令和1合(わ)219 殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反

裁判年月日・裁判所
令和5年10月20日 東京地方裁判所
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判決文本文14,428 文字)

令和5年10月20日東京地方裁判所刑事第10部宣告令和元年合第219号殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件 主文 本件各公訴事実について、被告人は無罪。 理由 第1 本件公訴事実及び争点等本件各公訴事実は、「被告人は、第1 平成31年3月20日午後3時19分頃、東京都千代田区霞が関1丁目1番2号中央合同庁舎第6号館C棟東京家庭・簡易裁判所1階東側玄関において、夫婦関係調整(離婚)調停中の妻であるA(当時31 歳)に対し、殺意をもって、同人の背後から、持っていた折りたたみ式ナイフでその右頸部を切り付け、よって、同日午後4時15分頃、東京都中央区a 町b 番c 号d 病院において、同人を頸部切創に伴う失血により死亡させて殺害し、第2 業務その他正当な理由による場合でないのに、同日午後3時24分頃、東京都千代田区d 公園e 番f 公園において、刃体の長さ約9.2センチメートルの折りたたみ式ナ イフ2本、刃体の長さ約8.8センチメートルの折りたたみ式ナイフ1本及び刃体の長さ約7.4センチメートルの折りたたみ式ナイフ1本(固定装置付き)を携帯した」というものである。 被告人が本件公訴事実記載の各行為(以下併せて「本件行為」という。)をしたことに争いはなく、本件の争点は責任能力の有無である。 本件において、起訴前(平成31(2019)年4月から令和元(2019)年6月)に精神科医Bによる精神鑑定が行われ(以下「第1鑑定」という。)、被告人は、B医師による問診時に、本件犯行そのものや、本件犯行に密接に関係する事項をB医師に語ることがなく、B医師は、犯行時及び犯行前において精神疾患の有意な影響は認められないと鑑定した。ところが、起訴後、公判前整理手続が進めら 、本件犯行そのものや、本件犯行に密接に関係する事項をB医師に語ることがなく、B医師は、犯行時及び犯行前において精神疾患の有意な影響は認められないと鑑定した。ところが、起訴後、公判前整理手続が進められ ている最中に、弁護人は、被告人が本件について語り始めたので新たな供述を踏ま えた鑑定が必要であるとして、鑑定請求をした。そこで、当裁判所は、改めてB医師に対して鑑定を依頼した(以下「第2鑑定」という。)。B医師は、令和3(2021)年12月、第2鑑定に着手し、以後7回にわたって問診(1回当たり1時間半から2時間程度)を行い、①被告人が本件犯行について第1鑑定では説明していなかった事柄を語ったこと、②被告人の実父から新たに情報を得たこと、③それら を踏まえて、改めて一件記録等を精査したことにより、第1鑑定とは異なる結論に至ったとする。すなわち、B医師は、第2鑑定の結論として、被告人は、平成30(2018)年7月頃以前に統合失調症を発症し、その頃から電子ハラスメントを受けているという妄想や幻聴があり、自分自身、妻である被害者、2歳の息子が殺されるという妄想があった、被害者が息子を連れて家を出た同年8月以降、統合失 調症が更に悪化し、本件行為時には、被害者を殺害しなければ、被害者と息子は拷問されて殺されるという強固な妄想が基盤にあり、幻聴や思考障害の強い影響を受け、被告人は、被害者と息子への切迫した危険があると確信し、その危険から逃れるためには被害者を殺害するしかないと確信し、本件行為に至ったと述べている。 検察官は、第2鑑定時における被告人の供述が信用できないから、第2鑑定の前 提事実に誤りがあり、第2鑑定が信用できないと主張し、第1鑑定に依拠して、完全責任能力があったと主張する。 当裁判所は、B医師の第2鑑 時における被告人の供述が信用できないから、第2鑑定の前 提事実に誤りがあり、第2鑑定が信用できないと主張し、第1鑑定に依拠して、完全責任能力があったと主張する。 当裁判所は、B医師の第2鑑定が信用でき、被告人は、本件行為当時、統合失調症の精神症状としての妄想・幻聴の症状があり、本件事実関係に照らして、被告人は、その妄想・幻聴の圧倒的影響により本件行為を行ったものとして、心神喪失の 状態にあったと判断した。以下、そのように判断した理由を説明する。 第2 判断理由 1 妄想・幻聴の存在 妄想・幻聴をうかがわせる事実各項末尾に掲げた証拠によれば、以下の事実が認められ、このような被告人の言 動は、平成30(2018)年以降に、被告人に、現実に基づかない何らかの妄想 が生じていたことを推認させる(なお、被告人の実父〔以下単に「実父」と略称することがある。〕の証言は、他の証拠関係とも整合的で、証言の一部は被告人のパソコンに残されていた画像によって裏付けられており、被告人と口裏を合わせていることをうかがわせる様子もなく、信用できる。)。 ア被告人は、アメリカにいる実父に対し、平成30(2018)年の春から夏 にかけて、被告人が「ダークウェブ」というプロジェクトをしていて、日本政府あるいはマフィアの何かを暴露しようとしていることを話し、さらに同年の夏か秋の初頭には、政府が被告人の脳を妨害するために音波を送ってくるという電子ハラスメントを受けていて、被告人や妻子に身の危険があるということをチャットや通話で相談した。実父は、その様子が、統合失調症にり患していた被告人の実母の症状 に似ていたため、精神科への受診を勧めたが、被告人は、病気であると認めず受診しようとしなかった(実父証言)。 イ被告人は た。実父は、その様子が、統合失調症にり患していた被告人の実母の症状 に似ていたため、精神科への受診を勧めたが、被告人は、病気であると認めず受診しようとしなかった(実父証言)。 イ被告人は、平成30(2018)年8月5日、被害者と被害者の実家に帰省した際、被害者の母や妹に対し、自分が警察に捕まるかもしれない、妹に毎日暗号を送るので、それが途絶えたら警察に捕まったということだから、大使館に連絡し てほしいと頼み、その場で汗をかきながらアルファベットを羅列した暗号を考え、実際に妹に約1週間、毎日暗号を送り続けた(被害者の母証言)。 ウ被告人が化学薬品を購入し、被害者が「自宅に薬品があるのは怖いので、警察で引き取ってもらえないか」と相談し、平成30(2018)年8月10日頃に被告人宅に警察が赴き、被害者から提出を受けて、それらの薬品を回収した(甲1 12)。 エ被告人は、平成30(2018)年11月頃、実父や被告人の兄弟に対し、インターネットでファイルを送信すると共に、そのファイルの中身について、実父に対し、日本政府の何かを暴露するような内容であるということを説明していた(実際には、ファイルを開けようとしても開けられないか、開けられても中には何も入 っていないものだった。)。また、被告人は、実父に、日本政府またはマフィアが被 告人を殺したら、被告人の左肩と右膝に入っているマイクロフィルムをアメリカ政府に渡すように依頼していた(実父証言)。 オ被告人は、平成30(2018)年12月20日、同月25日、平成31(2019)年1月29日の3回にわたってタトゥーショップに行き、入れ墨を入れた。 入れ墨の柄は、アルファベットや数字、記号を羅列したものや、一見して意味の分 からない図形のようなものであり、図 (2019)年1月29日の3回にわたってタトゥーショップに行き、入れ墨を入れた。 入れ墨の柄は、アルファベットや数字、記号を羅列したものや、一見して意味の分 からない図形のようなものであり、図形のようなものは背中に入れられていた(弁10、11)。 カ被告人は、「私の妻は私の妻、ほかの誰も、彼女に触れることはできない」「私は彼女が好きだ」「私はシャツを一枚もっている」「私は私の仕事が好きだ」「私は私の妻を愛している」などと書かれたメモを作成していた(弁13)。 被告人が第2鑑定時にB医師に語った本件行為に至る経過等被告人は、B医師に対して、第2鑑定の問診時に、①被害者が家を出ていった平成30(2018)年8月よりも5、6か月前頃(同年2月頃)から、頭の中に声が聞こえ、電子ハラスメントを受けていた、アメリカ政府が何らかのハラスメントをするために電子的な道具を使っていると思っていた、②被害者に対し、「お前が殺 される」とか「お前の息子はお前のせいでレイプされて殺される」と言ったことはある、これは、もし、妻が私に従わなければ、電子ハラスメントをする人たちによって、息子が、拷問を受けて殺されるからである、③平成30(2018)年8月の化学薬品購入について、電子ハラスメントが、動画を作るために必要だから薬品を買えと言ってきて、それは良いアイデアだと考えたので、薬品を買った、④平成 30(2018)年12月以降に入れ墨を入れたことについては、電子ハラスメントを受けていたことの証拠についてのファイルをCIAなどいろいろなところに送っていて、入れ墨の記号は、そのファイルのパスワードである、パスワードは常に自分が持っている必要があり、携帯やメモだとなくしてしまうかもしれないが、体にあれば、自分が殺された後に調べた人 ところに送っていて、入れ墨の記号は、そのファイルのパスワードである、パスワードは常に自分が持っている必要があり、携帯やメモだとなくしてしまうかもしれないが、体にあれば、自分が殺された後に調べた人がアクセスでき、自分を殺したのは電子ハ ラスメントの影響を受けた人であることが分かる、背中に図形の入れ墨を入れたこ とについて、自分が殺されるときに首を切られるかもしれず、首がなかった遺体でこれが被告人の遺体だとわかるための図形だ、⑤平成30(2018)年12月及び平成31(2019)年3月にナイフを購入したことについては、電子ハラスメントに影響されている人が攻撃してくると思い、ナイフを買った、⑥頭の中にかなりのノイズがあってカオスだったので、忘れてはいけないことを書いたメモがある、 それには「IlovemywifethisismyjobIlikeher」と書いた、⑦平成31(2019)年2月26日と同月27日に、「Japannews」「japannewsmurder」「日本殺人事件」と検索した理由は、電子ハラスメントを受けている人が妻と子を殺したのではないかと心配したからである、⑧誰かが妻と子を害することを恐れていた、まず、 それを伝えて、そして妻を殺すという計画だった、必要ならその場から逃げるために火炎瓶を使う計画だった、もし私が妻を殺さなかったらもっと悪いことが起こると言われていた、悪いことが何かについて言われていないが、おそらく暗示的に妻と子への拷問とか、死ぬよりつらいこと、自分が何もしなければ子と妻の両方が拷問されて殺される、電子ハラスメントだと思った、⑨平成31(2019)年3月 20日、家を出てから裁判所まで声が常に聞こえていて、今日は妻は裁判所に来ないという声や、野球の ば子と妻の両方が拷問されて殺される、電子ハラスメントだと思った、⑨平成31(2019)年3月 20日、家を出てから裁判所まで声が常に聞こえていて、今日は妻は裁判所に来ないという声や、野球のファールファールと叫んでいる声が聞こえていた、被害者を見たとき、少し躊躇はあった、殺すまでの間にほんとはしたくないという非現実的な感覚があり、こんなことをしなければいけないとは信じられなかったが、子と妻に責任を感じていたので、2人にひどいことが起きてほしくなかったし、声が「や る時間だ」と言ってきて、その声がはっきり聞こえたので、それを避けることはできなかった、自分の責任を果たすために殺さなければならなかった、いままでその声で妻を殺さなければいけないということを長い間言われていたので、「やる時間だ」という声の意図が殺すということだとはっきりわかった、⑩妻と同様に自分も殺さなければいけないと思っていた、本件行為後に自殺するために両手首を切った のは、刑務所がひどいところなので、捕まるよりは死んだほうがいいと考え、逃げ ることは計画していた、⑪今(第2鑑定時)は、「声」は悪魔だと思う、論理的には精神症状だとわかるが、統合失調症の症状だとしたらもっとランダムになっていたと思う、電子ハラスメントのことを今は信じていない、悪魔が自分の魂を欲しがっている、と語った。 被告人の第2鑑定時における説明内容の信用性 ア被告人がB医師に語った妄想体験とその内容は、上記の事実関係と極めてよく整合している。特に、入れ墨を入れた理由については、被告人の妄想の説明なくしては到底理解し難いものであって、妄想の存在を強力に裏付けている。 イまた、被告人に妄想があったとの事実は、平成30(2018)年7月以降の被告人の言動に関して、被害者が 被告人の妄想の説明なくしては到底理解し難いものであって、妄想の存在を強力に裏付けている。 イまた、被告人に妄想があったとの事実は、平成30(2018)年7月以降の被告人の言動に関して、被害者が周囲に相談していた状況ともよく符合し、上記 の妄想の存在を裏付けている。 すなわち、被害者は、①被告人の実父に対し、被告人の行動について相談し、被告人の実父から、被告人の行動が被告人の母の行動に似ているとの説明を受け(実父証言)、②同年8月初め頃、被告人がり患していたADHDの主治医である精神科医(以下単に「主治医」という。)のいる病院に電話で相談し(主治医証言。その際 のカルテに、「夫の父に電話」「被告人の母は精神病で自殺、30代で妄想、幻視」、「子供の命が危ない」、「72時間失踪したらアメリカ大使館に連絡してくれ」という文言が残されている。)、③同月4日、被害者の母に対し、「7月に入ってから被告人の様子がおかしい、子供に怖い動画を無理やり聞かせている、被告人から怖い話をされている」などと相談し(被害者母証言)、④同月21日、被害者自身が受診し た精神科の医師に対して被告人についての相談をし、「7月から易怒性、妄想的発言が目立つようになった」と訴え、「殺される、組織に追われる、妻が洗脳されている、妻がひどい母親だから殺される」といった被告人の言動を伝え(弁6)、⑤同年9月末頃、被告人との夫婦関係調整調停等に関する交渉全般を依頼したD弁護士に対し、「それまで温厚だった被告人が、7月に入ってからは、被害者に対し、被害者が殺 されるとか、息子が被害者のせいで殺されるとか、被害者の頭にチップが埋め込ま れているなどと言い出した」と相談し、被告人にアメリカで精神科の治療を受けて欲しいとの希望を伝えていた(D証言)。 れるとか、息子が被害者のせいで殺されるとか、被害者の頭にチップが埋め込ま れているなどと言い出した」と相談し、被告人にアメリカで精神科の治療を受けて欲しいとの希望を伝えていた(D証言)。 ウ以上に加え、被告人が語る妄想内容全体をみても、被告人にとって有利か不利かを考えた上で語られている様子はうかがわれず、被告人が逮捕されて以降に考えて作り出された話とは到底考え難い。 エ小括以上によれば、被告人が第2鑑定時で語った内容は、証拠によって認められる事実関係に合致し、作り話とは考えられないものとして、信用性が高い。 第2鑑定についてア B医師は、①被告人は、平成30(2018)年7月までに統合失調症を発 症していたことは確実であり、本件行為当時も現在も、統合失調症にり患している、②被告人が語る電子ハラスメントをテーマとする妄想や幻聴は、統合失調症として典型的な体験の説明であり、入れ墨を入れる、ナイフを買う、殺人事件のネット検索をするといった行動は、妄想に影響された行動の現れであり、統合失調症の悪化を示すものであって、その経過は統合失調症の症状の典型的な発展の仕方を示して いる、③被告人は、平成31(2019)年2月時点で、電子ハラスメントにかかわる妄想により、妻・子の生命への切迫した危険を現実のものとして確信し、本件行為時の「やる時間だ」という幻聴に結実したもので、本件行為時には、被害者と息子への切迫した危険があると確信し、その危険から逃れるためには被害者を殺害するしかないと確信していた、④被告人が第2鑑定の問診時に語った内容は、統合 失調症の主観的体験(症状)として合理性があり、詐病としては不可能な複雑さ、深さ、広がりがあり、客観的事実と整合性があり、本件行為時、本件行為後の経過の全てが統合 問診時に語った内容は、統合 失調症の主観的体験(症状)として合理性があり、詐病としては不可能な複雑さ、深さ、広がりがあり、客観的事実と整合性があり、本件行為時、本件行為後の経過の全てが統合失調症として合理性があり、詐病は否定できると述べている。 イ被告人の妄想体験に係る説明が信用できることは前記のとおりであり、鑑定手法等に問題はなく、専門家であるB医師が、自ら行った第1鑑定結果を批判的に 検証しつつ、再度の問診結果や新たに得られた実父からの情報、一件記録を見直し た上で、慎重に検討して行われた第2鑑定の上記分析結果は、十分に信用できる。 したがって、被告人が本件行為当時に統合失調症にり患し、その妄想症状が活発化、悪化した状態であったことに疑いの余地はない。 ウ検察官は、被告人の妄想体験に係る供述が第2鑑定の問診時にしかされておらず、不合理に変遷し、被告人が現在も黙秘しているので、第2鑑定の前提とされ ている被告人の説明内容が信用できないから、第2鑑定を信用できないと主張する。 しかし、被告人が第1鑑定時に妄想体験を語らず、その後に、被告人が上記のような妄想体験を語り始めたことについて、B医師は、被告人が弁護人に対して初めて電子ハラスメントのことを話し始めた時期と、拘置所内で統合失調症の治療薬であるオランザピンが被告人に投与され始めた時期がほぼ一致しており、投薬の効果 により、被告人の状態に何らかの変化が生じたと合理的に説明できると述べている。 したがって、起訴後相当期間経過してから初めて妄想体験が語られるようになったという供述の変遷は、統合失調症の症状の変化として合理的に理解可能である。 また、被告人は、当公判廷において、一貫して黙秘を貫いているが、B医師が令和5(2023)年8月23日に行った補 うになったという供述の変遷は、統合失調症の症状の変化として合理的に理解可能である。 また、被告人は、当公判廷において、一貫して黙秘を貫いているが、B医師が令和5(2023)年8月23日に行った補充的な問診では、被告人は、黙秘する理 由として、法廷で話したら悪魔から何らかの報復があると言っていたというのであり、統合失調症の症状が改善していない以上、被告人の妄想体験がB医師に対してしか語られず、当公判廷において黙秘を続けたことについても、統合失調症の症状による影響として合理的に理解可能である。 したがって、被告人の供述経過を踏まえてみても、第2鑑定の信用性は何ら左右 されない。 エ検察官は、被告人が主治医の診察を毎月定期的に受けており、精神科医である主治医が統合失調症であると気付かなかったとの事実から、統合失調症との鑑定が信用できないと主張する。しかし、主治医の診察時間は、1回あたり10分以内と短く、被告人の言動に関する正確な情報も得られていなかったことに照らせば、 主治医が統合失調症を疑わなかったことは、第2鑑定の診断結果の信用性を左右す るものではない。 2 被告人の統合失調症の症状が本件行為に与えた影響の有無及び程度以上のとおり、信用できる第2鑑定結果によれば、被告人は、平成30(2018)年7月頃から、被告人が電子ハラスメントを受けており、電子ハラスメントをする人たちから被告人や被害者、息子が殺されるという妄想を抱いており、次 第にこの妄想の確信度が高まり、被告人にとって、被告人や被害者、息子が殺されるという危険は切迫したものとなっていき、この妄想が活発化して統合失調症が悪化する中で、被害者を殺さなければ被害者や息子が拷問されて殺されるという妄想が強まり、本件行為当日に「やる時間だ」という れるという危険は切迫したものとなっていき、この妄想が活発化して統合失調症が悪化する中で、被害者を殺さなければ被害者や息子が拷問されて殺されるという妄想が強まり、本件行為当日に「やる時間だ」という幻聴が生じていたと認められる。 そうすると、被告人がいつから被害者に対する計画的殺意を抱いていたのかは、 証拠上不明であるものの、家族に危害が及ぶという切迫した妄想内容に照らせば、被告人が、本件行為当時、統合失調症の症状であった上記妄想と、本件行為直前に生じた、「やる時間だ」という幻聴の強い影響を受けて、被害者殺害を決意し本件行為に及んだと認められる。 他方で、被害者は、平成30(2018)年8月30日、息子を連れて被告人と 同居していた家を出て、その後、被告人が調停を通じて被害者から離婚を求められていたという現実の状況に照らせば、現実に基づいた正常心理としての被害者に対する何らかの感情が、本件行為を決意させた側面があるかどうかについて、慎重に考える必要があるので、以下、検討する。 関係証拠(D証言、被害者実母証言、実父証言、主治医証言等)によれば、 以下の事実が認められる。 ア被告人は、平成19(2007)年に、日本に留学して被害者と知り合って交際を始め、平成25(2013)年9月に結婚し、平成28(2016)年には息子が誕生した。被告人は大学卒業頃にADHDの診断を受け、被害者もこれを知って協力していた。被告人の性格は穏やかで、夫婦仲はよかった(被害者の母証言 等)。被害者が、周囲に対して被告人の言動を相談するようになったのは平成30 (2018)年夏以降であり、それ以前に被告人の言動や夫婦関係に問題があったことをうかがわせる事実は見当たらない。 イ被告人は、前記認定のとおり、平成30(2018 なったのは平成30 (2018)年夏以降であり、それ以前に被告人の言動や夫婦関係に問題があったことをうかがわせる事実は見当たらない。 イ被告人は、前記認定のとおり、平成30(2018)年7月以降、統合失調症の症状を顕在化させていた。被害者は、同年8月以降、被害者と息子に危害が及ぶのではないかとの強い不安を感じ、同月30日、被告人に書置きを残し、息子を 連れてシェルターに入所した。 すると、被告人は、被害者がいなくなったことについて、同年9月1日には、警察署に連絡したり、被告人と被害者の共通の友人にSNS(LINE)で相談したりするなどした。被告人は、第三者による誘拐の可能性と、被害者が息子を連れ去った可能性とを実父に伝え(実父証言)、上記友人に対して同月11日、ハーグ条約 に言及しながら、これは違法なことだなどと送信したり、同月21日に被害者と息子を探すためにSNS(Facebook)の投稿を始め、「息子が誘拐された、妻も行方不明、地元警察、FBI、アメリカ国務省も居場所をつかめていない」などと投稿したりした。 被告人は、同月7日及び同年10月6日に主治医の診察を受けた際にも、「私自身 ではなく、家族に危機が迫っている」と言うなど、家族を強く心配しているようだった。 ウ被害者は、平成30(2018)年10月3日、D弁護士に依頼して、被告人と被害者の間の夫婦関係調整調停を申し立て、主として、被告人がアメリカで精神科治療を受けることを要望した。 被害者の要望等は、D弁護士を通じて、電話や手紙で同月9日に被告人に伝えられたが、被告人は、上記友人に、「詐欺みたいだ」とも送るなど、D弁護士の話を疑った。また、被告人は、自らが精神科治療を受ける必要性も感じていない様子で、何をどう治療すればいいのか教 に被告人に伝えられたが、被告人は、上記友人に、「詐欺みたいだ」とも送るなど、D弁護士の話を疑った。また、被告人は、自らが精神科治療を受ける必要性も感じていない様子で、何をどう治療すればいいのか教えてほしいと、D弁護士に伝えるなどした。これに対し、被害者は、被告人が精神科治療を真剣に考えていないと受け止め、離婚を決 意した。 被告人は、弁護士に調停の対応を委任すると共に、同月27日に上記友人に対し、二人が見つかったというメッセージを送信し、Facebookにも二人を見つけたと思うこと、自分たち家族からの感謝を伝える投稿をした。主治医の診察でも、安心した様子をしていた。 エ被告人は、息子に会いたいと要望し、被害者もこれに応じたことから、平成 30(2018)年11月9日、被告人と息子の面会交流が実施され、今後もスカイプを使って面会交流を続ける方針について、被告人及び被害者の双方が了承していた。 オ被告人は、平成30(2018)年11月23日の診察時に、主治医に対し「何があったかは、わからない、調べている、どこかにいって、今のいる場所は誰 かが監視しているから安心、だからメンタル的に不安は軽減した」と述べた。 カ平成30(2018)年12月21日に第2回調停が行われ、被害者の離婚意思が明確に被告人に伝えられるなどした。 キ D弁護士から被告人に対し、被告人の住居が被害者名義であるために生じている立替金(家賃等)の請求や、名義変更あるいは住居からの退去といった被害者 の要望が伝えられており、被告人からは、それらに対して支払うという返答が伝えられたものの、実際に立替金が支払われることもなく、住居をめぐる状況が改善することもなかった。 ク平成31(2019)年2月11日には、被害者側から被 らは、それらに対して支払うという返答が伝えられたものの、実際に立替金が支払われることもなく、住居をめぐる状況が改善することもなかった。 ク平成31(2019)年2月11日には、被害者側から被告人側に対し、婚姻費用分担の申立てがされ、同月27日に第3回調停期日が開かれたが、被告人は 欠席した(なお、被告人は、同日、霞が関周辺や被害者の実家周辺を訪れていたが被害者と会うことはなかった。)。 同年3月20日は、第4回調停期日が予定されており、その前に、被告人と息子の面会交流が予定されていたが、被告人は、面会交流に出席せず、本件行為に及んだ。 以上の事実を踏まえて被告人の心理状態を検討する。 ア被告人は、第2鑑定の問診時に、平成30(2018)年8月末に被害者が家を出ていったことについて、「最初は二つの可能性があると思った。一つは自分の意思。もうひとつは電子ハラスメントを受けている人に誘拐された。時間がたつにつれて誘拐されたのではないかという考えのほうが強くなってきた」と述べている。 このような被告人の説明内容は、前記認定事実と整合している。そして、前記認 定事実と第2鑑定を併せみると、被害者と息子がいなくなった際には、被害者が息子を連れ去った可能性を考えつつも、主として、統合失調症による妄想の影響を受けて、電子ハラスメントによって、被害者と息子の安全が脅かされているのではないかと心配していた様子が認められる。その後、被告人は、被害者と息子が安全な場所にいると知って安心した様子を示しており、それ以後、息子との面会交流が実 現されていることや、被害者と息子が見つかった後にハーグ条約を持ち出して不満を述べる様子も一切ないことからしてみても、被害者が息子を連れ去ったとして怒りを感じていたと 、息子との面会交流が実 現されていることや、被害者と息子が見つかった後にハーグ条約を持ち出して不満を述べる様子も一切ないことからしてみても、被害者が息子を連れ去ったとして怒りを感じていたとか、恨んでいたといった様子はうかがわれない。 イまた、被告人は、金銭的請求を受けていたことについても、特に経済的に困窮していた様子もうかがわれず、当初から家賃の立替金の支払いにも応じる返答を していたのであって、金銭的請求によって被告人が追い詰められていた様子も全くないし、そのような請求に対して被害者に対して怒りを感じていた様子を示す証拠もない。 ウ本件行為以前に、被害者に対して直接的に暴力を振るったことをうかがわせるような形跡は全くない。また、被告人が、被害者に対し、平成30(2018) 年頃から、「被害者のせいで息子が殺される」と言うなどの粗暴な言動をしていたが、これは、統合失調症の妄想等の影響によるものと認められる。 エ上記のような調停経過に照らせば、被告人が、被害者に対して不満や苛立ちの感情を抱いた可能性はあるものの、被害者を殺害したいと被告人が思うほどの強い怒り、憎しみ、恨みといった感情を持っていたことをうかがわせる事実は一切見 当たらない(検察官が指摘するいら立ちを示す言動も、警察や被害者の家族に対す るものでしかない。)。結局、調停の手続や被害者からの請求に対して、被告人がどのように感じていたのかを合理的疑いなく認定できるような証拠はないというほかない。 したがって、本件証拠上、被告人が被害者を殺害することについて、被告人の正常心理に基づいた動機があったとは認められない。 オこれに対し、検察官は、第1鑑定に依拠し、被告人が日常的に濫用していた咳止め用市販薬のノスポールや被告 を殺害することについて、被告人の正常心理に基づいた動機があったとは認められない。 オこれに対し、検察官は、第1鑑定に依拠し、被告人が日常的に濫用していた咳止め用市販薬のノスポールや被告人がADHDの治療薬として処方されていたコンサータの服用による本件行為への影響を指摘し、これらの薬剤の服用により易怒性の亢進が生じ、被害者への怒りが増幅されたもので、正常心理に基づく犯行である、被告人が本件犯行前に飲酒していたのも、事件を起こす前に気持ちを落ち着か せるための正常心理として理解できると主張する。 しかし、B医師は第1鑑定ではこれら薬物の影響について過剰に評価しすぎていたと述べると共に、コンサータについては、被告人が主治医から処方されたとおりに最低量を服用していたにすぎないこと、ノスポールについては、過剰に飲んでいたとはいえ市販薬であることから、それらの薬理作用の大きさについて懐疑的な意 見を述べている。また飲酒について考えてみても、特別量が多いわけでもなく、日常的な飲酒量も不明で、飲酒したことの意味合いは、本件証拠上不明というほかない。 そもそも、上記主張は、被告人が被害者に対して正常心理に基づく怒りを有していたことを前提とするものであるが、怒りがあったことは証拠上認められないので あるから、検察官の上記主張はその前提を欠いていて、採用できない。 以上によれば、被告人が被害者を殺害するという本件行為に及ぶ意思決定を最終的に行った決定的要因は、正常心理によるものではなく、被害者を殺さなければ被害者や息子が拷問されて殺されるという妄想と、本件行為直前の「やる時間だ」という幻聴にあり、本件行為は、これらの妄想・幻聴の圧倒的影響によって行われ たものと認められる。 検察官の主張につい れて殺されるという妄想と、本件行為直前の「やる時間だ」という幻聴にあり、本件行為は、これらの妄想・幻聴の圧倒的影響によって行われ たものと認められる。 検察官の主張についてア検察官は、被告人の本件行為前後の言動をみると、①システムエンジニアの仕事を続けられていて、被害者らが家を出て以降の被告人の反応も、現実的で真っ当なものであること、②本件行為前も、調停期日に家庭裁判所前で待ち伏せするなど被告人が計画的な殺害目的に沿った合理的な行動をとっていること、③本件犯行 後も警察に捕まらないために逃走し、被告人が逃走中に両手首を切って入院した後も穏やかで落ち着いていて入院中に精神疾患を疑わせる言動がないこと、入院治療が終わった後に行われた平成31(2019)年4月15日の弁解録取手続に際して、弁護士がいないと話ができないと述べるなどしていることから、被告人の言動に精神疾患やその影響をうかがわせるものがないと主張する。 しかし、被告人は、入院翌日の平成31(2019)年3月21日にはせん妄状態で大暴れして、同年4月4日まで鎮静剤を投与されており、本件行為後に穏やかで落ち着いていたとはいえない。また、B医師によれば、統合失調症は、どのような場面でも、常にまともな行動ができなくなるといった疾患ではなく、その症状の現れ方自体が多彩で、その症状の強さにも時期による波があるというのである。し たがって、本件行為やそれに至るまでの被告人の対応を個別に切り出してみた場合、一見理性的・合理的に見える対応があることはあり得る。検察官の指摘する合理的な行動があったとの事実は、妄想の圧倒的影響のもとで行った行為であることを否定する根拠にはならない。 イ検察官は、被告人が罪を犯したことを認識していたからこそ逃走するな 。検察官の指摘する合理的な行動があったとの事実は、妄想の圧倒的影響のもとで行った行為であることを否定する根拠にはならない。 イ検察官は、被告人が罪を犯したことを認識していたからこそ逃走するなど、 防御的行動をとっていたといえ、自己の言動をコントロールできていたと主張する。 確かに、被告人は、第2鑑定の問診時に、本件行為直前においても、殺害行為に及ぶことについて躊躇を感じていたと述べており、本件行為を行う直前に至るまで、被害者を殺害することに対して罪の意識を持ち合わせていたことがうかがわれる。 しかし、そうした罪の意識を有していたにもかかわらず、本件行為に及んだ理由、 動機として、正常心理に基づくものが見当たらない本件においては、そのような罪 の意識を凌駕するものとして妄想と幻聴が現れ、その妄想・幻聴に抗えなかったからこそ、被告人は、被害者を殺害するという本件行為を行うとの意思決定に至ったものと認められる。このことは、本件において、一般的な倫理観を乗り越えさせるほどに妄想・幻聴が強かったことを示すものといえる。したがって、本件行為直前まで罪の意識があったことや、本件行為後に逃走したとの事実は、妄想・幻聴の影 響が圧倒的であったとの前記判断を左右するものではない。 第3 結論以上によれば、本件各公訴事実について、犯罪の証明がないことになるので、刑訴法336条により、被告人に対して無罪の言渡しをする。 (求刑懲役22年及びナイフ4本の没収) 令和5年10月20日東京地方裁判所刑事第10部 裁判長裁判官向井香津子 裁判官世森ユキコ 裁判官友近仁洸 裁判長 裁判官向井香津子 裁判官世森ユキコ 裁判官友近仁洸

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