昭和37(う)2670 猥褻文書販売同所持各被告事件

裁判年月日・裁判所
昭和38年11月21日 東京高等裁判所
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【DRY-RUN】主    文      原判決を破棄する。      被告人Aを罰金一〇万円に、被告人Bを罰金七万円に処する。      被告人両名において右各罰金を完納することができないときは、金千円 を一日に換算

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主文 原判決を破棄する。 被告人Aを罰金一〇万円に、被告人Bを罰金七万円に処する。 被告人両名において右各罰金を完納することができないときは、金千円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置する。 押収にかかる単行本「悪徳の栄え(続)ージユリエツトの遍歴」二九一冊(昭和三五年東地領第九七〇〇号の二および東京高裁昭和三七年押第一〇四〇号の二ないし六五)を被告人両名から没収する。 原審の訴訟費用は全部被告人両名の連帯負担とする。 理由 本件控訴の趣意およびこれに対する答弁は、東京高等検察庁検事渡辺薫が差し出した東京地方検察庁検事山本清二郎名義の控訴趣意書および弁護人大野正男、同中村稔、同柳沼八郎、同新井章が連名で差し出した答弁書に記載してあるとおりであるから、いずれもこれを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断する。 いわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判所の判決(昭和二八年(あ)第一七一三号、同三二年三月一三日大法廷判決)は、刑法第一七五条の「猥褻の文書」の意義について、従来の大審院の判例である「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして差恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」とする見解(例えば大審院大正七年(れ)第一四六五号、同年六月一〇日判決)ならびに最高裁判所の「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」とする見解(最高裁判所昭和二六年(れ)第一七二号、同二六年五月一〇日第一小法廷判決)を是認した上、要するにこれ等判例によれば、猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮刺戟を来すことと善良な道義観念に反する 昭和二六年(れ)第一七二号、同二六年五月一〇日第一小法廷判決)を是認した上、要するにこれ等判例によれば、猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮刺戟を来すことと善良な道義観念に反することが要求されるとしているのである。 原判決の骨子は、このチヤタレー事件判決において最高裁判所が支持確認した猥褻に関する従来の裁判所伝統の解釈を是認し、猥褻文書たるためには、その内容が(一)徒らに性欲を興奮または刺戟せしめ(二)普通人の正常な性的羞恥心を害し(三)善良な性的道義観念に反することが要求されるとし、更にこの三箇の要素は、いずれも猥褻文書たるために欠くことのできない要件であると解した上、本訳書(フランス一八世紀の作家マルキ・ド・サドの著作「ジユリェツト物語あるいは悪徳の栄え」を被告人Bによつて抄訳されたものの後半であつて、前半部分たる「悪徳の栄え」の下巻として昭和三四年一二月一六日頃被告人Aによつて「悪徳の栄え(続)ージユリエツトの遍歴―」という表題で出版された単行本)の中検察官の指摘する一四箇所の性的場面の描写は、いずれも同性または異性相互の間に行われる淫蕩にして放埓な場面の描写であつて、性的行為の姿態、方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて相当露骨かつ具体的に描かれており、本訳書は社会通念に照らして判断すれば、明らかに普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書と認められるが、一面本訳書は全体が異常に大胆、率直な性的場面の描写で貫かれているにもかかわらず、一般的にその内容は空想的、非現実的であり、その表現は無味乾燥であつて読者の清緒や官能に訴える要素が乏しいばかりでなく、検察官指摘の性的場面のうち、一部には春本類似の描写によつて性的刺戟を与える箇所がないでもないが、これはいずれも殺人、鞭打、火あぶり 味乾燥であつて読者の清緒や官能に訴える要素が乏しいばかりでなく、検察官指摘の性的場面のうち、一部には春本類似の描写によつて性的刺戟を与える箇所がないでもないが、これはいずれも殺人、鞭打、火あぶり、集団殺戮など、極度に残忍醜悪な場面の描写が性的場面と不可分的に一体をなすか、あるいは性的描写の前後に接続し、このため一般読者に極めて不快な刺戟を与え、性的刺戟の如きは、この不快感の前には全く消失させられるか、殆んど萎縮されられる性質のものと認められ、一般社会の普通人は本訳書の持つ残虐醜悪な雰囲気に圧倒され過度の性的刺戟を受けることはないと認められ、この点において本訳書は猥褻文書たる要素を欠くものであり、結局本訳書は、猥褻文書たるために要求される三要件の中普通人の正常な羞恥心を害することと善良な性的道義観念に反することとの二要件は充足するが、徒らに性欲を興奮または刺戟せしめることという要件を欠くから、刑法第一七五条にいう「猥褻の文書」に該らないとし、この前提の下に被告人等を無罪としたのである。 これに対する検察官の論旨の要点は、文書が性行為非公然性の原則に反する内容を有するものと判断される以上、その文書は当然人の性欲を興奮刺戟せしめることにより正常な性的差恥心を害し、同時に性的道義観念に反するものというべきであるにかかわらず、原判決が、本訳書が性行為非公然性の原則に反することを認めながら最高裁判所が猥褻文書たるために要求されるとした「羞恥心を害すること」「性欲の興奮、刺戟を来すこと」「善良な性的道義観念に反すること」をそれぞれ独立並列的関係にあるものと解し、その前提の下に、本訳書は過度に性欲を刺戟興奮させるものではないから猥褻性が否定されるとしたのは、右最高裁判所の見解に対する見方を誤まり、ひいて刑法第一七五条の解釈適用を誤つたというにある。 と解し、その前提の下に、本訳書は過度に性欲を刺戟興奮させるものではないから猥褻性が否定されるとしたのは、右最高裁判所の見解に対する見方を誤まり、ひいて刑法第一七五条の解釈適用を誤つたというにある。 当裁判所は、刑法第一七五条にいう「猥褻の文書」の意義については、最高裁判所がいわゆるチヤタレー事件の判決において支持確認し、原判決もこれに従つたわが国裁判所のとつて来た伝統的解釈は、今日においてもなお変更の要を見ず、正当として維持すべきものと考える。 <要旨>わが国裁判所の伝統的解釈は、原判決も述べているように、猥褻文書たるためには、その内容が(一)徒らに(過</要旨>度に)性欲を興奮または刺戟せしめ、(二)普通人の正常な性的羞恥心を害し、(三)善良な性的道義観念に反することが要求されているとすることができる。そして右(一)ないし同の要素の存在がそれぞれ猥褻文書たるために欠くことのできない要件であるかどうかという点については、従来特に問題とされたこともなく、判例も特にこの点に言及したことはないのであるが、この点は、原判決のいうように、右(一)ないし(三)の要素はそれぞれ猥褻文書たるために欠くことのできない要件をなすものと解すべきである。 すなわち、従来の判例に示された猥褻の意義に関する見解ないし定義は、刑法にいう猥褻の概念が、その規定自体からは必ずしも明らかとはいえないため、裁判所が具体的事件の判断において、その事案に則し、さらに検察官弁護人等の論旨に応えて打ち出されたものであり、それは、刑法上の猥褻の概念を、より明確にし、またより厳格に解し、もつて、法に安定性と劃一性とを与え、法の適用、運用を適正ならしめるためのものといわなければならない。(そしてこれ等の集積がいわゆる判例法をなし、猥褻に関する法の安定的な適用を保障しているのである。 もつて、法に安定性と劃一性とを与え、法の適用、運用を適正ならしめるためのものといわなければならない。(そしてこれ等の集積がいわゆる判例法をなし、猥褻に関する法の安定的な適用を保障しているのである。)従つて、その判例にあらわれた見解ないし定義は、これ等が打ち出された趣旨から見て、その意義を全体的に限定的、制約的に解すべきであり、この観点からすれば、前記(一)ないし(三)の要素は、原判決もいうようにそれぞれ、猥褻の文書たるために欠くことのできない要件をなすと認めるが相当である。 そして、従来の判例もこの趣旨においてなされていることは、判例にあらわれている判旨の文言自体からも文理上明らかに察せられるところである。すなわち、たとえば、前記昭和二六年の最高裁判所第一小法廷の判決は刑法第一七五条にいう猥褻とは、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をいうとなし、ここでは少くとも「性欲の興奮、刺戟という前段を「性的羞恥心を害し、性的道義観念に反する」という後段に結び付けるのに「且つ」という接続詞を使つているのであつて、文理上いずれも要件とされていると解するが自然である。その後間もないチャタレー事件の第一審判決(東京地方裁判所昭和二七年一月一八日判決)によれば猥褻文書は「一般的に性欲を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義し、さらに同事件の第二審の判決(東京高等裁判所昭和二七年一二月一〇日判決)によれば「第一に、猥褻文書たるには徒らに、性欲を刺戟又は興奮せしめるに足る描写、又は記述の記載あることを要する」とし、さらに、第二の要件として「右第一の徒らに性欲を刺戟 和二七年一二月一〇日判決)によれば「第一に、猥褻文書たるには徒らに、性欲を刺戟又は興奮せしめるに足る描写、又は記述の記載あることを要する」とし、さらに、第二の要件として「右第一の徒らに性欲を刺戟又は興奮せしめる記載がある結果、普通人即ち一般社会人の正常な性的羞恥心を害し且つ善良な性的道義観念に反するものなることを要する」と説示し、ここでも第二の要件とされている中に、前記(二)(三)の要件とされているものが且つという接続詞によつて併せ列挙されているのであるが、さらに、ここではしめて明文上いくつかの要素を明確に「……ことを要する」という形で表わしており、さらに、同事件の上告審たる前記最高裁判所の判決においては、「要するに判例によれば、猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される」としているのであり、これ等の判例、特に最後の最高裁判所の判旨の文言から見れば、前記(一)(二)(三)の要素は、いずれも猥褻文書たるために欠くことができない三箇の要件をなすことを説示しているものと認められるのである。 もとより、これ等三箇の要素は互に密接な関係を有し、一箇の要素を具えているものは、同時に他の要素を具えている場合が少なくないとは認められるが、さりとて、検察官のいうように、文書の内容が性行為非公然性の原則に反する限り、これは当然人の性欲を刺戟興奮させることにより正常な性的羞恥心を害し、同時に善良な性的道義観念に反するという関係にあるとすることはできない。 右三箇の要素が以上説明のような関係にあるとすれば原判決が本訳書の内容が他の二箇の要件は充足するが、徒らに性欲を興奮又は刺戟させるという要件が欠けるものとして猥褻の文書たることを認めなかつたのは、その判断の仕方としては誤つているとは あるとすれば原判決が本訳書の内容が他の二箇の要件は充足するが、徒らに性欲を興奮又は刺戟させるという要件が欠けるものとして猥褻の文書たることを認めなかつたのは、その判断の仕方としては誤つているとはいえない。 しかしながら原判決が本訳書の内容は全体として性欲を徒らに興奮または刺戟せしめるものとは認められないとして、結局本訳書の猥褻性を否定したことは当裁判所のにわかに首肯し難いところである。 すなわち本訳書の中、検察官指摘の一四箇所の性的場面の描写は原判決の認めているように、いずれも同性または異性相互の間で行われる淫蕩、放埓な性的場面の描写であつて性的行為の姿態、方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて相当露骨かつ具体的に描かれており、これ等の描写は前記最高裁判所判決のいう性行為非公然性の原則に反するものであることは疑いない。原判決は更にこれ等は明らかに普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書と認むべきであるとしながら、文書全体から見ればその部分は過度に性的刺戟興奮を来すものとは認められないとし、その理由を詳しく述べているのである。 なるほど本訳書は全体が異常に大胆卒直な性的場面の描写で貫かれているにかかわらず、一般にその内容が空想的、非現実的でありその表現は、無味乾燥であり、これがため、いわゆる春本等に比し、読者の情緒を官能に訴える要素がうすいことはこれを認めざるを得ない。また問題の性的場面で、残忍醜悪な場面と一体をなして描写せられ、あるいはこれと前後に接続して描写されたため、その性的場面の描写による性的刺戟の程度が、残忍、醜悪な場面に対する不快感により影響を受けていることも認められるのである。しかしながら、本訳書の内容を通読検討した結果によれば、原判決のいうような関係で、当該性的場面の人に与える刺戟、興 度が、残忍、醜悪な場面に対する不快感により影響を受けていることも認められるのである。しかしながら、本訳書の内容を通読検討した結果によれば、原判決のいうような関係で、当該性的場面の人に与える刺戟、興奮が、全く消失するか、あるいは、社会通念に照し問題とならない程度に萎縮されているとは、到底考えられないのである。本訳書の問題部分は、原判決ならびに弁護人の見解にかかわらず、徒らに(過度に)性欲を刺戟せしめるに足る記述描写であると認められる。さらに、それは原判決も認めているように、普通人の正常な羞恥心を害し、且つ善良な性的道義観念に反するものと認められ、かような記述描写を含む本訳書は、結局刑法第一七五条にいう猥褻の文書にあたるものといわなくてはならない。原判決のこの点に関する判断は、法の解釈、適用を誤つたものであり、それが、判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、原判決は破棄を免れない。 なお、弁護人はその答弁書において、いわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判所の判決は、今日において到底文明と法治国の規準に堪えないものとし、猥褻罪に関する問題点として(一) 社会的に価値ある作品について猥褻罪を適用することは表現の自由(憲法二一条)学問の自由(同二三条)の保障に反しないか(二) 右判決にいう「性行為非公然性の原則」は如何なる範囲で考えるべきか、性「行為」とその「表現」との本質的区別を如何に考えるか(三) 作品の芸術的、思想的価値は猥褻罪の成否にどのような影響を与えるか、いわゆる両立説は現代の法と文明の原則に牴触しないか(四) 作者、訳者、出版者の意図は猥褻罪の成否に関係しないか(五) 猥褻性の判断は作品全体を通じてなさるべきか、あるいは一部分でも猥褻なら全体として猥褻となるか(六) 猥褻性の判断は誰を基準とすべきか、通常人か、未 者の意図は猥褻罪の成否に関係しないか(五) 猥褻性の判断は作品全体を通じてなさるべきか、あるいは一部分でも猥褻なら全体として猥褻となるか(六) 猥褻性の判断は誰を基準とすべきか、通常人か、未成年者か、あるいは未成年者を含む通常人か(七) 作品はそれ自体として読者層や読書環境販売広告方法如何にかかわらず猥褻か否かが決定されるのか、それともそれ等の条件により相対的に決せられるのか(八) 諸外国の判例、学説、立法の趣旨をわが国刑法第一七五条の解釈として取入れることはできないかとの諸点を挙げてその見解を述べているのであるが、かような問題点については概ね右最高裁判所および原判決が判断を尽していると認めるので以下簡単に所見を述べることにする。 (一)(三)について論旨は結局その芸術性、思想性により社会的価値があると認められる作品は、刑法第一七五条の猥褻文書たり得ず、また、形式的に同条に該るとしても、同条を適用するのは憲法の保障する表現の自由または学問の自由を侵すものであるとするのである。 文書(作品)における猥褻性と芸術性、思想性との関係については前記最高裁判所の判決ならびに原判決の見解に従うものである。すなわち、猥褻性と芸術性思想性は、その属する次元を異にする概念であり、芸術的思想的の作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではない。そして作品が、その有する芸術性思想性にかかわらず、猥褻性ありと評価される以上、それが刑法第一七五条の適用を受け、その販売、頒布等が罪とされることは当然である。論旨はこの考え方を、猥褻という法的評価を無条件に優先させるもので不当であるというが、現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつ ことは当然である。論旨はこの考え方を、猥褻という法的評価を無条件に優先させるもので不当であるというが、現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつて、この場合、裁判所の権能と職務は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。結局裁判所においては、芸術性思想性の評価が猥褻性に関する法的評価に優先するとすることができないことは当然といわなければならない。表現の自由、あるいは、学問の自由も、害法によつて保障された他の自由と同じく、公共の福祉のため制約を受ける場合あることは已むを得ないところである。刑法第一七五条は、性に関する社会秩序、性道徳の基盤を形成している普通人の正常な性的羞恥心およびその善良な性的道義観念の維持をその法益とし、この性に関する社会秩序は、社会秩序一般の重要な一環であり、憲法にいう公共の福祉の一部をなし、それ自体、法の力をもつて保護するに値するものといわなければならない。そしてこの法益の重要性から見て、この規定の適用の結果、表現の自由、学問の自由が一部制約を受けることが想定されるとしても、それ故に右規定自体を違憲とすることはできず、更に芸術性、思想性があり、社会的に価値があると認められる作品であつても、その内容の猥褻性の故に、この規定の適用によつて猥褻文書とされ、その結果出版が不可能となる事態が生じたとしても、その適用をもつて憲法に反するとすることができないのは当然である。 論旨は結局芸術至上主義の見地に立ち、法の任務とする性的秩序の維持、最少の性道徳を維持するという役割を不当に低く評価するものである。 なお、附言すれば、刑法第一七五条の「猥褻の文書」に関 である。 論旨は結局芸術至上主義の見地に立ち、法の任務とする性的秩序の維持、最少の性道徳を維持するという役割を不当に低く評価するものである。 なお、附言すれば、刑法第一七五条の「猥褻の文書」に関するわが国裁判所の伝統的の考え方は、文書に表現されている思想(テーマ)を問題とし、その思想が現存の性道徳性風俗に反するが故にこれを猥褻とする(いわゆるイデオロギー的猥褻)ものでなく、また、そこに取り扱われている反風俗、反道徳的なテーマ(たとえば、姦通、近親姦、獣姦)の故に、これを猥褻とするものではない。ただその叙述(表現)の仕方が前記最高裁判所判決のいう性行為非公然性に反するかどうかという点か問題となるのであつて、この観点に立てば、同条の規定によつて制約を受けるのは、ある思想の表現そのものではなく、叙述(表現)の仕方に止まるといえるのであり、(ただ、本訳書の性描写が作者サドの性思想の必然的結果であつて、かような性的描写によらなくては、その性思想を表現することができないという関係であれば、本条の適用によつてその思想そのものの表現が妨げられる結果とはなるが)このことは、猥褻と表現の自由との関係を考えるについて留意さるべきであろう。 (二)について最高裁判所のいう性行為非公然性の原則は単に現実の性行為に関する原則たるに止らず、文書による性行為の表現についても認められなくてはならぬ原則である。 論旨は、行為とその表現とは本質的に差異があり、行為に関する原則はそのままその表現に関し適用さるべきではないというが、文書による性的行為の表現は、その表現の仕方によつては、現実の性的行為が公然行われたと同様、あるいはそれ以上の心理的影響を、見る者に与え、更に文書の性質上、現実の性行為によるものより影響が広範囲に亘る虞れがあることを考えれば、文書による性行為の つては、現実の性的行為が公然行われたと同様、あるいはそれ以上の心理的影響を、見る者に与え、更に文書の性質上、現実の性行為によるものより影響が広範囲に亘る虞れがあることを考えれば、文書による性行為の表現も、現実の性行為と同じく、性行為非公然性の原則の適用があると解するのが相当である。 また論旨は、性の問題は人間の最も本源的、日常的のものであり、更に古来これに対する考え方ほど多岐に亘るものはなく、性については、特に表現の自由が尊重されなければならず、性行為非公然性の原則は、そのまま表現に適用さるべきではないと主張するが、この点については(一)において説明したとおりであり、特に、刑法第一七五条の規定が叙述の仕方に関するものであることに留意さるべきである。 (四)(六)(七)について文書(作品)が猥褻であるかどうかの判断はその文書自体から客観的に判断されなければならない。このことは、読者の文書から受ける性的刺戟その他の心理的反応はその文書自体の内容に由来するものであることからして当然であり、文書自体に表れていない作者訳者、出版者の主観的意図如何にかかわらないからである。そして、刑法第一七五条の猥褻の文書たるためには、羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求されているのであるが、如何なる人を基準として考えるべきか。それは、原判決も詳しく説明している様に普通人のそれを基準とすべきであつて、性的描写が一般読者に与える性的刺戟や羞恥心の如きも、読者の年令、性別、教養、経験、生活環境の差異によつて、一律に決し難いところであるが、一般社会において、普通人の全部ないし大部分がほぼ同様の程度に受け取る性的刺戟および羞恥心の存することも否定できず、ある作品が与える性的刺戟や羞恥心の程度はかような普通人のそれを基 いところであるが、一般社会において、普通人の全部ないし大部分がほぼ同様の程度に受け取る性的刺戟および羞恥心の存することも否定できず、ある作品が与える性的刺戟や羞恥心の程度はかような普通人のそれを基準としなければならない。世の中には、ささいな性的刺戟にも敏感な年令の低い未成年者や性的に腐敗しやすい成人もあれば、反対に極端に性的に潔癖な人もあり、また通常の性的刺戟に対しても格別の反応を示さないような人もあることはいうまでもないが、かような特殊な人の受ける反応を基準として判断することはできない。ただ、その作品の特殊な性格(学術書、科字書、医字書というような)、出版方法(限定出版等)、販売広告の方法如何によりその読者層が自から限定され、あるいは、一定の読書環境が想定される場合があることは争えず、このような場合その作品の読者に与える心理的影響を、限定された読者層あるいは一定した読書環境における読者を基準として考えることは、あながち不合理とは考えられない。そして、この観点に立つとき、猥褻性の判断はその作品自体によつて判断されるのであるが、ただ猥褻性の判断を如何なる人を基準として定めるか(読者層が限定された場合には、その読者層におけるいわゆる平均人を、読書環境が一定している場合には、その環境における普通人を基準とすべきものと考える。)によつて文書の猥褻性か相対的に認定されることになり、一種の相対的猥褻性を認める結果となるが、この考え方は刑法第一七五条の猥褻の解釈にとり入れる余地があると考えられる。ただ、これは前述のような特殊の場合に考えられることであつて本訳書のように、普通の文芸書として出版され、一般に販売され、読者層も特別限定されていたとは認められないものについては、一般の普通人を基準としてその猥褻性が判断されるべきであつて、相対的猥褻の考え方 訳書のように、普通の文芸書として出版され、一般に販売され、読者層も特別限定されていたとは認められないものについては、一般の普通人を基準としてその猥褻性が判断されるべきであつて、相対的猥褻の考え方をとるか否かはこの点の判断に影響はない。 (五)について法の問題とする猥褻の観念は表現の仕方に関するものである関係上、その猥褻性の捉え方は部分的に観念されるとする外はない。そして文書の一部に猥褻部分があるときは文書の一体性からその文書が全体として刑法第一七五条の猥褻文書となるのである。但し、それは、一部の猥褻部分のため、他の部分が猥褻になるという意味のものでないことは勿論である。しかしながら、その部分も文書全体の一部としてその意義があり表現がなされているのであつて、問題となる性的描写の部分も、その文書の性格、その部分がその文書中に置かれている位置関係、前後の状況等によりその猥褻性が影響され、また文書(作品)そのものの有する芸術性、思想性の故に、更にその作品自体から窺われる作者の問題を扱かう真面目な態度等により、その問題の部分の猥褻性の判断が影響されるということは、もとよりあり得るところであり、問題の部分を機械的に他の部分と切離し、全体を離れた断片として観察さるべきでないことは当然である。 (八)についてイタリー刑法第五二九条、英国一九五九年法第四条一項の規定は前者は、芸術、科学の作品は原則として猥褻とみなさない旨、後者は猥褻(読者を腐敗堕落させる方向)の作品でも、その出版が公共の利益に合致するものであれば有罪としない旨を定めており、また合衆国における猥褻出版物等に関する判例は常に言論出版の自由を保障する同国憲法修正一条との関係をめぐつて展開されて来たことは、論旨のいうとおりであろう。そして、その立法、判例にあらわれた猥褻の罪に関する考 における猥褻出版物等に関する判例は常に言論出版の自由を保障する同国憲法修正一条との関係をめぐつて展開されて来たことは、論旨のいうとおりであろう。そして、その立法、判例にあらわれた猥褻の罪に関する考え方がわが国の裁判所のそれと相当の開きが見られるのである。これ等の諸国における動向は、わが国の法解釈に多くの示唆を与えるものではあるが、これ等はいずれも、その国特有の性的倫理観念、猥褻に関する一般的ならびに法的観念に基くものであり、にわかに事情の異るわが国の法解釈の指針とすることはできず、本件においても、その考え方は採用できなかつた。 ただ相対的猥褻の理念は、わが国裁判所の伝統的な考え方とは相容れないが、その考え方はわが刑法の解釈についてとり入れる余地があると考える。如何なる趣旨でとり入れられる余地があるかは前に説明したとおりであるが、この考え方は作品の芸術的、思想的価値と猥褻性に関する、弁護人の見解を直接裏書きするものではないと考えられる。 以上説明するように論旨は結局理由があるから、刑事訴訟法第三九七第一項、第三八〇条により、原判決を破棄し、なお、本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり、訴訟記録並びに原審において取り調べた証拠により直ちに判決をすることができるものと認められるから、同法第四〇〇条但書により更に判決する。 (罪となるべき事実)被告人Aは、昭和三三年一一月「C社」を創立し、創立から昭和三四年一月まで東京都中央区abc丁目d番地に、昭和三四年一月から昭和三五年一月末まで同都千代田区ef丁目g番地に、昭和三五年二月以降同区hi丁目j番地に営業所を設けて出版業を宮んでいるものであり、被告人Bは、フランスの作家マルキ・ト・サドの著作の翻訳、その他評論等の著述に従事しているものであるが、被告人Aは、「C社」からマルキ・ド i丁目j番地に営業所を設けて出版業を宮んでいるものであり、被告人Bは、フランスの作家マルキ・ト・サドの著作の翻訳、その他評論等の著述に従事しているものであるが、被告人Aは、「C社」からマルキ・ド・サドの著作である「悪徳の栄え」を上、下二巻に分冊して飜訳出版することを思いつき、被告人Bにその計画をはかつた上右著作を約三分の一に縮少して飜訳することを依頼したところ、被告人Bはその計画を諒承し、その依頼に応じ、右程度に縮少した日本語訳を上、下に分けて順次完成して被告人Aに交付し、同被告人は、その翻訳を各通読した上、上巻部分は「悪徳の栄え」という表題で昭和三四年六月頃下巻部分は「悪徳の栄え(続)ージユリエツトの遍歴―」という表題で昭和三四年一二月一六日頃、それぞれ単行本として出版した。ところで右下巻部分は別紙のような一四箇所にわたる性交、性戯に関する露骨で具体的かつ詳細な性的場面の描写記述を含んでいる猥褻文書であるが、被告人Aは、昭和三四年一二月一六日頃から昭和三五年四月上旬頃までの間、同都千代田区ek丁目l番地D株式会社等を通じて、多数の読者に対し、約一、五〇〇冊を売渡すとともに、昭和三五年四月七日前記同都千代田区hi丁目j番地所在の営業所等において販売するため二九一冊を保管した。以上のように被告人両名は共謀の上、猥褻文書たる「悪徳の栄え(続)ージユリエツトの遍歴」約一、五〇〇冊を販売し、かつ、二九一冊を販売の目的で所持していたものである。 (証拠の標目)省略(法令の適用)法律に照らすに、被告人両名の判示所為は各刑法第一七五条、第六〇条、罰金等臨時措置法第二条、第三条第一項第一号に該当するので、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、その罰金額の範囲内において、被告人Aを罰金一〇万円に、被告人Bを罰金七万円に各処し、被告人両名が右各罰金を 金等臨時措置法第二条、第三条第一項第一号に該当するので、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、その罰金額の範囲内において、被告人Aを罰金一〇万円に、被告人Bを罰金七万円に各処し、被告人両名が右各罰金を完納することができないときは、刑法第一八条により、金千円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置することとし、押収にかかる単行本「悪徳の栄え(続)ージユリエツトの遍歴」二九一冊(昭和三五年東地領第九七〇〇号の二および東京高裁昭和三七年押第一〇四〇号の二ないし六五)は、本件犯行の組成物件で、犯人以外の者に属さないから、同法第一九条第一項第一号、第二項により被告人両名からこれを没収し、原審の訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条に従い、全部被告人両名の連帯負担とすることとし、主文のように判決をする。 (裁判長判事加納駿平判事河本文夫判事清水春三)

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