平成15(わ)213 殺人被告

裁判年月日・裁判所
平成16年5月6日 甲府地方裁判所
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判決文本文13,343 文字)

主文 被告人を懲役6年に処する。 未決勾留日数中230日をその刑に算入する。 理由 (犯罪事実)被告人は,平成15年5月24日午後7時42分ころ,甲府市ab丁目c番d号A店駐車場において,同店従業員B(当時58歳)に対し,殺意をもって,所携の横手小刀で同人の背部を突き刺すなどし,よって,同日午後8時59分ころ,同市ef丁目g番h号C病院において,同人を大動脈切断による出血性ショックにより死亡させて殺害したものであるが,本件犯行当時,統合失調症のため心神耗弱の状態にあったものである。 (争点に対する判断) 1 弁護人は,被告人が本件犯行当時,統合失調症に罹患していたため,心神喪失又は心神耗弱の状態にあり,責任無能力又は限定責任能力である旨主張するので,以下この点につき判断する。 ・関係各証拠によれば,生育歴や犯行前の生活状況,犯行に至る経緯,犯行状況及び犯行後の状況等について,以下の事実が認められる。 ア被告人の生育歴及び犯行前の生活状況等・被告人は,昭和38年,中国において,中国人の父親と中国残留孤児である日本人の母親との間に5人兄弟の3男として出生した。家は農業で生計を立てていたが,幼少のころ父親が死亡し,中国の小中学校を卒業した後の昭和53年ころ,母親らと共に北海道の紋別市に移り住んで日本国籍を取得した。 ・職業訓練学校(塗装科)を卒業した後,舗装工事や配達の仕事等の職を転々とし,昭和63年3月からは新聞配達店に住込みで働き始めたが,言葉をからかわれるなどして心身共に疲れて不眠となり,同年7月に母親の住む紋別市に戻った。同月,入水自殺を図ったが失敗に終わり,その直後,急性幻覚妄想状態に陥り は新聞配達店に住込みで働き始めたが,言葉をからかわれるなどして心身共に疲れて不眠となり,同年7月に母親の住む紋別市に戻った。同月,入水自殺を図ったが失敗に終わり,その直後,急性幻覚妄想状態に陥り,昭和63年7月20日から同年8月8日までの間,D病院の精神科に入院した。本人の性格傾向や環境要因が大きく影響した心因反応による幻覚妄想状態と診断されたが,幻聴や死んだ人の霊が見えるという幻視のほか,死霊に操られるというさせられ体験,テレビで噂されているという思考伝播,東京から誰か追いかけてくるという被害妄想等の自我障害を中心とした統合失調症に特徴的な症状が見られた。投薬治療で症状は改善したが,入院時の症状が消失した後も,その症状とは無関係に他の入院患者と殴り合いの喧嘩をするなどのトラブルを起こし,本人の強い希望で退院した。 ・退院後は通院することなく道路工事会社で舗装工として真面目に稼働して貯金を貯め,平成2年1月,中国人の女性と結婚し,しばらく北京で過ごしたが,同年3月,単身北海道紋別市に戻った。平成3年1月,妻が長女を連れ被告人と同居するようになったが,同年8月,抑うつ状態に陥り,同年9月17日から同年10月31日までの間,再びD病院精神科に入院した。明らかな幻覚妄想の主訴はなく,抑うつ気分,精神運動停止,思考抑制,不安焦燥及び希死念慮から心因反応の抑うつ状態と診断されたが,「脳みそがない感じ」という統合失調症の症状とも見られる主訴が見られた。ここでも第1回の入院時と同じく,投薬治療により症状は改善したが,入院時の症状が消失した後に,他の患者と殴り合いの喧嘩をしている。なお,被告人の母親は,被告人が結婚したころから「素直で親に口答えもしないおっとりした子」であったのが「短気になった」と,被告人の精神状態の変化を指摘している ,他の患者と殴り合いの喧嘩をしている。なお,被告人の母親は,被告人が結婚したころから「素直で親に口答えもしないおっとりした子」であったのが「短気になった」と,被告人の精神状態の変化を指摘している。 ・退院後はやはり通院することなく,道路工事会社で舗装工として稼働していたが,平成9年2月,母親や兄のいる甲府市に転居した。当初はE団地に兄夫婦と同居していたが,同年5月からは同じ団地の別の部屋を借りて妻子と暮らし始めた。転居してまもなくパチンコFで清掃員として勤務するようになったが,その仕事振りは,物覚えが悪く,従業員とのつきあいもなく孤立し,注意すると怒った顔つきになり,従業員が注意したときは殴り合い寸前になることもあった。平成10年9月ころからつじつまの合わないことを言い始め,妻子に暴力を振るうようになったが,平成11年5月ころ,被告人に暴力を振るわれ,ぼろぼろの服を着た妻がパチンコ店に助けを求めにきたことで,同月,被告人は解雇され,同月6日に暴力に耐えられなくなった妻が子供を引き取り被告人と離婚した。離婚後,被告人は,いなくなった子供たちを探して雨の中を自転車で走り回ったり,パチンコ店をたびたび訪ねたりしており,被告人の母親は,このころから「馬鹿になった」と精神状態の変化を指摘している。 ・その後,平成12年11月から平成13年3月までの間,G工場で自動車内部のアスファルトシート張りの仕事に従事するが,5日以上の無断欠勤で自己都合退職となった。このときの仕事ぶりは,評判は非常に悪く,仕事のミスを指摘され注意されると激怒し暴言を吐き,上司に逆らい質問されたことに対して意味不明なことを言い出し,まともな答えができなかった。 ・それ以後,被告人は定職に就くことなく,他人と関わりを持た され注意されると激怒し暴言を吐き,上司に逆らい質問されたことに対して意味不明なことを言い出し,まともな答えができなかった。 ・それ以後,被告人は定職に就くことなく,他人と関わりを持たずに過ごすようになった。生活費は母親から無心していたものの,炊事・掃除・洗濯等の家事は一切自力でやり,パチンコや山菜取り,つりやドライブ等をするなど,自閉的ではあるが日常生活を自力で送っていた。仕事をするように母親や兄から勧められると大声で怒鳴り話し合いにならなかったが,他方,自分には体を使った仕事が向いていると判断した上で,土木作業の仕事を中心に被告人なりに職探しをしていた。職探し以外には,仕事がないので無駄遣いしないように注意しながらスーパーマーケットやパチンコに出向いたり山に釣りや山菜取りに行ったりしており,本件犯行までは表面化する逸脱行動もなく生活していた。なお,被告人は,昭和61年に試験を受けて普通運転免許を取得し,以後,欠かさず更新手続を行い,本件犯行直前の平成15年4月8日にもその更新手続を自力ですませている。被告人はドライブを好み車の運転を繰り返していたものであるが,事故や違反行為を起こさないように注意して運転するなど,運転時には交通法規を遵守する努力をしていた。被告人には一般前科はない。 イ犯行に至る経緯及び犯行状況・被告人は,平成14年の暮れころから,「アメリカ合衆国に行く」という発言をするようになり,平成15年3月12日,A店(以下「A」という。)において,同店従業員と車種・賃借期間等を交渉した上,同月14日に返還する約束で普通乗用自動車(H。以下「H」という。)を賃借した。その際,被告人は,「ニューヨークに行くから車を貸してくれ。」と発言した。 ・その後,被告人は,Hの返還期限で 14日に返還する約束で普通乗用自動車(H。以下「H」という。)を賃借した。その際,被告人は,「ニューヨークに行くから車を貸してくれ。」と発言した。 ・その後,被告人は,Hの返還期限である同月14日を経過してもこれを返還しないまま使用し続けていた。同年4月中旬,A次長らが催促のため被告人宅を訪問しても,「イギリスから借りた車だ。お前らの所から借りた車ではない。」と繰り返すのみで,全く返還に応じようとしなかった。被告人が再三の返還要求に応じなかったため,A次長らは,同年5月23日,被告人らが居住する団地に行き,同団地駐車場からHを同店に持ち帰った。被告人は,翌24日,Hが持ち去られていることに気づき,Aに電話で問い合わせて同店が引き上げたことを知ると,イギリスから借りた車を勝手に持ち去られては借りた先に返還できずに自分が損害賠償しなければならなくなるとして不安に駆られるとともに,自分が現に使用している車を勝手に持ち去られたことに憤り,警察に盗難被害を通報した上,自らHを取り戻そうと決意した。 その際,被告人は,Aの従業員が拳銃や包丁を持っているなどの妄想に基づく恐怖感から,場合によっては小刀で応戦することも承知の上で,護身用として横手小刀(刃体の長さ約13.2センチメートル。なお,本件起訴状公訴事実では「横出小刀」と記載されているが,甲第18号証の電話収発用紙によれば,「横手小刀」と認められる。)1本を携帯して自転車に乗って自宅を出発した。 ・被告人は,同日午後7時40分ころ,Aに到着し,自転車を降りて同店営業所敷地内に入り,同所東側ブロック塀前でレンタカーの清掃作業等をしていた被害者に近づき,Hの在処を尋ねた。このとき,上記次長は,被告人が来店したのを知り,被害者と接触していた被告人に近づいてその応対をした。被 入り,同所東側ブロック塀前でレンタカーの清掃作業等をしていた被害者に近づき,Hの在処を尋ねた。このとき,上記次長は,被告人が来店したのを知り,被害者と接触していた被告人に近づいてその応対をした。被告人は,次長にHの返還を迫ったが,同人からこれを拒否されたことなどに立腹し,同人の胸を右手で突き飛ばした。次長は,被告人に暴力を振るわれたことから警察に連絡するためその場を離れた。その直後である同日午後7時42分ころ,被告人は,上記の興奮状態のまま,その場に居合わせた被害者と正対して,同人に対し一方的に返還要求を繰り返していたが,同人から「暴力はやめましょう。」などと諫められた。 被告人は,被害者の言動を自分の返還要求を阻むための文句と受け止めて激高し,自宅から持参した前記横手小刀を鞘から抜いて右手に持ち,これを下方から上方に突き上げるようにして振り上げ,被害者の左頬を切り付けた。さらに,被告人は,頬を切り付けられてその場にうずくまった被害者に対し,まだ怒りがおさまらなかったことから,反撃される前にこのまま殺害しようと決意し,前記横手小刀を逆手に握り,同人の背後からその背部に思い切り突き刺した。これにより,被害者に対し肋骨を切断し肺を貫通する深さ約16センチメートルの創傷を負わせたが,このときの衝撃により横手小刀は刃の根本から約30度の角度に曲がった。被害者は大量に出血し,病院に搬送されたが,短時間のうちに大動脈切断による出血性ショックで死亡した。 ウ犯行後の状況被告人は,被害者を刺した後しばらくその場に立っていたが,すぐに自分の置かれた状況を認識した上,被害者を刺してしまったことで逮捕されるのを恐れて,同所から自転車で逃げることにした。その際,被告人は,前記横手小刀の鞘をなくしたことに気づき,証拠を残さない すぐに自分の置かれた状況を認識した上,被害者を刺してしまったことで逮捕されるのを恐れて,同所から自転車で逃げることにした。その際,被告人は,前記横手小刀の鞘をなくしたことに気づき,証拠を残さないようにするため,自転車に乗る前に同営業所敷地内で鞘を探したが発見することができず,これ以上時間をかけては職員に痛めつけられて逃げられなくなると考えてこれを諦め,横手小刀を鞘をつけないままポケットに入れ,そのまま乗ってきた自転車に乗って逃走した。被告人は,刃物で人を刺すという大変なことをしてしまったという恐ろしさと悪いことをしてしまったという気持ちで頭が一杯になり今後の身の処し方を悩み,警察に出頭すべきか否か逡巡しながらあてもなく自転車で逃走を続けたが,結局逮捕を恐れて警察に出頭する覚悟ができず,逃走中に立ち寄った山梨県中巨摩郡i町jk番地先空き地において,凶器の前記横手小刀の握りの部分を投棄し,刃の部分は人に見つからないようにその場にあった石の下に隠すなど人を刺した証拠を隠匿した。そして,結局は行くあてがなく帰宅したところ,自宅で警察に逮捕された。 ・犯行当時の責任能力に関する鑑定について本件においては,犯行当時における被告人の精神状態につき,医師I作成の「簡易精神鑑定書」(甲56。以下「I鑑定」という。)と,鑑定人J作成の「○○(被告人:掲載者注)精神鑑定書」及び同人の当公判廷における供述(以下,これをまとめて「J鑑定」という。)とが存在する。 ア I鑑定の骨子は,以下のとおりである。 ・鑑定時における精神状態被告人には,自分の居住地に関する妄想や,車を盗まれたという被害妄想,自分の借りた車に対する誇大的な妄想が主に認められるほか,妄想による追想の誤りがあり,被告人は,自分が殺人をしたとい 被告人には,自分の居住地に関する妄想や,車を盗まれたという被害妄想,自分の借りた車に対する誇大的な妄想が主に認められるほか,妄想による追想の誤りがあり,被告人は,自分が殺人をしたという認識が全くなく,刺したが殺していないという妄想的解釈をしている。 思考障害の有無については,鑑定時現在,明らかな支離滅裂思考はないが,軽度の主題の飛躍的変化が認められる。感情鈍麻や意欲低下などの統合失調症の陰性症状は目立たず,人格障害も比較的軽度である。このような鑑定時の精神症状によれば,妄想型統合失調症と診断される。そして,鑑定時現在に至るまで2回の精神科入院歴があり,当初は心因反応と診断されていたが,被告人の症状経過を縦断的に観察すれば,当初の入院時点で既に統合失調症を発症していた可能性が高い。統合失調症の発症後も,人格がある程度保たれている場合には,社会生活がある程度可能な場合があるところ,被告人も ,寛解を伴うエピソード性の経過をたどっていた可能性がある。被告人には,現在,統合失調症のほかに,軽度の精神発達遅滞も認められる。また,心理テストからうかがわれる被告人の性格特性は,外から受けた刺激に対して内省することなく容易に反応し,情緒的に強く刺激されると感情のコントロールが非常に悪くなるというものである。 なお,被告人が鑑定時に供述している奇異な妄想については,被告人の知能指数からして刑責の軽減のために一貫して複雑な妄想を演じ続けることは困難であるから,詐病の可能性は低い。 ・犯行当時における精神状態被告人は,本件犯行当時,「自分の車が盗まれた」という妄想に支配されており,妄想が問題の店舗に出向くきっかけや易怒的な感情を引き起こした い。 ・犯行当時における精神状態被告人は,本件犯行当時,「自分の車が盗まれた」という妄想に支配されており,妄想が問題の店舗に出向くきっかけや易怒的な感情を引き起こした可能性が高いが,本件犯行は, 暴力や殺害を指示するような幻聴や,人を殺害するという思考内容に左右されてのものではない。 つまり,犯行当時,被告人には精神異常が存在し,犯行に至るきっかけに大きく関与していることは否めないが,妄想が犯行の直接的な原因であるとは考えられない。また,被告人は, 犯行当時のことや逃走経路,犯行に使用した刃物の投棄場所を詳細に記憶しており,意識障害や健忘をきたす状態下で犯行に及んだわけではない。その上,被告人は,鑑定時,笑いながらの話で,深刻さに欠ける感は否めないものの,「刺すことは悪いこと,反省しています」と述べているから,是非善悪の弁別能力は有しているものと判断される。 ・以上を総合すれば ,被告人には,本件犯行当時,統合失調症の影響により,自己の行為に対する是非善悪の弁別能力がある程度損なわれていたものの,これが著しく減弱していたとまではいえず,完全責任能力が認められる。なお,鑑定時現在,疾患に対する治療は必要であるが,入院措置の必要性はない。 イ J鑑定の骨子は,以下のとおりである。 被告人の病歴,生活歴を通覧すると,被告人は,遅くとも昭和63年の初回入院時の直前に統合失調症を発症したが,その後は,短期間の精神科治療によって十分な回復を得ており,寛解度が高く,再発は今回を含めて少なくとも2回と見られる。発病後は,それまでの「おっとりした」性格が易怒的にして攻撃的な性格に変化し(人格変化),社会適応能力も段 療によって十分な回復を得ており,寛解度が高く,再発は今回を含めて少なくとも2回と見られる。発病後は,それまでの「おっとりした」性格が易怒的にして攻撃的な性格に変化し(人格変化),社会適応能力も段階的に低下していったものと評価できる。鑑定時,意識は清明で,見当識も保たれていたが,思考内容については,滅裂とはいえないものの,思路の弛緩が見られ, 思考障害の存在が窺われた。 また,心理テストの結果によれば,常識的判断も基本的にできていることが窺われるものの,ものごとの見方は漠然としており,具体性に乏しく現実見当識も低下しており,本来の知的機能が発揮できにくい状態にあると推測される上,情緒統制力が低く,情緒刺激に巻き込まれて混乱する様相もあり,内面的に強く存在している攻撃性や破壊衝動が噴出する危険のある,不安的な激情的性格と見られる。さらに,知能検査の結果によれば,被告人の知能の程度は, 正常範囲ではあるが,軽度精神遅滞に極めて近い程度の知能と判断される。被告人は,本件犯行について,「イギリス人が経営しているレンタカー会社に,借りた車の保険金を払わなくてはいけないと思い,Hを取り返しに行ったが喧嘩を売られたのでかっとなり刺した」と説明しているところ,実際には,被害者とは初対面であり,また被害者に喧嘩を売られた事実はない。本件犯行は, 別のところでリースしている車を盗まれたという妄想に強く影響を受けて,車を取り返す行動をとり,認知の歪みから「馬鹿にされた」と感じ,被害者を刺す行為に及んだものと理解される。なお,被告人が鑑定時に供述している奇異な妄想については, 被告人の知能指数等からして詐病とは考えにくく,供述する妄想の内容が現実の状況との対応関係から了解 す行為に及んだものと理解される。なお,被告人が鑑定時に供述している奇異な妄想については, 被告人の知能指数等からして詐病とは考えにくく,供述する妄想の内容が現実の状況との対応関係から了解し得るものではないから心因反応も否定でき, 症状自体からして空想虚言,器質性疾患による作話も否定される 。結論として,本件犯行当時,被告人の是非善悪を弁識する能力は妄想と認知障害により著しく障害されており,その弁識に従って行為を制御する能力は,統合失調症により引き起こされた人格変化も加わり,有していなかったものと判断される。 ・被告人の責任能力についてこのように,両鑑定は,被告人が本件犯行当時,妄想を主とするタイプの統合失調症に罹患していたとする点で一致しているが,この判断は,前示の事実経過によく合致している上,精神科医師としての専門的知見を生かしたものとして十分に信用することができる。しかしながら, 被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失又は心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であるから専ら裁判所の判断に委ねられているのであって,被告人が犯行当時統合失調症に罹患していたからといって,そのことだけで直ちに被告人が心神喪失の状態にあったとされるものではなく,その責任能力の有無・程度は,被告人の犯行当時の病状,犯行前の生活状態,犯行の動機・態様等を総合して判定すべきである(最高裁昭和58年・第1761号昭和59年7月3日第三小法廷決定・刑集38巻8号2783頁参照)。 そこで,以上の事実関係を前提に被告人の責任能力について検討する。 ア病状本件犯行当時の被告人は,統合失調症による妄想の症状を呈し,易怒性の人格変化を来して,社会 そこで,以上の事実関係を前提に被告人の責任能力について検討する。 ア病状本件犯行当時の被告人は,統合失調症による妄想の症状を呈し,易怒性の人格変化を来して,社会適応能力を段階的に低下させながらも,なおその病状は精神荒廃に至る重度のものとまではいえず,実際の社会生活において,ある程度の社会的適応性を保ち,人格の崩れも比較的軽度であったことが認められる。 イ犯行の動機・態様・前記・で認定した事実に照らすと,被告人が本件犯行に及んだ経緯は,妄想により自分がイギリスから借りているHがAに勝手に持ち去られたものと思いこみ,このままでは自分が賠償しなければならなくなるという不安に駆られるとともに,自分が現に使用しているHを勝手に持ち去られたことに憤り,Hを取り戻そうと決意した上,Aの従業員が拳銃や包丁を持っているという妄想に基づく恐怖感から横手小刀を携帯して同店に赴いたところ,たまたま応対した次長からHの返還要求を拒否されたことから立腹し,同人の胸を右手で突き飛ばし,さらに,その場に居合わせた被害者から,「暴力はやめましょう」などと諫められたのに対しても,自分の返還要求を阻むための文句と受け止めて激高し,横手小刀を取り出して被害者の顔を切り付け,さらに,まだ怒りがおさまらなかったことから,その場に背中を向けてうずくまった被害者に対し,反撃される前に殺害しようと考えて,その背中に横手小刀を突き刺して殺害したというものである。 ・確かに,本件犯行の動機は,妄想の基盤の上に形成されたものであり,その犯行態様は衝動的であり,被害者の「暴力はやめましょう」という諫言に対し,殺意を抱くまでに激高したという心理過程は突飛で通常人には直ちには理解し の動機は,妄想の基盤の上に形成されたものであり,その犯行態様は衝動的であり,被害者の「暴力はやめましょう」という諫言に対し,殺意を抱くまでに激高したという心理過程は突飛で通常人には直ちには理解しがたいものがある。したがって,被告人が本件犯行に及ぶについては,Hはイギリスから借りている車であるとの妄想が相当程度影響していたことは否定できない。 しかしながら,翻ってみると,被告人が被害者を殺害しようと決意した原因は,統合失調症の病的体験に基づくものばかりではない。すなわち,本件犯行は,幻覚幻聴などによる作為体験といった病的体験の直接の指示によって遂行されたものでないばかりか, 被告人の抱いていた妄想の内容は,それ自体,被告人を直接かつ必然的に本件殺人行為に駆り立てるようなものではなかったし,被告人の生活を支配するほどの強固な妄想体系が構築されていたわけではなかったことも明らかである。のみならず, 犯行に至る心理過程を子細に見れば,確かに突飛な面も否定できないものの,自分が現に使用している車を勝手に持ち去られたことに憤り,さらに,その車を取り戻そうとして,車を持ち去ったAの人間にいろいろと掛け合ってみたが,まともに取り合ってもらえなかったと感じて,感情を一気に高ぶらせたという面も認められるのであって,その心理過程は,全く荒唐無稽なものではなく,ある程度のまとまりをもっており,それなりに了解可能なものと評価することができる。その上,犯行態様を見ても,衝動的ではあるものの,はじめから横手小刀を使用した刺殺行為に出ていたわけではなく,はじめは,突き飛ばしたり,横手小刀で顔を切り付けるなどの危険性の少ない行為に出ていた上,衝動的な行動 様を見ても,衝動的ではあるものの,はじめから横手小刀を使用した刺殺行為に出ていたわけではなく,はじめは,突き飛ばしたり,横手小刀で顔を切り付けるなどの危険性の少ない行為に出ていた上,衝動的な行動の最中にも,諫言を口にした被害者本人に攻撃の矛先を向けるのみで,周囲の人間に対する無差別攻撃には及んでいないのであって,そこには理性の働きをうかがい知ることができる。そうすると,被告人は,妄想に動機づけられ,妄想に影響されて犯行に及んだところがあったにせよ,妄想による支配は完全なものではなく,理性による行動抑制の能力がある程度は残されていたものと認められる。 ウ被告人の犯行前後の行動前記・で認定した事実によれば,被告人は,被害者を刺した直後に自分のやったことの内容や自分が置かれた状況を認識した上で,即座に逃走行為や証拠隠滅工作を図っており,また,逃走中も大変なことをしてしまったという恐ろしさと悪いことをしてしまったという気持ちから今後の身の処し方を悩み,警察に出頭すべきか否か逡巡するなど心理的葛藤が見られるところ,かかる犯行直後の行動に格別不合理な点は見られない。また,検察官の取調べにおいて,「人を殺したり傷つけたりしてはいけないことはよく分かっている」「なぜ人を殺すことが悪いのかについては自分なりに考えて理解しているつもりだ」「本当にとんでもないことをしたと反省している」「悲しい思いを被害者の家族に負わせてしまったことについてお詫びのしようがない」「自分の犯してしまった罪をこれからきちんと償う覚悟でいる」などと供述し,犯行直後は相応の罪の意識や反省も存していたことが窺える。したがって,被告人は,犯行時ないし直後においては,犯行の重大性を認識しており,自己の行為の意 これからきちんと償う覚悟でいる」などと供述し,犯行直後は相応の罪の意識や反省も存していたことが窺える。したがって,被告人は,犯行時ないし直後においては,犯行の重大性を認識しており,自己の行為の意味を理解していたものと認められる。 エ犯行時の意識状態さらに,被告人は,本件犯行の前後を通じ,意識は清明で,統合失調症による妄想や認知の歪みは別として,犯行時の自分の行為の概要を理解できている。 特段の記憶の欠落もなく,妄想的追想に粉飾されていない範囲では,鮮明で客観的状況とも合致した記憶を保持している。一時的にせよ錯乱状態に陥った形跡はない 。 オなお,被告人は少なくともl刑務所に移監された平成15年7月以降J鑑定までの約3か月間は全く治療を受けていないところ,当初の警察官や検察官に対する取調べにおいては,犯行状況や犯行動機について客観的状況に符合した記憶に基づく説明をしたり,殺人という犯罪の重大性の認識や反省を述べていたのに対し,その後は不可解な供述の変遷や当初の捜査段階では見られなかった不可解な新供述があったり,当公判廷においても公判期日が重なるごとに異常な言動が目立ったりしているが,これは治療を受けなかったことにより病状を悪化させていたものにすぎないから,何ら上記認定事実を覆すものではない。 ・結論以上要するに,被告人の病状,犯行態様・動機,犯行前後の行動等の諸事情を総合考慮すると,被告人には,本件犯行当時,行為の是非善悪を弁別しこれに従って行動する能力が多少は残されていたことが認められる。しかし,本件犯行の経過の唐突さや衝動性は否めないことから,統合失調症により,自己の行為の是非を弁別し,これに従って行動する能力が 別しこれに従って行動する能力が多少は残されていたことが認められる。しかし,本件犯行の経過の唐突さや衝動性は否めないことから,統合失調症により,自己の行為の是非を弁別し,これに従って行動する能力が著しく減弱しており,心神耗弱状態にあったと認めるのが相当である。 2 さらに,弁護人は,犯行当時,被告人は「軽く」突き刺す程度との認識で,横手小刀を突き刺しており,被告人には殺意は認められない旨主張するので,以下この点につき判断する。 この点,前記1・に認定した,凶器の形状,負傷部位や負傷程度等の客観的状況からすれば,本件犯行当時被告人に殺意があったことは優に認定することができる。また,既に説示したとおり,犯行当時の意識状態にも問題はないから,被告人が心神耗弱状態にあったからといって, 上記殺意の認定に影響を及ぼすものでもない。殺意を否定するかのような被告人の公判供述は,妄想的追想と病状悪化によって記憶の変容が生じた後のものと見ることができるから,上記認定を左右するものではない 。 したがって,被告人には殺意が認められるから,弁護人の主張は採用できない。 (法令の適用)被告人の判示所為は刑法199条に該当するところ,所定刑中有期懲役刑を選択し,判示の罪は心神耗弱者の行為であるから同法39条2項,68条3号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役6年に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中230日をその刑に算入し,訴訟費用については,刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。 (量刑の理由)本件は,判示のとおりの殺人の事案である。 被告人は,統合失調症による妄想が契機になっているとはいえ,自分が現に使用している車を勝手に持ち去られたことに憤り,その車を取り戻そうとして 量刑の理由)本件は,判示のとおりの殺人の事案である。 被告人は,統合失調症による妄想が契機になっているとはいえ,自分が現に使用している車を勝手に持ち去られたことに憤り,その車を取り戻そうとして車を持ち去ったAの人間にいろいろと掛け合ってみたが,まともに取り合ってもらえなかったと感じて,感情を一気に高ぶらせて激高し本件犯行を敢行したものであり,その短絡的かつ身勝手な動機に酌量の余地は乏しい。 被告人は,被告人をなだめようとしていたにすぎない被害者に対し,怒りにかられて突然携帯していた刃物で顔を切り付けたばかりか,その場に背中を向けてうずくまった被害者に対し,怒りがおさまらないとして更に背中を突き刺しているのであり,しかも,これにより肋骨を切断し肺を貫通する深さ約16センチメートルの創傷を負わせたものであって,犯行態様は卑劣かつ悪質で非情である。 もとより,被害者にはこのような凶行に遭遇しなければならないような落ち度は全くなかったものであり,家族のため日々真面目に勤務していた日常において,突如としてこのような凶行に遭遇した被害者の恐怖,精神的衝撃は相当なものであったと推測され,しかも,大量の出血により短時間のうちに非業の死を遂げることになったのであり,生命が途絶えるまでの間に被害者の胸に去来したであろう無念と悲痛は想像を絶するものがある。それにもかかわらず,いまだ被害弁償はされておらず,文字通り一家の大黒柱であった被害者を奪われた遺族の悲しみや憤りは計り知れないものがある。被害者の妻はいまだ深い喪失感と悲しみの只中にあり,被害者の実子も死んでも許すことはできないと被告人に対し極刑を望んでいるが,いずれもいまだ自ら出廷してその心情を吐露することすらかなわぬ心理状態にあるなど,一生癒えることのない悲しみや憤りを背負って生きていかなけれ でも許すことはできないと被告人に対し極刑を望んでいるが,いずれもいまだ自ら出廷してその心情を吐露することすらかなわぬ心理状態にあるなど,一生癒えることのない悲しみや憤りを背負って生きていかなければならない被害者の遺族の心情は真に痛ましく,筆舌に尽くし難いものがある。 加えて,レンタカーの返還要求にからむトラブルから何の罪もない人が殺されたという事件内容自体からして,地域社会に相当の衝撃を与えたことは推測するに難くなく,本件の社会的影響も軽視することはできない。 のみならず,被告人は,本件犯行後,自転車に乗って逃走し,凶器の刃物の刃の部分を隠すなどの隠滅工作に出るなど,本件犯行後の情状も悪質である。 以上によれば,被告人の刑事責任は真に重大である。 そうすると,被告人は,本件犯行当時,統合失調症に罹患し,これによる妄想の影響により本件犯行に対する是非弁別の判断や自己抑制が著しく困難な状態にあったこと,被告人には一般前科がないこと,病状が悪化する以前の捜査段階の当初においては本件犯行の重大性に思いを致して被害者や遺族に対し謝罪の気持ちを示していたことなど被告人にとって酌むべき事情を最大限考慮しても,本件犯行の犯情の悪質性,結果の重大性を考えれば,被告人の刑事責任は相当に重く,主文掲記の実刑はやむを得ない。 (検察官田渕大輔,国選弁護人平嶋育造各出席)(求刑-懲役12年)平成16年5月6日甲府地方裁判所刑事部裁判官柴田誠 裁判官肥田薫裁判長裁判官山本武久は,転補のため,署名押印することができない。 裁判官柴田誠 裁判官肥田薫裁判長 裁判官山本武久は,転補のため,署名押印することができない。 裁判官柴田誠

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