平成13(ワ)398 退去強制令書発付処分取消等,難民の認定をしない処分無効確認等

裁判年月日・裁判所
平成16年12月2日 東京地方裁判所
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判決文本文51,059 文字)

平成16年12月2日判決言渡・同日原本領収裁判所書記官平成13年(行ウ)第398号退去強制令書発付処分取消等請求事件(以下「第1事件」という。)平成14年(行ウ)第99号難民の認定をしない処分無効確認等請求事件(以下「第2事件」という。)口頭弁論終結日平成16年9月16日判決当事者の表示別紙当事者目録記載のとおり 主文 1 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月27日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。 2 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年11月27日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。 3 原告の難民の認定をしない処分の無効確認に係る請求を棄却する。 4 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした難民の認定をしない処分を取り消す。 5 訴訟費用はこれを4分し、その1を原告の、その余を被告らの各負担とする。 事実及び理由 第1 請求 1 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月27日付けでした出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)49条1項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)を取り消す。 2 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年11月27日付けでした退去強制令書発付処分(以下「本件退令発付処分」という。)を取り消す。 3 (主位的請求)被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした難民の認定をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)が無効であることを確認する。 (予備的請求)被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした本件不認定処分を取り消す。 第2 事案の概要本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であ ことを確認する。 (予備的請求)被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした本件不認定処分を取り消す。 第2 事案の概要本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、本件各処分当時、アフガニスタンにおいて、タリバン勢力から迫害を受けていたから難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)上の難民に該当する等と主張して、本件裁決、本件退令発付処分の取消し、本件不認定処分の主位的には無効確認、予備的に取消しを求めた事案である。 1 前提となる事実(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いのない事実か、弁論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)(1) 原告は、1973年(昭和48年)3月3日に、5人兄弟の長男として出生したアフガニスタン国籍を有する外国人である(乙7の1添付資料)。 (2) 原告は、1995年(平成7年)6月29日、アフガニスタンのジヤウジャン州で旅券の発効を受け、1998年(平成10年)3月30日、アラブ首長国連邦(以下「UAE」という。)のアブダビのアフガニスタン大使館で旅券の更新をした(有効期限2001年3月29日、乙35,36の各添付資料)。 (3) 原告は、これまでパキスタン・イスラム共和国(以下「パキスタン」という。)にある日本大使館から発給を受けた渡航証明書を用いて6回にわたり本邦に入国し、中古自動車部品の買い付けをするなどしていた。原告の本邦への出入国歴は以下のとおりである(乙37)。 ① 1997年(平成9年)4月2日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸し、同年6月29日に出国。なお、同年4月14日、居住地を千葉県佐倉市abとして外国人登録を行っている。 ② 1997年(平成9年)10月15日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上 邦に上陸し、同年6月29日に出国。なお、同年4月14日、居住地を千葉県佐倉市abとして外国人登録を行っている。 ② 1997年(平成9年)10月15日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸し、1998年(平成10年)1月13日に出国。なお、1997年(平成9年)12月12日、居住地を千葉県四街道市cdとして外国人登録を行っている。 ③ 1998年(平成10年)7月1日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸し、同年9月26日に出国。 ④ 1999年(平成11年)3月8日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸し、同年6月5日に出国。なお、同年3月9日、居住地を千葉県佐倉市abとして外国人登録を行っている。 ⑤ 1999年(平成11年)9月22日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸し、同年12月20日に出国。 ⑥ 2000年(平成12年)4月24日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸し、同年7月22日に出国。なお、同年4月24日、居住地を千葉県佐倉市abとして外国人登録を行っている。 原告は、渡航証明書を得るため、2000年(平成12年)12月4日付けで在パキスタン日本大使館に査証を申請したが(乙36)、査証を受けることはできなかった。 原告は、パキスタンの滞在査証を有しており、上記査証申請時の有効期限は、2001年(平成13年)4月22日までであった(乙36添付資料)。 (4) 原告は、本邦において難民申請をしようと考え、パキスタンのブローカーに依頼して2001年(平成13年)7月13日、パキスタンから航空機によりシンガポールを経由して大韓民国に到着し(乙111)、同月25日ころ、釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発し、同月30日ころ、横浜港に到着し、本邦に不法入国し 7月13日、パキスタンから航空機によりシンガポールを経由して大韓民国に到着し(乙111)、同月25日ころ、釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発し、同月30日ころ、横浜港に到着し、本邦に不法入国した。 その後、原告は、千葉県佐倉市内及び東京都八王子市(以下「八王子市」という。)内の知人のアフガニスタン人居宅に居住していた。 (5) 原告は、同年8月17日、八王子市長に対し、同市efgコーポhを居住地として、外国人登録の新規登録申請をした(乙7の1)。 (6) 原告は、同年8月20日、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)において、法務大臣に対し、難民認定申請をした(乙8)。 東京入管難民調査官は、同年9月12日、同月19日及び同年12月27日、難民調査を実施した(乙27、28、29)。 (7) 東京入管入国警備官は、同年10月3日、違反調査を実施し(乙7の1及び2)、原告が法24条1号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、東京入管入国審査官から収容令書の発付を受け(乙9)、同日、同令書を執行して原告を東京入管収容場に収容し、同月5日、法24条1号該当容疑者として東京入管入国審査官に引き渡した(乙10)。 (8) 東京入管入国警備官は、同年10月15日及び11月14日、違反調査を実施した(乙7の3及び4)。 (9) 被告東京入管入国審査官は、同年10月5日、17日及び19日、違反審査を実施し(乙11の1ないし3)、原告が法24条1号に該当する旨認定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同月19日、東京入管特別審理官に対し口頭審理を請求した(乙12)。 (10) 被告東京入管入国審査官は、同月31日、本件収容令書に基づく収容期間を同年12月1日まで延長した(乙9)。 (11) 東京入 入管特別審理官に対し口頭審理を請求した(乙12)。 (10) 被告東京入管入国審査官は、同月31日、本件収容令書に基づく収容期間を同年12月1日まで延長した(乙9)。 (11) 東京入管特別審理官は、同年10月30日、口頭審理を実施し(乙13)、入国審査官の上記認定に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知したところ(乙14)、原告は、同日、法務大臣に対し異議の申出をした(乙15)。 (12) 被告法務大臣は、同年11月20日、原告からの上記(6)の難民認定申請について、不認定処分をし、同月26日、原告に告知したところ(乙16)、同月28日、異議の申出をした(乙17)。 (13) 被告法務大臣は、同月27日、原告からの上記(11)の異議の申出については、理由がない旨裁決し(乙18)、同裁決の通知を受けた被告東京入管主任審査官は、同日、原告に本件裁決を告知するとともに(乙19)、退去強制令書を発付した(乙20)。 (14) 東京入管入国警備官は、同日、本件退令を執行し、引き続き原告を東京入管収容場に収容した後、入国者収容所東日本入国管理センター(以下「東日本センター」という。)に移収した(乙20)。 (15) 原告は、同年12月12日、本件裁決及び本件退令発付処分の取消しを求めて本件第1事件の訴えを提起した。 (16) 原告は、平成14年2月25日、主位的に本件不認定処分の無効確認、予備的に同処分の取消しを求めて本件第2事件の訴えを提起した。 (17) 東京入管入国警備官は、平成14年7月1日、原告を仮放免した(乙20)。 2 争点及び争点に関する当事者の主張本件の争点は、本件各処分の適法性であり、その内容は原告の難民該当性である。なお、原告は、従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、平成15年4月16日付け 2 争点及び争点に関する当事者の主張本件の争点は、本件各処分の適法性であり、その内容は原告の難民該当性である。なお、原告は、従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、平成15年4月16日付け意見書において、主要な争点は原告の難民該当性の有無であることを主張し、同年6月27日付け意見書において、原告の難民該当性以外の争点については、第一審において争わない旨を明らかにしたことが、当裁判所に明らかである。 (1) 原告の主張被告法務大臣は、原告が難民であるにもかかわらず、原告のした難民認定申請を認めなかったのであるから、本件不認定処分は重大かつ明白な瑕疵があるというべきものであって、無効又は取り消されるべきである。 また、被告法務大臣は、原告の法49条1項の異議の申出に対して、在留特別許可を認めずに異議の申出に理由がない旨の本件裁決をしたが、原告の難民該当性を看過した同被告の判断には重大かつ根本的な事実誤認による裁量権の逸脱があって、本件裁決は違法であるから、本件裁決は取り消されるべきである。 さらに、本件退令発付処分は、法務大臣の異議の申出に理由がない旨の裁決が適正に行われたことを前提として発付されるものであるところ、前提となる処分が取り消されるべきものであることは上記のとおりであって、退去強制令書の発付もその根拠を欠くものであるから、本件退令発付処分は違法として取り消されるべきである。 ア難民認定の際の立証基準の解釈の在り方(ア) 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民として認定することが義務付けられているから、いかなる者が難民として認定されるべきかは、難民条約の規定及び解釈により決せられるべきである。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的安定性の確保という一般の争訟の目的と異なること、難民認定制度は いかなる者が難民として認定されるべきかは、難民条約の規定及び解釈により決せられるべきである。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的安定性の確保という一般の争訟の目的と異なること、難民認定制度は、証明対象を一般の争訟手続と異にすること、判断の誤りにより侵害される法益は重大であり、事後回復が不可能であることからすれば、難民認定手続における立証基準は、これまでの同手続の実務において形成されてきた様々なルール(例えば、後記の供述の信ぴょう性に関する議論や、灰色の利益のルール等)に共通する「難民の可能性のある者の取りこぼしをせず、できるだけ広く保護の網をかぶせる」という姿勢を念頭において検討されるべきである。 (イ) 上記を前提とすると、難民条約締結国における判例等で示された解釈も、難民認定手続における立証の在り方を考える重要な手がかりとなる。 そして、アメリカ合衆国においては、「十分に理由のある恐怖」については、迫害を受ける可能性が50パーセント以下であっても、その者が抱く恐怖には十分に理由があるといえると判断されている(カルドサ・フォンセカ事件に関する1987年連邦最高裁判所判決)。また、カナダにおいては、同文言の解釈に際しては、迫害を受ける合理的見込み、あるいはそう信じる十分な基盤があれば足りる旨が示されている(アジェイ事件に関する1989年1月27日ブリティッシュコロンビア州バンクーバー連邦控訴裁判所判決)。さらに、英国においても、同文言は、客観的な状況ではなく本人の立場に立った状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴァクラマン事件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいても、迫害発生率がたとえ50パーセント以下であっても十分に理由のある恐怖になり得ることが明らかにされている(チャン事件にお 事件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいても、迫害発生率がたとえ50パーセント以下であっても十分に理由のある恐怖になり得ることが明らかにされている(チャン事件における1989年最高裁判所判決、オーストラリア難民再審査委員会1995年8月11日決定及び同委員会1997年9月17日決定等)。 このように、諸外国の判例等は、「十分に理由のある恐怖」の立証について、極めて緩やかな判断基準を用いている。 (ウ) 以上の検討によれば、「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、主観的な恐怖に十分な理由があることであり、十分な理由とは、当該申請者がおかれた状況に合理的な勇気を有する者が立ったときに、帰国したら迫害を受けるかもしれないと感じ、国籍国への帰国をためらうであろうと評価し得る場合を指すものというべきである。 イ難民認定における信ぴょう性判断の在り方について(ア) 難民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や種々の要因(例えば、証拠収集が困難であるという物理的要因、申請者の心的ストレスによる記憶の変容等の心理的要因、言語的障害等の文化的要因、対審構造が取られていないことに由来する構造的要因)等にかんがみ、慎重な検討が必要である。 (イ) したがって、難民認定手続に際しては、証拠の一部が信ぴょう性に欠けるとしても全ての証拠を検証すべきであり、信ぴょう性を否定する場合には、合理的な理由に基づかなければならない。また、申請者の供述に一貫性や誠実性が認められる場合には、補強証拠がなくとも信ぴょう性を認めるべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容の変遷等があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう性が見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認 めるべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容の変遷等があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう性が見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認定される可能性があるというべきである。 (ウ) さらに、前記(ア)の特殊性にかんがみれば、難民認定に際しては、「疑わしきは申請者の利益に」という原則(いわゆる「灰色の利益」の原則)が妥当するというべきであり、同原則は、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア等の実務・判例で採用されている。 (エ) そして、以上のような信ぴょう性判断の在り方は、難民認定行為をする機関のみにとどまらず、その処分の適法性を判断する裁判所にも妥当するものである。 ウアフガニスタン一般情勢について(ア) ハザラ人は、2300年以上前から現在のアフガニスタン地域に居住する先住民族であり、1880年代までは現在のアフガニスタン中央部に広がるハザラジャットという山岳地帯で完全な自治を確立していたものの、1890年代に王位についたパシュトゥーン人の王によって決定的な変容を迫られ、以後3回にわたり反乱を起こすも失敗に終わり、それ以降ハザラ人は社会的、経済的に社会の最下層として差別を受けている。 (イ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は様々な政党を結成し、連合、解散を繰り返して来たが、1990年代に入り、ヘズベ・ワハダット党(以下「イスラム統一党」ということもある。)とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。しかし、ヘズベ・ワハダット党は、ナジブラ政権崩壊後に成立した暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構成されたため、結局のところシーア派ハザラ人は無視され、1993年(平成5年)2月には、西カブールのアフシャー 成立した暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構成されたため、結局のところシーア派ハザラ人は無視され、1993年(平成5年)2月には、西カブールのアフシャール地区において数百人のハザラ人がラバニ大統領とその司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。 (ウ) ヘズベ・ワハダット党は、1995年(平成7年)2月、マスード部隊の攻撃に対処するため、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンはヘズベ・ワハダット党を援助することなく、政府軍の攻撃に耐えられず撤退する際に、マザリ師を連行する等して同党を裏切った。その後マザリ師は死体で発見されたことから、シーア派ハザラ人の活発な活動と苦闘は終局し、ハザラ人は、以後タリバン政権下で迫害を受けることとなった。 (エ) タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体とするイスラム原理主義の急進主義者であり、1995年(平成7年)以降、急激に勢力を増大すると、1996年(平成8年)9月にはアフガニスタンの首都カブールを占拠した。これに対しムジャヒディン各派は、反タリバン勢力として統一戦線(以下「北部同盟」ということがある。)を結成し、その後タリバン政権が崩壊するまで、両者の間の内戦が継続した。北部同盟は、タジク人を主体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。 少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下において迫害対象になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シーア派に属することから、タリバンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とされ、1998年(平成1 人、ウズベク人は、タリバン政権下において迫害対象になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シーア派に属することから、タリバンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とされ、1998年(平成10年)8月8日にタリバンがマザリシャリフを攻略したときには、何千人ものハザラ人の一般市民が、計画的かつ組織的に虐殺され、生き残った者に対しては、改宗か死かの選択が迫られた。1998年(平成10年)9月には、バーミヤンにおいて、同様にハザラ人の一般市民が虐殺された上、同年には、ヘズベ・ワハダット党の支持者ないし党員と疑われた700人以上のハザラ人が投獄されたこと等が報道されている。 (オ) 2001年(平成13年)12月、タリバンは、アフガニスタンにおいて統治機能を喪失し、同月22日には、かつての北部同盟を中心とする暫定政権が発足したと報道された。しかし、アフガニスタンにおけるハザラ人迫害はタリバン誕生前からのものであり、かっての北部同盟構成各派がハザラ人迫害を行ってきたこと、今なおタリバン復権の動きが見られること、暫定政権は米国や国連の後ろ盾手によって辛うじて支えられている状況であること等からすれば、タリバンが崩壊したとの報道のみでハザラ人に対する迫害の危険がなくなったと判断するのは早計にすぎる。同暫定政権において、ハザラ人勢力は、重要性の低い5つのポストを与えられたのみであり、北部同盟内部についても、分裂が危惧される状況にある。 (カ) 上記(オ)のような不安定な状況においては、タリバン崩壊及び暫定政権の発足という事実のみによりハザラ人迫害の歴史に本質的な変化が生じたと認めることはできない。したがって、本件各処分当時、シーア派ハザラ人は、シーア派ハザラ人であることのみをもってアフガニスタンにおいて、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあ 質的な変化が生じたと認めることはできない。したがって、本件各処分当時、シーア派ハザラ人は、シーア派ハザラ人であることのみをもってアフガニスタンにおいて、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められる。実際に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として難民該当性が認められた例は数多く存在し、とりわけオーストラリアに関しては、公開されているケースの中で、アフガニスタン国籍のハザラ人が難民と認定されなかったケースは存在していない。 (キ) 被告らは、国際機関等から、およそシーア派ハザラ人であれば殺害されるという報告はされておらず、タリバン支配地域の非パシュトゥーン人について、民族浄化は経験されなかった旨主張する。 しかしながら、被告らがその主張の根拠とする連合王国の2001年(平成13年)4月に公表された「アフガニスタンアセスメント」(乙21)においても、1998年(平成10年)8月に、タリバンがマザリシャリフにおいて、「シーア派マイノリティ、ハザラ人屠殺作戦」あるいは「ハザラ人を根絶するための作戦」と評される虐殺をしたこと、ハザラ人少数民族が、主として拘束の標的とされた旨の報告がされたことが明記されている。また、デンマーク移民サービス局の「アフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告」(乙45)によれば、ハザラ人は、その民族のために反タリバン勢力であるワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているために攻撃を受ける旨が記載されており、また、ワーダット党とのつながりを疑われるという理由で、その疑いの客観的な根拠もなく暴力が行われる場合もあるとの記載が認められる。さらに、東京弁護士会からUNHCRへの照会に対する回答(甲194の3)からも、およそシーア派・ハザラ人であれば う理由で、その疑いの客観的な根拠もなく暴力が行われる場合もあるとの記載が認められる。さらに、東京弁護士会からUNHCRへの照会に対する回答(甲194の3)からも、およそシーア派・ハザラ人であれば殺害されるという報告がされたと解されるのであって、民族浄化が経験されなかったとする被告らの主張は、文献資料の恣意的な引用に基づく不当なものであるといわざるを得ない。被告らは、東京入管難民調査部門入国審査官の報告書(乙50)を引用して、実際に平成13年6月にカブールを訪れた際、特にハザラ人であることから迫害されている様子は確認されなかった旨を主張するが、実質的な調査期間がわずか2日間であったこと、同審査官の訪問の目的は現地NGO視察であって、人権状況調査ではなかったこと、判断の根拠もカブール西部地区を車で通過した際に、ハザラ人が店舗を並べていたこと等内実に乏しいものであることからすると、このような資料に何ら証拠価値を見いだすことはできない。 被告らは、タリバンにはハザラ人も含まれていたことを指摘するが、確固たる情報源によるものではなく、また仮に含まれていたとしても、取るに足りない程度の勢力であったことが明らかである。また、被告らは、マザリシャリフ、バーミヤン、ヤカウラン等で行われた虐殺は、報復行為として行われた側面が強いことを指摘するが、仮にそのような側面があったとしても、その背景に宗教的・民族的な要因があったことは、前記に指摘した被告ら提出の書証の記載等からも明らかであり、シーア派ハザラ人に対する民族的・宗教的な理由に基づく迫害の事実を否定することはできない。 エパキスタン及びUAEにおけるアフガニスタン人の状況複数の文献によれば、パキスタン政府のアフガニスタン難民の受け入れ政策は厳格になっており、パキスタンへの入国を制限するほか、退去 できない。 エパキスタン及びUAEにおけるアフガニスタン人の状況複数の文献によれば、パキスタン政府のアフガニスタン難民の受け入れ政策は厳格になっており、パキスタンへの入国を制限するほか、退去強制の対象としていること、パキスタン国内のアフガニスタン人がパキスタン警察による恣意的な逮捕、脅迫、殴打の対象となっており、賄賂を要求され、支払った者は釈放されるが、そうでない場合は殴打され強制送還されていることが報告されている。特にハザラ又はタジク民族に属するアフガニスタン人にとってパキスタンは安全は庇護国とはいえないというのがUNHCRの見解となっている。 オ原告の難民性について(ア) 原告は、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であり、本件各処分当時、タリバンによる迫害の対象となっていたから、難民条約上の難民に該当することは、前記のとおりである。そして、原告の供述によれば、原告及びその家族は、個別的にもタリバンによる迫害を受けたことが認められるから、原告は難民条約上の難民に該当する。 (イ) 原告の個別的迫害の状況は、以下のとおりである。 ① 原告は、アフガニスタン国籍の父B、母Cのもと、5人兄弟の長男として1973年(昭和48年)3月3日、アフガニスタンのiで出生し、5ないし6歳ころからカブールに居住していたが、1993年ないし1994年ころムジャヒディン間の内線が激化し、戦闘が終了するまで自宅の地下室に隠れることを余儀なくされた。 ② このような中、原告は、ハザラ人勢力であるイスラム統一党から「寄付をするか、軍隊に参加するか、この地区から出ていくか。」迫られ、4回くらいにわたり、合計100万アフガニ(当時のアフガニスタンでは3ないし4年分の収入に相当する。)を支払った。原告の親戚には、イスラム統一党の軍隊に参加させられ、戦闘 から出ていくか。」迫られ、4回くらいにわたり、合計100万アフガニ(当時のアフガニスタンでは3ないし4年分の収入に相当する。)を支払った。原告の親戚には、イスラム統一党の軍隊に参加させられ、戦闘に巻き込まれて死亡した女性もいた。 ③ 1996年(平成8年)9月ころ、タリバンがカブール市内を制圧するようになると、原告の周囲の者がイスラム統一党の支援者であるとしてタリバンに連行され、また多数の若いハザラ人が連行されるようになった。 原告は、1996年(平成8年)11月15日の深夜に自宅で寝ていたところ、父から「起きろ、ドアの向こうからパシュトゥーン語が聞こえた。タリバンが来ているから逃げろ。」と言われ、自宅の屋上に出て、他の家屋の屋上を伝って逃げ出したところ、タリバンに後方から右足の大腿部を狙撃された。 原告は、知り合いのハザラ人に助けを求め、かくまってもらった。その後夜間に会いにきた家族と相談しパキスタンのペシャワールに逃げることにした。 ④ 1997年(平成9年)6月ころ、父がタリバンに連行されたため、カブールから妻子を含む家族がペシャワールに避難してきた。母の話では、タリバンの兵士らが「息子はどこにいる。パキスタンに送り込んだだろう。」などと言って父を連行し、4ないし5日後に母が面会に行ったところ父の身体は拷問のため痣だらけになっており、1週間後再び面会に行ったが「ここにいない。」と言われて行方が分からなくなってしまった。 ⑤ その後、原告は、1997年(平成9年)から2000年(平成12年)6月までの間、家族とともにペシャワールに居住し、時々UAEや日本に赴いて中古部品の買い付けの仕事などをしていたが、ペシャワールではアフガニスタンから出国してきた多くの難民に対して、パキスタン 年)6月までの間、家族とともにペシャワールに居住し、時々UAEや日本に赴いて中古部品の買い付けの仕事などをしていたが、ペシャワールではアフガニスタンから出国してきた多くの難民に対して、パキスタンの警察官が恐喝や暴行を行い、退去強制をおこなったりする事態が相次ぎ、原告も同様の被害を度々受けていた。 2001年(平成13年)6月ころ、原告が2人の子供と通りを歩いていると、パキスタンの警察官から呼び止められ、公衆の面前で、また、2人の子供の目の前で屈辱的な暴行を受け、もはやパキスタンに滞在することはできず、出国して、以前に行ったことのある本邦で難民認定申請することを決意し、パキスタン人のブローカーを紹介してもらい、1万2000ドルを支払い、同年7月初め頃、ペシャワールからカラチへ移動し、シンガポール、ソウルを経由した上、釜山港から貨物船で本邦に不法入国した。 カ原告の供述の信用性(ア) 客観的事実との符合① 原告の身上に関する原告の供述以外の証拠としては、原告の旅券の写し(乙7の1添付資料、乙35別添資料7、乙36別添資料7)、在パキスタン日本大使館に提出した査証申請書の写し(乙35別添資料1、乙36別添資料1)、在パキスタン日本大使館発行の渡航証明書(乙35別添資料8ないし13、乙36別添資料8ないし13)、外国人入国記録カード写し(乙37添付資料)があるが、これらの記載と原告の供述はいずれも一致している。 ② 原告が供述する旅券取得及び更新の状況、UAE及びパキスタンにおける在留状況、在留資格及び在留期間、今回本邦に入国するまでの6回の出入国における査証の取得状況、出入国状況、居住状況についても、旅券の写し(乙7の1添付資料、乙35別添資料7、乙36別添資料7)、在パキスタン日本大使館に提出した査証申請書 に入国するまでの6回の出入国における査証の取得状況、出入国状況、居住状況についても、旅券の写し(乙7の1添付資料、乙35別添資料7、乙36別添資料7)、在パキスタン日本大使館に提出した査証申請書の写し(乙35別添資料1、乙36別添資料1)、在パキスタン日本大使館発行の渡航証明書(乙35別添資料8ないし13、乙36別添資料8ないし13)、東京入管審査管理部門入国審査官が調査した原告の出入国状況及び外国人登録状況(乙37)と一致している。 ③ 原告が、西カブールのダシテバルシェに居住するようになった後、1996年(平成8年)9月にタリバンがカブールを制圧するまでの状況及びタリバンがカブールを支配した後、同年11月にタリバンに銃撃され、ペシャワールへ出国するまでの状況についての原告の供述は、アフガニスタンにおけるタリバンの台頭及びカブールの制圧等の歴史的経緯、英国移民局が2001年(平成13年)4月に作成したアフガニスタン・アセスメントの報告等と合致している。 ④ 原告が1996年(平成8年)11月15日ころ、自宅からタリバンに連行されそうになり、屋上を伝って逃走したと供述する点については、原告代理人が作成した報告書(甲161・32頁)におけるダシテバルシェの家屋の状況と合致する。 ⑤ 原告が背後からタリバンに右足の大腿部を銃撃され、その後、パキスタンのペシャワールに逃避したと供述する点については、原告の右足の大腿部の傷跡の状況と合致している。 ⑥ 原告が、2001年(平成13年)6月ころ、ペシャワールでにパキスタンの警察から暴行を受けた状況についての供述は、アムネスティ・インターナショナルが同年6月29日に発表したニュース等と合致している。 ⑦ 被告らは、原告が、今回本邦に入国するまでの6 キスタンの警察から暴行を受けた状況についての供述は、アムネスティ・インターナショナルが同年6月29日に発表したニュース等と合致している。 ⑦ 被告らは、原告が、今回本邦に入国するまでの6回の入国において提出した外国人入国記録カードの写しの住所欄には、マザリシャリフ、カブール、ペシャワール、マザリシャリフ、ペシャワールと記載されており、原告の供述と矛盾する旨主張するものとも思われる。 しかし、原告は、英語の読み書きができないことから、同行した者が外国人入国記録カードの記入を行い、自らはその者の指示にしたがって署名をしたが、これらの住所の記載については重要と思っていなかったものである。このことは、外国人入国記録カードの署名以外の記載については一見して異なる筆跡によるものであること(乙37、添付資料)、原告が在パキスタン日本大使館に提出した査証申請書について2000年(平成12年)3月27日付けのものと同年12月4日付けの記載とが一見して異なる筆跡によるものであることからも裏付けられる。 (イ) 内容の自然性及び合理性原告の供述は、その内容において、極めて自然であり、合理性を有するものであるところ、特に原告が1996年(平成8年)11月にタリバンに銃撃され、ペシャワールに出国した状況、1997年(平成9年)前半に父がタリバンに連行されたことから、ペシャワールに逃避していた家族と再会した状況及び2001年(平成13年)6月ころ、ペシャワールでパキスタンの警察から暴行を受けた状況に関する供述は、極めて具体的かつ詳細であり、実際に事実を体験した者しか供述することのできない迫真性を有するものである。 被告らは、原告が違反調査が開始された当初は「タリバンに命をねらわれる経験があった。」旨の抽象的な供述 あり、実際に事実を体験した者しか供述することのできない迫真性を有するものである。 被告らは、原告が違反調査が開始された当初は「タリバンに命をねらわれる経験があった。」旨の抽象的な供述に終始していたにもかかわらず、口頭審理において「足を撃たれた。」旨供述を具体的に変遷させているのは不自然である旨主張するが、原告は2001年(平成13年)8月20日、東京入管に難民認定申請した際の申請書には「1996年11月、機関銃による銃撃を受け足を負傷した。タリバンによる捜索を受けて自宅から逃走するところであった。」旨記載されており(乙26)、難民認定申請を行った当初から「足を撃たれた」という迫害状況を一貫して供述していたものであり、被告の主張には根拠がない。 被告らは、原告が、1996年(平成8年)以降パキスタンに滞在しながら、同国において庇護を求めず、その間、本邦に6回短期滞在していたが、その際にも保護を求めていないのであり、また、原告の家族が現在もパキスタンに居住しており、迫害から逃れて他国に保護を求める者の行動としては不自然である旨主張するが、原告は1996年(平成8年)にタリバンに銃撃され、パキスタンに逃れた後はアフガニスタンには帰国していないのであるから、パキスタン、日本、UAEにおいて在留資格を取得して滞在していたとしても、それが難民として特段不自然な行動であるとはいえない。原告がパキスタンに保護を求めていないのは、パキスタンがタリバンを政府承認している数少ない国であり、難民条約にも加盟していないことや、アフガニスタン人がパキスタン警察による恣意的な逮捕の対象となっていることからすれば、ハザラ人にとってパキスタンは到底安全であるとは言えないからである。本邦に短期滞在した際に保護を求めていないのは、アフガニスタ 人がパキスタン警察による恣意的な逮捕の対象となっていることからすれば、ハザラ人にとってパキスタンは到底安全であるとは言えないからである。本邦に短期滞在した際に保護を求めていないのは、アフガニスタンの状況が好転するのではないかとの希望を持っていたが実際は悪化する一方であったからであり、タリバンが1996年(平成8年)9月にカブールを制圧した後、その支配地域を拡大していったという歴史的経緯を考慮すれば、この点も格段不自然なものではない。 被告らは、原告は、アフガニスタンの隣国のUAEに滞在し中古自動車部品の販売業に従事していた経歴を有するものであるが、同国への入国によって難を逃れることができた原告が、何故、遠方の本邦に多額の手数料を払って渡航する必要があったのかについて合理的な説明がない旨主張するが、原告がUAEに保護を求めていないのはUAEがタリバンを政府承認している数少ない国であり難民条約にも加盟していないからであり、安全に生活できる国で平穏に過ごしたいと考え、以前に滞在した本邦を選んだことは何ら不自然ではない。 被告らは、原告と母が逃亡する際、母がパキスタンとアフガニスタンを往復した際、原告の妻子がパキスタンに逃亡する際、何らかの問題が生じた旨の供述がなく、また、他の兄弟に何らかの迫害等があった旨の供述もないことから、原告とその家族に差し迫った危険があったとは考えられない旨主張するが、原告はタリバンに銃撃され、このままでは生命に危険があったことからすれば、原告に差し迫った危険があったことは明らかであり、原告やその家族がトルハムで国境を通過した際には、担当官に賄賂を支払うことにより通過させてもらった旨供述していること、原告の父がタリバンに連行されたことから他の兄弟もペシャワールに逃避してきていること、原告の 族がトルハムで国境を通過した際には、担当官に賄賂を支払うことにより通過させてもらった旨供述していること、原告の父がタリバンに連行されたことから他の兄弟もペシャワールに逃避してきていること、原告の弟のDがパキスタンからイギリスに出国し、難民認定申請していることからすれば、被告らの主張には根拠がない。 (ウ) 供述の一貫性原告の供述は、難民認定手続及び退去強制手続きにおける供述調書、報告書(甲3、4)及び原告本人尋問を通じて、その細部にわたるまで一貫して述べられている。 被告らは、本邦への入国経緯について、退去強制手続においては、パキスタンから韓国までブローカーが同伴していた旨供述していたのに対し、執行停止申立書においては、単独でパキスタンを出て韓国に行ったと主張しているとして両者に齟齬がある旨主張するが、上記申立書には、ブローカーが同行していたと記載されており、単独で行ったという記載が家族と離れて単身渡航したという意味であることは明らかである。 被告らは、釜山港から本邦への渡航手段につき、退去強制手続においては貨物船と供述していたところ、執行停止申立書においては、漁船と申し立てており、齟齬がある旨主張するが、難民認定手続及び退去強制手続における供述調書、報告書(甲3)のいずれにおいても貨物船と一貫して供述しており、些細な違いでそもそも供述の変遷と評価することはできない。 被告らは、原告は、故意に自己名義のアフガニスタン旅券を所持しないで本邦に入国した旨供述していながら(乙7の1)、当該アフガニスタン旅券はブローカーに取り上げられた旨供述する(乙7の2)など一貫性のない供述をしている旨主張するが、被告らが、原告が故意に旅券を所持しないで本邦に入国した旨供述したと指摘する供述調書には「旅券はブ 旅券はブローカーに取り上げられた旨供述する(乙7の2)など一貫性のない供述をしている旨主張するが、被告らが、原告が故意に旅券を所持しないで本邦に入国した旨供述したと指摘する供述調書には「旅券はブローカーに渡していた。ブローカーとは韓国で別れたが、旅券は返してもらえなかった。」旨記載されており、一貫性がないとの主張には根拠がない。 被告らは、不法残留していながら不法入国した旨虚偽の供述をしていた他のアフガニスタン人の難民認定申請者を例にとって、同趣旨の供述をしている原告においても虚偽供述している可能性がある旨主張するが、単なる憶測にすぎず、原告の供述の信用性に何らの影響も与えるものではない。 被告らは、原告は、入国後直ちに難民認定申請の手続をとっていない理由について、2001年(平成13年)10月15日の取調べにおいては申請方法の不知のみを理由としていたが(乙7の3)、同月17日の取調べでは体調不良を理由として追加するなど供述に変遷が見られれる旨主張するが、そもそも、原告は入国後速やかに難民認定申請を行っていることに加え、前者は来日後申請まで20日間を要した説明であるのに対し、後者は本邦到着時点で申請しなかった理由の説明であることからすれば、供述には何ら変遷は見られず、その主張には根拠がない。 被告らは、原告が1996年(平成8年)11月15日ころタリバンに銃撃された後に、難民認定手続における調査では親戚の家に逃げ込んだと供述したが、報告書及び異議申出手続では知り合いの家に逃げ込んだと供述しており内容が変遷している旨主張するが、この点について原告は、逃げ込んだ家とは血縁関係はなく「qoum」というダリ語で説明したところ、通訳がこれを親戚と訳したからではないかと供述しており、同単語には国民、民族、部族、親戚と複数の語義がある 点について原告は、逃げ込んだ家とは血縁関係はなく「qoum」というダリ語で説明したところ、通訳がこれを親戚と訳したからではないかと供述しており、同単語には国民、民族、部族、親戚と複数の語義があることからすれば、その説明には合理性があり、原告の供述が変遷したと評価できるものではない。 (エ) このように原告の主張する事実は、客観的事実に符合し、その内容も自然であり合理性を有するほか、概ね一貫していると認められるから、十分信用することができる。そして、これらの事実に照らせば、原告が、本件各処分当時アフガニスタンに帰国した場合、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあると信じる相当な理由が認められる。したがって、原告は難民条約上の難民に該当するというべきである。 (オ) これに対し、被告らは、原告には迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖が認められない旨主張するが、被告らの主張は以下のとおり理由がない。 a 被告らは、原告がパキスタンにおいて受けた迫害については、パキスタンの警察から脅迫されて現金を奪われたり、子供の面前で暴行されたりしたという程度のものであり、迫害と評価できるものではない旨主張する。 しかし、アフガニスタン国籍を有する原告の難民該当性の判断にあたって検討されるべきは、原告がアフガニスタンに戻ったとすれば迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するか否かであり、パキスタンにおいて原告が受けた迫害の程度は、原告の難民該当性の判断を何ら左右するものではない。 b 被告らは、原告は今回本邦に入国するまで6回の入国において中古車部品の買付目的で来日していたところ、2000年(平成12年)12月4日に在パキスタン日本大使館に査証申請を行ったが、これを拒否されたことから、中古 は今回本邦に入国するまで6回の入国において中古車部品の買付目的で来日していたところ、2000年(平成12年)12月4日に在パキスタン日本大使館に査証申請を行ったが、これを拒否されたことから、中古車部品の買付目的で不法入国した旨主張する。 しかし、原告は子供の面前でパキスタンの警察官から暴行を受け、ペシャワールにおけるアフガニスタン難民の状況が悪化していたことから、ペシャワールに滞在し続けることはできないと考え、家族と相談し、安全に生活できる国に出国することを決意し、本邦に不法入国して難民認定申請したと供述するところ、この供述内容は、アムネスティ・インターナショナルが2001年(平成13年)6月29日に発表したニュースにおけるパキスタンにおけるアフガニスタン難民の状況と合致しており、十分信用できる。 もっとも、原告が、本邦を選択して、本邦に不法入国した背景には、原告が今回本邦に入国するまで中古車部品の買付けという商用目的で6回来日した経験を有していたことから本邦で生計を立てることができる見込みがあったことは考えられるが、難民認定申請する者が、できるだけ生計を立てる見込みがある国を選択したいという心情は極めて自然であり、このような心情を有していたからといって、責められるべき事情は存しない。 そもそも、原告の難民該当性の判断にあたって検討されるべきは、原告が国籍国であるアフガニスタンに戻ったとすれば迫害を受けるおそれがあるか否かであるから、原告がペシャワールから本邦に向けて出国した動機に本邦で就労する目的が含まれていたとしても、原告の難民該当性の判断が左右されるものではない。 c 被告らは、本件が組織的な不法入国事案であり、原告は、難民認定制度に乗じて就労目的で入国した旨を主張する。しかし、難民条約 含まれていたとしても、原告の難民該当性の判断が左右されるものではない。 c 被告らは、本件が組織的な不法入国事案であり、原告は、難民認定制度に乗じて就労目的で入国した旨を主張する。しかし、難民条約上の難民に該当すれば、原告の入国の態様が組織的背景を有する不法入国事案であるか否かは原告の難民該当性に何の影響も与えないというべきであるし、就業の動機と難民認定申請の意思は併存し得るものである。また、原告と同時期に不法入国を摘発された者の中には、原告と類似した迫害の事実を主張する者もいるが、これをもって不自然であるということはできないし、原告の難民認定申請の際にも通訳等を務めたEが、実は本邦におけるブローカーの手引をしており、中古車自動車販売業に関わるアフガニスタン人の難民認定申請について積極的に主導した可能性がある等とする部分は、単なる憶測を述べているにすぎず、到底事実と認めることはできない。したがって、被告らの主張には、いずれも理由がないというべきである。 (2) 被告らの主張ア本件不認定処分の適法性について原告は、「人種」及び「宗教」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそれがあり、国籍国の保護を受けることができないとして本件不認定処分の取消しを求めているが、原告の主張は、以下のとおり理由がない。 (ア) 難民、迫害の意義について法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにそ こと又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされている。そして、その「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要である(東京地裁平成元年7月5日判決・行裁例集40巻7号913頁、東京高裁平成2年3月26日判決・行裁例集41巻3号757頁)。 ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認定は、上記難民の定義に照らし、申請者各人につき、その申請内容の信ぴょう性等も吟味し、各人の個別の事情に基づいてされるべきであるところ、難民であることの立証責任は、申請者が負うべきである。つまり、いかなる手続を経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条約に規定がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我が国においては、法61条の2第1項において、被告法務大臣は、申請者の「提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定を行うことができる」と規定し、法61条の2の3において、被告法務大臣は、申 我が国においては、法61条の2第1項において、被告法務大臣は、申請者の「提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定を行うことができる」と規定し、法61条の2の3において、被告法務大臣は、申請者により「提出された資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又は取消しに関する処分を行うため必要がある場合には、難民調査官に事実の調査をさせることができる」と規定していることからも明らかなとおり、難民認定申請者が、まず自ら条約に列挙された事由を理由として迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情があり、かつ、通常人が当該人の立場におかれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在していることを認めるに足りるだけの資料を提出することが求められている。 そして、難民ないし迫害の意義において難民と認定されるための要件とされる、当該人が抱くであろう迫害の恐怖は、単に迫害を受けるおそれがあるという抽象的な可能性では足りず、迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような現実的で個別かつ具体的な事情が存することが必要である。 (イ) シーア派・ハザラ人に属することのみをもって、難民該当性が認められることがないこと① ラバニ政権が成立した1992年(平成4年)以降のアフガニスタンにおいて、ハザラ人を基盤とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イスラム統一党マザリー派(ハリリ派、ハザラ人が主体)、同アクバリー派(ハザラ人主体)、イスラム運動(ハザラ人主体だがパシュトゥーン人も含まれる)、イスラム国民運動党(ウズベク人主体だがハザラ人も含まれる)、タリバンがある。そして、各グループは、それぞれ複雑な対立構造の下に上記グループ相互の間で、あるいは上記グループと外のグループとの間で抗争を繰り返しており (ウズベク人主体だがハザラ人も含まれる)、タリバンがある。そして、各グループは、それぞれ複雑な対立構造の下に上記グループ相互の間で、あるいは上記グループと外のグループとの間で抗争を繰り返しており、タリバン台頭以前のアフガニスタン情勢は、ラバニ大統領派とヘクマティール首相派の双方にハザラ人を主体とするグループとパシュトゥーン人を主体とするグループの双方が属し、ハザラ人同士、パシュトゥーン人同士の抗争を含め複雑多岐にわたる抗争関係が存在しており、アフガニスタン全土が混沌とした内戦状態だったものであるから、特定の民族や集団について、常に当該民族や集団等が一方的に被害者であったと断じることはできない。 ② 次に、タリバン台頭後のアフガニスタンに関しても、シーア派・ハザラ人であることのみで難民該当性が認められるものではない。 すなわち、被告提出の書証(乙21、45)等に記載されているとおり、タリバン政権下において発生した人権侵犯の主要な要因は、宗教的又は民族的特性というよりも、むしろタリバンに対し、軍事的又は政治的に対立する者であったか又はそのように解されたことによると評価することが適当である。 そして、タリバンが、ハザラ人を迫害の対象とすることを意図する旨の公式見解を出したとの報告はいかなる国際機関等からも示されていない。さらに、タリバンは、パシュトゥーン人全体を代表するものでもないのであって、タリバンと対峙する北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシュトゥーン人がいたという事実からは、むしろ、タリバンと北部同盟との間の対立構造が、宗教的又は民族的背景によるものというよりは、むしろ軍事的又は政治的な背景によるものであったことをうかがわせるものである。 ③ 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等における虐殺事件を指摘す 景によるものというよりは、むしろ軍事的又は政治的な背景によるものであったことをうかがわせるものである。 ③ 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等における虐殺事件を指摘するが、これらについては、虐殺された被害者の数やその実態等について判然としない上、これらの虐殺は、北部同盟との戦闘地域に集中しており、両陣営の軍事衝突に伴い互いの報復行為として行われた側面が強いものといえる。 ④ 諸外国政府においても、およそハザラ人に属することのみをもって難民認定を行うといった取扱いは行われておらず、申請者の迫害に係る個別の具体的事情等を考慮した上で難民認定の可否が判断されている(乙49の1ないし6)。 (ウ) パキスタンに滞在するアフガニスタン人の状況パキスタンに滞在するアフガニスタン人の状況については、「何人かの著名なアフガン人は、タリバン支持者及び難民のコミュニティ内の保守派の嫌がらせと暴力の対象とされていることが報告されている。新聞報道によると、2000年内に少なくとも10人のアフガン人が殺害され、それは政治的見解によるものとされている」ことが報告されているものの、一般的なアフガニスタン人については「政府は、アフガン難民に法的な永住的再定住を認めてはいないが、彼らに国内での居住と稼働を許可している。多くは自活し、難民キャンプ外で生活しており、その結果、その住人が経済的対立に憤慨し、難民が高い犯罪率を生んでいると信じている地方のコミュニティでは、ある種の敵対を生んだ。」と報告されているにとどまり、このような状況下は、一般のアフガニスタン人が迫害を受けているような状況にあるとはいえない。 (エ) 原告の個別主張に対する反論原告が、自らが難民であるとして「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を有す アフガニスタン人が迫害を受けているような状況にあるとはいえない。 (エ) 原告の個別主張に対する反論原告が、自らが難民であるとして「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を有すると主張する根拠は、アフガニスタンでは一般にイスラム教シーア派ハザラ族であれば迫害を受けるおそれがあることを前提に、原告自身、かってイスラム統一党に資金援助を行ったことがあったため、1996年(平成8年)11月15日、タリバンに連行されそうになり、その際、タリバンから銃撃される被害に遭ったこと、その後、原告の父親がタリバンに連行され、所在不明になったこと、以来、一家はパキスタンのペシャワールへ移住したが、パキスタンにおいても警察官に脅迫され、2001年(平成13年)6月、原告自身が子供の前で殴られ、金を巻き上げられ、悔しくて恥ずかしい思いをしたことを主張しているが、以下に述べるようにかかる主張についての原告の供述は信憑性がない。 ① 原告は、イスラム統一党に資金援助を行ったことが原因でタリバンに逮捕されそうになり、逃げたところタリバンから狙撃された旨主張しているが、原告がイスラム統一党に資金援助を行ったことについて何ら客観的な証拠は存在しない。また、原告の足の傷が銃痕であるかどうかは判別しがたいし、銃痕であったとしても、1996年(平成8年)11月当時のアフガニスタンは内戦状態にあったことからすれば別の機会による負傷の可能性も否定できない。 仮に原告がイスラム統一党支援者である旨疑われたのであれば、わずかしか歳の違わない弟らも同様に疑われてしかるべきであるのに、銃撃までして原告を連行しようとしたタリバンが、何故弟らを連行しなかったのか不可解であること、銃撃を受けた状況についても曖昧な表現に止まっていること等からすれ も同様に疑われてしかるべきであるのに、銃撃までして原告を連行しようとしたタリバンが、何故弟らを連行しなかったのか不可解であること、銃撃を受けた状況についても曖昧な表現に止まっていること等からすれば原告の供述は信用できない。 さらに原告は逃亡先について、「私はそれでも何とか親戚の家にたどり着き、そこで約2週間、足の治療をしながら隠れていました。」(乙27号証2丁裏)、「そこで私は、同じj地域の親戚の家に屋根づたいに逃げようとしたのですが、途中でタリバンに狙撃されました。私は重傷を負ったものの、何とか親戚の家にたどり着き、約2週間後にパキスタンに逃げたのです。」(乙28の4丁表)と供述していたが、これらの供述後に原告から提出のあった報告書には「逃げていた屋上から飛び降りて知り合いのハザラ人の自宅のドアを叩いた。」(乙31の6頁)とあり、逃亡先が親戚から知り合いに変化しているが、変遷の理由について合理的な説明がない。 ② 原告は、原告の父が原告の身代わりとしてタリバンに逮捕され、現在も消息不明である旨主張するが、原告自身が父の逮捕を目撃したのでなく、母から聞いたというに過ぎず、逮捕事実について何ら客観的証拠がなく、原告の母がどのようにして父の拘留場所を知り得たのか、女性のみで外出することが禁止されているのにどのようにして母が面会に行ったのか等何ら供述していないこと等からすれば、直ちに原告の主張は信用できるものではない。 なお、原告は、「タリバンは、特に何の罪も犯していなくても、何らかの嫌疑をかけ、ハザラ人を逮捕して拷問します。また、容疑をかけられた当人だけでなく、その家族や親族まで、同様に逮捕したりする。」(乙28)と供述しているにもかかわらず、パキスタンに逃亡する際、原告の妻子、父親を危険なアフガニ して拷問します。また、容疑をかけられた当人だけでなく、その家族や親族まで、同様に逮捕したりする。」(乙28)と供述しているにもかかわらず、パキスタンに逃亡する際、原告の妻子、父親を危険なアフガニスタンに残し、また、原告の母親が2度にわたりパキスタンからアフガニスタンに帰っていながら、特に危険な目にあったような事情が窺われないこと、原告の妻子がパキスタンに逃亡する際に何らかの問題が生じたとの供述がないこと、原告は5人兄弟であるが、他の兄弟について何らかの迫害等があったとの供述もないことからすると、原告の供述には誇張が見られ、原告及びその家族に差し迫った危険があったとは考えられない。 ③ 原告は、入国を決意することになったパキスタンにおいて受けた暴行について、「警察官から脅迫されて金を巻き上げられ、子供の前で金を取られ、悔しくて恥ずかしい思いをした。」等と述べているが、難民条約上の迫害と評価できるものではない。 そもそも、原告は、1996年(平成8年)にパキスタンに入国し、有効な旅券と有効なパキスタンの査証を有する正規滞在者であること、(乙35別添資料7《旅券の有効期限は2001年(平成13年)3月29日、滞在査証の有効期限は2000年(平成12年)8月31日》、乙36別添資料7《旅券の有効期限は2001年(平成13年)3月29日、滞在査証の有効期限は2001年(平成13年)4月22日》)、原告がパキスタンのペシャワールで居住していたハヤタバードは高級住宅街であり、原告は同所で安定した生活基盤を有し、特段の問題なく生活していたものであり、迫害を受けるような状況にはなかったものである。 ④ また、原告については、1996年(平成8年)以来、パキスタンに在住しながらも同国において5年間も保護を求めず、その間 ていたものであり、迫害を受けるような状況にはなかったものである。 ④ また、原告については、1996年(平成8年)以来、パキスタンに在住しながらも同国において5年間も保護を求めず、その間、本邦に6回も短期滞在するなどして中古自動車部品の買い付けをするなどしていたが、その際にも何ら保護を求めていないこと、原告の母、妻、弟らは現在もパキスタンに居住していること等からすれば、迫害から逃れるために我が国に来たとの原告の供述は全く信用できない。 ⑤ 原告は、UAEに滞在し、中古自動車部品の販売業に従事していた経歴を有する者であるが、同国への入国によって難を逃れることができた原告が、なぜはるか遠方の本邦に1万2000米ドルという多額の手数料を支払って渡航する必要があったのかについて合理的な説明もなく不自然で信用できない。 ⑥ 供述の変遷原告は、アフガニスタンにおける迫害に関し、2001年(平成13年)10月3日に違反調査が開始された当初は、「1996年(平成8年)12月にタリバンに命を狙われるということがあり、怖くなったので、パキスタンへ逃げました。」、「アフガニスタンにおいてタリバンに命を狙われるという経験があり、私の父や友人も行方不明となっており、とてもアフガニスタンには戻れない」旨の極めて抽象的な供述しかしていなかったところ(乙7の2)、2001年(平成13年)10月30日の口頭審理において「アフガニスタンにいた頃は、ハザラ族からなるワダット党に徴兵されるか、献金するかをしなければなりませんでした。このため、徴兵代わりの献金をしたのですが、タリバンにこれが知られることとなり、ある晩タリバンが我が家に来たとき、外でパシュトゥ語が聞こえたため、父が私に逃げるように言い、私は足を撃たれました。このた ため、徴兵代わりの献金をしたのですが、タリバンにこれが知られることとなり、ある晩タリバンが我が家に来たとき、外でパシュトゥ語が聞こえたため、父が私に逃げるように言い、私は足を撃たれました。このため15日間友人宅で療養し、その後、パキスタンに逃れました。」旨供述を具体化させた(乙13)経緯が認められるのであるが、自己の難民該当性を主張する者が、自己の生命・身体に対する具体的な危険を示す「足を撃たれた」という状況を当初から供述しないのは極めて不自然である。 原告は、本邦への入国経緯について、本件退去強制手続における取調べにおいて、「パキスタンを出国してから韓国に入国するまでブローカーが同伴していた」と供述していたのに対し、執行停止申立書においては「単独でパキスタンを出てシンガポール経由で韓国へ行った」旨主張しており明らかな齟齬が認められ、釜山港から本邦までの渡航手段についても、退去強制手続においては「大型貨物船に乗船した」と供述しながら、執行停止申立書においては「漁船で日本に来た」旨主張しており、重要な事実につき大きな食い違いが見られる。 原告は、本邦への渡航歴につき、「過去6回の入国の際は、在パキスタン日本国大使館で発行を受けた渡航証明書を使い来日しておりました。しかし、今回はアフガニスタンの情勢が良くならず、本邦に行って難民申請したいと考え、そのためにはアフガニスタンの旅券等を持っていない方が良いのでないかと思いました。そこでブローカーに依頼し、日本に行くことにしました。」(乙7の2)と故意に自己名義のアフガニスタン旅券を所持しないで本邦に入国した旨供述していながら、当該アフガニスタン旅券はブローカーに取り上げられた旨供述するなど(乙7の2)、アフガニスタン旅券を所持していないことの理由について一貫性の タン旅券を所持しないで本邦に入国した旨供述していながら、当該アフガニスタン旅券はブローカーに取り上げられた旨供述するなど(乙7の2)、アフガニスタン旅券を所持していないことの理由について一貫性のない供述をしている。 原告は、入国後直ちに難民認定申請の手続を行っていないところ、2001年(平成13年)10月15日、入国警備官による第3回目の取調べにおいて、当初、どのように手続をしたらよいかわからず、知り合いのアフガニスタン人のEに相談し、同人の協力を得て申請した旨説明し、申請方法の不知のみをその理由として挙げていたが(乙7の3)、その後同年10月17日の入国審査官による第2回目の取調べにおいては、「日本到着時は体調も悪く、申請方法も分かりませんでした」と説明し(乙11の2)、「体調不良」をその理由として追加するなど供述に変遷が見られる。 ⑦ 原告の本邦への入国目的は不法就労活動であること原告は、1996年(平成8年)以降、パキスタンに正規の滞在査証を有して滞在するかたわら、UAE所在の中古車部品輸出会社に所属し、本邦所在の中古車部品輸出会社との取り引きを理由に、1997年(平成9年)4月2日の入国を初めとして、今回の入国に至るまでに計6回の出入国歴があるものの、この間、一時庇護を求めることも、難民認定申請を行うこともなかったこと、2000年(平成12年)から2001年(平成13年)にかけて在パキスタンや在UAEの日本大使館において多数の中古車部品貿易業を営むアフガニスタン人の本邦への査証の発給が不許可とされたこと、本邦以外の第三国に査証を申請するなどして正規に渡航する選択肢が存在し、特に同じイスラム教シーア派を国教とする隣国のイランが第1の選択肢として考えてしかるべきであるのに、多額の費用をかけ れたこと、本邦以外の第三国に査証を申請するなどして正規に渡航する選択肢が存在し、特に同じイスラム教シーア派を国教とする隣国のイランが第1の選択肢として考えてしかるべきであるのに、多額の費用をかけ、家族をパキスタンに残して本邦に不法入国するなど入国経緯が不自然であることからすれば、原告が事業を維持するために難民を偽装し本邦への入国・在留を計画したと考えられる。 ⑧ 本件が組織的背景を有する不法入国事案であること原告と同時期に摘発された9名のアフガニスタン人のうち、原告と同じ場所で摘発された者が6名(原告、F、G、H、I、J、K)いること、上記9名中、摘発場所の1つである千葉県佐倉市ab番地をそれぞれの外国人登録居住地としていた者が3名(F、G、H)いること、アフガニスタン人のLなる者が賃借していると認められる八王子市e所在のgアパートh号室を外国人登録居住地としている者が3名(原告、M、K)いること、上記9名の中には以前から不法就労目的で本邦への入出国を繰り返していたアフガニスタン人がいること(原告、G、H、N等)が認められる上、摘発を受けた者のアフガニスタンにおける迫害や今回の入国経緯に関する供述内容が相互に類似していること、入国後の生活も9名中、7名が中古車部品販売に関する職種を有し、千葉県佐倉市の同一住居に居住している者もいること、原告と同様にパキスタンのペシャワールに在留し、中古車部品会社の社員であり、難民不認定処分取消事件が係属しているアフガニスタン人が今回本邦に入国する直前に韓国に同時に入国していることが判明していること(乙111)、平成12年以降難民申請を行ったアフガニスタン人で既に本邦から自費出国している29名のうち25名が原告と同じ中古車部品業を営んでいること(乙68)、平成13年以降に東京地方 ていること(乙111)、平成12年以降難民申請を行ったアフガニスタン人で既に本邦から自費出国している29名のうち25名が原告と同じ中古車部品業を営んでいること(乙68)、平成13年以降に東京地方裁判所に難民不認定等取消訴訟を提起した原告41名のうち中古車部品業を営んでいた者が30名おり、また2回以上の来日歴を有している25名はすべて中古自動車部品業を営んでいた者であること(乙109)などを考慮すると、原告らは、従来から緊密な連絡を取り合って組織的に不法入国及び難民認定の申請に及んだもので、本件は組織的背景を有する不法入国事案である。 (オ) 以上によれば、原告が迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するとは到底認めることができないから、本件不認定処分は適法にされたものというべきである。 イ本件裁決の適法性について原告は、2001(平成13)年7月初めころ、釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発し、横浜港に到着して本邦に不法入国した者であり、法24条1号所定の退去強制事由に該当すると認められ、特別審理官の判定には何らの誤りもない。 そして、原告が難民に該当しないことは、前記アのとおりであり、その他に原告に対し在留特別許可を付与するか否かの判断において格別積極的に斟酌しなければならない事情は見当たらず、アフガニスタンにおいては、避難民の帰還が進んでおり、原告が本国に帰国して生活することに支障はないから、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量権を逸脱濫用した違法があるということはできない。 ウ本件退令発付処分の適法性について退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであって、退去強制令書を発 法性について退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであって、退去強制令書を発付するにつき裁量の余地はないから、本件裁決が適法である以上、本件退令発付処分も当然に適法であるというべきである。 エ以上のとおり、本件不認定処分、本件裁決、本件退令発付処分はいずれも適法であるから、原告の各請求はいずれも棄却されるべきである。 第3 当裁判所の判断 1 原告の難民該当性について原告は、本件不認定処分は、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、これを看過してされた処分であるから無効あるいは取り消されるべきであり、本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとしたことが、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反し取り消されるべきである旨主張する。そこで原告の難民該当性について検討する。 (1) 歴史的沿革本件各証拠(甲101、126ないし130、137ないし148、乙38ないし42、53ないし56)によれば、アフガニスタンの歴史的沿革について、以下の事実が認められる。 アアフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系のウズベク人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。このうち、パシュトゥーン人が最大の民族グループで、人口の約35パーセントを占め、次に多いのがタジク人で約25パーセント、ハザラ人は約19パーセント、ウズベク人は約6パーセントを占める。 イアフガニスタンには、1979年(昭和54年)12月、ソ連軍が侵攻し、ソ連の支援の下で、共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義者を中心とするムジャヒディン(イス ーセントを占める。 イアフガニスタンには、1979年(昭和54年)12月、ソ連軍が侵攻し、ソ連の支援の下で、共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義者を中心とするムジャヒディン(イスラム聖戦士達)がソ連及びカルマル政権に対する抵抗運動を開始し、以後、内戦状態が続いた。 ウ政権は、1986年(昭和61年)5月にカルマルからナジブラへと引き継がれ、1989年(平成元年)2月にはジュネーブ合意に基づき、ソ連軍が撤退し、1992年(平成4年)4月には、ナジブラ政権は崩壊してムジャヒディン各派による連立政権が誕生したが、各派間での主導権争い等により、国内の内戦は激化した。 エ 1994年(平成6年)末には、イスラム教スンニ派のパシュトゥーン人を中心としたタリバンと呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭し、イスラム原理主義政権の樹立を目指して勢力を拡大し、1996年(平成8年)末には、タリバンが首都カブールを制圧して暫定政権の樹立を宣言した。これ以降、タリバンに反対するムジャヒディン各派、すなわち、タジク人中心のイスラム協会(ラバニ派)、パシュトゥーン人中心のイスラム党(ヘクマティヤール派)、イスラム教シーア派のハザラ人中心のヘズベ・ワハダット党(イスラム統一党、ハリリ派等)、ウズベク人中心のイスラム国民運動党(ドスタム派)の四大勢力の統一戦線(通称北部同盟)とタリバンとの内戦が続いた。統一戦線は、タリバンによりカブールを追われた政府であるアフガニスタン・イスラム国(旧政府)を支持しており、旧政府の最高指導者であるグルバディン・ラバニが形式上の最高指導者とされていた。 オタリバンは、1998年(平成10年)夏には、マザリシャリフ及びイスラム統一党の拠点であるバーミヤンを陥落させ、2001年(平成13年)10月ころには、国土の9割を掌 最高指導者とされていた。 オタリバンは、1998年(平成10年)夏には、マザリシャリフ及びイスラム統一党の拠点であるバーミヤンを陥落させ、2001年(平成13年)10月ころには、国土の9割を掌握し、アフガニスタンを実質的に支配していた。 カアメリカ合衆国におけるいわゆる同時多発テロを契機とした米英軍の空爆と統一戦線による攻撃により、2001年(平成13年)12月には、タリバンは統治機能を喪失した。そして、同月22日には、アフガニスタン暫定政権が発足し、本邦は、同政権を承認した。暫定政権は、パシュトゥーン人のハミド・カルザイ元外務次官を首相に相当する議長とする合計30人の閣僚で構成され、うち11人がパシュトゥーン人、8人がタジク人、5人がハザラ人、3人がウズベク人、その他が3人であった。 キ暫定政権成立以後のアフガニスタンについては、パキスタン等の隣国に逃れていた避難民の大量帰国を報じる新聞報道もある一方で、治安の悪化を懸念する報道もされており、さらには、暫定政権の成立に向けた交渉過程で、ラバニ元大統領派のタジク人が政権の要職を占めつつあったことに反発して、ウズベク人の指導者であるドスタム将軍やクルド人の指導者であるイスマイル・カーン司令官が暫定行政機構への参加を一時見送ろうとしたことや、暫定行政機構の中心となっているパシュトゥーン人については、以前にあった部族有力者らの腐敗と権力闘争が再燃するおそれがあること等から、暫定行政機構には全土統一を達成できるだけの軍事力もなく、カリスマ性もイデオロギーもないとして、タリバンによる政権掌握前の内戦状態に後戻りすることを危惧する報道もされていた。 (2) アフガニスタンにおけるハザラ人の状況ア本件各証拠(甲102ないし108、203、乙21、45)によれば、アフガニスタンにおけるハザラ 戦状態に後戻りすることを危惧する報道もされていた。 (2) アフガニスタンにおけるハザラ人の状況ア本件各証拠(甲102ないし108、203、乙21、45)によれば、アフガニスタンにおけるハザラ人の状況については、以下の事実を認めることができる。 (ア) ハザラ人は、アフガニスタンに存在する最も古い移住民族の1つであり、今から2300年以上前に今日ハザラジャットとして知られる地域に移住し、1880年代までは、完全に自治を確立し、同地域を支配していた。 (イ) しかしながら、アブドゥル・ラーマンがアフガニスタンの王位に就いた1890年(明治23年)から1901年(同34年)にかけて、ハザラ人は、宗教上の理由及び民族的理由により、同王による迫害の対象とされ、3度の反乱を起こしたが失敗に終わり、以後1970年代まで社会的経済的差別の対象とされ、厳しい政治的抑圧を受けた。 (ウ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は、政党を結成し、連合や解散を繰り返してきたが、1990年代に入ると、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。ハザラ人は、1992年(平成4年)までにカブールのほとんどの地域に住むようになり、西カブールは、シーア派ハザラ人の居住地域として国内最大のものとなっていた。しかしながら、ナジブラ政権崩壊後、ムジャヒディンにより構成された暫定政権から、ヘズベ・ワハダット党は完全に閉め出され、シーア派ハザラ人は無視された。1993年(平成5年)2月11日には、西カブールのアフシャール地区で、数百人のハザラ人が、ラバニ大統領とその主任司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。 (エ) その後、ヘズベ・ワハダット党は、1995年(平成7年)2月、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、 ラバニ大統領とその主任司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。 (エ) その後、ヘズベ・ワハダット党は、1995年(平成7年)2月、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンは同党を裏切り、同党の指導者であるマザリ師等を連行した。その後、マザリ師は死体で発見されるに至った。 (オ) タリバンは、1996年(平成8年)にカブールを制圧し、1998年(平成10年)8月8日、マザリシャリフを奪取したが、その際、わずか3日間に数千人(最大8000人ともいわれる。)のハザラ人の民間人が殺害された。また、タリバンは、同年9月には、当時ヘズベ・ワハダット党の根拠地であり、ハザラ人のホームランドとして同党に支配されていたバーミヤンを制圧した。これに対し、北部同盟は、1999年(平成11年)4月21日、バーミヤンを奪還したが、翌5月9日には、同市は再びタリバン勢力下に戻った。タリバンによるバーミヤン地方のヤカオラン奪取直後には、多くのハザラ人の一般市民が殺害された。また、タリバンは、2000年(平成12年)12月、同地域において数百人に上る一般市民を即決処刑した。 イ被告らは、アフガニスタンにおけるハザラ人は、タリバン台頭前においては、複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、常に一方的な被害者であったと認めることはできないと主張し、また、タリバン台頭後については、ハザラ人に対する人権侵害の主要な要因は、宗教的又は民族的特性によるものではなく、むしろタリバンに対立する者であったか、そのように解されたことによるものであるから、本件各処分当時、シーア派ハザラ人が、その民族又は宗教のみを根拠に迫害を受けた事実は認められない旨を主張する。 ウそこで検討するに、本件各証拠中には か、そのように解されたことによるものであるから、本件各処分当時、シーア派ハザラ人が、その民族又は宗教のみを根拠に迫害を受けた事実は認められない旨を主張する。 ウそこで検討するに、本件各証拠中には、被告らの主張に沿うものとして、以下の記載があることが認められる。 (ア) 民族に基づく深刻な虐待行為は、反タリバン派も犯してきた。例えば、1999年(平成11年)4月21日から5月9日の3週間に、バーミヤンを制圧しようとした反タリバン勢力は、新しく移ってきたパシュトゥーンの人々や、タリバンの協力者の疑いのある人々を激しく殴ったり、何人もの民間人を恣意的に拘束したり、それら家族にひどい仕打ちをしたといわれる(1999年1月付けUNHCR資料・甲105、4頁)。 (イ) タリバンによる処刑は、2000年(平成12年)12月、反タリバン勢力イスラム統一党との激しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。 今回の処刑は、この地域を征服する際にタリバンが被った被害に対する報復だと見られている。反タリバンと見られる13歳から70歳までのすべての男性を殺害するようタリバン司令官が命じたと伝えられている。 イスラム統一党も、この地域を支配していたときにタリバンに協力したと見なされた人々を虐待してきたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース2001年1月23日・甲107、1頁)。 (ウ) 1997年(平成9年)5月末、およそ3000人のタリバン兵士の捕虜が、マザリシャリフ周辺で、アブダル・マリク・パラワン司令官指揮下の軍によって略式処刑された。また、同軍は、同年1月5日、空からカブールの住宅街にクラスター爆弾を投下した。通常爆弾も使われたこの無差別空襲により、市民の間に死傷者が数名出た(ヒューマンライトウォッチレポート(2001年10月5日付け)甲1 年1月5日、空からカブールの住宅街にクラスター爆弾を投下した。通常爆弾も使われたこの無差別空襲により、市民の間に死傷者が数名出た(ヒューマンライトウォッチレポート(2001年10月5日付け)甲119)。 (エ) 発生した侵害の主要な要因は、宗教への加入又は民族的特性によるとは限らず、むしろ、タリバンに対し、実際に反対者であったか又はそのように解されたことによる。 1998年(平成10年)8月に、タリバンはマザリシャリフを占拠した。約5000人(たいていはハザラ民族の民間人)が占拠後にタリバンにより虐殺されたとの報告があった。タリバンは、1997年(平成9年)に、ハザラ人及び他の戦闘員が彼らに敵対し、彼らの側の約2000人を虐殺したことに対する報復をすることに集中していたとされる(連合王国における「国別評価アフガニスタンアセスメント2001年4月」(以下「連合王国アセスメント」という。)・乙21、訳文5・3・27の箇所)。 (オ) 宗教的少数派の状況は、地元のタリバン指導者がその権限をどう行使するかによる。一部地域では宗教的少数派も平和に暮らし、自分たちの宗教を奉じることができるが、他の地域では彼らへの嫌がらせや迫害の事件が起こっている。 国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるためで、主に政治的な動機によると強調した。これはつまり、戦闘地域及び衝突の恐れのある地域の少数民族が特に危険であるということである。 ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われている(デンマーク移民サービス局によるアフガニスタンにおける治 組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われている(デンマーク移民サービス局によるアフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告(2001年1月18日から29日、以下「デンマーク報告書」という。)・乙45、20頁、甲203)。 (カ) 上記(ア)ないし(オ)の各記載からは、ハザラ人を中心とするイスラム統一党等は、タリバンに協力したとみなされた者に暴行等の虐待を加えたことがあり、タリバンにより1998年(平成10年)8月に行われたマザリシャリフの大虐殺や、1999年(平成11年)に行われたバーミヤンにおける虐殺は、これらの反タリバン勢力による虐殺行為に対する報復として、反タリバン勢力に対する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者を対象としてされた側面のあることが認められ、タリバンは、ハザラ人を含む少数民族に対し、主に戦闘地域において反対勢力との接触の疑いのある場合に殺害や連行等の迫害を行ったことが認められる。 エ他方で、被告がその主張の根拠として引用する連合王国アセスメントやデンマーク報告書には、以下のような記載があることが認められる。 (ア) まず、連合王国アセスメントには、以下の記載がある。 継続した紛争等による人権侵害の状況下では、アフガニスタンで、誰が危険で、誰がそうでないかについて明確に区別する法則はない。しかしながら、人権侵害の主要な標的の中には、以下のような者が含まれているといえる。タリバンと関係しない非パシュトゥーン民族のメンバー、宗教的マイナリティーグループ等(乙21、訳文5・3の箇所)。 (イ) また、デンマーク報告書にも、以下のような記載がある。 a 「宗教的及び民族的少数者に対する状況について」と題する 民族のメンバー、宗教的マイナリティーグループ等(乙21、訳文5・3の箇所)。 (イ) また、デンマーク報告書にも、以下のような記載がある。 a 「宗教的及び民族的少数者に対する状況について」と題する箇所(乙45の18、19頁)中央の国連情報筋、アフガニスタン協働センター(CCA)、多くのNGO等いくつかの情報筋は、全体としてアフガニスタン少数民族の政治的迫害や追放は一般的ではなかったが、それは彼らがどこに住んでいるかによると述べた。しかし、戦闘地域又は衝突の恐れのある地域の少数民族は極めて危険である。この情報筋は、衝突のある地域数は、1997年(平成9年)以来増加しており、ハザラジャットとアフガニスタン西部での政治的不安定を伴っていると述べた。 ある国連幹部情報筋は、戦闘が行われている地域、特に北部及びハザラジャットの少数民族の状況は、現在非常に悪いため、彼らを非常に特別な危険状態にあると見なされなければならないと報告した。ハザラ人は特に迫害を受けやすいグループで、1998年(平成10年)以来そうである。 国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等は、タリバンと非パシュトゥーン人少数民族の間で民族分化が行われていると説明した。ある情報筋は、ハザラ人は「二重の少数派」であるために苦しんでいると付け加えた。ハザラ人は、その民族のためにハザラ人をベースとする反対勢力ワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているためにも攻撃を受けるからである。 全ての情報筋は、少数民族への攻撃は組織的ではなく、恣意的なものだと述べた。CCAは、1997年(平成9年)にカンダハルの刑務所を、また1998年(平成10年)末にバグラン州ナハリン地区の刑務所を訪れることができたが、タリバンが「政治犯」とする多くの拘留者が、実際には少数グループの普通 7年(平成9年)にカンダハルの刑務所を、また1998年(平成10年)末にバグラン州ナハリン地区の刑務所を訪れることができたが、タリバンが「政治犯」とする多くの拘留者が、実際には少数グループの普通の労働者または農民で、街で捕らえられたものだと報告した。 b 「紛争の宗教的様相の拡大」と題する箇所(乙45の19頁)これまで述べたように、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族への対応は、反対勢力とのつながりの疑いによる主に政治的動機によるものだと確信していた。 しかし、国連幹部情報筋や、CCA、アフガニスタン救済団体調整局(ACBAR)等の多くの情報筋は、最近数年、宗教的要素が戦争に加わってきたと述べた。これは、タリバンが多くの外国人イスラム教スンニ派原理主義者を自軍に組み込み、彼らが非スンニ派を殺害することを自分たちの宗教的使命と見なしているからである。同様に最近、戦闘の実施に関して、強い反シーア派的声明が発されている。 c 「民族的少数者に対する状況」のうちハザラ人に関する箇所(乙45の20頁)ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われていると報告した。タリバンが脅威を感じると、彼らはハザラ人に恣意的な逮捕等を押しつけて反応し、少数ながら処刑も行われた。この情報筋は、ハザラ人を基盤とするワーダット党(イスラム統一党)とのつながりを疑われるという理由で、その疑いの客観的根拠もなく暴力が行われる場合もあると述べた。 CCAは、タリバンは脅威を感じると、カブールとマザリシャリフでいつもハザラ人とウズベク人を逮捕すると報告した。 d 「宗教的少数者に対する状況」と題する箇所(乙45の22頁)ある中央の と述べた。 CCAは、タリバンは脅威を感じると、カブールとマザリシャリフでいつもハザラ人とウズベク人を逮捕すると報告した。 d 「宗教的少数者に対する状況」と題する箇所(乙45の22頁)ある中央の国連情報筋は、反対勢力とのつながりを疑われることが少数民族への迫害の主な理由だが、これは宗教的な迫害の点でも連鎖反応を招くと指摘した。例えば、シーア派教徒は、反対勢力に属していると疑われることがあるという。 (ウ) 以上の被告らがその主張の根拠とする資料中、被告らが引用していない部分の記載からは、タリバンによるハザラ人に対する暴行や殺害等の迫害は、必ずしも組織的に行われたものではないとしても、現実には、ハザラ人がその民族及び宗教的信仰のゆえに、タリバンから反対勢力に属することを疑われ、その疑いの客観的証拠がなくとも暴行や殺害等を受けることが相当の頻度であったことや、少なくとも一部のタリバン勢力が、非スンニ派を殺害することを宗教的使命とみなしていたことが認められる。 オさらに、本件各証拠には、以下のような記載もある。 (ア) アムネスティ・インターナショナルによれば、多数の非戦闘員が、タリバンの警備兵によって、故意にかつ恣意的に殺害されている。1998年(平成10年)9月、アムネスティ・インターナショナルは、同年8月8日のマザリシャリフの奪取において、タリバンの軍隊が街中及び市場で一般市民が逃げようとすると無差別に発砲したことを報告した。タリバンは、その後直ちに各家の捜索を行い、タジク人、ウズベク人及びハザラ人の男性と10代の少年を拘禁し、街中又は家で度々ハザラ人を射殺した。 上記マザリシャリフの奪取について、アフガニスタンにおける国連人権特別報告官は、タリバンが、主にシーア派ハザラ人を標的とした殺人的狂乱の中で、広範かつ無差別な発砲を行ったと 度々ハザラ人を射殺した。 上記マザリシャリフの奪取について、アフガニスタンにおける国連人権特別報告官は、タリバンが、主にシーア派ハザラ人を標的とした殺人的狂乱の中で、広範かつ無差別な発砲を行ったと報告している。(中略)タリバンは、路上で動く者を見ると、自分の家の窓やドアから覗いていただけかもしれない人も含め、誰であっても発砲した。 住民の中で攻撃と迫害を受ける特別の可能性があった、又は可能性がある集団としては、彼らに敵対的な軍事的指導者に支配された地域にいる特定の民族的、宗教的又は政治的集団が含まれ、政治的又は民族的に対立した集団に属している、あるいは属していると疑われた武装していない一般市民は、人権侵害の標的となっている旨の記載がある(UNHCR資料・甲102、5頁、同11頁)。 (イ) 何千人ものハザラ人系住民が、1998年(平成10年)にタリバンにより殺害されたと推定されている。また、民族的な理由による市民の強制追放も行われた形跡がある。1999年(平成11年)中、新たにタリバンの支配下に入った地域から、ハザラ系やタジク系の住民が強制的に追放されたとする複数の報告がされている。そして、ハザラ系住民は、パシュトゥーン系であるタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の対象となっていると伝えられている(アメリカ合衆国国防省による2000年2月25日公表の1999年国別人権状況報告書・甲103、20頁、同31頁)。 (ウ) タリバンが1998年(平成10年)8月にマザリシャリフを軍事的に制圧してから数日間、数千人のハザラの民間人がタリバン警備兵に意図的かつ組織的に殺害されたという報告が相次いだ(アムネスティ・インターナショナルの「アフガニスタン:マイノリティの人権」と題する資料・甲105、3頁)。 (エ) 1999年(平成11年)5月にタ 意図的かつ組織的に殺害されたという報告が相次いだ(アムネスティ・インターナショナルの「アフガニスタン:マイノリティの人権」と題する資料・甲105、3頁)。 (エ) 1999年(平成11年)5月にタリバンが前回ヤカオランを奪取した際に多くのハザラ民族の一般市民が、侵入してきたタリバン警備隊の組織的殺害の標的とされたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース(2001年1月23日)・甲107)。 (オ) タリバンは、1998年(平成10年)8月のマザリシャリフ制圧及び同年9月のバーミヤン制圧に際し、ハザラ人を虐殺したと伝えられているが、1つの動機は、1997年(平成9年)5月にマザリシャリフを制圧しようとした際にタリバン側に死傷者が出たことに対する報復であったが、もう1つの動機は、シーア派ムスリムのハザラ人に対する宗派的憎悪であったと思われる。 デンマーク移民局は、1997年(平成9年)11月にアフガニスタンを訪問し、タリバン支配領土でも問題なくハザラ人が生きていけると報道担当者は述べているが、幅広い国連の情報筋やアフガニスタン内外のNGOはすべてハザラ人が迫害を受けやすい人々であるとの見解を示したと報告した。 (中略)情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属しているという容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交換用として収容されているとのことである。1日に20人から50人のハザラ人がカブールで拘束されているとの報告がある(オーストラリア難民再審査審判書の決定・甲112、訳文6頁)。 カ以上の各証拠中の記載を総合的に考慮すると、被告らの主張するように、タリバンによって行われたハザラ人の虐殺行為には、反タリバン勢力の攻撃に対する報復という側面があったこと自体は否定できないし、タリバンも公式には組織的かつ日常的にハザ ると、被告らの主張するように、タリバンによって行われたハザラ人の虐殺行為には、反タリバン勢力の攻撃に対する報復という側面があったこと自体は否定できないし、タリバンも公式には組織的かつ日常的にハザラ人を迫害することを肯定していたものでもないのであるから、ハザラ人が一般的に、その民族的出自や宗教のみを理由として、組織的に迫害の対象にされていたとまで断定することは困難であるが、反タリバン勢力に荷担し、あるいは協力していると疑われたハザラ人については、過酷な迫害が行われるおそれが存したものであり、また、マザリシャリフやバーミヤンのような戦闘地域や、ハザラ人が多数居住し、反タリバン勢力が浸透していると疑われた地域等においては、ハザラ人が、ハザラ人であること、あるいはシーア派に属することのゆえに、十分な根拠もないまま反タリバン勢力に属するものとみなされて迫害を受けるおそれも存したものというべきである。 そして、本件不認定処分がされた2001年(平成13年)11月20日、あるいは本件裁決及び本件退令発付処分がされた同月27日当時は、タリバン政権が崩壊に向かいつつあった時期ではあるものの(アフガニスタン暫定政権の成立は、12月5日である。)、新政権の下で、新しい秩序が形成されたとは到底いえない時期であったことは明らかなのであるから、上記各処分当時において、ハザラ人を巡る状況に本質的な変化が生じたということは困難であるといわざるを得ない。 (3) 原告の供述の内容及びその信ぴょう性ア原告は、原告本人尋問、原告代理人作成の陳述書(甲4)において、シーア派ハザラ人であること等を理由として、個別的に迫害を受けた経験がある旨を供述しており、その要旨は、以下のとおりである。 (ア) 原告は、アフガニスタン国籍の父B、母Cのもと、5人兄弟の長男として1 派ハザラ人であること等を理由として、個別的に迫害を受けた経験がある旨を供述しており、その要旨は、以下のとおりである。 (ア) 原告は、アフガニスタン国籍の父B、母Cのもと、5人兄弟の長男として1973年(昭和48年)3月3日、アフガニスタンのiで出生した。後述するとおり、原告の父は、タリバンに連行されて行方不明となっており、現在もその所在は不明である。弟Dは、現在、ロンドンに居住し、その他の家族は、パキスタンのペシャワール、kに居住している。原告には妻子がいるが、妻は子供を連れて実家に戻ったと聞いているが、居住先は不明である。 (イ) 原告は、父が西カブールのlで中古車部品販売業を営んでいたことから、5、6歳の頃から西カブールのハザラ人が多く居住しているjに居住するようになった。18歳のころから父の仕事を手伝うようになり、そのころ共産主義政権が倒れ、ムジャヒディンがカブールを支配するようになったが、ムジャヒディン間で戦闘が激しくなり、jにおいても、イスラム統一党とイッテイハディ・イスラミの戦闘が行われ、戦闘が終わるまで原告は家族と共に地下室に隠れることを余儀なくされた。 (ウ) カブールでの戦況が激しくなるにつれ、イスラム統一党の兵士が原告ら家族に対し、寄付をするか、軍隊に参加するように迫るようになった。そのため、原告ら家族は、イスラム統一党に対し、3、4回くらい合計100万アフガニを支払った。 (エ) その後、タリバンがjにも侵攻し、いったんはカブールから退却していったが、原告は、情勢がさらに悪化し、海外に逃避しなければならならない時に備えて、マザリシャリフの申請代行業者に依頼してジャウジャン州でパスポートの発行を受けた。 (オ) 1996年(平成8年)タリバンが再度カブールに侵攻し、カブールを支配するようになると、ハザラ人に対して厳 、マザリシャリフの申請代行業者に依頼してジャウジャン州でパスポートの発行を受けた。 (オ) 1996年(平成8年)タリバンが再度カブールに侵攻し、カブールを支配するようになると、ハザラ人に対して厳しい迫害を加えるようになった。例えば、原告がバスに乗っていた際、タリバンが、ハザラ人の男性を連行しようとしたことがあり、また、原告の周囲に居住していたハザラ人の若者がタリバンに連行されるようにもなった。原告が、現金を支払うことで釈放された近所に居住するハザラ人から聞いたところによれば、タリバンは連行したハザラ人を拷問し、誰がイスラム統一党を支援しているのか取り調べているとのことであった。 同年11月15日の深夜ころ、原告が自宅で就寝していると、父に「起きろ。 ドアの向こうからパシュトゥン語が聞こえた。タリバンが来ているから逃げろ。」と言われて目を覚まし、階段を上って自宅の屋上に出て、他の家屋の屋上を伝って逃走したが、途中で右足に違和感を覚え、大量の血が流れており、銃撃されたことに気付いた。原告は、知り合いのハザラ人の家に助けを求め、かくまってもらった。原告としては、近所に居住するハザラ人で、既に連行されていた者が原告ら家族をイスラム統一党の支援者としてタリバンに供述したため、タリバンが原告を連行しにきたと考えている。 (カ) 原告は、夜中に会いにきた家族と相談し、このままでは生命の危険があることから、ペシャワールに逃げることにし、原告が足を怪我していたことから母と知り合いのハザラ人に付き添ってもらうことにした。4、5人乗りのタクシーで早朝にカブールを出発し、トルハムの国境では担当官に賄賂を支払って通過させてもらい、ペシャワールに到着した。原告はその後はアフガニスタンに帰国したことはない。 (キ) ペシャワール到着した後、業者に依頼してパキス を出発し、トルハムの国境では担当官に賄賂を支払って通過させてもらい、ペシャワールに到着した。原告はその後はアフガニスタンに帰国したことはない。 (キ) ペシャワール到着した後、業者に依頼してパキスタンの査証を取得した。以前にカブールで中古車部品の販売の仕事をしていた人と再会し、一緒に本邦で中古車部品の買い付けの仕事をしないかと誘われ、イスラマバードの日本大使館に赴いて本邦の査証を取得し、1997年(平成9年)4月に初めて本邦に行った。 (ク) 同年6月にペシャワールに戻ったが、妻子や母、弟らがカブールからペシャワールに逃げてきていた。家族から、原告が本邦に滞在している間に父がタリバーンに連行され、その後行方不明となったしまったことを聞かされた。母の話によれば、父が連行された4、5日後にタリバンの駐屯地に面会に行ったところ、父の身体は拷問のために痣だらけになっており、顔から血が流れており、1週間後に再度面会に行ったが会うことができなかったとのことであった。 (ケ) その後、原告は、ペシャワール、本邦、UAEを転々としながら、中古車部品の買い付けの業務に従事するようになった。原告は、イスラマバードの日本大使館を訪ねて査証を取得し、同年10月ころ、第2回目の来日をし、1998年(平成10年)1月ころ、ペシャワールに戻ったが、その後UAEの中古車部品販売会社に所属し、いずれもイスラマバードの日本大使館で査証を取得し、同年7月から9月、1999年(平成11年)3月から6月、同年9月から同年12月、2000年(平成12年)4月ころから同年7月ころまで来日した。 原告は、その後、以前と同様にイスラマバードの日本大使館で査証の申請をしたが、以前は遅くとも1週間くらいで査証を取得できていたにもかかわらず、今回は取得することができなかった。 (コ) した。 原告は、その後、以前と同様にイスラマバードの日本大使館で査証の申請をしたが、以前は遅くとも1週間くらいで査証を取得できていたにもかかわらず、今回は取得することができなかった。 (コ) 原告は、ペシャワールに滞在していた間、通りを歩いているとパキスタンの警察官から「カブライ(カブール出身という意味)来い。」などと呼びつけられた上、所持品検査と称して、殴られて所持金を奪われることが少なくとも10回以上あった。 2001年(平成13年)6月ころ、原告が子供らと通りを歩いていたところ、パキスタンの警察官に呼び止められ、所持品検査を行った後、原告のポケットから現金を奪おうとしたことから抵抗したところ、現金を渡すまで拳で殴られたり、銃で殴られる暴行を受けた。 原告は、このような事態に遭ったことやアフガニスタンの難民の状況が悪化していたことから、これ以上、ペシャワールに滞在し続けることはできないと考え、以前に6回来日したことのある本邦に入国して難民認定申請することを決意した。 (サ) 原告は、パキスタンのブローカに依頼して、1万2000ドルを支払って本邦に渡航する手続きを依頼し、2001年(平成13年)7月ころ、ブローカーとともにパシャワールからカラチに移動し、シンガポールを経由して韓国に到着し、韓国の釜山港から貨物船で本邦に密入国した。 イ原告の供述の信ぴょう性(ア) 客観的事実との符合の有無a 以下の供述部分は概ね客観的事実に符合している。 ① 原告の身上関係に関する原告の供述以外の証拠としては、原告の旅券の写し(乙7の1、35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館に提出した査証申請書の写し(乙35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館発行の渡航証明書(乙35、36の各添付資料)、及 券の写し(乙7の1、35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館に提出した査証申請書の写し(乙35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館発行の渡航証明書(乙35、36の各添付資料)、及び外国人入国記録カード写し(乙37添付資料)があるところ、これらの各記載と原告の供述する氏名、生年、出生地、民族の記載はいずれも一致している。なお、これらの記載においては、原告の出生した月日が記載されていないが、アフガニスタンにおいては、必ずしも出生した月日は重要であると認識されておらず、多数のアフガニスタン人がこのような記載のない旅券を所持している旨供述していることを合わせ考えれば、格別不自然な点は見当たらない。 ② また、旅券の取得状況、UAE及びパキスタンにおける在留状況、在留資格、原告の本邦への今回入国までの6回の出入国歴は、原告の旅券の写し(乙7の1、35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館に提出した査証申請書の写し(乙35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館発行の渡航証明書(乙35、36の各添付資料)及び被告が調査した原告の出入国状況及び外国人登録状況(乙37)と一致する。 ③ 原告が西カブールのjに居住するようになった後、ムジャヒディン間の内戦が激化し、戦闘中は地下室に隠れることを余儀なくされたと主張する点は、1992年(平成4年)4月に、ムジャヒディン勢力の軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊し、ムジャヒディン政権であるラバニ政権が誕生したものの、以降ムジャヒディン間の内戦が激化したとの前記(第3の1(1)ウ)事実に合致する。 ④ 1996年(平成8年)9月にタリバンがカブールを制圧した後、ハザラ人の若者が多数タリバンに連行された旨供述する点は、前記(第3の1(2)エ(イ)c の1(1)ウ)事実に合致する。 ④ 1996年(平成8年)9月にタリバンがカブールを制圧した後、ハザラ人の若者が多数タリバンに連行された旨供述する点は、前記(第3の1(2)エ(イ)c)のとおり、デンマーク報告書(乙45)において、ハザラ人の中でも特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われ、タリバンが脅威を感じると恣意的に逮捕したり、暴力を受けたり、少数ながら処刑も行われたとの記載があることや、前記(第3の1(2)オ(オ))のとおり、オーストラリア難民再審査審判所2001年(平成13年)10月22日決定(甲112)において、デンマーク移民局が、1997年(平成9年)11月にアフガニスタンを訪問したところ、情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属しているという容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交換用として収容され、1日に20人から50人のハザラ人がカブールで拘束されているとの記載があることとも合致する。 原告は同年11月に、タリバンに連行されそうになり屋根を伝って逃走したところタリバンに銃撃されたと供述する点は(以下「核心部分の供述」という。)、屋根を伝って逃走したと供述する部分は、原告代理人が作成した視察報告書(甲161)におけるjの家屋の状況と矛盾するものではなく、原告がタリバンに右足を銃撃されたと供述する部分は、原告の右足の大腿部の裏側に円形の傷跡が見られ、この傷跡の状況が上記供述と矛盾するものではない。 ⑤ 原告がペシャワールで子供の面前でパキスタンの警察官から暴行を受け、今回の本邦への入国を決意した旨供述している点については、アムネスティ・インターナショナルが2001年(平成13年)6月29日発表したニュースに ールで子供の面前でパキスタンの警察官から暴行を受け、今回の本邦への入国を決意した旨供述している点については、アムネスティ・インターナショナルが2001年(平成13年)6月29日発表したニュースにおいて、最近数か月間、何千人ものアフガニスタン難民の男性が、パキスタン警察による恣意的な逮捕、脅迫、殴打及び強制退去の対象となっているところ、警察は路上でアフガニスタン人を止めた上、賄賂を要求するとされている(甲204)記述と合致する。 この点、被告は、原告は当時パキスタンの滞在査証を有し、パキスタンの高級住宅街に居住し、一応の生活基盤を有していたことが認められ、そのような生活基盤を持たないアフガニスタン難民とは立場が異なる旨主張するが、パキスタン警察による迫害の対象となったアフガニスタン人の対象をそのように限定する根拠は何ら示されておらず、被告の主張には理由がない。 なお、原告の過去の入国歴等を総合的に考慮すれば、原告の今回の本邦への入国目的には中古車部品販売を継続したいという意図も有していたことは否定し難いが、このことと、原告の供述する、パキスタン警察等による重なる嫌がらせを受けていたところ、子供の面前でパキスタン警察から暴行を受けたことがきっかけとなってパキスタンを離れて本邦に入国することを決意したということとは互いに矛盾するものではなく併存しうるものである。 b 他方、原告がタリバンから銃撃を受けた後、カブールからパキスタンのペシャワールに逃れ、その後はアフガニスタンには帰国していない旨供述している点について、原告が今回本邦に入国するまでの6回の入国において提出した外国人入国記録カードの写しの住所欄には1回目の入国時はマザリシャリフ、2回目の入国時はカブール、3回目の入国時はパキスタンのm、 について、原告が今回本邦に入国するまでの6回の入国において提出した外国人入国記録カードの写しの住所欄には1回目の入国時はマザリシャリフ、2回目の入国時はカブール、3回目の入国時はパキスタンのm、4回目の入国時はマザリシャリフ、6回目の入国時はmの記載があり、第1回目、第2回目、第4回目の入国時の住所がアフガニスタン内になっている(乙37)。また、在パキスタン日本大使館が1997年(平成9年)1月20日発行した渡航証明書(原告が第1回目の入国に使用)の住所はマザリシャリフに、同年9月30日発行の渡航証明書(原告が第2回目の入国に使用)の住所はマザリシャリフに、1998年(平成10年)6月25日発行の渡航証明書(原告が第3回目入国に使用)の住所はパキスタンのmに、1999年(平成11年)2月19日発行の渡航証明書(原告が第4回目入国に使用)の住所はマザリシャリフに、同年9月9日発行の渡航証明書(原告が第5回目の入国に使用)の住所はパキスタンのmに、2000年(平成12年)3月28日発行の渡航証明書(原告が第6回目の入国に使用)の住所はパキスタンのmになっており(乙35)、原告が第1回目、2回目、4回目の入国に使用した渡航証明書の住所がアフガニスタン内になっていることからすると、原告の上記供述とは異なり、原告がペシャワールに逃れた後もアフガニスタンに帰国していたことになるのではないかとの疑問が生じる。 この点、原告は、外国人入国記録カードにアフガニスタンの住所が記載されている点について、自らは英語の読み書きができないことから、同行した者が外国人入国記録カードの記入を行い、自らはその者の指示にしたがって署名をしたが、これらの住所の記載については、必ずしも重要であるとは思っていなかった旨供述しているところ、外国人入国記録カード た者が外国人入国記録カードの記入を行い、自らはその者の指示にしたがって署名をしたが、これらの住所の記載については、必ずしも重要であるとは思っていなかった旨供述しているところ、外国人入国記録カードの筆跡(乙37)をみると、全体として筆跡が異なるように見えることに加え、2000年3月27日付けの在パキスタン日本大使館における査証申請書と、2000年12月4日付けの同査証申請書の筆跡が一見して異なっていることが認められ(乙35、36)、英語の読み書きができなかったという原告が同行者に記入を依頼した可能性は否定できないというべきである。 そして、入国カードの住所欄の記載については、原告は重要ではないと考えていた旨述べており、そのことは格別不自然とは考えられないこと、渡航証明書の住所欄は、地番等までの具体的な住所が記載されているわけではなく、原告が代筆を依頼した同行者が、アフガニスタン国籍を有する原告の住所は、アフガニスタン国内に存する方が自然であるとの考えから、同国内の都市名を記入したのにすぎないとも考えられることからすれば、これらの記載をもって原告がアフガニスタンに居住していたとまで認めることはできず、原告のアフガニスタンに帰国していない旨の供述の信用性を覆す資料とはいえないと解すべきである。 c 評価このように、原告の供述の概要は、提出された各証拠中に記載された客観的資料の記載と概ね合致していると評価することができる。 (イ) 内容の合理性の有無a 原告の供述は、その内容において概ね自然であって、合理性を有するものである。特に原告のアフガニスタンでの迫害の核心部分については、迫真性に富む具体的な供述がされているということができる。 b この点、被告らは、原告がアフガニス であって、合理性を有するものである。特に原告のアフガニスタンでの迫害の核心部分については、迫真性に富む具体的な供述がされているということができる。 b この点、被告らは、原告がアフガニスタンから出国後、今回入国まで約5年が経過し、その間6度にわたり本邦に入国しているにもかかわらず、難民認定申請をしていないことは不自然である旨指摘する。 確かに、真に迫害を受けた者であれば、迫害を受ける状況から一刻も早く抜け出したいと願い、そのように行動するのが自然でもあると思われるのであって、この点に疑問が残らないではない。しかしながら、難民認定は、難民にとって祖国との断絶という極めて重大な結果をもたらすものであるところ、原告は、アフガニスタンを出国後パキスタンで滞在査証を取得し、不安定ながら一応の生活基盤を有していたことや、アフガニスタンの状況が好転して欲しいとの希望を持っていた旨供述しており、そのような状況下で難民認定申請が遅れたことが不自然であると評価することはできない。 また、パキスタンは難民条約等に調印しておらず、難民の処遇に関する国内立法を採用していないこと(乙22、甲194の3)、UNHCRの回答書によれば(甲194の3)、パキスタン政府の新たな政策は、すべてのアフガニスタン人を、パキスタン入国のためには正規の旅券と査証を必要とする1946年の外国人法の規定の対象としているところ、この法律には庇護に関する規定がなく、最近の改正では不法移民の就労を禁止し不法入国に対して厳しい禁固刑及び罰金を課す条項が含まれており、ハザラ又はタジク出身のアフガニスタン人にとってパキスタンは安全な庇護国とはいえないとの見解を表明していること(甲194の3)が認められ、原告がパキスタンにおいて難民申請しなかったことは不自然 り、ハザラ又はタジク出身のアフガニスタン人にとってパキスタンは安全な庇護国とはいえないとの見解を表明していること(甲194の3)が認められ、原告がパキスタンにおいて難民申請しなかったことは不自然とはいえない。 c また、被告は、原告の弟もタリバンから見れば連行する対象となるはずであるのに、原告を銃撃までして連行しようとしたタリバンが弟らを連行しなかったのは不自然である旨主張する。 原告は、この点、先に連行された近所のハザラ人が、原告の家をイスラム統一党の支援者であるとタリバンに供述したからである旨供述しているが、そうであるとしても、何故原告のみが連行の対象となったのかについての疑問を解消するものではない。 しかしながら、原告は銃撃されたことに気付かないくらいにあわてて逃走をはかる状況にあったのであるから、弟らの状況については知らなくてもやむを得ない面があること、そもそもタリバンが誰を連行の対象とするかは原告には知り得ない事情であり、弟らが連行されなかった理由について明確な説明がないことをもって直ちに原告の供述内容が不自然と評価できるものではないというべきである。 (ウ) 供述の一貫性原告の供述は、その難民該当性を基礎付ける事実については概ね一貫しており、とりわけタリバンに連行されそうになり逃走したところ銃撃されたという核心部分の供述については、難民認定手続や違反調査手続の中で一貫して述べられている。 なお、被告が供述に変遷があるとして縷々主張している点は(第2、2、(2)、ア、(エ)、①、⑥の各部分)、些細な食い違いを指摘しているものにすぎず、これに対する原告の反論部分(第2、2、(1)、カ、(イ)、(ウ)の各部分)は正当であると認められる。 (エ) その余 ア、(エ)、①、⑥の各部分)、些細な食い違いを指摘しているものにすぎず、これに対する原告の反論部分(第2、2、(1)、カ、(イ)、(ウ)の各部分)は正当であると認められる。 (エ) その余の被告らの主張についてa 被告らは、原告の今回の入国の真の目的は、不法就労活動であり、そのために難民であるかのごとく偽装して難民認定申請した旨主張する。 しかしながら、アフガニスタン国内において迫害を受けたとする原告の供述に合理性が認められることや、原告が、今回の入国に至るまで難民認定申請をしなかった理由について、パキスタンで滞在査証を取得し、一応の生活基盤を有していたことや、アフガニスタンの状況が好転して欲しいとの希望を持っていたため、難民認定申請まではしないでいたところ、アフガニスタンの状況がますます悪化したことや、パキスタンにおいて、警察官等から度重なる嫌がらせを受けたことから難民認定申請をする決意をしたものであると説明しており、この説明にも合理性が認められることは既に指摘したとおりである。そして、難民認定申請を決意した原告が、中古車の買い付け等で、度々渡航したことがある本邦において難民認定申請をしようと考えることも、何ら不自然な行動であるということはできない。すなわち、原告の意図の中には、本邦において難民認定が受けられれば、従前から行っていた中古車の買付け等を継続することができるとの意図も含まれていたであろうことは想像に難くないところであるが、難民認定を受けようとする者が、過去に訪れた経験のある国や、生計を立てる見込みのある国において難民認定申請をしようとすることは、何ら不自然な事柄ではないのである。そうすると、原告が、これまで何度も本邦に入国し、中古車の買付等を行っていたという点を捉えて、原告の入国目的が不法就労にあったと決めつ 定申請をしようとすることは、何ら不自然な事柄ではないのである。そうすると、原告が、これまで何度も本邦に入国し、中古車の買付等を行っていたという点を捉えて、原告の入国目的が不法就労にあったと決めつけるのは当を得ないものであって、被告らの主張は失当というべきである。 b さらに、被告らが、Eの役割について論じる点、あるいは組織的な不法入国事案である旨主張する点については、Eが通訳を務めた難民申請者の供述に一定程度の共通点が見られたとしても、そのことをもってEが申請者に虚偽の事実を記載するよう教え、手引きしていたと即断することはできず、Eの証人尋問の結果からも、このような事実を認めることはできず、また本件が組織的な不法入国事案であると認めるに足りる証拠はなくいずれも採用できない。 (オ) 以上の事実によれば、原告の供述のうち核心部分については、客観的な資料によって裏付けられ、その内容において自然で合理的なものということができ、さらに、一貫性が認められるというべきである。そして、原告が本邦で難民認定申請をした動機には、就労目的も含まれていることなど、原告が自らの難民認定手続を有利に進めるために、虚偽の事実を述べていたとうかがわれる部分もあることは否定できないものの、これらの点は、いずれも原告の難民該当性と直接の関わりのない部分に関する供述であって、これらの事実から、原告が迫害を受けたとする供述の核心部分の信用性を全面的に否定する程のものとは考えられないというべきである。 ウ小括(ア) 以上によると、原告が、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であって、前記のようなアフガニスタンにおける状況下で、原告が、シーア派ハザラ人であることを理由として、タリバンによって迫害を受けたとする供述は十分信用することが スタン国籍を有するシーア派ハザラ人であって、前記のようなアフガニスタンにおける状況下で、原告が、シーア派ハザラ人であることを理由として、タリバンによって迫害を受けたとする供述は十分信用することができるし、そのことを前提とすると、通常人が原告の立場に置かれたとしても、本国に帰国すればいつ何時同様の事態に遭遇するかも知れないと考えるのが相当であるから、迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在するものと認められる。したがって、本件不認定処分及び本件退令発付処分当時、原告は、難民条約及び難民議定書所定の難民に該当するものと認められる。 (イ) 以上によれば、原告は、難民条約上の難民に該当するものというべきであるから、この点を看過してされた本件不認定処分は違法であるというべきであるが、他方において、被告らが、原告の難民該当性を否定する事情として指摘している点が、明らかに根拠を欠くものであったとまでいえるかどうかには疑問も残ることは既に検討したところからも明らかである。 そうすると、本件不認定処分に、重大かつ明白な瑕疵があったとまで断定することは困難である。したがって、原告の主位的請求(難民不認定処分の無効確認請求)は、理由がなく、棄却すべきであり、予備的請求(同処分の取消請求)の限度で、これを認容すべきである。 (ウ) 本件裁決及び本件退令発付処分の取消原因について以上によれば、原告は法2条3号の2,難民条約1条に規定する「難民」に該当するというべきところ,これを前提として,本件裁決及び本件退令発付処分の各取消原因について検討すると,次のとおりである。 a 本件裁決の取消原因について原告は,前提事実のとおり,釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発し、平成13年7月30日ころ、横浜港に について検討すると,次のとおりである。 a 本件裁決の取消原因について原告は,前提事実のとおり,釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発し、平成13年7月30日ころ、横浜港に到着し、本邦に不法入国した者であり,法24条1号所定の退去強制事由に該当するというべきである。 しかしながら,法61条の2の8によれば,被告法務大臣が,難民の認定を受けている者に対しては,異議の申出に理由がない場合であっても,その裁量によって在留を特別に許可することができる旨を定めている。 被告法務大臣は,前記のとおり,原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず,本件難民不認定処分を行っているものであるから、原告が難民認定を受けるべき者であることを考慮せずに本件裁決を行ったことは明らかである。そうすると,本件裁決は,原告が難民条約上の難民に該当するという当然に考慮すべき重要な要素を一切考慮せずに行われたものといわざるを得ないから,その裁量の範囲を逸脱する違法な処分というべきであって,取り消されるべきである。 b 本件退令発付処分の違法性について退去強制令書は,法務大臣の異議の申出に理由がない旨の処分が適正に行われたことを前提として発付されるものであるところ,前提となる処分が取り消されるべきものであることは前記aのとおりであって,退去強制令書の発付もその根拠を欠くものであるから,その余の点について判断するまでもなく,違法として取消を免れないものというべきである。 第4 結論以上によれば、原告の本件不認定処分の無効確認請求は、理由がないから棄却し、同処分の取消請求、並びに本件裁決及び本件退令発付処分の取消請求は、いずれも理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法7 認定処分の無効確認請求は、理由がないから棄却し、同処分の取消請求、並びに本件裁決及び本件退令発付処分の取消請求は、いずれも理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条、64条を適用して、主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第3部裁判長裁判官鶴岡稔彦裁判官新谷祐子裁判官潮海二郎当事者目録原告  A第1事件被告東京入国管理局主任審査官第1・第2事件被告法務大臣以上

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