平成17(わ)3529 殺人被告事件

裁判年月日・裁判所
平成20年3月24日 大阪地方裁判所
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判決文本文30,013 文字)

- 1 -主文被告人を懲役6年に処する。 未決勾留日数中730日をその刑に算入する。 押収してある果物ナイフ1本(平成17年押第366号の1)及びペティナイフ1本(同号の2)を没収する。 理由 (罪となるべき事実)被告人は,平成16年12月19日午後零時40分ころ,大阪市a区内のマンションb号室の被告人方において,自己が同室に招き入れていたいわゆるデリバリーヘルス嬢のA(当時21歳)に対し,殺意をもって,その胸部及び腹部を8回にわたり所携の刃体の長さ約12.1センチメートルの果物ナイフ及び刃体の長さ約12.2センチメートルのペティナイフで突き刺し,よって,同日午後1時40分ころ,同市c区内の病院において,同人を胸部刺創に基づく心臓刺創による失血により死亡させて殺害したものである。 なお,被告人は,本件犯行の数日前からアルコールを断続的に飲酒したことによって,本件犯行当時,複雑酩酊又は複雑酩酊とほぼ同等の状態にあったため,心神耗弱の状態にあったものである。 (証拠の標目)省略(殺意の認定についての補足説明) 被告人は,A(以下「被害者」という。)を1回刺した記憶はあるが,その理由や殺意の有無については全く記憶がないなどと公判廷で供述するので,当裁判所が被告人に殺意があったと認定した理由を補足して説明する。 証拠上認められる事実(1)本件犯行に使用された凶器は,被告人方にあった刃体の長さ約12.1センチメートルの鋭利な果物ナイフ及び刃体の長さ約12.2センチメートルの- 2 -鋭利なペティナイフである。 (2)被害者の胸部及び腹部には8か所の刺創があり,諸臓器は失血状であった。 上記刺創のうち致命傷と考えられるものは左乳房部から左下後方向に約14. 1センチメートル刺入する刺創であり,心嚢表面を刺創し,心臓右室前壁下方 び腹部には8か所の刺創があり,諸臓器は失血状であった。 上記刺創のうち致命傷と考えられるものは左乳房部から左下後方向に約14. 1センチメートル刺入する刺創であり,心嚢表面を刺創し,心臓右室前壁下方を切破して心嚢下面に刺入した上,横隔膜に刺出し,肝右葉上面を刺破している。その次に深い刺創は,右乳房部から下後方向に約11.1センチメートル刺入する刺創であり,その他の刺創も約4.5センチメートルないし約9センチメートルの深さがある。 (3)被害者の死因は,胸部刺創に基づく心臓刺創による失血死であり,被害者は犯行の約1時間後に死亡した。 (4)犯行態様には証拠上明らかでない部分が多いが,その一部には,被告人が,座った状態で,上記果物ナイフを両手で逆手に持ち,自己の顔面付近まで振り上げてから,仰向けに横になって無抵抗の状態の被害者の腹部等を,続けて3回,刃体が被害者の体に完全に入るくらいに刺すという状況があった(この事実は,デリバリーヘルス店従業員からの電話を受けて本件現場に駆け付けた同店運転手Bの供述によるが,Bの供述は後記(責任能力についての判断)の項第2の2(4)で検討するとおり具体的で迫真性に富んでおり十分信用できる。)。 上記事実を基に検討するに,被害者の創傷の状況や果物ナイフ及びペティナイフの血こん付着状況等から,被告人が判示のとおり被害者の胸部及び腹部を8回にわたり所携の果物ナイフ及びペティナイフで突き刺したことが明らかに認められるところ,被告人はこのように殺傷能力を十分に有する鋭利な刃物で被害者の胸部や腹部等身体の枢要部を8か所も刺していること,このうち少なくとも3回は仰向けになって無抵抗の被害者に対しナイフを振り下ろしてその刃体を完全に刺入させている上,致命傷となった刺創はナイフの刃体の長さよりも深く,そのほかの刺創も 刺していること,このうち少なくとも3回は仰向けになって無抵抗の被害者に対しナイフを振り下ろしてその刃体を完全に刺入させている上,致命傷となった刺創はナイフの刃体の長さよりも深く,そのほかの刺創もいずれも浅くないものであって,被告人が程度の差こそあれ相当に- 3 -力を込めて被害者を刺したことは優に推認できることなどに照らせば,被告人に被害者に対する殺意があったことは十分認定できるというべきである。 (法令の適用)被告人の判示所為は,行為時においては平成16年法律第156号による改正前の刑法199条(有期懲役刑の長期は同改正前の刑法12条1項による。)に,裁判時においてはその改正後の刑法199条(有期懲役刑の長期は同改正後の刑法12条1項による。)に該当するが,これは犯罪後の法律によって刑の変更があったときに当たるから刑法6条,10条により軽い行為時法の刑によることとし,所定刑中有期懲役刑を選択し,判示の罪は心神耗弱者の行為であるから同法39条2項,68条3号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役6年に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中730日をその刑に算入することとし,押収してある果物ナイフ1本(平成17年押第366号の1)及びペティナイフ1本(同号の2)は,いずれも判示殺人の用に供した物で被告人以外の者に属しないから,同法19条1項2号,2項本文を適用してこれらを没収し,訴訟費用は,刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。 (責任能力についての判断)第1当事者の主張検察官は,被告人は本件犯行当時,単純酩酊の状態にあり,完全責任能力を有していたと主張する。一方,弁護人は,被告人は実行行為の段階でもうろう状態における錯視・錯覚を有していた可能性が高く,あるいは,被告人には本件犯行 件犯行当時,単純酩酊の状態にあり,完全責任能力を有していたと主張する。一方,弁護人は,被告人は実行行為の段階でもうろう状態における錯視・錯覚を有していた可能性が高く,あるいは,被告人には本件犯行当時著しい見当識障害が存在した可能性や急激な興奮状態に陥った可能性があり,平素の人格との異質性等と合わせて考えると,病的酩酊又はそれと同等の状態にあったとも評価され得るので,いずれにしても,被告人は本件犯行当時,責任能力を失っていた可能性があり,心神喪失者の行為として被告人は無罪であると主張する。 当裁判所は,被告人は本件犯行当時,判示のとおりの心神耗弱状態にあった- 4 -と判断したので,以下その理由を説明する(なお,以下においては,公判廷における供述と公判調書中の供述部分とを区別せず,単に「供述」などと表記することがある。)。 第2前提となる事実 被告人の供述調書の証拠能力及び信用性被告人の本件犯行当時の責任能力を検討する前提事実を認定するに当たっては,本件犯行の態様,被告人の飲酒状況,記憶状況等が重要な事実となるところ,それらに関する事実が被告人の捜査段階の供述調書に録取されており,弁護人はその一部の任意性・信用性を争うので,すでに証拠請求を却下したものも含めて,まず,任意性・信用性が大きく争われている被告人の供述調書の証拠能力及び信用性に関する判断を示すこととする(以下,乙号証の各供述調書を「乙1」のように略記する。)。 (1)乙2ないし乙4の証拠能力及び信用性ア証拠能力について乙2が録取された平成16年12月20日及び乙3が録取された同月24日の各取調べは,いずれもC病院入院時の被告人の主治医であったD医師の承諾を得た上で,一応中立的立場にある同病院事務次長Eの立会いのもとで行われている上,同月20日の取調べ時間は1時 された同月24日の各取調べは,いずれもC病院入院時の被告人の主治医であったD医師の承諾を得た上で,一応中立的立場にある同病院事務次長Eの立会いのもとで行われている上,同月20日の取調べ時間は1時間程度,同月24日の取調べは主に被告人方の電話番号の訂正等を目的として行われたものであることなどからすれば,上記各取調べは弁護人の主張するように実質的に逮捕されたのと同様の状況下におけるものであったとは認められない(上記病院内において警備体制が敷かれ,被告人が常に監視されていたことについても,被告人が殺人事件という重大事件の被疑者であった以上,自傷他害を防ぐため必要やむを得ない措置であったというべきであり,相当な範囲を超えたものであったとは認められない。)。 また,同月20日の取調べは被告人が開腹手術を受けた直後に上記病院- 5 -の集中治療室において行われており,被告人の体調が万全でなかったことは容易に推察されるが,被告人が黙秘するようになったのは同月30日にF弁護人と接見した以降のことであり,被告人自身,それより前の同月29日の取調べ時には,覚えていることを述べたと供述していることや,乙2には,捜査のごく初期段階において,犯行当日の状況等がある程度具体的に録取されていることに照らせば,取調べに当たったG警部補(以下「G刑事」という。)が供述するように,被告人が一生懸命思い出して供述しようとしていたというのもあながち不自然とはいえず,供述の任意性を失わせるほどの精神的・身体的状態であったとまでは認められない。乙2録取時の取調べが入院中の被告人からとりあえず事情を聴取するという性格のものであったことなどにも照らすと,捜査初期の段階で,しかも,病院関係者の立会い等もある中で,本来は本件の担当ではなかったというG刑事が被告人から無理に供述を らとりあえず事情を聴取するという性格のものであったことなどにも照らすと,捜査初期の段階で,しかも,病院関係者の立会い等もある中で,本来は本件の担当ではなかったというG刑事が被告人から無理に供述を得ようとしたとも考えにくい。 したがって,乙2及び乙3は,いずれも任意性を有するものといえ,また,乙4も違法に収集された証拠の派生証拠とはいえないのであって,いずれも証拠能力は認められると判断したものである。 イ信用性についてしかし,同月29日に録取された身上・経歴に関する供述調書(乙1)では月約45万円の給料がある旨供述しているのに,乙2では収入があまりないと供述したり,被告人が日ごろの営業にも使用し,名刺等にも記載されている自宅の電話番号を乙2では間違って供述するなど,乙2には被告人にとって通常間違えることはないと思われる単純な事実について誤った記載がみられる。また,乙2で電話番号を間違えた理由について,乙3には「当時意識がもうろうとしていたので」と記載されている(G刑事は,乙2録取時に被告人が電話番号を2種類供述して一応こっちだと言ったほうが結果的に間違いだったなどと供述するが,乙3に記載された上記理由- 6 -ともそごがあり信用できない。)。このような供述内容に加え,被告人が乙2録取の前日に全身麻酔による開腹手術を受け,同手術後も乙2作成当日の午前中まで全身麻酔薬の投与を受けていたことなどにもかんがみると,乙2作成当時には,被告人の意識水準が完全には回復しておらず,取調官に迎合的な供述をしたり,取調官からの誘導や暗示を受けやすい状況にあったと考えられる。そして,乙2には,後記2(7)で検討するとおり信用できる被告人の記憶と異なる事実について記載があることにも照らすと,乙2についてはこれをたやすく信用することはできない。また,乙3 ったと考えられる。そして,乙2には,後記2(7)で検討するとおり信用できる被告人の記憶と異なる事実について記載があることにも照らすと,乙2についてはこれをたやすく信用することはできない。また,乙3及び乙4にも,上記同様に信用できる被告人の記憶とそごする部分がみられ,当該部分についてもまたにわかに信用することはできないというべきである。 (2)乙7及び乙8の証拠能力ア被告人は,乙7が録取された平成17年1月11日午前中の取調べの際に取調べに当たったH巡査(以下「H刑事」という。)から右手のこぶしであごを10回ほど殴られ,髪の毛をつかまれて振り回され,靴を履いたままの足で頭や顔をけられるなどの暴行を受けた旨を公判廷で詳細に供述する。上記暴行を含む一連の取調べ状況に関する被告人の供述は,H刑事を含む取調官らの言動,上記暴行の態様等を含め,極めて具体的で迫真性に富むものである上,反対尋問に対しても何ら揺らいでおらず,検証調書(弁3)における指示説明や被疑者ノート(弁11)の記載等とも一貫している。そして,同日午前中の取調べ直後に被告人が留置管理の係官に対して暴行を受けた旨申告した事実と符合し,上記検証調書から認められる被告人の下唇の受傷状況とも矛盾しない。したがって,被告人の上記公判供述の信用性は高いというべきである。 イH刑事は,被告人に対して上記暴行に及んだ事実はなく,被告人の負傷は,乙7に署名指印する前に,被告人が自ら目の前の机に顔面を打ち付け,- 7 -唇をぐりぐりという感じで押し当てたために生じたものであり,被告人は自傷行為の後うなだれておとなしくなり,黙って淡々と署名指印した,などと供述するが,上記のような激しい自傷行為に及んだ後に一転してうなだれ署名指印したというのは不自然さを免れない上,自傷行為の態様はH刑事作成 うなだれておとなしくなり,黙って淡々と署名指印した,などと供述するが,上記のような激しい自傷行為に及んだ後に一転してうなだれ署名指印したというのは不自然さを免れない上,自傷行為の態様はH刑事作成の乙7に関する取調べ状況報告書(甲101)の記載(「いきなり,『死にたいです。』と言いながら顎や口付近を何度も机に打ちつけ」)とややそごがあり,署名指印の際の状況は上記取調べ状況報告書の記載(「渋々,こちらを睨み付けながら署名指印に応じる」)と全く整合しない。また,被告人は,F弁護人と接見して以降,乙7録取時以前の取調べにおいては,終始一貫して事件に関する事項を完全に黙秘したり積極的な供述を拒否していた(前記のとおり信用できない乙2を除けば,事件当日の状況に関する警察官調書は1通も作成されていない状況であった)ところ,H刑事は,事件当日のことを調書にするからなどと言ったかもしれないが,それまでの取調べと同様に事件当日のことを聞いたところ,被告人が答え始めた旨供述するのであって,同供述からは,何故に被告人が乙7録取時に突如として事件当日のことを供述し始めたのかが全く判然とせず,供述に至った経緯には不自然,不可解な部分が残るといわざるを得ない(H刑事は,被告人は犯行状況についてそれまでの取調べの中でも少しは話していたなどと供述するが,内容に具体性がなく,それに関する供述調書が1通も作成されていないことからも,にわかに信用し難い。)。このように,H刑事の供述には不自然な点が多く,信用できない。 ウ以上によれば,乙7録取時に,H刑事による前記のとおりの暴行があったことが被告人の供述等から認められ,乙7にある供述は任意にされたものとはいい難い。 また,同日午後に被告人を取り調べ,乙8を録取したG刑事は,H刑事が被告人からの暴行の申告に関して上司に報 があったことが被告人の供述等から認められ,乙7にある供述は任意にされたものとはいい難い。 また,同日午後に被告人を取り調べ,乙8を録取したG刑事は,H刑事が被告人からの暴行の申告に関して上司に報告するために取調べを交替し- 8 -たというのに,被告人に対して上記暴行のことなどを全く質問しなかったなどと供述しており,乙8において,上記暴行による影響を遮断するような適切な措置がとられた形跡は全くない(G刑事は,被告人の下唇の傷の存在に気が付かなかったと供述するが,極めて不自然であって到底信用できない。)。したがって,乙8も任意にされたものでない疑いが残るといわざるを得ない。 したがって,乙7及び乙8の証拠請求はいずれも却下したものである。 (3)乙10及び乙11の信用性弁護人は,乙10及び乙11の信用性も争うが,乙10及び乙11に録取された被告人の記憶内容は,被告人が公判廷で供述する記憶内容とおおむね合致している上,乙10に関しては,被告人が,捜査段階で検察官に対して覚えていることを述べたところ供述調書に録取されたと供述していることにも照らすと,いずれも信用できるというべきである。 証拠上認められる事実以上のような被告人の供述調書の証拠能力及び信用性に関する判断を踏まえて,当裁判所が関係証拠により認定した事実は次のとおりである。なお,事実の認定に当たって供述の信用性が問題となるものについては,当該箇所において信用性についての判断を示すこととする。 (1)被告人の生活状況等被告人は,昭和53年に結婚し,一男一女をもうけた後,昭和59年に協議離婚し,また,平成9年には失踪宣告の裁判を受けた(なお,これら離婚や失踪宣告のいずれについても飲酒との関連は認められない。)。 被告人は,平成13年3月ころ「I」という屋号で主に屋根瓦の補修等 協議離婚し,また,平成9年には失踪宣告の裁判を受けた(なお,これら離婚や失踪宣告のいずれについても飲酒との関連は認められない。)。 被告人は,平成13年3月ころ「I」という屋号で主に屋根瓦の補修等を行う事業を始めた。平成14年ころから仕事が減ったため,事務所を被告人方に移し,本件犯行当時,従業員は被告人と現場関係の責任者であるJの2人のみとなっていたが,仕事はうまくいっており,職人を雇って仕事をして- 9 -いた。被告人には,本件当時,月45万円程度の手取り収入があった(被告人の収入状況を示す客観的証拠はないが,第三者の供述からは被告人が金銭的に困窮していた事情はうかがわれない。)。 なお,被告人に前科・前歴はない。 (2)被告人のこれまでの飲酒状況被告人が馴染み客として長年通っていた居酒屋やスナックの従業員らは,一様に,被告人は穏やかでまじめな人で,飲酒をしても少し上機嫌になる程度で普段と様子が変わることはほとんどないなど酒癖にも特段問題はなく,店内で大声を出して暴れたり,他の客とけんかして暴力を振るうようなことは全くなかったなどと供述するところ,日ごろの飲酒状況に関する被告人の公判供述はこれら第三者の供述ともよく整合しており,後記イの特徴的な飲酒状況についても,上記従業員や被告人の友人,同僚ら第三者の供述とよく整合し,捜査段階の供述(乙12)ともおおむね一貫していることから,飲酒状況に関する被告人の供述はおおむね信用することができる。したがって,被告人のこれまでの飲酒状況については,これらの供述等に基づき,次のとおり認定することができる。 ア飲酒歴について被告人は,20歳のころから飲酒を始め,24歳のころからは毎晩ビールを大瓶で一,二本飲むようになった。26歳のころ水商売の仕事をし始めてから飲酒量が増え,毎日ビールを大瓶 きる。 ア飲酒歴について被告人は,20歳のころから飲酒を始め,24歳のころからは毎晩ビールを大瓶で一,二本飲むようになった。26歳のころ水商売の仕事をし始めてから飲酒量が増え,毎日ビールを大瓶2本,ウイスキーをボトル半分程度飲んでいた。被告人は,仕事中にも飲酒していたが発覚することはほとんどなかったので,酒に強いと自覚していた。被告人は,結婚して会社勤めをするようになっても,仕事に行く前に飲酒し,日本酒をワンカップ一,二本飲むようになった。被告人は,離婚前に体に不調を起こしてしばらく酒を断ったものの,すぐにビールを飲み始め,その後徐々に飲酒量が増えて,居酒屋やスナック等でビールを大瓶四,五本飲むようになった。 - 10 -被告人は,40歳台の半ばくらいから酒にやや弱くなり,飲酒量がビール大瓶三,四本に減り,それまでほとんどなかった二日酔いも何度か経験するようになった。 被告人は,飲酒をしてけんかをするなどのトラブルを起こしたことは全くなく,やや上機嫌になるくらいで,酒癖も良いほうであった。もっとも,Iで仕事を共にしていたJが,被告人に酒をやめるように注意した際,「俺の命は今日までや。」などといつ死んでもかまわないかのような発言をしたり,自宅マンションのベランダから飛び降りようとしたりしてJに止められる騒ぎになったこともあった。 イ過去3回の連続飲酒状態について被告人は,平成15年5月ころ,二日酔いがひどくて,同僚に体調が悪いとうそをついて仕事を休んだ。被告人は,気分の悪さを紛らわせるために迎え酒で日本酒か焼酎を飲み,苦しくなってはまた飲むということを繰り返し,その間食事を一切取らなかった(以下,このような被告人の飲酒の仕方を「連続飲酒状態」という。)ところ,数日後に酒を受け付けない状態になり,立ち上がることもできなくなって, 飲むということを繰り返し,その間食事を一切取らなかった(以下,このような被告人の飲酒の仕方を「連続飲酒状態」という。)ところ,数日後に酒を受け付けない状態になり,立ち上がることもできなくなって,自ら救急要請をして病院に入院した。入院中,被告人には,エアコンの音が雨音や話し声に聞こえたりするという幻聴があった。 被告人は,その後2か月間ほどは酒を飲む気にもならなかったが,友人らと酒を飲む機会があり,飲酒を再開するや再び5日間ほど連続飲酒状態に陥ったが,肝臓の薬を飲みながら徐々に回復した。このときは幻覚はなかった。 被告人は,その後5か月間ほどは酒を飲まなかったが,同年末から平成16年の初めにかけて,酒を1杯飲んだのが引き金となって,1週間ほど連続飲酒状態に陥り,動けなくなったところ,Jが被告人方に来て,Jの自宅に連れていかれた。その際,被告人には,壁を見ているとその壁が動- 11 -き出すなどという幻視があった。被告人は,その後しばらくの間,連続飲酒状態に陥らないようにするため,Jの自宅で朝食を取るようになり,何度か酒に手を付けたこともあったが,食事を取るようにするなどして連続飲酒状態に陥ることを断ち切っていた。 (3)犯行前の状況ア犯行数日前の飲酒状況被告人は,本件犯行の数日前である平成16年12月16日ころ,「K」「L」「M」の3軒のスナック等で久しぶりにビールを飲むなどした。 イ犯行前日(同月18日)及び当日(同月19日)の被告人の言動等①同月18日午前9時ころ,被告人はJに電話を掛け,元気のない声で「今日も休もうや。」と言った。Jは,被告人が酒を飲んで酔いつぶれていると分かり,「また酒飲んでるんか。年末やから頑張ろう。」と言って,直接現場に向かった。同日午後10時半から午後11時ころの間に,被告人から「K」に電 言った。Jは,被告人が酒を飲んで酔いつぶれていると分かり,「また酒飲んでるんか。年末やから頑張ろう。」と言って,直接現場に向かった。同日午後10時半から午後11時ころの間に,被告人から「K」に電話があったが,その際にも被告人には酔っ払っている感じがあった。 ②同月19日午前10時ころ,Jが被告人に電話を掛けた際,被告人は完全に酔いつぶれた声で「あーうー。」などと意味不明なことばかり言ったので,Jは怒って電話を切った。 ③被告人は,同日午前10時ころから午前11時ころにかけて,判示マンションの10階と1階の間を,エレベーターを使用して3回にわたって上り下りした(ビデオテープ〔平成17年押第366号の5。甲85〕の画像によっても被告人に歩行失調等があるか否かは判然としないが,少なくともこの段階では,被告人は,エレベーターで上下するのに不自由しない程度の運動能力を有していたものと認められる。)。 ④被告人は,同日,向かいの英語教室の教師に文句を言いに行くという,- 12 -これまでしたことのない行動をとった(ただし,被告人は本件犯行前日に英語教室に行ったという記憶を有している。)。 ⑤被告人は,同日午前11時1分ころ,初めてデリバリーヘルスの派遣を要請する電話をした。その際,被告人は,応対したNに対して女性の好みを伝え,住所や電話番号等を違和感なく答えており,特に不自然な様子や明らかに酒に酔っている感じはなかった。被告人は,同日午前11時47分ころにもNに対して電話した(この会話内容は不明である。)。 (弁護人は,Nが他の客の電話と混同している可能性が否定できず,Nの供述は信用できないと主張する。確かに,Nにとっては,被告人からの電話は数多くある電話の一つに過ぎず,その時点で特に印象に残るようなものではなかったと思われるから,N ている可能性が否定できず,Nの供述は信用できないと主張する。確かに,Nにとっては,被告人からの電話は数多くある電話の一つに過ぎず,その時点で特に印象に残るようなものではなかったと思われるから,Nが被告人の会話内容の詳細を記憶しているとは考えにくいが,Nは客の様子に異常な点があれば派遣を承諾しないと供述しており,これは女性を見ず知らずの客の部屋に派遣するというデリバリーヘルスの業務の特性に照らして極めて自然であるから,Nは被告人に限らず,電話を掛けてきた客の様子に不自然な点があるか否かについては十分注意を払っていたと思われるのであって,被告人に特に不自然な様子はなかったなどというNの供述は十分信用することができる。弁護人は,Nが,捜査段階では被告人が新聞を見て電話してきたと供述していたのに,公判廷では被告人がちらしを見て電話してきたと,犯行後の現場の状況に整合させるかのように供述を変遷させているなどというが,上記のとおりNが被告人の会話内容の詳細を記憶しているとは考えにくいことや,Nが被告人と利害関係を有しない第三者であり,被告人に不利益な虚偽供述を殊更行うとは考え難いことなどに照らすと,Nの供述の信用性を左右する事情ではないというべきである。)- 13 -ウ被害者の言動被害者は,同日午後零時7分ころ,Nに対して,被告人方に入り,60分コースを指定された旨電話で連絡し,Nは,前払いの代金8000円をもらうよう被害者に指示した。その後,被害者は,同日午後零時41分ころと42分ころ,Nに対し,かなり切羽詰まったような声で「助けて,殺されそう,ドライバー上げてください。」などと助けを求める電話を掛けた。 (4)証拠上明らかに認められる犯行状況前記認定のとおり,被告人は被害者の胸部及び腹部を8回にわたり所携の果物ナイフ及びペテ れそう,ドライバー上げてください。」などと助けを求める電話を掛けた。 (4)証拠上明らかに認められる犯行状況前記認定のとおり,被告人は被害者の胸部及び腹部を8回にわたり所携の果物ナイフ及びペティナイフで突き刺したものであるが,犯行状況の一部を目撃したBの供述等によれば,更に次の事実が認められる。 アNから電話で連絡を受けたBが,被告人方玄関のチャイムを二,三回連打したが,被告人は応答しなかった。 イBが,かぎの掛けられていなかった玄関ドアを開けた際,被害者は,玄関を入ってすぐのところに,頭を玄関のほうに向けて仰向けに寝た状態で倒れており,上半身に着ていた服は胸までめくれていて,下半身はスカートだけ身に付けており,多少めくれていた。被告人は,下半身にスウェットズボンを着て,上半身にトレーナーをズボンから出して着ており,被害者の股の間に正座するように座り,ナイフを両手で逆手に持ち,無抵抗の被害者の腹部を,無言のまま3回続けて,ナイフを被告人の顔の高さくらいから振り下ろして刃が完全に入るくらいまで刺した。 ウ被告人が被害者を刺している途中で,Bが「何しとんじゃ。」などと大きな声で言ったが,被告人はその声に反応せず,なおも被害者を刺した。 エBが,被告人を被害者からどけようとして被告人の肩辺りを足でけると,被告人は右後方にごろんと転がり,それほど力のない声で「この子が先に刺したから,刺してやったんだ。」などと言った。その際,被告人はすで- 14 -に腹部に刺創を負っていた。 オBが,被害者の腹部に刺さっていたナイフを抜いて玄関のほうに投げ,玄関の外の通路で携帯電話で119番通報している間に,被告人は仰向けに倒れていた被害者の股の間に再び座り,腹部の傷口に両手の人さし指を入れ,広げて顔を近付けてのぞいた。 カBが,被告人の髪の毛を 玄関の外の通路で携帯電話で119番通報している間に,被告人は仰向けに倒れていた被害者の股の間に再び座り,腹部の傷口に両手の人さし指を入れ,広げて顔を近付けてのぞいた。 カBが,被告人の髪の毛をつかみ,わきから抱え込むようにして玄関前の通路のほうに引きずっていったが,被告人は何ら暴れることはなかった。 (弁護人は,Bの供述のうち,被告人が「この子が先に刺したから,刺してやったんだ。」と述べたという部分につき,捜査段階で全く述べられていなかった事実であり,供述が不合理に変遷しているから信用できないと主張する。しかし,Bは利害関係のない第三者であり,供述内容も全体的に具体的で迫真性に富むもので,反対尋問に対してもおおむね一貫しており,その信用性は高い。上記の被告人の発言についても具体的なものであり,捜査段階から供述を変遷させたことについても,捜査段階では被害者の立場が悪くなるのではないかと思って話さなかったが,犯行状況を目撃しているのは自分しかいないので有利不利に関係なく言っておかないといけないと思ったなどと納得のいく理由を述べている。したがって,Bの供述は上記被告人の発言部分を含めて十分信用することができる。)(5)犯行後の状況ア犯行後の現場の状況等①玄関土間の東側に置かれた下駄箱の上に血こんが付着した果物ナイフ1本が放置されており(これはBが置いたものであるから,被告人が被害者を最後に刺した際に使用したのは果物ナイフであったと認められる。),台所の床面北側の中央付近に血こんが付着したぺティナイフ1本が放置されていた。なお,台所西側の流し台の両開き戸の片側の扉のみが約90度開かれた状態になっており,同東側床面には文化包丁1本- 15 -とパンナイフ1本が放置されていた(これらにはいずれも血こんは付着していない。)。果物ナ の流し台の両開き戸の片側の扉のみが約90度開かれた状態になっており,同東側床面には文化包丁1本- 15 -とパンナイフ1本が放置されていた(これらにはいずれも血こんは付着していない。)。果物ナイフには,刃体部のほぼ全面に血こんが付着しており,いずれも被害者の血液型と一致するA型の血液が検出された。 また,ぺティナイフには,ほぼ全面に血こんが付着しており,柄に近い部分からA型の血液が,先端に近い部分から被告人の血液型と一致するO型の血液が検出された。 ②台所南側に置かれた冷蔵庫の横の床面に血こんが付着した被害者のスカート1枚が放置されていた(これは,救急隊員が応急措置のため切断して脱がせて現場に放置したものであり,被害者は被害時にはスカートを着用していた。)。そのやや奥には血こんが付着した被害者の黒色トートバッグが置かれており,その中の財布には現金が2万9545円在中していた。上記冷蔵庫上には血こんが付着した被害者の携帯電話1台が置かれていた。6畳和室東側に置かれたテーブルの西側畳上には,被害者のパンティー1枚とパンティーストッキング1枚が放置されていた(いずれも血こんは付着していない。)。同室東側のソファー上には血こんが付着した被害者のダウンジャケット1枚が放置され,その西側に血こんが付着したデリバリーヘルスのちらし1枚が放置されていた。6畳和室に敷かれた布団にも血こんが付着していた。 犯行現場で採取された血こんのうち,玄関の外側の廊下上のものや,玄関土間内のものはO型で,その余の玄関土間,台所,6畳和室内(敷シーツ,掛シーツのものを含む。)の血こんはいずれもA型であった。 また,被害者のセーターの前面5か所及びブラジャーの1か所には刺創があり,セーターに付着していた血こんはいずれもA型であった。 ③台所北西角に置かれたごみ箱内 む。)の血こんはいずれもA型であった。 また,被害者のセーターの前面5か所及びブラジャーの1か所には刺創があり,セーターに付着していた血こんはいずれもA型であった。 ③台所北西角に置かれたごみ箱内には焼酎のワンカップの空き瓶が9個あった。6畳和室東側に置かれたテーブル上には眼鏡や焼酎1合瓶の空き瓶1本が置かれていた。 - 16 -イ犯行後の被告人の身体的状況や対応等①平成16年12月19日午後零時48分ころにO署P巡査らが現場に到着した際,被告人は,通路に体をくの字にして腹部を押さえて倒れており,腹部には刺し傷のような傷があり,血が出ていた。P巡査が「大丈夫ですか。」と声を掛けたが,被告人は,きょろきょろと周りを見る様子はあったものの,特に声掛けには反応を示さなかった。 その後,P巡査は,基地局に無線で救急要請し,「負傷者は,性別は男性,おおむね60歳ぐらい。」などと報告すると,これに対し被告人は,倒れた状態のまま,「まだ54や。」と言った。 (弁護人は,被告人の上記発言を聞き取った旨のP巡査の供述について,被告人の意識が明確であったことを印象付けようとしたP巡査があえて虚偽の供述をしたものといわざるを得ないなどと主張するが,仮に同人が上記のような動機のもとにあえて虚偽の供述をしたというのであれば,上記発言の直前に同人が被告人に「大丈夫ですか。」と声を掛けても特に反応は示さなかった旨供述しているのは如何にも首尾一貫しないというほかはない〔54歳というのは被告人の当時の正に正確な年齢であり,仮にこれが故意による虚偽供述というのであれば,そこまで用意周到に準備をしたP巡査が,上記のとおり声掛けに被告人が反応を示さなかったなどと,一見すると前後相矛盾するかのような供述をすることは考えにくい。〕。P巡査の供述には,被告人の飲酒の影響を こまで用意周到に準備をしたP巡査が,上記のとおり声掛けに被告人が反応を示さなかったなどと,一見すると前後相矛盾するかのような供述をすることは考えにくい。〕。P巡査の供述には,被告人の飲酒の影響を殊更に軽減させようとするかのような部分等も存するが,少なくともこの①項の一連の認定部分に関するP巡査の供述には,相応の具体性と迫真性があって反対尋問にも揺らいでおらず,一連の内容にも照らして創作性も認め難い。 よって,その供述は信用できるというべきである。)。 ②大阪市Q消防署R救急隊が同日午後零時58分に現場に到着した際の被告人は,顔色が蒼白で表情はうつろであり,呼吸状態は浅く,脈拍は- 17 -弱く,撓骨動脈を触知できなかったが,呼び掛けると開眼した。腹部に30ccの出血があり,歩行は不能の状態であった。 ③同日午後1時25分にC病院に到着した際の被告人は,血圧が非常に低く,大きな血管も触知できないほどのショック状態であり,はっきり分かる程度のアルコール臭が感じられた。同日,C病院においてD医師が全身麻酔により開腹手術を行った。手術後も,翌20日午前11時ころまでは,全身麻酔薬が1時間に15ミリリットル持続的に点滴されるなどしていた。 ④被告人の腹部にはへその上6センチメートルくらいのところに横に浅い長さ約6センチメートルの擦過傷があり,その約2センチメートル下に長さ約3センチメートルの刺創があった。腹部刺創は,ほぼ垂直方向に10センチメートル以上の深さがあり,腹腔内に到達し,小腸間膜を2か所で損傷しており,出血が高度で,約2週間の入院加療を要するものであった。D医師作成の回答書には,刺創の上部にあった擦過傷について「1条の逡巡創(擦過傷)あり」と記載されており(甲63),入院診療録には「腹部刺創(自損)」と記載されている(甲11 を要するものであった。D医師作成の回答書には,刺創の上部にあった擦過傷について「1条の逡巡創(擦過傷)あり」と記載されており(甲63),入院診療録には「腹部刺創(自損)」と記載されている(甲115)。 ⑤被告人の着ていたトレーナー及びスウェットズボンには血こんが付着していたが,救急措置を行った際の破損を除き,刃物による破損はなかった。 ⑥犯行の2日後である同月21日の段階で,被告人の両手に防御創はみられなかった。 ウ犯行後の被告人の精神状態等被告人には,C病院に入院中,同月22日に一般病室に移ってから,床の隅にアリがはっている,白いシーツが動き出してうさぎの形になるなどの幻視があった(これは被告人の公判供述によるものであるが,被告人は幻視と犯行とを直接結び付けておらず,その内容も具体的で,アルコール- 18 -の離脱症状としても自然なものであるから,信用することができる。)。 (6)上記事実から推認できる犯行状況等ア犯行直前の飲酒状況前記認定のとおり,被告人が本件犯行の3日前ころに3軒のスナック等でビールを飲酒したこと,本件犯行前日及び当日の午前中にJが電話した際などに被告人が酒に酔った様子であったこと,被告人の部屋のテーブル上やごみ箱に焼酎の空き瓶が多数存在したこと,犯行直後の被告人にアルコール臭が認められたこと,犯行の3日後以降にアルコールの離脱症状と考えられる幻視があったことなどの事実を総合すると,被告人は,本件犯行数日前からそれまで3回陥ったことがあったのと同様の連続飲酒状態に陥っていたものと認めるのが相当である。 イ被告人と被害者の負傷の順序検察官は,ペティナイフの柄に近い部分から被害者の血液型と一致するA型の血液が,同ナイフの先端に近い部分から被告人の血液型と一致するO型の血液が検出されていることをもっ 被告人と被害者の負傷の順序検察官は,ペティナイフの柄に近い部分から被害者の血液型と一致するA型の血液が,同ナイフの先端に近い部分から被告人の血液型と一致するO型の血液が検出されていることをもって,まず被害者が負傷し,次に被告人が負傷したことが推認できると主張するが,被告人の腹部刺創は10センチメートル以上の深さがあったのであるから,刃体の長さ約12.2センチメートルのペティナイフの先端に近い部分のみに被告人の血液が付着するとは限られず,血こんの検査を行っていない部位にも被告人の血液が付着していた可能性は十分に存在する。そもそも犯行態様が明確でない本件においては,上記ペティナイフに血こんが付着する状況もまた明らかではないのであり,負傷した順番どおりにナイフに血こんが残っているとは必ずしもいえないことからしても,血こんの付着状況から刺さった順番を推認するのには無理がある。 したがって,被害者が負傷したのが先か被告人が負傷したのが先かは,証拠上特定できないというほかはない(もっとも,被害者が被告人方に派- 19 -遣されたデリバリーヘルス嬢であったことや,ナイフが被告人方にあったものであることなどからすると,被害者が被告人から攻撃を受けてもいないのに被告人を意図的にナイフで刺突するという状況はおよそ考え難いから,負傷の順序は特定できないとしても,被告人が防衛的に被害者を刺した可能性は考えられない。)。 ウ被告人の腹部刺創が自傷行為であるか否かについて被害者のセーターやブラジャーの破損状況からは,被告人が着衣の上から被害者の胸部等を刺突したことが認められ,他方,被告人のトレーナーの破損状況からは,少なくとも被告人の腹部刺創はトレーナーの上からナイフが刺さって生じたものではないことが認められる。この点,検察官は,被害者が被告人を攻撃 ことが認められ,他方,被告人のトレーナーの破損状況からは,少なくとも被告人の腹部刺創はトレーナーの上からナイフが刺さって生じたものではないことが認められる。この点,検察官は,被害者が被告人を攻撃する際に被告人のトレーナーをわざわざめくって攻撃することは考えられないから,被告人の腹部刺創は自傷行為によるものであると主張する。確かに,前記認定のとおり被告人には飲酒の末自殺行為に出るかのようなこともあった点に照らすと,本件でも連続飲酒状態に陥っていた被告人が何らかの理由で衝動的に自傷行為に出た可能性もあながち否定できないが,被告人はトレーナーをスウェットズボンの中に入れずに着ていたから,犯行態様が証拠上明確でない本件においては,被害者ともみ合う中で被告人の着衣を通さずにナイフが腹部に刺さるなどした可能性もまた否定できず,被告人の着衣に損傷がないことからただちに被告人の腹部刺創は自傷行為によるものであると速断することはできない。D医師が腹部刺創を「自損」,その上部の擦過傷を「逡巡創」と診断していることも,D医師が捜査機関から自傷行為であるとの情報を事前に得ていたことや,被告人に擦過傷について確認した段階では腹腔内出血のため被告人の意識水準が相当程度低下していた可能性が高いことなどに照らすと,医学的見地から可能性の高い推論であるとはいえるものの,それをもって被告人の腹部刺創を自傷行為と断定することはやはり困難であるといわざ- 20 -るを得ない。 エ犯行動機について検察官は,本件犯行の動機として,被告人が連続飲酒状態になって自己嫌悪に陥り,被害者と無理心中を図った可能性や,性的サービスの内容や代金支払をめぐって被害者と口論になった可能性などが考えられ,また,被告人と被害者は約40分間にわたって人的関係を持っていたからその間に殺意を抱 害者と無理心中を図った可能性や,性的サービスの内容や代金支払をめぐって被害者と口論になった可能性などが考えられ,また,被告人と被害者は約40分間にわたって人的関係を持っていたからその間に殺意を抱かせる事情が生じたことも十分考えられるなどとして,証拠上動機は特定できないが,動機のない犯罪ではないと主張する。確かに被告人が何らかの理由で衝動的に自傷行為に出た可能性が否定できないのは上記のとおりであるが,検察官が可能性のある動機として挙げるものは,いずれも決定的な根拠を欠くものというほかはなく,本件全証拠に照らしても犯行動機は不明であるといわざるを得ない。 (7)被告人の記憶状況被告人は,犯行前の飲酒状況について,先にみたとおり犯行前に3軒のスナック等で飲酒した記憶を有しているのみで,それ以上の詳細な記憶は有していないほか,犯行前の行動についても,デリバリーヘルスの派遣を要請したという漠然とした記憶は有しているが,電話の状況等の記憶は有しておらず,Jらと電話で話したことや,エレベーターに乗ったことなどの記憶も有していない,さらに,犯行状況に関しても,被害者に1回刺されたこと,被害者を1回刺したこと,被害者が携帯電話を出して大声で何か言ったこと,被害者に落ち着いてもらうために被害者のかぎ穴に合うかぎを差したり,かぎ穴に合うかぎを探していたこと,男性に大声で何か言われたことなどの断片的な記憶を有しているのみで,それ以上の詳細な記憶は有していない,などと供述する。 これら自己の記憶に関する被告人の公判供述については,被告人が捜査の比較的初期の段階(平成16年12月31日)で記載したメモの記載(弁1- 21 -2),平成17年1月6日付け供述調書(乙10)及び同月11日付け供述調書(乙11)の記載,捜査段階の鑑定における面接の際の陳述,第1 平成16年12月31日)で記載したメモの記載(弁1- 21 -2),平成17年1月6日付け供述調書(乙10)及び同月11日付け供述調書(乙11)の記載,捜査段階の鑑定における面接の際の陳述,第1回公判における陳述及びその後の数次にわたる公判供述,公判段階の鑑定における面接の際の陳述などにおいて,記憶にあることとないことが終始おおむね一貫していること,犯行状況に関してのみ特に記憶の欠落があるわけではなく,犯行と直接関係しない犯行数日前からの状況も含めて一様に記憶の欠落があり,記憶の残存状況として特に不自然な点はないこと,記憶していることの中には被害者を1回刺したという被告人にとって不利益な事実も含まれていることなどからすると,被告人が記憶にあることを記憶にないなどとして殊更虚偽を述べているとは考え難く,信用することができる。 第3精神鑑定について捜査段階で作成されたS医師及びT医師の鑑定書(以下,T医師の公判供述も含めて「S・T鑑定」という。)は,被告人は本件犯行当時,単純酩酊の状態にあったとするのに対し,公判段階で作成された鑑定人U医師の鑑定書(以下,U医師の公判供述も含めて「U鑑定」という。)は,被告人は本件犯行当時,複雑酩酊又は複雑酩酊とほぼ同等の状態にあったとするので,以下,両鑑定の内容を検討することとする。 S・T鑑定の要旨被告人は,本件犯行当日,英語教室の教師に文句を言いに行き,その後一転して低姿勢で謝罪の言葉を述べるなどの一貫しない行動をとっており,感情不安定な状態を示唆するが,一方で自己統制能力が働いていたことも示唆する。 被告人はその後デリバリーヘルスの派遣要請をしているが,女性の好みを冷静に伝えるなど状況に沿った会話ができている。唯一,Jからの電話に対して泥酔状態を疑わせる発言をしているが,酩酊状態が急に深 る。 被告人はその後デリバリーヘルスの派遣要請をしているが,女性の好みを冷静に伝えるなど状況に沿った会話ができている。唯一,Jからの電話に対して泥酔状態を疑わせる発言をしているが,酩酊状態が急に深くなったとは考えにくく,仕事を休んで酒を飲んでいる決まりの悪さをごまかすための言動とも理解できる。犯行時にも抵抗する被害者に数か所の刺創を負わせているから,デリ- 22 -バリーヘルス派遣要請後大量に飲酒し,運動機能に影響を与えるような酩酊状態に陥ったとは考えにくい。事件に関する記憶もところどころ有しており,完全な健忘とはいえない。Bが部屋に入ってから後の記憶は全般的に欠損しているが,出血性ショックにより意識もうろうとなったためと考えられる。被告人方に捨ててあった焼酎の空き瓶は4本であり,テーブルの上にも焼酎の飲み残しが存在したことなどからすると,被告人の本件犯行当日の飲酒量は焼酎一,二本と推測される。これらのことから,犯行当時の被告人の酩酊状態は軽度で,本件犯行当日は終始単純酩酊であったと判断する。犯行前後の運動失調症状,健忘の程度,感情状態等から判断される酩酊状態は,飲酒試験開始後31分から46分の間の状態(アルコール血中濃度は1.4ないし2.2㎎/dl)に相当すると考えられるが,この間の被告人の状態も単純酩酊であり,是非弁別能力を有し,それに従って行動していた。通常の脳波,飲酒試験中の脳波とも異常波を示さなかったので,犯行時に被告人が病的酩酊を呈していた可能性は否定的である。 被告人は本件犯行当時,アルコール依存による連続飲酒状態であり,アルコールによる酩酊を呈していたが,単純酩酊状態と考えられ,多少なりともアルコールの影響を受けていた可能性はあるが,是非弁別能力を有し,これに従って行動する能力を有していた。 U鑑定の要旨被告 コールによる酩酊を呈していたが,単純酩酊状態と考えられ,多少なりともアルコールの影響を受けていた可能性はあるが,是非弁別能力を有し,これに従って行動する能力を有していた。 U鑑定の要旨被告人は,本件犯行当日に英語教室の教師に文句を言った時点やデリバリーヘルスに電話した時点では,やや興奮しやすいがすぐに抑制することができる状態であった。Jの電話に対しては言語不明瞭であり,その四,五十分後には言語不明瞭さが消失していたという酩酊の経過は考えにくいから,Jに対しては意図的に言語不明瞭な話し方をしたと考えるのが自然であって,発言の不明瞭さ,運動失調はなく,見当識障害もなかった。酩酊度は軽度酩酊の状態であったが,被告人が本件犯行前日までの数日間の出来事についての記憶をかなり- 23 -失っていることや,飲酒試験においてアルコール血中濃度が中等度酩酊レベルでは部分的な健忘,同濃度が強度酩酊ではかなりの健忘を残したことなどから推測すると,アルコール血中濃度は中等度酩酊に相当するレベルであった可能性もある。 被告人は,本件犯行時には運動失調や言語不明瞭になるほどのアルコール酩酊の状態ではなく,著しい見当識障害もなかった。被告人の本件犯行時の記憶が相当に失われているのは,主にはアルコール酩酊による健忘であり,次に出血性ショックの進行という要素が加わったものと考えられ,手術時の全身麻酔やそれによる深い睡眠状態により健忘がより拡大した可能性も否定できない。 Bが目撃した際,被告人は手元や体のふらつきはなく,無言のまま全力で被害者を刺しており,大声にも反応しなかったことから,相当に攻撃性の強い興奮状態にあったと考えられるが,Bにけ飛ばされた後は一変し,体の力は抜け,放心状態となったと考えられる。その後被害者の傷口に指を突っ込んでのぞき込むという奇妙 なかったことから,相当に攻撃性の強い興奮状態にあったと考えられるが,Bにけ飛ばされた後は一変し,体の力は抜け,放心状態となったと考えられる。その後被害者の傷口に指を突っ込んでのぞき込むという奇妙な行動をとっているが,Bに髪の毛をつかまれて外に連れ出される際は再び放心状態になっていたと考えられる。被告人の意識水準は腹腔内出血により次第に低下していったと考えるのが自然であるが,Bにけ飛ばされたときに興奮状態から放心状態へ急変していることは,出血性ショックの進行だけでは説明できず,酩酊時の興奮が何かのきっかけではっと気付いておとなしくなったというような気分・感情の急激な変化であると考えられる。被害者の傷口に指を突っ込んでのぞき込むという奇妙な行動と,かぎ穴に合うかぎを差して落ち着いてもらおうと思ったという被告人の記憶は,病的酩酊の意識混濁としては余りにも短時間過ぎるので,腹腔内出血による意識水準の低下が進行しつつある中で生じた一過性のもうろう状態における錯視・錯覚であった可能性が高い。 以上のほか,被告人は,本件犯行を除けば,発語不明瞭,運動失調になるほどの酩酊でも暴力的な行動をとることは全くなく,本件犯行は被告人の平素の- 24 -人格からは考えにくい犯行であり,複雑酩酊の可能性が強く疑われる。被告人の腹部刺創が自傷行為によるものか被害者から刺されたものかは不明であるが,自傷行為であるとすれば相当の衝動性,攻撃性,興奮状態にあったと考えられ,被害者から刺されたとすれば酩酊による抑制の低下もあったことから通常ならば相当の怒りと興奮状態になったと推測できる。いずれにしてもささいな出来事とはいえず,生命を脅かされる事態になり激しく興奮したとも考えられ,非常に強い気分の刺激性の持続時間が比較的短いことからも,複雑酩酊とするには疑問も残る。し 推測できる。いずれにしてもささいな出来事とはいえず,生命を脅かされる事態になり激しく興奮したとも考えられ,非常に強い気分の刺激性の持続時間が比較的短いことからも,複雑酩酊とするには疑問も残る。したがって,複雑酩酊又は複雑酩酊とほぼ同等の状態であったと考える。 両鑑定の信頼性(1)両鑑定とも,精神医学の専門的知見に基づいて鑑定を行っており,鑑定の基本的手法にも問題はない。S・T鑑定が鑑定の前提事実として「被告人方に捨ててあった焼酎の空き瓶は4本であり,テーブルの上にも焼酎の飲み残しが存在した」とする点は,明らかに誤りであり,同鑑定において本件当日の被告人の飲酒量を焼酎一,二本と推測している点は異なることになるが,この前提事実の誤りは同鑑定の推論の過程に照らして結論に大きく影響するものとはいえず,鑑定全体の信頼性を根本的に失わせるものとまではいえない。 両鑑定とも共通して,被告人がアルコール依存であり,容易に連続飲酒状態に陥るおそれがあるとしており,この判断は精神医学の専門的知見に基づく合理的判断として十分信頼することができる。 (2)両鑑定とも,前提としている被告人の家族歴,生活歴,飲酒歴,本件犯行前の連続飲酒状況,本件犯行当日の被告人の記憶状況等はおおむね共通している。大きく異なると思われるのは,犯行状況についての考察と飲酒試験の位置付けの点である。S・T鑑定では,犯行前の被告人にろれつ不良,歩行失調等の症状がなく,犯行時に運動機能に影響を与えるような酩酊状態に- 25 -陥ったとは考えにくいこと,完全な健忘とはいえないことなどに加え,飲酒試験の結果が終始単純酩酊状態であったと考えられることも考慮して,本件犯行当時も単純酩酊であって完全責任能力であったと結論しているが,この結論を導くに当たっては,被告人の精神状態の判断に 加え,飲酒試験の結果が終始単純酩酊状態であったと考えられることも考慮して,本件犯行当時も単純酩酊であって完全責任能力であったと結論しているが,この結論を導くに当たっては,被告人の精神状態の判断に極めて重要であると思われる犯行態様や犯行直後の言動がほとんど考慮されていない(同鑑定では,抵抗する被害者に数か所の刺創を負わせているなどと指摘して,被告人の運動機能に影響を与えるような酩酊状態にあったとは考えにくいとしており,その限度では犯行態様を考慮しているといえるが,それ以上の考察はなされておらず,特に,Bの供述調書から一部判明していたと思われる状況についての検討が十分になされていないといわざるを得ない。)。弁護人の主張するように飲酒試験の結果から単純に結論を導いているとまではいえないにしても,飲酒試験の結果を重視しているとも評価し得ないではない。ところで,S・T鑑定における飲酒試験では,試験開始19分後に2本目,同29分後に3本目,同47分後に4本目を飲酒させており,短時間にかなりの量を飲酒させているところ,T医師は上記飲酒試験について,ゆっくりしたペースで飲んでいたのでは全体を観察することができないので,できるだけ早くたくさん飲んでくれという指示を出したと供述するが,どちらかといえば規定飲酒試験に近いとも供述しており,自由飲酒試験(又はその一種ともいえる再現飲酒試験)なのか規定飲酒試験なのかはっきりせず,飲酒試験の手法や鑑定におけるその位置付けにはやや疑問も残る。そのほかにも,S・T鑑定では,被告人がかぎ穴に合うかぎを刺すなどという記憶を有していることについて,鑑定書においては全くふれられておらず,T医師は,病的な状態である可能性も否定できるものではないとしつつ,前後の状態からずっと単純酩酊の状態であった可能性が高いと供述するが, していることについて,鑑定書においては全くふれられておらず,T医師は,病的な状態である可能性も否定できるものではないとしつつ,前後の状態からずっと単純酩酊の状態であった可能性が高いと供述するが,十分な説明が加えられているとはいい難い。また,S・T鑑定では,平素の人格との異質性についても考慮されていないところ,T医師は,風俗の女性を自宅に呼び,金銭の授受- 26 -や性的内容等が絡むという状況であり,極めて了解のしやすい,感情的になりやすい状況であったなどと供述するが,これも納得のいく説明とはいえない。 このように,S・T鑑定の推論にはただちに採用し難い部分があるといわざるを得ない。 (3)ア他方,U鑑定においては,S・T鑑定においてほとんど考慮されていない犯行態様や犯行直後の言動が考慮されているところ,同鑑定が前提とした事実は証拠上おおむね首肯できるものである。U医師は,特に複雑酩酊では飲酒試験での再現率が低いことを踏まえつつ,犯行態様を詳細に検討した上,相当に攻撃性の強い興奮状態の後,一変して放心状態となっていることは腹部刺創による出血性ショックの進行だけでは説明できず,酩酊時の興奮が何かのきっかけではっと気付いておとなしくなったというような感情の急激な変化と考えられる旨指摘しており,その推論は妥当なものということができる。 イ検察官は,U鑑定は複雑酩酊を認める積極要素と消極要素を並列しただけで,各要素の関係を何ら判断することなく結論を導いているというが,U鑑定がさまざまな要素を総合検討して結論を導いていることは鑑定書全体の記載から明らかである。 また,検察官は,U鑑定は,複雑酩酊と同じような興奮状態であったという意味で複雑酩酊とほぼ同様の状態にあった可能性もあると判断しているが,これは単純酩酊下での激しい興奮状態という範 ら明らかである。 また,検察官は,U鑑定は,複雑酩酊と同じような興奮状態であったという意味で複雑酩酊とほぼ同様の状態にあった可能性もあると判断しているが,これは単純酩酊下での激しい興奮状態という範ちゅうの存在を無視した論理であって,被告人が単純酩酊下において何らかの契機で攻撃的・暴力的になった可能性があることを全く考慮していないという。しかし,U鑑定が,証拠上確定できない部分があることを踏まえて判断していることは明らかであり,むしろU医師は,そのような不確定要素や本件犯行の途中から出血性ショックという要素が加わっていることも踏まえて,精神- 27 -医学的見地から,単純酩酊の状態であったとは考えにくいものの,複雑酩酊の状態であったと断定することは慎重に留保しているものというべきであって,その判断は十分首肯できる。 さらに,検察官は,U鑑定は感情の急変を複雑酩酊と認める上での積極要素として挙げる一方で,非常に強い気分の刺激性の持続時間が比較的短いことを消極要素として挙げているから,前者は複雑酩酊と認める上で決定的な要素とはなり得ないというが,興奮状態からの「さめ方」と興奮状態の持続時間とは直接関係しないというべきであるから,感情の急変がみられることを積極要素とすることは何ら否定されない。 ウ弁護人は,U鑑定が,N,B及びP巡査の公判供述等を信用した上で,被告人が犯行当時周囲の状況に関する見当識を著しく失っていたとはいえず,被害者の傷口に指を突っ込む行動の前後においても著しい意識混濁や見当識障害はなかったとする点は,証拠の評価を誤っており,前提事実が異なるという。しかし,すでに検討したとおり,N,B及びP巡査の公判供述はいずれも信用できるから,この点についての弁護人の主張は当たらない。被告人がBから肩辺りをけられて後に転がった際,同 提事実が異なるという。しかし,すでに検討したとおり,N,B及びP巡査の公判供述はいずれも信用できるから,この点についての弁護人の主張は当たらない。被告人がBから肩辺りをけられて後に転がった際,同人に対して「この子が先に刺したから,刺してやったんだ。」などと当を得た発言をしていることからすれば,被告人がその直前の犯行時点において見当識を失っていたとは到底いい難いというべきである(U医師も,公判廷において,Bにけ飛ばされた後の被告人の感情の急変について,その直前に見当識を失っていた可能性を明確に否定している。)。 また,弁護人は,U鑑定が,被告人が被害者の傷口に指を突っ込んでのぞき込むという奇妙な行動をとっていることと,かぎ穴に合うかぎを差して落ち着いてもらおうと思ったという被告人の記憶を結び付けている点は誤っており,被告人がかぎ穴にかぎを差す行為と傷を触る行為を別個の行為として記憶していることや現場にナイフ等が4本散らばっていたことな- 28 -ど奇妙な記憶と符合する客観的状況が存在することなどからすれば,被告人が被害者をナイフで刺す行為こそがかぎ穴にかぎを差す行為を指すというべきであって,腹部刺創による出血性ショックが進行していたことも考慮すると,実行行為の時点ですでにU鑑定にいうもうろう状態における錯視・錯覚が生じていた可能性があると主張する。確かに,かぎ穴にかぎを差すという行為は,傷口に指を突っ込む行為よりも被害者を刺す行為に結び付きやすいという見方もできないではなく,現場にナイフ等が散らばっている状況もかぎを探すという記憶と整合しているともいい得る。しかし,犯行終了直後に被告人がBに対して,かぎを差すなどということは何ら言わず,「この子が先に刺したから,刺してやったんだ。」と極めて現実的な説明をしていることに照らすと,そ ているともいい得る。しかし,犯行終了直後に被告人がBに対して,かぎを差すなどということは何ら言わず,「この子が先に刺したから,刺してやったんだ。」と極めて現実的な説明をしていることに照らすと,その直前の実行行為の時点でもうろう状態における錯視・錯覚が生じていたとは到底考え難い。被告人は公判廷で一貫して奇妙な記憶について供述するものの,それと別個の記憶として傷口を触る行為について供述していないことに照らしても,被告人が捜査段階で記憶を整理して記載したメモ(弁12)に依拠して,被告人が奇妙な記憶と傷口を触る行為を別個の行為として記憶しているということもできない。Bが目撃する以前の状況については不明であるものの,それ以降において被告人がとった明らかに奇妙と思われる行動は被害者の傷口に指を突っ込んでのぞき込むという行動のみであり,被告人の奇妙と思われる記憶もかぎ穴に合うかぎを差すなどという記憶のみであることにも照らすと,U鑑定が,犯行前後の被告人の徐々に低下していく意識状態を踏まえた上で,上記行動と被告人の奇妙な記憶を結び付けて,「病的酩酊の意識混濁としては余りにも短時間過ぎるから,腹腔内出血による意識水準の低下が進行しつつある中で生じた一過性のもうろう状態における錯視・錯覚であった可能性が高い」と判断している点は十分合理的というべきである。 第4当裁判所の判断- 29 - そこで,前記のとおり信頼性が高いU鑑定を参酌しつつ,前記第2の2の認定事実を基にして,被告人の本件犯行当時の責任能力について検討する。 まず,被告人が本件犯行に及んだ動機は本件全証拠に照らしても不明であるといわざるを得ないのは前述のとおりであるが,被害者とは全くの初対面であったことなどの事情に照らすと,被告人が被害者に対していきなり強い殺意を抱くことは通常は考え は本件全証拠に照らしても不明であるといわざるを得ないのは前述のとおりであるが,被害者とは全くの初対面であったことなどの事情に照らすと,被告人が被害者に対していきなり強い殺意を抱くことは通常は考えにくい。また,被告人は,これまで自営業を営むなどおおむね普通の社会生活を送ってきており,少なくとも犯罪傾向は一切なく,本件犯行時を除けば,これまで飲酒時においても興奮したり暴力的行動に及んだことは基本的になかったものであり,本件犯行については,その動機を推し量ることも困難であるのはもとより,被告人の平素の人格からのかい離も極めて大きいといわざるを得ない(少なくとも,本件犯行が人格異質的でないことを基礎付けるに足りる事情は証拠上全く認められない。)。 次に,犯行態様をみると,被告人は,被害者の胸部や腹部をナイフで何度も刺しており,Bが玄関ドアのインターホンを連打したり,大声で「何しとんじゃ。」などと言っても,それに反応せず,仰向けに倒れて無抵抗の状態の被害者の腹部等をナイフで深く刺していることから,U鑑定の指摘するとおり相当に攻撃性の強い興奮状態にあったことが優にうかがわれる。ところが,被告人は,Bから肩辺りをけられると後ろにごろんと転がり,力無く被害者が先に刺した旨言ったが,Bに対して反撃するなどの行動も,被害者に対するそれ以上の攻撃も何ら行っておらず,上記興奮状態から急変しておとなしくなっており,これもU鑑定の指摘するとおり気分・感情の急激な変化があったというほかはないものである。 ところで,被告人はアルコール依存であり,本件以前にも連続飲酒状態に3回陥ったことがあったが,本件犯行数日前からも同様の連続飲酒状態に陥っていたものである。犯行当時の被告人の飲酒量やアルコール血中濃度を証拠上特定することはできないものの,被告人が犯行前に,エレベー 回陥ったことがあったが,本件犯行数日前からも同様の連続飲酒状態に陥っていたものである。犯行当時の被告人の飲酒量やアルコール血中濃度を証拠上特定することはできないものの,被告人が犯行前に,エレベーターで何度かマン- 30 -ションの1階と10階を上下したり,英語教室の教師に文句を言いに行くなどの行動をとっていることや,デリバリーヘルスの派遣要請時に不自然な様子がなかったことなどに照らすと,少なくとも重度の酩酊状態であったとは認められない。しかし,本件犯行数日前の出来事から腹部刺創を負う前後を問わず相当程度記憶が欠落していることに照らすと,腹部刺創による出血性ショックや全身麻酔による深い睡眠状態の影響を考慮してもなお,アルコールによる健忘を生じる程度のアルコール血中濃度であった可能性は否定できない(両鑑定とも,被告人は酒に強いと判断しており,アルコール血中濃度に比較してろれつ不良や歩行失調等がそれほど生じなかった可能性も十分に存する。)。 以上のような,本件犯行の異常性や被告人の平素の人格との著しいかい離,犯行時の攻撃性の強い興奮状態及びその後の気分・感情の急激な変化,被告人の健忘の状況等にかんがみると,被告人は本件犯行当時,数日前からアルコールを断続的に飲酒したことによって,複雑酩酊又はそれとほぼ同等の状態にあり,是非善悪を判断する能力及びそれに従って行動を制御する能力が著しく低下していた(少なくともその可能性は否定できない)ものというべきである(本件においては,被告人の腹部刺創が,被告人の自傷行為によるものか,被害者の行為によるものかは,証拠上確定することはできないところ,被告人の自傷行為であるとすれば,それ自体異常な行動であるなど,上記判断を更に支えるというべきである。他方,被害者の行為によるものであったとしても,上記のような 証拠上確定することはできないところ,被告人の自傷行為であるとすれば,それ自体異常な行動であるなど,上記判断を更に支えるというべきである。他方,被害者の行為によるものであったとしても,上記のような気分・感情の急激な変化等を踏まえると,単純酩酊による興奮状態であったとするには疑問があり,複雑酩酊かそれとほぼ同等の状態にあったものと評すべきであって,是非善悪を判断する能力及びそれに従って行動を制御する能力が著しく低下していた可能性は十分に存する。)。 他方,更に進んで被告人が心神喪失状態であったか否かについては,確かに被告人は,遅くとも犯行の途中で深さ10センチメートル以上の腹部刺創による腹腔内出血が進んで徐々に意識が薄れていく状況にあったと認められるもの- 31 -の,先に検討したとおり,Bからけられて転倒した際の同人に対する発言からすれば,実行行為の段階ではいまだ見当識障害を伴うほどの意識障害は生じていなかったことが明らかというべきである。そして,被告人が被害者の腹部の傷口に指を突っ込んでのぞき込むという奇妙な行動をとり,これについて被告人が被害者に落ち着いてもらおうと思ってかぎ穴に合うかぎを探したり差したりしたという記憶を有していることも,すでに実行行為が終了した後のことであり,いずれにしても実行行為の時点で被告人に見当識障害を伴うほどの意識障害が生じていたとの判断に結び付くものではない(なお,上記奇妙な行動については,腹腔内出血による意識水準の低下が進行しつつある中で生じた一過性のもうろう状態における錯視・錯覚であった可能性が高いとするU鑑定の推論は一定の合理性を有しており,当裁判所としても是認できるものである。)。 弁護人は,被告人がJからの電話に対して意味不明なことを言ったことを捉えて,被告人が電話の相手がJであることさえ るU鑑定の推論は一定の合理性を有しており,当裁判所としても是認できるものである。)。 弁護人は,被告人がJからの電話に対して意味不明なことを言ったことを捉えて,被告人が電話の相手がJであることさえ認識し得なかった可能性があると主張するが,その前後の言動等に照らして,この段階で被告人が周囲の状況に対する見当識を失っていたとは到底認められない。英語教室の教師に文句を言いに行ったことやデリバリーヘルス派遣要請の電話をしたことなども,平素の被告人の行動とは異質ともいえるが,飲酒の影響による抑制の低下した状態における行動であるとみることができ,状況に応じた対応ができていることからしても,見当識を失った行動とは到底考えられない。 以上のように,被告人が犯行前において終始見当識を失っておらず,犯行の時点でも見当識を失うほどの意識障害がなかったことや,断片的な記憶しかないものの完全な健忘は認められないことなどにかんがみると,被告人が本件犯行当時,病的酩酊又はそれと同等の状態にまではなかったことは明らかというべきであり,心神喪失をいう弁護人の主張は採用できない。 第5 結論 以上の次第で,当裁判所は,被告人は,本件犯行の数日前からアルコールを- 32 -断続的に飲酒したことによって,本件犯行当時,複雑酩酊又は複雑酩酊とほぼ同等の状態にあったため,心神耗弱の状態にあったと判断したものである。 (量刑の理由)本件は,被告人が,自室に招き入れたいわゆるデリバリーヘルス嬢の被害者の胸部及び腹部を果物ナイフ及びペティナイフで8回にわたり突き刺して殺害したという,殺人の事案である。 被告人が本件犯行に及んだ動機は証拠上不明であるが,被告人は,これまでも連続飲酒状態に陥って病院に入院したり騒ぎを起こすなどした経験があり,飲酒の影響によりけんかをしたり粗暴な言動に及ぶ 案である。 被告人が本件犯行に及んだ動機は証拠上不明であるが,被告人は,これまでも連続飲酒状態に陥って病院に入院したり騒ぎを起こすなどした経験があり,飲酒の影響によりけんかをしたり粗暴な言動に及ぶなどしたことがあったわけではないものの,飲酒が自己の行動等に一定の影響を及ぼし得ることは自覚していたというべきであるのに,それでもなお酒を断つことができず,またもや連続飲酒状態に陥って本件犯行に至ったものであり,このような経緯等に照らしてみれば,被告人の犯行当時の精神状態を考慮してもなお,被告人の行為は非難に値するものというべきである。犯行態様をみても,被告人は,被害者の胸部や腹部を8か所にわたり鋭利なナイフで突き刺して殺害したものであり,証拠上一部判明している具体的態様に限っても,仰向けに横たわって無抵抗の被害者の胸部等に3回続けて刃体を完全に刺入させているのであって,誠に執ようで残忍というほかはない。被害者の尊い命が失われており,結果が重大であることはいうまでもなく,何度もナイフで突き刺され,21歳の若さで突如命を絶たれた被害者の衝撃,無念さは察するに余りある。 被害者の父は,事件から3年以上が経った今なお,被告人に対する厳しい処罰感情を吐露しているほか,被害者の母は娘を失った衝撃で精神に異常を来すなどしているというのであって,被害者遺族に与えた影響や喪失感もまた非常に大きい。しかるところ,被告人から被害者遺族に対する被害弁償等はなされていない。 以上によれば,被告人の刑事責任は重大である。 しかし,他方で,被告人の平素の飲酒時の状況等に照らすと,被告人が本件犯行当時,複雑酩酊又はそれとほぼ同等の状態にあったため心神耗弱の状態にあったこ- 33 -とは量刑に当たって相当程度考慮せざるを得ない。また,本件犯行には計画性は認められないこと,被告 人が本件犯行当時,複雑酩酊又はそれとほぼ同等の状態にあったため心神耗弱の状態にあったこ- 33 -とは量刑に当たって相当程度考慮せざるを得ない。また,本件犯行には計画性は認められないこと,被告人自身,犯行当時の状況について断片的な記憶しか有していないなか,本件犯行の重大性を理解し,被害者や遺族らに対する謝罪の言葉等も述べ,今後しょく罪に努めていく意思も示しており,被告人なりの反省の態度がみられること,被告人には前科・前歴がなく,犯罪傾向は全くうかがわれないことなど,被告人のために酌むべき事情も認められ,さらには,前記のとおり被告人が取調べ時に捜査官から違法な暴行を受けるなどして相当の肉体的・精神的苦痛を被ったことも量刑上一定程度考慮し得る事情ということができる。 そこで,これら諸般の事情を総合考慮した上,被告人に対しては,主文の刑に処するのが相当と判断した次第である。 よって,主文のとおり判決する。 (求刑懲役15年,主文同旨の没収)平成20年3月24日大阪地方裁判所第12刑事部並木正男裁判長裁判官西森英司裁判官設樂大輔裁判官

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