令和1(う)284 覚せい剤取締法違反被告事件

裁判年月日・裁判所
令和2年2月25日 名古屋高等裁判所 破棄自判 名古屋地方裁判所
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判決文本文7,679 文字)

主文 原判決を破棄する。 被告人を懲役6月に処する。 この裁判が確定した日から2年間刑の執行を猶予する。 理由 第1 控訴趣意本件控訴の趣意は,検察官作成の控訴趣意書及び同補充書に各記載のとおりである。論旨は,事実誤認の主張であり,要するに,本件公訴事実について,被告人の故意及び共犯者との共謀を認めず無罪とした原判決には事実の誤認があるという。これに対する答弁は,弁護人連名作成の答弁書及び主任弁護人作成の同(補足)に各記載のとおりである。 第2 本件公訴事実本件公訴事実は,「被告人は,A と共謀の上,法定の除外事由がないのに,平成30年7月26日頃,名古屋市a 区b 町字cd 番地e ホテルfg 号室において,覚せい剤であるフエニルメチルアミノプロパン塩酸塩若干量を含有する水溶液を前記A から被告人の身体に注射してもらい,もって覚せい剤を使用した。」というものである。 第3 原判決の要旨原判決は,要旨次のとおり判示し,被告人を無罪とした。 1 前提事実被告人の公判供述,被告人の夫B の証言等の関係各証拠によれば,次の事実が認められる。 ア B は,受刑者の就労支援のための協力雇用主として平成30年(以下全て平成30年の出来事)1月,服役を終えて出所したA(当時26歳)を,B 経営の会社が運営する飲食店の従業員として雇用した。被告人は,同社の役員として同店の業務を行い,B 及び次男等と自宅で暮らしていた。 イ被告人とA は,3月1日頃,車内で性交渉を持ち,以後,定期的に性交渉を持つ関係となった。A は,4月19日,従業員寮を出て前記飲食店を事実上辞め,5月末頃からホテルを転々とするようになったが, イ被告人とA は,3月1日頃,車内で性交渉を持ち,以後,定期的に性交渉を持つ関係となった。A は,4月19日,従業員寮を出て前記飲食店を事実上辞め,5月末頃からホテルを転々とするようになったが,被告人との関係は続いていた。なお,A は,4月頃から,性交渉の際,被告人の膣に薬物を入れるようになった。 ウ A は,6月頃から頻繁に,被告人に殴る蹴る等の暴力を振るうようになった。例えば,同月頃,被告人の胸部を手拳で強く殴る,7月初旬頃,ライターを投げ付けて鼻部に全治約3週間の傷害を負わせる,同月上旬頃,頭部を殴り,両目下に内出血を生じさせる,同月中旬頃,右上腕部を手拳で複数回殴るなどというものであった。 エまた,A は,6月頃から,被告人に金銭を要求するようになり,被告人は,7月27日逮捕されるまでに,消費者金融からの借入れ(合計約650万円),B の口座からの無断引き出し(合計約50万円)及び母親からの借入れ(合計約360万円)により合計1000万円以上の金銭を渡した。 オ 7月22日,B は,自宅に戻った被告人の体に皮下出血による多数のあざがあることや,被告人の鞄に消費者金融の申込書,A への振込用紙等が入っていたことから,A が被告人に暴力を振るっていることを知り,A をぶち殺したるなどと発言した。被告人は,A に逃げるよう連絡し,その後,逮捕される同月27日までの間,A とホテルを転々としながら行動を共にした(ただし,同月23日,26日の各深夜,A 運転の車で自宅に戻り,短時間滞在した)。 カその間の7月22日,A は,被告人に注射器を示して初めて薬物使用を持ち掛けた。この時,A は被告人の左腕に注射器の針を刺そうとしたがうまくいかず,准看護師の資格をもつ被告人が自ら左腕にその針を刺し,Aが押し 22日,A は,被告人に注射器を示して初めて薬物使用を持ち掛けた。この時,A は被告人の左腕に注射器の針を刺そうとしたがうまくいかず,准看護師の資格をもつ被告人が自ら左腕にその針を刺し,Aが押し棒を押して注射した(以下「22日の注射」)。同月24日も,同様の方法でA は被告人に薬物を注射した。同月26日午前4時頃も,公訴事 実記載のホテル(以下「本件ホテル」)で,A が注射器を用意して被告人に薬物使用を持ち掛け,それまでと同様の方法で被告人に薬物を注射した(以下「本件注射」)。薬物は覚せい剤であった。 キ A は,本件注射後,本件ホテルで,被告人に殴る蹴る,ホテルの備品を投げ付けるなど(臀部に黄色い液体を注射したことを含む)の暴力を加え,同日午後7時50分頃,移動した別のホテルで,被告人の左額部等を手拳で複数回殴って全治約5日間の傷害を負わせ,さらに,その後,車内で,被告人の右上腕部を手拳で複数回殴った。 ク A は,同月27日にも,さらに別のホテルで,注射器を用意して被告人に薬物使用を持ち掛けたが,被告人から「やばいものじゃないの」と聞かれ,「うん」と述べ,被告人が「ああいうものは寂しい人がやるんじゃないの」と言うと,A は,結局,被告人に薬物を注射しなかった。 ケ同日,被告人は,A が寝ている間に,B に「帰りたいけど帰れない。殴られ蹴られ,暴行されている」旨のショートメールを送信し,次男に「いろいろあって帰れません。薬を打たれているので警察は駄目」「殴られ蹴られて,もう逃げられない。スピーカーで話も聞かれている」旨のメッセージを送信した。次男が警察に知らせ,同日午後3時頃,ホテルから出てきた被告人を警察官が発見し,その後,被告人の尿から覚せい剤反応が出たため逮捕された。 コ逮捕当時 かれている」旨のメッセージを送信した。次男が警察に知らせ,同日午後3時頃,ホテルから出てきた被告人を警察官が発見し,その後,被告人の尿から覚せい剤反応が出たため逮捕された。 コ逮捕当時,被告人には,顔面,両側上肢,胸部,腹部,両側下肢等に多数の皮下出血ないし打撲痕が認められた。同月26日に受けた傷害については,その後,全治約2週間の右上腕部挫傷と診断された。被告人に前科・前歴はなく,過去に違法薬物使用の経験はなかった。 前記各認定に係る被告人の公判供述は,被告人の負傷に係る各写真,診療記録等と整合することなどから信用できる。 2 覚せい剤使用の故意及びA との共謀 被告人は,公判で,「膣に入れられた薬物はA からは性的に興奮する薬と説明されており,7月22日の注射の際,覚せい剤の可能性は考えたが,同様の説明だった。その際,断ったらどうなるのと聞くと,高いしもったいないなどと言い,怒り出すような顔をしたので,断ると殴られ,殺されるかもしれないと恐怖を感じ,応じたが,打った後の感覚からやはり覚せい剤ではないかと思った。本件注射の際も,A から注射器を差し出されてこれが被告人のだよと言われ,断ると暴力を振るわれてもしかしたら殺されるとの恐怖心から断れなかった。27日のA の返答から覚せい剤と確信し,家族に助けを求めた」旨供述する。 被告人の前記供述のうち,薬物に対する認識の点に特に不自然な点はなく,メール等の内容とも整合しており信用できる。そうすると,被告人は,本件注射の際,覚せい剤と思われるものをA から注射されることを理解しながら,拒絶することなく自ら左腕に注射器の針を刺したものと認められる。 被告人の前記供述のうち,本件注射の際の心理状態の点についても,その信用性は否 るものをA から注射されることを理解しながら,拒絶することなく自ら左腕に注射器の針を刺したものと認められる。 被告人の前記供述のうち,本件注射の際の心理状態の点についても,その信用性は否定されない。すなわち,平成30年6月頃から本件注射に至るまでの2か月弱の間にA から繰り返し暴力を受けており,それは相当に激しいものであった。また,その間,要求に応じて約1000万円もの金銭を渡していたのも,機嫌を損ねると暴力を振るうA の要求を断れなかったからと認められる。そうすると,本件注射の際,A の暴力が怖くて断れなかった旨の被告人の供述は排斥できず,被告人は暴力を恐れてA の意に反する行動をとることが困難な心理状態にあった可能性がある。 そうすると,本件注射の際,覚せい剤と思われるものをA に注射されることを理解しながら,拒絶することなく自ら左腕に注射器の針を刺したという被告人の行為は,本件注射を打ちたい思いはなかったものの暴力を振るわれることを恐れてA の意に反する行動をとることができず,A に従ったに過ぎない可能性を否定できない。この心理状態について,被告人がA に本件注射 をしてもらおうという主体的な意思(本件注射により覚せい剤と思われるものの効果を得ようとする主体的な意思)を有していたと評価することは困難である。したがって,被告人が自らの意思でA に本件注射をしてもらったこと,すなわち,被告人に覚せい剤使用の故意及びA との共謀があったことについては,合理的疑いが残る。 第4 当裁判所の判断 1 原判決の認定した前提事実(第3の1の験則等に照らして不合理な点はなく,そのとおり認められる。 また,被告人が遅くとも22日の注射以後は,A が用いた薬物が覚せい剤ではないかと思っていたことも原判決の説示の 定した前提事実(第3の1の験則等に照らして不合理な点はなく,そのとおり認められる。 また,被告人が遅くとも22日の注射以後は,A が用いた薬物が覚せい剤ではないかと思っていたことも原判決の説示のとおり認められる。 2 しかしながら,被告人の原審供述を前提として,被告人に覚せい剤使用の故意及びA との共謀を認めなかった点については,是認できない。 原判決は,被告人に覚せい剤使用の故意がないこと及びA との共謀がないことの前提として「A に本件注射をしてもらおうという主体的な意思」あるいは「本件注射により覚せい剤と思われるものの効果を得ようとする主体的な意思」なるものを設定し,被告人にこうした意思があったと評価することは困難であり,したがって,覚せい剤使用の故意もA との共謀も認められない旨説示する。 しかしながら,覚せい剤使用の故意が認められるためには,覚せい剤をその用法に従って用いる一切の行為を認識,認容することで足り,それ以上に,薬理効果を得ようとする意思も,主体的な意思も意欲も必要とされていない。この点,原判決も認定するとおり,被告人は,本件注射の際,A から薬物入りの注射器を差し出されてこれが被告人のだよと言われ,覚せい剤と思われる薬物を注射されることを理解しながら,特に拒絶することなく,自ら左腕にその注射器の針を刺し,その後,A が注射器の押し棒を押したことが認められる。そうすると,被告人は,注射器内の薬物が覚せい剤である可能性の認識をもち,針を刺せばA が注射器の押し棒を押して薬物が自己の身体に取り込まれるこ とを予見しながら,あえて注射器の針を自己の左腕に自ら刺したのであるから,覚せい剤使用の認識はもとより,認容についても欠けるところはない。また,覚せい剤と思われる薬物を使用する認識がありなが とを予見しながら,あえて注射器の針を自己の左腕に自ら刺したのであるから,覚せい剤使用の認識はもとより,認容についても欠けるところはない。また,覚せい剤と思われる薬物を使用する認識がありながら,A からの要請に応じる形でその実行行為の一部を行ったのであるから,A との間で覚せい剤使用の共謀も認められる。それにもかかわらず,これと異なる前提に立ち「注射をしてもらおうという主体的な意思」あるいは「覚せい剤と思われるものの効果を得ようとする主体的な意思」はなく共謀もなかったと結論付けた原判決の判断は誤った法解釈に基づく不合理なものであって到底是認できない。 3 もっとも原判決の主旨は,A から暴力を振るわれることを恐れてその意に反する行動をとることができなかった被告人が打ちたくもない注射を打ったもので,そのような被告人に覚せい剤使用罪の責任を問うのは相当ではない,というものとも解され,要するに,当時の被告人にはいわゆる期待可能性がなかったとして,期待可能性がない場合には故意を認めないという見解に立ったものとも理解できる。 しかしながら,期待可能性がないから故意あるいは責任が阻却されるという結論は,厳格な要件の下に認められるべきであり,客観的にみて当該行為が心理的強制下において行われた場合など極限的な事態において初めて肯定されるべきものである。 本件において,被告人とA とは,平成30年3月以降,車内での性交渉を機に,その後,性的関係を続けるようになり,被告人はA の優しくて思いやりのある態度に好意を抱き,他方で夫であるB への不満もあって肉体関係を持ち続けていた。もっとも,6月頃から,被告人はA から殴る蹴るといった暴行を頻繁に振るわれたり,多額の現金を要求されこれを渡すようになり,A への好意や愛情はなくなりつつ の不満もあって肉体関係を持ち続けていた。もっとも,6月頃から,被告人はA から殴る蹴るといった暴行を頻繁に振るわれたり,多額の現金を要求されこれを渡すようになり,A への好意や愛情はなくなりつつあったが,それが完全になくなるということはなかった。 7月22日に自宅を出た後も,逮捕されるまでA とSMプレイのできるホテルを含む複数のラブホテルを転々とし,その間も肉体関係を持ち続け,22日の 注射の翌日と本件注射の日の深夜の2回,A 運転の車で自宅へ戻りながら再びA の元へ戻るなど,終始行動をともにするという関係にあった。 原判決は,被告人が原審公判廷において,A について「一人にしないでと言われていたので,かわいそうだと思って放っておけなかった」「好意や愛情も完全にないことはなかった」と述べていることを踏まえ,被告人に,A に対する情があることを認めつつも,本件注射の際は,暴力を恐れる気持ちが大部分を占めていたと評価し,それゆえ本件注射を拒否できない心理的強制下に被告人が置かれていた旨説示する。 しかしながら,原判決も本件注射の際の被告人の心境について,A の暴力を恐れる気持ちが大部分を占めていたとはいうもののA に対する情がなかったとまではいっておらず,そうであれば,覚せい剤を使用したいというA の意向を肯定あるいは許容する被告人の気持ちが存在していたことまでは否定できないはずである。このような心理状態の被告人の行為をもってそれが極限的な事態とみることは合理性に欠けるといわざるを得ない。 現に,本件注射の翌日である同月27日,被告人がA に対し「ああいうものは寂しい人がやるんじゃないの」と言って覚せい剤の使用を止めるよう提案した際,結局,使用には至らず,A からの被告人に対する暴行などもなかった事実からすれ 月27日,被告人がA に対し「ああいうものは寂しい人がやるんじゃないの」と言って覚せい剤の使用を止めるよう提案した際,結局,使用には至らず,A からの被告人に対する暴行などもなかった事実からすれば,要するに,A の覚せい剤使用へのこだわりはその程度のものであったことを示すとともに,その前日の出来事であった本件注射の際にも,被告人がこれを拒否又は説得しようと思えばできたことをうかがわせる事情とみることができる。 この点,原判決は,本件注射後に,嫌がる被告人を無視してA がその臀部に黄色い液体の入った注射を打ったことを踏まえ,仮に本件注射の際に被告人が注射されることを拒否したとしてもそれは無理であったとする。だが,本件注射と臀部への注射とは,注射器の中味,注射した部位が異なる上,臀部への注射はA 本人がしているのに対し,本件注射は被告人本人が注射針を自己の腕に 刺しているという違いを踏まえると,両者を同視することは相当でない。したがって,被告人の意向を無視して臀部に注射されたからといって,本件注射の際にこれを拒否できなかった可能性があると評価するのは早計といわざるを得ない。 これら事情を総合すると,本件注射が,それを拒否すればA から暴行を加えられるかもしれないという恐怖による心理的な強制下において行われた極限的な事態であったとは到底いえない。それにもかかわらず,被告人はA から暴行を振るわれることを恐れてその意に反する行動をとることができなかった,すなわち,被告人はA の心理的強制下にあったから期待可能性がないとして故意を否定したものとも解される原判決の判断は,結局のところ論理則,経験則等に反する不合理なものといわざるを得ない。 4 以上から,被告人は覚せい剤使用罪について有罪であるのに,原判決は事実を誤認し を否定したものとも解される原判決の判断は,結局のところ論理則,経験則等に反する不合理なものといわざるを得ない。 4 以上から,被告人は覚せい剤使用罪について有罪であるのに,原判決は事実を誤認し,無罪としたものであり,これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由がある。 第5 破棄自判そこで,刑訴法397条1項,382条により原判決を破棄し,同法400条ただし書により,当裁判所において次のとおり判決する。 (当裁判所が認定した罪となるべき事実)被告人は,A と共謀の上,法定の除外事由がないのに,平成30年7月26日頃,名古屋市a 区b 町字cd 番地e ホテルfg 号室において,覚せい剤であるフエニルメチルアミノプロパンの塩類若干量を含有する水溶液を,被告人がそれが入った注射器の針を自己の左腕に刺し,A がその注射器の押し棒を押して被告人の身体に注射し,もって覚せい剤を使用した。 (量刑の理由)被告人は,共犯者と不倫の関係となった後,頻繁に暴力を受けるようになったが,なお関係を継続していたところ,ラブホテルで共犯者から薬物注射を勧 められ,それが覚せい剤である可能性を認識したものの,断ると暴力を振るわれる恐れがあると思いつつも,好意の情もまだ残っていたことから,自ら注射器の針を腕に刺すなどして本件犯行に及んだものであり,その刑事責任は軽視できない。 しかし,本件に及んだことには共犯者の影響が大きいことは否定できず,被告人の覚せい剤依存性は高くないこと,前科・前歴がないことなど酌むべき事情も認められるので,主文の刑を科した上,その執行は猶予することとした。 (原審検察官の求刑懲役1年6月)令和2年2月26日名古屋高等裁判所刑事第1部 主文 き事情も認められるので,主文の刑を科した上,その執行は猶予することとした。 (原審検察官の求刑懲役1年6月)令和2年2月26日名古屋高等裁判所刑事第1部 裁判長裁判官堀内満 裁判官田中聖浩 裁判官山田順子

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