【DRY-RUN】○ 主文 一 原告の昭和二八年六月一二日付の戦傷病者戦没者遺族等援護法二三条一項一号 及び三四条一項に基づく遺族年金及び弔慰金の請求に対し、被告が昭和二九年八月 二〇日付でした却下処分が無効であること
○ 主文一原告の昭和二八年六月一二日付の戦傷病者戦没者遺族等援護法二三条一項一号及び三四条一項に基づく遺族年金及び弔慰金の請求に対し、被告が昭和二九年八月二〇日付でした却下処分が無効であることを確認する。 二原告の昭和五〇年一二月二五日付の前項と同様の請求に対し、被告が何らの処分をしないことが違法であることを確認する。 三原告のその余の請求を棄却する。 四訴訟費用は被告の負担とする。 ○ 事実第一当事者の求めた判決一原告 1 主文一、二項と同旨 2 主文一項の却下処分に対する原告の昭和二九年一〇月五日付の不服申立てについて、被告が昭和三一年四月一八日付でした棄却裁決が無効であることを確認する。 3 訴訟費用は被告の負担とする。 二被告 1 原告の請求をいずれも棄却する。 2 訴訟費用は原告の負担とする。 第二原告の請求原因一原告は、昭和二一年六月二五日に死亡したAの妻であり、Aの遺族として、被告に対し、昭和二八年六月一二日付で戦傷病者戦没者遺族等援護法(昭和二七年法律第一二七号。以下「援護法」という。)二三条一項及び三四条一項に基づく遺族年金及び弔慰金の支給請求をしたところ、被告は、Aの死亡は復員帰郷後の脳出血によるものであつて公務上の疾病によるものではなく、また右脳出血は戦争に関する勤務に関連する疾病とは認められないとして、昭和二九年八月二〇日付でこれを却下する旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。これに対し原告は昭和二九年一〇月五日付で被告に対し不服申立てをしたが、被告は昭和三一年四月一八日付で本件処分と同様の理由でこれを棄却するとの裁決(以下「本件裁決」という。)をした。 二しかし、本件処分及び本件裁決は、左のとおり、Aの死亡が公務上の疾病によるものであることを看過した重大明白な瑕疵を有し、無効である。 これを棄却するとの裁決(以下「本件裁決」という。)をした。 二しかし、本件処分及び本件裁決は、左のとおり、Aの死亡が公務上の疾病によるものであることを看過した重大明白な瑕疵を有し、無効である。 1 Aは、大正五年四月二二日新潟県西頸城郡<地名略>(現在は糸魚川市に編入)で生まれ、昭和一六年六月二〇日原告と婚姻し、長男Bの出生を間近に控えた昭和一七年五月四日陸軍独立山砲第一連隊に入隊した。Aは、昭和一九年五月二六日野戦高射砲第七六大隊第三中隊に転属となり、同隊の一員として同年六月三〇日門司を出港して同年七月一五日マニラに到着し、更に同年一一月二一日フイリピンのネグロス島に上陸し、以後戦闘活動に従事した。しかし、昭和二〇年三月末には米軍が同島に上陸するところとなつたため、日本軍は、山中へ逃げ込み、雑草や沢ガニ等を食べながら露営し、無帽、裸足で山中を転々としたが、同年八月には隊員の健康状態が一様に悪化し、山中で行き倒れる者も少なくなかつた。そして、終戦後日本軍は米軍に投降したが、Aの属していた隊についていえば、約一五〇名の隊員中、死亡約六〇名、行方不明約二〇名、帰国約七〇名であつた。Aは、幼時から健康であつたが、昭和二〇年三月ころにはマラリアにかかつて悪寒戦慄及び高熱症状を呈していたため、他の隊員に先がけて病人や弱者約一五名と共に米軍の攻撃を避けてネグロス島の山中へ入り、同年七月下旬には山中に倒れて動けなくなつたこともあり、同年八月には、マラリア、結核、栄養失調、疥癬に罹患し、極度に衰弱していた。同年九月二日、隊の投降とともに、Aは、直ちに米軍の自動車に乗せられ、更に重症者として飛行機でマニラの病院に収容された後、同年一二月に帰国し、同月一四日横須賀病院走水分院(現在の国立横須賀病院)に入院した。しかし、Aは、一日も早く妻子の許へ帰りたか 動車に乗せられ、更に重症者として飛行機でマニラの病院に収容された後、同年一二月に帰国し、同月一四日横須賀病院走水分院(現在の国立横須賀病院)に入院した。しかし、Aは、一日も早く妻子の許へ帰りたかつたため同月二〇日治癒扱いで退院し、とりあえず東京の親類のC方を訪ねたが、発熱や震えがあつたために同人方で約一週間程寝かせてもらい、その後叔父のDに伴われて妻子のいる新潟県西頸城郡<地名略>に向けて帰郷の途についた。 Aは、昭和二〇年一二月三一日に原告が当時住んでいた原告の実家に帰り着き、以後そこで寝起きすることとなつたが、それ以降毎日正午ころになるとマラリア症状を呈し、高熱を発し震えが止まらない状態が約四〇日間継続し、その後五日間程途切れ、また四〇日間程続き、七日間程途切れるという具合に繰り返し、併せて栄養失調、結核、疥癬があり、昭和二一年五月ころになつても微熱が続くなど、治癒や体力の回復は十分ではなかつた。他方、Aが復員帰郷後に右以外の病気にかかつた形跡はなかつた。このような状況にあつた同年六月二三日の朝にAは散歩に出かけたが、なかなか帰らず、午後三時半ころAが道端に倒れている旨の連絡があり、Aは、直ちに近くの叔父のE方へ運ばれたものの、顔色は青ざめ、声をかけられても応答しなかつた。そして、Aは、その後意識不明のまま、何も食べたり飲んだりすることもなく二日後の同月二五日午後五時四〇分に死亡した。当時Aは三〇歳二か月であり、死亡診断書には病名が脳出血と記載された。 2 右1のとおり、Aは従軍中にマラリア、肺結核、疥癬及び栄養失調に罹患したのであるから、右は公務上の疾病であることが明らかである。 そして、右1のとおり、Aの直接死因は意識障害を主な徴候とする全経過二日の疾患であるが、このような死亡時の症状から考えられる疾患としては、(1)マラリア 、右は公務上の疾病であることが明らかである。 そして、右1のとおり、Aの直接死因は意識障害を主な徴候とする全経過二日の疾患であるが、このような死亡時の症状から考えられる疾患としては、(1)マラリアと関係した疾患、(2)クモ膜下出血、(3)脳出血があり、マラリア原虫が血液に入ることにより血液が弾力性を失つて血管の細いところで詰まつてしまうことが解明されているから、心臓、脳、副腎の毛細血管が閉塞することによつて意識不明から死を招来したという(1)の蓋然性が極めて高い。(2)(3)はAが若年であつたことに照らし多分に疑問であるが、仮に脳出血であるとしても、それは戦争中にAが体力の限界状況に置かれたことが基礎的条件となつていたものであり、また、そのような原因がなければ脳出血を起こしても死亡にまでは至らずに済んだであろうと考えられ、応召中の極限生活が死亡の少なくとも重要な原因となつていたことは明らかである。 したがつて、いずれにしてもAの死亡は公務上の疾病によるものというべきである。 三次に、原告は、本件処分から約二〇年後の昭和五〇年一二月二五日付で、本件処分後の調査により得た新資料をも添えて被告に対しAの遺族として再度援護法二三条一項一号及び三四条一項に基づく遺族年金及び弔慰金の請求(以下「本件再申請」という。)をしたが、これに対しては、本件処分を変更することができない旨を記載した昭和五三年四月三日付の厚生省援護局援護課名の文書が送られてきただけである。しかし、右文書には課長名も押印もなく、このような文書による右の如き内容の通知をもつて被告による何らかの処分とみることはできないから、被告は原告の本件再申請に対し何らの応答をしていないというほかない。 ところで、原告の昭和二八年六月一二日付の請求についてなされた本件処分及び本件裁決は前記二のとお かの処分とみることはできないから、被告は原告の本件再申請に対し何らの応答をしていないというほかない。 ところで、原告の昭和二八年六月一二日付の請求についてなされた本件処分及び本件裁決は前記二のとおり無効であつて公定力、不可争力、不可変更力等は生じないから、本件再申請に対して本件処分と異なる内容の新処分をしても行政上の法律関係の安定が損われることはない。また、仮に本件処分及び本件裁決が無効でないとしても、援護法に基づく遺族年金及び弔慰金の支給に関する被告の裁定は、本来、援護法所定の要件を具備しているか否かを確定する一種の確認行為であり、裁判における既判力のように一事不再理の効力を有するものではないから、同一資料に基づく同一申請ならともかく、新資料を発見し、もしくは新資料の提出が可能となり、又は事情変更が認められる場合には、再度の申請が許され、これに対しては新たな判断をしなければならないのである。 したがつて、被告は、原告の本件再申請に対して応答義務を負うにもかかわらず、相当期間を経過してもなお何らの処分をしないのであるから、被告の右不作為は違法である。 四よつて、原告は、本件処分及び本件裁決が無効であること及び本件再申請に対する被告の不作為が違法であることの各確認を求める。 第三請求原因に対する被告の認否一請求原因一は認める。 二同二冒頭の主張は争う。同二の1のうち、Aの出生、原告との婚姻及び陸軍独立山砲第一連隊への入隊が原告主張のとおりであること、Aがその後野戦高射砲第七六大隊第三中隊に転属となり、門司を出港してマニラに上陸したこと、Aが昭和二〇年一二月一四日に復員して横須賀病院走水分院に入院した後、同月二〇日治癒扱いで退院したこと、そのころAが疥癬に罹患していたこと、Aが昭和二一年六月二三日に倒れ、同月二五日に死亡したこと、死 昭和二〇年一二月一四日に復員して横須賀病院走水分院に入院した後、同月二〇日治癒扱いで退院したこと、そのころAが疥癬に罹患していたこと、Aが昭和二一年六月二三日に倒れ、同月二五日に死亡したこと、死亡診断書に病名が脳出血と記載されていたことは認め、その余の事実は不知、同二の2の主張の趣旨は争う。 三同三のうち、原告が被告に対し本件再申請をしたこと、これに対し原告主張の文書による通知がなされたことは認め、その余は争う。 第四被告の主張一本件処分及び本件裁決は左のとおり適法である。 1 原告が援護法二三条一項一号による遺族年金及び同法三四条一項による弔慰金の支給を受けるためには、Aが旧軍人在職中(復員までの期間を含む。)に公務上負傷し又は疾病にかかつたこと及び右公務上の負傷又は疾病とAの死亡との間に相当因果関係があることを要し、また、同法三四条二項による弔慰金の支給を受けるためには、Aが旧軍人在職中に戦争に関する勤務に関連する疾病にかかつたこと及び右勤務関連疾病とAの死亡との間に相当因果関係があることを要する。 2 ところが、Aの死因は脳出血であり、これは復員後六か月以上経過してから発生したものであつて、公務上の疾病に当たらず、また戦争に関する勤務に関連する疾病でもない。Aは旧軍人在職中に軽度のマラリアと疥癬にかかつたものの、復員後横須賀病院走水分院に入院したころにも引き続きマラリアに罹患していたかは疑わしく、またこのころ肺結核や栄養失調の状態にもなかつた。原告は、Aが帰郷後反復継続する悪寒戦慄と高熱の症状を呈したと主張するが、解熱の際にマラリア特有の発汗があつたとは窺われないこと、頭痛、吐き気、嘔吐等のマラリア特有の前駆症状が判然としないこと、四〇日間もの長期にわたつて悪寒発熱が反復継続するというのはマラリアの症状としては稀であること等 有の発汗があつたとは窺われないこと、頭痛、吐き気、嘔吐等のマラリア特有の前駆症状が判然としないこと、四〇日間もの長期にわたつて悪寒発熱が反復継続するというのはマラリアの症状としては稀であること等からみて、Aは帰郷後はマラリアにはかかつておらず、右悪寒発熱症状は他の原因によるものであり、仮にマラリアにかかつていたとしても軽症であり、また、このころ、肺結核もかかつていないか又は軽症のそれであり、疥癬や栄養失調も深刻なものではなかつたと思われる。 したがつて、Aは、旧軍人在職中に軽症のマラリアと疥癬に罹患し、右が公務上の疾病であることは明らかではあるが、Aがそれによつて死亡したわけではなく、罹患した公務上の疾病と死亡との間に相当因果関係がないのである。Aの死因は公務外の疾病である脳出血によるものというほかはないのである。 3 以上のとおりであるから、Aの死亡と公務上の疾病との間に相当因果関係がなく、また死因の脳出血は戦争に関する勤務に関連する疾病ではないとした本件処分及びこれを是認した本件裁決は正当である。 なお、死亡診断書にはAの死因が脳出血と記載され、この診断書からAが軍務の遂行によりマラリア、肺結核等に罹患し死を招来したとの事実を看取することは不可能であるから、仮に本件処分に瑕疵があるとしても、それが明白で無効原因となるということはできない。 二被告は原告の本件再申請に対し左のとおり応答義務を負わないものであるから、これについて不作為の違法は生じない。 1 原告は、既存の行政処分が対象としたのと同一事項についても重ねて再申請をして新処分を求めることが許されると主張するが、もし、これが許されるとするならば、既に不服申立期間を徒過して確定した当初処分の効力が新処分及びこれに続く争訟によつて実質的に変動されることとなり、行政上の法律関係の安定 ことが許されると主張するが、もし、これが許されるとするならば、既に不服申立期間を徒過して確定した当初処分の効力が新処分及びこれに続く争訟によつて実質的に変動されることとなり、行政上の法律関係の安定が著しく損われ、行政処分一般に公定力や不可争力を認めた趣旨に反することになるから、右の如き再申請は許されない。 2 また、本件処分のような確認行為は、過去における特定の法律事実の存在を確定するものであるから、本来、その確定時以降に新たな事情が生じ、新資料が発見されたとして、当初処分を変更することはあり得ないのであり、極めて例外的な場合に限り行政庁自らこれを見直すことが許されるにすぎない。したがつて、原告には再申請権はなく、被告は応答義務を負わないのである。 3 更に、本件処分のように準司法的な行政上の不服申立手続を経たものは、行政庁の最終的な判断を尊重する趣旨からいわゆる不可変更力を有するのであり、特別の規定がない限りこれを変更することは許されないのである。したがつて、原告の再申請に対し被告が改めて実質的判断を行う余地はない。 第五証拠(省略)○ 理由一請求原因一の事実は当事者間に争いがない。また、Aが大正五年四月二二日に生まれ、昭和一六年六月原告と婚姻し、翌一七年五月四日応召したこと及び同人が昭和二〇年一二月一四日にフイリピンから復員し、翌二一年六月二五日死亡したことも、当事者間に争いがない。 二そこで、Aの応召から死亡に至るまでの経緯について検討する。 いずれも成立に争いのない甲第四、同第七、同第一八号証、乙第一、同第六号証(乙第一号証は原本の存在も争いがない。)原告本人尋問の結果により昭和一七年一〇月ころにAを撮影した写真と認める甲第三号証、同尋問結果により成立を認める甲第五号証、証人Fの証言により成立を認める甲第六号証、証人Cの証 の存在も争いがない。)原告本人尋問の結果により昭和一七年一〇月ころにAを撮影した写真と認める甲第三号証、同尋問結果により成立を認める甲第五号証、証人Fの証言により成立を認める甲第六号証、証人Cの証言により成立を認める甲第八号証、証人Gの証言により成立を認める甲第九、同第一二号証、証人Hの証言により成立を認める甲第一〇号証、証人Iの証言により成立を認める甲第一一号証、証人Jの証言と弁論の全趣旨により成立を認める乙第五、同第七号証(乙第七号証は原本の存在も含む。)及び証人F、同H、同I、同G、同C、同Kの各証言並びに原告本人尋問の結果によれば、左の事実が認められる。 1 Aは、体格はやや小柄であつたが、幼時より健康であり、昭和一七年五月四日に応召後は陸軍独立山砲第一連隊に入隊し、東京品川の京浜地区勤務を経て昭和一九年五月陸軍独立野戦高射砲第七六大隊第三中隊に転属となり、同隊の一員として同年七月一日ころ門司を出港し、同月中旬ころにマニラに到着し、更に同年一一月フイリピンのネグロス島に上陸して戦闘活動に従事した(Aが昭和一七年五月四日に陸軍独立山砲第一連隊に入隊したこと及び日時の点を除くAの転属、門司出港、マニラ上陸の事実は当事者間に争いがない。)。 しかし、昭和二〇年三月末ころになると、米軍がネグロス島に上陸するところとなつたため、右部隊は同島の山中へ入つて転戦することになつたが、病人など本隊と行動を共にできない者一五、六名は本隊に先がけて同島山中へ入つた。Aは、このころマラリアにかかり、悪寒戦慄と熱発作の症状を呈していたため、右先発隊の一員に編入された。右先発隊は、山中への出発時から露営を余儀なくされ、携帯した食糧は直ちになくなり、その後食糧の支給はなかつた。それでも山の中腹まではバナナ、トウモロコシ等があつたが、山の奥深くに入つてから後は れた。右先発隊は、山中への出発時から露営を余儀なくされ、携帯した食糧は直ちになくなり、その後食糧の支給はなかつた。それでも山の中腹まではバナナ、トウモロコシ等があつたが、山の奥深くに入つてから後は、野草、蛙、沢ガニ等が唯一の食糧であり、衣服も着のみ着のまま、無帽、裸足で米軍の攻撃を避けながら山中をさまよう生活であつた。Aは、前記発熱症状等のため山中への行軍当初から山歩きに難儀し、山中を転々とするうちに、栄養失調をはじめ疥癬や胸部疾患にもかかり、衰弱する一方であつた。しかし、先発隊に解熱剤やマラリア用のキニーネの備えは少なく、Aがそれらの支給を受けることはほとんどなく、Aは、山中行軍を開始してから約四か月後の昭和二〇年七月末のある日には、行軍中に一人倒れ、後でこれに気付いて引き返してきた指揮官に助けられて辛うじて仲間に合流するということがあつた。出中への行軍を開始してから約五か月後の昭和二〇年八月には、Aを含め先発隊のほとんど全員が体カの限界に達し、毎日の行軍自体が困難となるに至つた。 右先発隊は、昭和二〇年八月三〇日に終戦を知つたので、全員米軍に投降すべく、同年九月二日に下山を開始し、八時間程かかつて平地にたどり着いたが、それまでの山中生活の疲労と衰弱と栄養失調等に加え、平地の直射日光と地熱の暑さのため、投降途上、倒れる者が続出した。Aも倒れたため、米軍によつて自動車で運ばれ、飛行機でマニラの病院に転送され、そこに入院させられた。 2 Aは、昭和二〇年一二月四日にマニラを出港し、同月一四日横須賀に到着して召集解除となり、直ちに横須賀病院走水分院に入院させられた。Aは、同分院入院中に外泊許可を受け、東京の母と弟Cを訪ねて一泊したが、顔色は極度に悪く、満足な立居振舞ができず、衰弱がひどいため、すぐ横になつた程であつた。そして、Aは、右分院 に入院させられた。Aは、同分院入院中に外泊許可を受け、東京の母と弟Cを訪ねて一泊したが、顔色は極度に悪く、満足な立居振舞ができず、衰弱がひどいため、すぐ横になつた程であつた。そして、Aは、右分院に約一週間入院した後同月二〇日右分院を退院して再度母と弟の家を訪ね、約一週間滞在したが、その間発熱や震えを呈してほとんど寝ており、治癒して退院したといえる状態では到底なかつた。入院の継続をすすめる母や弟等に対し、Aは、新潟県西頸城郡<地名略>(現糸魚川市)にいる妻子の許へ早く帰りたいので、無理して退院させてもらつたと答えていた(Aが昭和二〇年一二月一四日横須賀病院走水分院に入院し、同月二〇日に退院したことは当事者間に争いがない。)。 3 Aは、母と弟方に一週間程滞在した後叔父のDに連れられて列車で東京から上早川村に向い、昭和二〇年一二月三〇日に糸魚川駅の一つ手前の梶屋敷駅で下車し、そこから一メートル程積もつた雪道を看護婦をしていた原告の姉等に付き添われて歩き始めたが、途中で発熱と震えの症状が出たので近所の民家にしばらく寝かせてもらい、それが止んでから、人に背負われたり歩くのを助けてもらつたりしながら約三里先の叔父E方までたどり着いた。原告はそのころ上早川村の実家におり、その実家はE方から近いところにあつたが、Aはそこまで行く元気がなくその日はE方に泊まつた。原告等が見たところでは、その時のAの毛髪はうすく赤茶けていて栗のイガのように立つており、手足はやせ細り手足の皮膚は疥癬でガサガサで、顔は青黒くむくんでいた。 Aは、その翌日からは原告の実家で暮らすこととなつたが、食事と用便時以外はほとんど寝ている状態であり、そのうちに用便にもしびんを使うようになつた。そして、昭和二一年の正月から、毎日昼ころになると、Aは、腰がビクビクすると言い始め、やがて ととなつたが、食事と用便時以外はほとんど寝ている状態であり、そのうちに用便にもしびんを使うようになつた。そして、昭和二一年の正月から、毎日昼ころになると、Aは、腰がビクビクすると言い始め、やがて悪寒戦慄におそわれ、寝床の中で布団を頭からかぶつてガタガタ震え出し、この時には周りの者から声をかけられても応答できず、しばらくしてから気が付くという状態であり、三〇分から一時間程してその悪寒戦慄が治まると、今度は目を真赤にして布団から出てきて顔が赤くなる程に熱がり、これを氷枕等で冷やしてやつと午後三時半から四時ころになつて平静に戻るという症状を呈し、これが約四〇日間連続して毎日発現した。その後この症状は五日間程発現を停止したが、再び発現を開始して約四〇日間反復継続し、再び一週間か一〇日間程止まつた後、連続して四〇日間程発現し、昭和二一年五月中旬になつてようやく発現しなくなつた。この悪寒戦慄を伴う発熱症状を呈している間は風呂に入れなかつたので、Aの疥癬は快方に向かわなかつた。また、昭和二一年二月末ころ、往診に来てもらつた上早川村のL医師から助膜の疑いがあるから入院するように言われたが、右悪寒戦慄を伴う発熱症状と深い雪のために動くことができず、やつと同年五月中旬ころになつて、Aは糸魚川市の病院まで出かけてレントゲン検査を受けたところ、助膜だから結核療養所に入院するように言われたものの、入院をちゆうちよしていた。この約五か月間、Aは原告の実家のわら仕事や農作業を手伝うこともなく、また、何か仕事をするという状態ではとてもなかつた。Aは、昭和二一年五月中旬以降は、悪寒戦慄の発作も止まり、雪も解けたので、散歩に出かける程度にはなつたが、それでも、杖に頼り、足取りは老人のように重く、顔色は優れずやせたままであつた。 Aは、前記L医師に往診を頼み、悪寒戦慄に 、悪寒戦慄の発作も止まり、雪も解けたので、散歩に出かける程度にはなつたが、それでも、杖に頼り、足取りは老人のように重く、顔色は優れずやせたままであつた。 Aは、前記L医師に往診を頼み、悪寒戦慄については、マラリアであるとしてキニーネの服用を指示されこれに従つたが、胃の痛みを覚える時には服用を一時中断していた。その他、同医師の指示に従い栄養剤や助膜用の薬と思われるものを服用したり、注射を打つてもらつたこともあつた。疥癬については、温泉に行けば治るとの同医師の指示を受け、悪寒戦慄を伴う発熱症状が一時的に出なくなつた昭和二一年二月中旬ころに一度温泉に出かけたが、旅先で悪寒戦慄症状におそわれたために、温泉には入れず、手足をお湯につける程度のことしかできなかつた。また、Aは魚や卵等の栄養価の高い食物をあてがわれたが、悪寒戦慄を伴う発熱症状におそわれると、食欲は低下した。このように、治療や療養のための努力は払われたが、Aの疾患の治療、体力の回復は必ずしもはかどらなかつた。 4 昭和二一年六月二三日午前七時ころ、Aは、そのころの日課となつていた散歩に出かけ、近くのE方へ寄り、午前一一時ころ一〇〇メートル程離れたD方へ出かけた。ところが、Aは庭造方には行き着かず、午後三時過ぎころ道路わきに意識不明の状態で倒れているのを発見された。直ちにE方へかつぎ込まれたAは両手をだらりと下げたままで、引き続き意識不明であつた。その日に医師に来てもらい、下腹が張つているというので管で小水を取り、翌二四日の晩にリンゲルを注射したが、Aは、意識を回復しないまま倒れた日から二日後の同月二五日午後五時四〇分に息を引き取つた。 以上の各事実が認められる。もつとも、右2の横須賀病院走水分院入院時のAの症状に関し、前掲乙第五号証(右分院における病床日誌)には、Aは疥癬によるかゆ の同月二五日午後五時四〇分に息を引き取つた。 以上の各事実が認められる。もつとも、右2の横須賀病院走水分院入院時のAの症状に関し、前掲乙第五号証(右分院における病床日誌)には、Aは疥癬によるかゆみを訴え気管支炎があるほかは異常はなかつた旨が記録されている。しかし、証人J及び同Kの各証言によれば、昭和二〇年一二月ころに南方から船で久里浜に到着した引揚軍人は横須賀病院本院と同病院走水分院に一時収容されたが、引揚船が次々と入港するので、本院、分院共に収容能力いつぱいであり、重症で動けない者を除いては収容者の在院期間は一週間程度にせざるを得ず、一週間後には治癒したかどうかと無関係に退院させていたこと、分院の治療態勢は極めて不備であり、収容者の診断は、医師が一日五〇名から一〇〇名を触診又は間診で行う程度であり、病状の記録は本人の説明によるところをそのまま記述するといつた程度であり、治療や薬の支給はほとんどなされなかつたこと、また、収容者の体格や栄養の判定も、当時の劣悪な基準の下で大雑把に行われ、今日からみれば相当に悪い者も中程度と扱われて記録されたことが認められ、これに、右乙第五号証には、病名としてマラリアという記載があり、退院事由については、治癒ではなく何らかの事情があつたことを意味する「事故」という記載があることや、前記1及び3のとおりのAの衰弱した状況を総合すると、右分院に収容されたころのAが疥癬と気管支炎の他には異常がなかつた旨の乙第五号証の記載内容は、到底そのまま措信できるものではない。また、前掲甲第七号証及び乙第七号証中のAが右分院を治癒退院したとの記載も、右にみた事情に照らし、字義通りには採用しがたい。他に前記1ないし4の認定を左右するに足りる証拠はない。 三右二の1及び2の認定事実によれば、Aは応召中に悪寒戦慄と熱発作を呈する 院したとの記載も、右にみた事情に照らし、字義通りには採用しがたい。他に前記1ないし4の認定を左右するに足りる証拠はない。 三右二の1及び2の認定事実によれば、Aは応召中に悪寒戦慄と熱発作を呈するマラリア、栄養失調、胸部疾患(助膜炎又は肺結核)及び疥癬に罹患したものと認められ、旧軍人であつたAが公務上疾病にかかつたことは明らかというべきである。そして、Aは右二の4のとおり復員後約半年経つた昭和二一年六月二五日に死亡したものである。そこで、Aが応召中に罹患した右疾病と死亡との間に因果関係があるかを検討する。 1 まず、Aが応召中に罹患した右公務上の疾病は、前記二の2及び3の認定事実から明らかなとおり、Aが復員して上早川村に帰つた後も治癒せずに継続しており、Aの体力も回復していなかつたものである。殊に、帰村した直後の昭和二一年一月から同年五月中旬ころまでは、毎日、発作の開始から平静に戻るまで約四時間、悪寒戦慄を伴う熱発作が連続的に発現していたのであるところ、前述のとおりAが応召中にマラリアに罹患していたことと鑑定人Mの鑑定の結果及び証人Mの証言(右鑑定結果及び証言を合せて以下「M意見」という。)によれば、右熱発作は、その内容、頻度、連続性、Aの南方での生活歴に照らしマラリアによる症状といつてまず誤りはないことが認められ、応召中に罹患したマラリアは復員帰村後にも顕著に残存していたものである。ところで、昭和二一年五月中旬以降になると、右の悪寒戦慄を伴う熱発作が出なくなり、Aは散歩に出かけるのが日課となる程度にはなつたわけであるが、M意見によれば、Aが罹患していたマラリアは、同人の南方での生活歴と熱発作の態様からみて、三日熱マラリア又は三日熱マラリアと熱帯熱マラリアの混合感染の可能性が強く、三日熱マラリアはキニーネのみの服用では根治できないう 罹患していたマラリアは、同人の南方での生活歴と熱発作の態様からみて、三日熱マラリア又は三日熱マラリアと熱帯熱マラリアの混合感染の可能性が強く、三日熱マラリアはキニーネのみの服用では根治できないうえ、そのキニーネの服用も不完全であつたこと及びキニーネの不完全服用によつて不完全免疫(体内のマラりア原虫が相当に増えた場合にだけ病状を呈し、それ以外は発症しないが、完治したわけではないこと。)がもたらされることに照らし、悪寒戦慄を伴う熱発作が昭和二一年五月中旬から死亡するまでの約一か月間発現しなかつたことをもつて、Aのマラリアがこのころ完治していたと速断するのは相当でなく、むしろこの時期にもなお残存していたと認めるのが相当である。また、前記二の3のとおり胸部疾患や疥癬について治療らしい治療を行つていないことや、Aの足取りの弱さ、やせた体格、顔色の悪さ等からみて、このころにおいても、Aの栄養失調、胸部疾患、疥癬はなお完治していなかつたというべきである。このように、応召中に罹患したAの疾病は、マラリアも含めいずれも復員後半年経つた昭和二一年六月ころもなお残存し、完治していなかつたというべきである。被告は、Aの応召中の疾病が復員後治癒したか又は軽症のものになつており、悪寒戦慄を伴う熱発作はマラリア以外の復員後に発症した疾病によるものであると主張するが、右主張の一部に副うかのような甲第五号証、乙第五、第七号証の記載が措信できないことは前述のとおりであるし、悪寒戦慄を伴う熱発作がマラリア以外の疾病によるものであることを窺わしめる証拠は全くない。 2 次に、Aの直接の死因について検討するに、Aの死亡診断書(前掲乙第一号証)には脳出血と記載されているが、原告本人尋問の結果によれば、右死亡診断書を作成した医師は、Aの遺体を解剖したわけではなく、また、遺体を直接 接の死因について検討するに、Aの死亡診断書(前掲乙第一号証)には脳出血と記載されているが、原告本人尋問の結果によれば、右死亡診断書を作成した医師は、Aの遺体を解剖したわけではなく、また、遺体を直接診たわけでもなく、ただ、死亡前に診察した際にAが意識障害を起こしていたことと親族から聞いた前記二の4のようなAの倒れる前後の経過を総合して、これを作成した事実が認められる。したがつて、右死亡診断書の脳出血の記載は、厳密性を欠いているものといわざるを得ない。 そして、成立に争いのない甲第二〇号証、証人Nの証言及びM意見によれば、前記二のとおりのAの状態及びAが死亡当時三〇歳であつたこと等に照らしAの直接の死因としてもつとも可能性の高いのは、マラリアによる重要器官(脳、心臓、副腎等)の毛細血管の閉塞であること、これは、マラリアに感染した赤血球が変形能を失い、毛細血管の中を形を変えながら流れて行くことができずに血管中に停滞することとなり、それが脳や心臓等の致命的な部位の血管に発生して酸素をこれらの部位に運ぶことができず、虚脱状態から意識障害を起こし、更に脳障害をもたらして死亡に至らしめるものであること、次に考えられる死因は、クモ膜下出血であるが、これは、クモ膜あるいは脳表面に近い部分の血管に先天的に弱い部分あるいは小動脈瘤があり、それがストレスが加わつた時に破裂するものであり、若年者にも起こる疾病であること、また、Aが散歩中に日射病を起こして倒れて死亡したと考える余地もないわけではないこと、しかし、Aの年齢に照らし、その他の脳出血による死亡は考えられないこと、以上の事実が認められる。 3 右1、2の事実に基づいて因果関係を考えるに、Aの死亡が、もつとも可能性の高いマラリアによる毛細血管の閉塞によつて引き起こされたとした場合には、応召中に罹患し復員後 と、以上の事実が認められる。 3 右1、2の事実に基づいて因果関係を考えるに、Aの死亡が、もつとも可能性の高いマラリアによる毛細血管の閉塞によつて引き起こされたとした場合には、応召中に罹患し復員後にも残存していた公務上の疾病たるマラリアと死亡との間に因果関係があることは明らかである。 次に、死因がクモ膜下出血であるとした場合でも、M意見によれば、前記二の3のとおりAが連続する熱発作時に呼びかけられても応じなかつたのは、既にこのころマラリアにより血管内に赤血球の停滞現象が発生していたことを示すものであり、これにより脳の血管が部分的に弱くなり、それが何らかの原因で破裂するという過程を経てクモ膜下出血が生じることもあり得ると認められるから、この場合であるとすれば、公務上の疾病たるマラリアと死亡との間に因果関係があるというベきである。 また、M意見によれば、仮にAの脳表面又はクモ膜に小動脈瘤等の奇型が元々あつたとした場合でも、ネグロス島における極限生活、帰国後の発熱を伴う疾患の持続(頻回のマラリア発熱発作時に起きた脳毛細血管の閉塞は既存の血管病変を悪化させる。)、更には応召中に罹患し復員後にも治癒していなかつた胸部疾患、疥癬及び栄養失調による衰弱がクモ膜下出血の発生を促進したと認めるのが相当である。 このように、公務と無関係な基礎疾患があつても、公務上の疾病がそれを悪化させ、かつ直接の死因の発症を促進したときは、公務上の疾病と死亡との間に因果関係を肯定するのが相当であるから、Aの死亡が右のような場合であつても因果関係があるというべきである。 更に、日射病による死亡の可能性は、単に観念上想定され得るのみであつて、これを具体的に推測させるに足りる資料があるわけではないのみならず、仮にAが散歩中に日射病になつて倒れたとした場合でも、それまでの状況からマ による死亡の可能性は、単に観念上想定され得るのみであつて、これを具体的に推測させるに足りる資料があるわけではないのみならず、仮にAが散歩中に日射病になつて倒れたとした場合でも、それまでの状況からマラリアによる頻回の熱発作、胸部疾患、栄養矢調及び疥癬が体力の著しい消耗を招き、それが主因となつて正常人ならば障害を起こさないか又は重症を呈しない程度の日射病に重篤におかされ、短時日のうちに死亡するに至つたものと考えるのが相当であるから、この場合にも公務上の疾患と死亡との間に因果関係があると考えられる。 そして、他にAの死亡をもたらした原因として合理的に想定し得るものはない。結局、Aの死亡の原因については、これを病理学的に厳密に特定することはできないが、考えられるもののうちでもつとも可能性の高い場合はもとより、そうでない場合でも、マラリアを主とする前記公務上の疾病がAの死亡をもたらす要因となつたとの事実を否定することはできないから、いずれにしてもAの公務上の疾病と死亡との間に因果関係を肯定すべきである。Aは、ネグロス島において人間生存のための極限の生活を強いられ、その間に複数の疾病に罹患し、その後一度も正常な健康状態に復することなく、療養生活の合間に出かけた散歩の途上道端で倒れ、復員後わずか半年にして死亡するに至つたもので、復員後に何らかの新たな疾病に罹患した形跡もない状況の下では、Aの死亡がネグロス島で罹患した疾病の延長上の出来事であるのは明らかというべく、両者の間に因果関係の存在を認むべきものといわなければならない。 四そうすると、右の因果関係がないとして原告の遺族年金及び弔慰金の請求を却下した被告の本件処分は、処分の根幹となる要件の認定を誤つたものとして重大な瑕疵を有するというべきである。そして、右瑕疵が本件処分の成立当初から外形上客観 いとして原告の遺族年金及び弔慰金の請求を却下した被告の本件処分は、処分の根幹となる要件の認定を誤つたものとして重大な瑕疵を有するというべきである。そして、右瑕疵が本件処分の成立当初から外形上客観的に明白であつたか否かは必ずしも明らかではないが、本件処分は申請を却下する内容のものであつて、処分前の状態を変更したり、処分後にその有効なことを前提として種々の法律関係が形成されるというものではなく、これを爾後的に無効としても、法的安定性及び第三者の信頼保護等を格別に侵害するものとは考えられない。他方、本件における因果関係の存否を一私人が調査解明することの困難性や、原告本人尋問の結果により窺われる当時の原告の置かれた状況等からすれば、原告が十分な資料を入手する途もないまま本件処分に対して出訴期間内に取消訴訟を提起するに至らなかつたとしても無理からぬところがあり、援護法の定める給付が戦争被害に対する国家補償の精神に基づくものである(同法一条)という特殊性をも併せ考えれば、前記のごとき重大な瑕疵のある本件処分による不利益を原告に甘受させることは、権利保護の見地から著しく相当でないといわなければならない。もつとも、原告は昭和五〇年一二月二五日付で同一の給付を目的とする本件再申請を行つており、これについて被告が何らかの応答をなすべき義務を負つていることは後述のとおりであるが、援護法四五条の規定によれば、右再申請については受給権の時効消滅が問題とされる余地なしとせず、再申請に対する処分をまつてそれに関する手続の中で救済を受け得る保証はないのである(右応答義務を認容した判決の拘束力が本件因果関係の存否に及び得ないことはいうまでもない。)。 以上のように、本件処分には処分の根幹にかかわる重大な瑕疵がある一方、右処分を無効とすることによつて侵害される法的安定性 容した判決の拘束力が本件因果関係の存否に及び得ないことはいうまでもない。)。 以上のように、本件処分には処分の根幹にかかわる重大な瑕疵がある一方、右処分を無効とすることによつて侵害される法的安定性及び信頼保護が小さく、かつ、被処分者たる原告を救済するのを相当とする具体的事情が存在することを総合して考えると、本件処分はこれを無効と解するのが相当である。 五次に、本件裁決の無効確認請求について判断する。 原告は、本件裁決の無効事由として、同裁決が本件処分と同じく因果関係を誤認したことを主張しているが、処分の無効確認の訴えを提起することができる場合には、その処分についての審査請求を棄却した裁決の無効確認の訴えにおいて処分の違法を理由として無効確認を求めることはできない(行政事件訴訟法三八条二項、一〇条二項)から、本件裁決の無効確認請求は主張自体理由がない。 六次に、本件再申請に対する不作為の違法確認請求について判断する。 原告が昭和五〇年一二月二五日付で、被告に対し、本件再申請をしたことは当事者間に争いがない。そして、成立に争いのない甲第一六号証の一、二によれば、右再申請は弁護士を代理人とし新資料を添付してなされたことが認められる。ところで、行政処分は原則として確定判決のような一事不再理の効力を有するものではなく、申請を却下した処分が争訟提起期間を経過して確定した場合であつても、法令に特別の規定のない限り、当事者は新たに取得した資料を添えて同一事項につき再申請をすることが許され、行政庁はこれに対して改めて処分を行うべき義務があると解するのが相当である。このことは、本件処分のように過去における特定の法律事実の存否を確定する性質を有する確認行為の場合でも、また、当該処分について行政上の不服申立手続を経ている場合でも、何ら異なるものではない。そして 。このことは、本件処分のように過去における特定の法律事実の存否を確定する性質を有する確認行為の場合でも、また、当該処分について行政上の不服申立手続を経ている場合でも、何ら異なるものではない。そして、このように解しても、濫用にわたるような再申請については別途の法理によつて対処することができるのであるから、不都合は生じない。 そうすると、被告は原告の昭和五〇年一二月二五日付の本件再申請に対し応答義務を有しているというべきである。ところで、右再申請に関し、原処分を変更することができない旨を記載した昭和五三年四月三日付の厚生省援護局援護課名の文書による通知(成立に争いのない甲第一七号証の一、二)が原告になされたことは当事者間に争いがないが、右文書には表題、課長名及び押印がなく、単なる事実上の事務連絡のためのものにすぎないと認められるので、これをもつて本件再申請に対する被告の処分ということはできない。したがつて、被告は、原告の本件再申請に対して応答義務を有しているにもかかわらず、相当期間内に何らの処分をしていないことになるから、右不作為は違法であるといわざるを得ない。 なお、当初の申請に係る本件処分を無効とすべきことは前述のとおりであるから、同一の給付を目的とする当初の申請と本件再申請とが併存することになるが、その一事により本件再申請につき被告の応答義務を認めることが利益のないことになるわけではない。 七以上のとおり、本件処分の無効確認請求と不作為の違法確認請求は理由があるからこれらを認容し、本件裁決の無効確認請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九二条但書を適用して、主文のとおり判決する。 (裁判官佐藤繁泉徳治岡光民雄) 、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九二条但書を適用して、主文のとおり判決する。 (裁判官佐藤繁泉徳治岡光民雄)
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