- 1 -主文原決定を取り消す。 本件を名古屋高等裁判所に差し戻す。 理由 本件抗告の趣意は,憲法違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であって,刑訴法433条の抗告理由に当たらない。 所論にかんがみ,新証拠1ないし5(原決定の分類による。以下同じ。)につき刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」に当たるか否かについて,職権により判断する。 確定判決の認定した罪となるべき事実の要旨は,次のとおりである。 申立人は,妻A子及びB子とのいわゆる三角関係の処置に窮した末,両名を殺害してその関係を一挙に清算すればすべてがすっきりするなどと考えるようになっていた折から,その居住する三重県名張市葛尾と奈良県山辺郡山添村にまたがる地区の生活改善グループ「三奈の会」の年次総会が昭和36年3月28日に開催されることを聞き,その懇親会の機会をとらえて,かねて買い受けて所持していた有機燐テップ製剤の農薬ニッカリンTを女子会員用の飲物に入れて飲ませる方法を思い付き,同月27日夜,自ら作った節付き竹筒にニッカリンTを注入し,新聞紙でふたをして用意しておいた上,同月28日午後5時20分ころ,この竹筒をジャンパーのポケット内に忍ばせて,同会会長のC方に立ち寄ったところ,その玄関上がり口の小縁に,当夜の懇親会用の飲物として,1.8ℓ入り瓶詰めぶどう酒(三線ポートワイン)1本(以下「本件ぶどう酒」という。)及び日本酒2本が用意されていることを知って,本件ぶどう酒内に所携のニッカリンTを注入しようと決意し,た- 2 -またまCの妻D子の依頼もあったことから,この酒瓶3本を一人で携え,会場の名張市薦原地区公民館葛尾分館(以下「公民館」という。)に運び,その囲炉裏の間の流しの前の板敷きに置いたが,一 た- 2 -またまCの妻D子の依頼もあったことから,この酒瓶3本を一人で携え,会場の名張市薦原地区公民館葛尾分館(以下「公民館」という。)に運び,その囲炉裏の間の流しの前の板敷きに置いたが,一足遅れて入ってきた同会女子会員E子が雑巾を取りにC方に引き返し,公民館内に何人も居合わせなくなったすきに乗じ,妻A子及びB子を含む女子会員らが本件ぶどう酒を飲み,そのためあるいは死亡するかもしれないことを十分認識しながら,ひそかに,板敷き付近において,本件ぶどう酒の包装紙を開け,その瓶の口に装着されていた耳付き冠頭(外栓)を火挟みで開け,更にその下に装着されていた四つ足替栓(内栓)を,自己の歯で噛んで開けた後,この瓶内に竹筒内のニッカリンTを4ないし5㏄くらい注入した上,四つ足替栓を元どおりかぶせ,包装紙で包み直して,元の場所に置き,同日午後8時ころ,総会が終わり懇親会に移った席上に,ニッカリンTの混入された本件ぶどう酒を出させ,その全量を,その場に居合わせた女子会員合計20名の湯飲み茶わんに分けつがせてこれを飲ませようとし,その結果,本件ぶどう酒を飲んだA子及びB子を含む5名を殺害したほか,12名には有機燐中毒症の傷害を負わせたにとどまり,残り3名はこれを飲まなかったため,いずれも殺害の目的を遂げなかった。 新証拠1,2,4及び5について判断する。 (1)新証拠1について新証拠1は,本件ぶどう酒と同じ形状の栓及び瓶を使って,開栓したことが分からないような偽装的開栓が可能であるとする実験結果の報告書等であり,本件ぶどう酒瓶が何者かによって別の場所で封緘紙を破らずに開栓され,農薬が混入されてから,元どおりに栓が閉められ,公民館の囲炉裏の間において開宴の際に封緘紙を破って開栓された可能性を立証しようとするものであるところ,所論は,原決定- で封緘紙を破らずに開栓され,農薬が混入されてから,元どおりに栓が閉められ,公民館の囲炉裏の間において開宴の際に封緘紙を破って開栓された可能性を立証しようとするものであるところ,所論は,原決定- 3 -が,新証拠1について,開栓が2回された抽象的可能性を示すにとどまり,新旧証拠を総合しても,確定判決の,公民館囲炉裏の間付近において,最初の封緘紙を破っての開栓があり,その際に毒物が混入されたという認定は揺るがないと判断したのは,事実を誤認したものである,という。 そこで検討するに,公民館囲炉裏の間付近で封緘紙を破っての開栓があった以前に,封緘紙を破らない偽装的な開栓があったとの所論は,それをうかがわせる証拠があるというものではなく,抽象的可能性を示すにとどまるものであり,新証拠1は,その抽象的可能性について,実験によってそのようなことも可能であることを示したにすぎないものである。そして,所論の偽装的開栓(そこでの毒物混入)の可能性が成り立つためには,所論も認めるように,証拠上動かし難い事実である囲炉裏の間での封緘紙を破っての開栓が,宴会準備のためのものであったことが前提でなければならない。 しかしながら,旧証拠によると,本件当日午後5時30分ころから公民館囲炉裏の間に人が集まり始め,隣の会場の間で,午後7時ころから役員の改選のための総会が,午後8時ころから宴会が始まっているが,総会が開かれている間,会場の間の東南隅の囲炉裏寄りの障子1枚くらいが開けられていたため,会場の間から,囲炉裏の間における本件ぶどう酒等の置いてあった場所がよく見渡せる状況にあったこと,宴会が始まるころ,Fが本件ぶどう酒の包み紙を取って囲炉裏に捨て,Cが,妻のD子に本件ぶどう酒の栓を抜くことを頼まれ,替栓をねじるようにして抜いたこと,その際,内栓だけであり,外栓はつ あったこと,宴会が始まるころ,Fが本件ぶどう酒の包み紙を取って囲炉裏に捨て,Cが,妻のD子に本件ぶどう酒の栓を抜くことを頼まれ,替栓をねじるようにして抜いたこと,その際,内栓だけであり,外栓はついておらず,封緘紙はない状態であったことが認められる。そして,関係者の供述中には,人が集まり始めてから宴会が始まるまでの間,宴会の準備として本件ぶどう酒の封緘紙や耳付き冠頭を外した- 4 -旨,あるいは他の者がそのようにするところを目撃した旨の供述は全く見当たらないのである。このような関係者の供述状況によれば,囲炉裏の間での封緘紙を破っての開栓が宴会準備の段階で行われたとみることはできない。 のみならず,原決定が説示するように,昭和36年4月7日付け実況見分調書等の旧証拠によれば,耳付き冠頭については,発見時,耳の付け根の両側の一部切れ目が入っている部分がいずれも切れて開口し,右側部分は大きく裂けるように開口し,左側部分は切れた先端部分が重なった状態になっており,耳の部分は,少しねじれたようになっているがまっすぐほぼ直線上に伸び,大きな持ち上がりや耳の先端部分の反り返りはほとんどない状況にあり,封緘紙については,封緘紙破片大の右側と封緘紙破片小の左側の破れ目が符合する部分は,耳付き冠頭の耳の左縁に沿って弧を描くように切断されたとみられる状況にあったと認められ,これらの状況に照らすと,封緘紙が巻かれたままの未開栓の状態の時に耳付き冠頭に下から上に大きな力が加わって,耳付き冠頭の耳の部分が封緘紙を引き破りながら外れたとみることができる。さらに,本件四つ足替栓には人歯痕とみられる傷痕が多数残っていたことが認められるのであり,これらの事実から認められる開栓の仕方に照らしても,宴会の準備として封緘紙を破っての開栓が行われたとみることはできない。 そして 替栓には人歯痕とみられる傷痕が多数残っていたことが認められるのであり,これらの事実から認められる開栓の仕方に照らしても,宴会の準備として封緘紙を破っての開栓が行われたとみることはできない。 そして,上記によれば,囲炉裏の間での封緘紙を破っての開栓があったことは証拠上動かし難い事実であるところ,本件ぶどう酒が申立人により囲炉裏の間に持ち込まれた時以降人が集まり始めた午後5時30分ころより前の段階において,囲炉裏の間で上記方法により封緘紙を破って耳付き冠頭を外す開栓が行われ,その際,上記傷痕を残すような方法により四つ足替栓の開栓も行われ,その後,替栓が再び閉栓されたものと推認することができる。このような特異な開栓方法やその時点に- 5 -おいて宴会準備のために開栓を行う必要性は全くなかったことを考慮すると,その機会に毒物混入が行われたとみるのが相当である。 以上によれば,所論のいう偽装的開栓が本件で行われた可能性は認められず,原判断に誤りがあるとは認められない。 (2)新証拠2について新証拠2は,確定判決において,本件ぶどう酒の瓶に装着されていたものと認定された四つ足替栓の足の1本にある極端な折れ曲がりについて,人の歯によってそのような形状を生じさせることは不可能であるとするG作成の鑑定書等であり,歯で開けたとする申立人の自白は信用できないこと等を立証しようとするものであるところ,所論は,原決定が,新証拠2について,歯で開栓した旨の申立人の自白の信用性や本件四つ足替栓が本件ぶどう酒に装着されていたものであることについての判断に影響を及ぼすような証明力・証拠価値を有しないと判断したのは,新証拠2の内容を十分に理解せず,誤解に基づく誤った判断である,という。 そこで検討するに,G作成の鑑定書は,四つ足替栓の1本の足の極端な折れ曲がりは線接触 証明力・証拠価値を有しないと判断したのは,新証拠2の内容を十分に理解せず,誤解に基づく誤った判断である,という。 そこで検討するに,G作成の鑑定書は,四つ足替栓の1本の足の極端な折れ曲がりは線接触によって力を作用させて生じさせたものであるところ,歯による開栓実験の結果によれば,歯による開栓の場合は,四つ足部分にその傷が残るし,折れ曲がり部分の左右方向に波打つ不規則なゆがみ(面のうねり)が生ずるはずであるが,本件足の折れ曲がりは規則的に変形しており,不規則なゆがみもなく,傷もない(微少な痕跡は認められるが,傷であるかはっきりせず,模様程度とする。)から,歯によるものではない,というのである。 しかしながら,旧証拠中の四つ足替栓の傷痕に関する複数の鑑定書によれば,これらの鑑定が行われた当時,四つ足替栓の折れ曲がった足の部分に歯によって付け- 6 -られたと思われる2個の痕跡が認められたことは明らかであり,G鑑定は,この事実を見落としている。現時点では,上記足部分は,さびのために全体的に黒ずんでおり,微少な模様程度の痕跡としか認識できなかったものと思われる。 さらに,歯による四つ足替栓の開栓実験実施報告書によると,折れ曲がった足部分にゆがみが生じていないと観察されるものも少なからず存在し,G鑑定人も,その事実を認めている。その上で,「それほど足が曲がらずに開栓が起こっている例が多い。」と供述し,その点で本件四つ足替栓の折れ曲がった足部分とは違う旨供述している。曲がり具合はともかくとしても,このように,歯で開栓した場合においても,歯の当て方いかんにより,ゆがみ(面のうねり)が生じないことがあることは歯による開栓実験の結果が示しているということができる。さらに,曲がり具合の点についても,上記実験実施報告書によれば,ゆがみは生じているものの,本件 ,ゆがみ(面のうねり)が生じないことがあることは歯による開栓実験の結果が示しているということができる。さらに,曲がり具合の点についても,上記実験実施報告書によれば,ゆがみは生じているものの,本件足の折れ曲がり程度に曲がっているものがあることが認められる。G鑑定人の鑑定結果も参照すると,L字に曲がる部分の近くに歯を当てて開栓を試み,なかなか開栓状態にならずに力を加え続ければこのような足の状況になるものと推測され,また,歯の当て方によってはゆがみも生じないものと考えられる。あるいは,原決定も説示するように,歯が作用して,Uの字状に変形した後,それに閉栓の際などの手指の力が作用し,本件四つ足替栓の足のような極端な折れ曲がりが生じることも考えられる。G鑑定人も,「やってみないと分からない。」旨供述するのみで,手指の力による変形を否定まではしていない。 以上のとおり,G鑑定は,本件四つ足替栓の1本の極端に曲がった足の折れ曲がりが歯又は歯とその他の力の複合的な作用によって生じた可能性を否定するまでの証明力はなく,歯で開栓したとする申立人の自白の信用性についての判断等に影響- 7 -を及ぼすものではないとした原判断に誤りがあるとは認められない。 (3)新証拠4について新証拠4は,火挟みで耳付き冠頭を突き上げることにより開栓する方法では,本件各封緘紙破片のような形状が生じることはないとするH作成の鑑定書等であり,このような方法により開栓したとする申立人の自白は信用できないことを立証しようとするものであるところ,所論は,その証拠価値を否定した原判断は誤りである,という。 そこで検討するに,上記鑑定書が指摘する第1点,封緘紙破片大及び小にはシワが形成されるはずであるのにシワがほとんど見られないとする点については,封緘紙破片小については,左上部分にシワ る,という。 そこで検討するに,上記鑑定書が指摘する第1点,封緘紙破片大及び小にはシワが形成されるはずであるのにシワがほとんど見られないとする点については,封緘紙破片小については,左上部分にシワが形成されていることは明らかであり,封緘紙破片大についても,封緘紙破片小のシワのある部分に対応する部分が欠損しており,その欠損部分にシワが形成されていたと推認できる。上記指摘は証拠の状況に合致しない。上記鑑定書が指摘する第2点,火挟みで耳付き冠頭を突き上げる方法で開栓するのでは封緘紙破片大はぶどう酒瓶から分離しないとする点,第3点,本件ぶどう酒瓶の瓶口に付着した封緘紙の破片部分は手ではがすなどのはく離力によって形成されたものであるとする点については,なるほど,火挟みで耳付き冠頭を突き上げて開栓した場合,耳部分の封緘紙は破れて飛び,封緘紙破片小が形成されたことは説明がつくとしても,封緘紙破片大が破れて飛ぶことの説明は困難であり,一升瓶の瓶口に封緘紙破片大の一部分が残っており,はく離部分があることも考慮すると,封緘紙破片大は瓶口に残ったものを手ではぎ取ったとみる方が自然のように思われる。原決定が,「封緘紙の破断状態は,(中略)手ではがし取るというような外力が加えられたかどうかは別として,単にそのような外力のみで形成さ- 8 -れたとは到底考えられない」としているのはそのことを示唆している。このように推認したとしても,申立人は封緘紙をどうしたかは覚えていないとも供述しており,火挟みで耳付き冠頭を突き上げることにより開栓したとする申立人の自白の信用性を損なうものではない。上記の原判断に誤りがあるとは認められない。 (4)新証拠5について新証拠5は,ニッカリンTには赤色着色料としてフクシンが含有されていたことが新たに認められ,混入後のぶどう酒は赤色 うものではない。上記の原判断に誤りがあるとは認められない。 (4)新証拠5について新証拠5は,ニッカリンTには赤色着色料としてフクシンが含有されていたことが新たに認められ,混入後のぶどう酒は赤色を呈していたはずであるとする報告書等であり,本件犯行現場に残存していたぶどう酒にその形跡がないことから,本件毒物は申立人が所持していたニッカリンTではないことを立証しようとするものであるところ,所論は,その証拠価値を否定した原判断は誤りである,という。 しかし,原決定が説示するように,白ぶどう酒に着色されたニッカリンTを入れた際の着色の問題については,申立人の自白に基づく量を注入しても色に変化がないことは第1審におけるI作成の実験結果回答書の取調べや第4回公判での検証により立証されていたということができる。所論は,その際に使用されたニッカリンTは着色されていなかったと主張するが,Iの証言等に照らし,これらの実験,検証においても着色されたニッカリンTが使用されたとみるのが相当である。そもそも,新証拠5については,当時のニッカリンTを再現して実験したものではない上に,着色されたニッカリンTが使用されたことが明白であるI作成の実験結果報告書とぶどう酒内での混入直後の色調の変化の様子が余りに違っており(Iの実験結果では白濁,新証拠5では赤色に変色),条件が根本的に異なっているといわざるを得ない。したがって,新証拠5は,旧証拠によって証明されていた上記の事実に疑問を抱かせるような証拠価値はなく,まして,本件ぶどう酒に混入された毒物が- 9 -ニッカリンTではないことを証明するものでもない。原判断は相当である。 (5)以上のとおり,新証拠1,2,4及び5については,刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」には当たら いことを証明するものでもない。原判断は相当である。 (5)以上のとおり,新証拠1,2,4及び5については,刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」には当たらないとした原判断は相当である。 新証拠3について検討する。 新証拠3は,犯行に使用された毒物には,トリエチルピロホスフェートが含まれていないことを明らかにし,本件毒物が同物質を含むニッカリンTでなく,同物質を含まない別の有機燐テップ製剤であった疑いがあるとするJ作成の鑑定書,K作成の鑑定書等であり,本件毒物が申立人が所持していたニッカリンTではないこと,ニッカリンTを犯行に使ったとする申立人の自白が信用できないことを立証しようとするものであるところ,所論は,原決定が,新証拠3について,本件で使用された農薬がニッカリンTではなく,別の有機燐テップ製剤の農薬であった可能性も全く否定はできないが,本件毒物はニッカリンTであり,トリエチルピロホスフェートもその成分として含まれていたけれども,当時の三重県衛生研究所のペーパークロマトグラフ試験によってはそれを検出できなかったと考えることも十分可能であると判断したのは,非科学的で誤った判断である,という。 すなわち,三重県衛生研究所の分析試験結果を記載した「ブドウ酒中のTEPPの検出ならびに分解について」との論文によれば,ペーパークロマトグラフ試験を行ったところ,対照用ぶどう酒にニッカリンTを入れたもの(対照検体)からは,Rf0.95,0.58,0.48の3か所のスポットに成分が検出されたが,飲み残しぶどう酒(事件検体)からは,Rf0.95と0.48の2か所のスポットにしか成分が検出されなかった。K鑑定,J鑑定は,Rf0.58の物質はトリエ- 10 -チルピロホスフェートであり,加水分解しやすいTEP 事件検体)からは,Rf0.95と0.48の2か所のスポットにしか成分が検出されなかった。K鑑定,J鑑定は,Rf0.58の物質はトリエ- 10 -チルピロホスフェートであり,加水分解しやすいTEPP(Rf0.95)が検出されているのに,相当量存在し,より安定した物質であるトリエチルピロホスフェートが検出されないはずはなく,他方で,元々トリエチルピロホスフェートを含まないテップ製剤が混入されていたとすると,分析結果が矛盾なく説明でき,これが科学的かつ合理的な結論である,というのである。 (1)原決定は,要旨,次のとおり判断した。 三重県衛生研究所の試験によれば,ペーパークロマトグラフ検査による対照検体であるニッカリンTのRf0.58のスポットが,Rf0.48のジエチルホスフェート(以下「DEP」という。)やRf0.95のTEPPのスポットに比べ,更に「うすかった」とされ,かつ,スポットの大きさが小さいのは,トリエチルピロホスフェートの分量が少なかったためであると推察される。そして,上記試験においては,トリエチルピロホスフェートが元々抽出効率が良くない点を含めて種々の条件が重なり十分な抽出ができなかったのではないかと考えられる。DEPとの関係については,DEPはトリエチルピロホスフェートよりも抽出しにくいが,DEPは時間の経過によって顕著に増加していく物質であり,DEPが十分に検出されたからといって,トリエチルピロホスフェートについて,それと同列に論じることはできない。その原因はともかく,上記試験において,対照検体について,トリエチルピロホスフェートの捕捉が十分でなかったことは事実である。事件検体についても,エーテル抽出を含めて,対照検体と同様の方法で検査を行ったのであるから,対照検体と同様に,その抽出効率等に問題があり,トリエチルピロホ ートの捕捉が十分でなかったことは事実である。事件検体についても,エーテル抽出を含めて,対照検体と同様の方法で検査を行ったのであるから,対照検体と同様に,その抽出効率等に問題があり,トリエチルピロホスフェートが含まれているとしても,その捕捉が十分でなかったことが考えられる。 そして,事件検体のぶどう酒に関しては,申立人の自供を前提とすれば,180- 11 -0㏄のぶどう酒に対して,4ないし5㏄の毒物を混入したというのであるから,360倍ないし450倍に希釈されていたということになる。その希釈されていたものの一定の分量について,試験を実施したのであるから,そもそもその対象の中に含まれていた成分の絶対量が少なかったことは明白である。これに対して,対照検体については,試験の過程で希釈されているとしても,試験の性質上,事件検体ほどの割合において希釈されているとは到底考えられない。 このように考えると,対照検体,事件検体共に,トリエチルピロホスフェートが含まれていたとしても,対照検体は,事件検体ほどに希釈されていなかったと考えられ,対照検体の方がはるかに検出されやすい条件にあったということができる。 そのような有利な条件下においても,トリエチルピロホスフェートが「うすい」という程度にしかペーパークロマトグラフ上に捕捉できなかったのであるから,自供によれば,それ以上に希釈されていたことになる事件検体においては,検出限界を下回って,ペーパークロマトグラフ上に検出されなかったとしても決しておかしくないように思われる。本件毒物はニッカリンTであり,トリエチルピロホスフェートもその成分として含まれていたけれども,三重県衛生研究所の試験によっては,それを検出することができなかったと考えることも十分に可能である。 (2)しかしながら,原決定の判断には次のような疑 フェートもその成分として含まれていたけれども,三重県衛生研究所の試験によっては,それを検出することができなかったと考えることも十分に可能である。 (2)しかしながら,原決定の判断には次のような疑問がある。 ア原判断は,要するに,対照検体,事件検体共にトリエチルピロホスフェートが含まれていたとしても,トリエチルピロホスフェートの捕捉量が少なかったために,対照検体ではRf0.58のスポットが「うすく」しか検出されず,事件検体ではそのことに加えて対照検体以上に360倍ないし450倍に希釈されていたことから,絶対量が少なく,Rf0.58のスポットが検出されなかったと考えられ- 12 -る,というのである。しかし,原決定の説示するところでは,対照検体についてRf0.58のスポットが「うすく」しか検出されなかったことの合理的説明ができない上,事件検体についても,上記のように希釈されていたとしても,エーテル抽出を経て濃縮されているのであって,各成分のモル比,重量比を考慮すると,TEPPとDEPは現に検出されているのに,トリエチルピロホスフェートのみが検出限界を下回って検出されなかったことの理由も合理的に説明できないと思われる。 すなわち,J鑑定によると,本件時に近い状態として,ニッカリンTを12%エタノール含有pH3の重水中に溶解して4℃で2日間保管した実験では,TEPP,トリエチルピロホスフェート,DEPのモル比(括弧内に重量比を示す。)は,溶解直後においては26.8(35.9):13.7(16.6):19.6(13.9)であったが,2日後においては18.6(26.5):12.9(16.6):30.9(23.3)に変化している。溶解直後のモル比は三重県衛生研究所の対照検体に対応するものと考えられるところ,トリエチルピロホスフェートとDEPの分子 8.6(26.5):12.9(16.6):30.9(23.3)に変化している。溶解直後のモル比は三重県衛生研究所の対照検体に対応するものと考えられるところ,トリエチルピロホスフェートとDEPの分子量は大きくは異ならないこと(J鑑定の別の実験によれば,加水分解前のニッカリンTのトリエチルピロホスフェートとDEPのモル比は15.1:14.9でほぼ同じとの結果も示されている。),関係証拠によれば,トリエチルピロホスフェートの方がDEPよりも抽出効率が良いとされていることに照らすと,原決定の説示では,トリエチルピロホスフェートのスポットの方がDEPよりも薄く,かつ,小さかったことの合理的説明ができない。次に,事件検体の関係について考察すると,J鑑定における2日後のモル比は事件検体におおよそ対応するものと考えられるところ,TEPPを1として計算した場合,トリエチルピロホスフェートとのモル比は1:0.69,重量比は1:0.63という関係にあり,トリエチルピロホスフェートの量がTEPPに比べてはるかに少ない- 13 -というのであればともかく,モル比にして約7割,重量比にして約6割の量があるのであるから,抽出効率の点を考慮しても,量の点のみからは,TEPPが検出されてトリエチルピロホスフェートが検出されなかったことの理由も合理的に説明できないと思われる。また,DEPとの関係においても,DEPを1として計算した場合,モル比は1:0.42,重量比は1:0.71という関係にあり,トリエチルピロホスフェートの方が抽出効率が良いことも考慮すると,量の点のみからは,DEPが検出されてトリエチルピロホスフェートが検出されなかった理由も見いだし難いものと思われる。 イなお,所論は,原決定のような見方が成り立つとする場合,三重県衛生研究所論文の第1図の1(事件検 EPが検出されてトリエチルピロホスフェートが検出されなかった理由も見いだし難いものと思われる。 イなお,所論は,原決定のような見方が成り立つとする場合,三重県衛生研究所論文の第1図の1(事件検体)のRf0.48のDEPとRf0.95のTEPPのスポットの大きさや色の濃さは,第1図の2(対照検体)よりも小さく,かつ,薄いものでなければならないはずであるが,第1図の1と2のRf0.48とRf0.95のスポットの大きさや色の濃さに違いはなく,この両者のスポットを比較すれば,事件検体と対照検体で,TEPPやDEPに関する限り全く同じように検出されていることになるのであって,これを前提にすると,原決定が説示するように,事件検体の方が希釈倍率が高かったため,その影響でTEPPやDEPは検出限界を超えたが,トリエチルピロホスフェートはそれに達しなかったので検出されなかったなどと考えることはできない,と主張する。この点については,三重県衛生研究所論文の第1図の3及び4には,L「TEPPの証明法について」の付図(3)の(Ⅰ)及び(Ⅵ)のペーパークロマトグラフが引用図示されているところ,同論文のRf0.95,0.58,0.48に対応する各スポットの大きさは,三重県衛生研究所論文の第1図の2の対照検体のスポットの大きさと異なっているにも- 14 -かかわらず,引用図示されたものは,第1図の2と全く同様に描かれており,どの位置にスポットが出たかを図示したものと推測される。第1図の1の事件検体についても,同様に推測することも可能であり,そのスポットの大きさには疑問がないではない。いずれにせよ,原決定は,この点についての検討も欠けている。 (3)以上によれば,原決定が,本件毒物はニッカリンTであり,トリエチルピロホスフェートもその成分として含まれていたけれ がないではない。いずれにせよ,原決定は,この点についての検討も欠けている。 (3)以上によれば,原決定が,本件毒物はニッカリンTであり,トリエチルピロホスフェートもその成分として含まれていたけれども,三重県衛生研究所の試験によっては,それを検出することができなかったと考えることも十分に可能であると判断したのは,科学的知見に基づく検討をしたとはいえず,その推論過程に誤りがある疑いがあり,いまだ事実は解明されていないのであって,審理が尽くされているとはいえない。これが原決定に影響を及ぼすことは明らかであり,原決定を取り消さなければ著しく正義に反するものと認められる。 (4)ところで,検察官は,この点について,M作成の回答書等に基づき,答弁書において次のとおり主張している。 ア三重県衛生研究所の対照検体において,トリエチルピロホスフェートはTEPP及びDEPのスポットよりも小さく,かつ,薄くしか検出されなかった。これは,TEPPとの関係では,トリエチルピロホスフェートが,抽出前の状態でTEPPよりも分子の数が少なく,かつ,抽出効率もTEPPよりも悪いため,検液の中に含まれる分子の数がTEPPよりも少なく,さらに,発色反応がTEPPに比べて非常に弱いからである。また,DEPとの関係では,トリエチルピロホスフェートが,抽出前の状態でDEPの分子の数と大して異ならず,かつ,抽出効率はかえってトリエチルピロホスフェートの方が良いにもかかわらず,上記のように検出されたのは,トリエチルピロホスフェートがDEPに比べても発色反応が非常に弱- 15 -いからである。すなわち,トリエチルピロホスフェートは,分子構造上持っているOHが発色剤の水との水素結合によって安定化しているため,過塩素酸という加水分解の反応促進剤によっても加水分解しにくい性質を持って である。すなわち,トリエチルピロホスフェートは,分子構造上持っているOHが発色剤の水との水素結合によって安定化しているため,過塩素酸という加水分解の反応促進剤によっても加水分解しにくい性質を持っている結果,トリエチルピロホスフェートからはリン酸が放出されにくく,TEPPやDEPに比べて発色反応が弱くなるのである。 イさらに,本件ぶどう酒に添加されたのがニッカリンTであることを前提として考察すると,事件検体は,対照検体よりもニッカリンTの濃度が低く,添加時のTEPP,トリエチルピロホスフェート,DEPの各分子の数の絶対量が対照検体より少なかったと考えられるところ,事件検体は対照検体と異なり,ニッカリンTが添加されてからペーパークロマトグラフ試験が実施されるまで約2日間経過しており,その間に1モルのTEPPが加水分解して2モルのDEPに変化し,DEPの分子の数が増加していると考えられる。そうだとすれば,対照検体よりも事件検体の濃度が低くても,抽出効率がトリエチルピロホスフェートよりも良く,かつ,発色剤に対する反応の強いTEPPが発色し,また,トリエチルピロホスフェートよりも抽出前の分子の数が倍以上あり,発色反応がトリエチルピロホスフェートよりも強いDEPが発色したのに対し,量的に少なく,発色反応が非常に弱いトリエチルピロホスフェートのみ発色しなかったとしても,全く不自然ではない。 (5)これに対し,弁護人は,K及びJ作成の各回答書に基づき,①本件飲み残しのぶどう酒である事件検体はpH2.5であり,対照用ぶどう酒はpH3であったのであるから,pHを測定することにより,対照検体の濃度を事件検体の濃度と同程度にしたはずであること,②トリエチルピロホスフェートのOHが発色剤の水との水素結合によって安定化されているので,トリエチルピロホスフェ Hを測定することにより,対照検体の濃度を事件検体の濃度と同程度にしたはずであること,②トリエチルピロホスフェートのOHが発色剤の水との水素結合によって安定化されているので,トリエチルピロホスフェートが- 16 -加水分解しにくく,発色反応が弱いとの見解は化学的に誤っており,その発色はDEPやTEPPと変わらないことなどを主張している。検察官は,これに対し,更に前記(4)において主張している内容が化学的に誤っているものではない旨その論拠を付して再反論している。 (6)このような状況を踏まえると,原審において,三重県衛生研究所の事件検体のペーパークロマトグラフ試験でRf0.58のスポットが検出されなかったのは,所論のいうように,事件検体にニッカリンTが含まれていなかったためなのか,あるいは,検察官が主張するように,事件検体にニッカリンTが含まれていたとしても,濃度が低かった上,トリエチルピロホスフェートの発色反応が非常に弱いこと等によるものなのかを解明するため,申立人側からニッカリンTの提出を受けるなどして,事件検体と近似の条件でペーパークロマトグラフ試験を実施する等の鑑定を行うなど,更に審理を尽くす必要があるというべきである。 よって,刑訴法411条1号,434条,426条2項により,原決定を取り消し,更に上記の点について審理を尽くさせるため,本件を名古屋高等裁判所に差し戻すこととし,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。なお,裁判官田原睦夫の補足意見がある。 裁判官田原睦夫の補足意見は,次のとおりである。 新証拠3に関しては,検察官は,法廷意見に略記したように答弁書,答弁補充書1において,九州大学農学研究院M准教授の見解等に依拠して,事件検体に対するペーパークロマトグラフ試験でRf0.58のスポットが出現しなかった理由に 察官は,法廷意見に略記したように答弁書,答弁補充書1において,九州大学農学研究院M准教授の見解等に依拠して,事件検体に対するペーパークロマトグラフ試験でRf0.58のスポットが出現しなかった理由について主張するところ,その主張が正しければ同スポットが出現しなかったことの説明は一応つく。しかし,それに対して抗告人は,神戸大学大学院農学研究科K教- 17 -授,京都大学大学院農学研究科J教授の見解等に基づいて激しく反論している。 双方がその主張につき依拠する各学者の見解等を記した文献等は,当裁判所に事実上提出されてはいるが,原審までに適法な証拠調べがなされていない以上,差戻審において,改めて証拠調べがなされるべきであるし,また,必要に応じて証人尋問等もなさざるを得ないと思われる。 しかし,本件は,事件発生から50年近くを経過し,また,本件再審申立てから既に8年近く経過していることにかんがみ,差戻審における証拠調べは,必要最小限の範囲に限定し効率良くなされることが肝要であると考える。 ところで,新証拠3に関連する双方の主張や関係証拠を閲読していて,下記のとおりのいくつかの疑問点や問題点を感じたので,差戻審における証拠調べの参考に供するとの趣旨で,補足的な意見として記すこととする。 本件において実施されたペーパークロマトグラフ試験の対照検体のRf0.58のスポットが「うすかった」との点について対照検体のRf0.58のスポットが「うすかった」ことが,新証拠3に対する検察官の反論の中核をなしている。しかし,その点については,以下のとおりの問題点があると認められる。 (1)対照検体のRf0.58のスポットが「うすかった」との証拠は,N外が昭和36年11月に取りまとめた「ブドウ酒中のTEPPの検出ならびに分解について」と題する論文中に「同様の操作 認められる。 (1)対照検体のRf0.58のスポットが「うすかった」との証拠は,N外が昭和36年11月に取りまとめた「ブドウ酒中のTEPPの検出ならびに分解について」と題する論文中に「同様の操作を市販テップ剤について行ったところ,Rf0.95,0.48さらにうすく0.58にスポットを認めた。」と記載されている点である。しかし,同論文には,どの程度「うすい」のかについての記述は全くない。 - 18 -(2)同論文は,三重県衛生研究所が,本件の毒物原因検査を県衛生部及び上野保健所からの依頼を受けて実施した際の検査過程とその後の研究データを後刻まとめて論文としたものである。 ところが,その際の正規の報告書である三重県衛生研究所長から名張警察署長あての昭和36年7月17日付け検査結果報告書「毒物検査結果の書類送付について(回答)」では,「8.検体のエーテル抽出物について科学と捜査第11巻L氏の報告に従ってペーパークロマトグラフ試験を行うにRf0.94及び0.48にスポットを認めた。同様の操作を市販ニッカリンT(日本化学工業KK製)について行ったところ,Rf0.94及び0.48,並びに0.58にスポットを認めた。上の結果Rf0.94のTEPP及びRf0.48のDEPに相当する部分は検体及び対照のニッカリンTと全く一致し,Rf0.58の部分は加水分解により消失したものと思われる。」と記載されていて,Rf0.58が「うすい」との記述は全くない。また,別途,三重県衛生研究所長から三重県警察本部刑事部捜査第一課長あての昭和36年9月5日付け「捜査関係事項照会書について(回答)」もほぼ同様の記述がなされていて,「うすい」との記載はない。 (3)上記(1)のN外の論文の第1図1は本件検体につき,同2は対照検体につき同人らが行った検査結果を図示したもの 会書について(回答)」もほぼ同様の記述がなされていて,「うすい」との記載はない。 (3)上記(1)のN外の論文の第1図1は本件検体につき,同2は対照検体につき同人らが行った検査結果を図示したものであるが,両図間ではTEPP,DEPのスポットは,ほぼ同様の大きさで,かつ,ほぼ同様の「粗さ」で斜線や点を加えて記入されていて,その間に顕著な差異は認められない。それにもかかわらず,Rf0.58のスポットだけ事件検体では発色限界以下になったとするのは,後述の発色反応の点を別にすれば,法廷意見で指摘したような対照検体と事件検体のTEPP,DEP,トリエチルピロホスフェートのモル比,重量比からして説明が困難で- 19 -ある。 なお,検察官は,M准教授の見解に依拠して,同論文の第1図3,4のL論文からの引用図が正確でないことをもって,第1図1,2もスポットの大きさに配慮せず,単に出現したスポットを図示しただけである可能性があるとする。しかし,それなら文章で表現すれば十分で,わざわざ論文中に図示する必要はない。また,科学の検査や実験に携わる技術者(研究者)が,その結果を対外発表すべく論文にまとめるに当たって,自らの検査結果について,現実に検査過程において視認した状態とは異なるいい加減な図を描くことは,通常あり得ない。それらの点からすれば,同論文の第1図3,4のL論文からの引用が正確性を欠く点は,第1図の1,2のスポット位置や大きさのおおよその正確性に疑念を抱かせるものではないと思われる。 (4)三重県衛生研究所が本件検査を行うに際して依拠したLの論文「TEPPの証明方法について」では,「市販テップはRf0.25,0.46,0.57,0.95の四つのスポットを作ることが判った。」とし,付図(3)(Ⅰ)で「市販テップ」のスポットを描いているが,Rf EPPの証明方法について」では,「市販テップはRf0.25,0.46,0.57,0.95の四つのスポットを作ることが判った。」とし,付図(3)(Ⅰ)で「市販テップ」のスポットを描いているが,Rf0.95が一番大きく描かれ,0.57,0.46はほぼ同じ大きさのスポットで描かれている。また,0.57のスポットが「うすい」との記述は全くない。この点について検察官はM准教授の見解に基づいて,TEPP,トリエチルピロホスフェート,DEPの重量比からすれば,トリエチルピロホスフェートはDEPよりスポットが広がっていたと考えられるが,トリエチルピロホスフェートのスポットの周辺が検出限界を下回り,DEPと同程度の大きさのスポットしか示さなかった,と主張する。しかし,ペーパークロマトグラフ試験は,本来定性的分析をなすものであり,各成分の重量とスポットの大きさが- 20 -どの程度正確に比例するものかは,本件証拠上必ずしも明らかではなく,また,検察官が前記N外の論文第1図2について主張するところからすれば,L論文の付図(3)(Ⅰ)のRf0.57のスポットはもっと「小さく」,「うすく」描かれなければならないこととなりそうであり,検察官の上記主張には,なお疑問が残る。 (5)三重県衛生研究所の検査では,ペーパークロマトグラフ試験を行う際に,検査検体や対照検体を複数用意してそれらについて同時に試験を実施した形跡は,その報告書や論文の記述からは窺えない(もし,複数の検体に対して実施していれば,個々の検体ごとにスポットの大きさに言及し,あるいはその平均等について言及があって然るべきであるが,かかる言及はない。)。そうすると,対照検体,検査検体に対してそれぞれ1回しか実施されなかったと認められるところ,対照検体の試験に際して何らかのトラブルがあって,「うすく」し あって然るべきであるが,かかる言及はない。)。そうすると,対照検体,検査検体に対してそれぞれ1回しか実施されなかったと認められるところ,対照検体の試験に際して何らかのトラブルがあって,「うすく」しかスポットが出現しなかった可能性も残ると考えられる(試験技術の点で,そのような可能性があり得るならば,「うすく」に深く拘泥することの意義が失われることになると思われる。)。 ペーパークロマトグラフ試験における発色反応について検察官が依拠するM准教授の見解では,TEPPは,3段階の加水分解を経て燐酸を放出するが,発色剤に混ぜられた過塩素酸により第1段目の加水分解が急激に進み1モルのTEPPは2モルのDEPとなり,それから先はDEPと同様に加水分解が進み,燐酸を放出して発色する。それに引換えトリエチルピロホスフェートは,分子構造上比較的安定していて,第1段目の加水分解が比較的遅くなる,とする。 そのうち,トリエチルピロホスフェートの分子構造が,過塩素酸による加水分解- 21 -の関係で安定しているか否かについては,上記の検察官の主張(M准教授の見解)とそれが化学的に間違っているとする弁護人の主張(K教授の見解)とが真っ向から対立している。しかし,それ程複雑とは思われない化学反応についての見解が,学者によって真っ向から対立することは理解に苦しむところである。差戻審においては,対質尋問をも含めた効率的な証拠調べによって,上記対立点についての早期の究明が求められる。 以上の点は別にして,M准教授の見解については以下のような問題点があると思われる。 (1)M准教授の見解では,トリエチルピロホスフェートの加水分解速度が遅いとするが,それがどの程度遅いのかについての具体的主張がない。例えば,TEPPが発色し,その発色が安定する(燐酸の放出が終わり,そ M准教授の見解では,トリエチルピロホスフェートの加水分解速度が遅いとするが,それがどの程度遅いのかについての具体的主張がない。例えば,TEPPが発色し,その発色が安定する(燐酸の放出が終わり,それ以上発色しなくなる。)まで,何分掛かり,他方,トリエチルピロホスフェートでは何分掛かるのかといった,データ(実験値又は理論値)が何ら示されず,全くの抽象論に推移している。 仮に,トリエチルピロホスフェートの発色反応がTEPPに比して遅くとも,検査時間内にトリエチルピロホスフェートの発色反応が終了すれば,発色反応の遅速の点は,試験結果との関係では何ら問題にならない。 (2)上記(1)の点に関連して,検察官が引用するM准教授の見解では,「発色剤を噴霧したのち呈色状況を確認するまでの短時間,かつ同一時間のうちに,各成分がそれぞれのステップを経てリン酸を放出するに至る収率は,リン酸を放出するまでのステップの多さの違いと,TEPPとトリエチルピロホスフェートの第1段階目の加水分解の速度の違いが反映して,違いが生じる」とする。 - 22 -しかし,上記の「短時間」がいか程の時間なのか,1~2分なのか,もっと短いのか,あるいは,長いのか全く触れるところがない。 また,「同一時間」としているが,それが,濾紙が乾き切るまでの時間を意味し,その間にある成分は発色反応は完了するが,他の成分は未だ発色反応が継続中であったが,濾紙の乾燥により発色反応が終了したという意味なのか否か,その趣旨がよく判らない。 それが検査中の「一定の時間」の趣旨であるとするならば,定性的な検査をする際に検査時間を区切る必要は全くない。また,定量的な検査をする場合においても同様である。「一定時間」で区切った時点での検査データに意味があるとすれば,例えば,事故現場等で毒物の性質を取り敢えず調 る際に検査時間を区切る必要は全くない。また,定量的な検査をする場合においても同様である。「一定時間」で区切った時点での検査データに意味があるとすれば,例えば,事故現場等で毒物の性質を取り敢えず調べて,その目的物を絞り込む作業をする際等の簡易検査の場合などだけであろう。 (3)ちなみに,ペーパークロマトグラフ試験の方法は,P外2名の論文「農薬のペーパークロマトグラフィーによる分析法(Ⅰ)-有機燐製剤-」によれば,骨子以下のとおりである。 濾紙にスポットして,乾燥後,溶媒に溶かして20℃の恒温で12~16時間展開する。風乾後,発色剤を噴霧する。本件で用いられた発色剤(同論文では発色剤1)の場合,80℃の恒温槽内に約10分間置いた後,紫外線を照射する(太陽光を直射すると非常に効果的である。)。 三重県衛生研究所が本件において実施したペーパークロマトグラフ試験も,当然に同様の方法で実施されたものと推察されるが,この発色剤噴霧後「10分間」というのは,M准教授の見解では「短時間」なのであろうか,TEPPとトリエチルピロホスフェートの発色反応の差が生じたままの時間になるのであろうか。その点- 23 -についての問題点を詰めないまま,M准教授の見解の当否を決せられないと思われる。 (4)発色反応と太陽光との関係について(3)掲記のP外の論文では,TEPPのペーパークロマトグラフ試験の後の発色反応の確認には太陽光に直射するのが効果的であると記述し,前記のL論文でも「展開後濾紙を風乾し発色剤を噴霧して直射日光の下で乾燥すると青色を呈色する」とし,また,1(1)掲記のN外の論文でも「発色は直射日光下でないと現れがたい」としている。 この点が,発色反応と如何なる関係に立つのかについて,検察,弁護双方とも触れるところがない(太陽光との関係は,発色剤が強 (1)掲記のN外の論文でも「発色は直射日光下でないと現れがたい」としている。 この点が,発色反応と如何なる関係に立つのかについて,検察,弁護双方とも触れるところがない(太陽光との関係は,発色剤が強い紫外線でなければ反応し難いことを意味するだけなのか。また,紫外線が発色の反応の原因となる燐酸の分解と関係するのか否か。なお,Nの「事件回想録」には,「蛍光灯の下ではスポットが明瞭にわからず,・・・太陽光線の下ではじめて判明した。」と記述されているが,この記述は,太陽光線に当てるまで,なお発色反応が続いていたことを意味すると理解できるのか否か等。)。 この点が,新証拠3の評価と関係するか否か定かでないが,記録を読んだうえでの疑問点として記しておく。 (裁判長裁判官堀籠幸男裁判官藤田宙靖裁判官那須弘平裁判官田原睦夫裁判官近藤崇晴)
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