」の資格で参拝したことを示すような発言を一切していない。 本件各参拝において,被告小泉が,靖国神社において「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し,献花に付された名札に「内閣総理大臣小泉純一郎」と記載されていたことは事実であるが,前記政府統一見解のとおり,これらはその地位を示す肩書きとして付記されたもので,その地位にある個人を表す場合に,慣例としてしばしば用いられている。したがって,肩書きを付したからといって,私人の立場を離れたものと考えることはできない。 本件各参拝に際して,被告小泉は,公用車を利用しているが,前記政府統一見解のとおり,内閣総理大臣を含む閣僚の場合,警備上の都合,緊急時の連絡の必要等から,私人としての行動の際にも,必要に応じて公用車を使用しており,秘書官と共に靖国神社に赴いたことについても,同様に緊急時の連絡の必要等があるからであり,公用車を利用したことや秘書官と共に同神社に赴いたことによって,被告小泉の行動が,私人の立場を離れたものとなるわけではない。 さらに,本件各参拝については,政府の見解として あるからであり,公用車を利用したことや秘書官と共に同神社に赴いたことによって,被告小泉の行動が,私人の立場を離れたものとなるわけではない。 さらに,本件各参拝については,政府の見解としても,私人の立場での参拝と理解されている。 これらの諸般の事情を総合的に考慮すれば,本件各参拝は,内閣総理大臣としての資格で行われたものではなく,被告小泉が私人の立場で行ったものであることが明らかである。 (イ) いわゆる外形標準説についてa 国賠法1条1項の「その職務を行うについて」は,民法44条1項の「職務ヲ行フニ付キ」及び同法715条1項の「事業ノ執行ニ付キ」と同義であるとされており,加害行為が職務自体を構成する場合はもちろん,職務遂行の手段としてなされた行為や,職務の内容と密接に関連し職務に付随してなされる行為の場合も含み,また,客観的に職務行為の外形を有すれば足り,事実上,加害公務員が有した個人的な目的や私的な意図は問わないとされている。最高裁判所昭和31年11月30日第二小法廷判決(民集10巻11号1502頁。以下「最高裁昭和31年判決」という。)は,巡査が,専ら自己の利を図る目的で制服着用の上警察官の職務執行を装い,被害者に対し不審尋問の上,犯罪の証拠物名義でその所持品を預かり,しかも連行の途中,これを不法に領得するため所持の拳銃で同人を射殺した事案について,「国家賠償法第1条の職務執行とは,その公務員が,その所為に出づる意図目的はともあれ,行為の外形において,職務執行と認め得べきものをもって,この場合の職務執行なりとするのほかないのである」とし,公務員が主観的に権限行使の意思をもってした職務執行につき,違法に他人に損害を加えた場合に限るとの解釈を排斥して,巡査の上記行為は国賠法1条1項にいう職務執行につき違法に他 ほかないのである」とし,公務員が主観的に権限行使の意思をもってした職務執行につき,違法に他人に損害を加えた場合に限るとの解釈を排斥して,巡査の上記行為は国賠法1条1項にいう職務執行につき違法に他人に損害を加えた場合に該当するとした原判決を正当とした。そして,最高裁昭和31年判決は,その理由として,「同条は公務員が主観的に権限行使の意思をもってする場合にかぎらず自己の利をはかる意図をもってする場合でも,客観的に職務執行の外形をそなえる行為をしてこれによって,他人に損害を加えた場合には,国又は公共団体に損害賠償の責を負わしめて,ひろく国民の権益を擁護することをもって,その立法の趣旨とするものと解すべきであるからである。」と判示し,「行為の外形において職務執行と認め得べきもの」をもって職務執行とするいわゆる外形標準説を採用した。 b しかし,この外形標準説を採用した最高裁昭和31年判決については,その理論的根拠及び具体的判断基準について特段触れるところがないことや,この事件は警察官が非番の折,私欲を図る目的で制服制帽を着用の上,同僚の警察官から盗んだ拳銃により被害者を射撃死亡させたという事案の特異性もあって,その射程は必ずしも明らかではないなどと指摘されている。さらに,外形標準説は民法の不法行為においても,判断基準として機能していないとの指摘も有力である。 例えば,職務上の詐欺的行為のような,いわゆる取引的不法行為の場合においては,その外形を信頼した被害者に対する保護の必要という点に重点が置かれることは理解しやすいが,事実的不法行為の場合においては,被害者においてその外形を信頼するという場面がないことから,外形は職務行為の判断基準になり得ないことは明らかである。 そうすると,最高裁昭和31年判決の事案とは事実関係を全く異にする本件におい ,被害者においてその外形を信頼するという場面がないことから,外形は職務行為の判断基準になり得ないことは明らかである。 そうすると,最高裁昭和31年判決の事案とは事実関係を全く異にする本件において,同判決の考え方がそのまま妥当することはない。 また,外形標準説が,本来職務行為でないのに行為の外形を重視して責任を負わせるものであるとすれば,国賠法においては,相手方が適法な職務遂行であると思った場合にのみ責任が生ずる余地があることになるところ,原告ら自身,内閣総理大臣がその職務行為として靖国神社に参拝することは適法ではあり得ないと主張し,適法行為についての信頼を置いているわけではないのであるから,そもそも外形標準説を用いて「その職務を行うについて」の要件を判断することはできないはずである。 したがって,本件においては,国賠法1条1項の「その職務を行うについて」は,行為の外形のみから判断するのではなく,実体的に本件各参拝が内閣総理大臣の職務行為として行われたか否かを問題とするのが相当である。 c 仮に外形標準説により本件各参拝を判断するとすれば,「行為」(不法行為)の「外形」によって判断するのであるから,あくまでも,原告らが主張する権利侵害行為である本件各参拝の外形によって判断されるべきであり,その前後の事情は「行為」の「外形」を構成するものではあり得ないはずである。また,内閣総理大臣の地位にある者が,内閣総理大臣の資格で行動する場合には,行政府の長として政府の統一見解に基づいて行動するのであり,他方,政府統一見解は参議院内閣委員会における官房長官答弁という形で対外的に公表されているのであるから,本件各参拝の外形上,これが内閣総理大臣の資格で行われたものであるかどうかを客観的に判断するに当たって,政府統一見解で示された基準に従って判断され 官答弁という形で対外的に公表されているのであるから,本件各参拝の外形上,これが内閣総理大臣の資格で行われたものであるかどうかを客観的に判断するに当たって,政府統一見解で示された基準に従って判断されるべきことになる。 (ウ) 本件各参拝が外形上も「その職務を行うについて」されたものでないことa 本件各参拝についての行為の「外形」本件各参拝については,これに密接に関連する行為も一体のものとみるとしても,被告小泉が,秘書官と共に公用車で靖国神社に赴いたこと,同神社において「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し,本殿において一礼する方式で参拝したこと,「献花内閣総理大臣小泉純一郎」との名札のついた献花をしたこと,献花代3万円を私費で支出したことが,「行為」の外形を構成するといえ,原告らの主張するその余の事実は,「行為」の「外形」を構成するものではない。 b 上記の「外形」を構成する事実の評価本件各参拝の行為の外形を構成する上記の事実を政府統一見解で示された基準に従って判断すれば,①本件各参拝は,閣議決定等によりこれを政府の行事として実施されたものではないこと,②本件各参拝における経費としては献花代があるが,それが公費で支出されたものではなく,かえって被告小泉の私費により賄われていることが認められる以上,本件各参拝は,その外形上も内閣総理大臣の職務行為として行われたものでないことは明らかである。秘書官と共に公用車で靖国神社に赴いたことや,同神社において「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳したこと,献花に付された名札に「内閣総理大臣小泉純一郎」と記載されていたことについては,前記(ア)bで示したように,これらをもって内閣総理大臣の職務執行であると外形上判断することはできない。 c したがって,本件各参拝は,外形標準説の立場からも,客観的外形的に国の機 たことについては,前記(ア)bで示したように,これらをもって内閣総理大臣の職務執行であると外形上判断することはできない。 c したがって,本件各参拝は,外形標準説の立場からも,客観的外形的に国の機関としての内閣総理大臣の行為であると判断することはできず,本件各参拝が「その職務を行うについて」(国賠法1条1項)されたものでないことは明らかである。 (エ) 以上のとおり,本件各参拝は,被告小泉が私人の立場で行ったものであり,内閣総理大臣の資格で,公務員の職務行為として行われたものではないから,国賠法1条の要件を具備しない。 (被告小泉の主張)そもそも神社への参拝は,それ自体,個人的行為とされるものであり,このことは被告小泉が内閣総理大臣の地位にあるからといって何ら変わるものではない。もし,被告小泉の靖国神社参拝が職務行為になる場合があるとすると,それは,閣議において公式行事と決定されるなどの特別な事情が必要となるが,本件各参拝は,被告小泉一人の発意により,一人で決定して実施したもので,本件各参拝を職務行為とするための行政行為は一切なされていなかった。 ウ原告らの損害(原告らの主張)上記アの(原告らの主張)のとおり,原告らは,被告小泉による本件各参拝によって原告らの法的権利ないし利益を違法に侵害され,その結果,重大な精神的苦痛を被ったものであり,その損害を金銭に評価すれば,原告1人当たり10万円を下ることはない。なお,原告らは,本件訴訟提起までに行われた2回にわたる被告小泉の本件各参拝行為によって,本件訴訟提起時に原告らに発生している人格権等侵害に伴う損害の賠償を行うものであって,本件各参拝行為ごとの損害の特定は不要であると考える。 (被告らの主張)原告らの上記主張は,争う。 (被告小泉の主張)本件各参拝は いる人格権等侵害に伴う損害の賠償を行うものであって,本件各参拝行為ごとの損害の特定は不要であると考える。 (被告らの主張)原告らの上記主張は,争う。 (被告小泉の主張)本件各参拝は,あくまでも自然人たる被告小泉が靖国神社に赴いて一人で行ったものであり,憲法上被告小泉に認められた思想良心の自由ないし信教の自由に基づいて行ったものであって,その行為により原告らが被害を受けるような性質のものではなく,現に損害が発生したと認めるに足りる証拠はない。原告らの主張する被害と称するものは,仮に存在するとしても,単に原告らが被告小泉の本件各参拝に対して不快感を感じているという以上の意味を有するものではない。

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