平成19年4月25日判決言渡し同日原本領収裁判所書記官平成15年㨯第1599号国家賠償請求事件(以下「第1事件」という)。 平成16年㨯第632号国家賠償請求事件(以下「第2事件」という)。 平成18年㨯第290号国家賠償請求事件(以下「第3事件」という)。 (口頭弁論終結の日・平成18年11月15日)判決 主文 原告らの請求をいずれも棄却する。 訴訟費用は原告らの負担とする。 事実及び理由 第1請求 被告は,原告番号1ないし51の各原告に対し,それぞれ金3300万円及びこれに対する平成15年10月17日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 被告は,原告番号52ないし59の各原告に対し,それぞれ金3300万円及びこれに対する平成16年5月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 被告は,原告番号60及び61の各原告に対し,それぞれ金3300万円及びこれに対する平成18年5月2日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 第2事案の概要本件は,ソ連(ソヴィエト社会主義連邦共和国)の昭和20年8月8日の参戦通告時,中国東北部(旧満州地区)に居住していた日本人の子供で,ソ連軍の侵攻と日本の敗戦に伴う混乱の中で,幼くして肉親と離別し,中国に残留す(「」。),ることを余儀なくされた者以下中国残留孤児というである原告らが1( ) 満州国を建国し日本人を移住させた被告が,ソ連が侵攻してきた際には文 民を遺棄し,終戦後には文民を現地に定着させる政策に及んだことにより,原告らは中国残留孤児となったのであるが,このような原告らの存在を認識し又は認識し得た被告としては,原告らを帰国させる措置を採り得る段階に至った以上,原告らの速やかな帰国を実現させるべき義務があるにもかかわ 中国残留孤児となったのであるが,このような原告らの存在を認識し又は認識し得た被告としては,原告らを帰国させる措置を採り得る段階に至った以上,原告らの速やかな帰国を実現させるべき義務があるにもかかわらず,かかる早期帰国実現義務を怠り続けたことにより,原告らは,帰国が大幅に遅延し,様々な迫害・苦難を味わうとともに,帰国していれば享受できた様々な機会を奪われ,( ) 被告としては,原告らが永住帰国した後,原告らが日本人として日本で社 会生活を営んでいくために必要十分な措置を採る義務があるにもかかわらず,かかる生活自立援助義務を怠り続けたことにより,原告らは,日本国内で日本人としての幸福を追求し,人格を形成発展させるための様々な機会を奪われ, かかる被告の違法な不作為により,原告らは,前記1( )及び( )のとおり, 日本人としての幸福を追求する権利ないし日本国内において人格を発展させる権利を侵害され,精神的損害を被ったとして,国家賠償法1条1項に基づき,被告に対し,それぞれ,( ) 慰謝料3000万円 ( ) 弁護士費用300万円 ( ) ( )及び( )に対する違法な不作為の日より後の日である次のアないしウの日 (各訴状送達日の翌日)から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金ア原告番号1ないし51の各原告については,平成15年10月17日イ原告番号52ないし59の各原告については,平成16年5月1日ウ原告番号60及び61の各原告については,平成18年5月2日の支払を求めている事案である。 第3 争点 被侵害利益原告らに「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内において人格を形成発展させる権利」なる被侵害利益が認められるか。 責任原因被告の公権力の行使に当たる公務員が,そ 争点 被侵害利益原告らに「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内において人格を形成発展させる権利」なる被侵害利益が認められるか。 責任原因被告の公権力の行使に当たる公務員が,その職務を行うについて,故意又は過失によって違法な行為に及んだといえるか。 ( ) 作為義務の根拠及び内容 厚生大臣ないし外務大臣に早期帰国実現義務があったか。厚生大臣に生活自立援助義務があったか。かかる作為義務はどのような根拠に基づくか。 ( ) 早期帰国実現義務違反 厚生大臣ないし外務大臣が,故意又は過失により,早期帰国実現義務を違法に怠ったか。 ( ) 生活自立援助義務違反 厚生大臣が,故意又は過失により,生活自立援助義務を違法に怠ったか。 ( ) 国家賠償法附則6項との関係 国家賠償法施行前の行為を前記各作為義務の根拠となる違法な先行行為とすることは,国家賠償法施行前の行為に責任を認めることとなり,国家賠償法附則6項の趣旨に反しないか。 因果関係 損害の発生及びその数額( ) 損害の発生 原告らに損害賠償の対象となる損害が発生しているか。 ( ) 損害額 損害賠償請求権の消滅原因( ) 除斥期間 原告らの損害賠償請求権は,除斥期間の経過により,消滅するか。 ( ) 消滅時効 ア被告の早期帰国義務違反に基づく原告ら(原告番号32及び60の各原告を除く)の損害賠償請求権の消滅時効の起算点が到来しているか。 。 イ消滅時効の援用は,権利濫用として許されないか。 第4争点に対する当事者の主張 被侵害利益(争点1)について( ) 原告らの主張 原告らの被侵害利益は,日本語ないし日本固有の生活習慣を覚える機会,日本国内で教育を受けたり自ら望む職業に就労したりする機会,健康で文化的な生活を送る機会等の様々な ついて( ) 原告らの主張 原告らの被侵害利益は,日本語ないし日本固有の生活習慣を覚える機会,日本国内で教育を受けたり自ら望む職業に就労したりする機会,健康で文化的な生活を送る機会等の様々な利益・機会・権利を総体的包括的に評価した「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内において人格を形成発展させる権利」であり,それ自体が固有の新たな権利ではなく,日本人として当然に享受すべき各種人権の総称である。 なお,原告らの経歴等及び被害の実態は,別紙個別原告シートのとおりである。 ( ) 被告の主張 原告らが被侵害利益として主張する「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内において人格を形成発展させる権利」なるものは,様々な利益・機会・権利を総体的包括的に評価したものであるというが,一義的な内容を持つ一個の権利でなく,その概念自体が抽象的かつ不明確である上,具体的な権利内容,根拠規定,主体,成立要件等のどの点をとっても一義性に欠け,その外延を画することのできない極めて曖昧なものであり,これを被侵害利益とすることはできず,原告らの主張は主張自体失当である。 作為義務の根拠及び内容(争点2( ))について ( ) 原告らの主張 ア作為義務の根拠(ア) 先行行為に基づく危険の発生被告は,国策として,満州国を建国し,多数の国民を満州へ開拓民aとして入植させておきながら,ソ連が満州へ侵攻するや,文民を遺棄し,敗戦後には,ポツダム宣言の受諾によって主権を喪失した地域に残留していた国民を速やかに帰国させるどころか,そこへ定住させる政策に及び,昭和21年5月になって前期集団引揚げに着手するまで満州からの引揚げを他の諸地域と比較して大幅に遅らせるなど,国民主権の国家が負うべき自国民を保護する義務に反して「棄民政策」に及 せる政策に及び,昭和21年5月になって前期集団引揚げに着手するまで満州からの引揚げを他の諸地域と比較して大幅に遅らせるなど,国民主権の国家が負うべき自国民を保護する義務に反して「棄民政策」に及んだ。 かかる違法な先行行為により,中国に放置された原告らは,生命,身体等に危害を及ぼされたり,中国社会における差別,迫害等のため諸々の苦痛を受けたり,帰国後に日本社会で日本人として生きていくために必要な日本語,日本的生活習慣,技能資格等を取得する能力を失ったりする危険にさらされ続けた。 原告らが中国残留孤児となった一要因に,ソ連軍の参戦に伴う混乱b及びそれに続く難民としての越冬生活があったことは否定しない。 しかし,昭和20年5月上旬のドイツ降伏等により,被告はソ連の対日参戦を見据えて具体的な作戦方針を立てていたところ,ソ連軍の参戦が被告の主張するように不意のものであったとはいえず,これに伴う混乱も,関東軍が居留民対策を怠り根こそぎ動員に及んだことが大きな要因であるし,残留邦人が上述のような越冬生活を強いられたことも,上述のような歴史的経緯と因果的連関がある。 そして,被告が採った国策としての移民政策が中国残留孤児の発生した重大な原因となったことは,否定のできない歴史的事実である。 被告が敗戦後一定の対応等をしたこと,被告の外交機能が全面的に停止されたこと,残留邦人の本国送還にソ連側が関心を示さなかったこと等の事実があったにせよ,上述したような原告らの被った危険との関係において,違法な先行行為の存在が否定されるものではない。 (イ) 予見可能性及び結果回避可能性一般的可能性a被告は,日本国内の戸籍簿,満州国入植に関する記録,満州引揚者や入植者の親戚,縁者等からの事情聴取,外交的手段による収集情報等により,敗戦後間もない時期には残留孤児の 果回避可能性一般的可能性a被告は,日本国内の戸籍簿,満州国入植に関する記録,満州引揚者や入植者の親戚,縁者等からの事情聴取,外交的手段による収集情報等により,敗戦後間もない時期には残留孤児の存在を当然知っていた上,その後の調査によって,①本人の氏名・生年月日・性別・容貌・身体的特徴,②両親の氏名・年齢・生死の別・帰国の有無,③両親の所属開拓団・逃走経路・開拓団の消息,④残留孤児の最終消息地・親が中国人に子供を託したときの様子及び託した物品等といった残留孤児に関するより詳細な情報を取得できたところ,かかる中国残留孤児の情報を民間引揚三団体を通じて中国紅十字会に提供して捜索を依頼し,帰国を支援するための用意をするなどしていれば,中国政府及び中国紅十字会の協力により,原告らの早期帰国が実現していた。かくて,昭和32ないし33年の時点で中国に多数の未帰還者がいると認識しないし認識し得た被告としては,遅くとも昭和34年の時点で,前記(ア)のような危険を十a分予見でき,かつ,これを回避できた可能性も大きかった。 すなわち,中国政府は,昭和27年10月1日,ラジオ放送で残留邦人の帰国援助を表明し,これを契機に,中国紅十字会と民間引揚三団体との間で話合いが重ねられたことにより,北京協定が締結され,日中国交断絶後に中断していた満州等からの引揚げが再開されたところ,この後期集団引揚げで帰国した約2万8000人の中には,中国人と結婚していた残留婦人ら約70人もいたが,被告は,その報告ないし証言により,中国東北地方には中国人の家庭で養育されている日本人孤児が約3000人いることを認識し得た。また,被告は,国内調査によって留守家族から未帰還届のあった中国地域からの未帰還者3万5767人につき,その姓名,生年,性別,本籍及び現地からの通信又は帰還者 児が約3000人いることを認識し得た。また,被告は,国内調査によって留守家族から未帰還届のあった中国地域からの未帰還者3万5767人につき,その姓名,生年,性別,本籍及び現地からの通信又は帰還者の証言等により判明している最終の消息が各々記載された昭和32年1月1日現在の名簿を保有しており,その中には2053人の中国残留孤児に関するものも含まれていたところ,厚生省引揚援護局長は,昭和32年4月26日付け文書で,この名簿に記載されていた第2分類の者(昭和23年以前の消息資料のみがある者のうち,中国人等と結婚したか中国人等に養育されていた消息のある者)につき,特別の事情のない限り現在も生存している公算が大きく,中国側の調査によって大部分の消息が判明すると考えているなどと解説していた。さらに,日本社会党の顧問であり,留守家族団体全国協議会会長でもあった有田八郎氏は,昭和32年8月27日,周恩来総理及び中国紅十字会会長と会談した際,中国側から,中国内には約6000人の日本人がおり,資料に基づく個別的な申請があれば,調査はやぶさかではないとの回答を得ていた。加えて,厚生省引揚援護局長は,昭和33年7月17日に行われた第29国会衆議院海外同胞引揚げ及び遺家族援護に関する調査特別委員会において,4万0362人の未帰還者がいると把握しており,そのうち約6000人が中国地区にいると思われ,うち約5000人が中国人と国際結婚したか中国人に引き取られた子供であり,残りの約1000人のうち差し当たり帰国の希望を持っているものは少数であろうと説明していた。 個別的可能性b( ) 被告は,昭和34年以前,別紙個別主張一覧記載の各原告についaては,中国における所在地を認識し,又は認識することが可能であったところ,前記(ア)のような危険を予見することは十 可能性b( ) 被告は,昭和34年以前,別紙個別主張一覧記載の各原告についaては,中国における所在地を認識し,又は認識することが可能であったところ,前記(ア)のような危険を予見することは十分に可能aであった。 すなわち,被告は,別紙個別主張一覧№欄に①と付された各原告については,中国にいることを認識していたし,別紙個別主張一覧№欄に②と付された各原告については,ある程度具体的な情報も認識していたところ,別紙個別主張一覧№欄に③と付された各原告については,中国から引き揚げてきた当該原告の親族,関係者等に事情聴取するなどすれば,当該原告の消息等を認識し得たし,別紙個別主張一覧№欄に④と付された各原告については,下記( )のようbな方法により,中国政府に対し,当該原告の情報を提供し,所在調査を求めるなどして,当該原告の所在を認識し得た。 また,原告A16(原告番号36)は,昭和28年ころから,日本にいた親族に対し,日本へ帰国したいが,帰国費用を自力で捻出することが困難である旨記載した手紙を何度も送っており,原告A16の親族は,広島県に対し,原告A16の生活地,生活状況等を具体的に申告し,原告A16を早期に帰国させるように求めていたところ,被告厚生省と広島県との間で,原告A16についてのやり取りもなされていた。 ( ) 被告は,直接手紙等を送ることや後期集団引揚げを実施する民間b引揚三団体を介して連絡を取ることができたものであるから,前記( )に係る各原告の情報を適切に活用していれば,後期集団引揚げaにより,別紙個別主張一覧記載の各原告の早期帰国が実現し,前記(ア)のような危険を回避することができた。すなわち,昭和25a年ないし昭和27年ころには,日本国内にいる者と中国にいる邦人,,,との間で手紙のやり取りは可 各原告の早期帰国が実現し,前記(ア)のような危険を回避することができた。すなわち,昭和25a年ないし昭和27年ころには,日本国内にいる者と中国にいる邦人,,,との間で手紙のやり取りは可能となっていたし前記のとおりa有田八郎氏が中国側から資料に基づく個別的な申請があれば調査はやぶさかではないとの回答を得ていたところ,被告としては,政府間交渉よりも民間団体を介した交渉を望んでいた中国政府に対し,民間引揚三団体ないし中国紅十字会を通じて,別紙個別主張一覧記載の各原告の所在地情報を提供し,後期集団引揚げで帰国するように促すなどの協力を要請できた。 また,被告としては,以下のとおり,昭和33年7月に後期集団引揚げが終了した後も,民間引揚三団体ないし中国紅十字会を通じて,中国残留孤児の帰国についての情報を交換し,相互に協力することは十分に可能であったし,下記のようないわゆる香港ルートによる個別的な引揚げもできたのであるから,日中国交正常化前においても,別紙個別主張一覧記載の各原告の早期帰国を実現し,前記(ア)のような危険を回避することができた。すなわち,日中国交a正常化以前でも,被告の意向を実質的に反映しつつ,民間レベルでの交渉ルートを利用して後期集団引揚げが実施されたし,北京協定及び天津協定では,集団引揚げの終了後も残留日本人の帰国につい,。 ,て中国紅十字会が引き続き援助することが明記されていたまた後期集団引揚げが行われていた昭和33年までの間には,中国本土から香港へ行き,香港から日本への船便で帰国する個別引揚げもなされており,後期集団引揚げが終了した後も,かかる香港ルートによる個別引揚げは継続していたところ,後期集団引揚げ終了後日中国交回復前の期間だけでも760人の個別引揚げがなされており,現に,原告A3(原 ており,後期集団引揚げが終了した後も,かかる香港ルートによる個別引揚げは継続していたところ,後期集団引揚げ終了後日中国交回復前の期間だけでも760人の個別引揚げがなされており,現に,原告A3(原告番号11,原告A4(原告番号12)及び)原告A25(原告番号57)は,この香港ルートで帰国していた。 (ウ) 作為義務の根拠が特定されていること被告は,作為義務の根拠について,危険の存在,予見可能性の主体となる行政機関及び結果回避に結びつくものとして採り得た具体的措置が特定されていないとする。 しかし,先行行為による危険の存在は包括的なもので足りる上,その危険も国のいずれかの行政機関が予見可能であれば足りる。また,そもそも,作為義務は,現実には存在しなかった作為を想定するものであるから,その内容は,ある程度抽象的・包括的なものとならざるを得ず,作為義務の内容を具体的に主張する必要があるとしても,それは作為の実現可能性(結果回避可能性)を判断するためのものであるから,この可能性を検討し得る程度に特定されていれば足りる。 イ作為義務の内容前記アのとおり,原告らの生命,身体等に係る危険は,被告の違法な先行行為によって作出されたものであるところ,かかる危険を予見し,回避し得た被告には,以下のような早期帰国実現義務ないし生活自立援助義務があった。 (ア) 早期帰国実現義務後期集団引揚げ終了前の早期帰国実現義務a( ) 被告は,残留孤児の情報を民間引揚三団体を通じて中国紅十字会aに提供して捜索を依頼し,帰国を支援するための用意をして,中国政府及び中国紅十字会の協力により,原告らの早期帰国を実現する義務があった。 ( ) 被告は,後期集団引揚げの終了前,中国における所在地を認識しb又は認識し得た別紙個別主張一覧記載の各原告については,手紙を 国紅十字会の協力により,原告らの早期帰国を実現する義務があった。 ( ) 被告は,後期集団引揚げの終了前,中国における所在地を認識しb又は認識し得た別紙個別主張一覧記載の各原告については,手紙を直接送ったり,後期集団引揚げを実施していた民間引揚三団体を介して連絡を取ったりし,後期集団引揚げが行われる予定があること又は既に行われていること,被告が帰国費用を負担し,帰国後の自立も援助すること,被告としては当該原告に是非帰国してもらいたいと考えていることを伝え,当該原告の早期帰国を実現する義務があった。 国交正常化前の早期帰国実現義務b( ) 厚生大臣及び外務大臣には,国交が未回復の状態の下でも,国際a赤十字委員会,国際連合,中国との交渉等を通じ,中国残留孤児の所在を捜索し,その帰国意思を調査した上,その帰国を容易にする財政上その他の措置を講ずるなどの総合的な政策を立案・実行し,原告らの早期帰国を実現する義務があった。 ( ) 被告は,後期集団引揚げ終了後国交正常化前でも,中国におけるb所在地を認識し又は認識し得た別紙個別主張一覧記載の各原告については,手紙等で連絡を取ることができたところ,香港を経由した帰国ルートがあること,被告が帰国費用を負担し,帰国後の自立も援助すること,被告としては当該原告に是非帰国してもらいたいと考えていること等を伝え,当該原告の早期帰国を実現する義務があった。 そして,このような対処をしていれば,別紙個別主張一覧記載の各原告以外の原告らも,後期引揚げ終了後国交正常化までの間に帰国することが十分に可能であった。 国交正常化後の早期帰国実現義務c厚生大臣及び外務大臣には,昭和47年には日中間の正式な外交ルートが開かれた以上,適切な予算措置を即時に講じ,残留孤児の調査及び肉親の捜索を行って,敗戦時に中 。 国交正常化後の早期帰国実現義務c厚生大臣及び外務大臣には,昭和47年には日中間の正式な外交ルートが開かれた以上,適切な予算措置を即時に講じ,残留孤児の調査及び肉親の捜索を行って,敗戦時に中国に残された日本人孤児である,,と申告する者についてその身元を確認するための日本への一時帰国日本への永住を希望する孤児に対する日本国籍の回復を含めた永住帰国の身分的措置,日本人として日本で社会生活を営むために必要かつ十分な日本語習得,就業,住居,同行帰国家族の教育その他の措置など,総合的な政策を立案・実行し,原告らの早期帰国を実現する義務があった。 (イ) 生活自立援助義務原告らは,後記3( )の早期帰国実現義務違反により,帰国が異常に 遅れ,日本での社会生活への適応が困難となっているところ,厚生大臣には,前記(ア)の早期帰国実現義務に付随するものとして,即時に適切な予算措置を講じ,原告らが日本人として日本で社会生活を営んでいくために必要かつ十分な日本語の習得,就業,住居,同行帰国家族の教育,,等の総合的な政策を立案・実行して以下のような内容及び水準にある生活保障を超えたレベルのものとして,原告らの生活の自立を支援する義務があった。 様々な個別具体的な義務の総体である生活自立援助義務は,早期帰国実現義務違反の程度により,具体的な内容は異なってくるが,日本語を習得させる義務を根幹としつつ,これが十分に尽くされなければ,別の個別具体的な義務が新たに発生したり,その要求される度合いが大きくなっていったりするものである。 住まいについてa生活の本拠たる住居を確保することを援助する措置として,住居を置く地域について残留孤児自身の選択を尊重することを前提に,残留孤児及びその家族にとって適切な場所・適当な規模の私営・公営の住居を国の責任 活の本拠たる住居を確保することを援助する措置として,住居を置く地域について残留孤児自身の選択を尊重することを前提に,残留孤児及びその家族にとって適切な場所・適当な規模の私営・公営の住居を国の責任で確保し,住居の確保・継続のための財政的措置を講ずること就業についてb生活の資源たる就業を確保することを援助する措置として,求職する事業所をあっせんすること,残留孤児を就業させる事業所に適当な優遇を与えて就業を容易にするための措置を採ること,その他残留孤児の就業を国の責任で確保すること及び就業の確保・継続のための財政的措置を講ずること言語についてc居住地域における社会生活ないし就業先における職場生活に必要な意思伝達手段たる日本語を,残留孤児が円滑な社会生活が可能になる程度まで国の責任で習得させる物的・人的資源を確保し,そのための財政的措置を講ずること家族についてd残留孤児が,その配偶者,子等の家族との日本での生活を望みかつそれを選択するときは,家族を日本へ呼び寄せて,家族と日本で永住することを容易にする費用的・身分的(国籍の取得を含む)な措置を講じ,残留孤児に対する措置を下回らない程度のものとして,家族の日本における生活(住居・就業・国語習得・教育)を援助する措置を国の責任で講ずること,家族生活の援助する財政的措置を講ずること生活保障・就業後保障・老後保障についてe残留孤児が,その生活の資源である就業を一時的に得られず,又は定年により退職し,若しくは高齢者保障を得られる年齢に達したときは,生活保護法に基づく扶助とは異なる,特別な措置,一時的な生活援助及び年齢に応じた生活保障の措置を国の責任で講ずること,そのための財政的措置を講ずること身分についてf敗戦時に中国に残された日本人孤児であると確認される残留孤児については 置,一時的な生活援助及び年齢に応じた生活保障の措置を国の責任で講ずること,そのための財政的措置を講ずること身分についてf敗戦時に中国に残された日本人孤児であると確認される残留孤児については,身元の判明・未判明を問わず,国の責任で日本国籍を認定し,その国内法的身分を容易に安定せしめるための措置を講ずること,そのために必要な財政的措置を講ずること(ウ) 義務の内容が特定されていること早期帰国実現義務及び生活自立援助義務によって採られるべき措置については,原告ごとに異なるわけではなく,個別の原告ごとにその内容を主張する必要はないところ,その内容は前記(ア)及び(イ)のとおり,特定されている。早期帰国実現義務が生ずる時期は,前記(ア)のとおり,特定されており,生活自立援助義務が生ずる時期も,原告ら各自が永住帰国を果たしたとき以降の生活全般に及ぶ問題であり,厳密に時期を特定する必要はない。 国家は,国民に対し,自らの義務の具体的内容について教えを請うべきではない。 ウ義務の法的性質等について以上のとおり,被告が自ら何らかの危険ないし違法状態を創出し,そこから生じ得る損害の発生を阻止すべき場合には,被告は先行行為に基づき条理上その損害発生を阻止するために法的作為義務を負う。 このような法的作為義務の存在は,以下の諸法令によっても確認され,また,生活自立援助義務は,北朝鮮拉致被害者に対する支援との比較によっても義務付けられるものである。 (ア) 早期帰国実現義務について憲法a( ) 国民主権原理a被告は,ポツダム宣言の受諾により,天皇主権から国民主権へと変わり,自国民を保護すべき義務を固有の義務として負うに至ったから,その行為により,意思に反して外国に残された国民につき,日本国内に帰還させる義務がある。 ( ) 憲法13条b 権から国民主権へと変わり,自国民を保護すべき義務を固有の義務として負うに至ったから,その行為により,意思に反して外国に残された国民につき,日本国内に帰還させる義務がある。 ( ) 憲法13条b日本人が日本人としての教育を受けて日本社会で自立した生活を送れるようにすることは,憲法13条の保障する個人の尊厳の前提要素であるが,国民がこれを否定される環境に置かれている場合,被告が個人の尊厳を回復・保障するために必要な施策を講ずることは,憲法上の要請である。 ( ) 憲法22条c憲法22条は,国民が海外から帰国する権利も保障しているが,原告らは,中国に遺棄され,その後長きにわたって帰国の途を閉ざされて,帰国の権利を侵害され続けたところ,この侵害を除去し,原告らが帰国する権利を侵害しないように具体的措置を採る義務を被告が負うことは憲法上も明らかである。 ( ) 憲法25条1項,26条1項d被告の具体的な早期帰国実現義務は,憲法25条1項及び26条1項によっても確認されるものである。 関連国内法規b( ) 旧厚生省設置法及び外務省設置法a旧厚生省設置法は引揚援護に関することを厚生省の任務とし4,(条2項1号,内地以外の地域からの引揚者の援護,未帰還者の状)況調査,中国残留邦人等の帰国推進,永住帰国後の自立援助などの全般を所掌事務と定めている(5条101号,105号,108号の2。 )また,外務省設置法は「海外における邦人の保護」を任務とし,(3条8号「海外における邦人の生命、身体及び財産を保護す),るため外国官憲と交渉」すること(4条17号「邦人の引揚に),関する事務を行うこと(4条26号)を所掌事務と定めている。 」厚生大臣及び外務大臣は,これにより原告らの探索及び引揚援護に関する事務を行う具体的義務があ すること(4条17号「邦人の引揚に),関する事務を行うこと(4条26号)を所掌事務と定めている。 」厚生大臣及び外務大臣は,これにより原告らの探索及び引揚援護に関する事務を行う具体的義務がある。 ( ) 未帰還者留守家族等援護法b未帰還者留守家族等援護法は,前記( )の規定に基づき援護業務aが実行されてきた状況の下「未帰還者が置かれている特別の状態,にかんがみ、国の責任において」その留守家族と未帰還者への経、済的援助を行うことを目的としてさらに制定されたものであるところ(1条「国は、未帰還者の状況について調査究明をするとと),もに、その帰還の促進に努めなければならない」と規定する未帰。 還者留守家族等援護法29条は,原告らを含めた「未帰還者(2」条1項2号)に対し,その状況についての調査究明及び帰還の促進を義務付けた規定というべきである。 ( ) 未帰還者に関する特別措置法(以下「未帰還者特別措置法」といcう)。 未帰還者特別措置法は,生死不分明の未帰還者について,留守家族の意向に反してでも,厚生大臣が失踪宣告の請求を行うことができるとする特別の措置を講ずるものである(2条1項)が,この法律が,前記( )のような未帰還者留守家族等援護法の調査究明を前b提としている上「国がその状況に関し調査究明した結果,なおこ,れを明らかにすることができない者について」のみ,かかる特別の措置を採る権限を厚生大臣に付与していることにかんがみれば,未帰還者特別措置法が,未帰還者の生死に関して調査究明を尽くすことを大前提とするものであることは明らかである。 国際法c( ) 戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネaーブ条約(昭和28年10月21日号外条約第26号・以下「ジュネーブ条約」という)。 ジュ ることは明らかである。 国際法c( ) 戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネaーブ条約(昭和28年10月21日号外条約第26号・以下「ジュネーブ条約」という)。 ジュネーブ条約は「紛争当事国は、戦争の結果孤児となり、又,はその家族から離散した十五歳未満の児童が遺棄されないこと並びにその生活、信仰の実践及び教育がすべての場合に容易にされることを確保するために必要な措置を執らなければならない(24。」条第1文)及び「各紛争当事国は、戦争のため離散した家族が相互に連絡を回復し、できれば再会しようとする目的で行う捜索を容易にしなければならない。各紛争当事国は、特に、この事業に従事する団体が自国にとって許容し得るものであり、かつ、その団体が自国の安全措置に従うものである限り、その団体の活動を助成しなければならない(26条)と規定するところ,被告は,中国との。」国交回復前でも,国際赤十字,日本赤十字等を通じて,戦争で離散した家族が再会する目的で行う探索を容易にすべき条約上の義務を負っている。 ( ) 日本国との平和条約(昭和27年4月28日号外条約第5号・以b下「平和条約」という)。 平和条約は「日本国軍隊の各自の家庭への復帰に関する千九百,四十五年七月二十六日のポツダム宣言の第九項の規定は、まだその実施が完了されていない限り、実行されるものとする(6条㨯)。」と規定しており,被告は,軍人等のみならず,一般邦人の未引揚者を復帰させる条約上の義務を負っていると解される。 (イ) 生活自立援助義務について憲法a前記イ(イ)の生活自立援助義務は,憲法13条,25条1項,26条1項及び27条1項に基礎付けられるものである。 中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援にb関する法律 憲法a前記イ(イ)の生活自立援助義務は,憲法13条,25条1項,26条1項及び27条1項に基礎付けられるものである。 中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援にb関する法律中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律は「引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なく,された」中国残留孤児の存在を認め(1条,それらの者の「円滑な)帰国を促進(3条)し「地域社会における早期の自立の促進及び」,生活の安定を図る(4条)などのために,必要な施策を講ずること」を国等の責務としている。 この法律は,帰国した中国残留孤児が日本社会で極度の窮状に陥っていたことや民間ボランティアから再三にわたり総合的な支援立法制定の要望等があったことを背景としつつ,平成5年に残留婦人が強行帰国するという衝撃的な事件を契機として制定されたものであるところ,かかる立法の経過をも考え合わせれば,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律は,終戦直後からの引揚援護策の延長として行われてきた中国残留孤児に対する各種施策の転換を図り,日本社会への適応までを国の責務と明言して法的義務を課したものと考えるべきで,これは,前記イ(イ)の生活自立援助義務を基礎付けるものである。 経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和54年8月c4日条約第6号・以下「B規約」という)。 B規約11条1項は「自己及びその家族のための相当な食糧、衣,類及び住居を内容とする相当な生活水準について並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認める」と定め,締約国に。 この権利の実現を確保するために適当な措置をとることを義務付けている。また,B規約15条1項は,文化的な生活に参加する権利も定めて 断の改善についてのすべての者の権利を認める」と定め,締約国に。 この権利の実現を確保するために適当な措置をとることを義務付けている。また,B規約15条1項は,文化的な生活に参加する権利も定めており,締約国はその領域内にあるすべての者に,締約国における生活・文化水準を基準とした相当な生活水準による生活を送る権利及。 ,び文化的な生活に参加する権利を保障する義務を負っているさらにB規約13条2項㨯は「基礎教育は、初等教育を受けなかつた者又,はその全課程を修了しなかつた者のため、できる限り奨励され又は強化されること」を締約国の具体的な義務としている。 。 これらの規定は,世界人権宣言25条,27条及び26条にそれぞれ対応するものであるところ,被告は,B規約の批准前から,これらの権利を保障する義務を負っていたものである。 ( ) 被告の主張 ア作為義務の根拠について(ア) 特定性の欠如先行行為に基づく作為義務を認めるとしても,その要件として,重大な被害を生ぜしめる蓋然性(危険の存在,原因となり得る行為につい)ての認識(予見可能性)及び結果回避のための措置を講ずる可能性(結果回避可能性)が最低限必要である。 しかし,原告らの主張では,各原告ごとにどのような被害を生ぜしめる蓋然性がいつの時点であったのか,それをどの行政機関において予見することができたのか,どのような結果回避に結びつく具体的措置を採,。 ることができたのかが明らかにされていないから主張自体失当である(イ)作為義務の根拠が存在しないこと違法な先行行為の不存在a原告らが家族と離別して中国に孤児として残留するに至った直接の原因は,日ソ中立条約締結の際に発せられた声明を無視してソ連軍が旧満州地区へ不意に侵攻したことによって発生した極度の混乱,及びそれに引き続く半年 家族と離別して中国に孤児として残留するに至った直接の原因は,日ソ中立条約締結の際に発せられた声明を無視してソ連軍が旧満州地区へ不意に侵攻したことによって発生した極度の混乱,及びそれに引き続く半年にわたる難民としての越冬生活等から,多数の子供が,両親を失って孤児となったり親が養育できないために現地住民,,に託されたりし中国に残留することを余儀なくされたからであって原告らの主張に係る危険を被告が生じさせたとはいえず,作為義務の根拠となる違法な先行行為は存在しない。 この点,被告は移民政策を採ってはいたが,原告らないしその親が旧満州地区へ移民したこと自体に基づき原告らが残留孤児となる危険が発生したわけではなく,かかる危険を被告が移民に先立ち予見ないし回避できたわけでもない以上,これを違法な先行行為とみることはできない。また,関東軍は在留邦人を保護するいとまもなくソ連軍に敗退しているが,自らを守る能力を失ったものが他人を守り得るとは考えられず,ソ連軍との交戦の際には関東軍の陣地に収容された邦人も玉砕している以上,これをもって,原告らが残留孤児となる危険を,。 被告が生じさせたとはいえず違法な先行行為とみることもできない被告は,採り得る手段を尽くし旧満州地区の残留邦人の帰国に向けて努力しており,原告らの主張する現地土着方針を終戦直後から実施したことはない。旧満州地区の残留邦人の引揚げが他の地域に比べて大幅に遅れたのは,被告の外交機能が全面的に停止されて,相手国の善意と協力なしには問題を解決できない中で,旧満州地区を管理下に置いたソ連軍が,在留邦人の本国送還に関心がなく,連合国軍総司令部(以下「GHQ」という)の方針を受諾しなかったためである。 。 予見可能性及び結果可能性の不存在等bそもそも,過去の一時点における原告らの消息が未 在留邦人の本国送還に関心がなく,連合国軍総司令部(以下「GHQ」という)の方針を受諾しなかったためである。 。 予見可能性及び結果可能性の不存在等bそもそも,過去の一時点における原告らの消息が未帰還者名簿等に記載されているからといって,被告が原告らの有力な生存情報を把握していることにはならないところ,後記3( )ア(イ)のとおり,日本政府 は,当時外交関係のなかった中国に未帰還者調査への協力を依頼したが,中国からは回答が得られなかったもので,当時の通信事情の悪さ等を勘案すれば,原告らの主張する予見可能性及び結果回避可能性はない。 また,別紙個別主張一覧記載の各原告の中には,帰国意思が窺われなかった者も存在する上,帰国を求めていたとされる原告A16(原),,告番号36も子供を残して帰れない旨の手紙を返信してくるなど明確な帰国意思を示していなかったことが窺われる。 イ作為義務の内容について国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が,個別の国民等に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民等に損害を与えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定するものであるから,同条項に基づいて損害賠償を求めるに当たっては,被告のいかなる公務員が,いかなる法令の根拠に基づき,原告らに対し,いかなる職務上の法的義務を負っていたのかが特定されなければならないところ,原告らの主張する早期帰国実現義務ないし生活自立援助義務は,以下のとおり,抽象的で一義的に内容が確定しておらず,特定に欠けるから,かかる主張自体が失当である。 (ア) 早期帰国実現義務の特定性の欠如国交正常化前の早期帰国実現義務については,具体的にどのようなa,,方法で残留孤児の所在を捜索すべきであったのか国際赤十字委員会国際 自体が失当である。 (ア) 早期帰国実現義務の特定性の欠如国交正常化前の早期帰国実現義務については,具体的にどのようなa,,方法で残留孤児の所在を捜索すべきであったのか国際赤十字委員会国際連合,中国等に対し,具体的にどのような内容の提案ないし要請をして,交渉すべきであったのかが全く不明であり,帰国意思の調査や帰国を容易にする財政上その他の措置が具体的にどのようなものを指すのかも全く不明で,何をもって総合的な政策というのかも不明であり,特定を欠いている。 国交正常化後の早期帰国実現義務については,具体的にどのようなb方法で残留孤児の調査と肉親の捜索を行い,どのような永住帰国の身分措置を採るべきであったのか,また「日本人として日本で社会生,,,活を営むために必要かつ十分とは具体的にどのようなレベルをいいかつ,そのレベルの日本語の習得,就業,住居,同行帰国家族の教育,,その他の措置として具体的にどのようなことをすべきであったのか全く不明である上,何をもって総合的な政策の立案というのかも不明であり,特定を欠いている。 (イ) 生活自立援助義務の特定性の欠如住まいに係る主張についてa残留孤児及びその家族にとって適切な場所・規模がどのような場所・規模を指すのか,住居の確保・継続のための財政的措置が具体的にどのようなものを指すのか,いずれも不明である。 就業に係る主張についてb適当な優遇及び就業を容易にするための措置とは何か,その他残留孤児の就業を国の責任で確保するとは,具体的に被告がどのようなことをすべきことを指すのか,就業の確保・継続のための財政的措置とは何か,いずれも不明である。 言語に係る主張についてc円滑な社会生活が可能になる程度とはどの程度をいうのか,具体的にどのような物的・人的資源を確保すべきか,そ 業の確保・継続のための財政的措置とは何か,いずれも不明である。 言語に係る主張についてc円滑な社会生活が可能になる程度とはどの程度をいうのか,具体的にどのような物的・人的資源を確保すべきか,そのための財政的措置とは具体的にどの程度のどのような財政措置を講ずべきか,いずれも不明である。 家族に係る主張についてd残留孤児の家族の日本への呼び寄せ及び家族の日本での永住を容易にするための費用的な措置とは,具体的にいつから何に対する費用をどの程度支払うべきであるのか,身分的(国籍の取得を含む)な措置とは,具体的にどのような措置をいうのか,残留孤児に対する措置を下回らない措置とは何を指すのか,何に対するどの程度の家族生活の援助のための財政的措置を講ずべきか,いずれも不明である。 生活保障・就業後保障・老後保障に係る主張についてe生活保護法による扶助とは異なる,特別な措置,一時的な生活援助及び年齢に応じた生活保障の措置とは,それぞれ具体的にどのようなないしどの程度の措置をいうのか不明であり,そのための財政的措置の内容も不明である。 身分に係る主張についてf本来国籍の認定ができない厚生大臣がどのようにして身元の判明・未判明を問わず日本国籍を認定するのか,残留孤児の国内法的身分を容易に安定せしめるための措置とは,具体的にどのような措置をいう,。 のかも不明でありそのために必要な財政的措置の内容も不明であるウ義務の法的性質等について(ア) 義務の法的性質原告らの主張する厚生大臣ないし外務大臣の義務については,これを明文で規定する法令はなく,法令の解釈によって一義的に決まるものでもない上,原告らの主張している作為に係る厚生大臣ないし外務大臣の権限が具体的に規定されているわけでもないところ,それは,政治上・道義上の一般的な責務にとどま 法令の解釈によって一義的に決まるものでもない上,原告らの主張している作為に係る厚生大臣ないし外務大臣の権限が具体的に規定されているわけでもないところ,それは,政治上・道義上の一般的な責務にとどまり,法的義務に転化することはない。 ,,,かかる義務は法的なものとして転化することはなく以下のとおり諸法令によって法的義務として確認されるものでもない。 憲法a( ) 国民主権原理a国民主権原理は憲法の基本原則であるが,ここから直ちに個々の国民の具体的権利義務が導かれるものではない。 ( ) 憲法13条b憲法13条は,自由主義及び個人主義を基調に個々の国民が自らその人格権を主体的に実現することを国家が保障しているが,それが原告らの主張する総合的な政策を立案・実行すべき一義的義務を国に発生させるかどうかは別次元の話であり,同条項が国に一定の措置を要求できることを根拠付けるものではない。 ( ) 憲法22条c憲法22条が原告らの主張に係る帰国の権利を保障しているかという問題と,同条項により総合的な政策を立案・実行すべき一義的義務が発生するかという問題とは別次元である。 旧厚生省設置法及び外務省設置法b旧厚生省設置法ないし外務省設置法といった行政組織法の規定は,厚生大臣ないし外務大臣について,個別の国民に対する職務上の法的義務,それも一義的義務を課する根拠となるものではない。 国際法c国際法は,第一義的には国家間の権利義務を定めるもので,そこに個人の権利の保護,確保についての規定が置かれていたとて,それは国家が他の国家にそのような権利を個人に認める旨を約するもので,直接的には国家間の国際法上の権利義務である。国際法に個人の権利義務を対象とする規定が置かれていたとしても,直ちに個人が国際法上の権利義務ないし何らかの請求の主体と を個人に認める旨を約するもので,直接的には国家間の国際法上の権利義務である。国際法に個人の権利義務を対象とする規定が置かれていたとしても,直ちに個人が国際法上の権利義務ないし何らかの請求の主体となることが認められるものではない以上,それを保障するための個別的な義務が発生する余地もなく,政治的責務が生じ得るにすぎない。 なお,原告らの指摘する条約等の規定自体からも,原告らの主張に係る各義務が一義的なものとして規定されているとは認められない。 (イ) 広範な裁量の存在原告らが受けた被害は,その実体をみれば,先の大戦終結時に中国にいた原告らが,終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず,長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になったことから直接発生し又はその間日本で生活できなかったことに伴って発生した各種の不利益に帰着する。 先の大戦では,ほとんどすべての国民が様々な被害を受け,その程度も極めて深刻なものが少なくないが,戦争中から戦後にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては,国民のすべてが多かれ少なかれ,そ,,,の生命身体財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたもので原告らのみが犠牲を強いられたものではない。 かかる犠牲は,いずれも戦争犠牲ないし戦争損害として,国民が等しく受忍しなければならなかったところであり,これに対する補償は憲法の予想するところではなく,その補償措置の要否及び在り方は,事柄の性質上,財政,経済,社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであるから,国家財政,社会経済,戦争によって国民が被った被害の内容,程度等に関する資料を基礎とする立法府ないし行政府の広範な裁量的判断にゆだねられているものである。 早期帰国実現義務違反(争点2( ))について ( ) ,戦争によって国民が被った被害の内容,程度等に関する資料を基礎とする立法府ないし行政府の広範な裁量的判断にゆだねられているものである。 早期帰国実現義務違反(争点2( ))について ( ) 原告らの主張 以下のとおり,被告は,前記2( )ア(ア)のような違法な先行行為に及び, 大量の残留孤児を生み出しながら,残留孤児の帰還を阻み,昭和34年には未帰還者特別措置法を制定し,1万2000人余りの残留邦人につき,戦時死亡宣告によりその戸籍を抹消して事実上死者として取り扱い,その生存を前提とする身元調査,所在場所の探索,帰国援助等を一切放棄したところ,昭和47年に日中間の国交が正常化した後も,直ちに残留孤児の実態調査や肉親捜しに取り組もうとせず,昭和56年に第1回の訪日調査が実施されるまでの9年間これを放置し,さらに,様々な制限を設けて残留孤児の帰国を事実上困難ならしめた。 このように,厚生大臣ないし外務大臣は,前記2( )のとおり,早期帰国 実現義務があったにもかかわらず,これを違法に怠ったものであり,かかる義務の懈怠は「棄民政策」というほかない。 ア後期集団引揚終了前の早期帰国実現義務違反について,,,(ア) 被告は前記2( )ア(イ) のとおり昭和32ないし33年の時点で a中国に多数の未帰還者がいると認識しないし認識し得たが,その時点で中国に残留する未帰還者について十分に調査せず,厚生大臣ないし外務大臣は,原告らに対する前記2( )イ(ア) ( )のような早期帰国実現義務 aaを違法に怠った。 すなわち,昭和33年7月17日の厚生省引揚援護局長の説明(前記2( )ア(イ) )にあったとおり,被告は,中国地区にいる約6000人の a未帰還者については自己の意思により帰還しないと認められる者とし, 和33年7月17日の厚生省引揚援護局長の説明(前記2( )ア(イ) )にあったとおり,被告は,中国地区にいる約6000人の a未帰還者については自己の意思により帰還しないと認められる者とし,未帰還者留守家族等援護法に基づく調査究明ないし帰還促進の対象から除外していたが,被告は,昭和34年2月10日の参議院社会労働委員会で,①中共地区については思うように資料が得られない,②日赤等を通じて安否照会をしても回答は多くない,③今後さらに努力しなければならないと考えていると説明し,自らの調査が不十分であるとの認識を示していた。被告は,平成3年3月26日の参議院内閣委員会においてさえ,開拓団及び義勇団関係で現地にいた人数は終戦直前の時点で大体合計22万5000人程度と承知しているが,政府がどれだけの人数を送り出し,どれだけの人が現地から帰って来なかったのか,その名前,数,その人たちの運命はどうなったのか等について,十分な資料がなく答弁する準備すらないと説明していたもので,そこから30年以上遡る昭和33年時点での調査が不十分であったことは明らかである。 そして,被告が中国政府を承認しなかったため,民間引揚三団体を介して後期集団引揚げが行われたところ,被告は,引揚げを進展させるため,民間引揚三団体の活動を全面的に支援すべきであったにもかかわらず,中国政府への警戒感から,民間引揚三団体をも警戒し,その活動に様々な制約を課して交渉の進展を妨げ,昭和30年及び昭和32年の2度にわたり在ジュネーブ日本総領事から在ジュネーブ中国総領事に対して未帰還者の調査を申し入れた際にも,民間引揚三団体方式の否定に固執して中国政府の反発を招き,昭和33年5月に日中の国交が断絶したため,昭和33年7月に後期集団引揚げは終結した。 このように,被告の対応により,中国にお し入れた際にも,民間引揚三団体方式の否定に固執して中国政府の反発を招き,昭和33年5月に日中の国交が断絶したため,昭和33年7月に後期集団引揚げは終結した。 このように,被告の対応により,中国における未帰還者調査の進展は阻害され,中国地域からの引揚げは他の諸地域のそれと比較して著しく進展が遅れたものである。 (イ) 被告は,別紙個別主張一覧記載の各原告について,民間引揚三団体を通じて中国政府に協力を要請することはなく,また,昭和33年から実施していた中国に残留している人々の通信調査においても,後期集団引揚げの説明をしたり,これによる帰国を促したりしなかったところ,別紙個別主張一覧記載の各原告に対する前記2( )イ(ア) ( )のような早期 ab帰国実現義務を違法に怠った。 イ国交正常化前の早期帰国実現義務違反について(ア) 原告らに対する早期帰国実現義務違反被告は,以下のとおり,戦時死亡宣告制度を強引に運用したり,残留孤児を自己の意思により帰還しないと強引に認定したり,引揚担当機関を縮小・廃止したりし,すべての残留孤児について,引揚げ,消息調査等をほぼ完全に打ち切り,厚生大臣ないし外務大臣は,原告らに対する前記2( )イ(ア) ( )の早期帰国実現義務を違法に怠った。 baこのことは,昭和47年の国交回復後も,残留孤児の消息調査や帰国実現のための政策がなかなか採られず,訪日調査の開始までに9年もの年月を要し,原告らの帰国が大幅に遅れた要因にもなっている。 戦時死亡宣告制度の強引な運用a被告は,前記2( )ア(イ)のとおり,昭和32ないし33年の時点 aにおいて,中国に多数の未帰還者がいることを認識しないし認識し得たが,未帰還者留守家族等援護法に基づいて支給されていた留守家族手当の打切りを目的として,昭和32年 昭和32ないし33年の時点 aにおいて,中国に多数の未帰還者がいることを認識しないし認識し得たが,未帰還者留守家族等援護法に基づいて支給されていた留守家族手当の打切りを目的として,昭和32年ころから,未帰還者の死亡処理を行う方策の検討を本格的に開始し,昭和32年12月,厚生省が未帰還者の死亡推定に関する試案を発表した。これに対しては,留守家族団体から「最終処理だけが先に出すぎている」との強い反対があり,それを抑えようとした被告は,昭和33年12月,最後の消息調査として未帰還者の特別一斉調査を行ったが,この際にも国交のなかった中国における調査を実施しないまま,昭和34年3月3日,未帰還者特別措置法を成立させた。 残留孤児については,成人男性の未帰還者等とは異なって,決して死亡が推定されるような状況にはなく,消息が判明していないとしても,幼児期に両親と離別し,中国社会に溶け込んでいたことに加え,日中間に国交がなく現地の消息調査が困難であったことによるものであり,かかる認識は,厚生省引揚援護局長の前記2( )ア(イ)の解説 aにもみられたものであった。しかし,被告は,未帰還者特別措置法施行後,かかる残留孤児について「死亡の公算の多い者」として,戦,時死亡宣告の申立てを行い,その審判を確定させた。 未帰還者特別措置法に基づく戦時死亡宣告は,民法の失踪宣告制度の手続的特則であり,法的安定の見地から死亡を擬制するものにすぎないから,戦時死亡宣告がなされたとしても,現に死亡が確認された場合と同様に扱ってよいわけではなく,残留孤児の中には,親族の強。 ,い抵抗で戦時死亡宣告の審判を受けなかった者も相当数いたしかし被告は,未帰還者特別措置法の施行後,強引に家族の同意を取り付けるなどして積極的に戦時死亡宣告の申立てを行った。 自己の意 族の強。 ,い抵抗で戦時死亡宣告の審判を受けなかった者も相当数いたしかし被告は,未帰還者特別措置法の施行後,強引に家族の同意を取り付けるなどして積極的に戦時死亡宣告の申立てを行った。 自己の意思により帰還しないとの強引な認定b家族との通信があるなど中国で生存していることが明らかな者は,戦時死亡宣告制度の対象とされる「未帰還者のうち,国がその状況に関し調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者」(未帰還者特別措置法1条)には該当しないところ,被告は「自己,の意思により帰還しないと認められる者(未帰還者留守家族等援護」法2条)としての認定を積極的に行い,残留孤児を調査究明ないし引揚援護の対象となる未帰還者から除外した。すなわち,かかる「自己の意思により」の確認の前提としては,終戦による変化,現在の日本の詳細な状況,及び親族の援助の有無と関係なく帰国後も被告の責任で必要な生活援助が受けられることを残留孤児が認識していることが必要というべきであるが,被告は,残留孤児の居所を知る場合であっても,明確に帰国意思を表明しない場合ばかりか,現地で家族と居住しているといった生活実態,さらには一時帰国を希望したなどという事情ですら,これを帰国意思のないものとみなし,調査究明の対象から残留孤児を除外していった。 引揚担当機関の縮小ないし廃止c被告は,未帰還者特別措置法の施行後,未帰還者調査を,その最終処理を目標とするものへと移行させ,以下のとおり,引揚担当機関を次々と縮小ないし廃止していった。 昭和34年11月16日,横須賀,呉及び佐世保の三地方復員部が廃止され,地方の第一線で復員,引揚援護の業務に携わっていた地方機関は全て姿を消した。昭和29年4月から厚生省の内局として引揚援護行政を担っていた「引揚援護局」も,その業務の実 世保の三地方復員部が廃止され,地方の第一線で復員,引揚援護の業務に携わっていた地方機関は全て姿を消した。昭和29年4月から厚生省の内局として引揚援護行政を担っていた「引揚援護局」も,その業務の実態が復員者,引揚者の援護から戦傷病者戦没者遺族等の援護業務へと中心が移ったことから,昭和36年6月1日に「援護局」と改称され,その定員も減少していった。さらに,昭和37年7月1日には未帰還者調査部が廃止され,これを縮小した調査課が設置された。 (イ) 別紙個別主張一覧記載の各原告に対する早期帰国実現義務違反前記(ア)のとおり,すべての残留孤児につき,引揚げ,消息調査等をほぼ完全に打ち切る姿勢にあった被告は,別紙個別主張一覧記載の各原告について,手紙等で連絡を取ることはなく,香港ルートによる帰国手段を説明し,これによる帰国を促すこともなかったものであり,厚生大臣ないし外務大臣は別紙個別主張一覧記載の各原告に対する前記2( ), イ(ア) ( )の早期帰国実現義務をも違法に怠った。 bbウ国交正常化後の早期帰国実現義務違反について被告は,日中国交正常化後も,一度戦時死亡宣告で戸籍から抹消した死人の身元調査に予算を計上できないとの態度を取り,以下のとおり,残留孤児の実態調査や肉親捜しに消極的で(後記(ア) ,昭和62年に)は,その時点までに訪日調査に参加した残留孤児の数が厚生省の把握していた数との比較でも全員に満たない1488人にすぎなかったのに,「,」今後孤児からの調査依頼はさほどの件数はないとの見通しに立って訪日調査の概了宣言を行っていた。また,被告は,残留孤児に対する帰国旅費の支給も十分に行わず(後記(イ) ,むしろ,残留孤児の早期帰)国を阻むかのような態度を取っていた(後記(ウ) 。 ) cかくて,厚生大臣ないし ていた。また,被告は,残留孤児に対する帰国旅費の支給も十分に行わず(後記(イ) ,むしろ,残留孤児の早期帰)国を阻むかのような態度を取っていた(後記(ウ) 。 ) cかくて,厚生大臣ないし外務大臣は,原告らに対する前記2( )イ(ア)の早期帰国実現義務を違法に怠ったものである。 (ア) 残留孤児の実態調査等に対する消極的姿勢について保有資料による調査についてa被告は,後記( )ウ(ア)のとおり,保有資料による調査を実施した a旨主張しており,国交回復後,残留孤児からの調査依頼が在北京日本国大使館,厚生省,都道府県等に数多く寄せられたことから,未帰還者調査が始まったことは確かである。 しかし,日本国大使館のロッカーには,このような調査依頼の手紙数千通が処理されずほこりを被った状態で放置されていた上,被告が調査依頼に誠実に対応していれば,より多くの残留孤児の身元が判明したはずであって,被告が実施した保有資料による調査が不十分であったことは明らかである。 公開調査についてb被告が公開調査を開始したきっかけは,民間のボランティア団体が各報道機関に働き掛け,朝日新聞社が「生き別れた者の記録」という特集を組んだ結果,残留孤児問題が社会問題化したことによるものであり,被告の積極的な働き掛けによるものではない。 被告による公開調査は,昭和50年3月から昭和56年1月までに合計9回,437人についてにとどまる不十分なもので,被告が孤児記録を一部しか公開しないため,民間のボランティア団体が保有する資料を集めて朝日新聞社が記事を掲載していたのである。 訪日調査についてc,,公開調査で知らされる残留孤児の顔写真や断片的な資料だけでは残留孤児も在日親族も自分の肉親であると判断することは困難であり,残留孤児の訪日によって社会的関心も高 ある。 訪日調査についてc,,公開調査で知らされる残留孤児の顔写真や断片的な資料だけでは残留孤児も在日親族も自分の肉親であると判断することは困難であり,残留孤児の訪日によって社会的関心も高まり,情報収集もしやすくなるところ,訪日調査は最も重要な未帰還者調査であった。 しかし,被告の実施した訪日調査は,以下のとおり,開始時期,調査期間及び調査方法のいずれの点においても不十分なものであった。 ( ) 開始時期の遅れa中国に残留している邦人から日本国内への通信は,国交正常化後の昭和47年9月ころからは活発に行われるようになり,在北京日本国大使館,厚生省,都道府県等にも,残留孤児からの調査依頼が数多く寄せられており,被告は,昭和47年9月には残留孤児の身元調査の必要性を認識していたところ,保有資料やマスコミ等を通じた調査と比べ,訪日調査の方が判明率が格段に上がることも明らかであった。 しかし,被告が第1回訪日調査を行ったのは,終戦後36年,国交正常化後9年が経過した昭和56年3月になってからであり,この間残留孤児を放置し続けたところ,かかる訪日調査の遅れは,残留孤児及び在日親族の高齢化を招来し,生きて親族に再会できないケースが生じ,また,記憶の減退,手掛かりの散逸等によって身元解明を一層困難とした。 なお,被告は,開始時期の遅れにつき,後記( )ウ(ア) ( )のとお ca。 ,,,り主張するしかし文化大革命による混乱は昭和41年から23年でほぼ鎮静化し,遅くとも国交正常化以後には混乱がなかったし,日中両国政府間の確認,連絡,調査等が必要であるとしても,8年半もの空白期間が生じたことを正当化する理由にはならない。 調査のための訪日に,養父母が反対し,又は中国の公安当局が難色を示したという点については,これを裏付ける証 ,調査等が必要であるとしても,8年半もの空白期間が生じたことを正当化する理由にはならない。 調査のための訪日に,養父母が反対し,又は中国の公安当局が難色を示したという点については,これを裏付ける証拠はない。 ( ) 調査の長期化b昭和56年時点で,残留孤児は少なくとも約3000人は存在していたと思われる上,残留孤児及び在日親族が高齢化し,記憶の減,,退手掛かりの散逸等を免れない状態となっていたことからすれば被告としては,1回当たりの訪日人員枠を拡大し,より多くの残留孤児が速やかに訪日調査へ参加できるようにすべきであった(このことは,昭和56年の判明率は63.8%であったが,昭和60年の判明率は平均32.7%に低下し,以降も判明率が低下し続けていることからも明らかである。しかし,訪日調査は長期化し,。)昭和56年3月から平成7年11月までの約15年間にもわたるものとなった。 ,,,,なお被告は調査の長期化につき後記( )ウ(ア) ( )のとおり cb訪日人数枠が限定されざるを得なかったと主張する。しかし,日本人孤児担当の公安省の中国人係官が,昭和59年の時点で「調査のスピードが遅すぎる責任はすべて日本政府にある」と批判していたこと,国交正常化を契機に,中国に残留している者から日本国内への通信も活発になり,相当程度の情報が既に整理されているはずであること等からすれば,被告の主張は,2116人の訪日調査に約15年もの期間を要したことを正当化する理由とはならない。 ( ) 調査方法の不十分さc被告は,原則として,保有資料や残留孤児が保有する手掛かり等を基礎に,対面調査を行う方法により,訪日調査を実施していた。 しかし,少なくとも36年以上も前のものとなる残留孤児の記憶やその保有する手掛かりの正確性ないし信用 有資料や残留孤児が保有する手掛かり等を基礎に,対面調査を行う方法により,訪日調査を実施していた。 しかし,少なくとも36年以上も前のものとなる残留孤児の記憶やその保有する手掛かりの正確性ないし信用性が十分とはいえず,科学的調査方法である血液鑑定やDNA鑑定の方が正確性ないし信用性が高いことは明らかである。そして,昭和58年12月3日には,中国残留孤児問題全国協議会から,訪日調査における原則的な血液検査の実施を要請されていた以上,被告としても,遅くとも同日以降,訪日調査で原則的に血液検査を実施すべきであったが,にもかかわらず,調査方法を科学的なものへと改めることなく,従前の原始的な方法を漫然と続けていた。 この点,被告は,後記( )ウ(ア) ( )のとおり,一定の場合には, cc当事者双方の希望によって血液鑑定を実施したなどとと主張する。 しかし,1人当たり約8万円もの血液鑑定の費用は,残留孤児本人については全額国庫負担であったにせよ,肉親関係者については経済的事情から負担が困難と認められて国庫負担とされない限り自己負担であったところ,肉親関係者の費用を原則自己負担とすること自体が問題な上,昭和60年度に血液鑑定料として予算請求されているのはわずか20人分の6万円であり,血液検査への同意の有無を記載する書面に「費用は誰が出すのかと心配していた」との()記載があることからすれば,残留孤児が費用の負担を心配して血液鑑定をちゅうちょせざるを得なかったのが実際であったと推測されるものである。また,被告は,DNA鑑定については何ら反論をしておらず,DNA鑑定を考慮していなかったものと推測される。 その他の調査についてd訪中調査は,平成3年及び平成4年に計4回,各10日程度,数名の残留孤児につきなされたにすぎず,キャラバン調査も,設 おらず,DNA鑑定を考慮していなかったものと推測される。 その他の調査についてd訪中調査は,平成3年及び平成4年に計4回,各10日程度,数名の残留孤児につきなされたにすぎず,キャラバン調査も,設置された身元判明孤児肉親調査委員会に対して被告が採った援助の内容が不明であるところ,これらの調査によって身元が判明した残留孤児の数は少なく,実効性がなかったといわざるを得ない。 また,訪中調査は,被告から積極的に身元未判明孤児に働き掛けるもので,経済的事情等何らかの事情で積極的な調査が困難な場合や,手掛かりが乏しい孤児には特に有効な方法であるところ,キャラバン調査も含め,対象を限定せず,公開調査及び訪日調査と並行して早期かつ大規模に実施すべきであったが,被告の訪中調査及びキャラバン調査は,障害等による訪日困難者や訪日調査で身元が判明しなかった孤児に対象が限定されていた。 (イ) 帰国旅費の国庫負担制度について帰国旅費の国庫負担制度は,以下のとおり,支給範囲の制限等,制度周知の不備,受給手続の困難,自己負担の原則,支給対象者の限定等の問題点が存在する不十分なものであった。残留孤児の永住帰国者数は,昭和48年は0,翌年が1世帯5人,昭和53年でも20世帯74人にとどまるものであり,その実態が帰国の援護からはほど遠かったことは明らかである。 支給範囲の制限等a被告は,居住地から出境地までの中国国内の旅費,日本までの渡航費用等を残留孤児が捻出することは困難であったにもかかわず,当初は,「出港地までの内陸又は海上の運賃,船待ち滞留中に要する経費その他の諸経費は引揚援護庁においては負担しない」こととして支給範囲を制限していた。この範囲外の費用については,その後10年も経過してか「,ら本人または留守家族において当該旅費を負担することが困難なため 諸経費は引揚援護庁においては負担しない」こととして支給範囲を制限していた。この範囲外の費用については,その後10年も経過してか「,ら本人または留守家族において当該旅費を負担することが困難なため事実上帰国できない者がある事情にかんがみ,支給されることとなっ」たが,その主体は日本赤十字社であり,被告がこのような費用を負担するようになったのは,その後さらに11年が経過してからだった。 その後も,被告は,帰国旅費等の負担は片道分のみにとどめたり,一時帰国援護により一度里帰りした者については,その後永住帰国を希望しても援護を行わなかったりなど,多くの制限を課していた。 制度周知の不備b被告は,帰国旅費国庫負担制度について,留守家族に対して周知を図り,留守家族から帰国希望者に対し通信により連絡させる等の方法を採ったようである。しかし,生活が困窮している者や日本語を忘れかけている者が多い残留孤児が日本語による煩雑な手続を行うことは難しい状態にあったところ,一定の要件の下に居住地から出港地までの旅費等を被告が支給することを実際に知ることのできた残留孤児はほとんどいなかった。このような実情を把握していた被告としては,留守家族を通じた周知だけでなく,公安局,大使館等を通じた連絡をするなどの措置も採るべきであった。 受給手続の困難c旅費の支給を受けるためには,帰国希望者が留守家族と連絡を取り,留守家族を介して居住地の都道府県に申請する必要があったが,この申請方法は,留守家族の協力を得なければ帰国できないという問題を孕んでいた上,日本国籍を取得した上で中国側に帰国申請をして出境許可証を得て,日本の都道府県に旅費支給を申請するといった煩雑な手続が要求され,それを日本語で行わなければならず,帰国希望者が旅費の支給を申請する手続を独力で行うことは困 中国側に帰国申請をして出境許可証を得て,日本の都道府県に旅費支給を申請するといった煩雑な手続が要求され,それを日本語で行わなければならず,帰国希望者が旅費の支給を申請する手続を独力で行うことは困難であった。 自己負担の原則d前記のような居住地から出港地までの旅費及び船運賃については,a自己負担が原則で,支給対象者は「本人又はその留守家族において帰,国旅費を支弁することが困難な事情にある」者に限定されていた。実際にかかる要件に該当すると判断されて支給を受けた者はほとんどおらず,要件に該当すると判断された者の中にも,被告から「予算の問題で帰国は来年になる」と告げられ,旅費の支給を待てずにボランティア等が支出した旅費で帰国した者もいた。 支給対象者の限定と家族の分断e戦後25年以上を経過した昭和48年の時点では,帰国を切望していた残留孤児も,中国で家族を形成しその子も成年となっていた者が大半であった。 しかし,帰国旅費支給の対象は「引揚者及び引揚者に準ずる者」に限定されていた。ここにいう「引揚者」については「終戦後はじめて永住の目的をもって帰国するもの」に限定されており,残留孤児は,親族の安否を確認したり,日本国内における生活環境を整えたりすることもできないまま,帰国の際に永住するか否かの決断を迫られた。また,ここにいう「引揚者に準ずる者」については「同伴する妻」の他「未成年,の子」に限定されており,成年に達した子の帰国費用を捻出できない残留孤児は,永住帰国を選択して中国で形成した家族と別離するか,帰国を断念するかの決断を余儀なくされた。 さらに,口上書が交換された昭和59年以前は,身元未判明孤児については永住の受入れをしておらず,日本に留守家族を持たない残留孤児は,当然に帰国旅費支給の対象外とされていた。 このような帰国 された。 さらに,口上書が交換された昭和59年以前は,身元未判明孤児については永住の受入れをしておらず,日本に留守家族を持たない残留孤児は,当然に帰国旅費支給の対象外とされていた。 このような帰国手当支給対象者の限定は,一時帰国せざるを得ない事情があったり,留守家族との連絡が困難であったりなど真に援助を必要とする残留孤児の存在を無視し,また,残留孤児の家族の分断を引き起こすものであった。 (ウ) 外国人としての取扱いと身元引受人制度について外国人としての取扱いaそもそも日本人である中国残留孤児が日本に帰国することは当然の権利である。しかし,被告は,日中国交正常化後に中国旅券で来日するようになった中国残留孤児について,出入国管理及び難民認定法上外国人として取り扱い,中国残留孤児は,日本へ帰国する際に身元保証人が要求されることとなった。 この帰結として,身元判明孤児については,親族に同意を得て身元保証人となってもらわねば永住帰国できないこととなったが,帰国に伴う責任を負わされるため,身元保証人となることを拒否する親族が続出し,訪日調査開始後も親族が名乗り出ない事例すら生み出されることとなった。 他方,身元未判明孤児については,在日の親族,知人等がおらず,身元保証人を探す手段もないため,外国人としての取扱いが,帰国を遅延させる結果を招来したところ,かかる事態に対し,日本政府は,日中両国政府が昭和59年3月に取り交わされた口上書で,日本への帰国を孤児は肉親の有無にかかわらず帰国させる旨確認されるまで,何の対策も採らなかった。 そもそも,外国人としての取扱いを避けるためには,時間のかかる国籍取得の手続が必要であるが,かかる就籍の費用が国庫負担されるようになったのも,平成7年になってからである。 身元引受人制度b国は,昭和60年3月29 しての取扱いを避けるためには,時間のかかる国籍取得の手続が必要であるが,かかる就籍の費用が国庫負担されるようになったのも,平成7年になってからである。 身元引受人制度b国は,昭和60年3月29日,身元引受人制度を創設したが,その対象は身元未判明孤児に限られており,親族が帰国に協力しない身元判明孤児については,依然として何の対策も採られなかった。 また,身元未判明孤児が身元引受人制度の下で帰国するためには,入国査証の発給とともに厚生省援護局長の発給する帰国旅費国庫負担承認書及び定着促進センターへの入所通知を必要としたが,これは,定着促進センターへの入所及び定着促進センター入所中にあっせんされる身元引受人の近隣への定住を義務付け,帰国した後の居住地の選択を事実上制限するものであった。加えて,この制度で帰国する場合は,雇用証明書(採用証明書)も必要とされ,孤児は,帰国後の就職先が決まらなければ,帰国できないような状況に置かれていた。 さらに,身元引受人の業務は,定着促進センターへの出迎え,転入手続,就労のあっせん等の多岐にわたり,受け入れる側の負担が大きく,結果として,受入体制が十分整わず,また,言語・風俗習慣の違いもあり,孤児と身元引受人との間の摩擦も絶えなかった。 このように,身元引受人制度は,孤児の帰国を容易にするものではなく,帰国に関する責任を身元引受人と孤児個人とに負わせ,身元未判明孤児の帰国を厳しく制限ないし阻害するものであった。 ( ) 被告の主張 被告は,以下のとおり,未帰還者調査ないし帰国援護を適宜行っており,厚生大臣ないし外務大臣が,原告らの主張に係る早期帰国実現義務を違法に怠ったことはない。 ア後期集団引揚げ終了前被告は,中国残留邦人の消息について,以下のとおり,戦後のGHQによる占領や中華人民共和国と当時外 外務大臣が,原告らの主張に係る早期帰国実現義務を違法に怠ったことはない。 ア後期集団引揚げ終了前被告は,中国残留邦人の消息について,以下のとおり,戦後のGHQによる占領や中華人民共和国と当時外交関係がなかった状況の下,都道府県ないし留守家族と連携を採りつつ,できる限りの調査を行ってきた。 (ア) 昭和29年ころまで昭和23年ないし昭和25年ころまでの間は,占領下の各種の制約,終戦直後の国内情勢の混乱等のため,調査の実施に非常な困難を来したが,そのような中で,未引揚邦人届の収集,帰還者より覚書を収集して行う消息不明者の個人究明,現地からの通信の収集,各地域の終戦以降引揚げまでの状況資料の整備,残留者の状況に関する各般の調査,満州開拓団に関する調査等を実施していた。例えば,昭和24年3月には,留守家族に未引揚邦人の届を提出させたり,開拓団,在外商社等に呼び,,かけて関係資料の提出を求めたりし昭和25年4月から6月の間には各都道府県を通じて留守宅に対する一斉調査を行い,昭和25年10月実施された全国国勢調査の際には,調査員に未引揚者の調査を依頼するなどした。また,引揚者からは,上陸地において残留者ないし死亡者に関する情報を収集するとともに,その帰郷後に通信調査,合同調査等を行って現地の残留者の動態資料を入手するなどした。このような未帰還調査業務は,昭和25年ころから体制が整って本格的に実施されるようになっていった。 (イ) 昭和30年ころ以降昭和28年8月に未帰還者留守家族等援護法が制定され,その趣旨に基づき,昭和29年4月以降,厚生省に設置された未帰還調査部の下,未引揚一般邦人の調査は,未帰還の軍人軍属の調査と一元的に実施することとされたが,その後は,以下のとおり,保有資料の分析や,引揚者等からの情報収集等の国内調査を中心と に設置された未帰還調査部の下,未引揚一般邦人の調査は,未帰還の軍人軍属の調査と一元的に実施することとされたが,その後は,以下のとおり,保有資料の分析や,引揚者等からの情報収集等の国内調査を中心としつつ,現地への通信調査等を実施し,また,中国側の協力を得るための政府間の直接交渉を実施するなどしていた。 国内では,引揚上陸地における帰還者からの聞き取り調査,帰還者に対する通信調査,招致調査及び探訪調査,留守家族等からの資料収集等を実施し,旧満州地区の一般邦人及び開拓団員について,日ソ開戦前における職域,隣組,開拓団等ごとにその人員,人名を把握し,足取りを追って,この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし,未引揚邦人の個人ごとの最終消息を基に,生死の判定の拠り所を求めることを重視し,個人究明を行った。 国外については,日本は中華人民共和国と当時外交関係がなく,現地調査を行うことが困難であったが,政府は,留守宅等に通信があるなどの事情により,現地住所が明らかな者に対し,通信調査を実施するなどし,昭和33年及び昭和35年には,中国地域に残留し,その現地住所の明らかな者の名簿を作成した上,これを都道府県に配布し,留守家族と協力して現地に対する通信調査を実施した。 また,日本政府は,昭和29年以降,数次にわたり,日本赤十字社,留守家族団体等を通じて,中国紅十字会に対し,未帰還者の消息調査を依頼し,留守家族等が直接依頼していたものも含む一部について回答を得ていたところ,昭和30年7月及び昭和32年5月には,ジュネーブにおいて,中国に対し,未帰還者調査への協力を依頼したが,中国から協力する旨の回答を得ることはできなかった。 イ国交正常化前(ア) 未帰還者特別措置法について戦時死亡宣告を受けて自己の戸籍が抹消されていることに対し,生存して 査への協力を依頼したが,中国から協力する旨の回答を得ることはできなかった。 イ国交正常化前(ア) 未帰還者特別措置法について戦時死亡宣告を受けて自己の戸籍が抹消されていることに対し,生存して帰国した者が不快感を抱く心情は理解できるが,さりとて未帰還者特別措置法が直ちに違法となるものではなく,以下のとおり,未帰還者特別措置法の趣旨,立法経緯,具体的運用等には何ら違法な点はない。 未帰還者の数は,集団引揚げ等によって徐々に減少し,昭和32年a10月1日現在では4万4650人となっていたが,その大部分は,終戦前後の混乱期に消息を絶ち,戦後10年以上の調査究明でも状況を明らかにできないものであった。他方,未帰還者の留守家族には,未帰還者留守家族等援護法に基づき,留守家族手当が支給されていたが,昭和34年8月1日からは,過去7年以内に生存していると認めるに足りる資料がない未帰還者の留守家族に対しては,支給されないこととなっていた。かかる状況の下,昭和34年7月末までに未帰還者の調査究明を完結することが要請されたが,事実上は不可能に近かったところ,厚生省は,従来の法律では対処できない未帰還者の最終処理について,特別な措置が必要であるとの認識から,昭和32年12月17日,死亡推定措置等を含む試案を公表したが,これに対しては,引揚同胞対策審議会において,留守家族団体の反対意見が出された。 そこで,厚生省は,留守家族団体等から表明された意見も踏まえて検討を重ねるとともに,後記(イ)のような一斉特別調査も実施した上,昭和33年12月17日,その手続の大部分を司法機関にゆだねること,留守家族手当の支給期間の延長等を盛り込んだ要綱案を引揚同胞対策審議会に諮問したところ,基本的に賛意が得られたことから,所定の手続を経て,未帰還者特別措置法は成立し, 部分を司法機関にゆだねること,留守家族手当の支給期間の延長等を盛り込んだ要綱案を引揚同胞対策審議会に諮問したところ,基本的に賛意が得られたことから,所定の手続を経て,未帰還者特別措置法は成立し,昭和34年4月1日から施行されたものである。 未帰還者特別措置法2条1項各号に規定する戦時死亡宣告申立該当b者の決定に当たっては,厚生省保有の資料により,これに該当すると認められる未帰還者について,該当予定者として,都道府県を通じて,,留守家族にあらかじめ通知し都道府県の面接による意向調査を経て留守家族が戦時死亡宣告の申立てに書面で同意した後に該当決定することとし,家庭裁判所においても,申立てに係る留守家族の真摯な同意の有無が審査されることになっている。 (イ) 後期集団引揚げ終了後国交正常化前の調査被告は,未帰還者特別措置法制定前の昭和33年12月,現に外地に残留している者を把握するとともに,状況不明の未帰還者の消息資料を収集する目的で,一斉特別調査を行った。具体的には,都道府県と連携し,広報機関,関係各団体の協力も得て,帰還者に各種名簿を送付するなどして通信調査(国内調査)を実施し,外地残留者にも通信調査(国外調査)を行い,当時日本と外交関係のなかった中華人民共和国については,国外調査を実施せず,昭和33年10月,日本赤十字社から中国紅十字会に対し,現地残留者の内地向け通信に協力方を申し入れることとしたが,これに対する中国側からの回答はなかった。 また,被告は,未帰還者特別措置法の施行後も,都道府県と連携し,戦時死亡宣告の確定した者を含めて未帰還者の調査を続けていた。すなわち,国内では,上陸地において帰還者から聞き取り調査を行ったり,厚生省及び都道府県の職員が,未帰還者の情報を持っていると思われる帰還者に対し,通信により,未帰 めて未帰還者の調査を続けていた。すなわち,国内では,上陸地において帰還者から聞き取り調査を行ったり,厚生省及び都道府県の職員が,未帰還者の情報を持っていると思われる帰還者に対し,通信により,未帰還者に関する既得資料を確認したり,帰還者を招致したり帰還者宅へ訪問したりし,未帰還者の消息に関する情報を収集するなどした。国外では,当時は中華人民共和国政府と外交関係がなく,外交ルートによる調査は困難であったため,日本赤十字社や留守家族団体を通じ,未帰還者の安否を確認するなどした。戦時死亡宣告確定者等については,他の処理済の者と諸資料を区分して整理保管し,機会あるごとに死亡時期,場所,死因等について調査するなど,未帰還者として調査を続けていた。そして,戦時死亡宣告確定者が生存していることが判明するなど,戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じたときには,利害関係人に対し,失踪宣告(戦時死亡宣告)の取消審判申立てを行うよう都道府県が指導し,利害関係人が申立てをしない場合には,都道府県からの通知を受け,厚生大臣が戦時死亡宣告の取消請求を行い,審判確定後,本籍地市区町村へ戸籍の処理を依頼するなどしていた。 ウ国交正常化後(ア) 残留孤児の身元調査等保有資料による調査a被告は,日中国交正常化以後,当初は,中国残留孤児,養父母等から寄せられた手掛かり資料を基に,未帰還者調査等により収集された各種資料と照合して該当者と思われる者を抽出し,都道府県を通じて家族に確認を求めるなどしていた。 公開調査b被告は,昭和49年ころ,ボランティアによる残留孤児の肉親捜しに連動して朝日新聞社が中国からの便りを新聞報道したことが反響を呼んだことを参考にし,新たな調査方法として公開調査を開始した。 ,,,公開調査については各報道機関の協力を得て孤児の顔写 肉親捜しに連動して朝日新聞社が中国からの便りを新聞報道したことが反響を呼んだことを参考にし,新たな調査方法として公開調査を開始した。 ,,,公開調査については各報道機関の協力を得て孤児の顔写真特徴肉親と離別したときの事柄等を新聞,テレビ等によって広く国民一般に公開し,孤児の情報等を被告から積極的に周知して,身元調査の促。 ,,進に努めてきた被告は昭和50年3月から昭和56年1月までに公開調査を計9回実施し,329人が公開され,その結果,延べ166人の孤児の身元が確認された。 訪日調査c被告は,手掛かり資料の乏しい中国残留孤児については身元の解明が困難であることや,実際に孤児と対面して顔を見,声を聞き,身体的な特徴,孤児が覚えている手掛かりを確認したいとの在日親族からの要望を踏まえて,昭和56年3月以降,身元が確認できない中国残留孤児につき,一定期間日本に招き,報道機関の協力を得て肉親捜しを行う訪日調査を実施した。 訪日調査の対象者は,手掛かり等に基づき,日中両国政府が中国残留孤児と確認した者とし,訪日期間中の調査効率を高めるため,訪日前には,保有資料の調査により肉親関係者の抽出を行うとともに,報道機関の協力を得て手掛かりを公表し,肉親関係者の名乗り出や情報の提供を求める公開調査等を行った。訪日後は,手掛かりの正確を期するため,まずは調査担当官による本人からの聞き取り調査(面接調査)を行い,その結果,新たに把握されたり修正されたりした手掛かりについては,直ちに報道機関を通じて公開し,他方で,報道機関の協力により,孤児自らがテレビに出演し,全国に身元の手掛かりを訴え,ルーツを求める呼びかけを行うこととした。そして,肉親関係者が名乗り出た場合は,孤児と直接対面してもらい,身元の確認を行った(対面調査。なお,対面調査によっ ビに出演し,全国に身元の手掛かりを訴え,ルーツを求める呼びかけを行うこととした。そして,肉親関係者が名乗り出た場合は,孤児と直接対面してもらい,身元の確認を行った(対面調査。なお,対面調査によって孤児・肉親の双方が身元確)認について明確に判断できない場合,一人の孤児に複数の関係者が名乗り出た場合等においては,当事者双方の希望により,血液鑑定(平成2年以降はDNA鑑定)を実施した。 被告は,昭和56年3月から平成11年までの間,かかる訪日調査を計30回実施し,参加した2116名のうち,670名の孤児の身元が確認された。 ( ) 開始時期についてa日中国交正常化は昭和47年9月に実現したが,当時,中国国内は文化大革命(昭和41年から昭和52年)の最中であった。被告は,文化大革命の終息後,中国政府との間で,訪日調査実現に向け,。 ,て外交交渉を行ったものの交渉には相当の時間を要した他方で当時,戦後30年余りを中国公民として生活していた残留孤児を肉親調査のために訪日させることについては,我が子を手放したくない養父母の反対があり,中国公安当局も難色を示していた。訪日調査を実現するためには,かかる問題を解決しなければならず,被告は,中国政府と度重なる交渉をしなければならなかった。 また,訪日調査が日中両国をまたぐもので両国とも初めての試みであったこと等から,両国政府において,訪日対象者の確認,本人への連絡(中国国内の通信事情で数か月かかることもあった,。)受入れ態勢の整備,残留孤児の手掛かりを調査した結果の取りまとめ等解決すべき事項が多岐にわたり,両国政府の間の外交交渉にも相当程度の時間を要した。 ( ) 訪日人数枠についてb訪日調査の実施に際しては,中国政府側でも残留孤児であることの確認等の作業が必要であったところ,中国政 岐にわたり,両国政府の間の外交交渉にも相当程度の時間を要した。 ( ) 訪日人数枠についてb訪日調査の実施に際しては,中国政府側でも残留孤児であることの確認等の作業が必要であったところ,中国政府には,残留孤児に対処する専門の部署がなく,中央では公安部出入境管理局,地方では各省公安局出入境管理処が窓口となり,その作業を行っていた。 しかし,これら機関は円滑に機能しておらず,本人への連絡(中国国内の通信事情で数か月かかることもあった)等の準備に相当の。 ,。 時間を要し一度に多くの残留孤児を訪日させることも難しかった他方,被告側でも,訪日調査の実効性を少しでも上げるため,個々の孤児に関する少ない手掛かりの中から,肉親へとつながる情報を蓄積し,整理するなど,非常に丹念な作業と綿密な調査が必要であって,個々の孤児の調査には時間を要した。そして,日中両国をまたぐ国際的調査である訪日調査を実施するに当たっては,毎回外交上の交渉が必要であり,外交文書のやり取り等にも相当の時間を要し,自ずから1年間の訪日調査の開催頻度も制限された。 被告は,上記諸事情から,当初,訪日調査の人数枠を決定してき,,(),たところ訪日調査数は昭和58年度に計105人年2回実施昭和59年度に計140人(年2回実施,昭和60年度に計36)0人(年3回実施,昭和61年度に計672人(年5回実施)と)拡大しているものである。 ( ) 調査方法についてc被告は,訪日調査を開始した当初から,孤児本人及び肉親関係者に対し,科学的方法による血液鑑定を行い,肉親関係確認のための参考とできる旨を周知していたが,血液鑑定をするか否かは,人権上の問題から当事者の選択にゆだねるほかなかったところ,当事者,,間の共通する記憶心的特徴等で肉親関係が確認される場合も多く当事 の参考とできる旨を周知していたが,血液鑑定をするか否かは,人権上の問題から当事者の選択にゆだねるほかなかったところ,当事者,,間の共通する記憶心的特徴等で肉親関係が確認される場合も多く当事者が血液鑑定をあえて選択しないことがほとんどであった。 被告は,血液鑑定の費用につき,中国残留孤児本人分は,全額国庫負担としているし,肉親関係者分は,本人負担を原則としつつ,経済的な事情から負担が困難と認められる者については被告が負担しており,費用面が血液鑑定の実施を阻害することはなかった。 訪中調査d( ) 障害を有する残留孤児の調査a,,,,,被告は平成34年度に本来訪日調査の対象者ではあるが身体等に障害を有しているため訪日できない孤児について,厚生省の職員が孤児の住所地まで赴き,中国政府の担当官の立会いの下,当該孤児から,肉親等との離別状況,日本の家族構成等の聞き取り調査を行い,その様子をビデオ撮影するなどして肉親に関する情報を収集して,その結果を報道機関を通じた発表により,世間一般に広く情報提供した。 ,,,,被告は18人の孤児につきこの調査を実施したがその結果3人の身元が判明し,希望した者については本邦へ帰国した。 ( ) 未確定者の調査b被告は,日中両国政府のいずれかが中国残留孤児と確認できない者について,平成6年度以降,調査担当官を中国へ派遣し,中国政府の協力の下,中国において残留孤児等との面接調査,手掛かり収集等を実施し,中国残留孤児である蓋然性が高いと判断した者につ,。 ,,いては訪日調査に参加させたこれにより平成11年度までに53人が訪日調査に参加し,4人の孤児の身元が確認された。 訪日対面調査e被告は,手掛かりの減少及び中国残留孤児の高齢化を踏まえ,孤児の訪日に伴う精神 に参加させたこれにより平成11年度までに53人が訪日調査に参加し,4人の孤児の身元が確認された。 訪日対面調査e被告は,手掛かりの減少及び中国残留孤児の高齢化を踏まえ,孤児の訪日に伴う精神的・身体的負担の軽減を図りつつも,早期の帰国希望に応えるため,平成12年度以降,訪日調査に代え,中国へ調査担,(),当官を派遣し孤児等との面接調査を日中政府共同で行い共同調査日中両国政府で中国残留孤児と確認された者につき,日本で顔写真,身体的特徴,肉親との離別の状況等の情報を孤児名簿として公開して肉親情報を収集し(情報公開調査,肉親情報のあった者については)訪日させ,肉親と思われる者との対面調査を行う(訪日対面調査)ようにした。 この訪日対面調査により,平成12年度から平成14年度末までの,。 間に46名が中国残留孤児と認定されうち8名の身元が確認されたなお,事前の中国における共同調査によって日中両国間で中国残留孤児と確認された者については,肉親情報がない等の理由で訪日対面調査に至らない場合でも,中国残留孤児として日本に帰国できることとしている。 その他の調査等f( ) キャラバン調査a被告は,訪日調査では身元を確認できなかった中国残留孤児の肉親調査を促進すべく,昭和62年8月24日,元開拓団等の代表者からなる身元未判明孤児肉親調査委員会を開催した上,各都道府県へ肉親捜し調査班を派遣し,肉親関係者,開拓団関係者等の協力を得て,未帰還者や孤児に関する情報の収集等を行うキャラバン調査を行った。被告は,昭和62年度から平成元年度までの間に,かかるキャラバン調査を延べ25回(各10日間)実施し,その結果,15人の孤児の有力情報が得られたため,中国政府の協力を得て,うち12人を再度訪日調査に参加させたところ,9人の身元が確認され に,かかるキャラバン調査を延べ25回(各10日間)実施し,その結果,15人の孤児の有力情報が得られたため,中国政府の協力を得て,うち12人を再度訪日調査に参加させたところ,9人の身元が確認された。 ( ) 孤児名鑑の発行b被告は,中国残留孤児に関する情報収集を促進すべく,昭和58年3月には「肉親捜しの手掛りを求めている中国残留日本人孤児」(3分冊)を作成して各都道府県,市町村等へ配布し,また,昭和62年には,キャラバン調査を機に編纂し直した「まだ見ぬ肉親を求めて・身元未判明中国残留日本人孤児名鑑」を作成し,その後も適宜情報を更新して,これを広く一般に公開して情報の提供を求めている。 ( ) 身元未判明孤児肉親調査事業c被告は,キャラバン調査の効果を踏まえ,国内における肉親調査を引続き全国規模で実施するため,平成2年度以降,元開拓団関係者等当時の事情に精通した者を身元未判明孤児肉親調査員として都道府県に配置し,肉親関係者等からの情報収集などを行っている。 (イ) 帰国旅費の国庫負担制度被告は,個別に引き揚げる者の経済的負担を軽減し,引揚げの促進を図るため,昭和27年3月1日から,個別に引き揚げる者の帰国に要する船運賃を負担することとし,昭和37年6月1日からは,個別に引き揚げる者の居住地から出港地までの旅費も,日本赤十字社に委託する形で支給することとし,国交正常化後には,航空機により帰国した場合の運賃についても,支給の対象とした。 かかる帰国旅費の国庫負担は,制度が開始された当初から,中国残留邦人本人が本邦に永住帰国する場合,同行する配偶者や未成年の子等の扶養親族も対象としていたが,平成4年度には,身体等に障害を有する中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯を,平成6年度,,には高齢の中国残留邦人を扶養するた る配偶者や未成年の子等の扶養親族も対象としていたが,平成4年度には,身体等に障害を有する中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯を,平成6年度,,には高齢の中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯を各々新たに対象とした。 日中国交正常化後,被告による帰国旅費の支給を受けて中国から永住帰国した世帯の数は6242世帯であり,また,残留婦人等を含む永住帰国者の数は昭和48年が70世帯143人,昭和49年が182世帯383人,昭和53年が100世帯280人であり,被告の帰国援護は着実に行われているものである。 制度周知の方法についてa未帰還者等の調査について,本籍地都道府県は,留守家族に対して適時未帰還者等の調査の現況等を連絡するとともに,絶えず留守家族の実情の把握に努めることとされ,国←→都道府県←→留守家族←→未帰還者等という連絡の経路が築かれていたところ,帰国旅費の国庫負担制度の周知についても,この連絡経路を活用することが必要かつ合理的であった。また,帰国希望者が残留邦人本人であると確認するためには,親族間にしか分からない事情等を知る留守家族が帰国旅費の申請を行う必要があった。 以上のことから,帰国旅費の国庫負担制度の周知方法としては,留守家族を経由した通信による方法を採用したものであり,かかる周知方法の点には何らの問題もない。 受給手続についてb帰国旅費の支給申請に際して帰国希望者が行うことは,留守家族に帰国を希望する旨の通信をするのみで足りた。昭和48年10月には,引揚希望者の戸籍の謄本又は抄本(引揚希望者が元日本人の場合は除籍の謄本又は抄本)を帰国旅費国交負担申請書に新たに添付することとされたが,この手続は留守家族等がするものである。 また,昭和57年3月17日に日中政府間で中国残留日本人孤児問題 が元日本人の場合は除籍の謄本又は抄本)を帰国旅費国交負担申請書に新たに添付することとされたが,この手続は留守家族等がするものである。 また,昭和57年3月17日に日中政府間で中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書が交換され,昭和60年から身元未判明孤児の帰国が開始されて以降,帰国旅費支給の申請手続としては,身元未判明孤児については,帰国希望者が日本永住帰国希望等調査票と日本永住帰国のための旅費申請書を在中国日本国大使館に送付すれば足り,身元未判明孤児以外については,帰国希望者が永住を目的として帰国を希望している旨の申立書(通信文でもよい)と,中国に残る親族がいる場合に。 は,新たな離別を避けるため帰国希望者が永住目的で帰国することに中国に残る親族が同意している旨を明らかにする書面とを,在日親族等に送付するのみで足りた。 生活自立援助義務違反(争点2( ))について ( ) 原告らの主張 前記3( )の早期帰国実現義務違反により,帰国が大幅に遅れた中国残留 孤児については,帰国時の年齢が高齢となればなるほど,日本語習得能力が低下し,就労条件も悪くなって,生活保護に頼らざるを得ない状況が生じているが,被告は,中国残留孤児問題を,孤児本人とその親族が自助努力で解決すべきものと位置付け,総合的自立支援策を確立せず,整合性を欠く対症療法的施策に終始し,かつ,生活保護からの脱却という経済的自立にのみ重点を置き,中国残留孤児の自立を阻害した。 かかる被告の姿勢及び後記アないしカのような各施策に対しては,従前から中国残留孤児問題全国協議会をはじめとする各団体から問題点が指摘されていたが,被告は,これを無視したりその場しのぎの対応に終始したりした。 平成11年12月1日に行われた中国帰国者実態調査(以下「平成11年調査」という)の結果 はじめとする各団体から問題点が指摘されていたが,被告は,これを無視したりその場しのぎの対応に終始したりした。 平成11年12月1日に行われた中国帰国者実態調査(以下「平成11年調査」という)の結果によれば,孤児の生活保護受給率は65.5%で,。 平成11年度の日本全体の生活保護受給率0.79%を著しく上回る異常な高さであり,孤児の現状は,およそ自立とはほど遠いものとなっている。 かくて厚生大臣は,前記2( )のとおり,生活自立援助義務があったにも かかわらず,これを違法に怠ったもので,かかる義務の懈怠は「棄民政策」といわざるを得ない。 ア住まい等(前記2( )イ(イ) )について a孤児の多くは,仕事の関係や知人が多くいること等を理由として都会に住むことを希望しており,関係各団体からは,住宅の確保の要請や,定住地の決定について,身元引受人と同居させるのではなく公営住宅を与えてほしいとの要望がなされていた。しかし,被告は,公営住宅法に基づき,一般の低額所得者に対する扱いと異ならない措置を採ったにすぎなかった上,孤児を全国各地に分散させる方針の下,全国各地の身元引受人の下へ同居させ,孤児の居住地を,その意に反して地方等に制限していた。 イ就業(前記2( )イ(イ) )について b中国残留孤児は,日本語を十分に使うことができず,また中国の職業資格が日本では通用しないため,就職できなかったり,就職できても職種が単純肉体労働に限定されがちであったが,かかる観点からの施策はなされていない。 被告は,昭和57年度から,雇用対策法等に基づき,職業転換給付金の支給を始めたというが,これは求職者一般に対する支援であり,長年中国社会での生活を余儀なくされ,日本語の会話はおろか読み書きもほとんどできない状態で帰国してきた多くの中国残留孤児の状態 転換給付金の支給を始めたというが,これは求職者一般に対する支援であり,長年中国社会での生活を余儀なくされ,日本語の会話はおろか読み書きもほとんどできない状態で帰国してきた多くの中国残留孤児の状態を踏まえたものではないし,職業相談等も,公共職業安定所での一般的な職業紹介と大差はない。特定求職者雇用開発助成金制度の適用による雇用の促進も,実態は不明で,適用期間も1年間にとどまっていた。 このような施策の不十分さは,平成11年調査において,60歳未満の孤児のうち就労している者が29.2%しかいないこと,孤児本人のみが就労している世帯の収入額が月15万1000円にとどまっていること等に現れているところ,その大きな原因は,後記ウのとおり,職場で通用する程度の日本語の習得ができていないことにある。 ウ言語(前記2( )イ(イ) )について c帰国した孤児に対する日本語教育は,昭和51年度までは何らの措置も採られず,昭和51年度以降も,学習書,カセットテープ等の語学教材を配付されただけであった。 昭和59年2月1日からは,定着促進センターで日本語教育が行われるようになったが,その期間はわずか4か月であり,その内容も日常生活に必要な基礎的なものにすぎず,これすらも習得できた孤児は少なかった。 昭和63年からは,自立研修センターで8か月の日本語教育も行われるようになったが,それでも期間は通算で1年に限られ,その内容も就労に不十分な基礎的な日常会話レベルであった。加えて,日中に就労しながら自立研修センターに通所できる者はまれであった。 平成11年調査によると,職場で通用する程度の日本語を習得している者は,就労している者で47.1%,就労していない者で1.9%にとどまり,また,独力で日常生活を営める程度の日本語が習得できていない者. ,。 は孤児 と,職場で通用する程度の日本語を習得している者は,就労している者で47.1%,就労していない者で1.9%にとどまり,また,独力で日常生活を営める程度の日本語が習得できていない者. ,。 は孤児本人で327%もおり被告による日本語教育は破たんしているエ家族(前記2( )イ(イ) )について d被告は,当初,帰国費用の援助対象を中国残留孤児本人以外には配偶者と未成年の子のみに限定しており,このため多くの孤児は成人した子と離れて帰国することを選択せざるを得なかった。 被告は,平成4年度から徐々に成人の子1世帯の同伴帰国を認めるに至ったが,このときには既に中国残留孤児は若くても47歳であり,その子らはほとんどが成人していたため,家族全員が帰国することはできなかった。このため,家族の中で誰が同伴帰国をするのかをめぐっていさかいが起こることもあった。 そして,中国に残してしまった子を自費で呼び寄せようとする場合,生活保護の中から呼び寄せのための旅費を貯蓄すると生活保護を削減されてしまうため,生活保護を受けていたのでは呼び寄せのための費用をねん出できなかった。そこで,孤児は,定着促進センターを出ると,なによりもまず,同伴帰国が認められなかった自分の子らの家族を呼び寄せるための資金を稼ぐため早々と就職をせざるをえず,さらに,孤児が資金稼ぎのために働くことによって日本語教育を受ける機会を奪われ,大半の孤児が日本語を話すことができないまま今日に至ったのである。 ,,被告の支援策では自費で呼び寄せた家族はほとんど支援を受けられずその自立は,孤児及び同伴帰国者よりも一層困難であることは想像に難くない。本来であれば親の扶養が期待されたはずの残留孤児2世自身が自立できず,親子そろって生活保護を受けざるを得なくなっているケースもある。 オ生活保障 伴帰国者よりも一層困難であることは想像に難くない。本来であれば親の扶養が期待されたはずの残留孤児2世自身が自立できず,親子そろって生活保護を受けざるを得なくなっているケースもある。 オ生活保障・就業後保障・老後保障(前記2( )イ(イ) )について e(ア) 自立支度金自立支度金(帰還手当)は終戦直後の引揚援護施策の延長線上のもので,中国残留孤児の特殊性が考慮されたものではなく,その額も昭和47年度までは1万円に据え置かれ,昭和62年度でも13万8600円,,にすぎないなど生活基盤を形成するための準備金としては全く足りずその支給も一時のもので,継続的な給付は全くなかった。 また,自立支度金は,私費で帰国した者には原則として支給されず,その結果,孤児の私費帰国をちゅうちょさせて妨げることにもなった。 (イ) 年金昭和60年の国民年金法の改正により,25年間が年金の受給資格を得る期間に算入されることとなったが,年金額には反映されず,帰国の遅れから,国民年金を受給するために必要な年数の掛金を孤児が支払うことは困難な状態となっていた。 国民年金の支給が開始されたのは平成8年で,その支給額も国庫負担相当額(保険料を納付した場合の3分の1)の月2万円余りで,この年金も,生活保護を受給していた場合には,生活保護費から控除されてい。 ,,たまた保険料追納及び生活福祉資金の貸付けの特例措置については情報が周知されておらず,貸付けを受けるとしても,利率は年3%,貸付期間は10年で,本人が死亡した場合には,親族が返済することとなるため,孤児が現実に貸付けを受けることは極めて困難であった。 カ身分(前記2( )イ(イ) )について f中国残留孤児は日本人で,その国民に日本国籍を取得させる政策自体が誤りであるが,その点をおいても,身元未 に貸付けを受けることは極めて困難であった。 カ身分(前記2( )イ(イ) )について f中国残留孤児は日本人で,その国民に日本国籍を取得させる政策自体が誤りであるが,その点をおいても,身元未判明孤児の戸籍が不明となった経緯にかんがみれば,就籍に関する費用は国庫負担すべきであったが,平成7年まで,就籍に関する費用は,すべて孤児又は身元保証人の負担とされていたところ,その前年までに帰国した孤児は1876世帯(人員にして6874人)に上り,平成15年までに帰国した孤児の75%がその支援を受けていない。 なお,被告は,財団法人法律扶助協会が,財団法人日本船舶振興会から補助を受けて審判費用を負担し,孤児本人に経済的負担が及ばないように配慮していたとするが,博打の収益による就籍では尊厳が傷つけられるとして,孤児や関係各団体からは,直接の国庫負担が求められていた。 ( ) 被告の主張 ,,,被告は帰国した中国残留孤児の生活の自立を援助すべく以下のとおり自立支度金の支給,オリエンテーションの実施,定着促進センターの開設,身元引受人制度の創設,自立研修センターの開設,自立指導員制度の創設,支援・交流センターの開設等の措置を講じているものであるから,厚生大臣ないし外務大臣が,原告らの主張に係る生活自立援助義務を違法に怠ったことはない。 ア帰国直後の援護(ア) 自立支度金の支給被告は,昭和28年3月から,中国残留邦人等の引揚者に対し,帰国後の当面の生活資金等に充てるものとして帰還手当を支給してきたが,昭和62年度には,名称を自立支度金に改めるとともに,少人数世帯については,一定の金額を加算して支給している。 (イ) オリエンテーション被告は,昭和54年以降,中国残留邦人及び同伴帰国者(以下「中国帰国者」という)に対し,帰国後の援護の内 ともに,少人数世帯については,一定の金額を加算して支給している。 (イ) オリエンテーション被告は,昭和54年以降,中国残留邦人及び同伴帰国者(以下「中国帰国者」という)に対し,帰国後の援護の内容,各種行政機関窓口,。 生活習慣の相違等帰国後直ちに必要となる事項についてのオリエンテーションを帰国直後に実施している。 (ウ) 定着促進センター被告は,中国帰国者について,昭和59年2月以降「中国帰国孤児,定着促進センター(平成6年4月に「中国帰国者定着促進センター」」に名称を変更した。以下「定着促進センター」という)を全国各地に。 順次開設し,帰国後の4か月間,入所形式による日本語教育,生活指導等を行っている。 (エ) 身元引受人制度身元未判明孤児については,昭和60年に身元引受人制度が,親族の死亡,高齢化等により親族の受入れが困難な身元判明孤児については,平成元年7月に特別身元引受人制度が,それぞれ創設された。 この身元引受人及び特別身元引受人の役割は,中国残留邦人の身元を引き受け,一日も早く自立して生活できるように日常生活上の諸問題の相談に応じ,自立に必要な助言・指導を行うことであり,引受期間は,定着促進センターの退所日から3年以内である。 なお,特別身元引受人については,帰国手続も行うこととされていたが,平成6年1月以降は日本政府が直接帰国手続を行うこととし,身元引受人及び特別身元引受人の役割が同じとなったため,平成7年2月,両制度を一本化した身元引受人制度に移行した。 (オ) 定着地のあっせん身元判明孤児については,事前に本人の希望を聞き,公営住宅の空き状況等を勘案し,関係都道府県と調整を行い,可能な限り本人の希望に沿った定着先をあっせんしている。 身元未判明孤児については,身元引受人の近隣に定住することとなるため,身元 望を聞き,公営住宅の空き状況等を勘案し,関係都道府県と調整を行い,可能な限り本人の希望に沿った定着先をあっせんしている。 身元未判明孤児については,身元引受人の近隣に定住することとなるため,身元引受人のあっせんの際に本人の定住希望地も考慮し,可能な限り本人の希望に沿った定着地をあっせんしている。 イ定着自立援護(ア) 自立研修センター被告は,定着促進センターを修了した中国帰国者の地域社会における定着自立を促進するため,昭和63年度以降,中国帰国者自立研修センター(以下「自立研修センター」という)を全国各地に設置し,原則。 約8か月間,通所形式により,日本語研修,地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就労指導員による就労相談・指導等を行っている。 (イ) 自立指導員長期にわたる海外での生活による言葉,生活習慣等の相違から,定着先の地域社会で定着自立していく上で困難に遭遇している中国帰国者の状況にかんがみ,被告は,昭和52年度以降,定着自立に必要な助言,指導等を行う引揚者生活指導員(昭和62年度から「自立指導員」に名称を変更した)を,支援が必要な中国帰国者の家庭へ派遣している。 。 その派遣期間,派遣日数等は,中国帰国者の状況に合わせ,制度創設以降,適宜拡大されており,昭和63年度からは,派遣期間が定着後3年間とされるなどしている。 (ウ) 支援・交流センター被告は,中国残留邦人やその家族の地域社会における定着自立を中・長期的かつ継続的に支援していくため,平成13年11月,東京都及び大阪府の2か所に,中国帰国者支援・交流センター(以下「支援・交流センター」という)を開設した。支援・交流センターでは,自立研修。 センターや自立指導員による援護を終えた者も対象として,日本語学習支援(通所ないし通信,相談事業等を行っている。 )ウその 交流センター」という)を開設した。支援・交流センターでは,自立研修。 センターや自立指導員による援護を終えた者も対象として,日本語学習支援(通所ないし通信,相談事業等を行っている。 )ウその他(ア) 自立支援通訳被告は,日本語が不自由な中国帰国者について,医療機関での適切な診察が受けられるようにするとともに,関係行政機関等で助言等を受けやすくするため,平成元年度以降,定着促進センター修了後(定着促進センターへ入所しない者については帰国後)原則として3年以内の者に対し,一定の要件の下,自立支援通訳を派遣している。 (イ) 巡回健康相談事業日本と中国では,医療事情や食生活等に違いがあることから,中国残留邦人に対して医療・保健衛生面における生活指導を行うことを目的として,平成元年度以降,定着促進センター修了後1年以内の中国帰国者世帯に対し,都道府県知事が選任した医師(健康相談医)を派遣し,健康相談を実施するとともに,必要な助言・指導を行っている。 (ウ) 就籍支援被告は,身元未判明孤児の就籍を容易にするため,家庭裁判所からの要請に適宜調査資料等を提供していたところ,昭和61年からは,財団法人法律扶助協会が財団法人日本船舶振興会の補助を受けて審判費用を負担していたが,厚生省は,この補助金が確実に交付されるように副申して孤児に経済的負担が及ばないよう措置しており,平成7年度以降,,,,,,被告は印紙代通信費交通費中国から持ち帰った資料の翻訳費用弁護士費用等,就籍の手続に要する経費を援助している。 (エ) 住居に関する支援被告は,公営住宅法に基づき財政措置を講じ,公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力し,住宅に困窮する低額所得者に低廉な家賃の住宅を供給しているが,中国残留邦人もその対象者し,かつ,入居者の選考及 告は,公営住宅法に基づき財政措置を講じ,公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力し,住宅に困窮する低額所得者に低廉な家賃の住宅を供給しているが,中国残留邦人もその対象者し,かつ,入居者の選考及び決定につき,優先的な取扱いをしている。 また,被告は,平成7年度以降,中国帰国者が帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住する場合,公営住宅優先入居の募集選考時期,地域要件又は当該住宅に空きがないなどのため,やむを得ず民間住宅に入居するときは,礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給している。 (オ) 就労に関する支援被告は,昭和57年度以降,永住帰国者に対し,職業転換金給付制度を適用し,昭和59年度から,特定求職者雇用開発助成金を適用して,その雇用促進を図っているが,昭和62年度からは,定着促進センター等に設置した職業相談員による職業相談等を行うなどしている。 (カ) 日本語教育に関する支援被告は,昭和52年度以降,中国残留邦人に対し,日本語を習得するための語学教材として,カセットレコーダー,カセットテープ及びテキストを帰国直後に支給している。 (キ) 国民年金に関する特例措置中国残留邦人等は,帰国時には高齢のため年金への加入期間が短く,年金受給額が低額か又は年金を受給できない事態が生じていたところ,被告は,平成8年,国民年金に関する特例措置を講じた。この措置は,永住帰国までの期間を保険料免除期間とみなし,この期間については,保険料を納付した場合の3分の1相当額(国庫負担相当額)を年金額に反映するものであり,また,本来は直近10年分しか認められない保険料の追納を保険料免除期間とみなされた期間について認め,追納すれば全額が年金額に反映するものであった。なお,保険料を追納する場合は生活福祉資金の貸付制度を利用でき,その 10年分しか認められない保険料の追納を保険料免除期間とみなされた期間について認め,追納すれば全額が年金額に反映するものであった。なお,保険料を追納する場合は生活福祉資金の貸付制度を利用でき,その償還期限は特別長期とされ,生活保護受給者については,貸付金を収入認定から除外し,この償還に充てる費用も世帯収入から控除されている。 (ク) 養父母の扶養費の支給被告は,現実に永住帰国した孤児が中国に残る家族を扶養することは極めて困難であることから,昭和58年4月の「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」と題する閣議了解等に基づき,中国残留孤児の養父母の扶養費として,中国側と取り決めた一定の金額を,財団法人中国残留孤児援護基金と2分の1づつ負担し,支払っている。 (ケ) その他被告は,以上に加え,一時帰国希望者への往復旅費の支給,中国帰国者生活実態調査の実施,中国残留邦人問題の普及啓発等を行っている。 国家賠償法附則6項との関係(争点2( ))について ( ) 原告らの主張 国家賠償法附則6項にいう「行為」とは,国家賠償法1条1項の違法行為を指すが原告らが主張する国家賠償法上の違法行為は前記3( )及び4( ),, のとおり,すべて国家賠償法施行後の行為に限られており,国家賠償法附則6項の適用が問題になる余地はない。 そもそも国民主権及び基本的人権の尊重を基本原理とし,13条において個人の尊厳を規定し,これを受けて17条において国民の国家賠償請求権を,,基本的人権として保障している日本国憲法の下では国家無答責の法理自体合理性及び正当性がなく,これが国家賠償法附則6項の趣旨に含まれているとは考えられない。 ( ) 被告の主張 国家賠償法施行前においては,国又は公共団体の権力的作用については,私法たる民法の 体合理性及び正当性がなく,これが国家賠償法附則6項の趣旨に含まれているとは考えられない。 ( ) 被告の主張 国家賠償法施行前においては,国又は公共団体の権力的作用については,私法たる民法の適用はなく,損害賠償責任は否定されていたが,国家賠償法附則6項は「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の,例による」と定め,国家賠償法施行前の公権力の行使に伴う損害賠償が問。 題とされる事例については,国家賠償法それ自体の遡及適用を否定した上,それまでに採用されていた国家無答責の法理がそのまま適用されることにより,国又は公共団体が責任を負わないことをも明らかにしている。 そして,原告らが主張する移民政策及び土着政策は,遅くとも,国家賠償法が施行された昭和22年10月27日より前に行われたものであるから,国家無答責の法理により民法が適用されない結果,違法と評価されず,国が賠償責任を負うものではないが,これを違法な先行行為とし,それによって発生した危険性ある状態を国家賠償法施行後に解消する義務を負わせ,その不作為につき,国家賠償法を適用すれば,結局,国家賠償法施行前の行為の賠償責任を負わせることとなり,国家賠償法附則6項の趣旨に反する。 因果関係(争点3)について( ) 原告らの主張 敗戦後十数年の時期において,厚生大臣ないし外務大臣が,戦時死亡宣告等によって中国残留邦人の探索・帰国実現を放棄せず,国際赤十字委員会,国際連合及び中国との交渉等を通じて中国残留孤児の所在を捜索し,帰国意思を調査したり,帰国を容易にする財政的その他の措置を講じたりなどの総合的政策を立案・実行していれば,多くの関係者が生存し,多くの情報が得られた可能性が高く,原告らの所在ないし身元が判明し,原告らが日本の家族の下へ速やかに帰還することができた高 置を講じたりなどの総合的政策を立案・実行していれば,多くの関係者が生存し,多くの情報が得られた可能性が高く,原告らの所在ないし身元が判明し,原告らが日本の家族の下へ速やかに帰還することができた高度の蓋然性があった。 また,昭和47年の日中国交回復後,厚生大臣ないし外務大臣が,同様の措置を直ちに採っていれば,原告らの帰国は少なくとも10年早まり,原告らが30代で日本に帰還することができた可能性も高く,はるかに容易に身元の判明,家族とのきずなの回復,日本語の習得,日本社会への適合等がなされる高度の蓋然性があった。 そして,1980年代に帰国が開始された時から現在までの間,厚生大臣が,適切な予算措置とともに,原告らが日本人として日本で生き社会生活を営んでいくために必要かつ十分な国語の習得,就業,住居,同行帰国家族の教育その他の措置を講ずるなどの総合的な政策を立案し,実行していれば,原告らが日本語を習得し,日本社会へ適応し,就業,住居及び帰国家族との生活が確保された可能性が高く,今日のような生活苦にあえぐことがなかった高度の蓋然性がある。 してみると,被告の早期帰国実現義務違反ないし生活自立援助義務違反により,後記7( )記載の原告らの損害が日々発生ないし拡大しているものと いうべく,上記各義務違反と原告らの損害との間に相当因果関係があることは明白である。 ( ) 被告の主張 原告らは,第二次世界大戦終結時に中国にいた原告らが,終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず,長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になったことから直接発生し又はその間日本で生活できなかったことに伴って発生した各種の不利益を被害とするところ,かかる被害は,被告の戦前の国家政策の実施等,原告らが主張する違法な先行行為自体から既に発生しており,被告 発生し又はその間日本で生活できなかったことに伴って発生した各種の不利益を被害とするところ,かかる被害は,被告の戦前の国家政策の実施等,原告らが主張する違法な先行行為自体から既に発生しており,被告の公務員の不作為によって初めて損害が発生するわけではない。 損害の発生及びその数額(争点4)について( ) 原告らの主張 ア(ア) 原告らは,前記3( )の早期帰国実現義務違反により,肉親との再会を 願い,一人取り残された悲しみと不安を感じながら,長きにわたって中国で生活することを強いられ,筆舌に尽くし難い多大な精神的苦痛を受けたが,以下のとおり,日本人という出自と中国人としての人生との板挟みとなり,程度の差はあるものの迫害ないし差別を受け,肉体的,精神的及び財産的な損害を被るとともに,日本語ないし日本固有の生活習慣を覚える機会を失ったりこれらを忘れたりし,日本国内で教育を受けたり自らの望む職業に就労したりする機会を喪失したなどの損害を被った。 原告らは,中国で生活を送る中で,その出自が日本人であることをa,,,,。 理由に様々な迫害苦難を味わい肉体的精神的な苦痛を受けた原告らは,幼少時に中国に取り残されたが,早期に日本へ帰国できbなかったことにより,日本国内で教育を受ける権利を侵害され,日本語による教育を受け,日本の生活習慣,日本の社会で生活するための知識を学ぶ機会を失い,それまで覚えていた日本語や日本の生活習慣を忘れる損害を受けた。 原告らは,成長後も,日本へ帰国するまでの間,日本国内においてc就労していれば得られた賃金はもとより,日本国内で就労する機会を失い,中国において,日本人に対する差別の中で自らの望まぬ仕事に就くことを余儀なくされて,職業を選ぶ自由が侵害された。 (イ) また,原告らは,前記4( れた賃金はもとより,日本国内で就労する機会を失い,中国において,日本人に対する差別の中で自らの望まぬ仕事に就くことを余儀なくされて,職業を選ぶ自由が侵害された。 (イ) また,原告らは,前記4( )の生活自立援助義務違反により,以下の とおり,中国で生活していたころから現在までの間,日本語ないし日本固有の生活習慣を覚える機会,日本国内で教育を受けたり自ら希望する職業に就労したりする機会,及び健康で文化的な生活を送る機会を継続的に奪われている。 原告らが日本国内で生活するには,日本語や日本の生活習慣を学ぶa機会を十分に与えられる必要があったが,そのような機会は与えられなかったところ,原告らは,教育を受ける権利を侵害された上,日本国内で,仕事を見付けることさえも困難な生活を送ることを余儀なくされ,帰国後も,勤労の権利,職業選択の自由を侵害され,精神的,経済的な損害を受け続けている。 原告らは,成人後も中国に取り残されたため,日本国内で生活してb国民年金等を積み立てる機会を失い,かかる結果,意に反して老後に受給する年金等が極端に低くなり,老後に不安を抱き,経済的苦痛を受け続けているとともに,健康的,文化的であることが保障されない,。 最低限度の生活を余儀なくされ多大な精神的苦痛を受け続けている原告らは,就労等の社会生活の様々な場面において,日本人としてc扱ってもらえない状態が続いており,現在も多大な精神的苦痛を受け続けている上,被告が原告らの苦難を無視し続けていることにより,平等権を侵害され,多大な精神的苦痛を受け続けている。 (ウ) そして,かかる原告らの損害は,中国の地において,その意に反して肉親と離別させられたことを出発点とする上,原告らの間で幾分異なるとはいえ,いずれも「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内 そして,かかる原告らの損害は,中国の地において,その意に反して肉親と離別させられたことを出発点とする上,原告らの間で幾分異なるとはいえ,いずれも「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内において人格を形成発展させる権利」を奪われたものと評価でき,さらに,その損害が早期帰国実現義務違反及び生活自立援助義務違反という一連の不法行為により累積,拡大化され現在もそれが継続中である点において共通しているところ,それは,原告らの人間性と尊厳が踏みにじられる損害であって,人間性の根源に関わる全人格的かつ包括的なものである。 イ原告らは,被告によって,中国に取り残され,祖国への帰国後も十分な施策を受けることなく放置されているため,幼少時から現在に至るまで,前述のとおり,筆舌に尽くし難い苦しみを被り続けているところ,中国における迫害の程度,祖国に帰国した後の収入等の点で差異があるにせよ,原告らに日々積み重なる全人格的な精神的損害は共通しており,これらを金銭に換算することは到底できないにせよ,あえて金銭的に評価すれば,いずれの原告についても,一律3000万円を下回ることはない。 また,被告の違法な不作為により,原告らは本件訴訟の遂行を弁護士に委任することを余儀なくされたが,本件訴訟の難易その他諸般の事情からすれば,この弁護士費用のうち相当因果関係のある損害は,上記慰謝料の1割に相当する300万円を下回るものではない。 ( ) 被告の主張 損害は,本来,各原告ごとに,その被った被害事実に応じて異なるはずであるところ,中国残留邦人の多くが各自困難な状況下で様々な労苦を負ったことは想像に難くないが,その具体的状況,内容,程度等は極めて個別性が強いと考えられる上,原告らも主張するとおり,中国における迫害の程度,祖国に帰国した後の収入等に差異がある 下で様々な労苦を負ったことは想像に難くないが,その具体的状況,内容,程度等は極めて個別性が強いと考えられる上,原告らも主張するとおり,中国における迫害の程度,祖国に帰国した後の収入等に差異がある以上,原告らの被った被害事実は,各々異なっているはずであり,慰謝料の額が一律3000万円になる根拠も不明である。 除斥期間(争点5( ))について ( ) 被告の主張 原告らが賠償を求めている損害の実態は,被告の戦前の違法な国家政策により,先の大戦終結時に中国にいた原告らが,終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず,長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になったことから直接発生し又はその間日本で生活できなかったことに伴って発生した各種の不利益の被害であり,かかる性質上,加害行為が行われた時に損害の全部又は一部が発生するものである。 さすれば,原告らの被告に対する損害賠償請求権の起算点は,損害発生の原因となる加害行為が行われた時ないし損害の全部又は一部が発生した時となるところ,原告らの本訴請求は,加害行為である被告の戦前の違法な国家政策が行われた時からも,終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず,長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になるといった損害の全部又は一部が発生した時からも,50年以上が経過しているものであるから,原告らの被告に対する損害賠償請求権は,除斥期間の経過により消滅している(民法724条後段。 )( ) 原告らの主張 被告の違法行為の実質は,被告が原告に対して負うべき早期帰国実現義務及び生活自立援助義務を怠った点にあり,被告が行った戦前における数々の違法な国家政策は,前記各義務,特に前者を導くための先行行為であって,これ自体が国家賠償法上の違法行為として位置付けられるわけで 及び生活自立援助義務を怠った点にあり,被告が行った戦前における数々の違法な国家政策は,前記各義務,特に前者を導くための先行行為であって,これ自体が国家賠償法上の違法行為として位置付けられるわけではない。 そして,原告らは,このような早期帰国実現義務及び生活自立援助義務を怠った被告の違法な不作為によって発生した被害を問題としているところ,被告の違法な不作為は現在に至るまで継続している上,それによる原告らの数々の被害も現在においても不断に発生し,累積・拡大しているものであるから,除斥期間の経過が問題となる余地はない。 消滅時効(争点5( ))について ( ) 被告の主張 ア消滅時効の起算点の到来及び消滅時効援用の意思表示(ア) 早期帰国実現義務は,その性質上,各々の原告が帰国した時点で終了するが,各々の原告は,厚生省等の被告の機関と情報交換するなどして帰国等に関する業務を担当するのが厚生省等であることを認識していたのであるから,遅くともその帰国した時点で,被告の早期帰国実現義務違反によって損害を被ったことを知ったといえる。 そうすると,被告の早期帰国実現義務違反に基づく原告らの損害賠償請求権については,遅くとも別紙個別原告シート録記載の,各原告らの帰国時が消滅時効の起算点となるものというべく,その時点から3年以上を経過して原告らの訴えが提起されている以上,被告の早期帰国実現義務違反に基づく原告ら(原告番号32及び60の各原告を除く)の。 損害賠償請求権については,消滅時効により消滅している(民法724条前段。 )被告は,原告番号1ないし31及び33ないし59の各原告に対しては,平成18年2月8日の第15回口頭弁論期日において,原告番号61の原告に対しては,平成18年7月19日の第18回口頭弁論期日において,それぞれ上記消 ないし31及び33ないし59の各原告に対しては,平成18年2月8日の第15回口頭弁論期日において,原告番号61の原告に対しては,平成18年7月19日の第18回口頭弁論期日において,それぞれ上記消滅時効を援用した。 (イ) 原告らが現在も発生し続けているとする損害は,日本社会での生活の苦労等であり,早期帰国実現義務違反と関係しないものである。 また,早期帰国実現義務違反に基づく損害が現在も発生し続けているとしても,帰国後の損害は,日本語の教育を受けるなどの機会を失い,それまでに覚えていた日本語等を忘れるという帰国前の損害に起因するものとして牽連一体をなし,その発生を帰国時において予見し得たものであるから,帰国時を起算点として消滅時効が進行するものである。 イ消滅時効の援用が権利濫用に当たらないこと消滅時効の援用が権利濫用となるのは,加害者が被害者において訴えを提起するのを妨害するなど社会的に許容された限界を逸脱するような場合に限定されるところ,損害賠償請求に係る損害が重大で,故意にも等しい重大な過失があったからとて,かかる場合には当たらない。 ( ) 原告らの主張 ア消滅時効の起算点の未到来前記7( )ア(ア)及びイのとおり,被告の早期帰国実現義務違反に基づく原 告らの損害は,帰国さえすれば直ちに認識できるものではなく,帰国後に生活を送る中で徐々に認識されてくるものであり,現在も日々拡大し,発生し続けているところ,早期帰国実現義務違反に基づく損害賠償請求権については,そもそも消滅時効の起算点が到来していない。 イ消滅時効の援用が権利濫用に当たること原告らの損害は,長年に渡り母国に戻れなかったことによる精神的苦痛だけではなく,全人格的なものといえ,それは,幼少時に中国大陸に置き去りにされ,中高年になるまで彼の地で生活をせざるを 用に当たること原告らの損害は,長年に渡り母国に戻れなかったことによる精神的苦痛だけではなく,全人格的なものといえ,それは,幼少時に中国大陸に置き去りにされ,中高年になるまで彼の地で生活をせざるを得なかったことに起因するところ,被告は,軍隊を優先して原告らを含む在中国邦人を置き去りにした上,未帰還者特別措置法が象徴するように中国大陸に生存する原告らを切り捨てる政策を採るなど,故意にも等しい重大な過失により,義務違反に及んでいる。 このように,原告らの全人生に関わり,それぞれの人生を狂わせる不法行為を行った被告が形式的な消滅時効の援用により責任を免れることは,正義に反する権利濫用として許されない。 第5当裁判所の認定した事実顕著な事実,証拠及び弁論の全趣旨(これらは適宜文中に挿入して摘示)によれば,以下の事実が認められる。 中国残留孤児の発生に至る経緯等( ) 中国東北地方への国策大量移民 ア満州国の建国に至る経緯等日本は,明治38年,日露戦争終結に際して締結されたポーツマス条約により,遼東半島の租借権等の権益をロシアから取得した後,明治39年には関東都督府を設置し,南満州鉄道株式会社(以下「満鉄」という)。 を設立するなど,中国東北地方への影響力を強め,第1次世界大戦の期間中(大正3年から大正7年まで)及びその前後には,ドイツが有していた山東半島の権益を継承・拡大したり21か条の要求を承諾させたりして,(,,中国における権益を拡大し続けていた甲総111の3甲総C11p15乙総196の1,弁論の全趣旨,公知の事実。 )中国東北地方に駐屯していた日本陸軍の部隊である関東軍は,昭和6年9月18日,奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で,満鉄の線路を爆破する,(,柳条湖事件を惹起しこれを契機に満州事変が勃発した乙総 中国東北地方に駐屯していた日本陸軍の部隊である関東軍は,昭和6年9月18日,奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で,満鉄の線路を爆破する,(,柳条湖事件を惹起しこれを契機に満州事変が勃発した乙総196の1弁論の全趣旨,公知の事実。 )このような中で,関東軍は,昭和7年3月1日,日本が租借していた旅順及び大連以外の中国東北地方を領域とする満州国の建国を宣言し,その執政に清の廃帝溥儀を就任させたが,溥儀は,関東軍司令官に対し,国防及び治安維持を日本に依託し,その経費を満州国で負担すること,鉄道,航空路等の交通機関の管理及び新設を日本に任せ,軍事施設の設置を援助すること,並びに関東軍司令官の推薦する日本人を参議及び満州国官吏に任命することを約していた(甲総3,甲総C11,公知の事実。 p85)日本は,昭和7年9月15日,日満議定書を調印し,満州国を承認した(甲総4,111の3,111の13)が,国際連盟は,リットン調p34査団の報告書に基づき,昭和8年2月24日,満州国の不承認を可決し,これを受けて,日本は,昭和8年3月27日,国際連盟を脱退した(乙総196の1,公知の事実。 )昭和12年7月7日には北京郊外の日中両国軍が衝突する廬溝橋事件が発生し,戦火は次第に中国各地へ広がっていったところ,中国国民による抗日救国運動が起こる中,国民政府は,昭和12年9月末に中国共産党と抗日民族統一戦線を成立させて(第2次国共合作)抗戦し続け,日本は,中国と全面的に交戦する状態に陥った。昭和14年には第2次世界大戦が始まり,日独伊三国軍事同盟を締結した日本は,昭和16年12月8日,,(,アメリカ合衆国に宣戦布告し太平洋戦争へ突入していった甲総C11乙総196の1,公知の事実。 )イ満州国への国策大量移民拓務省は,昭和7年初頭,満 した日本は,昭和16年12月8日,,(,アメリカ合衆国に宣戦布告し太平洋戦争へ突入していった甲総C11乙総196の1,公知の事実。 )イ満州国への国策大量移民拓務省は,昭和7年初頭,満州への移民の計画の大要を樹立したが,昭和7年8月16日,満州へ武装移民1000名を送出する旨の閣議決定がなされ,昭和7年8月30日には第62回国会で満州移民案が了承されたところ,その年に実施された第1次の試験移民を皮切りに,毎年試験移民団が組織され昭和10年までの4次にわたって試験移民が実施された甲,(総2,甲総A2の1・2,弁論の全趣旨。 p896)その後,昭和11年5月11日に,昭和12年度以降のおおむね20年間に約100万戸500万人を満州に入植させることを目標とする満()「」,,「、州農業移民百万戸移住計画が決定され昭和11年8月25日には六対満重要策の確立-移民政策および投資の助長策等」をその内容の一つとする七大国策十四項目が閣議決定されたところ,その予算は,昭和12年1月の第70回帝国議会で可決され,第1期5か年計画に基づき開拓団が送り出された(甲総2,5・,甲総A2の2。また,昭p896p174-176 181),「」和12年11月30日には満州に対する青少年の移民送出に関する件が閣議決定され,14歳から20歳の青少年が満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ送出された(甲総6,甲総A1の1。さらに,昭和16年12)月31日には,満州開拓第2期5か年計画要綱が閣議決定され,その要領において,昭和16年以降5年間に開拓民22万戸を入植することが目標とされた(甲総8。かかる入植を実施すべく,広大な移民用地p431-432)が関東軍等によって低廉な価格で収用されたが,その結果,現地民の不満 6年以降5年間に開拓民22万戸を入植することが目標とされた(甲総8。かかる入植を実施すべく,広大な移民用地p431-432)が関東軍等によって低廉な価格で収用されたが,その結果,現地民の不満ないし反発を招き,蜂起した民衆が開拓団を襲撃する事件も起こっていた(甲総111の3,112の16・17,甲総A2の1・2。 p184)このような移民政策により,後記( )アのとおり,ソ連が参戦を通告した 昭和20年8月8日まで日本から満州へ開拓団が送出され続けたところ,昭和20年5月時点における外務省調べの開拓民送出戸数(計画戸数)は合計32万1874人(内訳:一般開拓民団員5万2428人,その家族16万7829人,義勇隊開拓民隊員6万9457人,その家族1万0422人,義勇隊(訓練中)2万1738人)であったが,満拓調査による(,総人口実数は合計22万5585人内訳:開拓団関係16万7091人義勇隊関係5万8494人)であった(甲総2。また,この移民政p899)策の目的については「満州開拓政策は日満両国の一体的重要国策として,東亜新秩序建設のための道義的新大陸政策の拠点を培養確立するを目途とし、特に日本内地人開拓農民を中核として各種開拓民ならびに原住民等の調和を図り日満不可分関係の鞏化、民族協和の達成、国防力の増強および産業の振興を期し兼て農村の更生発展に資するをもって目的とす」る(昭和14年12月22日に閣議決定された満州開拓政策基本要綱の基本方針)こととされたり(甲総2,7「満州開拓政策第二期p897p351-352),五か年計画は東亜共栄圏内における大和民族の配分布置の基本国策に照応し二十か年百万戸計画の開拓政策基本要綱に則りさらに第一期五か年計画の実績に鑑み現下の戦時態勢に即応し日満両国一体的の重要国策たる 五か年計画は東亜共栄圏内における大和民族の配分布置の基本国策に照応し二十か年百万戸計画の開拓政策基本要綱に則りさらに第一期五か年計画の実績に鑑み現下の戦時態勢に即応し日満両国一体的の重要国策たる使命、、をさらに昂揚し特に日本内地人開拓民を中核とする民族協和の確立達成東亜防衛における北方拠点の強化、満州農業の改良発達および増産促進に重点を指向してこれが策定をなすものとす」る(上記の満州開拓第2期5か年計画要綱の方針)こととされたりしていた(甲総8。 p431)( ) ソ連軍の参戦,終戦とその後の日本人の難民化 アソ連参戦前から終戦に至るまでの状況(ア) 戦局の悪化日本は,昭和16年4月13日,ソ連との間で「大日本帝國及「ソ,ヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約(以下「日ソ中立条約」と」。),「」,いうを締結したがこれと同時に発出された聲明書においては「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦ガ満州帝國ノ領土ノ保全及不可侵「ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ聲明ス」とされ,ソ連による満州国の領土保全及び不可侵が定められていた(乙総45。 )その後,昭和20年2月,アメリカ,イギリス及びソ連の首脳による鼎談(いわゆるヤルタ会談)が行われ,その秘密協定において,ドイツ第三帝国降伏後の2ないし3か月後に,ソ連が対日参戦すること,その見返りとして,ソ連が当時日本領であった南樺太(サハリン)の返還を受けること等が決められたところ,日本は,昭和20年4月6日,ソ連から,昭和21年4月に期限が満了した後は日ソ中立条約を延長しない旨の通告を受けていた(甲総13,弁論の全趣旨,公知の事実。 p183)関東軍は,戦局の悪化から,昭和19年には師団の一部を南方に転用されており,昭和20年3月には本土決戦に備えるためとして,日 旨の通告を受けていた(甲総13,弁論の全趣旨,公知の事実。 p183)関東軍は,戦局の悪化から,昭和19年には師団の一部を南方に転用されており,昭和20年3月には本土決戦に備えるためとして,日本内地へ師団を転用されていた(甲総13,乙総48。 p176-182p854-855),,,「、このような状況の中で大本営は昭和20年5月30日関東軍ハ満州ノ広域ヲ利用シテ敵ノ進攻ヲ破砕スルニ努メ、止ムヲ得ザルモ連京線以東、京図線以南ノ要域ヲ確保シテ持久ヲ策シ、大東亜戦争ノ遂行ヲ有利ナラシム」ことを内容とする「満鮮方面対ソ作戦計画要領」を示達しており(甲総11,13,乙総47,48,昭和p156p183p2p853),,,,20年7月10日には在満邦人成年者約30万人のうち行政警護主要生産業務に従事する最低限の要員約10万人を除いた約20万人を動員する,いわゆる根こそぎ動員が行われた(甲総12,乙総4p183 。そして,日本は,昭和20年7月26日には,アメリカ,中p855)華民国政府及びイギリスの3か国から,戦争終結の条件として,直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言すること等を要求されていた。 このような戦局の悪化にもかかわらず,前記( )イのとおり,満州への ,,移民は国策として続けられていたところ開拓団には実情が伝えられずむしろ,昭和20年8月2日には,関東軍報道部長長谷川宇一大佐が,「関東軍ハ磐若ノ安キニアル。邦人、トクニ国境開拓団ノ諸君ハ安ンジテ、生業ニ励ムガヨロシイ」等と放送する有り様であった(甲総15。 ,16,23。 p164p82-84p42)(イ) ソ連の参戦,そして終戦昭和20年8月8日に日本に対して宣戦布告したソ連は,昭和20年8月9日零時過ぎ,中 有り様であった(甲総15。 ,16,23。 p164p82-84p42)(イ) ソ連の参戦,そして終戦昭和20年8月8日に日本に対して宣戦布告したソ連は,昭和20年8月9日零時過ぎ,中国東北地方に侵攻を開始し,関東軍と交戦状態になったところ,ソ連軍が程なく関東軍総司令部のある新京付近まで迫る勢いであったため,関東軍総司令部は,前記の「満鮮方面対ソ作戦計画要領」に従い,昭和20年8月11日,通化へ司令部を移すとともに,関東軍の主力を南へ移動させた(甲総111の3,乙総47,p197p4 ,49,50。 p923p403p70)その後,日本政府は,昭和20年8月14日,スイスを通じて,ポツダム宣言を受諾する旨の意思を通告し,昭和20年8月15日「終戦,の詔書」が発布された(乙総53。 p13)イソ連参戦後の日本人の避難状況等(ア) 終戦直後の日本政府等の動きポツダム宣言の受諾を受け,大本営は,昭和20年8月15日,各a方面司令官に対し「各軍ハ別ニ命令スル迄各々現任務ヲ續行スヘシ,但シ積極侵攻作戦ヲ中止スヘシ」とする命令を発したが(乙総2の2,48,51,54,連合国最高司令官による日本軍のp9p952p546)戦闘行動の即時停止の命令を受け,昭和20年8月16日,やむを得ない自衛以外の戦闘行動を停止する旨の命令を発するとともに(乙総 ,49,51,55,56,関東軍に対しては,p952p454p546)「戦闘行為停止のためソ軍に対する局地停戦交渉及び武器の引渡等を実施することを得る」と示達した(乙総47,49。 p4p455),,,これを受け関東軍総司令部は万策を尽くして停戦を期すること速やかに戦闘行為を停止すること,ソ連軍の進駐に際して要求に応じ ことを得る」と示達した(乙総47,49。 p4p455),,,これを受け関東軍総司令部は万策を尽くして停戦を期すること速やかに戦闘行為を停止すること,ソ連軍の進駐に際して要求に応じて武器を引き渡すこと,極力居留民を保護すること等を内容とする示(,),,達を出し乙総47 昭和20年8月19日にはp4p459-460関東軍秦彦三郎総参謀長とソ連軍との間で停戦協定が締結された乙,(総49)ところ,さらに,関東軍幹部は,ソ連軍に対し,昭和2p4660年8月20日及び昭和20年9月3日,特に越冬準備ができていないなどの居留民の状況等について説明して善処方を要請してもいた。 (乙総49)p467-469他方で,外務省は,昭和20年8月14日,在外公館に対し,東郷b外務大臣の名で「三ヶ国宣言受諾ニ関スル在外現地機関ニ対スル訓,令」を発したが,この訓令においては,居留民に対する措置として,「㨯居留民食糧準備及生計救濟ニ付テハ特ニ遺憾ナキヲ期スルモノトシ… 「㨯居留民ノ財産ニ付テハ出來得ル限リ保護ノ措置ヲ講ス…」」等の具体的措置が挙げられる一方「㨯居留民ハ出来得ル限リ定着ノ,」(,,方針ヲ執ルなどの一般方針も挙げられていた甲総19乙総1p802の2,50。 p28p53-54)また,大本営参謀朝枝繁春は,大本営参謀総長梅津美治郎の命により,昭和20年8月19日,関東軍を訪れ「①関東軍総司令官は、,米、ソ対立抗争の国際情勢を作為するため、成るべく赤軍をして、速かに朝鮮海峡迄進出せしむる如く、作戦を指導すべし。②戦後将来の帝国の復興再建を考慮して、関東軍総司令官は、成るべく多くの日本人を、大陸の一角に残置することを図るべし。之が為、残置する軍、民日本人の国籍は,如何様にも変更す 如く、作戦を指導すべし。②戦後将来の帝国の復興再建を考慮して、関東軍総司令官は、成るべく多くの日本人を、大陸の一角に残置することを図るべし。之が為、残置する軍、民日本人の国籍は,如何様にも変更するも可なり」との細則を指示。 していた(甲総20,21,23。 p164p153-154p35)さらに,外務省は,昭和20年8月31日「戦争終結ニ伴フ在外,邦人ニ關スル善後措置要領(案」を策定したが,その内容は「一、),方針…過去統治ノ成果ニ顧ミ将来ニ備ヘ出来得ル限リ現地ニ於テ共存親和ノ實ヲ挙クヘク忍苦努力スルヲ以テ第一義タラシムル… 「二、」要領㨯在外邦人ハ…出来得ル限リ現地ニ踏ミ止マリ共存共栄ノ生活ノ継続ニ邁進スルコト…」というものであった(甲総26。 )(イ) ソ連参戦後の日本人の避難状況中国東北地方に在留していた日本人は,昭和20年8月9日,ソ連a軍の侵攻を受け,混乱のうちに避難を開始した。 辺境地域にいた者のうち,鉄道沿線の都市にいた者の一部は,列車により中国東北地方の中部・南部まで避難できた者もいたが,大部分の者は利用できる輸送機関も少なく,徒歩で避難を開始したところ,国境近くにいた者は,退避する間もなくソ連軍の攻撃を受け,軍隊とともに戦闘に参加して多くの死亡者を出し,退避した者についても,ソ連軍の攻撃を受け,相当多数の犠牲者が出た。また,開拓団の多くは前記ア(ア)の根こそぎ動員等のため,ほとんどが老幼婦女子だけと,いった状況であったところ,その避難は困難を極め,ソ連軍の辱めを受けるのを潔しとしないで自決する者や幼児を現地民に託して身一つで避難する者等が出る悲惨な状況であった。 中国東北地方中部・南部にいた者も,辺境地域にいた者と同様に,ソ連軍,暴徒等による攻撃を受けたり自決したりし,多くの死亡者を 者や幼児を現地民に託して身一つで避難する者等が出る悲惨な状況であった。 中国東北地方中部・南部にいた者も,辺境地域にいた者と同様に,ソ連軍,暴徒等による攻撃を受けたり自決したりし,多くの死亡者を出していた(乙総47・)。 p13また,列車で避難するに際し,一般居留民が駅に集まってきていたにもかかわらず,軍関係者が優先される事態もみられた(甲総16。 ,乙総47)p82p16(全体につき甲総16,17,18)p88-102この期間中の在留日本人の犠牲者の数は,飢餓,病気等による死亡b,(),者数もあわせると3万人以上と推定されるところ乙総47p13現地からは,以下のとおり,その惨状を伝え,対応を求める旨の電報等が送られていた。 ( ) 総参謀長発昭和20年8月23日付け参謀次長宛関参一電第12a58号ソ軍首脳筋は日本軍・邦人に対する無謀行為を戒めあるも,現実には理不尽の発砲・略奪・強姦・使用中の車両奪取等頻々たり…願わくば将兵今日の忍苦をして水泡に帰せしめざるよう善処を切望してやまず(乙総49)p462-463( ) 駐満州大使発昭和20年8月30日付け重光外務大臣宛て電報b「現在全滿ニテ避難民約五〇万アリ。…僅カニ…手廻品スラ掠奪セラレ着ノミ着ノ儘ニテ…食事スラコト欠キ数日絶食ノ者スラ在リ…食糧状況ハ悪化セルノミナラズ採暖用石炭ハ…輸送ハ認可セラレズ、而モ冬季用衣糧寝具住宅等ハ徴発若クハ掠奪セラレ、冬ニ入ラバ飢餓者凍死者ノ續出ヲ憂慮セラル。…情勢以上ノ通ニシテ在留邦人ハ此ノ儘放置セバ大部分流民化シ冬トモナレバ死者續出スルコト明白ナリ。本件當地「ソ」軍首脳ノ内意ヲ糺シタルモ右ハ東京ニ於テ取キメラルヘシトノコトニテ當地「ソ」聯側及支那側ニ於テモ何等ノ措置ヲ講セズ當方トシテハ全ク手ノツケ 民化シ冬トモナレバ死者續出スルコト明白ナリ。本件當地「ソ」軍首脳ノ内意ヲ糺シタルモ右ハ東京ニ於テ取キメラルヘシトノコトニテ當地「ソ」聯側及支那側ニ於テモ何等ノ措置ヲ講セズ當方トシテハ全ク手ノツケ様ナシ。就テハ貴地ニテ聯合軍側ト在外邦人措置全般ニ関シ取計ラルヽコトハ存スルモ右ニ當リ國内ノ實情ヲ御諒察ノ上婦女子病人ヲ先ニシ帰國ヲ要スル者(推定約八〇万人)ヲ能フ限リ速カニ内地送還ヲ為シ得ル様至急御補助相煩度右懇願ス(甲総25)。」( ) 中国東北地方日本人居留民救済総会会長Cの昭和20年9月22c日付け外務大臣及びD満州重工業相談役宛て密書「目下北満各地ヨリ集レル罹災民ハ、ハルピン七万、新京五万」「鶴岡、密山ノ罹災者始メ各地開拓団ノ婦女毎日新京ヘ参リ居リ悲惨ヲ極メ、死者続出ノ模様ハ地獄ノ有様ニテ市民ハ不相変、掠奪暴行ニ悩マサレ居候」「満州各地ニ関スル最近ノ情報ヲ綜合スレバ…北満在住邦人ニシテ已ニ脱出セル者以外ハ絶望視セラレ、定住許サレザルモノヽ如シ」,。 (,もっともこの密書に対する返答はなかった甲総27p264-265 )p801(ウ) 日本政府の対応等GHQは,昭和20年9月2日「指令第1号(陸海軍一般命令第1a,号(乙総1,40)を発し,各地の日本軍部隊は,各地区の)」p517p3連合軍司令官の下に無条件降伏することとなった。これにより,すべての日本人は各外国軍隊の支配下に入った。中国東北地方は,ソ連軍の管理地域とされ,昭和21年4月にソ連軍が引き揚げるまで,ソ連。 (,,)軍最高司令官の軍政下に置かれた乙総12の2 p91p37p133前記(イ)のような中国東北地方の惨状についての報告を受けていた日b本政府は,GHQを通じて,ソ連に対し,軍人でない日本人のため 官の軍政下に置かれた乙総12の2 p91p37p133前記(イ)のような中国東北地方の惨状についての報告を受けていた日b本政府は,GHQを通じて,ソ連に対し,軍人でない日本人のために安全居住地域を設定し,冬に向けた食糧や燃料を確保するなどの邦人保護策を要請し,昭和20年8月28日及び29日には,GHQ宛てに電報を打ち,中国東北地区における惨状を訴え,ソ連の善処を要請した(乙総49,61。 p462-466p54)また,昭和20年9月9日には,占領軍と日本政府との間の連絡機関として設けられた外務省の外局である終戦連絡中央事務局から,昭,,,和20年9月13日には外務大臣名で昭和20年9月16日には再び終戦連絡中央事務局から,それぞれGHQに対し,ソ連軍管理地域における日本人のほとんどが婦女子で飢餓に直面しているなどの惨状を訴えるとともに,これ以上の事態の悪化を防止する措置を講ずるよう要請する旨の覚書を出し,中国東北地方等に在留する日本人の保護と引揚げについて申し入れた(乙総61。 p55-57)さらに,昭和20年9月29日には,外務大臣が,連合軍総司令部を訪ね,中国東北地方等に在留する日本人の窮状を訴え,その保護を要請し,その後も日本政府からGHQに同趣旨の要請がなされたが,GHQの回答は,日本の要請はソ連に伝えてある,我々としてはどうしようもない,というものであった(乙総61。 p57)他方で,当時中立国との外交機能が停止されていなかった日本政府は,スウェーデンを通じてソ連に在留日本人の保護を申し入れたり,赤十字国際委員会及びローマ法王庁使節に対し,中国東北地方の在留日本人を保護するための援助を要請したりしたが,有効な回答は寄せられなかった(乙総61。 p57-59)ウ難民化した日本人 たり,赤十字国際委員会及びローマ法王庁使節に対し,中国東北地方の在留日本人を保護するための援助を要請したりしたが,有効な回答は寄せられなかった(乙総61。 p57-59)ウ難民化した日本人の越冬生活ソ連軍侵攻後の戦闘による混乱も,昭和20年10月ころには収まり,他国軍によって留用された軍人及び邦人の一部を除く残留日本人は,避難行動から越冬態勢に移り,その大部分は中国東北地方の中・南部の都市に集結して冬を迎えた。その大多数は家を捨てて職も失った者であったが,食糧,衣服,医薬品等は不足し,住居も狭あいで,窓や床板の外された学,,校等に住む者も多かったところ半年間の冬越えのうちに伝染病が流行し栄養失調,病気等による死亡者が続出した。中国東北地方の日本人の死亡者の総数は約17万人であったが,この越冬期間中,昭和20年12月末までに約9万人,昭和21年5月までに累計約13万人が死亡するという状態であった(乙総47・,49)。 p30p464そして,前記(イ)の避難行動中や越冬生活の際には,多くの子供が,a両親を失ったりやむを得ず現地住民に託されたりしたところ,かかる中国,()。 残留孤児の数は2500人以上に上ると推定されている乙総47p52このような悲惨な状況について「満洲國史総論(甲総28)には,,」以下のように記載されている。 「終戦後しばらくは、まだ満鉄社員の手で鉄道が運行され、沿線地帯の日本人は、北・中満ではチチハル、ハルビン、長春、瀋陽等の都市を目指し、南満では大連、安東、北鮮等に向け集中避難ができたが、奥地の住民は、ソ連軍の攻撃にさらされ、その上暴民の襲撃などのため多数死亡し、あるいは自決し、またはソ連軍に連行された。この難を免れた者も途中幾多の困難と生命の危険にさらされつつ、命からがら たが、奥地の住民は、ソ連軍の攻撃にさらされ、その上暴民の襲撃などのため多数死亡し、あるいは自決し、またはソ連軍に連行された。この難を免れた者も途中幾多の困難と生命の危険にさらされつつ、命からがら前記の都市に辿りついたのであった。最も悲惨をきわめたのは、国境方面や開拓団の人々で、避難途中の山野で力つきて斃れ、あるいは足手まといとなった瀕死の幼児を棄て、飢えと寒さと闘いつつ野宿を重ね、難行を続けたのであった。しかも満身創痍のか弱い婦女子が、ソ連兵によって辱しめられた事例が多かったのである。このようにして長春や瀋陽の町に辿りついた避難者は、わずかの身の廻り品も掠奪されて全くの着のみ着のままの姿となり、極度の疲労困憊と栄養失調のため心身ともに衰弱し、のちには発疹チブスなどの伝染病が発生し、幼児を筆頭に多数の日本人が死亡した(甲総28。」)p799-800「避難者はこのように極度の心身疲労に加えて寒気と栄養不足と非衛生が重なり、また慣れぬ高粱飯や粟粥常用のため、消化器の不調を来たし、栄養失調症や肺結核の併発で死亡者が続出した。長春日本人会では保健所八ヵ所、擁護所四〇ヵ所、従業員五〇〇名をもって医療、防疫に懸命となったが、終戦以来翌年三月までの八ヵ月間の死亡者は二万五〇〇〇名に達した。最も死因の多かったのは伝染病で、中でも発疹チブスが最も多く、死亡率は四歳以下五六%、六〇歳以上の老齢者三一%に上り、幼児の半数以上は難民生活中に死亡した。長春日本人会では、鉄西の賽馬場跡に三万人分の穴を掘って日本人の共同墓地とした(甲総28)。」p803-804「以上は大都市の例であるが、奥地の日本人、特に開拓団の老幼婦女子の場合は、ハルビン、長春等の大都市に辿りつけぬ者は、避難の途中、地方の収容所(たとえば、方正、海林、拉古、延吉等)に収容さ -804「以上は大都市の例であるが、奥地の日本人、特に開拓団の老幼婦女子の場合は、ハルビン、長春等の大都市に辿りつけぬ者は、避難の途中、地方の収容所(たとえば、方正、海林、拉古、延吉等)に収容されたが、倉庫、学校等の土間やコンクリートの上に蓆一枚の生活で冬を迎え、寒気と、。 、医療施設皆無のため死亡者が続出したこのほかソ連軍に拉致される者脱出して中国人の妻となる者、自決する者など、さながら生地獄の惨状を呈した。旧満拓公社では、ハルビンを中心に開拓団に対し、独自の救済策、。」()を講じたが資金の関係で十分に行きとどかなかった甲総28p804 後期集団引揚げ終了時までの未帰還者の引揚状況等( ) 集団引揚げ前の状況等 ア引揚げについての日本政府の対応等昭和20年8月15日に日本政府は終戦対策処理委員会を設置して在外邦人の帰還の方策の検討に着手し,昭和20年8月21日には内閣調査局及び内務省管理局が海外一般邦人の引揚げについての計画立案を担当することとされた(乙総1,40。 p25p3)昭和20年8月30日の次官会議においては,引揚者上陸地の地方長官が現地に県職員を派遣し,援護,連絡指導等に当たらせる旨の「外地(樺太を含む)及び外国在留邦人引揚者応急援護措置要綱(乙総1,2」p536の2,40)が決定され(乙総1・,61,昭和20p483p3p25 811p52)年9月7日の閣議においては「外征部隊及居留民帰還輸送等に関する実,施要領(乙総1,2の2,40資)が決定されたところ,」p535p485p76この閣議決定の前文には「外征部隊及居留民の帰還輸送等に就ては、現,地の悲状に鑑み、内地民生上の必要を犠牲にするも、優先的に処置すると共に他の一切の方途を講じ、可及的速 p535p485p76この閣議決定の前文には「外征部隊及居留民の帰還輸送等に就ては、現,地の悲状に鑑み、内地民生上の必要を犠牲にするも、優先的に処置すると共に他の一切の方途を講じ、可及的速かに之が完遂を期するものとす」。 と掲げられており,海外残留一般邦人の保護及び引揚者の受入援護等に関する措置についての基本的な事項が示されていた(乙総1,40,p81p4。 61p53)昭和20年9月20日には「引揚民事務所設置に関する件(乙総1」,40・資)が,昭和20年9月24日には「海外部隊並に海p481p4p78外邦人帰還に関する件(甲総B10,乙総1,2の2,40資」p539p485)が,昭和20年10月4日には「海外部隊及び海外邦人に対する食p77糧、衣料、衛生材料其の他所要物資の補給並に宿営施設に関する件(乙」総1,2の2,40資)が,いずれも次官会議で決定さp539p485-486p77れ,引揚者の受入機関,上陸地における収容施設,食糧,医療等の所要物(,)資の調達準備等について具体的施策が定められた乙総12の2p81p28が,その中には「海外邦人に関しては、極力之を海外に残留せしむる為」といったくだりもみられた(海外部隊並に海外邦人帰還に関する件。 「」)イGHQによる引揚げの実施等,,(ア) 昭和20年9月2日天皇及び日本政府を代表して重光葵外務大臣が大本営を代表して梅津美治郎参謀総長がそれぞれ降伏文書に署名し乙,(総48,53,日本は連合国に占領されることとなったとp961p22-23)ころ,昭和20年10月18日,GHQの指示により,厚生省が「引揚げに関する中央責任官庁」に指定された(乙総1・,40。 p26p5)昭和20 こととなったとp961p22-23)ころ,昭和20年10月18日,GHQの指示により,厚生省が「引揚げに関する中央責任官庁」に指定された(乙総1・,40。 p26p5)昭和20年10月25日,GHQは,日本政府に対し,中立国にいる外交及び領事代表を即時召還し,以後外国政府との関係を停止すべしと指令した。これにより,日本政府の外交機能は全面的に停止され,日本政府と外国との交渉は,GHQを通じてかGHQが代わって行うこととされたところ(乙総1,50,かかる状態は,日本政府と連合p80p61),(),国との間で日本国との平和条約昭和27年条約第5号が調印され昭和27年4月28日にこれが発効して,日本が主権を回復するまで続いた。 (イ) GHQは,日本政府に対し,海外から引き揚げる日本人を受け入れるために日本側が採るべき措置として,上陸港の指定,受入事務所(引揚援護局)の設置,必要物資の補給輸送,検疫医療,通貨及び有価証券の取扱い等の方針や具体的方法等をその都度個別に指令していたところ,昭和21年3月16日これらを統合した引揚に関する基本指令乙,「」(,,,)(,総12の2 を示した乙総1p525p486-492p5p486p812の2。 p28)引揚者の輸送は,GHQの立案する引揚計画及びソ連政府がGHQに宛てた通告に基づく輸送計画に従って実施されたが,その輸送に際し,GHQは,各地の連合国軍及び各国政府と連絡を取り,軍人軍属の復員及び緊急を要する地域の日本人の引揚げを優先し,一般人については,()。 ,各国との協定で順次帰還させる方針をとった乙総1もっともp81ソヴィエト極東軍総司令部は,GHQの上記方針を受諾せず(乙総1,ソ連軍は,昭 人の引揚げを優先し,一般人については,()。 ,各国との協定で順次帰還させる方針をとった乙総1もっともp81ソヴィエト極東軍総司令部は,GHQの上記方針を受諾せず(乙総1,ソ連軍は,昭和21年4月,日本人の本国送還について,何らのp81)措置も採らず,中国東北地方から撤退した(乙総1,2の2,p91p37 。 p133)( ) 前期集団引揚げ等 ソ連軍の撤退後,中国東北地方の管理を引き継いだ中国東北保安司令官とアメリカ軍代表との間で,昭和21年5月11日,在満日本人の本国送還に()(,,),関する協定乙総40資が成立し乙総12の2 p43p91p38p28中国東北地方からの集団引揚げが開始された。この前期集団引揚げは,国民政府軍と中国共産党軍との内戦の激化等により,昭和23年8月を最後に中断したが,4期にわたる前期集団引揚げで,約104万人の日本人が帰国した(乙総1,2の2,40。 p92-93p38-39p28)昭和24年10月1日に中華人民共和国が樹立されたが,日中間の国交が途絶していたため,集団引揚げは行われず,中国政府から特別に帰国許可を得た上での個別引揚げが行われていた(弁論の全趣旨。 )なお,このころの残留者の状況については「中共地区残留者に対する通信の検閲は、朝鮮動乱後漸次強化せられ、また日本人による左翼団体の活動によつて残留の痛苦をうつたえ、又は帰還の願望を率直に表明することができなくなつている。日本人による引揚嘆願も個々人としての外は禁ぜられており、日本からのラジオ放送聴取の禁圧、留守家族の本人宛送付の一部出版物の没収および職場その他日常の生活を通じて組織的系統的に共産教育の普及徹底を図っており、残留者をして故国との縁を絶ち切る一連の措置がとられ からのラジオ放送聴取の禁圧、留守家族の本人宛送付の一部出版物の没収および職場その他日常の生活を通じて組織的系統的に共産教育の普及徹底を図っており、残留者をして故国との縁を絶ち切る一連の措置がとられている(乙総41(続・引揚援護の記録))とも伝えられている。 。」「」p63( ) 後期集団引揚げ(全体につき,乙総50) p87-88ア後期集団引揚げの開始日本国との平和条約によって主権を回復することとなった日本政府は,これに伴い,引揚業務の指針となっていた「引揚に関する基本的指令」が失効することになるため,昭和27年3月18日,引揚者の輸送,受入援,「」(,護等の取扱いについて海外邦人の引揚に関する件甲総33の1p224乙総1,2の2)を閣議決定したが(乙総1・,2のp550p500-501p83 103 ,日中間の国交は回復しておらず,政府レベルの外交ルートによp42)り,中国東北地方からの引揚げに関する諸事項を処理することは難しかった(乙総1。 p103)このような中で,昭和27年12月1日,中国政府から,ラジオ放送を通じて,現在中国には約3万人の日本人がいるが船の問題が解決できれば帰国を希望する日本人を援助するといった表明がなされた。これを契機として,中国側の中国紅十字会と日本側の日本赤十字社,日中友好協会及び日本平和連絡会(以下「民間引揚三団体」という)との間で,在留邦人。 の引揚げに関する会談が民間レベルで重ねられ,昭和28年3月5日,中国紅十字会と民間引揚三団体との間で「日本人居留民帰国問題に関する,共同コミュニケ(以下「北京協定」という(甲総33の1,甲総」。)p224F18,21,乙総1,2の2,42)が締結され(甲p551p501p45-46 民帰国問題に関する,共同コミュニケ(以下「北京協定」という(甲総33の1,甲総」。)p224F18,21,乙総1,2の2,42)が締結され(甲p551p501p45-46,,,,),総C5・乙総12の2 ・p256-257 268-277p109-110p46p4-5 65-66かかる北京協定に基づき,在留日本人の集団引揚げが再開された。 イ後期集団引揚げの進捗状況及び日中間の交渉等(ア) 北京協定に基づく後期集団引揚げの経過昭和28年3月に集団引揚げが再開された後,昭和28年10月の第7次引揚げまでに合計2万6051人が帰国したところ,昭和28年11月12日,中国紅十字会から民間引揚三団体に打切り通告があり,集団引揚げは中断されたが,昭和29年8月19日,引揚げを申請している日本人があるなどという連絡が中国紅十字会から民間引揚三団体にあったため,昭和29年9月27日に集団引揚げが再開され(第8次,)昭和30年3月の第11次引揚げまでに合計2812人が帰国した(甲,,,,総C5甲総F19乙総12の2p277-285p277-285p110-111p46-47 ・。 p4-5 65-69)(イ) 第1次ジュネーブ交渉ジュネーブ駐在の田村日本総領事は,昭和30年7月,引揚げの直接交渉を在外公館を通じて行う旨の閣議了解を得た重光外務大臣の訓令を受けて,ジュネーブ駐在の沈平中国総領事に対し,現在中国に残留している日本人のうち帰国を希望している者の帰国援助と消息不明となっている日本人の状況調査について,人道上の問題としてできる限りのことをされたい旨の覚書を手交したが,昭和30年8月17日に沈平中国総領事から田村日本総領事へと伝えられた中国政府外交部の声明は, なっている日本人の状況調査について,人道上の問題としてできる限りのことをされたい旨の覚書を手交したが,昭和30年8月17日に沈平中国総領事から田村日本総領事へと伝えられた中国政府外交部の声明は,日中両国の国交正常化交渉について提案するのみであって,引揚げに関する政府間交渉を進展させるものではなかった(甲総F31,33,乙総1,2の2,42。 p111-112p47p38-40)その後,昭和30年9月28日,ジュネーブで開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合において,日本人約200人を帰国させる準備をしている旨の発言が中国紅十字会代表からなされたことなどから,日本政府は,昭和30年10月20日,田村日本総領事を通じて,中国側に対し,上述の発言に係る事実関係の確認と,事実であれば帰国者を政府又は日本赤十字社で受け入れる用意があると申し入れたが,昭和30年11月5日に田村日本総領事へ寄せられた中国側の回答は,重ねて国交正常化交渉について言及するのみであって,引揚げに関する政府間交渉(,,,を進展させるものではなかった甲総F35乙総12の2p112p47乙総42。 p41-43)もっとも,上述の発言がなされた日本人の帰国については,昭和30年12月18日,従来どおりの方法で141人の集団引揚げが行われた(第12次(乙総1,2の2。 ))p112p47(ウ) 天津協定の締結及びこれに基づく集団引揚げの経過昭和31年5月29日,起訴を免除された日本人戦犯の釈放について協議するために代表を派遣されたい旨,中国紅十字会から民間引揚三団体に連絡があり,これを機に会談が重ねられたところ,昭和31年6月28日,中国紅十字会が帰国を申請する日本人居留民の帰国を引き続き「」(「」。)援助する旨の内容を 紅十字会から民間引揚三団体に連絡があり,これを機に会談が重ねられたところ,昭和31年6月28日,中国紅十字会が帰国を申請する日本人居留民の帰国を引き続き「」(「」。)援助する旨の内容を含む共同コミュニケ以下天津協定という(,,,,甲総33の2甲総F36乙総12の2p225-226p551p502-503 )が中国紅十字会と民間引揚三団体との間で締結された(甲p44-45総C6,乙総1,2の2,42。 p170-171p112p47-48p43-45)この天津協定に基づき昭和31年7月から集団引揚げが再開され第,(13次,昭和32年5月の第16次引揚げまでに合計1368人が帰)国した(甲総C6,乙総1。 p170-172p112)(エ) 第2次ジュネーブ交渉等ジュネーブ駐在佐藤正二日本総領事は,昭和32年5月13日,ジュネーブ駐在沈平中国総領事に対し,中国地域の未帰還者3万5761人の名簿を手交して,生死の確認及び現状の調査を申し入れたが,これに対する中国側の昭和32年7月25日付け回答は,現在中国には,行方不明という日本人は存在しない,中国の侵略戦争に参加して行方不明となった日本人の問題は,中国政府として何ら責任を負うものではない,岸政権が採っている最近の各種措置は,中国に対して非友好的であるとp112-113いう厳しい内容のものであった甲総F274445乙総1(,,,・,2の2,42。 p48p46-49)衆議院海外同胞引揚特別委員会の広瀬正雄委員長は,昭和32年6月5日,中国の周恩来総理及び李徳全中国紅十字会会長に対し,中国に残留している日本人の帰国の促進,未帰還者の調査等の問題について,委員会として中国側に懇請するため,委員長 正雄委員長は,昭和32年6月5日,中国の周恩来総理及び李徳全中国紅十字会会長に対し,中国に残留している日本人の帰国の促進,未帰還者の調査等の問題について,委員会として中国側に懇請するため,委員長,委員,政府職員等の訪中を申し入れたが,昭和32年7月25日付けの中国紅十字会からの回答は訪中を拒否するものであった(乙総1,42,107。 p113p46-50)これに対し,留守家族団体全国協議会の有田八郎会長は,昭和32年8月20日から同月29日までの間,中国を訪問し,周恩来総理及び李徳全中国紅十字会会長と会談して覚書を取り交わしたところ,この覚書では,昭和20年8月15日以前に中国にいた日本人の行方については日本政府の責任であること,昭和20年8月15日から中華人民共和国成立までの日本人の行方については中国政府が責任を負わないこと,中国に残留している日本人約6000人の名簿を日本側に渡すことはできないが確実な根拠資料を添えて民間引揚三団体等から個別に申請があれば調査を実施すること等が確認された(甲総37,乙総1,2のp113 ,42。これを受け,留守家族団体全国協議会は,昭和p48p50-51)32年12月から昭和33年9月までの間,5回にわたり,生存見込みの高い約1900名のカードを送り,消息調査を依頼したが,その一部の回答が昭和36年に得られただけであった(乙総42。なお,p193日本赤十字社からの申入れについても無回答であったことにつき,後記3( )ア(ウ)参照。 )ウ集団引揚げの終焉昭和33年3月13日,中国紅十字会から民間引揚三団体に対し,天津へ引揚船を派遣するようにといった連絡があり,昭和33年4月から集団引揚げが再開され(第17次,昭和33年7月13日の第21次引揚げ)までに合計21 日,中国紅十字会から民間引揚三団体に対し,天津へ引揚船を派遣するようにといった連絡があり,昭和33年4月から集団引揚げが再開され(第17次,昭和33年7月13日の第21次引揚げ)までに合計2153人が帰国した(甲総C6,乙総1,2の2p172p114。 p49)昭和33年5月2日,長崎で開かれた中国物産を展示する会場で中国の五星紅旗が1人の男に引きずり下ろされる事件が起こったが,日本政府が承認していない中国の五星紅旗は国旗ではないとの解釈で逮捕された男は即日釈放された。日本政府は,当時,中国を国家として承認しない政策を採っており,日本と中国とは互いに反発する関係にあったが,この事件を契機に,昭和33年5月11日,日中間の一切の通商関係等が断絶され,かかる通商関係の途絶は,昭和37年に覚書による貿易が再開されるまで続いた(甲総118・,甲総C12,甲総F2。 p50 55-56p201)その後,昭和33年7月13日の第21次集団引揚げの際,今回で集団引揚げは終了する旨,中国紅十字会から民間引揚三団体に通告がなされ,,(,,これにより後期集団引揚げは終了となった乙総12の2p114p48-49 。 p57-60)エ後期集団引揚げによる帰国の状況等昭和28年3月の第1次から昭和33年7月の第21次まで続いた後期集団引揚げでは,合計3万2506人の日本人が帰国した(乙総1・p114,2の2。当初の第1次ないし第12次引揚げの対象は,中国で p49)留用された者(中国の軍隊により徴用され留め置かれた者)が中心であったが,第13次ないし第16次引揚げの対象は,戦犯者や残留婦人が中心となり,最後の第17次ないし第21次引揚げの対象は,自発的に残留して思想教育を受けたいわゆる学習組が中心であ れた者)が中心であったが,第13次ないし第16次引揚げの対象は,戦犯者や残留婦人が中心となり,最後の第17次ないし第21次引揚げの対象は,自発的に残留して思想教育を受けたいわゆる学習組が中心であった(乙総42。 p58-60)他方,原告らのような中国残留孤児は,主に辺地の中国人社会に個人単位で幼少時から養子等として入り込んでいたため,中国当局からの把握が困難であり,かつ,自ら帰国情報を取得することが難しい立場に置かれており,この後期集団引揚げで帰国できた中国残留孤児は,わずか93人であった(乙総42,弁論の全趣旨。 p92)( ) このころまでに行われていた施策,調査等 ア引揚者等に対する施策(ア) 引揚者に対する施策個別引揚者に対する船運賃等の国庫負担a日本政府は,中国からの日本人の引揚げは集団によることを基本としていたが乙総1個別引揚者の船運賃の負担について昭(),「」(p121和27年2月25日付け援引第91号(乙総2の2,10)p499-5004)に基づき,昭和27年3月1日から,個別に引き揚げる者の経済的負担を軽減し,未帰還者の引揚げの促進を図る方策として,個別引揚者の帰国に要する船運賃を国が負担することとした(乙総1・p85,2の2,41・,85。 p51p3-4)この制度は,引揚者本人及び留守家族において,引揚げに必要な船運賃を支弁することが困難な事情がある者につき,国外の出港地より日本の上陸港に至るまでの船運賃を国庫で負担するものである(2の ,104)ところ,当初は引揚者本人に対象が限られていp499-500たが,前記( )アのとおり後期集団引揚げが始まった昭和28年3月以 降,中国残留日本人が日本へ永住帰国する場合には,同行する配偶者や未 ころ,当初は引揚者本人に対象が限られていp499-500たが,前記( )アのとおり後期集団引揚げが始まった昭和28年3月以 降,中国残留日本人が日本へ永住帰国する場合には,同行する配偶者や未成年の子等の扶養親族についても対象とされるようになった乙,(総2の2。このような個別引揚げは,集団引揚げと比べて約1p418)0倍近い経費を要するものであった(乙総1,41。 p122p65)なお,かかる制度では,出港地までの運賃等は国庫負担の範囲外とされていたが,日本政府は「中共地域引揚者に対する出境地までの,帰国旅費の支給について(昭和37年5月19日付け援発第406」号(乙総105)に基づき,昭和37年6月1日から,個別に引き)揚げる者の居住地から出港地までの旅費についても,日本赤十字社に委託する形で,支給することとした(乙総1,2の2。 p122p52)帰還手当の支給b昭和28年2月1日以後に日本へ永住の目的で引き揚げた引揚者(中国残留孤児を含む)に対しては「引揚者に対する帰還手当の。 ,支給について(昭和28年2月27日付け援引第120号(甲総」)51,乙総4,197の1・2)に基づき,昭和28年3月以降,帰国後の当面の生活資金等に充てるものとして,帰還手当が支給されるようになった。 (イ) 一時帰国者に対する施策(乙総2の2)p54(),昭和31年6月28日に締結された天津協定前記( )イ(ウ)中には ,,希望する日本人を一時帰国させる旨が盛り込まれておりこれに基づき昭和31年から昭和33年までに,合計4回,709世帯1693人の一時帰国が実施されたところ,日本政府は,かかる一時帰国者の往復の旅費を支給していた。もっとも,かかる一時帰国は,後期集団引揚げの終焉とともに中止 昭和33年までに,合計4回,709世帯1693人の一時帰国が実施されたところ,日本政府は,かかる一時帰国者の往復の旅費を支給していた。もっとも,かかる一時帰国は,後期集団引揚げの終焉とともに中止された。 イ未帰還者の調査及び把握されていた未帰還者数(ア) 終戦後から昭和29年ころまで日本政府は,終戦直後から昭和22年ころまでの間は,未帰還者のa状況を積極的に調査するには至らなかったが,昭和23年ころから昭和25年ころまでの間には,未引揚邦人届の収集,帰還者からの消息不明者に関する覚書の収集,現地からの通信の収集,終戦後引揚げまでの各地域の状況資料の整備,残留者の状況に関する調査,満州開拓団に関する調査等を行い,昭和25年4月から昭和25年6月までの間には,各都道府県を通じて留守宅に対する一斉調査を行ったり,昭和25年10月1日実施の全国国勢調査の際には,調査員に未引揚者の調査を依頼したり,引揚者から上陸地で残留者等に関する情報を収集したり帰郷した引揚者に対する通信調査等を行ったりしていた乙,(総1,2の2・,41・。 p181p68-69 74-75p104-106 109)かかる軍人軍属以外の未帰還者の調査は外務省が実施してきたが,昭和28年8月1日「国は未帰還者の調査究明に努めなければなら,ない」と明記した未帰還者留守家族等援護法が制定され,この趣旨に基づき,昭和29年4月,厚生省設置法が一部改正され,軍人軍属を含む未帰還者の調査は,厚生省に設置された未帰還調査部(昭和37年7月からは援護局調査課)が実施することとされた(甲総G1,乙総1・,2の2・・,41。 p172-173 213p69-70 74p99)日本政府は,昭和25年6月,ソ連邦管理地域に残留しているものbと考 こととされた(甲総G1,乙総1・,2の2・・,41。 p172-173 213p69-70 74p99)日本政府は,昭和25年6月,ソ連邦管理地域に残留しているものbと考えられる未帰還者の問題を国連に提訴するに先立ち,外務省及び厚生省が協議して昭和25年5月1日現在の未引揚者統計を作成したが,これによると,未帰還者の総数は34万0585人であり,うち,,満州及び関東州の未帰還者の数は生存資料のある者5万3948人死亡者15万8099人,生死不明者2万6492人であった(甲総31の1・2,乙総1,2の2・。 p194p77 84)その後に厚生省が集計したところでは,昭和29年5月1日現在の中国地域の未帰還者は,5万2169人であった(甲総31の2,乙総1,2の2。 p194p84)(イ) 昭和30年ころ以降から後期集団引揚げ終了の前後まで日本政府は,中国東北地方の辺境地域に居住していた日本人の調査aとして,日ソ開戦前における職域,隣組及び開拓団等ごとの人員及び人名を把握した上,行動群調査により足取りを追うことで起きた事件及び死亡者の状況を明らかにし,未引揚者ごとに最終消息を把握するようにしていたところ(甲総14,乙総1,42,後p196p188-189)期集団引揚げが開始されてからは,帰還者から得た残留者の情報も基礎としたが,帰還者のいなかった場所に残留している者等の消息は把握できなかった。このような状況の下,厚生省は,現地残留者から留守宅等に通信のある者及び未帰還者のうち一時帰国し再渡航した者等で住所の明らかな者に通信調査を実施することとし,昭和33年と昭和35年との2回,中国地域に残留し,その現住所の明らかな者の名簿を作成の上,この名簿を都道府県に配布し,留守家族と協力して 航した者等で住所の明らかな者に通信調査を実施することとし,昭和33年と昭和35年との2回,中国地域に残留し,その現住所の明らかな者の名簿を作成の上,この名簿を都道府県に配布し,留守家族と協力して現地に対する通信調査を実施した(乙総1,2の2,42p197-198p87。 p190)未帰還者として把握されている者の数は,後期集団引揚げ等によりb減少し,昭和32年10月1日現在では4万4650人(乙総42,昭和33年4月1日時点で4万0362人,昭和33年7月のp203)段階で4万人弱と把握されていた(甲総34)ところ,このうち,p4中華人民共和国内にいる日本人未帰還者については,昭和33年7月17日,衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会において「6000ぐらいと考えていいんじゃないかというふうに,。 ,,,思いますただその内訳を見てみますといわゆる国際結婚した人あるいは向こうの中国人にもらわれて行った子供というふうな,実質的に中国人になった人が大部分でございまして,この数字が今申し上げました6000のうちの5000くらいを占めるのではないか,かように考えております。あと残りの1000名程度がその他の人でございます。この人たちも,さしあたり帰る希望を持っておられる方は非常に少数であろう,かように考えておるわけであります」という。 当時の厚生省引揚援護局長の認識が述べられていた(甲総34。 p4) 日中国交正常化までの動き( ) 未帰還者特別措置法の制定及び未帰還者特別措置法施行後から日中国交正 常化までの調査等ア未帰還者特別措置法の制定及びそれに至る経緯等(ア) 未帰還者の数は,前記2( )イ(イ)のとおり,後期集団引揚げ等によ bり減少していたが,その大部分は,終 国交正 常化までの調査等ア未帰還者特別措置法の制定及びそれに至る経緯等(ア) 未帰還者の数は,前記2( )イ(イ)のとおり,後期集団引揚げ等によ bり減少していたが,その大部分は,終戦前後に消息を絶った者で,前記2( )イのような調査によっても消息を解明できなかったものであるとこ ろ,かかる状況の下,留守家族団体から未帰還調査の徹底,特に国の十分な措置を伴った未帰還者の最終的処理等についての要望が起こり始めた(乙総42・。 p164 203)他方,未帰還者の留守家族に対しては,未帰還者留守家族等援護法に基づき留守家族手当が支給されていた(乙総41)ところ,未p99-100帰還者留守家族等援護法では,その施行後6年(当初3年と定められていたが,昭和31年に3年延長された)を経過した日,すなわち昭和。 34年8月1日以降「過去7年以内に生存していると認めるに足りる,資料がない未帰還者」の留守家族には,留守家族手当を支給しないこととなっていたが,この留守家族手当の支給が終了する昭和34年7月末までに未帰還者の調査を完結することは,事実上不可能に近かった(乙総1,2の2,42。 p224p201p203)国としては,上記諸要請の中で,未帰還者の最終処理についての必要性が認識された。しかし,従来,未帰還者の死亡処理のために行われていた,戸籍法89条(事変による死亡)の「死亡の報告」では,死亡の推定が可能でも「生存不明者」である限りは要件を充足しないため,,未帰還者のすべてを処理することはできず「生死不明者」を処理する,唯一の手段である失踪宣告の請求権者に国は含まれていなかったため,,。 (,国としては特別の措置を講ずる必要性が認識された乙総1p224-2252の2,42)p201p2 理する,唯一の手段である失踪宣告の請求権者に国は含まれていなかったため,,。 (,国としては特別の措置を講ずる必要性が認識された乙総1p224-2252の2,42)p201p203-204(イ) かかる背景の下,厚生省は,昭和32年12月17日「未帰還者の,うち、国がその状況について調査究明をした結果、死亡の確認はできないが、生存しているものと思われない者につき、これを死亡したものと推定し、その者の遺族に対して適切な措置を講ずること」を趣旨とする死亡したものと推定される未帰還者に関する措置(試案)を引揚同胞対(,,)。 策審議会に諮問した乙総12の2 p225-226p201-202p204-205これに対し,留守家族団体代表者から「未帰還者問題の完全解決と,は,調査究明,補償援護,最終処理の3要素を内容としているのに,厚生省試案は最終処理だけが先に出過ぎている「精神的な慰謝の気持。」ちが出ていない」といった反対があり,また,昭和33年3月20日。 に開かれた未帰還者問題解決促進全国留守家族大会留守家族団体においては「一、未帰還者の調査に全力を尽くし、引揚げを促進すること。 ,二、留守家族の心情に即して、未帰還者の最終処理を急ぐこと。三、留守家族の援護をよくし、死亡処理した未帰還者の家族に、特別な弔慰と慰霊の措置をとること」との決議がなされていた(乙総1,。 p226-2272の2,42,108の1。かかる流れを受けて,昭和p202p205-207)33年5月2日に開かれた第2回未帰還者問題閣僚懇談会では「未帰,還者に関する措置方針」と題する申合わせ事項において「一、未帰還,調査の徹底を期するととともに,留守家族の実態についても所要の調査を行うこと。二、終戦前後に消息 帰還者問題閣僚懇談会では「未帰,還者に関する措置方針」と題する申合わせ事項において「一、未帰還,調査の徹底を期するととともに,留守家族の実態についても所要の調査を行うこと。二、終戦前後に消息を絶ったもの等、死亡の公算の高い未帰還者については、留守家族の心情を斟酌の上、国又は都道府県知事が失踪宣告を申立て得る途を開くこと。三、前項の場合においては、恩給法及び遺族援護法等の適用上、原則として公務上の死亡として取扱うとともに、留守家族に対して弔慰の意を表することを考えること。四、昭和34年8月以降における留守家族手当については、今後の未帰還調査の状況に応じ、所要の措置を講ずること。五、以上の措置に伴う法律改、、、。」正については成案を得次第できるだけ早い機会にこれを行うことが定められ(乙総1,2の2,42,昭和33年7p227-228p202p207)月29日に開かれた第3回未帰還者問題閣僚懇談会では「未帰還者の,調査究明促進に関する特別措置について」と題する申合わせ事項において「一、帰還者全般に対して、未帰還者の消息につき一斉調査を行な,い、その消息資料を極力収集する。二、海外に生存している者の消息に、、、つき在外公館を通じあるいは直接通信等により一斉調査を行うほか。」(,,当該国の協力の促進を図る旨が定められた乙総12の2p227p203 。 p208)(ウ) このような中で,昭和33年12月,未帰還者の一斉特別調査が実施され,国内については,厚生省が作成した未帰還者連名簿を都道府県を通じて帰還者に発送して未帰還者の消息資料を収集するなどし,国外については,各地域ごとに作成した未帰還者の名簿等を在外公館を通じて現地残留者に送付するなどした。もっとも,中国地域については,名簿等 通じて帰還者に発送して未帰還者の消息資料を収集するなどし,国外については,各地域ごとに作成した未帰還者の名簿等を在外公館を通じて現地残留者に送付するなどした。もっとも,中国地域については,名簿等を現地残留者へ一斉に発送して調査することは見合わせ,昭和33年10月,日本赤十字社を通じて中国紅十字会に現地残留者の日本向けの通信に協力してほしい旨申し入れたが,回答は得られなかった(乙総。 ,2の2,42)p227-228p203p208-209(エ) その後,厚生省は,昭和33年12月17日,未帰還者に関する特別措置の法律案の要綱案について,引揚同胞対策審議会に諮問し,賛意が基本的に得られたため,法律案の起草,国会の審議を経て,昭和34年3月3日,未帰還者特別措置法が公布され,昭和34年4月1日から施行された(乙総1,2の2,42。 p228-229p204-205p212-214)なお,未帰還者特別措置法の制定の過程では,未帰還者留守家族等援護法に規定する留守家族手当等の支給期間をさらに延長することが求められていたため,未帰還者特別措置法の施行に伴い,留守家族手当の支給期間は3年間延長された(乙総1・,2の2,42p221 228p204。 p213-214)イ未帰還者特別措置法の概要(甲総G2,乙総1,2の2)p229p205-208未帰還者特別措置法の概要は,以下のとおりである(この項について,法律名を付さないものは,いずれも未帰還者特別措置法の条文である。 。)(ア) 1条(この法律の目的)「この法律は、未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることができない者について、特別の措置を講ずることを目的とする」。 (イ) 2条(民法30条の宣告の請求等 「この法律は、未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることができない者について、特別の措置を講ずることを目的とする」。 (イ) 2条(民法30条の宣告の請求等の特例)なお平成11年法律第160号により未帰還者特別措置法中の厚,,「生大臣」が「厚生労働大臣」に改められた。 1項a「未帰還者留守家族等援護法第二条第一項に規定する未帰還者(以下「未帰還者」という)に係る民法第三十条の宣告の請求は、厚生。 大臣も行うことができる」。 なお,未帰還者の意義は,後記(ウ)のとおりである。 2項b「前項の請求をする場合には、厚生大臣は、当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならない」。 3項c第一項の規定による厚生大臣の請求に基く民法第三十条の宣告以「(下「戦時死亡宣告」という)の取消の請求は,厚生大臣も行うこと。 ができる」。 (ウ) 未帰還者及び未帰還者とみなされる者の意義未帰還者留守家族等援護法2条1項2号(未帰還者)a「未復員者以外の者であつて、昭和二十年八月九日以後ソビエト社会主義共和国連邦、樺太、千島、北緯三八度以北の朝鮮、関東州、満州又は中国本土の地域内において生存していたと認められる資料があり、且つ、まだ帰還していないもの(自己の意思により帰還しないと認められる者及び昭和二十年九月二日以後において、自己の意思により本邦に在つた者を除く」。)13条の2(未帰還者とみなす者)b( ) 1号a「中国本土、フイリピン諸島その他の政令で定める地域内においてそれぞれ当該地域ごとに政令で定める日以後生存していたと認められる資料があるが、諸般の事情からみてすでに死亡していると推測される者(昭和二十年九月二日以後自己の意思により帰還しなかつたと認められる者及 ぞれ当該地域ごとに政令で定める日以後生存していたと認められる資料があるが、諸般の事情からみてすでに死亡していると推測される者(昭和二十年九月二日以後自己の意思により帰還しなかつたと認められる者及び同日以後において自己の意思により本邦に在つた者を除く」。)( ) 2号b「未帰還者留守家族等援護法第二条第一項第二号に規定する地域(中国本土の地域を除く)又は前号の政令で定める地域内にお。 いてそれぞれ昭和二十年八月九日又は同号の政令で定める日前に生存していたと認められる資料があるが、それぞれこれらの日以後生存していたと認められる資料がない者で、諸般の事情からみて同日以後に死亡したと推測されるもの」(エ) 弔慰料3条1項(弔慰料の支給)a「未帰還者が戦時死亡宣告を受けたときは、その遺族に対し、弔慰料を支給する」。 4条本文(弔慰料の支給を受けるべき遺族の範囲)b「弔慰料の支給を受けるべき遺族の範囲は、戦時死亡宣告により未帰還者が死亡したものとみなされる日におけるその者の配偶者(婚姻、。 の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む以下同じ、子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹並びにこれらの者。)以外の三親等内の親族(未帰還者が死亡したものとみなされる日において帰還していたとすれば、その者によつて生計を維持し、又はその者と生計をともにしていたと認められる者に限る)とする」。 。 6条(弔慰料の額)c「弔慰料の額は、戦時死亡宣告を受けた者一人につき三万円(当該戦時死亡宣告を受けた者が第十三条第一項の規定の適用を受ける者である場合においては、二万円)とする」。 (オ) 戦時死亡宣告の効力(民法31条等)戦時死亡宣告を受けた未帰還者は,最終消息のあった日から7年を経過した日又は危難が去った時(昭和37 を受ける者である場合においては、二万円)とする」。 (オ) 戦時死亡宣告の効力(民法31条等)戦時死亡宣告を受けた未帰還者は,最終消息のあった日から7年を経過した日又は危難が去った時(昭和37年法律第69号による改正前は危難が去った時から3年を経過する日)に死亡した者とみなされる。 戦時死亡宣告によって死亡とみなされた者の戸籍の記載においては,「未帰還者に関する特別措置法に基づく死亡宣告」であることが明らかとされる(乙総2の2,42。 p208p215)ウ未帰還者特別措置法の運用の状況及び未帰還者特別措置法施行後から日中国交正常化までの調査等(ア) 未帰還者特別措置法の運用の状況未帰還者特別措置法は,おおむね以下のように運用された(この項a全体につき,乙総2の2。 p208)( ) 厚生省の保有する資料により,未帰還者特別措置法上未帰還者とa認められる者を「該当予定者」とし,都道府県を通じて,戦時死亡宣告の請求に関する留守家族の意向を調査し,留守家族の同意を得て,戦時死亡宣告の審判の申立てを行う(乙総2の2,63p208ないし65,67。 )( ) 留守家族の意向を調査するに当たっては,できる限り面接の上,b当該未帰還者の最終の消息,調査経緯等及び調査究明の概況,生存残留者の実態,当該未帰還者等の戸籍処理等をした場合の留守家族の処遇等について十分説明し納得させて,同意を得ることに努める(乙総63,64。 )同意しない家族については,面接の上説得するとともに,同意しない真因を充分に把握してその解明に努める(乙総64。 )留守家族が同意する場合は,同意書の提出を求めた後,厚生省に報告し,戦時死亡宣告の請求に係る該当者の決定の通知を受け,都道府県知事名で,家庭裁判所に対し,戦時死亡宣告の審判の申立てを行う 4。 )留守家族が同意する場合は,同意書の提出を求めた後,厚生省に報告し,戦時死亡宣告の請求に係る該当者の決定の通知を受け,都道府県知事名で,家庭裁判所に対し,戦時死亡宣告の審判の申立てを行うものとする(乙総66,67。 )( ) 戦時死亡宣告が確定した後において生存の事実が判明したこと等c戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じた場合において,利害関係人が当該宣告の取消しの申立てをしないときは,都道府県からの通知を受け,厚生大臣が戦時死亡宣告の取消審判の申立てを行う(乙総65ないし67。 )未帰還者特別措置法が施行された昭和34年4月1日時点におけるb中国地域の未帰還者数は2万0798人と把握されていたところ乙,(総2の2,昭和34年4月1日から昭和51年12月31日まp257)での間における戦時死亡宣告の審判確定者のうち中国地域の者は合計1万4100人(内訳:昭和34年度から昭和39年度までに1万2035人,昭和40年度から昭和46年度までに1800人,昭和47年度から昭和51年12月31日までに265人)であった(乙総 。 p233)(イ) 未帰還者特別措置法施行後から日中国交正常化までの調査等未帰還者特別措置法施行後の調査は,おおむね以下のような方向でa進められた(乙総63,64。 )( ) 生存していたと認められる資料のある者及び現に生存している可a能性の高い者については,外地に残留している好資料保有者に対する通信照会,最近の帰還者からの資料の収集又は留守家族等につき未帰還者からの通信の状況を承知する等,国の内外を通ずる調査により,その者の現在生存の事実及び帰国意思に関する資料を収集する。 ( ) 現に生存している可能性が低いと認められる者については,そのb者の最終消息資料の内容に応じて,全 ,国の内外を通ずる調査により,その者の現在生存の事実及び帰国意思に関する資料を収集する。 ( ) 現に生存している可能性が低いと認められる者については,そのb者の最終消息資料の内容に応じて,全般資料を基礎として既得の資料の審査を行い,具体的な調査計画の下に究明を促進し,死亡を確認し得る資料又は未帰還者特別措置法2条1項に該当すると認められる資料を収得する。 ( ) 戦時死亡宣告審判確定者等の死亡を確認していない者についてcは,その諸資料を他の処理済者の諸資料と区分して整理保管し,機,,。 会あるごとに死亡の時期・場所・死因遺骨等について調査する自己の意思により帰還しないと認められる者(未帰還者留守家族等b援護法2条1項2号括弧書き前段)の未帰還者からの除外未帰還者留守家族等援護法は「未帰還者が置かれている特別の状,態にかんがみ、国の責任において、その留守家族に対して手当を支給するとともに、未帰還者が帰還した場合において帰還旅費の支給等を行い、もってこれらの者を援護することを目的とする(未帰還者。」留守家族等援護法1条)ものであるところ,未帰還者留守家族等援護法2条にいう「未帰還者」については「自己の意思により帰還しないと認められる者(未帰還者留守家族等援護法2条1項2号括弧書き」前段)が除外されていたが,留守家族手当支給の関係上,このような認定がなされる事例は極めて少なかった。 留守家族手当の支給期間は,前記ア(エ)のとおり,未帰還者特別措置法が制定される過程で3年間延長されていたが,昭和37年7月にはその大部分の支給が打ち切られることとなっていた。このような状況の下自己の意思により帰還しないと認められる者と認定して未,「」「帰還者」から除外することについての障害は低くなっていた。 そこで,昭和37 が打ち切られることとなっていた。このような状況の下自己の意思により帰還しないと認められる者と認定して未,「」「帰還者」から除外することについての障害は低くなっていた。 そこで,昭和37年度以降,生存が確認された者のうち,本人からの来信,帰還者の確実な証言,本人の生活状態等を総合判断し,残留希望が確実と認められる者については,その留守家族に対して事情等を詳細に説明し,十分な納得が得られるように配慮しつつ「自己の,意思により帰還しないと認められる者」として,遅滞なくその処理を行うこととされた(甲総G1,乙総63,64)。 かかる結果,約1000人につき「自己の意思により帰還しない,と認められる者」であるとの認定がなされ「未帰還者」として取り,扱わないこととされた(乙総2の2。 p257)( ) 香港ルート等による個別引揚げ ア香港ルート等による個別引揚げの概況(ア) 日本へ引き揚げる手段としては,中国政府から個別に出境許可を得て香港等から帰還するものもあり,後期集団引揚げ終了前も毎年若干名がこの手段で日本へ帰還していたが,後期集団引揚げ終了後から日中国交正常化までの間は,中国からの帰国は専らこの個別引揚げで行われた。 当初は日中間の直接航路もあったが,これが廃止された昭和36年2月1日以降,その経路は香港経由に限られることとなった。その要領は,以下のとおりであるが,日本政府は,昭和36年9月5日,日本赤十字社に対し,中国紅十字会へ帰国希望者の引揚促進等を申し入れるように依頼し,また「中共地域からの個別引揚手続等について(昭和35,」年10月25日付け庶務第488号)において,各都道府県民生主管部長宛てに,引揚げの方法,手続等の状況等を関係各方面へ周知するように依頼していた(乙総42・・,135,19 (昭和35,」年10月25日付け庶務第488号)において,各都道府県民生主管部長宛てに,引揚げの方法,手続等の状況等を関係各方面へ周知するように依頼していた(乙総42・・,135,199)。 p60-61 78 348帰国希望者は,中国政府が発行する外僑出境証を取得すべく,そのa居住地を管轄する公安局外僑管理部門に下附申請をする。 この際,地域によっては日本政府の発行した入国に関する証明書の添付を要することがあり,その場合には,日本の法務省は,帰国希望者の留守家族等の申請に基づき,入国管理局審査課長名義の証明書を発給する。この証明書発給の申請の際には,証明書下附願,帰国希望者の戸籍謄本,帰国希望者からの帰国を希望する旨の来信の写し等を提出する。留守家族等がいないなどの理由により帰国希望者から日本赤十字社宛てに証明書発給の申請があった場合には,日本赤十字社が上述の書類を整えて送付する。 なお,日中国交正常化後,在中国日本国大使館が設置されたため,この証明書の発給は取りやめとなり,在中国日本国大使館において,日本国籍を有する者については帰国のための渡航書を発給し,中国の国籍を有する者については中国旅券に査証を行うこととなった。 外僑出境書を取得した帰国希望者は,大陸を南下して広東に赴き,b持帰金の両替等をした上,汽車で深に赴き,国境の駅で下車する。帰? 国希望者は,ここで出国の手続を済ませ,徒歩で国境の橋を渡り,九竜半島側の羅湖において英国官憲に入域手続を行い,汽車で香港対岸の九竜に赴き,香港からは数多く就航している日本向けの便船を利用して帰国する。 香港経由で帰国するには香港政庁の通過査証が必要であるが,帰国希望者は,その居住地を出発する前に,香港到着の日程を在香港日本総領事館に通知しておき,在香港日本総領事館は,こ 船を利用して帰国する。 香港経由で帰国するには香港政庁の通過査証が必要であるが,帰国希望者は,その居住地を出発する前に,香港到着の日程を在香港日本総領事館に通知しておき,在香港日本総領事館は,この通知を受け,香港通過の許可を取り付け,国境にある中国旅行社に連絡し,通過に支障が生じないように取り計らう。 帰国に要する諸経費は,当初,自己負担を建前とする一方,日本のc親族から,帰国希望者に対し,送金者1人につき3か月に100ドル(昭和36年1月4日から1年間に500ドル)相当額までの邦貨を生活費として送金できることとされ,船待ち等のため香港に滞在する費用のない帰国希望者については,在香港日本総領事館が滞在旅費を支給する途が講じられていた。 もっとも,前記2( )ア(ア)のとおり,引揚げに必要な船運賃を支弁 aすることが困難な事情がある者については,出港地から日本の上陸港までの船運賃を国庫で負担することとされていたところ,昭和37年6月1日からは,居住地から出港地までの旅費も,日本赤十字社への委託の形で支給されていた。 (イ) この個別引揚げによる引揚者の数は,後期集団引揚げが終了した後の昭和34年は10人であったが,昭和35年から昭和38年までの間は毎年50人前後で推移し,昭和39年から昭和45年までの間は,文化大革命の時期に該当する昭和43年及び昭和44年(5人及び6人)を除き,毎年100人前後となっていた。その後,かかる引揚者の数は,昭和46年及び昭和47年には毎年30人台と落ち着いたが,日中国交正常化後の昭和48年は52人となり,日中間の航空機の相互乗入れが始まり昭和49年及び昭和50年には毎年130人前後となった乙,。(総1)p118-119イ香港ルートによる個別引揚げの具体例原告A3(原告番号11)及 ,日中間の航空機の相互乗入れが始まり昭和49年及び昭和50年には毎年130人前後となった乙,。(総1)p118-119イ香港ルートによる個別引揚げの具体例原告A3(原告番号11)及び原告A4(原告番号12)並びに原告A25(原告番号57)は,下記のとおり,香港ルートにより,それぞれ日本へ帰国していた。 (ア) 原告A3原告番号11及び原告A4原告番号12について甲()()(各12の2ないし4,原告A4,弁論の全趣旨)終戦前に開拓団として家族とともに各々満州へ渡り,終戦後中国人に養子として引き取られた原告A3及び原告A4は,昭和27,8年ころ結婚したが,その周辺には,何人かの残留日本人婦人が住んでおり,日本人同士の交流もあり,中には日本の親族と手紙のやり取りをしている者もいたところ,兄が日本へ帰国しているのではと考えた原告A3は,昭和34年ころ,帰国を希望する旨の文章を近所の日本人女性に日本語で書いてもらい,これを日本の関係機関へ送った。他方,日本へ帰国していた原告A4の兄は,日本赤十字社を通じて中国に残されていた家族を捜していたが,上述の手紙がその目に触れて,原告A4が生存していることが伝わり,日本の関係機関の調査もあってか,原告A3の兄も日本へ帰国していることが明らかになった。 その後,原告A3及び原告A4は,それぞれ兄と手紙のやり取りをする一方,昭和34年ころ,日本の関係機関の連絡を受けていた中国の公,,安局から帰国の意思を確認された際には帰国したい旨を伝えていたが中国の公安局からは,許可が下りるまで待つようにとの返答が続いていた。 原告A3及び原告A4は,昭和40年12月初旬,日本への帰国の許可が下りたので香港を経由して日本へ帰国するようにと中国の官吏から伝えられ,また,今帰らないと次 まで待つようにとの返答が続いていた。 原告A3及び原告A4は,昭和40年12月初旬,日本への帰国の許可が下りたので香港を経由して日本へ帰国するようにと中国の官吏から伝えられ,また,今帰らないと次いつ帰れるかわからない,日本人同士の夫婦なので早く帰国することができるとも言われたため,急いで全財産を売却し,そのお金で香港へ向かった後,香港の日本国総領事館で帰還証明書の交付を受けて,昭和40年12月21日,貨物船で神戸港へ到着した。その後,迎えに来ていた広島市の職員と広島駅まで赴き,原告A4の兄と再会した。 (イ) 原告A25(原告番号57)について(甲各57の1,原告A25,弁論の全趣旨)原告A25は,終戦前に開拓団として家族と満州へ渡り,終戦後,中国人に養子として引き取られたところ,中国で近くに住んでいた者が昭和28年に帰国し,原告A25の叔父に連絡してくれたため,原告A25は叔父と手紙のやり取りをするようになった。原告A25の叔父は,日本の関係各機関に対して原告A25の帰国手続を申請するとともに,公安局に申請すれば帰国できる旨原告A25に手紙で知らせてきたところ,原告A25は,昭和35年ころから,日本の関係各機関から送付された書類を公安局へ提出して香港経由での帰国を申請し,在香港日本総領事館と手紙で連絡を取っていた。昭和45年3月,公安局から帰国許可が下りたため,原告A25は,外僑出境証の交付及び旅費の支給を受けて深に向かい,深で外僑出境証を提示して香港に入った後,昭和4? ? 5年4月,香港からの貨物船で名古屋港に着いたが,その際には,叔父と広島県の職員が迎えに来ていた。 日中国交正常化後の中国残留孤児の調査及び帰国援護等( ) 日中国交正常化後の中国残留孤児の身元調査 日本及び中国は,昭和47年9月29日,両国の首相 ,叔父と広島県の職員が迎えに来ていた。 日中国交正常化後の中国残留孤児の調査及び帰国援護等( ) 日中国交正常化後の中国残留孤児の身元調査 日本及び中国は,昭和47年9月29日,両国の首相が北京において共同声明を発表し,国交を回復したところ,これを契機として,中国に残留している者から,日本国内への手紙による通信が活発に行われるようになるとともに,中国残留孤児等からも,在北京日本国大使館,厚生省,都道府県等に対して数多くの調査依頼が寄せられるようになった(乙総2の2,弁p401論の全趣旨。かかる状況の下,厚生省は,昭和48年ころには,中国政府)に対し,中国に在留する日本人についての資料の提供,帰国を希望する者についての速やかな出入国許可証の発給,大使館員による現地調査,中国側の担当部局たる公安部門の責任者との事務的な話合い等を申し入れていたところ,中国政府からは,この問題では日本側に協力するという基本方針が示されつつも,解決を要する関連問題も多いなどとの回答が述べられていた(乙総183。 )他方,民間ボランティアは,日中国交断絶中も独自のルートを通じ,中国残留孤児の帰国に向けて活動をしていたが,昭和49年6月,民間の篤志家の手により「日中友好手をつなぐ会」が結成されたところ,同会を中心と,する複数の民間の団体が,肉親捜しのための活動を積極的に展開するようになり,かかる活動をマスコミ各社も報道し,昭和49年8月ころからは,新聞紙上に中国残留孤児の手掛かりが特集記事として連載されるようにもなっていた(甲総41,42の1ないし4。 )このような中,厚生省は,以下の各調査を実施するに至った。 ア訪日調査までの諸調査(ア) 未帰還者調査(乙総1,2の2)p201p388日本政府は,昭和48年3月,在北京日本国大使館 )このような中,厚生省は,以下の各調査を実施するに至った。 ア訪日調査までの諸調査(ア) 未帰還者調査(乙総1,2の2)p201p388日本政府は,昭和48年3月,在北京日本国大使館に対し,未帰還者2963人,戦時死亡宣告により除籍された者1万3564人及び自己の意思により帰還しないと区分されて未帰還者から除かれた1040人の名簿を送付した上,これに基づく現地調査を行うとともに,厚生省の調査担当官を在北京日本国大使館に派遣した。 (イ) 保有資料による調査(乙総1,2の2)p203p402日本政府は,中国残留孤児の身元を確認すべく,中国残留孤児から寄せられた手掛かりを基に,厚生省等が保有する未引揚邦人索引簿,中国各地で死亡した邦人死亡者索引簿,中国東北部に入植した開拓団の関係者から提供を受けた開拓団在籍者名簿,中国東北部等から引き揚げた邦人の外地の状況等について世帯ごとに記入された在外事実調査票等の各資料を照合し,該当者とおぼしき者を抽出して,都道府県を通じて家族に確認を求めるなどした。 (ウ) 公開調査(乙総1,2の2,68ないし74,109)p203p402中国残留孤児は,幼少期に肉親と離別したため,自分の名前,生年月日,居住地等を覚えていなかったりするものが多く,保有資料による調,,査のみでは手掛かりの得られないことが増えてきたところその一方で前記のとおり,新聞紙に特集記事として中国残留孤児の手掛かりが連載されるといった動きもみられた。 このような状況の中で,厚生省は,報道機関の協力を得て,中国残留,,,,孤児から送られてきた顔写真特徴肉親との離別時の事柄等を新聞テレビ等で一般に公開し,広く一般から孤児の情報を求める公開調査を行うこととした。かかる公開調査は,昭和50年3月12日 ,,,孤児から送られてきた顔写真特徴肉親との離別時の事柄等を新聞テレビ等で一般に公開し,広く一般から孤児の情報を求める公開調査を行うこととした。かかる公開調査は,昭和50年3月12日から昭和56年1月12日までの間に計9回実施されたところ,その結果,166人の中国残留孤児の身元が確認された。 イ訪日調査等(ア) 訪日調査が実施されるに至った経緯公開調査が開始された後も,それによって公開された孤児の顔写真や断片的な手掛かり資料だけでは肉親であると判断する決め手に乏しいとして,厚生省には,在日親族から,実際に孤児と対面した上,顔を見,声を聞いて,身体の特徴,孤児の覚えている手掛かりを直接確認したいといった要望が寄せられるようになり(乙総2の2,厚生省は,p403)昭和54年ころから,身元が確認できない孤児について,一定期間日本に招き報道機関の協力を得て肉親捜しを行う計画の検討をしていた乙,(総141,142。 )かかる訪日調査については,孤児が日本へ行ったまま中国へ戻らないのではとの懸念から養父母等が日本行きに同意しない事態が考えられること,中国側の調査で孤児とは認められない者が存在すること,確実に誰が孤児であるかについては省全体として把握していないこと等の問題点が,中国側から指摘されていた(乙総140,169)ところ,外交交渉が重ねられ,昭和56年3月から,訪日調査が実施されるに至った(乙総2の2。 p403)(イ) 訪日調査の流れ等訪日調査の流れ(この項全体につき,乙総129)a訪日調査は,日中両国政府で中国残留孤児と確認された者が対象とされ,訪日孤児が確定すると,訪日期間中の調査効率を高めるため,孤児の申し立てている手掛かりと厚生省で保有している開拓団関係資,,料等の各種資料とを照合しなが 中国残留孤児と確認された者が対象とされ,訪日孤児が確定すると,訪日期間中の調査効率を高めるため,孤児の申し立てている手掛かりと厚生省で保有している開拓団関係資,,料等の各種資料とを照合しながら肉親関係者の抽出を行うとともに報道機関の協力を得て孤児の申し立てる手掛かりを公表し,肉親関係者からの名乗り出や情報提供を求めるなどの準備が行われた(乙総2の2,4。 p403-404p404-405)孤児の訪日後は,本人が申し立てている内容に間違いや記憶違いがないかを確認し,これまでに孤児から申立てのない新たな資料があるか,手掛かりとなる身体的特徴があるか等,肉親捜しに必要な正しい情報を把握するため,厚生省係官が直接本人から聞き取りをする面接調査が行われ,新しく把握できた手掛かりや訂正された内容は直ちに報道機関を通じて公開された。そして,肉親関係者が名乗り出てきた場合に,孤児と直接対面してもらい手掛かりとなる記憶や身体の特徴等を双方で確認する対面調査を行った(乙総2の2。 p405)科学的調査b対面調査によっては,孤児と肉親関係者との双方が身元をはっきり確認できない場合があるため,訪日調査が始まった当初から,当事者双方の希望により,血液鑑定が実施され,平成2年度からは,DNA鑑定も行われていた(乙総2の2,77,78,186,弁p405-406論の全趣旨。血液鑑定の費用は,孤児本人については,当初から国)庫負担とされ,肉親関係者については,昭和60年度から,経済的事情から負担が困難と認められるものにつき,国庫負担とされた(乙総79,弁論の全趣旨。 )なお,中国残留孤児問題全国協議会からは,血液鑑定を孤児全員に実施してデータを確保するようにといった要望もあった(甲総87,甲総B21)が,血液鑑定によっても,確実に血縁 79,弁論の全趣旨。 )なお,中国残留孤児問題全国協議会からは,血液鑑定を孤児全員に実施してデータを確保するようにといった要望もあった(甲総87,甲総B21)が,血液鑑定によっても,確実に血縁関係が分かるわけではなく(乙総158の1ないし4,人権上の問題等もあり,血液),()。 鑑定するか否かは当事者の選択にゆだねられていた弁論の全趣旨(ウ) 訪日調査の経過等第1回の訪日調査は昭和56年3月に実施され,訪日した47人のaうち30名について身元が判明した。 その後,中国側から,中国残留孤児は各省に分散して住んでおり,一度に一時帰国手続を行うことが難しいこと,及び北京の中国旅行社による宿泊先の確保,航空券の予約等に困難が伴うことから,訪日調査の人数は,1回当たり30ないし40名に分けるのが妥当であるという意見もあった(乙総159の1・2)が,昭和57年度に行われ,,た第2回及び第3回の訪日調査には各々60人及び45人が参加しそれぞれ45人及び25人について身元が判明した(乙総76。 )かかる状況の中で,中国残留日本人孤児問題懇談会は,昭和57年b8月26日付けの「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書(後記5( )ア(ア))において「一度に多人数の者 ,を訪日させても、成果をあげることは困難であり、また、中国側との名簿の確認等調査の準備のための期間を考えれば、中国政府の全面的な協力が得られたとしても、当面、一回の訪日調査対象孤児は60人程度、訪日調査の回数も年3回が限度である「中国政府の全面的な。」協力が得られることを前提として、58年度以降60年度までの3か年計画で肉親捜しを完了させる…「58年度は60人ずつ3回計1。」80人について訪日調査を行い、その後は59年度、60年度に 。」協力が得られることを前提として、58年度以降60年度までの3か年計画で肉親捜しを完了させる…「58年度は60人ずつ3回計1。」80人について訪日調査を行い、その後は59年度、60年度に残りの孤児を訪日させて肉親捜しのための調査を行い、60年度までに身元の判明しない孤児全員が訪日して肉親捜しのための調査ができるようにする」などと指摘していた(乙総2の2,90)が,。 p663-668訪日調査は,昭和58年度及び昭和59年度に各2回実施され,昭和58年度には訪日した合計110人のうち64人について,昭和59年度には訪日した合計180人のうち78人について,それぞれ身元が判明した(乙総76。 )中国残留日本人孤児問題懇談会による昭和60年7月22日付け中c「国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書(後記5( )ア(イ))においては「調査依頼がある限り肉親捜しは ,継続しなければならない」とされる一方で「肉親捜しの申し出があ。 、」る孤児については可能な限り昭和61年度に訪日調査を完了させるともされていたところ(乙総2の2,184,訪日調査は,p668-671)昭和60年度には3回にわたり合計400人について実施され,うち109人の身元が判明するとともに,昭和61年度には5回にわたり合計646人について実施され,うち219人の身元が判明した(乙総76。 )このころ,中国政府からは,日本政府が孤児の依頼で肉親捜しを実施していることは中国国内でも周知徹底され,肉親捜しを希望する者,の大部分は日本政府に調査依頼を出しているとの説明がなされており厚生省へ寄せられる調査依頼の件数も相当程度減少していたところ,厚生省は,今後新たな肉親捜しの依頼が多く寄せられることはないと判断し,訪 大部分は日本政府に調査依頼を出しているとの説明がなされており厚生省へ寄せられる調査依頼の件数も相当程度減少していたところ,厚生省は,今後新たな肉親捜しの依頼が多く寄せられることはないと判断し,訪日調査の概了宣言を行った(甲総43,乙総2の2,p403184,185。 ),,,,dその後訪日調査は調査依頼に応じ平成11年度までに15回合計628人について,各年度1回は実施されたが,身元が判明したのは,うち100人であった(乙総76,弁論の全趣旨。 )ウその他の調査等(ア) 訪日調査に付随した訪中調査障害を有する中国残留孤児の調査(乙総2の2,80)ap411日中両国政府から中国残留孤児と確認されているが,身体に障害を有しているため訪日調査への参加が困難な者につき,平成3年及び平成4年,厚生省職員が訪中し,中国政府の協力の下,直接当該孤児から事情を聴取し,中国残留孤児かどうかの確認及び肉親調査の手掛かり等の情報を収集するとともに,公開調査のため孤児のビデオ撮影を行った。その対象者18人であり,その後の訪日調査により,3人の身元が確認された。 未確定者の調査(乙総2の2,弁論の全趣旨)bp411日中両国政府のいずれかの側が中国残留孤児と確認できない者につき,平成6年度以降,厚生省職員が訪中し,中国政府の協力の下,直接当該孤児から事情を聴取し,手掛かり物品を写真に撮影するなどの調査を行った。その結果,平成11年度までに,中国残留孤児である蓋然性が高いと判断された53人が訪日調査に参加し,4人の身元が判明した。 (イ) 訪日対面調査(乙総3,弁論の全趣旨)平成12年度以降,長い年月の経過のために孤児の有する肉親情報が少なく,年々肉親の判明率が低下したこと,高齢化した孤児にとっては訪日調査自体が身体的 。 (イ) 訪日対面調査(乙総3,弁論の全趣旨)平成12年度以降,長い年月の経過のために孤児の有する肉親情報が少なく,年々肉親の判明率が低下したこと,高齢化した孤児にとっては訪日調査自体が身体的負担を伴うものとなっていたこと,肉親調査より早期帰国を希望する孤児が増加していること等の理由から,訪日調査に代えて,次のような訪日対面調査が行われるようになった。 この調査は,調査担当官を中国に派遣し,孤児等との面接調査を日中政府共同で行い,日中両国政府で中国残留孤児と確認された者につき,顔写真,身体的特徴,肉親との離別の状況等の情報を,孤児名簿として日本国内で公開して肉親情報を収集し,肉親情報のあった孤児について肉親と思われる者と対面調査させる方法で実施された。 かかる訪日対面調査により,平成12年度から平成14年度までに,46人が中国残留孤児と認定され,うち8名の身元が確認された。 (ウ) その他身元未判明者のキャラバン調査等(乙総2の2,81,1ap412-41387)厚生省は,前記イ(ウ)のとおり,昭和61年度に実施した第15次c訪日調査後に概了宣言をした(乙総2の2・)が,訪日調査p403 412に参加したが身元確認に至らなかった孤児(以下「身元未判明孤児」という)の肉親調査を促進すべく,昭和62年,身元未判明孤児肉。 親調査委員会が設置された。この委員会においては,身元未判明孤児の肉親の追跡調査を行うこと,元開拓団員からの資料の収集,総点検を行うこと等の基本方針が定められた。 これを受け,昭和62年度から平成元年度の間,厚生省が編成した肉親捜し調査班を各都道府県に派遣し,既に未帰還者届が提出されている関係者,当時の状況に詳しい元開拓団関係者等と面接して情報を収集する,キャラバン調査が行われた。肉親捜し調査班は延べ 生省が編成した肉親捜し調査班を各都道府県に派遣し,既に未帰還者届が提出されている関係者,当時の状況に詳しい元開拓団関係者等と面接して情報を収集する,キャラバン調査が行われた。肉親捜し調査班は延べ25班編成され,各班が約10日間の日程で調査を実施したところ,これにより,15人の孤児について有力な情報が得られ,うち8人の身元が確認された。 身元未判明孤児肉親調査事業(乙総2の2・,82)bp413 678キャラバン調査に対する肉親関係者からの反響を受けて,国内での肉親調査を全国規模で継続していく必要性が認識されたことにより,平成2年度以降,元開拓団関係者等当時の事情に精通した者を各都道府県に調査員として配置し,肉親関係者の掘り起こしを図るといった調査が実施された。 孤児名鑑の発行(乙総2の2)cp412厚生省援護局は,昭和58年3月「肉親捜しの手掛りを求めてい,る中国残留日本人孤児(3分冊)を発行していたが,昭和62年1」0月,キャラバン調査を機にこれを編纂し直した「まだ見ぬ肉親を求めて・身元未判明中国残留日本人孤児名鑑」を作成し,都道府県,市町村等へ配布し,平成元年及び平成3年にはその追録を,平成7年3月にはその改訂版を,それぞれ発行した。 ( ) 中国残留孤児の法的取扱いと身元引受人制度 ア中国残留孤児の法的取扱い(ア) 関係諸法令の規定出入国管理及び難民認定法a( ) 61条a「本邦外の地域から本邦に帰国する日本人(乗員を除く)は、。 有効な旅券(有効な旅券を所持することができないときは、日本の国籍を有することを証する文書)を所持し、その者が上陸する出入国港において、法務省令で定める手続により、入国審査官から帰国の確認を受けなければならない」。 ( ) 6条b1項本文「本邦に上陸しようと することを証する文書)を所持し、その者が上陸する出入国港において、法務省令で定める手続により、入国審査官から帰国の確認を受けなければならない」。 ( ) 6条b1項本文「本邦に上陸しようとする外国人(乗員を除く。以下この節において同じ)は、有効な旅券で日本国領事館等の査証を受け。 たものを所持しなければならない」。 2項「前項本文の外国人は、その者が上陸しようとする出入国港において、法務省令で定める手続により、入国審査官に対し上陸の申請をして、上陸のための審査を受けなければならない」。 ( ) 7条c1項柱書(括弧書き省略)「入国審査官は、前条第二項の申請があつたときは、当該外国人が次の各号に掲げる上陸のための条件に適合しているかどうかを審査しなければならない」。 2項「前項の審査を受ける外国人は、同項に規定する上陸のための条件に適合していることを自ら立証しなければならない」。 なお,かかる立証のための資料の1つとして,身元保証人の身元保証書を提出しなければならないと規定されている(出入国管理及び難民認定法施行規則6条,別表第3。 )外国人登録法b3条(括弧書き省略)1項柱書「本邦に残留する外国人は、本邦に入つたときはその上陸から九十日以内に、本邦において外国人となつたとき又は出生その他の事由により入管法第三章に規定する上陸の手続を経ることなく本邦に在留することとなつたときはそれぞれその外国人と、なつた日又は出生その他当該事由が生じた日から六十日以内にその居住地の市町村の長に対し、次に掲げる書類及び写真を提出し、登録の申請をしなければならない」。 なお,入管法とは,外国人登録法上における出入国管理及び難民認定法の略称である(外国人登録法2条1項参照。 )3項「市町村の長は、第一項の申請の場合にお 出し、登録の申請をしなければならない」。 なお,入管法とは,外国人登録法上における出入国管理及び難民認定法の略称である(外国人登録法2条1項参照。 )3項「市町村の長は、第一項の申請の場合において、やむを得ない事由があると認めるときは、同項に定める期間を六十日を限り延長することができる」。 (イ) 関係諸法令に基づく中国残留孤児の取扱い中国残留孤児も,前記(ア)の関係諸法令に基づく取扱いを受け,永住帰国する者のうち,日本旅券を有する者又は帰国のための渡航書が発給された者については,日本人として帰国の手続が行われたが,中国旅券で入国しようとする者については,日本人としての帰国の確認を受けることができない限り,中国国籍を有するものとして入国手続をとらざるを得ず,また,外国人登録申請も必要とされた。 すなわち「中国からの入(帰)国者に係る登録事務取扱について」,(昭和50年11月22日付け法務省管登第9660号(甲総49の)1)においては,中国から一時里帰り等の目的で入帰国する元日本婦人及びその家族等のうち,中国旅券を所持している者については,関係法令によって日本国籍を喪失している場合が多くかつ入国を認めるに当たって日本国籍を有することが認められず,外国人として上陸を許可された者であるとして外国人登録申請を行うよう指導し,駐中国日本大使館が発給する渡航証明書を所持している者については,日本国籍が記録上除籍されていない場合は日本国籍を有することが多いが,関係法令に照らして見ると日本国籍を喪失している場合もあるとして,同様に外国人登録申請を行うように指導することとされ,前者につき,自己の日本戸籍が記録上除籍されていないことを理由として日本国籍を有する旨申し立てたとき,後者につき,申立てがなくとも陳述書ないし経歴書を徴した上で法務 を行うように指導することとされ,前者につき,自己の日本戸籍が記録上除籍されていないことを理由として日本国籍を有する旨申し立てたとき,後者につき,申立てがなくとも陳述書ないし経歴書を徴した上で法務省等に照会し,日本国籍を有する旨の回答を得た場合には外国人登録の無効措置を採るとともに,その者に対して最寄りの入国管理事務所において在留資格の抹消を受けるように指導することとされていた。 この取扱いは,中国旅券又は駐中国日本大使館が発給する渡航証明書を所持し,中国から一時里帰り等の目的で入帰国する元日本婦人等日本人関係者につき,最終的に日本国籍のあることが多数の事例で確認されていたことにかんがみ「中国からの入(帰)国者に係る登録事務取扱,について(昭和57年1月23日付け法務省管登第826号(甲総」)),,49の2において一部改められ日本国籍の保有が確認されるまでは登録事務上当該人を外国人として取り扱わざるを得ないとしつつも,国籍確認に要する期間を考慮し,入国後90日以内に法務局等から日本国籍の有無についての回答を得られる見込みのないときは,外国人登録法第三条第三項の「やむを得ない事由がある」場合に該当するものとみなし,その者の申立てに基づき,申請期間を60日に限り延長して差し支えないこととされた。 かような取扱いに対し,中国残留孤児全国協議会会長は,昭和59年,「、、、2月1日入国に際しては戦時死亡宣告失踪宣告による戸籍抹消未入籍の如何に拘わらず、日本人として取扱う」ことを内閣総理大臣。 に要望しており(甲総49の3・中国残留邦人問題処理に関する基本「方針ならびに総合施策確立要望の件,また,日本弁護士連合会は,」)昭和59年10月20日付けの「中国残留邦人の帰還に関する決議」において「帰国を希望するすべて 国残留邦人問題処理に関する基本「方針ならびに総合施策確立要望の件,また,日本弁護士連合会は,」)昭和59年10月20日付けの「中国残留邦人の帰還に関する決議」において「帰国を希望するすべての中国残留邦人に対して、一般の入国,の制度によることなく早期帰還を実現させ」る立法の整備を講ずべきである旨を指摘していた(甲総95,98)ところ,中国残留日本人孤児問題懇談会の昭和60年7月22日付け「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について(後記5( )ア(イ))においても「身元判」, 明孤児については、肉親等による戸籍回復等を進めるほか、厚生大臣による戦時死亡宣告の取消し申し立て等により孤児の戸籍回復等の促進を図るべきである。また、身元未判明孤児の受入れに当たっては、在留資格や戸籍の分野で種々の配慮が行われたところであるが、在留資格の諸手続の一層の緩和措置の検討及び戸籍の分野における一層の配慮が望まれる」とされていた(乙総2の2,184。 。 )p668-671その後,昭和61年11月27日付け法務省管入第4542通知により「終戦前渡中者(いわゆる残留孤児を含む」のうち,日本戸籍の,。)存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可されたもの及びこ,,れに同伴する一定範囲の家族については身元保証書の提出を不要とし在日関係者からの招へい理由書(身元未判明孤児で,定着促進センターに入所するものについては,本人からの帰国理由書をもってこれに代える)及び戸籍謄抄本の提出があれば,中国旅券に在中国の日本公館限。 りで査証の発給を受けて永住帰国できるよう取り扱うこととされた(乙総200。 )なお,身元未判明孤児については,その帰国を促進するため,昭和60年度以降,身元保証人制度に代わる措置として,帰国旅費国庫 査証の発給を受けて永住帰国できるよう取り扱うこととされた(乙総200。 )なお,身元未判明孤児については,その帰国を促進するため,昭和60年度以降,身元保証人制度に代わる措置として,帰国旅費国庫負担承認書及び定着促進センターへの入所通知(平成6年以降は帰国旅費支給),,決定通知書をもって身元保証人なしで入国査証を発給することとし帰国後,定着促進センターへの入所中に身元保証人に代わる身元引受人をあっせんすることとされた(甲総50,83,乙総2の2,p422-423,,)。 ,, 弁論の全趣旨これにより身元未判明孤児については留守家族が帰国に協力しない身元判明孤児よりも一足先に,身元保証人の身元保証書を要求される制約が緩和されることとなり,また,平成12年以降,中国残留孤児の肉親調査の方法が集団訪日調査から訪日対面調査に改められた(前記( )ウ(イ))が,これに伴って,孤児の集団訪日 に伴う精神的・身体的負担の軽減を図りつつ,早期の帰国希望に応えるため,事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については,肉親情報がないなどの理由で訪日対面調査に至らない場合でも,中国残留孤児として日本に帰国できることとされた(乙総3。 )イ身元引受人制度(ア) 身元未判明孤児についての身元引受人制度(この項全体につき,乙総2の2)p422-423中国残留日本人孤児問題懇談会は,昭和57年8月26日付け「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書(後記5( )ア(ア))の中で,身元未判明孤児の受入れについて,身元引受人を (,)。 ,あっせんすることを提案していた乙総2の2 またp663-668日本政府は,昭和59年3月17日,中国政府 (ア))の中で,身元未判明孤児の受入れについて,身元引受人を (,)。 ,あっせんすることを提案していた乙総2の2 またp663-668日本政府は,昭和59年3月17日,中国政府と「中国残留日本人孤児問題の解決に関する日中間の口上書」を取り交わしたが,この中では,孤児の日本国への永住により生ずる家庭問題を責任を持って適切に解決することが確認され,孤児が帰国する場合には,在日親族の有無にかかわらず,その同伴する中国の家族とともに日本への永住を受け入れるなどの措置を採ることとされていた(乙総2の2,87。 p672)かかる状況を受け,厚生省は,昭和60年3月29日「本邦に永住,帰国する身元未判明の中国残留日本人孤児に対する身元引受人制度の実施について」を発し,身元未判明孤児及びその世帯員の日本社会への早期定着及び自立更生を図ることを目的とする身元引受人制度が創設された。 この身元引受人制度は「中国残留日本人孤児であつて、厚生省が実,施した肉親捜しのための訪日調査によつても身元が判明しないまま、永」,住の目的をもつて本邦に帰国する者である身元未判明孤児を対象とし身元引受人が,身元未判明孤児世帯の日常生活上の諸問題の相談,自立更生に必要な助言,指導を行うとするもので,身元未判明孤児世帯が定着促進センターに入所しているうちに,厚生省援護局長が,身元引受人登録者を紹介し,双方の合意を確認の上,身元引受人を決定することとされており,その身元引受期間は,身元未判明孤児世帯が定着促進センターを退所した日から3年以内とされていた(甲総83,乙総13,。 92)(イ) 身元判明孤児についての特別身元引受人制度(この項全体につき,乙総2の2)p423-424身元判明孤児の帰国希望者の受入れについては,在日親族が自発的 (甲総83,乙総13,。 92)(イ) 身元判明孤児についての特別身元引受人制度(この項全体につき,乙総2の2)p423-424身元判明孤児の帰国希望者の受入れについては,在日親族が自発的に孤児の身元引受けを行い,各自郷里に戻ってもらうことが前提とされていたが,年月の経過とともに近親の在日親族が既に亡くなっていたり,又は所在が不明となっているなどの状況がみられ,さらに家計の中心となる世代の交代等の事情から,孤児の受入れに難色を示したり,明確に拒否したりするケースが増えていた(乙総2の2。 p423)かかる状況を受け,厚生省は,平成元年7月31日「特別の事情を,有する身元判明孤児に対する身元引受人のあっせん事業について」を発し,肉親との血縁関係が遠い等の特別の事情のため,永住帰国できない身元判明孤児に対し,帰国の促進及び日本社会への早期の定着自立を図ることを目的とする特別身元引受人制度が創設された。 この特別身元引受人制度は「肉親との血縁関係が遠い等の特別の事,情により帰国できない身元判明孤児」である特別事情判明孤児を対象とし,特別身元引受人が,特別事情判明孤児世帯の身元を肉親に代わって引き受け,特別事情判明孤児世帯に係る帰国手続を遂行し,日常生活上,。 の諸問題の相談定着自立に必要な助言指導を行うとするものであった,,特別身元引受人は肉親が死亡している場合又は所在が不明である場合肉親が孤児の受入れを拒否し,長期にわたり説得したにもかかわらず,納得が得られない場合,その他肉親が家庭の事情等により孤児を受け入れることができないなど,肉親以外の者が帰国受入れを行うことがやむを得ないと判断される場合のいずれかに該当する場合に,業務担当都道府県の民生主管部(局)長の申請を受け,厚生省援護局長が,特別身元引受人登録者の承 ないなど,肉親以外の者が帰国受入れを行うことがやむを得ないと判断される場合のいずれかに該当する場合に,業務担当都道府県の民生主管部(局)長の申請を受け,厚生省援護局長が,特別身元引受人登録者の承諾を得て,特別事情判明孤児世帯に対してあっせんするもので,あっせんに当たっては,特別事情判明孤児からは,特別身元引受人を承諾するとともに,特別身元引受人が肉親に代わって帰国手続を行うことを承諾する旨の承諾書,並びに帰国後,肉親とみだりに紛争を起こさないこと,あっせんした特別身元引受人の近隣に定住することに異存ないこと及び特別身元引受人の指導助言を受けて早期自立のための努力を継続することの確約書を,肉親からは,特別事情判明孤児が特別身元引受人の行う帰国手続により,永住帰国することに異存がない旨の確認書を,それぞれ提出させるものとされていた。特別事情判明孤児は,帰国後,定着促進センターに入所させるものとされ,その身元引受期間は,特別事情判明孤児世帯が定着促進センターを退所した日から3年以内とされていた(甲総83,乙総13,14,92)。 (ウ) 制度の運用等身元引受人及び特別身元引受人(以下,両者をあわせて「身元引受a人等」という)の資格等。 身元引受人は「身元未判明帰国孤児世帯の置かれている立場に理,解を有し、かつ、社会的信望が厚く、これらの者が日本社会に早期に定着するための指導に熱意をもつてあたることができる者であること」がその資格とされ(甲総83,乙総13,92,特別身元引受)人は「特別事情判明孤児世帯及び肉親の置かれている立場に理解を,有し、かつ、社会的信望が厚く,特別事情判明孤児世帯が帰国した場合、日本社会に早期に定着するための指導に熱意をもってあたることができる者であること」がその資格とされた(乙総14。 )昭和60 ,有し、かつ、社会的信望が厚く,特別事情判明孤児世帯が帰国した場合、日本社会に早期に定着するための指導に熱意をもってあたることができる者であること」がその資格とされた(乙総14。 )昭和60年11月からは,法人も身元引受人登録の対象とされ,平成元年度からは,ボランティア等の任意団体も身元引受人登録の対象とされた(乙総2の2,15。 p422-423)なお,平成元年度以降,身元引受人が体験発表,グループ討議等を行う身元引受人会議が,厚生省の主催で毎年度開催されていた(乙総93ないし95,弁論の全趣旨。 )身元引受人制度と居住地の決定b身元引受人等のあっせんを受けた孤児は,帰国後,身元引受人等の,,近隣に居住することとされていたが孤児が帰国を希望する場合には事前に居住地の希望を聴取し,居住予定地の決定を経た後,当該居住予定地に登録された身元引受人等と面談をし,孤児本人の了解を得た上で身元引受人等をあっせんするとされており(乙総98,99,)昭和61年度からは,孤児本人の希望に応じ,居住地訪問も行われていた(乙総100,弁論の全趣旨。 )孤児の居住地の希望は大都市に集中していたが,孤児を受け入れる住宅,援助者,自治体等の負担の均衡を図る一方,長期的に日本への適応を図るために帰国者同士の交流だけに陥ったり逆に帰国者が点在したりしないようにという専門家の指摘もあったため,居住地決定に当たっては,適度の集中,適度の分散という考えの下,各都道府県の中規模都市に適度に分散居住する方針が採られていた(乙総2の2。 p425)身元引受人制度と特別身元引受人制度との一本化c特別身元引受人が行うこととされていた特別事情判明孤児世帯に係,,,る帰国手続については平成6年1月以降国が直接行うこととなり身元引受人と特別身元引受 人制度と特別身元引受人制度との一本化c特別身元引受人が行うこととされていた特別事情判明孤児世帯に係,,,る帰国手続については平成6年1月以降国が直接行うこととなり身元引受人と特別身元引受人の役割等が同様になったが,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(後記5( )ア)が平成6年10月1日から施行されたこと等もあり, 厚生省は,平成7年2月1日「中国残留邦人等に対する身元引受人,制度の実施について」を発し,これまでの身元引受人制度と特別身元引受人制度とを一本化した新しい身元引受人制度が創設された(乙総2の2,15。 p424)なお,ボランティア団体等からは,身元引受人の個人的負担が大きすぎるという指摘があり(乙総2の2,また,孤児の精神的なp424)よりどころないし相談相手にとどめ,身元引受人に個人的責任を負わせないようにという提言も寄せられたことがあった(甲総87。 )身元引受人等の登録者数及びあっせん状況d平成14年12月末までの間,身元引受人等の登録者数は,700人から2279人の間で推移し,身元引受人のあっせん数は,29人から264人の間で推移した(乙総96。 )( ) 帰国旅費の国庫負担 ア永住帰国旅費の国庫負担(ア) 制度の内容引揚者に対しては,日中国交正常化前にも,前記2( )ア(ア)のとお aり,一定の要件の下で船運賃等が国庫負担とされていたところ,日本赤十字社に支給が委託されていた居住地から出港地までの旅費は,昭和48年4月1日「中国からの引揚者に対する出境地までの帰国旅費の支,給について(昭和48年3月28日付け援発第323号(甲総44,」)乙総106)により,国庫負担とされ(乙総2の2,日中航空協p52),,定に基づき日中 する出境地までの帰国旅費の支,給について(昭和48年3月28日付け援発第323号(甲総44,」)乙総106)により,国庫負担とされ(乙総2の2,日中航空協p52),,定に基づき日中間で航空機が相互に乗り入れるようになったことから昭和48年10月16日には「中国からの引揚者に対する帰国旅費の,国庫負担について(昭和48年10月16日付け援発第1052号)」(甲総45,乙総86)により,帰国のための航空運賃も国庫負担の対象とされ,従前の帰国旅費の国庫負担の取扱いが一本化された(乙総1,弁論の全趣旨。 p122)これらの制度は,前記2( )ア(ア)のとおり,当初,中国残留邦人本 a,,人及び同行する配偶者未成年の子等の扶養親族が対象とされていたが平成4年度には,身体等に障害を有する中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯も対象とされ,平成6年度には,65歳以上の高齢の中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯も対象とされた(なお,高齢の中国残留邦人の要件については,平成7年度には60歳以上に,平成9年度には55歳以上に,各々引き下げられた)。 (乙総2の2,弁論の全趣旨。 p418-419)(イ) 申請の手続,,,帰国旅費国庫負担の申請手続については当初引揚希望者の親族が引揚希望者の戸籍の謄本又は抄本(引揚希望者が元日本人の場合は除籍の謄本又は抄本)及び引揚希望者が帰国旅費を支弁できない旨の申立書(引揚希望者からの通信文の写し)を添付し,申請書を提出することとされていた(乙総86。 )その後,昭和59年3月17日に中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書が日中政府間で取り交わされた(前記( )イ(ア)参照)ことを 受け,昭和60年には身元未判明孤児の帰国が開始され,これ )その後,昭和59年3月17日に中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書が日中政府間で取り交わされた(前記( )イ(ア)参照)ことを 受け,昭和60年には身元未判明孤児の帰国が開始され,これを契機として,帰国旅費国庫負担の申請手続が改められた。すなわち,身元未判明孤児については,日本永住帰国希望等調査票及び日本永住帰国のための旅費申請書を,在中国日本大使館を通じて厚生省援護局に提出することとされ,身元未判明孤児以外については,帰国希望者が永住を目的として帰国を希望している旨の申立書,帰国希望者が帰国旅費を支弁できない旨の申立書(いずれも帰国希望者からの通信文の写しで可)等とともに,新たな離別を避けるために,中国に残る親族(親(養父母,配)偶者)がいる場合は帰国希望者が永住の目的で帰国することに中国に残る親族が同意している旨を明らかにする書面を,在日親族等が居住地の都道府県援護担当課に提出することとされた(乙総88)。 イ一時帰国旅費の国庫負担(乙総2の2,160,179)p435-436日本へ一時帰国を希望する者等に対しては「中国からの一時帰国者に,対する援護について(昭和48年10月31日付け援発第1130号)」(乙総160,179)に基づき,昭和48年から,中国の居住地と日本の落着先との間の往復旅費が国費負担されることとなった。 この制度は,当初,終戦後初めて一時帰国する者等が対象とされていたが,再び一時帰国したいという希望が多数寄せられるようになったため,昭和62年からは,前回の一時帰国後おおむね10年が経過した者等に対して再度の一時帰国費用の国費負担がなされるようになり,平成6年度には,前回の一時帰国から5年を,平成7年度からは,前回の一時帰国から1年を,各々経過すれば,一時帰国費用の国費負担がなされるこ に対して再度の一時帰国費用の国費負担がなされるようになり,平成6年度には,前回の一時帰国から5年を,平成7年度からは,前回の一時帰国から1年を,各々経過すれば,一時帰国費用の国費負担がなされることとなった。 また,この制度は,当初,墓参,親族訪問等の目的による一時帰国希望者を対象とし,一時帰国希望者の親族等を通じて手続を行うこととなっていたため,身元未判明孤児については対象外とされていたが,平成6年度からは,祖国訪問との位置付けで,身元未判明孤児についても一時帰国の旅費が国費で負担されることとなった。 ( ) 中国残留孤児の帰国状況等 ア中国残留孤児の帰国状況(甲総94,乙総83)日中間の国交が正常化された昭和47年9月29日から平成16年1月31日までの間に,永住帰国した中国残留孤児の数は,2472人(同伴家族とあわせて9025人,一時帰国した中国残留孤児の数は,104)8人(同伴家族とあわせて2066人)である。 永住帰国した中国残留孤児の数は,昭和50年度までは年1けたにとどまり,昭和51年度から昭和60年度までは毎年度2けたで推移したが,昭和61年度から平成3年度までにピークを迎え(同期間に永住帰国した中国残留日本人の数は合計1242人であり,同伴家族をあわせると合計4734人である,その後も平成10年度までは毎年度100人前後。)で推移したが,以後は減少傾向にある。 イ原告らの帰国状況(甲各1の31,2ないし11の各1,12及び13の各2,14ないし16の各1,17の2,18ないし23の各1,24の4,25ないし28の各1,29の3,30の10,31及び32の各,,,,,,, 33の434の135の236の1837の1238の239ないし46の各1,47の3,48ないし57の各1,5 の各1,29の3,30の10,31及び32の各,,,,,,, 33の434の135の236の1837の1238の239ないし46の各1,47の3,48ないし57の各1,58の7,59ないし61の各1,弁論の全趣旨)原告らは,昭和40年12月21日から平成15年3月13日の間に,それぞれ永住帰国しているが,日中国交正常化前に帰国した者は,前記3( )イのとおり,原告A3(原告番号11,原告A4(原告番号12)及 )び原告A25(原告番号57)であり,日中国交正常化前に日本にいる親族を通じるなどして厚生省等とやり取りしていた者は,下記(ア)ないし(エ)のとおり,原告A5(原告番号13,原告A12(原告番号29,原))告A15(原告番号35)及び原告A16(原告番号36)である。 (ア) 原告A5(原告番号13)について(甲各13の2,乙総172,弁論の全趣旨)原告A5は,昭和11年6月11日に出生後,昭和19年5月1日ころ,開拓団として実父母及び2人の弟とともに満州へ渡ったが,昭和2。 ,,0年4月に招集された実父は生別した終戦後実母が中国人と再婚し原告A5らも一緒に暮らしていたが,その後,原告A5は,中国人の養父母に引き取られ,昭和24年,養父母の息子の男性と結婚した。 実母は,昭和30年9月14日ころ,日本の親族に対し,帰国を希望する旨とともに原告A5が生存している旨通信しており,これを把握した広島県民生部労働部長は,昭和31年11月22日ころ,厚生省未帰還調査部長へその旨を伝えたが,原告A5から直接の通信はなかった。 その後,原告A5については,実母から日本の親族に宛てた昭和38年3月6日付けの通信で,6人の子の母となったことが伝えられ,広島県民生労働部長は,昭和38年4月13日ころ,厚生省援 通信はなかった。 その後,原告A5については,実母から日本の親族に宛てた昭和38年3月6日付けの通信で,6人の子の母となったことが伝えられ,広島県民生労働部長は,昭和38年4月13日ころ,厚生省援護局調査課長に対し,これを伝えていた。実母は,昭和39年6月5日ころまでには,末弟と日本へ帰国したが,原告A5は,実母に対し,昭和39年6月5日ころ,他の兄弟も帰国するので一緒に里帰りしたいと,昭和40年11月1日ころには,弟が帰国したと思うので,みんなが働くようになったら一度里帰りしたいと,それぞれ伝えていたところ,昭和41年11月2日ころには,Fから広島県職員へ宛てた通信に同封された手紙で,末子を連れてFと一緒に里帰りをしたいので送金・手続をしてほしいとも伝えていた。かかる経緯については,広島県民生労働部長から,厚生省援護局調査課長等に通報されていたが,実母を通じて帰国証明書を受領した原告A5は,昭和42年7月3日ころ,広島県民生労働部課長に対し,その旨を伝える一方,実母に対し,里帰りをすると中国には帰国しないと家族が思っているので,実母から訳を書いた手紙を出してほしいと伝えており,昭和42年8月28日ころの手紙には,日本への帰国はたやすいが中国の方が再び帰らせてくれるかが心配であるなどと記載していた。 原告A5は,その後も何度か一度里帰りしたい旨の手紙を実母に宛てて送付していたが,昭和47年11月19日ころ,中国公安局の職員から,希望が実現する日も近いので,早々に里帰りの手続を再び採るようにと言われたことを受け,昭和47年11月23日ころの手紙で,実母にその旨連絡して一時帰国の手続を進めたところ,昭和49年5月7日ころ,一時帰国し,いったん中国へ戻った後,昭和55年9月23日ころ,永住帰国した。 (イ) 原告A12(原告番号29) 手紙で,実母にその旨連絡して一時帰国の手続を進めたところ,昭和49年5月7日ころ,一時帰国し,いったん中国へ戻った後,昭和55年9月23日ころ,永住帰国した。 (イ) 原告A12(原告番号29)について(甲各29の1ないし5,乙各29の1・2,弁論の全趣旨)原告A12は,昭和17年5月18日に出生後,昭和17年11月ころ,実父母及び兄とともに,安佐開拓団として満州へ渡ったところ,昭和20年7月14日には,実父が病死し,昭和20年8月のソ連軍の攻撃で,実母及び兄と離れ離れとなった。その後,複数の中国人宅を転々とした原告A12は,昭和22年2月,兄を育てていた中国人の養子として引き取られた(甲各29の3,弁論の全趣旨)。 この兄は,昭和29年2月11日ころ,日本の留守宅へ母とともに残留している旨の手紙を送っていたところ,昭和32年4月ころには,みんな無事で暮らしているとの手紙を,昭和35年5月ころには,原告A12が足を手術したが治りきらないので家で休んでいるとの手紙を,それぞれ日本の留守宅宛てに送っていたが,帰国したいとの意思は表明されていなかった。後二者については,昭和32年11月ころ及び昭和36年1月ころ,広島県を通じて厚生省引揚援護局長へ提供されたが,厚生省援護局長は,昭和37年10月5日,原告A12及びその実の母と兄を自己の意思により帰還しないと認められる者と認定した(甲各2。 9の2・4・5)原告A12は,昭和38年7月ころ,調査課職員に対し,昭和38年に結婚した中国人の妻と日本へ帰国したいので,帰国旅費,帰国後の生活の世話,医療等について知らせてほしい旨の手紙を送っており,昭和38年8月28日,これが調査課へ届いたところ,昭和40年10月15日に帰国した者と思しき資料提供者から,昭和41年4月5日には,原告A12が 医療等について知らせてほしい旨の手紙を送っており,昭和38年8月28日,これが調査課へ届いたところ,昭和40年10月15日に帰国した者と思しき資料提供者から,昭和41年4月5日には,原告A12が永住帰国を希望している旨も伝えられていた(甲各29の1・4・5。 )国交正常化後になって,原告A12は,長い間病気で,快復すれば一緒に帰国すると話していた実母が昭和51年5月2日に死亡したため,その親族宛てに,墓参のために帰国したい旨を伝え,その親族が一時帰国旅費の国庫負担を申請したところ,原告A12は,在北京日本国大使館が発行した旅券で,昭和52年8月23日から昭和53年1月16日までの間,一時帰国をした。その後,永住帰国手続のために,昭和62年9月14日から昭和62年12月10日までの間,自費で一時帰国した上,昭和62年10月12日,永住帰国旅費の国庫負担を申請したところ,厚生省援護局から旅費の支給を受け,昭和63年7月6日,その妻及び4人の子とともに,永住帰国した(甲各29の1・3,乙各2。 9の1・2,弁論の全趣旨)(ウ) 原告A15(原告番号35)について(甲各35の2,原告A15,弁論の全趣旨)原告A15は,昭和8年12月7日に出生後,昭和20年4月ころ,高田開拓団として,実父G1,実母G2,姉G3,兄G4,弟G5,弟G6,弟G7及び妹G8とともに満州に渡ったが,終戦後間もなく,現,。 ,地人から襲撃を受けるなどし高田開拓団の者らと避難した妹G8は昭和20年11月,中国人に養女に出され,その後,原告A15の家族は,中国人の家に各々住み込みで働くなどしていたが,弟G5が昭和20年11月に,実母G2が昭和21年4月に,姉G3が昭和21年5月に,それぞれ病死した。実父G1は,昭和21年6月,兄G4,弟G6及び弟G7を連れて 各々住み込みで働くなどしていたが,弟G5が昭和20年11月に,実母G2が昭和21年4月に,姉G3が昭和21年5月に,それぞれ病死した。実父G1は,昭和21年6月,兄G4,弟G6及び弟G7を連れて帰国したところ,病気で帰国が無理であった原告A15は,中国人に預けられ,昭和22年3月に,徳惠県●郷●村●屯にあるH家の養女となり,昭和24年,Iと婚姻した。なお,実父G1は昭和21年6月に帰国した直後に,兄G4は昭和24年4月に,それぞれ死亡した(甲総121の2,甲総C2)。 原告A15は,昭和28年ころ,日本へ手紙が出せる旨を原告A16から聞き,原告A16の代筆により,郷里の同級生Jに手紙を出したところ,そのつてで原告A15の生存が東京在住の叔父Kの知れるところとなり,また,福岡在住の叔父Lの下に弟G7がいることも明らかになり,原告A15は,弟G7及び叔父らと手紙をやり取りするようになった。原告A15は,この手紙に自らの住所を記していた(甲各35の。 7・8)弟G7は,昭和34年4月21日,福岡県民生部世話課に対し,昭和29年4月ころに原告A15から叔父Lへ送られてきた手紙を添付し,原告A15の生存の事実,終戦時の原告A15の住所等を記載した「未引揚についての届」を提出した。昭和34年5月28日,厚生省引揚援護局長は,広島県知事に対し,この手紙で原告A15の居住地が判明したとして「未帰還者)新把握」との決定を通知し,昭和34年7月,(ころ,広島県民生労働部長は,福岡県民生部援護課長に対し,この通知を受けた旨連絡した(甲各35の1・8ないし10。 )他方,原告A16は,昭和39年7月ころ,Qに対し「この近くの,A15ちゃんも五人の子供がいる」等と記した手紙を送っていたが,昭和38年1月21日ころに弟G7が東京都から促されてした現 10。 )他方,原告A16は,昭和39年7月ころ,Qに対し「この近くの,A15ちゃんも五人の子供がいる」等と記した手紙を送っていたが,昭和38年1月21日ころに弟G7が東京都から促されてした現地通信の回答がなかったこともあり,昭和40年1月1日ころには,帰国の意思については不明であるが,上記手紙によれば5人の子がいるので,原告A15に帰国の意思はないものと思われるとされていた。なお,広島県民生労働部長は,昭和40年1月8日,厚生省援護局調査課長に,この手紙の写しを送付した(甲各35の11ないし13)。 原告A15は,昭和48年10月11日ころ,弟G7宛てに「一度で」,も良いから祖国の皆様と相ってみたいので援助して下さい等と連絡し昭和48年10月15日ころには,埼玉県社会党県会議員に対し「私,は永久帰国をするには母子丙離にも成る。これはむづかしい事故○○を一,二人連れて一度でも良いから切っと里帰へりして見たいと思ふ希望です」等と書いた手紙を送っていた(甲各35の8,乙各35の1,。 弁論の全趣旨)が,昭和50年に一時帰国した原告A16から,被告の負担で肉親捜しのため日本へ行くことができることを聞いたため,弟G,,。 7に手続をしてもらい昭和54年6月から約5か月間一時帰国したその後,原告A15は,昭和63年ころに原告A16及びその妹のN2が永住帰国した旨知ったが,被告に帰国費用を負担してもらうには2,3年待たなければならないと聞いていたため,平成2年10月,N2の息子のMに帰国費用を負担してもらい,永住帰国した。 (エ) 原告A16(原告番号36)について(甲各36の17・18,原告A16,弁論の全趣旨)原告A16は,昭和5年3月19日に出生後,昭和20年4月ころ,先に高田開拓団として満州へ渡っていた実母,継父N1, A16(原告番号36)について(甲各36の17・18,原告A16,弁論の全趣旨)原告A16は,昭和5年3月19日に出生後,昭和20年4月ころ,先に高田開拓団として満州へ渡っていた実母,継父N1,妹N2及び弟N3と一緒に生活するようになったが,終戦後間もなく,暴徒から襲撃されるなどしたため,高田開拓団の者らと避難したところ,周りの者らが病気,衰弱等で次々と死亡する中,原告A16らは,生き残るため中国人の家庭で生活するようになった。その後,原告A16は,昭和21年12月ころ,中国人男性と結婚し,家族とは別に暮らすようになったが,別の中国人と結婚した実母が昭和22年5月に亡くなったため,弟N3は原告A16の夫が引き取り,妹N2は原告A16の夫の親戚に引き取られた(甲総121の2,甲総C2)。 ,,,,その後原告A16は昭和24年徳惠県●公社●村へ転居したが昭和28年初め,高田開拓団に所属していたO(甲各35の3,36の4)と●村で偶然に会い,日本にいる者と手紙のやり取りができると知って,昭和28年6月14日ころ,上記Oに手紙を送った(甲各36の4)ところ,父方従兄弟のP,異母兄のQ及び母方叔父のRとも手紙をやり取りするようになり,同日付けの手紙では「帰国の意思なし。百,姓生活は豊かである。子供を連れてかえさない。子供を連れてかえせば帰りたい(甲各36の4,昭和29年8月付けの手紙では「夫が。」),家の前の女の人と恋愛しているので内地に帰りたい(甲各36の4。」・5)等と伝えていた。上記Qらは,これらを受け,広島県に対し,原告A16が●村に住んでいること等を伝えて,その早期帰国を求めていたところ,厚生省未帰還調査部長は,昭和30年10月7日,広島県民生労働部を介して,原告A16からの手紙の写しを入手していた( し,原告A16が●村に住んでいること等を伝えて,その早期帰国を求めていたところ,厚生省未帰還調査部長は,昭和30年10月7日,広島県民生労働部を介して,原告A16からの手紙の写しを入手していた(甲各36の2・3。 )昭和29年8月以降は,原告A16からも上記Qらからも通信ができなくなった(甲各36の4・5。原告A16は,昭和29年12月か)ら半年間,●村から鶴岡市へ移動した後,再び●村へ戻ったところ,被告は,その後の昭和32年11月13日ころ,原告A16が鶴岡市に滞在していた際の住所を把握していた(甲各36の4。 )上記Qからの手紙が昭和36年初めころに妹N2の下へ届いたことを,,契機に上記Qと再び手紙のやり取りをするようになった原告A16は昭和36年4月5日付けの手紙で「…便りにて聞けば里帰へりなさるんが有るそうですが,私達こんな生活には,一度帰へるのも不容易です。 …お金は,ないのです。私は一年余ったお金を貯金していつかは帰って行こうと思ってゐます」等と通信し,厚生省援護局調査課長は,昭和37年12月18日,広島県民生労働部長から,この手紙の写しを入手していた(甲各36の6・7)ところ,原告A16については,昭和38年2月1日,自己の意志により帰還しないと認められる者として認定の見込みとされた(甲各36の4。その後,原告A16は,昭和38年)9月11日付けの手紙で「N2ちゃん達と言った事も有る。お金を留,めて内地へ帰って見よう…。これも思ふだけたらふ。一年働いて一年用。 。」どうしてためる事が出きるのでせう何もあきらめる外は有りません等と伝えており,厚生省援護局調査課長は,昭和38年10月18日,広島県民生労働部長から,この手紙の写しを入手していたところ(甲各36の8・9,原告A16から上記Qに宛てた昭和39 る外は有りません等と伝えており,厚生省援護局調査課長は,昭和38年10月18日,広島県民生労働部長から,この手紙の写しを入手していたところ(甲各36の8・9,原告A16から上記Qに宛てた昭和39年7月不詳日)付けの手紙には「兄さんからの手紙で帰国の手続もよくわかった「日,」本に里帰りするにも子供を連れて帰ってはいけない,何が何でも子供を連れてかへるな行くなと云うので日本に帰国する意思がなくなった」。 等と記されており,原告A16については,昭和40年2月18日,留守家族の意向により調査の対象外とすることも可とされていた(甲36の4,乙各36の1。その後,昭和40年3月29日ころに広島県職)員Sからの手紙を受け取った原告A16は,昭和40年10月18日付けで「繪ハガキを見れば本当に美しい広島に成りましたね。私達一時,も早く帰って行きたい。あのきれいな可愛い祖国へ帰って行きたいと思ふ事はたびたびありますが,…子供達の為に,つまらながらもこちらで生活してゐます。…こんな遠い路旅費も有りません。一年間働いて収入のお金は一年間に用して,どうして旅行のお金が貯められる事でしょうか。私達姉妹は残念ながらもあきらめてゐます」等と記した手紙を返。 信し,広島県民生労働部長は,昭和40年11月26日,厚生省援護局調査課長に対し,この手紙の写しを送付していたところ,上記Qに意向等を確認すると,原告A16に永久帰国してほしい,できなければ一時,,帰国でもよい対象外の措置はしてほしくないという回答であったため原告A16を調査の対象外とすることは保留となった(甲各36の4・10・11・13。昭和41年10月29日,広島県援護課職員は,),,,帰国の意思を再確認するため原告A16に通信したが原告A16は上記Qに対し,昭和41年3月17 となった(甲各36の4・10・11・13。昭和41年10月29日,広島県援護課職員は,),,,帰国の意思を再確認するため原告A16に通信したが原告A16は上記Qに対し,昭和41年3月17日付けで「いろいろ皆んなと相談,したが問題が起きて帰れない」等と伝えており,上記Qは,昭和41。 年12月19日,被告の調査に対し,原告A16の里帰りを希望しているが,本人の意思に任せる,上記Qが里帰りする費用を負担することはできないと回答していた。この後,今後の対策として現地通信を繰り返し行うこととされ,原告A16は,上記Qとはもとより,広島県職員とも通信を繰り返していたところ,このやり取りの中で,昭和44年3月には再び残留希望が示されていた(甲各36の4)。 原告A16は,昭和48年ころ,一時帰国できること,旅費は被告が負担してくれること及び子供も一緒に連れて帰ることができることを上記Qの手紙で知り,昭和48年12月,上記Qに依頼して,一時帰国の手続を採ったところ,昭和50年11月20日から半年間,一時帰国した。その後,原告A16は,妹N2が永住帰国するとの話を聞き,上記Rに身元保証人になってもらい,昭和63年6月,永住帰国した(甲。 各36の4) 中国残留孤児に対する公的支援策の状況( ) 中国残留日本人孤児問題懇談会の報告書が提出されるまでの公的支援策 ア帰還手当等の拡充,,,引揚者に対しては日中国交正常化前から前記2( )ア(ア) のとおり b帰還手当が支給されていたが,その額は1人当たり1万円で据え置かれていたところ,日中国交正常化後の昭和48年度から昭和51年度までに,毎年度1万円増額されて1人当たり5万円となり,昭和53年度には1人当たり10万円に増額され,さらに昭和54年度からは消費者物価の上昇 たところ,日中国交正常化後の昭和48年度から昭和51年度までに,毎年度1万円増額されて1人当たり5万円となり,昭和53年度には1人当たり10万円に増額され,さらに昭和54年度からは消費者物価の上昇に応じて増額されるようになった(乙総2の2,4,41。 p58p87-88)昭和62年度には「自立支度金」に改称され,また,少人数の世帯で,,,あっても家財をそろえる必要は変わらないため少人数の世帯に対しては従前の個人単位による支給額に一定額を加えて支給されるようになった(乙総2,5,6。 p419)イ住居に関する支援(乙総2の2・,35,36)p60 435住宅に困窮する低額所得者に対しては,公営住宅法に基づく財政措置が採られ,公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力し,低廉な家賃の住宅が供給されているが,中国からの引揚者については,当初から,入居者の選考及び決定において,優先的に取り扱うこととされており,また,中国残留日本人孤児問題懇談会による昭和60年7月22日付けの「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方についてと題する報告書後」(記( )ア(イ) (乙総2の2,184)においては,優先入居措置 p668-671)を徹底するよう一層の指導が必要であるとされていたが,優先入居の募集選考時期,地域要件又は当該住宅に空きがない等の理由から,当面はやむを得ず民間住宅に入居し,その後,公営住宅を申し込む場合が少なくなかった。 かかる状況に加え,後記( )ア(ア)のとおり,平成6年10月1日から, 中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律が施行されたこと等により,平成7年8月1日から,国費で永住帰国,,した中国残留邦人等のうち当面やむを得ず民間住宅に入居した者に対 留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律が施行されたこと等により,平成7年8月1日から,国費で永住帰国,,した中国残留邦人等のうち当面やむを得ず民間住宅に入居した者に対し国が礼金等の費用を(平成8年4月1日からは敷金の一部も)自立支度金の補てんとして支給することとされた。 ウ帰国時オリエンテーションの実施(乙総7,191)昭和54年4月1日からは,中国からの引揚者等に対し,帰国した際に1泊させて,専門講師により,帰国後の援護の内容,相談に行くべき行政機関の窓口等帰国後すぐに必要とする事項についてオリエンテーションが行われるようになった。 エ語学教材の支給(乙総37,38)昭和54年1月26日付け「中国からの引揚者に対する語学教材の支給について」に基づき,中国残留孤児等に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,録音テープ及びテキストが支給されるようになった。 オ引揚者生活指導員等(ア) 長期にわたり海外にあった中国残留孤児等及びその家族が習慣等の相違から通常の社会生活を営むのに困難を来しているなどの実情にかんがみ,昭和52年7月1日以降,引揚者生活指導員(その後,昭和62年「」。 ,「」4月1日には自立指導員に名称が変更された以下単に指導員という)が派遣され,その生活に関する諸問題の相談に応じ,必要な。 助言,指導等が行われることとなった(乙総22ないし24。 )指導員の業務内容は,帰国孤児等の日常生活,言語,就職等の諸問題に関する相談に応じ,必要な助言,指導を行うとともに,市区町村,福祉事務所,公共職業安定所等の公的機関と緊密な連絡を保ち,必要に応じて帰国孤児等をこれらの機関の窓口に同行して,仲介するなどすること,帰国孤児等に対する日本語の指導,日本語教室 ともに,市区町村,福祉事務所,公共職業安定所等の公的機関と緊密な連絡を保ち,必要に応じて帰国孤児等をこれらの機関の窓口に同行して,仲介するなどすること,帰国孤児等に対する日本語の指導,日本語教室等日本語補講についての相談及び手続の介助を行うこと(昭和61年度以降,職業訓練施),,設で受講している帰国孤児等の諸問題に関する相談に応じ必要な助言指導を行うとともに,円滑かつ効果的な職業訓練が行われるよう援護措置を講じもって技能習得後の雇用安定が図られるよう配慮すること昭,(和62年度以降)とされた(乙総2,23ないし25。かかp427-428)る業務を行う指導員は,帰国孤児等に深い関心と理解を持ち,帰国孤児等の定着自立を促進させる業務に積極的に協力すると認められる民間の篤志家で,中国語がなるべく理解できる者(日本語指導を担当する指導員については,昭和62年4月1日以降,必ずしも中国語が理解できることを必要としないとされた)のうちから,指導員としてふさわしい。 者を選任することとされていた(乙総22ないし24。 )(イ) 指導員の派遣期間及び回数は,当初,1世帯につき,1年間で24回(原則として月2回)であったが,中国残留日本人孤児問題懇談会が,昭和60年7月22日付けの「中国残留日本人孤児に対する今後の施策」()(,の在り方についてと題する報告書後記( )ア(イ)乙総2の2 p668-671184)において,孤児等に対する生活指導の強化を図るため,生活指,,導員の派遣回数の増加等を求めたこともあり昭和62年4月1日から2年間で96回以内(1年目84日以内,2年目12日以内)とされ,昭和63年度には,3年間で108回以内(1年目84日以内,2年目12日以内,3年目12日以内)とされ,平成6年度には,6 月1日から2年間で96回以内(1年目84日以内,2年目12日以内)とされ,昭和63年度には,3年間で108回以内(1年目84日以内,2年目12日以内,3年目12日以内)とされ,平成6年度には,65歳以上の帰国者を帰国後扶養するためにその子が同伴して帰国した場合,この帰国者世帯に対する1年目の派遣日数を120日以内とすることとされ,平成11年4月1日からは,都道府県知事が特に必要と認める場合には2年目の派遣日数を72日以内とすることとされた(乙総2,23,24。 p428-429)( ) 中国残留日本人孤児問題懇談会の2つの報告書とこれらを受けた公的支援 策ア中国残留日本人孤児問題懇談会の2つの報告書(ア) 「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について(昭和57年」8月26日付け(乙総2の2・,90))p415 663-668p105-()昭和56年3月から訪日調査が開始された前記4( )イ(ア)及び(ウ) aことで,関係各方面から様々な意見等が寄せられるなど,中国残留孤児問題に対する国民の関心が高まったところ,かような状況を踏まえ,広く有識者の意見を聴いて具体的な施策を検討する必要があるという認識から,昭和57年3月,日中友好手をつなぐ会会長等の中国残留孤児問題に携わる民間団体関係者もメンバーとする中国残留日本人孤児問題懇談会が設けられた。 その後,中国残留日本人孤児問題懇談会は,数回の議論を重ね,昭和57年8月26日付けで「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策に」。 ,ついてと題する報告書を厚生大臣に提出したこの報告書においては「1孤児問題についての基本的考え方」として「孤児問題を考える,に当たっては、孤児がこのように過去の不幸な戦争のなかで肉親と離別し、昭和47年の日中国交正常 生大臣に提出したこの報告書においては「1孤児問題についての基本的考え方」として「孤児問題を考える,に当たっては、孤児がこのように過去の不幸な戦争のなかで肉親と離別し、昭和47年の日中国交正常化までの長い間、自分の身元を明らかにしたいと思いながらその方法さえないまま、中国で暮らしてきたということを忘れてはならない「孤児が自分の身元を明らかにしたいと願。」うことは、人間の本性に立った自然な気持ちであり、彼らが孤児となった事情を考えれば、身元調査の依頼を受けた日本政府が全力を挙げて肉親捜しを行うべきことは当然である。また、孤児がその家族とともに日本に帰国することを望む場合には、政府、国民が一体となって、その受入れ、日本社会への定着のための援助を行う必要があることはいうまでもない」とされつつ「肉親捜しを通じて、日中両国間の交流が深ま。 ,っているが、社会体制が異っていることもあり、中国にいる孤児たちの間に、日本社会がバラ色で、日本に帰ってさえくれば幸せになれるかのような、事実と相違した情報も流布されているようである。日本は自由経済体制のもとで経済発展をしてきたが、それだけに、自分の生活は自分の手で築いていかなければならず、既に中年に達している孤児が、言葉や社会習慣の異る日本で職を得て自立していくことは決して容易ではない。政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め、地方公共団体やボランティア団体が新たに地域住民となった孤児たちのためにあたたかい援助を行うことが必要なことはいうまでもないが、それは側面的な援助であって、最終的には、孤児自らが努力して困難を克服していかなければならない。日本に帰国したほうが幸せか、中国に留まったほうが幸せかは、そのような日本社会の実情をよく知ったうえで、孤児自身がよく考えて判断することである 孤児自らが努力して困難を克服していかなければならない。日本に帰国したほうが幸せか、中国に留まったほうが幸せかは、そのような日本社会の実情をよく知ったうえで、孤児自身がよく考えて判断することであるが、日本国民も孤児の判断を誤らせないように、日本社会の実情を孤児に正しく理解させるよう努力しなければならない。孤児も、帰国を決意する以上は、多くの困難を乗り越えていくだけの覚悟が必要であろう」ともされており,かかる考え方。 に基づき「2肉親捜しの計画的推進「3養父母等の扶養「4,」,」,養父母や中国社会に対する感謝,帰国者センターの設置等の「5」帰国後の定着化対策 身元の判明しない孤児の受入れ及び 」,「」,「民間援護活動の推進」に関する諸々の提言がなされていた。 (イ) 「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について(昭和」60年7月22日付け(甲総140,乙総2の2・,18)p417 668-6714),,中国残留日本人孤児問題懇談会は前記(ア)の報告書が提出された後しばらくの間,開催されなかったが,昭和60年度及び昭和61年度にそれぞれ400人及び700人の訪日調査が予定される状況の中,帰国希望者の大量受入れが見込まれる事態に対処すべく,昭和60年4月に再開された。 中国残留日本人孤児問題懇談会は,主に帰国後の定着自立促進対策を中心に討議を行った後,昭和60年7月22日付けで「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書を厚生大臣に提出した。この報告書においては「1孤児問題について,の基本的考え方」として「孤児問題を考えるに当たっては、孤児が,過去の不幸な戦争の犠牲者であり、終戦前後の混乱のなかで、肉親と離別し、昭和47年の日中国交正常化までの長い間、 孤児問題について,の基本的考え方」として「孤児問題を考えるに当たっては、孤児が,過去の不幸な戦争の犠牲者であり、終戦前後の混乱のなかで、肉親と離別し、昭和47年の日中国交正常化までの長い間、自分の身元を明らかにしたいと思いながらも、その方法さえないまま中国で暮らしてきたということを忘れてはならない「肉親捜しの依頼があった孤児」については、日本政府が全力を挙げて肉親捜しを行うとともに、日本、への帰国を望む孤児については政府及び国民が一体となって受け入れ日本社会への定着のための援助を行う必要がある「中国政府のこの」問題へのあたたかい配慮と、孤児を育て見守ってくれた中国の養父母及び中国社会に対する感謝の気持ちを忘れてはならない「帰国した」孤児が定着し、自立するためには、孤児自らが努力して困難を克服していかなければならないことはもちろんであるが、政府、地方公共団体は言葉と文化の異なる日本に帰国した彼等の直面する様々の困難を少しでも軽減するために、物心両面にわたる施策を積極的に推進する必要がある「孤児の肉親も、言葉と文化の違いに起因する様々の摩」擦を忍耐強く克服して、孤児と共に問題を乗り越えていくことが必要である」などとされ,かかる考え方に基づき「2肉親捜しの早期,完了「3養父母等に対する扶養費の支払い等,中国帰国孤児定」,」着促進センターの拡充及び指導内容の充実,並びに日本語指導及び生活指導の強化,住宅対策,就労対策等の落ち着き先における施策の充実といった「4定着自立促進対策の総合的推進,並びに戸籍回復」等の促進,老後の生活保障等の「5その他」に関して諸々の提言がなされていた。 イ養父母等への扶養費の支給昭和56年3月から行われた訪日調査により,身元判明後,日本へ永住帰国する孤児が増加したが,中国国 ,老後の生活保障等の「5その他」に関して諸々の提言がなされていた。 イ養父母等への扶養費の支給昭和56年3月から行われた訪日調査により,身元判明後,日本へ永住帰国する孤児が増加したが,中国国内において養父母等が孤児の帰国した後の生活に不安を抱いていることが大きな社会問題となり,中国政府は,日本政府に対し,爾後孤児問題解決へ協力する前提として,孤児が日本へ永住帰国しても,養父母等に対して約束した扶養を確実に履行することを何らかの形で保証するように求めていたところ,中国残留日本人孤児問題懇談会による昭和57年8月26日付け「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について(前記ア(ア))においても,孤児が自立できるまでの」間,養父母等の扶養に必要な資金を公的資金により低利で貸し付けるとともに,確実に中国の養父母等に送金するため,送金の代行を行う制度を設けることが適当であるとされていた(乙総2の2・・,90,p437 663 665110。 )これを受け,昭和58年4月1日,中国残留孤児等の帰国援護,定着援護等を行うことにより,これらの者の自立の促進及び福祉の向上を図ることを目的とし,中国残留孤児の養父母等の扶養費支払の援助及び扶養費の送金に関する事業等を行う財団法人中国残留孤児援護基金が設立され(乙総161,昭和58年4月8日付け「中国残留孤児の養父母の扶養に関)する援助等について」と題する閣議了解においては,養父母の扶養費の支払を国費(扶養費の2分の1)及び民間の寄付金により援助する旨の日中両国政府事務レベル協議における基本的合意を受けて,財団法人中国残留(,孤児援護基金との密接な連携が不可欠であるとされたところ甲総B50乙総2の2,111,昭和59年3月17日付け「中国残留日p671-672)本人孤児問 的合意を受けて,財団法人中国残留(,孤児援護基金との密接な連携が不可欠であるとされたところ甲総B50乙総2の2,111,昭和59年3月17日付け「中国残留日p671-672)本人孤児問題の解決に関する日中間の口上書」により,日本政府は,孤児の日本国への永住により生ずる家庭問題を責任を持って適切に解決することが確認され,日本国に永住した孤児が中国に残る養父母等に対して負担すべき扶養費の2分の1を援助するなどの措置を採ることとされた(甲総B50,乙総2の2,87。 p672)その後,扶養費の額,支払期間,支払方法等の細目について中国政府との協議がまとまらず,中国残留日本人孤児問題懇談会からは,昭和60年7月22日付け「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書(前記ア(イ))において,早急に中国政府との協議をまとめ,1日も早く支払を開始するように求められていたが(乙総2の2,184,昭和61年5月9日,かかる細目について確認したp668-671)「中国残留孤児の養父母等に対する扶養料に関する日中間の口上書」が日中間で取り交わされた。これを受け,帰国孤児1人当たり月額60元の扶養費(支払期間15年)が,財団法人中国残留孤児援護基金を通じた送金により支払われるようになったところ(乙総2の2・,平成16p672 438)年3月10日までに支払われた額の合計は8億5659万1613円国,(庫負担分及び財団法人中国残留孤児援護基金負担分が2分の1ずつ)である(乙総112。 )ウ中国帰国孤児定着促進センター(平成6年4月に「中国帰国者定着促進センター」に名称変更。定着促進センター)(ア) 定着促進センターが設立された経緯等帰国した孤児とその家族が日本の社会で定着自立していく上で日本の生 進センター(平成6年4月に「中国帰国者定着促進センター」に名称変更。定着促進センター)(ア) 定着促進センターが設立された経緯等帰国した孤児とその家族が日本の社会で定着自立していく上で日本の生活習慣や日本語を習得する訓練施設の設置要請が各方面から寄せられるようになったところ,このような社会の要請や,中国残留日本人孤児問題懇談会による昭和57年8月26日付け「中国残留日本人孤児問題」(),,の早期解決の方策について前記ア(ア)を受け昭和59年2月1日(,,埼玉県所沢市に定着促進センターが開設された乙総2の2 p4209。 )定着促進センターは,孤児の大量帰国に対処すべく,また,中国残留日本人孤児問題懇談会による昭和60年7月22日付け「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書(前記ア(イ))における提言を受け,昭和62年度には,北海道,福島県,愛知,(),県大阪府及び福岡県の5か所に新たに開設されたところ乙総10平成3年度には,孤児の帰国数が漸次減少したことにより,北海道,福島県及び愛知県の3か所が閉所されたが(乙総2の2,中国残留p683)邦人等の帰国者の増加が見込まれたため,平成6年度には,山形県及び長野県に定着促進センター(所沢)の分室が(乙総11,平成7年度)には,宮城県,岐阜県及び広島県の3か所に(乙総12,新たに開設)された(乙総2の2・。その後,帰国者数の減少に伴い,p420 682-683)順次閉所され,現在,埼玉県,大阪府及び福岡県の3か所で運営されているが,これらの定着促進センターは,財団法人中国残留孤児援護基金によって運営されていた(乙総161,弁論の全趣旨。 )なお,定着促進センターの入所数は,昭和58年度から平成15年度まで 営されているが,これらの定着促進センターは,財団法人中国残留孤児援護基金によって運営されていた(乙総161,弁論の全趣旨。 )なお,定着促進センターの入所数は,昭和58年度から平成15年度までの合計で,3039世帯1万1189人である(乙総91。 )(イ) 定着促進センターの業務内容等定着促進センターは,中国から帰国した中国残留孤児及びその同伴家族が日本の社会生活に早期に溶け込めるようにするため,帰国後直ちに一定期間入所させ,集中的に日本語教育を含めた生活指導を行うことを(),。 目的とし乙総9そのための下記ないしの業務が行われていたac定着促進センターの入所期間は入所の日より原則として120日間とされていた(乙総9,10)ところ,この期間は,合宿での集中学習は授業が終われば家族や仲間で小中国社会を作るだけで日本語の学習効果という点では不十分であり,早く日本人社会の間で生の日本語の交流を行う方が語学習得に適しているという日本語教育専門家の意見や,中国残留日本人孤児問題懇談会の昭和57年8月26日付け「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について(前記ア(ア))と題する報告書に」おいて「日本に帰国した孤児をあまりに長い間一般社会から遠ざけて,おくことは望ましくないので,標準的な入所期間は4か月程度に止めることが適当であろう」とされていたこと等によるものであった(乙総。 2の2・,90。 p430 667p121)日本語指導(乙総2の2)ap421年齢構成,日本語学習歴,学齢等を勘案して編成されたクラスにおいて,日本社会に定着する上で必要な初歩的な日常会話レベルの日本語指導が行われていた。 生活指導(乙総2の2)bp421日本社会の食文化や電気器具等の具体的な知識の習得,社会生活の場で において,日本社会に定着する上で必要な初歩的な日常会話レベルの日本語指導が行われていた。 生活指導(乙総2の2)bp421日本社会の食文化や電気器具等の具体的な知識の習得,社会生活の場での規則やマナー等,帰国者等が円滑に日本での生活に適応できるよう,日常生活,対人関係,制度・法律の分野に分けた上,買物や交通機関の利用等の実習を取り入れるなどして,個別の指導目標を定めて実施されていた。 その他の指導等(乙総2の2)cp421労働省の協力を得ながら,職業についての講話,公共職業安定所や職業訓練校の見学,個別の就職指導に加え,地場産業の見学や職場実習等が実施されるとともに,身元未判明孤児については,就籍手続の説明が実施されていた。 エ中国帰国者自立研修センター(自立研修センター)(ア) 自立研修センターが設置された経緯等定着促進センターへの入所期間が120日とされたのは,前記ウ(イ)のような考慮に基づくものであったが,定着促進センターの修了後の追跡調査等によると,若年層は4か月の研修を基礎として次第に日本語力が向上するが,中年層ではなかなか周囲の住民との交流も進まないことが明らかになり(乙総2の2,中国残留日本人孤児問題懇談会によp430)る昭和60年7月22日付け「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について(前記ア(イ))においても「今日の孤児をはじめと」,する中国帰国者は、日本語の習得、日本の社会の仕組や日本の生活習慣への理解等これまでの引揚者とは異なる課題を抱えている」旨指摘し,定着促進センター退所後の日本語指導及び生活指導の強化が求められていた(乙総2の2,184。 p668-671)他方,中国残留孤児問題全国協議会は,衆参両議院に対する昭和59年8月5日付けの請願において,自立に必要な 日本語指導及び生活指導の強化が求められていた(乙総2の2,184。 p668-671)他方,中国残留孤児問題全国協議会は,衆参両議院に対する昭和59年8月5日付けの請願において,自立に必要な措置として日本語学校の創設を求め(甲総62,昭和60年7月29日には,厚生省援護局長)に対し,第二次センターの設置を求めており(甲総87,昭和62年)7月には,文部大臣及び内閣総理大臣に対し,定着促進センター退所後の帰国孤児等に対して更に自立定着の指導を行う第二次自立センターの新設とそのための予算計上を要請していた(甲総100,101。ま)た,日本弁護士連合会は,昭和59年10月20日付けの「中国残留邦人の帰還に関する決議」において「日本語教育については、本年から,埼玉県所沢市に開設された帰国者センターにおいて、わずか4か月程の教育を受けられるのみで、その他はボランティア等が建設した少数の日本語学校が存在するのみである「帰還した者らは地理的理由等から。」ほとんど大多数の者がこれを利用できない状態で「定着自立に必要な」言語等の基礎知識と就業のための技能取得等の基礎教育を受ける権利を確保すべきである」と指摘し(甲総95,98,東京弁護士会も,昭)和61年10月付けの「中国残留邦人に関する要望」において,主要都市に日本語学級を増設することを要望していた(甲総99。さらに,)昭和61年ころからは,民間のボランティア団体が神奈川県等において自立センターを設立し,帰国孤児等に対する継続的な日本語教育を行うといった動きもみられていた(甲総59の1・2,弁論の全趣旨。 )これらの流れを受け,厚生省は,昭和63年6月1日,主として定着促進センターを修了した帰国孤児等に対し,日本語の補充教育,地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就職相談・ の1・2,弁論の全趣旨。 )これらの流れを受け,厚生省は,昭和63年6月1日,主として定着促進センターを修了した帰国孤児等に対し,日本語の補充教育,地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就職相談・指導等を行うことにより,地域社会における定着自立の促進を図ることを目的として,自立研修センターを設置した(乙総16。 )自立研修センターは,当初,山形県,埼玉県,千葉県,東京都,神奈川県,長野県,愛知県,京都府,大阪府,兵庫県,広島県,高知県,福,(,岡県長崎県及び鹿児島県の15都府県に設置され乙総2の2p43017,平成7年度には,北海道,岩手県,福島県,東京都武蔵野及び)静岡県の5箇所にも設置された(乙総18)が,その後,帰国者数の減少に伴い平成11年には1か所高知県平成12年には3か所長,(),(崎県,静岡県及び兵庫県,平成13年には1か所(岩手県,平成1))4年には3か所(東京都武蔵野,福島県及び鹿児島県)が閉所となり,現在は12か所で運営されている(弁論の全趣旨。 )(イ) 自立研修センターの業務内容等自立研修センターにおいては,帰国孤児等を対象とし,通所により,地域社会での生活において生じた諸問題について,相談に応じ,必要な指導を行う生活相談・指導が実施されるとともに,以下のような日本語指導,就労相談・指導,大学進学準備過程事業等が行われ,その研修期,(,,間は原則として8か月間ただしやむを得ない事情がある場合にはこの限りではない。また,で後述する日本語の再指導の指導時間につaいては,2年以内とされている)とされていた(乙総16,17,1。 9ないし21。 )日本語指導a日本語指導については,日本語の習得度合いに応じ,2ないし4つの教室に分けて行われ,1日2.5時間,1週 2年以内とされている)とされていた(乙総16,17,1。 9ないし21。 )日本語指導a日本語指導については,日本語の習得度合いに応じ,2ないし4つの教室に分けて行われ,1日2.5時間,1週12.5時間を基準とし,8か月で412時間のカリキュラムにより実施されており(乙総2の2,21,平成9年度からは,1週7時間を基準とし,2p431)年以内のカリキュラムにより,再指導も実施されるようになった。また,一部の自立研修センターにおいては,当初から,夜間又は休日にも授業が行われていたが(乙総134,再指導は,通所者の就労等)の妨げとならないよう夜間及び土・日曜日に実施されていた(乙総20,21。 )就労相談・指導(乙総2の2,16,17,20,21,16bp4316)就労相談・指導については,平成元年6月1日から,各自立研修センターに就労相談員が配置され,通所者の就職に関する相談に応じ,自立研修センター修了時までに就職できるよう個々の実情を踏まえた計画的な指導を行うとともに,必要に応じ,公共職業安定所,公共職業訓練施設等の見学を行い,これらの機関の利用について指導を行うこととされた。また,就労相談員は,地域の企業等に対して帰国者等の置かれている状況について説明し,職場の開拓を行うとともに,平成4年度からは,自立研修センター通所中に就労した帰国者等及び自立研修センター修了後1年以内に就労した帰国者等について,早期の離職を防ぎ安定した就労を促すため,帰国者等の就労する職場を訪問し,雇用する側に帰国者等の職業意識・慣習等を説明し認識を深めてもらうとともに,帰国者等の勤務状態を把握し指導を行うこととされた(就労安定化事業。さらに,帰国後5ヵ年未満の帰国者等で就労)していない者等に対しては,就労意欲の向上を図るため,日 し認識を深めてもらうとともに,帰国者等の勤務状態を把握し指導を行うこととされた(就労安定化事業。さらに,帰国後5ヵ年未満の帰国者等で就労)していない者等に対しては,就労意欲の向上を図るため,日本の雇用システム,職業能力の習得方法,職業選択の実態や中国との相違点等に関する講演,既に職業能力開発校を卒業し就職している帰国者等による体験の発表等の交流会,職業能力開発校等の見学等を行うこととされた(就職促進オリエンテーション事業。 )大学進学準備過程事業(乙総2の2,17,21,166)cp432平成元年6月1日から,日本と中国との学制の相違により,日本の大学への入学に必要な就学年限を満たしていない者に対し,10か所(千葉県,埼玉県,東京都,神奈川県,愛知県,京都府,大阪府,兵庫県,広島県及び福岡県)の自立研修センターにおいて,専任講師による一般科目の講義を行うこととし,文部省の告示により,定着促進センターにおける4か月の研修と自立研修センターにおける8か月の研修とを合わせて,大学へ入学するために必要な12年の就学年限を満たすこととされた。 その他(乙総2の2,16,17)dp431その他,地域住民と帰国孤児等の交流を図るため,地域住民が気軽に参加できる行事を企画・実施したり,地域の諸行事に通所者の積極的な参加を促したりし,就籍の相談,子女の就学についての情報の提供等を行ったりしている。 オ自立支援通訳派遣事業(乙総2の2,30ないし34)p432-433平成元年6月1日以降,帰国孤児等が落着先の地域社会の医療機関で受診する場合等に,医療機関の適切な受診を確保するとともに,関係行政機関での助言,指導及び援助を受けることを容易にするため,定着促進センター修了後(定着促進センターに入所しない者にあっては帰国後)3年以 る場合等に,医療機関の適切な受診を確保するとともに,関係行政機関での助言,指導及び援助を受けることを容易にするため,定着促進センター修了後(定着促進センターに入所しない者にあっては帰国後)3年以内の帰国孤児等に対し,自立支援通訳を派遣することとされた。 ,,,この自立支援通訳は当初巡回健康相談事業により健康相談医の助言指導を受ける場合,帰国孤児等が医療機関で受診する場合であって都道府県が派遣を必要と認めるとき,帰国孤児等が福祉事務所等の関係行政機関から,助言,指導又は援助を受ける場合であって都道府県が派遣を必要と認めるときに派遣することとされていたが,平成7年度以降,帰国孤児等が,小学校,中学校及び高等学校に通学する親族等の学校生活上生じた問題や中学校に通学する親族等の進路について,学校に相談する場合であって,都道府県知事が派遣を必要と認めるときにも派遣することとされ,平成14年4月1日からは,帰国孤児等が介護保険制度による介護認定及び介護サービスを利用する場合であって都道府県が派遣を必要と認めるときにも派遣することとされた(なお,巡回健康相談事業とは,中国との医療事情の相違,食生活の相違等により,医療,保健衛生面における生活指導が必要と思われる,定着促進センター修了後(定着促進センターに入所しない者にあっては帰国後)1年以内の帰国孤児等の世帯に対し,都道府県知事の選任した健康相談医による健康相談を実施するとともに,必要な助言及び指導を行うこととされたものである。平成元年6月1日から実施され,当初の名称は「中国帰国者巡回健康相談事業」であったが,平成7年度からは「巡回健康相談事業」に名称が変更された。 。)( ) 中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する 法律及びこれを受けた公的支援策ア中国 であったが,平成7年度からは「巡回健康相談事業」に名称が変更された。 。)( ) 中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する 法律及びこれを受けた公的支援策ア中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(ア) 制定の経緯平成5年9月5日,日本旅券を所持した12人の中国残留婦人が身元引受人がないまま突然成田空港から帰国し,総理大臣に対する陳情文を携えて永住帰国を訴える事態が発生し,平成5年11月及び12月にも同じ事態が生じたところ,民間ボランティア団体の世話で一時帰国中の中国残留婦人が中国への再渡航を拒否して永住を希望する事態も生じていた。このような状況を受け,在中国日本大使館と先方中国外交部との間で,平成5年12月15日,中国残留日本人の帰国問題に関する口上書が取り交わされたが,これを契機として,国会においても,中国残留日本人問題に対する関心が高まり,議員立法により,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6年4月6日法律第30号)が制定・公布され,平成6年10月1日に施行された(乙総2の2・・)。 p442-443 672 694-695(イ) 法律の概要(乙総2の2)p694-695この法律は,大要,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する国等の責務(3条,4条)を確認し,併せて,永住帰国旅費・一時帰国旅費の支給等(6条,14条,自立支度金の)支給(7条,生活相談等(8条,住宅の供給の促進(9条,雇用・)))教育の機会の確保(10条,11条)等の従前の国等の施策について確認的に規定するものであったが,以下のような規定も置かれていた。 12条(就籍等の手続に係る便宜の供与)a「国は、 用・)))教育の機会の確保(10条,11条)等の従前の国等の施策について確認的に規定するものであったが,以下のような規定も置かれていた。 12条(就籍等の手続に係る便宜の供与)a「国は、永住帰国した中国残留邦人等が戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)第百十条第一項に規定する就籍その他戸籍に関する手続を行う場合においてその手続を円滑に行うことができるようにするため、必要な便宜を供与するものとする」。 13条(国民年金の特例)b「永住した中国残留邦人等(明治四十四年四月二日以後に生まれた者であって、永住帰国した日から引き続き一年以上本邦の住所を有するものに限る)に係る国民年金法(昭和三十四年法律第百四十。 一号)による第一号被保険者としての被保険期間その他同法に規定する事項については、同法の規定にかかわらず、政令で特別の定めをすることができる」。 なお,以上の条文は,国民年金法等の一部を改正する法律(平成6年11月9日法律第95号)による改正後のものである。 イ就籍に関する支援身元未判明孤児については,戸籍が特定できず本籍も不明であるため,日本国籍へ就籍するためには,家庭裁判所に申立てをし,両親が日本人であり,生まれながらにして日本国籍を有していたこと,現在の中国国籍は本人の意思によるものではなく幼いころに中国人養父母が届け出たものであることの確認を経て,家庭裁判所の許可を得ることが必要となっていたところ,就籍のための家事審判につき,家庭裁判所からの要請があれば,厚生省は,調査資料を提供していたが,この手続に必要な費用は,申立人である身元未判明孤児が負担することとなっていた(乙総2の2。 p433)このような手続に対しては,中国残留孤児問題全国協議会の衆参両議院に対する昭和59年8月5日付け請願(甲総62,日本 申立人である身元未判明孤児が負担することとなっていた(乙総2の2。 p433)このような手続に対しては,中国残留孤児問題全国協議会の衆参両議院に対する昭和59年8月5日付け請願(甲総62,日本弁護士連合会の)昭和59年10月20日付け「中国残留邦人の帰還に関する決議(甲総」95,98,東京弁護士会が昭和61年10月30日ころにした「中国)残留邦人に関する要望(甲総99,中国残留孤児問題全国協議会会長」)が文部大臣及び内閣総理大臣に対して昭和62年7月3日ころに提出した「中国帰国孤児自立のための陳情書(甲総100,101,十六都道」)府県中国帰国者対策協議会が国に対して昭和62年12月ころに提出した「」昭和63年度政府予算編成に対する中国帰国者援護対策に関する要望書(甲総104)等において簡素化が求められており,中国残留日本人孤児問題懇談会による昭和60年7月22日付け「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について(前記( )ア(イ) (乙総2の2,1」) p668-84)においても,同趣旨のことが提言されていた。 また,この手続の費用については,昭和61年度以降,厚生省の副申の下,財団法人法律扶助協会が,財団法人日本船舶振興会から支援を受け,身元未判明孤児の中国残留孤児国籍取得支援活動として,法律扶助による申立てに限り,これを負担していたが(乙総101,102,上記「中)国残留邦人の帰還に関する決議,上記「中国残留邦人に関する要望,」」内閣総理大臣に提出された上記「中国帰国孤児自立のための陳情書」等では,国庫負担が求められていた。 かかる状況に加え,前記ア(イ)のとおり,中国残留邦人等の円滑な帰国aの促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律に,就籍等の手続に係る便宜の供与が規定され 等では,国庫負担が求められていた。 かかる状況に加え,前記ア(イ)のとおり,中国残留邦人等の円滑な帰国aの促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律に,就籍等の手続に係る便宜の供与が規定されたこともあり,平成7年11月17日付けの厚生省社会援護局長通知「身元未判明孤児の就籍のために要する経費の国庫負担について(社援発第227号)により,就籍のための家事審判の手続を」財団法人法律扶助協会を通じて行う身元未判明孤児で,平成7年4月1日以降に申立てが受理された者については,手続に伴い必要となる費用(印紙及び郵券,交通費,中国から持ち帰った資料の翻訳料,弁護士の手数料等)が国庫で負担されることとなった(甲総55,乙総2の2,3p4334。 )ウ国民年金に係る措置中国残留孤児は,高齢になって帰国するまで中国に住んでおり,帰国後に国民年金へ加入しても,加入期間が短いため年金を受給できない事態が,,,生じていたところ中国残留孤児問題全国協議会からは厚生省等に対し年金についての立法措置が求められていた(甲総62,87,乙総2の2。 p434)このような動きを受け,昭和60年に国民年金法が改正され,中国残留孤児が中国に居住していた期間については,年金の受給資格を得るための期間として算入される特例が設けられたが,保険料が納入されたとして年金額に反映されるわけではないため,帰国者,ボランティア団体等からは受給額が低額となってしまうとして改善を求める動きもみられた(甲総67,乙総2の2。 p434)かかる状況の下,平成6年11月9日,前記ア(イ)のとおり,中国残留b邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律中に国民年金の特例を置く改正がなされたところ,これを受けた政令により,永住帰国した中国残留邦人等に 記ア(イ)のとおり,中国残留b邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律中に国民年金の特例を置く改正がなされたところ,これを受けた政令により,永住帰国した中国残留邦人等について,中国に居住していた期間のうち,国民年金制度が創設された昭和36年4月1日から永住帰国する前日までの期間(20歳以上60歳未満に限る)は保険料免除期間とみなされ,。 保険料を納付した場合の3分の1に相当する額(国庫負担額)が年金額に反映されること,及び保険料免除期間とみなされた期間については保険料を追納することができ,追納すれば,その分が年金額に反映されることと,()。 されかかる特例は平成8年4月1日から施行された乙総2・p434 695保険料を追納する場合には,生活福祉資金の貸付制度を特別長期の償還期限で利用でき,生活保護受給者については,この貸付金を収入認定から除外され,その償還費用も世帯収入から控除されるが,保険料を追納しない場合に受給される年金は月約2万2000円であり,この点につき,足りなければ生活保護で対応するものと考えられているとして,改善を求める動きもみられた(甲総75,76,弁論の全趣旨。 )( ) 中国帰国者支援に関する検討会の報告書及びこれを受けた公的支援策 ア中国帰国者支援に関する検討会の報告書(甲総72,甲総B38)中国残留日本人孤児問題懇談会による最終報告書(前記( )ア(イ))から 15年が経過し,平成11年度をもって集団訪日調査が終了して訪日対面調査に移行されることとともに,帰国者の高齢化,同伴して帰国する2・3世の増加等により帰国者像も変化してきたため,現在の帰国者の実態に国等の援護施策が対応できない面も指摘され,帰国者支援対策が転換点を迎えているという認識から,中国残留孤児問題 同伴して帰国する2・3世の増加等により帰国者像も変化してきたため,現在の帰国者の実態に国等の援護施策が対応できない面も指摘され,帰国者支援対策が転換点を迎えているという認識から,中国残留孤児問題全国協議会理事長等の中国残留孤児問題に携わる民間団体関係者もメンバーとする中国帰国者支援に関する検討会が設けられた。 中国帰国者支援に関する検討会は,平成12年5月24日から,7回にわたり検討を重ね,平成12年12月4日付けで報告書を提出した。この報告書においては「3.これまでの帰国者支援施策の進展」として「戦,,後50年以上を経過した今日では、実態調査で明らかになったように、帰国者の日本社会での自立は一層難しくなっている「懇談会の提言があ。」った当時と現在とでは、帰国者像に著しい変化があることから、自立支援施策については、こうした実態を踏まえて再検討する必要が生じるに至った「帰国者が高齢化し、長引く不況などにより、帰国者を取り巻く社。」会経済環境が激変していることもあり、この際、あらためて関係施策の企画、実施等において同法〔注:中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律〕の趣旨が十分に生かされているか、点検、評価と見直しを行う必要がある」などとされるとともに「帰国。 ,後の当面の支援から継続的支援へ」という今後の施策の方向性が示され,日本語習得,就労支援,生活相談,交流の場の提供,継続的な支援の実施と拠点の整備等といった今後の具体的支援方策についての提言がなされていた。 イ中国帰国者支援・交流センター(以下「支援・交流センター」という)。 (乙総25ないし27,28の1・2,29の1・2,120の1ないし5,122,125,161),,,前記アの提言を踏まえ中国帰国者について国民の関 以下「支援・交流センター」という)。 (乙総25ないし27,28の1・2,29の1・2,120の1ないし5,122,125,161),,,前記アの提言を踏まえ中国帰国者について国民の関心と理解を促し地方公共団体との連携の下,ボランティアや地域住民の協力を得ながら,日本語学習支援事業,相談事業,交流事業,普及啓発事業等を中長期的に行うため,平成13年11月1日,東京及び大阪の2か所に,支援・交流センターが開設された。 支援・交流センターは,財団法人中国残留孤児援護基金が運営し,帰国後4年目以降の中国帰国者やその2・3世の者も対象としている。支援・交流センターでは,進度別,目的別等帰国者の要望に合わせた通所形式,通信形式(東京のみ)及び通信形式の補完としての対面方式(支援・交流センター,自立研修センター等で実施,平成14年度から)による日本語教育が継続的に実施されており,平成16年1月1日までに1886人がこれを受講している。また,窓口を設けて相談に応じるとともに,日本語会話が不自由な高齢単身帰国者等を対象に,中国語で電話連絡を行ったり(友愛電話)必要に応じてボランティア等が対象者宅を訪問したり(友愛訪問(平成15年度から)し,NPO,ボランティア団体等と連携して)交流事業が行われたりもしている。 中国残留孤児の置かれている現状等( ) 厚生省による実態調査 厚生省は,永住帰国した中国残留孤児を対象に,昭和59年10月1日から,2ないし4年に1回,中国帰国孤児生活実態調査(永住帰国した中国残留日本人婦人も対象となった下記イの調査からは中国帰国者生活実態調査に改称された)を実施している(甲総54,58,60の2,71,91,。 92,乙総2の2,103,118の1ないし7。 p687)中国残留孤児の永住帰国者数 の調査からは中国帰国者生活実態調査に改称された)を実施している(甲総54,58,60の2,71,91,。 92,乙総2の2,103,118の1ないし7。 p687)中国残留孤児の永住帰国者数は昭和61年度から平成3年度までにピークを迎え(前記4( )ア,その後,下記アないしウの各調査が行われたが,その )結果の概要は,後記( )ないし( )のとおりである。 ア平成5年1月1日中国帰国孤児生活実態調査(以下「平成5年調査」という(乙総2の2)。)p687-693日中国交正常化以降,平成5年1月1日までに国費により永住帰国した中国残留孤児(定着促進センター入所中の世帯等を除く)1423世帯。 に対し,平成5年1月1日現在を基準日として行われたところ,回答数は1191世帯である。 イ平成7年3月1日中国帰国者生活実態調査(以下「平成7年調査」という(甲総93)。)昭和36年4月1日(国民年金法施行)以降,平成7年3月1日までに永住帰国した者(定着促進センター入所者等を除く)に対し,平成7年。 3月1日現在を基準日として行われた。生活実態を把握するための事項が調査された対象は昭和59年3月1日以降に永住帰国した者で,回答数は2469世帯,回答した孤児の平均年齢は53.1歳である。 ウ平成11年12月1日中国帰国者生活実態調査(平成11年調査(乙)総103)平成元年12月1日以降,平成11年11月30日までに永住帰国した中国帰国者本人のうち,定着促進センターに入所中の者等を除く2562人に対し,平成11年12月1日を基準日として行われたところ,回答数は2225人,回答した孤児の平均年齢は58.3歳である。 エ平成15年4月1日中国帰国者生活実態調査(以下「平成15年調査」という(甲総142)。)日 日を基準日として行われたところ,回答数は2225人,回答した孤児の平均年齢は58.3歳である。 エ平成15年4月1日中国帰国者生活実態調査(以下「平成15年調査」という(甲総142)。)日中国交正常化以降,平成15年3月31日までに永住帰国した中国帰国者本人のうち,定着促進センターに入所中の者等を除く5208人を対象に,平成15年4月1日を基準日として行われたところ,回答数は4094人,回答した孤児の平均年齢は61.5歳である。 ( ) 日本語の習得状況 帰国後1年未満で,買物や交通機関,郵便局,銀行等において日本語の会話により自分1人で用事を済ませること(独力で日常生活を営める程度の会話)ができるようになっている孤児は,平成5年調査で48.9%,平成7. ,. ,. 年調査で263%平成11年調査で274%平成15年調査で515%である。 また,日本語の会話が未習得の孤児は,平成5年調査で18.2%,平成7年調査で27.9%,平成11年調査で32.7%,平成15年調査で47.1%となっている。 ( ) 生活状況 ア就労状況就労している孤児本人(平成11年調査については,基準日現在60歳未満の者に限る。平成15年調査については,残留婦人も含む)の割合。 は,平成5年調査で60.4%,平成7年調査で51.2%,平成11年調査で29.2%,平成15年調査で13.9%であり,世帯単位でみた場合に就労している者がいる(平成15年調査については,本人及び配偶者に限る)割合は,平成5年調査で77.6%,平成7年調査で66. 。 ,. ,. 。 1%平成11年調査で606%平成15年調査で199%である就労している孤児の職業は,技能工,製造・建設・労務作業者が多く,その割合は,平成5年調査では74.2%(一般 ,. ,. 。 1%平成11年調査で606%平成15年調査で199%である就労している孤児の職業は,技能工,製造・建設・労務作業者が多く,その割合は,平成5年調査では74.2%(一般31.5%,平成7年)調査では80.0%(一般30.8%,平成11年調査では87.4%)(一般30.6%,平成15年調査では48.8%となっている。 )イ収入状況(ア) 就労収入孤児世帯の就労による収入は,次表のとおりである(平成15年調査については,残留婦人も含む数値で,同一世帯の子等の収入は含まれておらず,無回答の者の割合は,全帰国者世帯で7.5%,本人のみ就労世帯で9.4%である。 。)万円未満万円以上万円以上 万円未満 平成5年全孤児世帯24.0%26.2%49.9%調査孤児のみ就労世帯66.7%29.6%3.7%平成7年全孤児世帯31.6%31.1%37.2%調査孤児のみ就労世帯65.0%31.8%3.2%平成年全孤児世帯43.1%33.6%23.3% 調査孤児のみ就労世帯74.2%22.6%3.2%平成年全帰国者世帯59.5%23.2%9.7% 調査本人のみ就労世帯71.3%16.5%2.9%また,一般世帯の収入を100とした場合の孤児世帯の平均収入月額は,平成5年調査で76.6(一般世帯42万4000円,孤児世帯32万5000円,平成7年調査で66.4(一般世帯43万4000円,孤児世帯28万8)000円,平成11年調査で43.6(一般世帯50万5000円,孤児世帯2)2万円)であり,平成15年調査での帰国者世帯全体の平均収入月額は,17万8000円である。 (イ) 生活保護の受給状況生活保護を受給している孤児 43.6(一般世帯50万5000円,孤児世帯2)2万円)であり,平成15年調査での帰国者世帯全体の平均収入月額は,17万8000円である。 (イ) 生活保護の受給状況生活保護を受給している孤児世帯の割合は,平成5年調査では34. 6%,平成7年調査では38.5%,平成11年調査では65.5%,平成15年調査では61.4%となっている。 ( ) 帰国後の感想 平成15年調査によると,帰国して良かった又はまあ良かったと回答した孤児は合計53.7%,どちらともいえないと回答した孤児は28.9%であるのに対し,やや後悔している又は後悔していると回答した孤児の合計は16.1%である。 帰国して後悔している理由としては,老後の生活が不安(57.5%,)言葉ができない(17.4%,生活が苦しくなった(10.0%,病気))による不安(7.0%)等が挙げられている。 第6争点に対する当裁判所の判断 被侵害利益(争点1)について原告らは,被告による早期帰国実現義務違反及び生活自立援助義務違反により原告らが別紙原告番号1ないし61記載のとおりの被害を被ったと主張した上で,前記第4の1( )のとおり,日本語ないし日本固有の生活習慣を覚える 機会,日本国内で教育を受けたり自ら望む職業に就労したりする機会,健康で文化的な生活を送る機会等の様々な利益・機会・権利を総体的包括的に評価した「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内において人格を形成発展させる権利」を被侵害利益として主張する。 しかし「日本人としての幸福を追求する権利もしくは日本国内において人,格を形成発展させる権利」なるもの自体は極めてあいまいかつ多義的な概念で,,,,あって具体的な権利の内容根拠規定成立要件等の諸側面で一義性に欠けその外延を画し得ない抽象的かつ不 いて人,格を形成発展させる権利」なるもの自体は極めてあいまいかつ多義的な概念で,,,,あって具体的な権利の内容根拠規定成立要件等の諸側面で一義性に欠けその外延を画し得ない抽象的かつ不明確な概念であり,これを直ちに不法行為法上の被侵害利益とすることはできない。 もっとも,原告らは,前記第4の1( )のとおり「日本人としての幸福を ,追求する権利もしくは日本国内において人格を形成発展させる権利」につき,日本人として当然に享受すべき各種人権の総称であるとも主張しているところ,原告らの主張に係る,前記第4の3( )(早期帰国実現義務違反)及び前 記第4の4( )(生活自立援助義務違反)の各義務違反との関係で,帰国の自 由,人格権等の憲法上及び不法行為法上保障される個別の人権をも被侵害利益として主張する趣旨と解される。 そうすると,これらの各義務違反との関係から,原告らは,言葉の通じない異国の地に幼少の身を単身数十年にわたって残留を余儀なくされ筆舌に尽くし難い辛酸をなめ続けざるを得なかったことや,長い年月を経て日本語を理解できないなど状況適応力を失った後に帰国したため,社会生活上辛苦を重ね続けていることにより,多大の精神的苦痛を被ったもので,このような苦痛を被らないことを人格権(その中には帰国の自由をも包含するものと解される)と。 して主張しているものと解することができるのであるから,それが具体的で特定し得るものである限りは,公権力の行使に当たる公務員による違法な職務上の行為から保護を受けるべき筋合いのものであり,不法行為法上の被侵害利益に欠けるところはないと解するのが相当である。 責任原因(争点2( )ないし( ))について ( ) 先行行為に基づく危険の発生について ア(ア) 原告らは,前記第4の2( )ア 害利益に欠けるところはないと解するのが相当である。 責任原因(争点2( )ないし( ))について ( ) 先行行為に基づく危険の発生について ア(ア) 原告らは,前記第4の2( )ア(ア)のとおり,被告が,国策として,多数 の国民を満州へ開拓民として入植させておきながら,ソ連が満州へ侵攻するや,文民を遺棄し,敗戦後には,国民を速やかに帰国させるどころか,そこへ定住させる政策に及び,満州からの引揚げを他の諸地域と比較して大幅に遅らせるなど,自国民を保護する義務に反する違法な先行行為に及び,これにより,生命,身体等に危害を及ぼされたり,中国社会における差別,迫害等のため諸々の苦痛を受けたり,帰国後に日本社会で日本人として生きていくために必要な日本語等を取得する能力を失 abったりする危険にさらされ続けたとした上前記第4の2( )ア(イ) 及び,のとおり,遅くとも昭和34年の時点で,この危険を予見でき,かつ,回避できた被告としては,前記第4の2( )イ(ア)の早期帰国実現義務ない し同2( )イ(イ)の生活自立援助義務があったと主張している。 そこで,原告らの主張に係る各義務の根拠として,原告らの主張する先行行為に基づく危険の発生が認められるか否かを,まず検討する。 (イ) 日本は,日露戦争終結後,中国における権益を拡大し続けていたが,関東軍が柳条湖事件を惹起したことを契機に満州事変が勃発し,その直後に関東軍は中国東北地方に満州国の建国を宣言したところ,国際連盟,,,,は満州国の不承認を可決したが日本政府は満州国を承認しその後,()。 廬溝橋事件等を経て太平洋戦争へ突入していった前記第5の1( )ア このような背景の下,日本政府は,昭和7年の試験移民を端緒として,中国東北地方に日本人を中心とする 国を承認しその後,()。 廬溝橋事件等を経て太平洋戦争へ突入していった前記第5の1( )ア このような背景の下,日本政府は,昭和7年の試験移民を端緒として,中国東北地方に日本人を中心とする秩序を建設すべく,満州へ計画的に移民を実施し,終戦前の昭和20年5月には,少なくとも20万人を超える日本人を中国東北地方へ入植させた(前記第5の1( )イ。 )他方,日本は,ソ連との間で,日ソ中立条約を締結するに際し,ソ連による満州国への不可侵を約していたが,昭和20年4月6日には日ソ中立条約不延長の通告をソ連から受けており,また,そのころには戦局も悪化していたところ,このようにソ連の中国東北地方への侵攻が予想される状況の下,大本営は,関東軍に対し,満州全域を利用しての持久戦を指示し,また,いわゆる根こそぎ動員さえも実施されていたが,国策としての移民が中断されることはなく,開拓団には実情が伝えられるどころか,虚偽の戦況が伝えられていた(前記第5の1( )ア(ア) 。 )かかる状況の下,昭和20年8月9日にソ連が中国東北地方へ侵攻したが,関東軍は,既に主力師団を南へ移動させてしまっていたため,中国東北地方に放置された老幼婦女子が大半を占める日本人については,避難の過程でソ連軍や暴徒の攻撃等により多くの犠牲者が出ていた前,(記第5の1( )ア(イ)及びイ(イ) 。日本政府は,昭和20年8月14日, )ポツダム宣言を受諾し,間もなく戦闘行為は停止に至ったが(前記第5の1( )ア(イ) ,中国東北地方に残留した日本人は劣悪な環境下での越 )冬生活を強いられるなどし,累計約13万人もの犠牲者が出た上,移民していた日本人の子供の多くが,両親を失ったり,やむを得ず現地住民に預けられたりし,原告らのような中国残留孤児が大量に生じた(第 )冬生活を強いられるなどし,累計約13万人もの犠牲者が出た上,移民していた日本人の子供の多くが,両親を失ったり,やむを得ず現地住民に預けられたりし,原告らのような中国残留孤児が大量に生じた(第5の1( )ウ。 )(ウ) 以上のとおり,中国残留孤児となった原告らが,爾後辛酸をなめることになったのは,被告が,大量の日本人を満州へ国策として入植させた上,戦局の悪化により重大な危害が及ぶおそれがあることを熟知しながらも,満州の日本人に一切実情を伝えないばかりか虚偽の情報を流布するなどして保護策を講じなかったことによるものというべく,作為義務を基礎付ける一要素たる被告の先行行為があったものと認めることができる。 イ(ア) これに対し,被告は,原告らの主張では,各原告ごとにどのような被害を生ぜしめる蓋然性がいつの時点であったのかが明らかでなく,特定性に欠けると主張する(前記第4の2( )ア(ア) 。 )しかし,ある先行行為から生じ得る被害は一様ではなく,その被害の内容ないしその蓋然性が生じる時点を被害者ごとに具体的に特定することは極めて困難であるところ,そもそも先行行為に基づく危険は,作為義務の発生を根拠付ける予見可能性の対象であり,この対象となり得る程度に具体的であれば,作為義務の発生を基礎付けるものとして必要かつ十分である。かかる観点からみた場合,原告らのような子供が戦争中ないし戦争直後の中国東北地方に放置されれば,大きな被害が生ずる危険のあることは明白であるというべく,原告らの主張は,作為義務の発生を基礎付ける程度に具体的であり,特定性に欠けるところはない。 (イ) 被告は,原告らが中国残留孤児となった直接の原因は,ソ連軍が中国東北地方へ不意に侵攻したことにより発生した極度の混乱とそれに続く難民としての越冬生活等にあり,被 特定性に欠けるところはない。 (イ) 被告は,原告らが中国残留孤児となった直接の原因は,ソ連軍が中国東北地方へ不意に侵攻したことにより発生した極度の混乱とそれに続く難民としての越冬生活等にあり,被告の採用した移民政策を受けて,原告らないしその親が移民したこと自体に基づくわけではなく,中国東北地方に残留する日本人につき,現地へ土着させる方針を終戦直後に実施したどころか,その帰国に向けて採り得る手段を尽くして努力していたところ,中国東北地方に残留していた日本人の引揚げが他の地域よりも大幅に遅れたのは,中国東北地方を管理下に置いたソ連が,残留日本人,,の本国送還に無関心でGHQの方針を受諾しなかったためであるとし被告の先行行為のゆえに,原告らが中国残留孤児となり諸々の不利益を()。 被る危険が生じたわけではないとも主張する前記第4の2( )ア(イ) a確かに,一部には,居留民を現地に定着させるかのごとき動きも看て取られるが(前記第5の1( )イ(ア) ,日本政府は,ポツダム宣言受諾 )後,相当に早くから,居留民の帰還に向けた動きをみせており(前記第5の2( )ア,様々な形で現地から伝えられていた,中国東北地方に残 )留する日本人の惨状や越冬生活への懸念(前記第5の1( )イ(イ) )に対 b,()しGHQ等を通じてソ連に善処方求めていた前記第5の1( )イ(ウ) ところ,多くの中国残留孤児が生じた要因としては,昭和20年8月9日にソ連軍が中国東北地方へ侵攻したこと(前記第5の1( )ア(イ) , )ソ連が,昭和21年4月に撤退するまでに,GHQの立案した日本人の引揚げの計画に従わず,特段の措置を採らなかったこと(前記第5の2( )イ)等も挙げられよう。 さりとて,被告が,国策として大量の日本人を 昭和21年4月に撤退するまでに,GHQの立案した日本人の引揚げの計画に従わず,特段の措置を採らなかったこと(前記第5の2( )イ)等も挙げられよう。 さりとて,被告が,国策として大量の日本人を満州へ入植させた上,戦局の悪化により,入植させた日本人に重大な危害が及ぶおそれがあると認識しながら,実情を伝えるどころか虚偽の情報を流すなどして保護策を講じなかったことは,厳然たる事実として存在し,これが一つの大きな要因となり,原告らを含む多くの中国残留孤児が生じたことは,明白である。上述の各事実をもって,これを否定するとなれば,本筋を見失うものというべく,被告の主張は,採り得ない。 (ウ) 被告は,前記ア(イ)の先行行為は,国家賠償法が施行された以前のものであり,国家無答責の法理により違法と評価されないものである以上,これによって生じた危険を国家賠償法施行後に解消する義務を負わせ,その不作為につき,国家賠償法を適用することは,国家賠償法施行前の行為の賠償責任を負わせるものであるとして「この法律施行前の行為,に基づく損害については、なお従前の例による」と定める国家賠償法。 附則6項の趣旨に反するとも主張する(前記第4の5( ) 。 2 )しかし,国家無答責の法理なるものは,国の権力的作用に基づく不法行為による損害賠償請求について,司法裁判所においても行政裁判所においても裁判事項とされなかった,すなわち,訴訟要件を欠くとされていただけで,国の権力的作用に基づく不法行為であれば,実体的に違法性が阻却されるとするものではなかったと解する余地もあり得るところ,かく解すると国家賠償法施行前の行為であれば無条件に違法性が阻却されることにはならないし,国家無答責の法理により行為の違法性自体が阻却される効果が生ずると解するとしても,その行為に基づく危険 ころ,かく解すると国家賠償法施行前の行為であれば無条件に違法性が阻却されることにはならないし,国家無答責の法理により行為の違法性自体が阻却される効果が生ずると解するとしても,その行為に基づく危険を解消する義務が別途の法理に基づき生じ得ないとするいわれはなく,一定の要件の下に作為義務を認め,これに反する不作為につき,先行行為に基づく危険の現実化として生じた損害を賠償する責任を肯定したとしても,それはあくまでも国家賠償法施行後の不作為という行為の責任を肯定したにすぎず,何ら国家賠償法附則6項の趣旨に反しないものであり,論旨は採用できない。 ウ被告の先行行為に基づき,原告らが中国残留孤児となって多くの困難に直面する危険が発生したことは,以上のとおりである。 以下,これを前提として,早期帰国実現義務ないし生活自立援助義務が一定の要件の下で法的な作為義務として発生するか,発生するとすれば,厚生大臣ないし外務大臣が,その義務を違法に怠ったといえるかにつき,具体的事実関係に照らし,順に検討する。 ( ) 早期帰国実現義務違反の有無について 原告らは,前記第4の2( )ア(イ)のとおり,被告としては,原告ら全員に ついて,遅くとも昭和34年には,中国残留孤児として過酷な生活を送るお,,,,それを十分に予見できかつ回避できたところ中国での所在地を認識し又は,認識し得た別紙個別主張一覧記載の各原告については,なおさらであるとした上,前記第4の2( )イ(ア)のとおり,厚生大臣ないし外務大臣が, 後期集団引揚げ終了前,日中国交正常化前及び日中国交正常化後の各段階で早期帰国実現義務を負っていたのに,前記第4の3( )のとおり,これを違 法に怠ったと主張している。 そこで,そもそも早期帰国実現義務が法的な義務として発生するか,発生す 中国交正常化後の各段階で早期帰国実現義務を負っていたのに,前記第4の3( )のとおり,これを違 法に怠ったと主張している。 そこで,そもそも早期帰国実現義務が法的な義務として発生するか,発生するとした場合,厚生大臣ないし外務大臣が,これを違法に怠ったといえるかについて,後期集団引揚げ終了前,日中国交正常化前及び日中国交正常化後の各段階に分けて検討する。 ア後期集団引揚げ終了前について(ア) 国策として中国東北地方へ多くの日本人を移民させていた(前記第5の1( )イ)被告は,終戦直後から,中国東北地方に残留することとなっ た多くの婦女子を含む日本人の惨状等について,情報を得ていたところ(),,,前記第5の1( )イ(イ)昭和23年ころから未引揚邦人届の収集 b現地からの通信の収集等の調査を始め,昭和25年ころからは,各都道府県を通じて,留守宅への一斉調査,引揚者からの情報収集等を行い,昭和30年ころからも,最終消息の把握等に努め,現地への通信調査を実施するなどし,中国側のラジオ声明(前記第5の2( )ア)等もあり, 日本人が中国東北地方に多数残留していることを把握していた(前記第5の2( )イ(ア)及び(イ) 。かかる事情にかんがみれば,後期集団引揚げ )が終了するまでに,相当数の中国残留孤児が存在することを被告が認識し,又は,少なくとも認識し得たと推認でき,かかる認識があったことは,当時のジュネーブ駐在日本総領事が当時のジュネーブ駐在中国総領事に対して手交した中国地域の未帰還者の名簿の存在前記第5の2( )( イ(エ))や当時の厚生大臣の発言(前記第5の2( )イ(イ) )からも明白で bある。 そして,原告らのような子供が,戦争後の中国東北地方に中国残留孤児として放置され続けると,生命,身体等 イ(エ))や当時の厚生大臣の発言(前記第5の2( )イ(イ) )からも明白で bある。 そして,原告らのような子供が,戦争後の中国東北地方に中国残留孤児として放置され続けると,生命,身体等に対するものも含む諸々の被害が生ずる危険のあることは見やすい道理である以上,政治的な責務としては,中国残留孤児を早急に帰国させる措置を採るべきであったといえるであろう。 しかし,原告らの主張に係る法的な早期帰国実現義務が認められるか否かについては,これまた別途の考察を要する事柄であるといわざるを得ない。すなわち,先行行為による危険を除去すべき作為義務を肯定する前提としては,当該危険の予見可能性及び結果回避可能性が必要不可欠であり,かかる作為義務が認められるかどうかは,発生するおそれのあるとされる被害の重大さ,切迫性等から判断される危険の程度と,当該危険の予見可能性の度合い及び結果回避可能性の程度や補充性・期待可能性等との相関関係をも加味して決すべきものであるが,被告が中国残留孤児の存在についての一般的な認識を有していたとしても,中国残留孤児全体の生活状況,個別の中国残留孤児の所在,生活状況,帰国の意向等についての認識の有無及び程度,並びに当時の社会情勢等を基礎として実際に採り得た措置等について,子細かつ総合的に検討し,厚生大臣ないし外務大臣に付与された権限の目的,性質等に照らし,その許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるか否かを判断することなくして,直ちに法的義務ないし義務違反があるとはいえないのである。 (イ) かかる観点から検討するに,国策として中国東北地方へ日本人を多数移民させた(前記第5の1( )イ)被告としては,原告らを含めた移民の 子が終戦時点で中国東北地方にいることは認識でき,終戦後の中国残留孤児全体の生 討するに,国策として中国東北地方へ日本人を多数移民させた(前記第5の1( )イ)被告としては,原告らを含めた移民の 子が終戦時点で中国東北地方にいることは認識でき,終戦後の中国残留孤児全体の生活状況についても,ソ連が中国東北地方を管理下に置いていた時期や,その後国民政府軍と中国共産党軍との激しい内戦が繰り広げられた時期までは,相当に過酷なものであることは認識し得たといえる(前記第5の1( )イ(イ) ,同2( ) 。 b 2 )しかしながら,被告としては,中国側の協力を得た上で現地からの通信等によって情報を得るといった状況にならない限りは,中国残留孤児の所在及び生活状況を個別に把握できず,その帰国の意思を確認し,帰国に向けた手続を行うといった措置を採ることもできないし,その所在を通信可能な程度に特定されたものとして被告が把握できたとしても,必要に応じて連絡することができない通信事情にあったり,またそもそも日中国交正常化前の国際情勢の下で,中国側の協力を得られなかったりなどすれば,上述の措置を採ることにより帰国させること自体が不可能であるというほかない。 そして,被告において,後期集団引揚げ終了前に,通信可能な程度に特定された所在を個別に把握し得た原告は,現地からの通信を厚生省が把握した原告A5(原告番号13,原告A12(原告番号29)及び)原告A16(原告番号36)だけである(前記第5の4( )イ(ア),(イ)及 び(エ))ところ,それ以外の原告らについては,そもそもその所在を厚生省において把握できなかったし,ましてや,昭和29年8月から昭和,,36年4月までの間原告A16からの通信が途絶えてしまったように当時の通信事情は必要に応じて連絡することができるほど安定していなかったのである。また,後期集団引揚げは,中国側 年8月から昭和,,36年4月までの間原告A16からの通信が途絶えてしまったように当時の通信事情は必要に応じて連絡することができるほど安定していなかったのである。また,後期集団引揚げは,中国側からのラジオ声明を契機に開始されているが(前記第5の2( )ア,かかる集団引揚げ自体 )が中国側の意向で中断されることもあった上,日本政府等が中国に残留している日本人の調査等について再三交渉等を申し入れても,中国側からは国交正常化の提案や行方不明の日本人は存在しないなどの回答しか得られず(前記第5の2( )イ,いまだ領事館も設置されておらず国交 )もないため国際法規に則った誠実な対応も期待できない中国に残留していた日本人の帰国に向けて中国側の協力が得られるか否かは,世界の冷戦構造を背景とした日中間の政治情勢に大きく影響され,政治的な思惑で方針が変化する中国側の意向に左右されるという側面が極めて強かったものである。 そうすると,後期集団引揚げ終了前については,中国残留孤児の所在等を個別に把握すること自体が極めて困難であることはもとより,通信可能な程度に特定されたものとして中国残留孤児の所在等を把握できたとしても,必要に応じた連絡を行ったり,国交のない中国側の安定的・継続的な協力を得たりすることも極めて難しかったというべく,厚生大臣ないし外務大臣に裁量の逸脱があったとはいえず,法的な早期帰国実現義務ないし義務違反を認めることはできない。 (ウ)原告らは,被告において,民間引揚三団体を通じて中国残留孤児のa情報を中国紅十字会に提供して捜索を依頼し,帰国を支援するための用意をして,中国政府及び中国紅十字会の協力により,原告らの早期 a帰国を実現する法的義務があったと主張する(前記第4の2( )イ(ア)( ) 。 a )しかし,国 頼し,帰国を支援するための用意をして,中国政府及び中国紅十字会の協力により,原告らの早期 a帰国を実現する法的義務があったと主張する(前記第4の2( )イ(ア)( ) 。 a )しかし,国交のない中国側の協力が容易に得られる状況になかったことは前記(イ)のとおりである上,被告としては,未帰還者の調査を相応に実施し(前記第5の2( )イ(ア)及び(イ) ,中国側に対し,中国 )に残留する日本人の帰国に向けて一定の働き掛けをしているものであり(前記第5の2( )イ(イ)及び(エ) ,法的な早期帰国実現義務が認め )られず,また,その義務違反なるものも認められない。 また,別紙個別主張一覧記載の各原告は,その中国での所在を被告bが認識し又は認識し得た以上,被告としては,上記各原告に対し,手紙を直接送ったり,民間引揚三団体を介して連絡を取ったりし,後期集団引揚げが行われる予定があること又は既に行われていること,被告が帰国費用を負担し,帰国後の自立も援助すること,被告としては是非帰国してもらいたいと考えていることを伝え,早期帰国を実現す()。 べき法的義務があったなどとも主張する前記第4の2( )イ(ア) ( ) abしかし,上記各原告が,その所在を被告が認識していたとする根拠は,終戦時点に中国東北地方の開拓団で上記各原告が生活していたこと(別紙個別主張一覧№欄記載①,及び,被告の作成した未帰還者)連名簿等に過去の一時点における上記各原告の氏名及び所在が記載されており,また,先に帰国していた開拓団員から,被告が過去の一時点での上記各原告の所在情報を得ていたこと(別紙個別主張一覧№欄記載②)にあるところ,別紙個別主張一覧№欄記載①の事情のみで上記各原告の所在を個別に把握することは到底できず,別紙個別主張一覧№欄記載 での上記各原告の所在情報を得ていたこと(別紙個別主張一覧№欄記載②)にあるところ,別紙個別主張一覧№欄記載①の事情のみで上記各原告の所在を個別に把握することは到底できず,別紙個別主張一覧№欄記載②の事情も,実際に被告が把握していた所在は,過去の一時点における,しかもその多くは省ないし県レベルの抽象的なものである以上,被告が上記各原告の所在を個別に認識していたとはいえない。 そして,被告において,先に引き揚げた親族,開拓団員等から事情を聴取したり(別紙個別主張一覧№欄記載③,中国社会において上)記各原告が日本人として扱われていた中で,中国政府に情報提供を求めたり(別紙個別主張一覧№欄記載④)すれば,所在を個別に認識し得たと上記各原告は主張するが,親族,開拓団員等の事情聴取によりある程度情報が得られたとしても,前記(イ)のとおり,当時の通信事,,,情は必要に応じて連絡できる程度に安定しておらずまたそもそも国交のない中国側の協力も容易には得られない状況であった以上,被告において,上記各原告の所在を個別に認識し得たとも帰国を実現することができたともいえず(実際,後期集団引揚げで帰国できたのは中国で留用された者等が中心であって,原告らのように,主に辺地の中国人社会に養子等となって入り込んでいたため,中国当局の把握が困難であった中国残留孤児については,わずかの者が帰国することができただけであった(前記第第5の2( )エ,原告らの主張に係る )。)措置を採るべき法的義務があったとはいえない(詳細は,後記イ(ア)ないし(ウ)参照。 )仮に,被告が上記各原告の所在を個別に把握したのであれば,上記各原告に何らかの手段で帰国を促すことが望ましいといえるが,後期集団引揚げについては,新聞紙による報道で周知されていた上(乙総198の1な に,被告が上記各原告の所在を個別に把握したのであれば,上記各原告に何らかの手段で帰国を促すことが望ましいといえるが,後期集団引揚げについては,新聞紙による報道で周知されていた上(乙総198の1ないし5,中国残留孤児に対するこのような情報の周知),(,や教示等は留守家族を通じてなされることとされていた乙総8485)し,中国側で後期集団引揚げについての説明会が実施されたこともあった(甲各47の3)のである。当時,未成年の上記各原告らにつき,引揚げに関する情報の把握や帰国するか否かの適切な判断を期待することは確かに酷であるかもしれないが,法的な義務違反の有無という観点からみれば,上述のような措置が採られていた以上,原告らの主張に係る早期帰国実現義務違反があったとはいえない。 イ日中国交正常化前について(ア) 前記ア(ア)のとおり,政治的責務としては中国残留孤児を早急に帰国させるべきであったといい得るが,原告らの主張に係る法的な早期帰国実現義務ないし義務違反の有無につき,前記ア(ア)に掲げた諸事情を緻密に検討し,厚生大臣ないし外務大臣に付与された権限の目的,性質等に照らし,その許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるか否かを判断する必要があることも,前記ア(ア)のとおりである。 そして,後期集団引揚げ終了後日中国交正常化前の時期においては,原告らのうち6名(原告番号11ないし13,35,36及び57の各原告)について,現地との間で時間はかかっても通信の往復がなされており(前記第5の3( )イ,ある程度通信事情が改善されていたものと )認められ,また,昭和37年ころには貿易関係が回復したとも認められる(前記第5の2( )ウ)が,集団引揚げ等が途絶した経緯に照らせば, 日本人の帰国に関し,国交のない中国側からの協 ものと )認められ,また,昭和37年ころには貿易関係が回復したとも認められる(前記第5の2( )ウ)が,集団引揚げ等が途絶した経緯に照らせば, 日本人の帰国に関し,国交のない中国側からの協力を得られ難い状況にあったことはたやすく想起できる上,日中国交正常化後の昭和48年においてさえも,厚生省が,中国政府に対し,帰国を希望する日本人に対する速やかな許可証の発給を申し入れる必要があったこと(前記第5の4( ))をも勘案すると,中国に残留していた日本人が帰国できるか否 かは,依然として中国側の意向に大きく左右されるものだったというべきである。 このような事情にかんがみれば,日中国交正常化前になっても,国交のない中国側の協力を得るなどして,個別に中国残留孤児の所在等を把握すること自体が困難というほかない。また,そもそも,香港ルート等による個別引揚げは,後期集団引揚げと異なり,限られた少数の日本人が利用できたにすぎない(昭和33年から昭和47年までの間で合計760人である。乙総1,前記第5の3( )ア(イ))だけでなく,日本p119 人同士の夫婦の場合と異なり,中国人の係累がある場合には離縁を条件とされることもあり(甲各57の1,後記(イ) ( )参照,その人選も基ab)準が不明確で確実なものとはうかがわれず,これを利用できる場合であっても極めて長期間を要し,中国側から今帰らないと次はいつ帰れるか分からないといった話も出ていたなど,現実的な帰国を保証するものとはいい難い。加えて,被告が,昭和36年9月5日,日本赤十字社に対,,し中国紅十字会へ帰国希望者の引揚促進等を申し入れるように依頼しまた厚生省引揚援護局庶務課長発各都道府県民生主管部長あて通知「中共地域からの個別引揚手続について(昭和35年10月25日付け庶」 ,し中国紅十字会へ帰国希望者の引揚促進等を申し入れるように依頼しまた厚生省引揚援護局庶務課長発各都道府県民生主管部長あて通知「中共地域からの個別引揚手続について(昭和35年10月25日付け庶」務第488号)において,引揚げの方法,手続等の状況等を関係各方面へ周知するように依頼していたこと(前記第5の3( )ア(ア) ,さらに, )中国残留孤児に対しては,その留守家族において帰国手続等を教示することが予定されていたこと(乙総84,85)等を考慮すると,厚生大臣ないし外務大臣につき,一般的に裁量の逸脱があったとはいえず,原告らの主張に係る法的な早期帰国実現義務ないし義務違反を認めることはできない。 (イ) もっとも,前記(ア)のとおり,現地と通信が往復される程度には通信事情は改善しつつある上,香港ルート等によってある程度の日本人が個別に引揚げていたこと(前記第5の3( )ア(イ))をも考え合わせると, 中国残留孤児本人ないし親族等から,その所在及び何らかの帰国意思等を具体的に伝えるような通信があり,これを被告が把握していたような場合,すなわち,原告A3(原告番号11)及び原告A4(原告番号12,原告A5(原告番号13,原告A12(原告番号29,原告A)))15(原告番号35,原告A16(原告番号36,並びに原告A2))5(原告番号57)との関係では,より慎重な検討が必要であるが,そうはいっても,前述の帰国の実現には国交のない中国側の協力が不可欠であることや,香港ルート等が現実的な帰国を保証するものとはいい難いこと,留守家族の協力が得られることが予定できたこと等を考慮すると,被告において,中国残留孤児に帰国手続の教示等の措置を採りさえすれば確実に早期永住帰国することができたといった特段の事情がある場合は格別,そうで の協力が得られることが予定できたこと等を考慮すると,被告において,中国残留孤児に帰国手続の教示等の措置を採りさえすれば確実に早期永住帰国することができたといった特段の事情がある場合は格別,そうでない限りは,被告において裁量の逸脱はなく,原告ら主張の早期帰国実現義務ないし義務違反があったとはいえないというべきである。そこで,以下,これらの原告について,かかる特段の事情の存否及び早期帰国実現義務ないし義務違反の有無を検討する。 ( ) 原告A3(原告番号11)及び原告A4(原告番号12)が香港aaルートにより帰国した経緯は,前記第5の3( )イ(ア)のとおりである ところ,原告A3は,昭和34年ころ,帰国を希望する手紙を日本の関係機関へ送付し,その後,原告A3及び原告A4は,日本の関係機関の連絡を受けた中国の公安局から帰国の意思を確認された際,(,にも帰国したい旨を伝えていたものであるこれ以前の段階では被告が原告A3及び原告A4両名の住居等を把握することは困難であったと考えられる。そして,通信事情がある程度改善し,香港。)(),ルートによる個別引揚げの可能性もなくはなかったこと前記(イ)及び一定要件の下で帰国旅費が支給されていた上,個別引揚げのため一定の措置を講じられていたこと(前記第5の2( )ア(ア) ,3( ) a ア(ア))を勘案すると,原告A3及び原告A4との関係では,可及的速やかに日本へ帰国させるべく,個別引揚げに必要な措置を講ずる高度の政治的責務が生じていたものといえよう。 しかしながら,原告A3及び原告A4の帰国が実現したのは,原告A3が上述の手紙を日本の関係機関へ送付した約6年後の昭和40年12月であって,前記特段の事情があるとはいい難いだけでなく,前記第5の3( )イ(ア)のとおり,被 原告A4の帰国が実現したのは,原告A3が上述の手紙を日本の関係機関へ送付した約6年後の昭和40年12月であって,前記特段の事情があるとはいい難いだけでなく,前記第5の3( )イ(ア)のとおり,被告は,原告A3が帰国の希望 を示したことを受け,中国の公安局を通じて原告A3及び原告A4の帰国の意思の確認を試み,中国の公安局から日本へ帰国する許可が出た後には,香港の日本総領事館で帰還証明書を交付し,香港から帰還先までの旅費を支給して,個別引揚げに必要な措置を講じているのであって,前記(ア)のとおり,帰国の許否自体が中国側の意向に大きく左右される当時の状況にかんがみると,厚生大臣ないし外務大臣において,原告A3及び原告A4との関係で,法的な早期帰国実現義務に違反したものとは認められない。 (),,( ) 原告A25原告番号57は前記第5の3( )イ(イ)のとおりb その叔父から公安局に申請すれば帰国できる旨手紙で知らされたことを受け,昭和35年ころから,日本の関係各機関から送付されてきた書類を公安局へ提出して香港ルートでの帰国を申請するとともに,在香港日本総領事館と手紙で連絡を取っていたところ,一定程度の通信事情の改善,香港ルートでの個別引揚げの可能性(前記(イ)及び帰国旅費を支給する措置等の存在前記第5の2( )ア(ア)),( ,3( )ア(ア))も勘案すると,原告A25との関係においても,可a 及的速やかに日本へ帰国させるべく,個別引揚げに必要な措置を講ずる高度の責務が生じていたといえる。 しかしながら,原告A25は,昭和21年7,8月ころ養父母から子供は途中で船から海に捨てられると脅され,同胞である開拓団員からの帰国の説得すら断ったという経緯があり,また,昭和28年に中国の公安局から原告A25及び原 25は,昭和21年7,8月ころ養父母から子供は途中で船から海に捨てられると脅され,同胞である開拓団員からの帰国の説得すら断ったという経緯があり,また,昭和28年に中国の公安局から原告A25及び原告A26(原告番号58)に対して希望者は帰国させる旨の話があり帰国者もいたというのであるから,原告A25が帰国しなかったことにつき被告を責めることはできない上,原告A25は,昭和35年ころから,香港にあった日本領事館と手紙で連絡を取り合い,香港への入国の仕方,香港から日本への旅費等,香港経由での日本への帰国に関する情報を教えてもらうとともに,昭和35年ころから昭和45年までの間に中国の公安局に対し8,9回にわたって帰国の申請をしたが,今はチャンスがないから待ってくれと言われたまま,ようやく昭和45年3月になって帰国の許可が下りたというのであるし,さらに帰国の際に中国の県の役人から,中国人の妻とは離婚することを帰国の条件とされ,やむなく妻と離婚して単独で帰国したというのであるから(甲各57の1,前記特段の事情があるとはいい難いだけでな)く,被告は,前記第5の3( )イ(イ)のとおり,原告A25の叔父の 申請を受けて,必要な書類を原告A25へ送付するとともに,居住地から香港までの旅費を支給し,香港から帰還先まで貨物船で引き揚げる措置を採っているのであって,前記(ア)のとおり,当時帰国の許否自体が中国側の意向に大きく左右される状況にあった上,昭和43年及び昭和44年には文化大革命の影響もあったこと(前記第5の3( )ア(イ))をも総合すると,原告A25との関係において も,厚生大臣ないし外務大臣について,法的な早期帰国実現義務違反があったとはいえない。 ( ) 原告A5(原告番号13)の帰国の経緯は,前記第5の4( )イ(ア)ba A25との関係において も,厚生大臣ないし外務大臣について,法的な早期帰国実現義務違反があったとはいえない。 ( ) 原告A5(原告番号13)の帰国の経緯は,前記第5の4( )イ(ア)ba のとおりであるところ,昭和41年11月過ぎころには,被告においても,原告A5の里帰りの希望を把握していたと推認されるが,被告は,原告A5に対し,その実母を通じて帰国証明書を送っていたものである。当時帰国の許否自体が中国側の意向に大きく依存する状況にあったことは,これまでに述べてきた事実に加え,原告A5に対する中国公安局の職員の対応にも看取できるところ,原告A5の一時帰国が遅れたのは,昭和42年ころの手紙からもうかがえるように,中国で一緒に暮らす家族の意向や中国側が再入国を許可してくれないのではとの懸念によるというべきである。そして,原,,,告A5は昭和47年11月下旬ころから一時帰国の手続を進めその約1年半後に一時帰国をし,いったん中国へ戻り,昭和55年9月ころに永住帰国しているが,その際,被告において,相応の時期に相応の対処をしているものであって,前記特段の事情は認められないし,厚生大臣ないし外務大臣の裁量に違法の瑕疵は認められない。 ( ) 原告A12(原告番号29)の帰国までの経緯は,前記第5の4b( )イ(イ)のとおりであるが,原告A12は,昭和38年7月ころ,調 査課職員に対し,日本への帰国を希望するので旅費等について知らせてほしい旨の手紙を送っており,昭和41年5月ころにも原告A12が永住帰国を希望している旨の情報が存在している。 しかしながら,個別引揚げは極めて長期間を要するだけでなく,日本人同士の夫婦の場合と異なり,中国人の係累がある場合には離縁を条件とされるなど,現実的な帰国を保証するものとはいい難い 存在している。 しかしながら,個別引揚げは極めて長期間を要するだけでなく,日本人同士の夫婦の場合と異なり,中国人の係累がある場合には離縁を条件とされるなど,現実的な帰国を保証するものとはいい難いことなどを考えると,被告において中国残留孤児に帰国手続の教示等の措置を採りさえすれば確実に早期帰国することができたといった前記特段の事情は認められないだけでなく,かえって,前記第5,,の4( )イ(イ)の一時帰国に至る経過に照らせば原告A12の真意は 実母の病気が回復すれば一緒に帰国することにあったものというべきところ,上記の手紙を送った後,一時帰国の手続を求める手紙を親族に送付するまでの間,原告A12から日本の家族等に手紙を送ったような形跡はうかがわれない上,日中国交正常化後には,一時帰国旅費の支給を申請して,日本国大使館の発行した旅券で一時帰国し,さらに,その後,厚生省から旅費を支給されて家族とともに永住帰国したことからすれば,日中国交正常化前には実母の病気や家族との関係があって,たやすく永住帰国するわけにもいかなかったものと推認できる(前記第5の4( )イ(イ)参照。 )そして,被告が必要に応じて帰国手続を教示していることは,原告A3原告番号11原告A4原告番号12原告A16原(),(),()()(,告番号36及び原告A25原告番号57の帰国経緯等前記a後記( ))から窺われるところであるし,日中国交正常化後,原告Ad12の一時帰国及び永住帰国の際には,しかるべき措置が採られている以上,厚生大臣ないし外務大臣が,法的な早期帰国実現義務に違反したとはいえない。 ( ) 原告A15原告番号35が帰国した経緯は前記第5の4( )c (),イ(ウ)のとおりであるところ,被告は, 臣ないし外務大臣が,法的な早期帰国実現義務に違反したとはいえない。 ( ) 原告A15原告番号35が帰国した経緯は前記第5の4( )c (),イ(ウ)のとおりであるところ,被告は,昭和34年になって,ようやく原告A15の所在を把握し,その後,東京都を通じて原告A15の弟に現地通信を試みるように促したが,結局は回答が得られなかったものである。かかる帰国の意思が明らかでない状況の下で,被告が帰国に向けた措置を積極的に採るべき法的義務があるとはいい難く,原告A15に5人の子がいる旨の情報を昭和40年に入手した後,帰国の意思は不明としつつ,帰国の意思はないものと思われると判断したとしても,違法とはいえない。そして,個別引揚げは極めて長期間を要するだけでなく,日本人同士の夫婦の場合と異なり,中国人の係累のある場合には離縁を条件とされるなど,結婚している原告A15にとって現実的な帰国を保証するものとはいい難く,被告において中国残留孤児に帰国手続の教示等の措置を採りさえすれば確実に早期帰国することができたといった前記特段の事情も認められない。 また,原告A15は,昭和48年ころ,一時帰国の希望を示す旨の手紙をその弟等に送っているが,実際に一時帰国の手続がなされたのは,昭和50年に一時帰国した原告A16(原告番号36)の話を聞いた後であり,昭和54年には一時帰国しているところ,被告としてはしかるべく対処している。その後,原告A15は,原告A16の息子に帰国費用を出してもらい永住帰国しているが,これは,昭和63年ころに永住帰国していた原告A16から,被告に帰国費用を負担してもらうには2,3年待つ必要があると言われたためであり,永住帰国の希望が被告へ直接伝えられた形跡はうかがえず,このような状況下で,被告が原告A15の帰国に向けた A16から,被告に帰国費用を負担してもらうには2,3年待つ必要があると言われたためであり,永住帰国の希望が被告へ直接伝えられた形跡はうかがえず,このような状況下で,被告が原告A15の帰国に向けた措置を採る法的義務に違反しているとはいえない。 ( ) 原告A16(原告番号36)の帰国に至る経緯は,前記第5の4d( )イ(エ)のとおりであるところ,原告A16は,中国で結婚した夫と 不仲なこともあって,基本的には子供を連れて日本へ帰国する希望を有していたものの,子供を連れて帰国することは周囲の反対が強くて許されないので自分も帰国できないが,お金があれば一時帰国したいという気持ちを有していたものと推認されるところ,この気持ちを書き連ねて一時帰国の意思を示すような手紙をその兄へ度々送っており,被告も昭和30年10月7日ころにはこれらの内容を了知していたものである。しかし,昭和29年8月から昭和36年ころまでは原告A16との通信が途絶えていた上,後期集団引揚げが終了した昭和36年以後における個別引揚げは極めて長期間を要するだけでなく,中国人の係累がある場合には離縁を条件とされるなど,結婚している原告A16にとって現実的な帰国を保証するものとはいい難いこと等く,被告において中国残留孤児に帰国手続の教示等の措置を採りさえすれば確実に早期帰国することができたといった前記特段の事情も認められない。そして,前記( )のような,a中国へ再入国できないのではという原告A5(原告番号13)の懸,,念からもうかがわれるように一時帰国も容易ではなかったところ被告は,日中国交正常化後,原告A16を一時帰国させる措置を採り,その後,原告A16の意向を受けて永住帰国させているものである。 してみると,日中国交正常化前においても,可能な限りの対処がなされ 被告は,日中国交正常化後,原告A16を一時帰国させる措置を採り,その後,原告A16の意向を受けて永住帰国させているものである。 してみると,日中国交正常化前においても,可能な限りの対処がなされていた上,日中国交正常化後は,適切な対処がなされているものであるから,厚生大臣ないし外務大臣が,法的な早期帰国実現義務を違法に怠ったとはいえない。 (ウ)原告らは,日中国交正常化前でも,国際赤十字委員会,国際連合,a中国側との交渉等を通じ,中国残留孤児の所在を捜索し,その帰国の意思を確認した上,その帰国を容易にするため財政上その他の措置を講ずるなどの総合的な政策を立案・実行すべき義務があったと主張する(前記第4の2( )イ(ア) ( ) 。 ba )しかし,中国側の意向により,中国に残留していた日本人の帰国の許否が大きく左右される状況が変化したわけではなく(前記(ア) ,)日本赤十字社を通じてされた日本向けの通信への協力要請に対しても回答がなかったところ(前記第5の3( )ア(ウ) ,原告らの主張する )ような交渉等を通じて中国残留孤児の所在を捜索すること等ができたかといわれれば,抽象的な可能性としてはさておき,具体的な可能性や蓋然性があったということはできない。 また,原告らの主張に係る総合的な政策を立案・実行すべき義務の内容は,極めて曖昧なものといわざるを得ず,特定を欠くとの被告の主張(前記第4の2( )イ(ア) )も首肯できるところであるが,その点 aをさておくとしても,現に生存している可能性の高い者については,相応の調査が行われていた上(前記第5の3( )ウ(イ) ( ) ,個別に中 aa )国から引き揚げる者については,一定の要件の下,中国から日本へ帰国する船運賃が国庫負担とされ,昭和37年6月からは,中 が行われていた上(前記第5の3( )ウ(イ) ( ) ,個別に中 aa )国から引き揚げる者については,一定の要件の下,中国から日本へ帰国する船運賃が国庫負担とされ,昭和37年6月からは,中国内の旅費も日本赤十字社へ委託する形で支給されており(前記第5の2( )ア (ア),現に原告A3(原告番号11,原告A4(原告番号12)及a))(),び原告A25原告番号57が香港ルートで帰国するに至ったのはその帰国意思を把握した被告が適宜対処したことによるものである(前記(イ)。 a)以上の検討からすれば,原告らの主張に係る前記義務は法的なものとして発生するとはいえず,その義務違反も認められない。 前述した原告A3(原告番号11,原告A4(原告番号12,原b))告A5原告番号13原告A12原告番号29原告A15原(),(),(告番号35,原告A16(原告番号36)及び原告A25(原告番)号57)以外の別紙個別主張一覧記載の各原告は,その中国における所在を被告が認識し又は認識し得た以上,個別に被告において早期帰(),国実現義務があったとも主張している前記第4の2( )イ(ア) ( ) が bb既に前記ア(ウ)並びに前記イ(ア),(イ)及び(ウ) に判示し,かつ,以下にba各個別事情を若干補足的に付加するとおり,原告らに対しては一般的に早期帰国実現義務ないしその違反を認め難いだけでなく,被告が当該原告の所在及び何らかの帰国意思等を具体的に伝えるような通信を把握していたとは認められないし,仮にこれが認められる場合であっても,被告において原告らに帰国手続の教示等の手続を採りさえすれば確実に当該原告が早期永住帰国することができたといった特段の事情(前記イ(イ)参照)があるとは認められない これが認められる場合であっても,被告において原告らに帰国手続の教示等の手続を採りさえすれば確実に当該原告が早期永住帰国することができたといった特段の事情(前記イ(イ)参照)があるとは認められないので,上記各原告との関係でも,被告に早期帰国実現義務ないしその違反があったとはいえない。 ( ) 原告A1(原告番号3)についてa被告は,原告A1について,昭和25年7月20日ころ,七虎力開拓団にいた引揚者から原告A1と一緒に引き揚げる予定のところ昭和21年5月5日に別れてしまった旨の情報を得,昭和34年2月23日付けで樺川県公安局から留守宅宛てに調査したが不明であるとの回答があった旨の情報を得ていたが,原告A1が引っ越しを繰り返していたこともあって,それ以上の情報を把握できていなかったところ,原告A1が,被告に宛てて肉親捜しを依頼する手紙を初めて送ったのは平成2年9月7日ころであり,被告が原告A1の住居等を早期に把握するのは困難であったと考えられる。また,原告A1は,平成3年11月26日から12月10日までの訪日調査に参加した際,永住帰国するための手続が記載された資料を受け取った上,平成4年2月下旬ころから4月までの間には,被告から,永住帰国する際の留意事項の案内や永住帰国の希望等の調査票を送付されていたところ,平成5年3月10日には,永住帰国したというのであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各3の1・3・4,乙各3の1,3の3,3の3の2,。 3の4,原告A1)( ) 原告A2(原告番号7)についてb原告A2の陳述録取書(甲各7の1,新聞記事(乙各7の1))及び弁論の全趣旨によれば,原告A2自身が養父からその臨終に際し教えられて日本人であることを知ったのは昭和57年で,その後自ら公安局に赴いて帰 2の陳述録取書(甲各7の1,新聞記事(乙各7の1))及び弁論の全趣旨によれば,原告A2自身が養父からその臨終に際し教えられて日本人であることを知ったのは昭和57年で,その後自ら公安局に赴いて帰国方法を教えてもらって帰国手続を採ったも,,,,ので他方原告A2の実父は原告A2の消息を把握しておらず,,日中国交正常化後中国残留婦人であったTからの情報提供により原告A2の住所地と思われる場所に手紙を送ったこともあったが,返事もなかったとのことである。被告は,原告A2とおぼしき者の所在等を全く把握していなかったわけではないが,その情報の中には何らかの帰国意思等を具体的に伝えるようなものはなく(かえって,原告A2とおぼしき者が一時帰国できない旨を伝えてきたこともある(乙各7の2,同情報と上記原告A2及びその実父の認。))識との齟齬にかんがみると,被告において,原告A2の所在及び何らかの帰国意思等を早期にかつ具体的に把握することは困難であったと考えられる。 ( ) 原告A6(原告番号16)についてc原告A6は,養父により中国国籍に登録され,日本人であることを隠すために転居したこともあり,昭和28年ころ養父の長男と婚姻したところ,昭和32年ころ,従兄弟のUが捜索を頼んでいた中国の公安局から,2,3回日本人ではないかと確認されたが,日本人であることは隠していたもので,被告において,原告A6の所在等を早期に把握するのは困難であったと考えられる。被告は,原告A6について,情報提供者からの事情聴取や通信調査を行っていたが,原告A6は,日中国交正常化後の昭和51年8月11日ころ,知人のVに書いてもらった手紙を広島県に対して送ったことを契機に,昭和53年8月22日に一時帰国し,その後養父が永住帰国を許すに至ったため,昭和61 は,日中国交正常化後の昭和51年8月11日ころ,知人のVに書いてもらった手紙を広島県に対して送ったことを契機に,昭和53年8月22日に一時帰国し,その後養父が永住帰国を許すに至ったため,昭和61年12月9日永住帰国したもので,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各16の。 1・5,16の8の1・2,16の10,乙各16の1ないし3,原告A6)( ) 原告A7(原告番号17)についてd原告A7の生存及び所在が確認されたのは,昭和51年11月15日ころから昭和52年2月14日ころにかけて,広島県の援護課や親族らに手紙が送られてきたことによるもので,被告が原告A7の住居等を早期に把握するのは困難であったと考えられるところ,原告A7のその帰国意思の表明及び旅費申請手続を受けて,昭和54年には一時帰国が実現しているものであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各17の2,乙各17の1。 )( ) 原告A8(原告番号18)についてe原告A8が自分の口戸籍の民族欄の記載から初めて自分が日本人,,,であると知ったのは昭和46年ころであり被告が同時期以前に原告A8の所在及び何らかの帰国意思等を具体的に把握することは困難であると考えられるところ,原告A8は,昭和56年に長野から訪中した訪問団から5年後には日本で肉親捜しができると聞き,昭和61年春に公安部にその申請をしたもので,昭和62年11月6日には永住帰国が実現しているものであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各3の4,18の1。 )( ) 原告A9(原告番号24)についてf原告A9の実姉Wは,昭和28年に帰国しており,昭和21年9月に原告A9が預けられた先を知っていたが,その後原告A9とのやり取りはなく,被告 の1。 )( ) 原告A9(原告番号24)についてf原告A9の実姉Wは,昭和28年に帰国しており,昭和21年9月に原告A9が預けられた先を知っていたが,その後原告A9とのやり取りはなく,被告において,昭和35年ころに何度か通信調査を行うも,原告A9の消息はつかめなかった。広島県は,昭和48年12月ころ,原告A9の叔母Bから,原告A9が生存しているとの連絡を受けており,昭和49年5月には,被告の下にも原告A9の手紙が届いていたところ,そのころ以前に被告において,原告A9の所在及び何らかの帰国意思等を具体的に把握することは困難であったと考えられる。他方,原告A9は,昭和28年ころ,中国の関係機関で行われた3日間にわたる説明会(ここで原告A9は,実兄の原告A20(原告番号47)やBに会っている)に呼び出さ。 れ,帰国を希望すれば帰国手続をするといわれたが,帰国を希望せず,Bが昭和50年ころに一時帰国した後も,養父母の面倒を見る者がいなかったため,養父母が亡くなった後の平成7年8月になってようやく永住帰国したもので,被告に早期帰国実現義務の違反があったとは認められない(甲各24の1・3・4,47の3,乙。 各24の1・2,原告A20,弁論の全趣旨)( ) 原告A10(原告番号26)についてg原告A10は,昭和53年ころ,養父母から日本人の子どもであることを打ち明けられたことをきっかけに,昭和54年に日本大使館に手紙を出し,日本にいる実父母と連絡を取るようになったもので,被告が早期に原告A10の所在等を把握することは困難であったと考えられ,昭和59年には一時帰国が実現し,その後,家庭,仕事等の事情から,実母が病気になっていることを知った平成10年までは永住帰国しようとしなかったものであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があっ れ,昭和59年には一時帰国が実現し,その後,家庭,仕事等の事情から,実母が病気になっていることを知った平成10年までは永住帰国しようとしなかったものであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各26の1。 )( ) 原告A11(原告番号27)についてh被告は,昭和34年12月ないし昭和36年ころ,昭和21,2年当時の原告A11の消息情報を得ていたが,かかる情報自体,10年以上経過した古いものであった上,原告A11は,昭和23年ころに転居し,昭和34年ころに元住んでいたところへ帰ってきたが,その後,申立てにより原告A11の戦時死亡宣告がなされていたことからすれば,被告が早期に原告A11の所在等を把握することは困難であったというほかなく,原告A11は,昭和48年に肉親捜しの申請書を提出し,昭和50年には一時帰国を果たしているのであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各27の1・2。 )( ) 原告A13(原告番号30)についてi原告A13は,昭和28年7月に中国人の夫と結婚したが,その約1か月後に自宅を訪ねてきた公安局の役人から,日本への帰国を希望するかと問われて,決められないと答えたため帰国できず,その後は,日本人であることを隠していた。日中国交正常化後,日本への帰国を決心した原告A13は,昭和52年4月28日ころ,近くに住んでいたEに日本への手紙を託し,これが被告に届けられたことを契機に,昭和53年10月17日に一時帰国しているものである。かかる経緯に照らすと,被告において,原告A13の所在等を早期に把握することは困難であったと考えられ,また,早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各30の1・5ないし。 7・10ないし12,原告A13)( ) 原告A14(原告番号3 の所在等を早期に把握することは困難であったと考えられ,また,早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各30の1・5ないし。 7・10ないし12,原告A13)( ) 原告A14(原告番号33)についてj原告A14については,その消息が不明であるとして,その実母が,戦時死亡宣告家事審判申立てをし,昭和38年7月17日にその裁判が確定していたところ,被告が昭和42年に一斉現地調査をしたことで原告A14の生存が判明し,これをきっかけに原告A14とその実母との文通が始まったものであり,被告が早期に原告A14の所在等を把握することは困難であった。そして,原告A14は,日中国交正常化後の昭和50年7月8日に一時帰国しているところ,夫の同意が得られたことで,昭和63年7月23日に永住帰国したものであるから,被告が早期帰国実現義務に違反したものとは認められない(甲各33の2ないし4,乙各33の1)。 ( ) 原告A17(原告番号37)についてk原告A17については,昭和29年の時点で戸籍上昭和21年1月13日に死亡したものとされており,原告A17の親族等から生存情報等がもたらされない限りは,被告としても,原告A17の所在等を調査することは困難であったというほかない。また,原告A17は,夫,養母及び小さな子供等の家族がいたことから帰国手続を採っていなかったところ,平成6年及び平成7年に夫及び養母を亡くし,また,子供が大きくなったことから,手続を経て,平成9年11月に永住帰国したもので,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各37の1ないし3・7・12。 )( ) 原告A18(原告番号38)についてl原告A18は,養父が亡くなった年の翌年の昭和58年になり初めて,日本人であることの手掛かりを求めて中国の公安局を訪ねて 7の1ないし3・7・12。 )( ) 原告A18(原告番号38)についてl原告A18は,養父が亡くなった年の翌年の昭和58年になり初めて,日本人であることの手掛かりを求めて中国の公安局を訪ねているところ,それ以前に被告が原告A18の所在等を把握することは困難であったものである。そして,原告A18は,昭和60年12月に被告へ手紙を送り,昭和61年4月に必要書類の郵送を受けて手続を経た後,昭和61年9月に一時帰国しているが,子供が大きくなるまで我慢しようとの思いから,平成8年になって永住帰国,。 したもので被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各38の2)( ) 原告A19(原告番号40)についてm被告は,昭和30年代に原告A19の消息情報を何度か得ているが,その内容はいずれも昭和21,2年ころの古いものにすぎず,原告A19の所在等を早期に把握するのは困難であったと考えられる。そして,原告A19は,昭和49年10月,被告に肉親捜しの申請をし,昭和50年11月には一時帰国をしたが,中国で同居する家族の意向等を受けて,平成8年になって永住帰国したもので,被告に早期帰国実現義務の違反はない(甲各40の1ないし4)。 ( ) 原告A20(原告番号47)についてn原告A20の姉Wは,昭和28年に帰国していて原告A20の預けられた先を知っていたところ,広島県は,昭和21年1月21日に原告A20と同じ開拓団にいた者から昭和20年10月時点で原告A20が中国人宅にいる旨の情報を,昭和31年2月24日には同開拓団にいた別の者から昭和21年7月20日時点での同様の情報を,昭和35年5月30日ころには叔母Bの付近に原告A20が住んでいる旨の情報を,昭和40年1月22日ころにはBから原告A20が中国籍となっていて長春の大学に行 和21年7月20日時点での同様の情報を,昭和35年5月30日ころには叔母Bの付近に原告A20が住んでいる旨の情報を,昭和40年1月22日ころにはBから原告A20が中国籍となっていて長春の大学に行っているなどの情報を,それぞれ得ていたところ,Bを通じて原告A20の帰国意思を。 ,,確認すべく調査が継続されていた原告A20は昭和28年ころ中国政府の関係機関で行われた3日間にわたる説明会(ここで原告A20は弟の原告A9(原告番号24)やBに会っている)に呼。 び出され,帰国を希望すれば帰国手続をするといわれたが,帰国を希望しなかったところ,昭和50年に一時帰国したBから,昭和28年に帰国していた姉Wのことを聞き,姉や昭和55年3月に一時帰国した原告A9から帰国方法を聞いて,昭和55年11月に広島県に帰国意思があることを伝え,昭和59年に一時帰国をし,その後養父母から永住帰国を許されるに至って,ようやく平成元年11月ころ永住帰国したものである。かかる経緯に照らすと,被告において,原告A20の所在をある程度把握していたといえるが,原告A20の帰国意思が具体的に把握できなかったものであり,被告に早期帰国実現義務の違反があったとは認められない(甲各24の。 1,35の3,47の1ないし3,47の26の1・2,47の27ないし31,原告A20,弁論の全趣旨)( ) 原告A21(原告番号49)についてo原告A21は,昭和56年4月ころ,中国の公安局に対し,肉親捜しを申請したが,それ以前に原告A21の情報が被告の下へ寄せられたことがうかがえない以上,被告が原告A21の所在等を早期に把握することは困難であったと考えられるし,原告A21は,子供が幼かったことや,家族全員の帰国を中国政府が直ちに許可することは難しかったことから,平成9年になっ 上,被告が原告A21の所在等を早期に把握することは困難であったと考えられるし,原告A21は,子供が幼かったことや,家族全員の帰国を中国政府が直ちに許可することは難しかったことから,平成9年になって永住帰国したというのであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとはいえない(甲各49の1,弁論の全趣旨。 )( ) 原告A22(原告番号51)についてp原告A22については,戦時死亡宣告がなされていた上,昭和54年ころ,在中国日本国大使館へ原告A22が手紙を送付するまでには原告A22の情報が被告の下へ寄せられたことはうかがわれないところ,被告が早期に原告A22の所在を把握することは困難であったというべく,また,原告A22は,昭和56年6月2日に一時帰国をし,そのまま永住帰国をしたものであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとは認められない(甲各51の1,弁論の全趣旨。 )( ) 原告A23(原告番号55)についてq被告は,原告A23について,昭和29年に未帰還者の届出を受け,昭和30年ころにはその生存情報を入手した後,留守家族を通じて原告A16(原告番号36)への現地通信を繰り返し,それにより原告A23の帰国意思の確認に努めていたが,昭和30年ころから後期集団引揚げ終了後の昭和36年ころまでの間,通信事情の悪化により,原告A16及び原告A23の両名への連絡が著しく困難となって消息を把握し得なかった。原告A23は,昭和38年,中国人と結婚して当時は出国自体が困難な状況となっており,被告においては,原告A23の帰国意思について,昭和42年,昭和48年及び昭和54年には消極的であるとの情報を得ていた。そうすると,被告としては,原告A23の所在等を適切に把握し,その情,,,報に応じた対応をしていたものというべくそ て,昭和42年,昭和48年及び昭和54年には消極的であるとの情報を得ていた。そうすると,被告としては,原告A23の所在等を適切に把握し,その情,,,報に応じた対応をしていたものというべくその後原告A23は平成2年12月25日に一時帰国をし,そのまま永住帰国をしたものであるから,被告に早期帰国実現の違反があったとは認められない(甲各36の2ないし4・7・9,甲各55の1・2,乙各5。 5の1ないし4)( ) 原告A24(原告番号56)についてr被告は,未引揚届が提出された昭和32年12月9日ころ,原告A24の生存情報を把握し,その後,原告A24の帰国意思を確認するため,何度も現地通信を試みるよう都道府県に依頼したが,原告A24からは帰国意思がないことを示すような情報しかもたらされなかったところ,原告A24は,昭和55年10月24日に一時帰国をしているのであるから,被告に早期帰国実現義務の違反があったとは認め難い(甲各56の1・2,乙各56の1ないし4。 )( ) 原告A26(原告番号58)についてs被告は,昭和30年4月ころ,原告A26の生存・所在情報を得ており,昭和32年12月ころには,中国政府が原告A26のそれを把握していたことも情報として認識していたが,原告A26は,昭和21年7,8月ころ,養父母から子どもは途中で船から海に捨てられると脅かされ,同胞である開拓団員からの帰国の説得すら断っているし,昭和28年に中国の公安局から原告A25(原告番号57)及び原告A26に対して希望者は帰国させる旨の話があり,これにより帰国した者もいたにもかかわらず,これを断っているものである上,原告A26は,原告A25が昭和35年ころから被告と連絡を取り昭和45年3月に単身で永住帰国したことを知りながら,永住帰国するためには昭和 した者もいたにもかかわらず,これを断っているものである上,原告A26は,原告A25が昭和35年ころから被告と連絡を取り昭和45年3月に単身で永住帰国したことを知りながら,永住帰国するためには昭和35年に結婚した妻と離婚しなければならないと聞き,永住帰国する気にはならず,日中国交正常化後の昭和54年12月18日に一時帰国をし,永住帰国できることを知りつつも,平成6年ころに手続を採って,平成8年11月18日に家族で永住帰国したものである。このような経緯に照らせば,被告においては,しかるべき時期に原告A26の帰国意思を把握し,適切に対処しているものというべく,前記特段の事情は認められないのであるから,早期帰国実現義務の違反があったとは認められない(甲各57の1,甲各58の1ないし7)。 ( ) 原告A27(原告番号59)についてt原告A27については,昭和54年11月19日に「未引揚についての届」が出されており,原告A27と往来のあった姉の原告A7(原告番号17)は,昭和51年ないし昭和52年にその所在等が確認され,昭和54年に一時帰国しているが,そのころよりも前に被告が原告A27の所在等を把握することは困難であったといえる(甲各59の1,乙各59の1。 )( ) 原告A28(原告番号60)についてu原告A28は,20歳のころ,兄から帰国を誘われた際,夫と別れなければならなくなるとしてこれを断り,兄が昭和33年に帰国,,した後も兄と手紙のやりとりをして連絡を取り続けていたところ昭和52年及び昭和60年に一時帰国をした上,小さな子どもがいたこと等から,平成15年になって永住帰国をしたというのであるから被告に早期帰国実現義務の違反があったとは認められない甲,(各60の1。 )原告らは,被告が,中国に多数の未帰還者がい どもがいたこと等から,平成15年になって永住帰国をしたというのであるから被告に早期帰国実現義務の違反があったとは認められない甲,(各60の1。 )原告らは,被告が,中国に多数の未帰還者がいることを認識し又はc認識し得たのに,留守家族団体の反対にもかかわらず,中国における調査を実施しないまま,未帰還者特別措置法を成立させた上,強引に戦時死亡宣告制度を運用するとともに,明確に帰国意思を表明しないばかりか,現地での生活実態や一時帰国の希望等の事情をとらえて帰国意思のないものとみなし,中国残留孤児を調査の対象から除外し,さらに,引揚担当機関を次々と縮小ないし廃止していったとして,このような所為は早期帰国実現義務を違法に怠ったものであるとも主張している(前記第4の3( )イ(ア) 。 )( ) しかし,未帰還者特別措置法が制定された背景としては,終戦後a長きにわたる調査によっても,その消息を解明できない未帰還者が相当数存在していた状況下で,留守家族団体から国の十分な措置を伴った未帰還者の最終的処理等についての要望が起こりはじめたとともに,未帰還者留守家族等援護法による留守家族手当の支給の終了が間近に迫ったことから,当時の法令では適切な対処ができない未帰還者の最終的処理を行う特別の措置が必要である旨が認識されていたことがある(前記第5の3( )ア(ア))ところ,その制定過程 においては,留守家族団体の意向を受け,閣僚懇談会では申し合わせ事項が定められ,それらに基づき要綱案が策定され,引揚同胞対策審議会の基本的賛意も得られ,未帰還者の一斉調査も行われていたものであり(前記第5の3( )ア(イ) ,未帰還者特別措置法の制 )定自体が違法とされる余地はない。 また,未帰還者特別措置法の運用状況(前記第5の3( )ウ(ア) ) の一斉調査も行われていたものであり(前記第5の3( )ア(イ) ,未帰還者特別措置法の制 )定自体が違法とされる余地はない。 また,未帰還者特別措置法の運用状況(前記第5の3( )ウ(ア) ) aをみるに,厚生省は,その保有する資料により未帰還者特別措置法上の未帰還者と認められる者につき,戦時死亡宣告の審判の申立てを行うこととしていたが,未帰還者特別措置法が制定された以上,それを運用することはむしろ当然であり,申立てに際しては,該当予定者の留守家族の意向を調査の上,その同意を得ることとされている。この同意を留守家族から得るに際し,戦時死亡宣告の審判が確定すれば死亡した者とみなされる(前記第5の3( )イ(オ))こと への心理的抵抗等があったと推認され,それゆえ同意しない家族については,面接の上説得するなどとされている。このような運用を原告らは論難するが(前記第4の3( )イ(ア),厚生省の資料だけ a)から家族の同意を得ないままに申立てを強行するといった運用と比較するまでもなく,上述の運用は穏当な手法であるというべきであり,家族の反対で申立てがなされなかった者もいることを考慮すべきである(前記第4の3( )イ(ア) ,第6の2( )イ(イ) ( ),弁論の a bd全趣旨。そして,戦時死亡宣告が確定しても,生存の事実が判明)すれば,戦時死亡宣告の取消しに向けて対処される運用がなされていた(前記第5の3( )ウ(ア) ( ))以上,未帰還者特別措置法の運 ac用の面でも違法とされるところはない。 ( ) 未帰還者特別措置法施行後の調査は,前記第5の3( )ウ(イ)のb a,,,とおり現に生存している可能性の高い者等その可能性が低い者及び戦時死亡宣告審判確定者等といった生存可能性の程度に 帰還者特別措置法施行後の調査は,前記第5の3( )ウ(イ)のb a,,,とおり現に生存している可能性の高い者等その可能性が低い者及び戦時死亡宣告審判確定者等といった生存可能性の程度に応じて区別され,前一者については生存の事実及び帰国意思に係る資料の収集がなされたのに対し,後二者については死亡処理を行うないし死亡を確認する方向の調査がなされているところ,このような生存可能性の程度に応じた調査は,生存している者につき,その意向を反映した措置を可能とするもので,合理性に欠けるとはいえない。 また「自己の意思により帰還しないと認められる者」の認定に,ついては,前記第5の3( )ウ(イ)のとおりであるところ,そもそ bもこの認定がなされる事例が少なかったのは,留守家族手当の支給の関係が障害となっていたためであるが,要件に当たる以上は相応の認定をする方が本筋であるし,この認定に当たっても,本人からの来信,帰還者の確実な証言,本人の生活状況等を総合判断し,残留希望が確実と認められる者につき,その留守家族に対して事情等を詳細に説明し,十分な納得が得られるように配慮することとされており,前記(イ) ( )のとおり,この認定が留守家族の意向でなさbdれなかった事例さえも存在しているのであるから,原告らの主張するように,中国残留孤児を調査の対象から不当に除外したとは認められない。 ( ) さらに,原告らは,引揚担当機関が縮小ないし廃止されていったcことも問題としているが,戦後十数年以上が経過し,集団引揚者も終了した状況の中で,効率的な行政運営の観点から引揚担当機関の統廃合を行ったとしても,これを違法とみることはできない。 ウ日中国交正常化後について(ア) 昭和47年9月29日の日中国交正常化自体により,中国残留孤児の調査 な行政運営の観点から引揚担当機関の統廃合を行ったとしても,これを違法とみることはできない。 ウ日中国交正常化後について(ア) 昭和47年9月29日の日中国交正常化自体により,中国残留孤児の調査を行うに際し,国際法規に則り外交ルートを通じた中国側の協力が飛躍的に得られやすくなったことは明らかであるが,加えて,日中国交正常化後には,中国残留者から日本国内へ手紙による通信が活発に行われるようになるとともに,中国残留孤児等から日本の関係各機関に数多くの調査依頼が寄せられるようになっており(前記第5の4( ) ,通 1 )信事情の観点からも,個別の中国残留孤児の状況の把握の容易さという観点からも,中国残留孤児の調査を行うための環境は,日中国交正常化前と比較して大きく好転しているところ,被告においては,後期集団引揚げ終了前から,相当な数の中国残留孤児が存在することを認識し又は認識し得たものである(前記ア(ア) 。 )そして,前記( )アのとおり,被告の先行行為による危険が生じていた 以上,被告,とりわけ引揚援護を所掌事務とする厚生省を統括する厚生大臣は,日中国交正常化以降,中国残留孤児の調査究明に努め,帰国を希望する中国残留孤児の早期帰国を実現させるべき高度の政治的責務を負っていたということができよう。 (イ)もっとも,終戦後約27年が経過した日中国交正常化のころには,a中国国内の情勢は,終戦後とは比較にならないほど落ち着き,また,中国残留孤児も成人に達し,中国で新たな生活の基盤を築いていたも,,ので中国残留孤児が放置され続けることで生ずる被害ないし危険は後期集団引揚げ終了前のそれ(前記ア(ア))とは異なる意味で決して小さくみることのできないものであるとはいえ,生命,身体等に対する切迫した危険でなかったことも確かである。 また, る被害ないし危険は後期集団引揚げ終了前のそれ(前記ア(ア))とは異なる意味で決して小さくみることのできないものであるとはいえ,生命,身体等に対する切迫した危険でなかったことも確かである。 また,具体的に作為を要求する法令や権限規定等がない状況の下,調査究明ないし早期帰国の実現のため,どのような手段を選択するかについては,具体的事情の下での技術面,財政面,外交面等の制約を考慮に入れた政策的判断も必要であるといわざるを得ず,その意味において,厚生大臣には相応の裁量が認められるといわざるを得ない。 したがって,厚生大臣に早期帰国実現義務違反が認められるか否かについては,慎重な検討を要するものというべく,具体的事情の下において,ある施策の立案ないし実行が一般的に要求されかつ客観的に可能であったのに,かかる施策を厚生大臣が通常必要とされる期間内に立案ないし実行しなかった場合や,厚生大臣が採った具体的な施策ないし措置が裁量を著しく逸脱した不合理なものである場合に限り,違法な不作為があったと認められると解する。 かかる点を中国残留孤児の調査究明の観点から検討するに,日本政b府は,日中国交正常化後間もない昭和48年3月から,厚生省の調査担当官を現地へ派遣し,戦時死亡宣告により除籍された者及び自己の意思により帰還しない者として未帰還者から除かれた者をも含めて,未帰還者の現地調査を行い(前記第5の4( )ア(ア) ,中国残留孤児か )ら寄せられた手掛かりを関係各資料と照合し,該当者と思われる者については家族に確認を求めていた(前記第5の4( )ア(イ))ところ,新 聞の特集記事として中国残留孤児の手掛かりが連載されるといった動き等を受け,昭和50年3月12日から,報道機関の協力を得て,新,()。 聞テレビ等による公開調査を実施していた ところ,新 聞の特集記事として中国残留孤児の手掛かりが連載されるといった動き等を受け,昭和50年3月12日から,報道機関の協力を得て,新,()。 聞テレビ等による公開調査を実施していた前記第5の4( )ア(ウ) これらの調査は,昭和56年1月12日までの間の公開調査で合計166人の中国残留孤児の身元が確認されるなど,一定程度の成果を上げていたものであるが,中国残留孤児と直接対面して身元を確認したいという要望が寄せられるようになって,厚生省は,昭和54年ころから,訪日調査の実施を検討していたところ,中国側から指摘された訪日調査の実施上の問題点も対象に含めた外交交渉を重ねた後,日本政府は昭和56年3月から訪日調査を実施した前記第5の4( ),,( イ(ア) 。この訪日調査については,中国側からの要請や中国残留日本)人孤児懇談会の昭和57年8月26日付けの報告書もあって,1回当たりの訪日調査数は当初数十名程度とされていたが,単年度ベースの訪日調査数は,昭和57年度及び昭和58年度に各々100人超,昭和59年度には180人とされ,中国残留日本人孤児懇談会の昭和60年7月22日付けの報告書において,申し出のある者の訪日調査は可能な限り昭和61年度を目途に完了させるとの指針が示されたことを受け,昭和60年度及び昭和61年度には合計1000人を超える者の訪日調査が実施されている(前記第5の4( )イ(ウ) ないし。そ ac)の後,厚生省へ寄せられる調査依頼の件数が相当減少していたこと等から,概了宣言がなされ,以後,従前規模の訪日調査は行われなかったが,それでも平成11年度までに15回,合計600人超の訪日調査が実施されており(前記第5の4( )イ(ウ) 及び,徐々に身元判明 cd)率は低下したにせよ,通 模の訪日調査は行われなかったが,それでも平成11年度までに15回,合計600人超の訪日調査が実施されており(前記第5の4( )イ(ウ) 及び,徐々に身元判明 cd)率は低下したにせよ,通算合計670人の中国残留孤児の身元が判明している。 このような訪日調査に付随して,身体に障害を有しているため訪日調査への参加が困難な者及び日中両国政府のいずれかの側が中国残留孤児と確認できない者については,各々訪中調査も実施されていたところ,訪日調査の終了後には,訪日対面調査が行われており,また,身元未判明孤児の肉親調査を促進すべく,キャラバン調査等も実施されている(前記第5の4( )ウ。 )このように,日中国交正常化後間もない時期から,その時々の国内国外の動きに応じて,様々な形態で中国残留孤児の調査究明は実施されていたものであり,事後的にみてより優れた方途があったといえるかは格別,厚生大臣が,一般的に要求されかつ客観的に可能な調査を通常必要とされる期間内に実施しなかったり,裁量を著しく逸脱した不合理な調査を実施したとは認められず,中国残留孤児の調査究明の観点から,厚生大臣の早期帰国実現義務違反は認められない。 また,帰国を希望する中国残留孤児の早期帰国を実現させるというc観点から検討するに,引揚者に対しては,日中国交正常化以前から,一定の要件の下で船運賃等が支給されていたところ,日中国交正常化後には,日本赤十字社への委託により支給されていた中国国内の旅費が直接国庫から支給されるようになり,航空運賃も国庫負担の対象と。 ,,されているこの旅費の国庫負担の対象には日中国交正常化前から帰国者本人に加え,同行する配偶者,未成年の子等の扶養親族も含まれていたところ,平成4年度には,身体に障害を有する帰国者本人を扶養するために同行す この旅費の国庫負担の対象には日中国交正常化前から帰国者本人に加え,同行する配偶者,未成年の子等の扶養親族も含まれていたところ,平成4年度には,身体に障害を有する帰国者本人を扶養するために同行する成年の子1世帯が,平成6年度には,高齢の帰国者本人を扶養するために同行する成年の子1世帯が,含まれるようになり,高齢とされる要件も徐々に緩和されているものである(前。 記第5の4( )ア) このように,帰国のために必要な旅費を支給するという点についてaは,日中国交正常化前から,相応な手当てがなされており,前記イ(イ)のとおり,原告らの一部も旅費の支給を受けて帰国しているところ,上述のように,日中国交正常化後においても,それを拡充する方向で施策が採られ,また,原告らのうち相当数の者が帰国に際して旅費の支給を受けていると推察されるのである。そうすると,帰国を希望する中国残留孤児の早期帰国を実現させるという観点からも,厚生大臣の早期帰国実現義務違反は認められない。 前記及びの次第で,中国残留孤児の調査究明の観点からも,帰dbc国を希望する中国残留孤児を早期に帰国させる観点からも,厚生大臣が法的な早期帰国実現義務に違反したものとは認められず,また,後記(ウ)のとおり,その余の点でも違法とされるべき点が認められない以上,厚生大臣による違法な不作為があったとはいえない。 (ウ)原告らは,保有資料による調査及び公開調査については,不十分にa(),,しか実施されず前記第4の3( )ウ(ア) 及び訪日調査については ab開始時期が遅れ調査が長期化しその方法も不十分であったとし前,,(記第4の3( )ウ(ア),その他の調査も,実効性がなかったり,時期, c)(),規模等の面で不十分であったりした前記第 れ調査が長期化しその方法も不十分であったとし前,,(記第4の3( )ウ(ア),その他の調査も,実効性がなかったり,時期, c)(),規模等の面で不十分であったりした前記第4の3( )ウ(ア)として dかかる中国残留孤児の実態調査及び肉親捜しに対する消極的姿勢は違法であると主張している。 ( ) しかし,保有資料による調査が不十分であったとする点についてaは,日中国交正常化後に中国残留孤児から数多く寄せられた調査依(),,頼前記第5の4( )へ対処するためには調査依頼自体の翻訳 関係資料との照合等に相応の時間がかかることは明らかであり,殊。 ,更これが遅延したと認められる具体的事情はうかがわれないまた公開調査は,新聞の特集記事において中国残留孤児の手掛かりが連載されるという動き等を受けて開始された側面はあるが(前記第5),,,の4( )ア(ウ)終戦後四半世紀が経過した中前記(イ) のとおり b合計166人の身元確認という一定の成果を上げているのである。 これらの調査につき,早期帰国実現義務に違反する違法な点は認められない。 ,,( ) 訪日調査についてみるに日中国交正常化後直ちに準備に着手しbより早期に行われていれば,身元判明率がより高くなった可能性は,。 あるがそれは事後的に理想的な状況を措定していえることである,,,厚生省としては在日親族からの要望を受け昭和54年ころから訪日調査を計画していたところ,養父母等が本人の日本行きに同意しない可能性,中国側の調査では中国残留孤児であると認められない者が存在すること等の懸案について交渉が重ねられた結果,昭和56年3月から訪日調査が実施されたものであり前記第5の4( )( イ(ア) ,違法とすべき開始時期の遅 国残留孤児であると認められない者が存在すること等の懸案について交渉が重ねられた結果,昭和56年3月から訪日調査が実施されたものであり前記第5の4( )( イ(ア) ,違法とすべき開始時期の遅れがあったものとは認められな)い。 原告らは,1回当たりの訪日人数枠が制限されていたため,訪日調査が長期化したことを問題とする(前記第4の3( )ウ(ア) ( ) 。 cb )確かに1回当たりの訪日調査数は当初数十名とされていたが,その要因に中国側の要請等があったことは,前記(イ)に説示のとおりb。 ,,であるまた単年度ベースの訪日調査数は徐々に増加している上申し出のある者の訪日調査は可能な限り昭和61年度を目途に完了させるとの指針から,昭和60年度及び昭和61年度には合計1000人を超える者の訪日調査が実施されており,その当時の具体的状況の下でしかるべき訪日調査が行われているのである。訪日調査自体は平成11年度まで続いているが,これは中国残留日本人孤児問題懇談会の報告書で調査依頼がある限り肉親捜しは継続しなければならないとされたことによるものであり,むしろ中国残留孤児の調査究明を尽くそうとした結果というべきものである。訪日調査の期間等についても,違法とすべき点は認められない。 原告らは,訪日調査に当たっては正確性ないし信用性の高い血液鑑定及びDNA鑑定を実施すべきであったとし,中国残留孤児問題全国協議会から原則的に血液鑑定を実施すべきとの要請があったにもかかわらず,血液鑑定は行われず,またDNA鑑定も考慮されていなかったとする(前記第4の3( )ウ(ア) ( ) 。調査に当たって科 cc )学的手段を念頭に置くこと自体は望ましいといえるが,そもそも人権上の問題から鑑定の実施を当事者の希望する場合に限ることはやむを 前記第4の3( )ウ(ア) ( ) 。調査に当たって科 cc )学的手段を念頭に置くこと自体は望ましいといえるが,そもそも人権上の問題から鑑定の実施を当事者の希望する場合に限ることはやむを得ないことであるから,血液鑑定ないしDNA鑑定を実施しないことだけで裁量を逸脱したとは到底認められない上,これらの手段を絶対視できないことは,血液鑑定により確実に血縁関係が分かるわけではなかった点からも明らかであり,また,希望者については血液鑑定及びDNA鑑定が実施され,本人及び負担が困難と認められる肉親関係者についてはその費用が国庫負担とされていた(前記第5の4( )イ(イ) )ものである。そして,現に行われた調査によ bり,通算合計670人の中国残留孤児の身元が判明するという,完璧とはいえないが相当の結果が得られている以上,調査方法の面でも,違法とすべきところはない。 ( ) 原告らは,訪中調査,身元未判明者のキャラバン調査等についてcも,実効性がなかった,時期,規模等の面で不十分であったなどと(),,主張するが前記第4の3( )ウ(ア)前記第5の4( )ウのとおり d いずれの調査等も,具体的状況の下で相応の判断に基づきなされているもので,違法な点は認められない。 ( ) 終戦後長きにわたり中国に放置されてきた中国残留孤児の立場にdしてみれば,多種多様な調査が,早期にかつ大規模にしかも実効的に実施されていればとの気持ちは十二分に理解でき,また,結果だけをみて不十分ということもたやすいことではあるが,法的な義務違反があるかどうかについては,当時の具体的事情に立脚した冷静な判断が必要であるというべく,原告らが中国残留孤児の調査究明,,に関して主張している事項については前記( )ないし( )のとおりacこれ かどうかについては,当時の具体的事情に立脚した冷静な判断が必要であるというべく,原告らが中国残留孤児の調査究明,,に関して主張している事項については前記( )ないし( )のとおりacこれを違法ということはできない。 原告らは,帰国旅費の国庫負担制度について,支給範囲の制限等,b制度周知の不備,受給手続の困難さ,自己負担の原則,支給対象者の限定等の問題が存在する不十分なものであるとし,この点についても違法であると主張している(前記第4の3( )ウ(イ) 。 )前記(ア)にいう,帰国を希望する中国残留孤児の早期帰国を実現させるべき政治的責務とは,日本へ永住帰国しようとする中国残留孤児を合理的な理由もなく帰国させないこととしてはならないという消極的側面に尽きるものではなく,日本人である中国残留孤児を日本へ永住帰国させる措置を要求する積極的側面も含むものではあるが,後者については,技術面,財政面,外交面等の制約を考慮に入れた政策的判断が必要であり,裁量の逸脱がない限りは違法視することはできないものである。 ( ) かかる観点から原告の主張をみるに,支給範囲については,中国aにおける居住地から日本までの旅費が支給されていた(前記第5の4( )ア(ア))以上,不十分とするところはない。原告らは,支給さ れた旅費が片道分とされたことや一度里帰りした者には支給されなかったことをもって多くの制限が課されていたとするが,そもそも早期帰国実現義務との関係で問題とされるべき帰国とは永住帰国をいうものであり,旅費の支給を片道分に限ったとて問題はなく,また,里帰りという形で帰国した者は中国への定住を前提にしているところ,海外へ定住する者に対し,その希望する都度帰国する費用を支給しなければならない理由はないと考えられるから,支給範囲の点に く,また,里帰りという形で帰国した者は中国への定住を前提にしているところ,海外へ定住する者に対し,その希望する都度帰国する費用を支給しなければならない理由はないと考えられるから,支給範囲の点について,違法とされるべきところはない。 ( ) また,原告らは,国庫負担の要件として,本人及びその留守家族bが帰国旅費を負担することが困難な事情にあることを要求されたことを問題であるとし,支給対象者が同行する配偶者,未成年の子等の扶養親族に原則として限られていたことについても問題であるとするが,前者については,そもそも帰国旅費を負担できる者についてまで国がこれを負担すべきとは考え難いし,後者についても,そもそも帰国者本人にだけ支給すれば足りると考えられるところ,中国に残留するに至った事情にかんがみ,支給対象者が拡大されているもので,これらの点を違法とすることもできない。 ( ) さらに,原告らは,受給手続自体が煩雑であるとし,また,留守c家族経由での制度周知では不十分であると主張する。しかし,ある制度を十分に周知しなかったからといって直ちに違法となるわけではない上,未帰還者調査のため,本籍地都道府県は,留守家族に対し,適時未帰還者の調査の現況等を連絡するとともに,絶えず留守家族の実情の把握に努めることとされており,国と都道府県,都道府県と留守家族,留守家族と未帰還者という連絡の経路が構築されていたことから,帰国旅費の国庫負担制度の周知についても,この連絡経路を用いて制度を周知することは合理性を欠くものではない。入管行政手続において偽装等の不正行為が行われる事例がまま存在することは公知の事実であるところ,上述のような周知方法が採られたのは,帰国希望者が残留邦人本人であること及び残留邦人に真に帰国意思があることを確認するためには,親族間に 為が行われる事例がまま存在することは公知の事実であるところ,上述のような周知方法が採られたのは,帰国希望者が残留邦人本人であること及び残留邦人に真に帰国意思があることを確認するためには,親族間にしか分からない個人的な事情等を知り,かつ残留邦人の立場に立ち最も親身になって内面的な相談にも乗ることのできる留守家族以外には適任者がいなかったからに他ならない。また,国庫負担を受けるために中国残留孤児がすべきことは,帰国旅費を支弁できない旨の申立書を留守家族へ送るだけで,それは通信文の写しでもよく,その後に留守家族が行う手続も,徒に煩雑なものというわけではなく(前記第5の4( )ア(イ) ,合理性を欠くものではない。 )( ) 原告らは,被告による帰国旅費の国庫負担の制度は,留守家族をd介して居住地の都道府県に申請する必要があり,留守家族の協力を得られなければ帰国旅費の支給を受けることができないため,身元判明孤児は留守家族の協力が得られない場合に,身元未判明孤児は常に,この制度を利用できず,帰国旅費の自弁ができない中国残留孤児は事実上帰国できない事態になったと主張する。 しかしながら,前記( )で説示したように,帰国希望者が残留邦c人本人であること等を確認し円滑に帰国手続を進行させるためには留守家族以外には適任者がいなかったものであるから,留守家族による申請を要求したことには,一応の合理性が認められるし,原告らの主張する上記の不都合な点については,速やかに改善されるべきであったといえるが,前記第5の4( )ア(イ)のとおり,日中政府 間で口上書が交換されたことで,中国残留孤児の永住帰国がピークを迎える(前記第5の4( ))より前の昭和60年には,身元判明 孤児も身元未判明孤児も,留守家族の申請がなくても帰国旅費の国庫負担が 間で口上書が交換されたことで,中国残留孤児の永住帰国がピークを迎える(前記第5の4( ))より前の昭和60年には,身元判明 孤児も身元未判明孤児も,留守家族の申請がなくても帰国旅費の国庫負担が受けられるように手続が改められているものである。そもそも,帰国旅費の国庫負担制度は,被告による中国残留孤児及び留守家族等に対する多くの支援策の一部にすぎないところ,上記諸事情に加え,その制度自体は全体としてみれば中国残留孤児及び留守家族等に対して積極的給付をなすものとして大きな助力となったものと考えられること等を考慮すると,原告ら主張の一事をもって,技術面,財政面,外交面等の制約を考慮に入れた国政全般にわたる総合的政策判断を要求される厚生大臣に与えられた裁量を逸脱して著しく合理性を欠いた違法があったとまでいうことはできない。 原告らは,日本人たる中国残留孤児が日本へ帰国することは当然のc権利であるのに,被告が,日中国交正常化後に中国旅券で来日するようになった中国残留孤児について,出入国管理及び難民認定法上外国人として取り扱い,身元保証人を要求した結果,帰国が遅延する結果を招来したと主張し,また,身元引受人制度が,身元未判明孤児の帰国を厳しく制限ないし阻害するものであったと主張する(前記第4の3( )ウ(ウ) 。 )( ) しかし,すべての人の本邦への出入国に関し,公平かつ適正な管a理を行うことを目的とする入管行政手続(出入国管理及び難民認定法1条)の必要上から,日本人の帰国には,有効な旅券等を要求する一方,外国人の入国には,査証の受給を要求し,かつ,その受給要件を立証する資料の一つとして,身元保証書の提出を求めること(前記第5の4( )ア(ア),それ自体は何ら不合理な措置とはいえ a)ない。入管行政手続において偽装等の不正 求し,かつ,その受給要件を立証する資料の一つとして,身元保証書の提出を求めること(前記第5の4( )ア(ア),それ自体は何ら不合理な措置とはいえ a)ない。入管行政手続において偽装等の不正行為が行われる事例がまま存在することは公知の事実であるし,法治国家である以上は仮に中国政府が中国残留孤児であると認定したとしても,直ちに被告がこれを真実であると取り扱わなければならないものではなく,歴史的な事実としては日本人である者であっても,中国旅券で入国しようとする者について,日本人であることが証明されるなどして法規上の要件を満たすに至るまでの間,外国人として取り扱うことは,誠にやむを得ないところである。また,中国残留孤児については,最終的に日本国籍のある事例が多く確認されたことから,昭和57年には外国人登録に関して一定の特例措置も設けられ,昭和60年及び昭和61年には,日本国籍の存在が確認されるなどした中国残留孤児等については,身元の判明未判明を問わず,所定の書類を提出すれば,中国旅券で入国する場合でも,身元保証書なしで永住帰国できる特例措置も設けられ,さらに平成12年度以降は中国における事前の共同調査によって日中両国間で中国残留孤児と確認されたものについては帰国できることとされているものである(前記第5の4( )ア(イ) 。加えて,上記身元保証書の提出を求める取扱い )によっても,身元保証人は留守家族に限られず民間ボランティア等でもよいとされていたのであるから,中国残留孤児の帰国が全く不。 ,,可能となっていたわけではないそうすると上記取扱いをもって法制度や外交面等の制約を考慮に入れた国政全般にわたる総合的政策判断を要求される厚生大臣や外務大臣に与えられた裁量を逸脱して著しく合理性を欠いた違法があったということはできな ると上記取扱いをもって法制度や外交面等の制約を考慮に入れた国政全般にわたる総合的政策判断を要求される厚生大臣や外務大臣に与えられた裁量を逸脱して著しく合理性を欠いた違法があったということはできない。 ( ) また,身元引受人制度は,身元未判明孤児をその同伴する家族とbともに日本へ永住帰国させる措置が要請されていた中で,中国残留日本人孤児問題懇談会の提言等を受けて創設されたものであり(前記第5の4( )イ(ア) ,身元判明孤児に係る特別身元引受人制度も, )同じく日本への永住帰国を可能とするため創設されたものである(前記第5の4( )イ(イ))ところ,現に相当数の身元引受人等があ っせんされていること(前記第5の4( )イ(ウ) )からしても,これ dらの制度が帰国を妨げる違法なものとはいい難い。 ( ) 生活自立援助義務違反の有無について ア原告らは,厚生大臣には,即時に適切な予算措置を講じ,原告らが日本,人として日本で社会生活を営んでいくために必要かつ十分な日本語の習得就業,住居,同行帰国家族の教育等の総合的な施策を立案・実行し,生活保障を超えたレベルのものとして,原告らの生活の自立を支援する義務があると主張する(前記第4の2( )イ(イ) 。 )(ア) 確かに,前記第5の6のとおり,中国残留孤児の高齢化に伴い,帰国後1年未満で日本語を習得できる中国残留孤児の割合は低下し,日本語の会話ができない中国残留孤児の割合は増加しているところ,就労している中国残留孤児の割合は,世帯単位でみても年を追って低下し,就労している中国残留孤児の職業も,一般と比べ,技能工,製造・建設・労務作業者に偏っている。また,中国残留孤児世帯の収入は,一般世帯のそれと比べて徐々に低下し,平成11年調査の時点では一般世帯の半分を下回ってい 国残留孤児の職業も,一般と比べ,技能工,製造・建設・労務作業者に偏っている。また,中国残留孤児世帯の収入は,一般世帯のそれと比べて徐々に低下し,平成11年調査の時点では一般世帯の半分を下回っているところ,生活保護を受給する中国残留孤児の世帯は,徐々に増え,平成11年調査の時点以降は約3分の2にまでなっている。 かかる状況の下,少なくない数の中国残留孤児が,老後の生活の不安,言葉ができないなどの理由で,帰国したことを後悔しているというのであり,原告らを含めた中国残留孤児の置かれた生活状況は,苦しいものになっているといわざるを得ない。 かかる状況に至った一つの大きな要因として,被告の先行行為があることは前記( )のとおりであり,また,早期帰国実現義務違反が認められ ないことは前記( )のとおりであるにせよ,多くの原告らの永住帰国が戦 後35年余りを経過した訪日調査の開始後となったことも,大きな要因となっていることは否定し得ない。 (イ) しかし,中国残留孤児が,かように苦しい生活状況に置かれたのは,前記( )のような先行行為を一つの大きな要因として,第二次世界大戦 の終戦前後の混乱の中で中国東北地方に取り残されたことを端緒とし,長きにわたり帰国できず,帰国するまでに日本語を習得する機会がなかったこと等から,日本の生活に適応することが困難になったことによるものである。これが,第二次世界大戦及びその敗戦から,直接的にもたらされた損害ないし犠牲といえるか否かについては議論の余地があるが,少なくとも,法的な意味で被告に早期帰国実現義務違反がなく,被告が不法行為法上の責任を負わない以上,敗戦等を最大の要因としてもたらされたことは明白で,戦争損害ないし戦争犠牲の範疇に属するものというべきところである。戦争損害とは,一般に,軍人軍属として戦場 告が不法行為法上の責任を負わない以上,敗戦等を最大の要因としてもたらされたことは明白で,戦争損害ないし戦争犠牲の範疇に属するものというべきところである。戦争損害とは,一般に,軍人軍属として戦場における戦闘行為等に参加することにより不可避的に発生する生命侵害等の損害だけでなく,戦闘行為には直接参加していない一般国民が戦争を最大の要因として戦争中から戦後にかけて被った各種の損害をも指称するものであり,多かれ少なかれ国民各層が直接・間接に参加する戦争といういわば国家の存亡に関わる非常事態下において,戦争を最大の要因として発生した損害であるから,その性質上,国民全体が等しく負担すべきものと考えられる。原告らが戦争中から戦後にかけて経験した辛苦は筆舌に尽くし難いものであったが,第二次世界大戦によりほとんどすべての国民が様々な被害を受け,その態様は多種,多様であって,その程度において極めて深刻なものが少なくないこともまた公知のところである。原告らの本訴請求は,国家賠償法上の損害賠償請求という形が採られているが,結局のところ,戦争損害ないし戦争犠牲の補償を求めるに等しいものである。これらに対する補償は,憲法の諸規定さらには既存の実体法規の予想しないものというべく,その補償の要否及び在り方は,事柄の性質上,前記政治的責務をも加味した,財政,経済,社会政策等の国政全般にわたる総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって,これについては,国家財政,社会経済,戦争によって国民が被った被害の内容,程度等に関する資料を基礎とする立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解するのが相当であるというべく(最高裁昭和58年㨯第1337号同62年6月26日第二小法廷判決・集民151号147頁,最高裁平成5年㨯第1751号同9年3月13日第一小法廷判決・民集5 れたものと解するのが相当であるというべく(最高裁昭和58年㨯第1337号同62年6月26日第二小法廷判決・集民151号147頁,最高裁平成5年㨯第1751号同9年3月13日第一小法廷判決・民集51巻3号1233頁参照,この理は程度の差はあると)しても,行政府の採る施策についてもおおむね妥当すると考えられる。 (ウ) また,生活保障という観点からみた場合,その根幹規定ともいうべき憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」の意義でさえ,極めて抽象的・相対的な概念で,その具体的内容は,その時々における文化の発達の程度,経済的・社会的条件,一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるところ,現実の立法として,,これを具体化するに当たっては国の財政事情を無視することができずまた,多方面にわたる複雑多様で,しかも高度に専門技術的な考察と,それに基づく政策的な判断を必要とし,憲法25条の趣旨に応え,さらに前記政治的責務をも加味して,具体的にどのような措置を講ずるかの決定は,国家の広い裁量にゆだねられており,それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用とみざるを得ないような場合を除き,裁判所が審査判断するのに適しないものであるといわざるを得ない(最大判昭和57年7月7日民集36巻7号1235頁参照。してみると,生)活保障を超えたレベルとしての,原告らの生活を支援する総合的な施策,。 については上述の如き政策的判断が一層必要とされるというほかない,,(エ) 原告らの主張に係る生活自立援助義務は被告も指摘しているとおり特定に欠ける嫌いもある(前記第4の2( )イ(イ))が,被告の先行行為 に基づき,原告らが中国残留孤児となり多くの困難に直面する危険が発生したことは前記( )のとおりであるし,政府におい とおり特定に欠ける嫌いもある(前記第4の2( )イ(イ))が,被告の先行行為 に基づき,原告らが中国残留孤児となり多くの困難に直面する危険が発生したことは前記( )のとおりであるし,政府において,原告らを含む 中国残留孤児の生活の自立に向けて何らかの施策を採り得たものといえる以上,原告らの主張している生活自立援助義務がおよそ法的義務として生ずる余地がないとまでいうことは相当ではないであろう。しかし,これまでの検討からも明らかなとおり,生活自立援助義務が法的な義務として生じ得るとしても,いかなる施策を採るべきかは厚生大臣を含む政府の広い裁量にゆだねられているというべく,実際に行われた施策が著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用に当たるといえる場合でない限りは,その法的義務に違反するものとして違法の瑕疵を帯びるものではないといわざるを得ない。 イかかる観点から,日本政府の採った施策について,以下,検討する。 (ア) そもそも,引揚者については,中国残留孤児を含め,日中国交正常化以前から,帰国後の生活を軌道に乗せるための一定の措置が採られていた。すなわち,中国残留孤児を含む引揚者には,帰国後の当面の生活資金等として,昭和28年3月から,帰還手当が支給されていたし(前記第5の2( )ア(ア),住居面の手当てとして,中国からの引揚者につい b)ては,公営住宅の入居者の選考及び決定の際には優先的に取り扱うものとされていた(前記第5の5( )イ。 )この帰還手当等は,日中国交正常化後,その内容が徐々に充実され,世帯単位で数十万円の手当が支給されるまでになっていた(前記第5の5( )ア。また,住居面の手当てについては,平成6年に中国残留邦人 )等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律が施行されたこと等を 当が支給されるまでになっていた(前記第5の5( )ア。また,住居面の手当てについては,平成6年に中国残留邦人 )等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律が施行されたこと等を受け,当面やむを得ず民間住宅に入居した者に礼金等の()。 費用を国費で負担する措置も採られたものである前記第5の5( )イ (イ) 日中国交正常化後には,毎年1けたから2けたの数の中国残留孤児が永住帰国するようになった(前記第5の4( )ア)が,このような状況の 下,長期間海外で生活してきた中国残留孤児等が習慣等の違いから,通常の社会生活を営むために困難を来しているなどの実情にかんがみ,昭和52年7月1日以降,指導員を派遣し,その生活に関する諸問題の相談に応じて,必要な助言,指導等を行う措置が採られるようになっているところ(前記第5の5( )オ(ア) ,中国残留日本人孤児問題懇談会の )報告書等を受け,その派遣期間及び回数につき,相当な改善が図られているものである(前記第5の5( )オ(イ) 。 )また,昭和54年からは,帰国時のオリエンテーションが実施されたり(前記第5の5( )ウ,日本語習得のための語学教材が支給されたり )もしている(前記第5の5( )エ。 )(ウ) その後,訪日調査の開始に伴って中国残留孤児問題への国民の関心が高まった中,中国残留孤児問題に携わる民間団体関係者もメンバーとする中国残留日本人孤児問題懇談会が設けられ,この懇談会からは,昭和57年及び昭和60年の2回,厚生大臣に対し,中国残留孤児の自立に向けた努力を政府等が支援していく施策についての提言を盛り込んだ報告書が提出されている(前記第5の5( )ア(ア)及び(イ) 。 )これらの報告書を受けて,養父母等への扶養費の支給,定着促進セン 向けた努力を政府等が支援していく施策についての提言を盛り込んだ報告書が提出されている(前記第5の5( )ア(ア)及び(イ) 。 )これらの報告書を受けて,養父母等への扶養費の支給,定着促進センター及び自立研修センターの設置並びに自立支援通訳派遣事業といった(),,施策が採られている前記第5の5( )イないしオがこれらの一部は 中国残留日本人孤児問題全国協議会の要請等の動きも受けている(前記第5の5( )ウ(ア)及びエ(ア) 。 )このうち,定着促進センターでは,中国から帰国した中国残留孤児等が日本の社会生活に早期に溶け込めるように,原則約4か月間の合宿方,,式により日本社会に定着する上で必要な日常会話レベルの日本語指導日本で生活していくために必要な知識等の指導,就労指導等が実施されている(前記第5の5( )ウ(イ) ないし。 ac)また,自立研修センターは,主として,定着促進センターを修了した中国残留孤児等の地域社会における定着自立の促進を目的とし,そこで,,,は原則として8か月間の通所形式により習得度に応じた日本語指導就労相談・指導等が行われている(前記第5の5( )エ(ア)及び(イ)ない aし。 d)(エ) 平成6年,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する国等の責務を定めるとともに,従前の各施策を確認的に規定し,就籍等の手続に関する便宜の供与及び国民年金の特例といった新たな措置も求める,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律が制定・施行された(前記第5の5( )ア。 )身元未判明孤児の就籍手続については,従前厚生省が家庭裁判所から要請を受けて調査資料を提供していたものの,この手続に必要な費用は申立人負担となって が制定・施行された(前記第5の5( )ア。 )身元未判明孤児の就籍手続については,従前厚生省が家庭裁判所から要請を受けて調査資料を提供していたものの,この手続に必要な費用は申立人負担となっており,中国残留孤児問題全国協議会等から,手続の簡素化や手続費用の国庫負担が要請されていた。厚生省は,このような中で,中国残留孤児の帰国が本格化した昭和61年度には,財団法人日本船舶振興会に対し,財団法人法律扶助協会が実施する中国残留孤児国籍取得支援活動を支援するように副申する形で,身元未判明孤児の就籍に関する費用負担の解消を図っていたところ,上記法律を受け,その費用が国庫負担とされたものである(前記第5の5( )イ。 )また,国民年金については,立法措置を求める中国残留孤児問題全国協議会の動きを受け,昭和60年に国民年金法が改正され,年金の受給資格を得るための期間の特例が設けられたが,ボランティア団体等からさらに改善を求める動きもあったところ,上記法律を受け,永住帰国の前日までを保険料免除期間とみなしたり,保険料を納付した場合の3分の1に相当する額を国庫負担により年金額に反映するなどの特例も設けられている(前記第5の5( )ウ。 )(オ) その後,帰国者の高齢化等により,帰国者支援対策が転換点を迎えているとの認識から,平成12年には,中国残留孤児問題に携わる民間団体関係者もメンバーとする中国帰国者支援に関する検討会が設けられ,この検討会からは,平成11年調査の結果を踏まえて,帰国後の当面の,,支援から継続的支援へという今後の施策の方向性とともに日本語習得就労支援,生活相談,交流の場の提供,継続的な支援の実施と拠点の整備等といった今後の具体的支援方策についての提言が盛り込まれた報告書が提出された(前記第5の5( )ア。 性とともに日本語習得就労支援,生活相談,交流の場の提供,継続的な支援の実施と拠点の整備等といった今後の具体的支援方策についての提言が盛り込まれた報告書が提出された(前記第5の5( )ア。 )この提言を受けて設置された支援・交流センターでは,帰国後4年目以降の中国帰国者等も対象として,通所形式ないし通信形式での日本語教育が継続的に実施されており,その他相談事業等も行われているものである(前記第5の5( )イ。 )以上のとおり,中国残留孤児については,引揚者に対する援護という形で日中国交正常化前から一定の施策が行われていた上(前記(ア) ,日中)国交正常化後には,中国残留孤児が直面する生活上の諸問題に対応する指導員が派遣されたり,帰国時のオリエンテーションが実施されたり,語学(),,教材が支給されたりしていた前記(イ)ところ訪日調査の開始後には時の社会の要請等に応じた検討が行われ,その結果を受け,日本語指導,就労支援等のための,定着促進センターないし自立支援センターが設置されたり,自立支援通訳派遣事業等が実施されたりしている(前記(ウ) 。 )そして,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律の施行後には,身元未判明孤児の就籍手続や国民年金に対しても国庫負担とされるようになり(前記(エ) ,中国帰国者支援に関する)検討会の報告後には,日本語教育を継続的に実施する等の事業を行う支援・交流センターが設置されているのである(前記(オ) 。 )してみると,中国残留孤児については,その時々の状況に応じ,日本における生活を支援するために必要と考えられた措置が採られているものと認められ,それらが著しく合理性を欠いたり明らかに裁量を逸脱・濫用し,,たりしているものとは認められず生活自立援 に応じ,日本における生活を支援するために必要と考えられた措置が採られているものと認められ,それらが著しく合理性を欠いたり明らかに裁量を逸脱・濫用し,,たりしているものとは認められず生活自立援助の責務が存するとしても法的な義務に違反し違法の瑕疵を帯びるものではない。 ウ原告らは,被告が,中国残留孤児問題を本人と親族が自助努力で解決すべきものと位置付けた上,対症療法的施策に終始し,かつ,経済的自立にのみ重点を置き,中国残留孤児の自立を阻害したと主張し,実際に行われた住まい等,就業,言語,家族,生活保障等及び身分に係る措置についても問題があったと主張する(前記第4の4( ) 。 1 )(ア) しかし詰まるところ就業及び言語に関する主張前記第4の4( ),,( イ及びウ)は,現に行われた施策の結果が事後的にみて悪かったというものであり,また,住居,家族,自立支援金及び年金に関する主張(前記第4の4( )ア,エ,オ(ア)及び(イ))は,実際の施策が不十分であったとい うものであるところ,国会において,様々な問題点が指摘されていたこと(甲総139の1ないし25)等からすれば,政治的責任を問われ得る余地は存するというべきではあるが,そうであるとしても,違法と評価されるものとまではいい難いことは,前記イのとおりである。 (イ) 原告らは,中国残留孤児の居住地が,その意に反して地方等に制限されたとも主張する(前記第4の4( )ア。 )確かに,身元引受人等のあっせんを受けた中国残留孤児の居住地の決定に当たっては,各都道府県の中規模都市に適度に分散居住するという方針も採られていたものである。 しかし,かかる方針は,受入先の自治体等の負担の均衡を考慮するとともに,長期的に日本への適応を図るためという専門家の指摘も受けたものであり に適度に分散居住するという方針も採られていたものである。 しかし,かかる方針は,受入先の自治体等の負担の均衡を考慮するとともに,長期的に日本への適応を図るためという専門家の指摘も受けたものであり,実際に居住予定地を決定するに当たっては,中国残留孤児の希望を聴取しその了解を得るなどしていたところ前記第5の4( ),( イ(ウ) )から,そのゆえに著しく合理性を欠いたり明らかに裁量を逸脱b・濫用したものとは認められず,上記主張は理由がない。 (ウ) 原告らは,身元未判明孤児の戸籍が不明となった経緯を勘案すれば,その就籍に関する費用は国庫負担とすべきであったが,平成7年までは中国残留孤児等の負担とされており,平成15年までに帰国した中国残()。 留孤児の75%が支援を受けていないと主張する前記第4の4( )カ 確かに,身元未判明孤児の戸籍が不明となった経緯にかんがみれば,その就籍に関する費用を国庫負担とすることが望ましいとはいえよう。 しかし,前記イ(エ)のとおり,中国残留孤児の帰国が本格化した昭和61年度には,直接の国庫負担ではないにせよ,身元未判明孤児の就籍に関する費用の負担の解消を図る方策が採られていた上,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律が制定・施行された後には,直接の国庫負担が開始されたものであって,それが著しく合理性を欠いたり明らかに裁量を逸脱・濫用したものとはいえないところ,博打の収益による就籍では尊厳が傷つけられるという原告らの主張も理解できないではないが,それをもって違法とまでいうことはできない。 エなお,ここで,北朝鮮による拉致被害者に対する支援と中国残留孤児に対する支援の差異をもって,厚生大臣に与えられた裁量を逸脱・濫用したものといえないかどうかについて検討する。 ことはできない。 エなお,ここで,北朝鮮による拉致被害者に対する支援と中国残留孤児に対する支援の差異をもって,厚生大臣に与えられた裁量を逸脱・濫用したものといえないかどうかについて検討する。 北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律(平成14年法律第143号)は,1条でその目的を「この法律は、北朝鮮当局による未曾有の国家的犯罪行為によって拉致された被害者が、本邦に帰国することができずに北朝鮮に居住することを余儀なくされるとともに、本邦における生活基盤を失ったこと等その置かれている特殊な諸事情にかんがみ、被害者及び被害者の家族の支援に関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、帰国した被害者及び帰国し、又は入国した被害者の配偶者等の自立を促進し、被害者の拉致によって失われた生活基盤の再建等に資するため、拉致被害者等給付金の支給その他の必要な施策を講ずることを目的とする」と定めている。このように,同法は,拉致被害者。 等が置かれている特殊な諸事情にかんがみ,その支援を被告等の責務であると同法の立法目的を掲げた1条の法文中で明言した上,3条で拉致被害者等の自立を促進し生活の再建又は構築に資するため拉致被害者等給付金を5年を限度として毎月支給するものと定め,11条で国民年金の特例について拉致期間を被保険者期間とみなし同期間の保険料は納付されたものとみなすと規定している。 これに対し,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律は,1条でその目的を「この法律は、今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ、これらの者の円滑な帰国を促進するとともに、永住帰国した者の自立の支 り、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ、これらの者の円滑な帰国を促進するとともに、永住帰国した者の自立の支援を行うことを目的とする」と定めるにとどまり,。 中国残留孤児に対する支援を被告等の責務であると明言しておらず,3条でも被告は本邦への帰国を希望する中国残留孤児等の円滑な帰国を促進するため必要な施策を講ずると規定するにとどまり,7条でも中国残留孤児等の生活基盤の確立に資するために必要な資金を一時金として支給すると規定するにとどまっており,13条で国民年金の特例につき国民年金法の規定にかかわらず政令で特別の定めをすることができると規定するにとどまっている。 このように,立法府による拉致被害者と中国残留孤児に対する支援の手厚さの程度は明らかに異なっているものであって,これは拉致被害者が置かれている特殊な諸事情を踏まえた立法府による国政全般にわたる総合的政策判断の上に立った広範な裁量によるものと解さざるを得ず,こういった立法者の政治判断を受けて,厚生大臣も,給付金や国民年金の特例についてだけではなく,日本語教育や就労支援等についても両者で異なった取扱いをしているものと考えられるところである。確かに,年齢を経て帰国した中国残留孤児等の日本語教育が,結果的に現実的に行われた施策では十分であったとはいえないことは理解し得るところではあるけれども,特別立法のなされた拉致被害者との対比だけで中国残留孤児への施策が直ちに著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用に当たることになるわけではない。これらの格差についての司法的な解決は困難であり,行政府によるより一層きめ細かい施策の実行,さらに最終的には立法府による立法的措置等の政治的な解決を待つ以外にはないもの たることになるわけではない。これらの格差についての司法的な解決は困難であり,行政府によるより一層きめ細かい施策の実行,さらに最終的には立法府による立法的措置等の政治的な解決を待つ以外にはないものと思料される。 ( ) その余の根拠に基づく作為義務の有無について なお,原告らは,憲法,法律及び条約により,その主張に係る作為義務が確認されている旨主張するが(第4の2( )ウ,以下のとおり,その主張は )採用できない。 ア(ア) 国民主権は,国民が国政のあり方を最終的に決定するという要素及び国家の権力行使を究極的に正当化する根拠が国民にあるという要素を含む憲法上の基本原則であるが,直ちに国民が国家に対して一定の作為を要求する根拠となるものではなく,原告らの主張に係る作為義務が確認的にせよ導き出されるとは解されない。 (イ) 憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利につい,ては、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とするが,それだけで直ちに国民が国家に対して一。 定の作為を請求する権利を付与するものではなく,原告らの主張に係る作為義務が確認的にせよ導き出されるものとはいえない。 (ウ) 憲法22条は「外国に移住…する自由(2項)を保障している以,」上,帰国したいときに帰国できる入国の自由をも当然に保障していると解されるが,その性質は,国家が個人の領域に権力的に介入することを排除する自由権であるから,これにより原告らの主張に係る作為義務が確認的にせよ導き出されるものではない。 (エ) 憲法25条1項,26条1項及び27条1項は,生活,教育及び就労の各場面において,国の積極的な配慮を求める規定であるが,前記(イ)のとおり,それだけで国家に対する一定の作為請求権が認められるわけではな 25条1項,26条1項及び27条1項は,生活,教育及び就労の各場面において,国の積極的な配慮を求める規定であるが,前記(イ)のとおり,それだけで国家に対する一定の作為請求権が認められるわけではなく,また,前記( )ア(ウ)のとおり,その実現に当たっては,複雑 多様かつ高度に専門技術的な考察に基づく政策的判断を要することをも考慮すると,これらの規定から原告らの主張に係る作為義務が確認的にでも導き出されるとはいえない。 イ(ア) 原告らの主張に係る旧厚生省設置法及び外務省設置法の諸規定のような組織法上の所掌事務に関する規定は,その行政機関のなし得る又はなすべき事務ないし事項の外枠を定めるもので,具体的な事務等の遂行については,なお具体的な権限を定める規定が必要であるから,上述のような所掌事務に関する規定から,原告らの主張に係る作為義務が確認的にせよ導き出されるものとは解されない。 (イ) 原告らの主張するとおり,未帰還者留守家族等援護法は,未帰還者の帰還の促進に向けた国の努力を求めており,また,未帰還者特別措置法は,戦時死亡宣告の前提として未帰還者の調査究明を求めているものと解されるが,その規定の体裁や,かかる要請を充足するために国が採るべき措置を具体的に定めたものではないこと等を勘案すれば,これらの法律は,たとえ前記(ア)のような規定の存在に加えて特別に立法されたものであるとしても,未帰還者の調査究明及び帰国促進についての国の政治的責務を宣明するものにとどまるというべく,この理は,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律についても妥当するところ,これらの法律から,原告らの主張するような作為義務が導き出されるとはいい難い。 ウ条約は,国家間の法律関係を規律するものであり,その中に個人の権利の保護に関す 関する法律についても妥当するところ,これらの法律から,原告らの主張するような作為義務が導き出されるとはいい難い。 ウ条約は,国家間の法律関係を規律するものであり,その中に個人の権利の保護に関する条項が規定されているとしても,当該権利が実体的に認められている場合における具体的な解釈の指針となることは格別,個人が自己の名において当該権利を国家に主張できる旨明定されていない限りは,個人が直接の請求の法主体となることは認められないところ,原告らの主張に係るジュネーブ条約,平和条約及びB規約の諸条項は,国家に対する,,具体的な請求権を原告らに与える旨明定するものではなくこれに基づき原告らの主張に係る作為義務が確認されているものとは解されない。 第7 結論 ,,よって原告らの請求はいずれも理由がないからこれらを棄却することとし訴訟費用の負担につき民事訴訟法65条1項本文,61条を適用して,主文のとおり判決する。 広島地方裁判所民事第1部裁判長裁判官坂本倫城裁判官榎本光宏裁判官安木進(別紙及び別表省略)
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