平成13合(わ)519 殺人

裁判年月日・裁判所
平成15年7月4日 東京地方裁判所
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判決文本文17,895 文字)

平成13年合(わ)第519号 主文 被告人を懲役5年に処する。 未決勾留日数中450日をその刑に算入する。 押収してある包丁1丁を没収する。 理由 (犯行に至る経緯)被告人は,平成9年7月ころ,いわゆるホテトル嬢をしていた当時,客となったAと知り合い,何度か会っているうちに,同人から,生活の面倒をみるからホテトル嬢をやめるように言われ,これを受け入れて,以後,同人から生活費の援助を受け,同人が被告人方に週に2回くらい泊まっていったりするという形で同人との関係を続けていた。平成13年10月27日,被告人とAは,午後8時半ころから,レストランで酒を飲みながら食事をし,スナック2軒で飲酒して,翌28日午前零時過ぎころ,被告人方に戻った。被告人とAは,被告人方の台所兼食堂でしばらくは普通に話をしていたが,そのうちに口論となり,Aが投げやりな調子で別れ話をしたのに対して,被告人が「じゃあ,これで終わりにしようね,今までありがとう。」などと返答するや,Aがその態度に憤激し,被告人の顔や頭等を手拳で数回殴打し,被告人の足を蹴ったりしてきた。被告人は,和室に逃げ込んだが,そこでも殴る蹴るの暴行を受け,一旦は台所兼食堂のテーブルのそばの椅子にAを座らせ,なだめようとしたが,すぐに再びAが暴力を振るってきたため,台所兼食堂と和室を行ったり来たりしたが,その間も,Aと取っ組み合いになり,殴る蹴るの暴行を受け,プラスチック製の置物で背中や頭を殴打されたりもした。その後,被告人がAから逃れて台所兼食堂の電子レンジの前に行き,流し台に両手をつき,息をついていたところ,被告人の右後方に来たAが右手で被告人の右手をつかんで被告人の背中に回してねじ上げ,その手をAの左手で押 人がAから逃れて台所兼食堂の電子レンジの前に行き,流し台に両手をつき,息をついていたところ,被告人の右後方に来たAが右手で被告人の右手をつかんで被告人の背中に回してねじ上げ,その手をAの左手で押さえ,空いた右手で前記電子レンジの前に置いてあった菜箸2本をそろえてつかんで,被告人の目尻や唇の横辺りに後方から突き付け,「あごをぶち抜いて,目ん玉ぶち抜いてやることもできるんだぞ。ぶっ殺してやる。お前の家族もめちゃめちゃにしてやるし,かわいがっている猫もぶっ殺してやる。」などと言った。被告人は,本当に菜箸で刺されてしまうのではないかと恐怖を感じ,Aから菜箸を取り上げて,流し台に投げ入れた。 (罪となるべき事実)被告人は,平成13年10月28午前1時30分ころ,東京都北区ab丁目c番d号e号室の被告人方台所兼食堂において,A(当時53歳)に対し,包丁立てに立ててあった包丁(刃体の長さ約15.5センチメートル)を手に取り,同包丁でAの右腰部を1回突き刺し,その後,Aが右腰部に刺さった同包丁を右手で抜き取って,頭上に振りかざしながら,左手拳で被告人の顔面や後頭部を数回殴打してきたため,Aから同包丁を奪い取った上,同人が死亡するに至るかもしれないことを認識しながら,あえて,同包丁でAの前胸部を1回突き刺し,よって,同日午前2時ころ,同所において,同人を肝損傷に基づく失血により死亡させて殺害したものであるが,被告人の以上の刺突行為は,いずれも自己の身体に対する急迫不正の侵害に対し,自己の権利を防衛するためにしたもので,防衛の程度を超えたものである。 (争点に対する判断)第1 被告人は,殺人の故意はなかったと供述し,弁護人は,同旨の主張をするほか,被告人の行為は,Aの被告人に対する急迫不正の侵害に対して,やむを得ずにした行為であるから,正当防衛 争点に対する判断)第1 被告人は,殺人の故意はなかったと供述し,弁護人は,同旨の主張をするほか,被告人の行為は,Aの被告人に対する急迫不正の侵害に対して,やむを得ずにした行為であるから,正当防衛が成立し,仮に被告人の行為が防衛行為としての相当性を逸脱していたとしても,過剰防衛が成立し,さらに,仮に防衛行為時に侵害の急迫性がなかったとしても,被告人は侵害に急迫性があるものと誤信していたものであるから誤想防衛となり,その場合に被告人の行為が誤信した侵害に対する防衛行為としての相当性を逸脱していたとしても誤想過剰防衛となる旨主張する。 これに対して,当裁判所は,証拠を検討した上で判示のとおり認定したので,以下必要な範囲で補足して説明する。 第2 まず,関係証拠によれば,以下の事実関係が認められる。 1 被告人とAとの関係等について被告人は,判示犯行に至る経緯記載のとおり,平成9年7月ころ,Aと知り合って間もなく交際を始め,その後Aから生活費の援助を受けながら,判示被告人方で生活していた。 Aは,週に数回被告人方を訪れていたが,被告人方に来るときには,大抵は既にほろ酔い状態であり,被告人方でも飲酒していた。Aは,酒に酔うと,くどく,しつこくなり,乱暴になる性癖を有していた。Aは,被告人と付き合い始めて9か月くらい経ったころから,酒を飲んでいたときに,ささいなことで憤激し,被告人に暴力を振るうようになった。Aの暴力は,多いときには月に二,三回くらいはあったが,三,四か月間ないことが続いたこともあった。Aの被告人に対する暴行は,手拳で顔等を殴打したり,足や腹部を足蹴にしたり,物を投げつけたりするものだったが,包丁を持ち出して少しちらつかせたことも1度あり,そのときは,「お前なんか簡単にぶっ殺すことができる。」などと言っていた。 顔等を殴打したり,足や腹部を足蹴にしたり,物を投げつけたりするものだったが,包丁を持ち出して少しちらつかせたことも1度あり,そのときは,「お前なんか簡単にぶっ殺すことができる。」などと言っていた。1回の暴行時間は,長いときで二,三十分だった。被告人は,平成11年12月に,スナックで飲んでいるときにAから殴る蹴るの暴行を受けて傷害を負い,病院で診察を受け,全身打撲,眼瞼裂傷と診断されたこともあった。 なお,Aには,粗暴犯の前科があり,平成10年5月には傷害事件を起こして罰金刑に処せられているが,その内容は,被害者の顔面を石や手拳で数回殴打し,加療3か月間を要する傷害を負わせたというものであり,被告人は,Aから,そうした事件を起こし,多額の示談金を払って示談したといったことも聞かされていた。 2 犯行前後の状況について被告人は,平成13年10月28日午前零時過ぎころ帰宅し,しばらくした後判示のとおりの経緯でAと口論となり,Aともみ合う間,Aから判示のとおりの暴行を受け,さらには台所兼食堂の電子レンジの前で,Aから菜箸を頬等に突き付けられる等の暴行,脅迫を受けた。被告人は,菜箸を取り上げた後,同日午前1時30分ころ,Aに対し,同所に置いてあった包丁を手に取り,それで同人の右腰部を1回突き刺した(以下「第1刺突行為」という。)その後,Aが右腰部に刺さった包丁を右手で抜き取って,頭上に振りかざし,空いている左手拳で被告人の顔面を数回殴打してきたため,Aから同包丁を奪い取り,同包丁でAの前胸部を1回突き刺した(以下「第2刺突行為」という。)その後,Aは籐製ソファーの冷蔵庫寄りの部分にもたれかかるような形で床に座り,被告人が自首すると言ったのに対して,「ちょっと待ってろ,サツには行くな。」などと言い,徐々に床に倒 為」という。)その後,Aは籐製ソファーの冷蔵庫寄りの部分にもたれかかるような形で床に座り,被告人が自首すると言ったのに対して,「ちょっと待ってろ,サツには行くな。」などと言い,徐々に床に倒れていった。被告人は,しばらく呆然としていたが,同日午前1時54分ころ,友人のBに電話を掛け,「殴られて,箸で目を刺されそうになったから,殺されそうになったから,刺しちゃった。」などと告げた。それから被告人は部屋の片付けを始め,包丁の血をティッシュで拭き,灰皿の破片等をゴミ袋に入れるなどした。被告人から呼ばれたBは,同日午前3時ころ被告人方に到着した。被告人は,Bの目の前で警察に電話を掛け,包丁で人を刺したことを告げた。被告人は,現場に急行した警察官によって,同日午前3時15分,現行犯逮捕された。その際,被告人は,警察官に対し,自分がAを刺したことを認めた上で,Aに別れ話を持ち出したところAが怒りだし,顔を殴られたため,包丁を持ち出し,右手に持った包丁で,Aの背中と腹を刺した旨述べた(なお,被告人には刑法上の自首が成立する。)。 3 現場の状況について犯行場所である被告人方8畳の台所兼食堂は,北西角一帯が台所になっており,北西隅に電子レンジが置かれ,電子レンジの南側にガス台があり,その南側に冷蔵庫,さらにその南側に籐製ソファーがそれぞれ西側の壁に沿って配置されていた。電子レンジの東側には洗った食器等を入れておく食器かごがあり,その東隣が流し台になっていた。本件包丁は,電子レンジと食器かごの間の包丁立ての中に,柄を上にし,刃を西側に向けて立ててあった。本件菜箸は,流し台の中にあるおけの中に置かれていた。 また,同室の中央南寄りに籐製テーブルが置かれており,同テーブルの下には長方形のカーペットが部屋に対してやや斜めを向くような形で てあった。本件菜箸は,流し台の中にあるおけの中に置かれていた。 また,同室の中央南寄りに籐製テーブルが置かれており,同テーブルの下には長方形のカーペットが部屋に対してやや斜めを向くような形で敷かれていた。 Aは冷蔵庫のすぐ前の床上に,頭を北側にし,左側体を下にした状態で倒れており,肩から腰に掛けての部分が冷蔵庫の丁度正面にあり,臀部は,冷蔵庫とその隣の籐製ソファーの間辺りに位置していた。Aは犯行当時,上に白色ランニングシャツ,下にトランクスを着用していたが,着ていた白色ランニングシャツ及びトランクスには多量の血痕が付着し,Aが倒れていた周辺の床には,多量の血が溜まっていた。 4 当日のAの飲酒酩酊の状況について(1) Aは,判示のとおり,同月27日午後8時半過ぎころから,被告人と飲食をし,被告人方に帰宅するころには,足元がふらつく程度に酩酊していたが,被告人方に戻ってから約15分ないし20分間は被告人と普通に話をしており,その間に,生卵をかけたご飯を食べ,被告人に現金47万円を渡したりしている。 (2) 死亡当日の平成13年10月28日午後1時過ぎころから同日午後3時過ぎころまでの間に行われた死体解剖時に採取した血液を用いて,Aの血中エタノール濃度を測定したところ,1ミリリットル中3.0ミリグラムのエタノールが検出され,同解剖時に採取したAの心血を用いた警視庁科学捜査研究所での鑑定では,1ミリリットル中3.9ミリグラムのエタノールが検出された。なお,このように2つの鑑定で血中アルコール濃度の値にかなりの違いが生じた原因は不明である。 血中アルコール濃度と酩酊度の関係について報告する法医学の文献によれば,血中アルコール濃度が1ミリリットル中2.5ないし3.5ミリグラムの場合,高度酩酊の状態であり,歩行困難で,言 である。 血中アルコール濃度と酩酊度の関係について報告する法医学の文献によれば,血中アルコール濃度が1ミリリットル中2.5ないし3.5ミリグラムの場合,高度酩酊の状態であり,歩行困難で,言語は全く不明瞭となり,諸反射も消失に近い低下を示すとされ,血中濃度が1ミリリットル中3.5ミリグラム以上の場合は,いわゆる泥酔状態で,諸反射は消失,意識も消失して,昏睡状態になるとされているが,酩酊の程度は,血中アルコール濃度と基本的には平行関係を有するものの,個人差が大きく,血中アルコール濃度と必ずしも平行しない場合もあるとされており,Aの鑑定を行った医師Cは,血中アルコール濃度が1ミリリットル中3.0ミリグラムの場合でも,酒に強い人であれば,部屋中を動きながら,人ともみ合うといったことはできるのではないかと証言している。 なお,死亡後のアルコールの体内拡散に関し,胃内に高濃度のアルコールが存在していれば,死後周辺組織に拡散し,特に,胃に近接している心内の血中アルコール濃度は影響を受けるとされている。 5 Aの死因,創傷の状況等について(1) Aの死因は,肝損傷に起因する失血死であり,第2刺突行為によるものであって,その他に死因となり得る程度の損傷,疾病はなく,第1刺突行為による右腰部の刺創については,血管損傷等を伴っておらず,これによる出血は死因とはなり得ない程度のものであった。 (2) Aの2つの刺創の状況は,以下のとおりである。 ア右腰部の刺創右腰部背面,臀裂上端の右上約20センチメートルの部に,上外方から下内方へ向かう長さ約3.5センチメートルのし開創があり,上創端はやや鈍,下創端は尖鋭で,創縁は共に整鋭であった。創洞は前やや下方に向かい,右腸腰筋外側の軟部組織内に停止し,周囲には血腫形成を伴って 下内方へ向かう長さ約3.5センチメートルのし開創があり,上創端はやや鈍,下創端は尖鋭で,創縁は共に整鋭であった。創洞は前やや下方に向かい,右腸腰筋外側の軟部組織内に停止し,周囲には血腫形成を伴っており,刺創管の全長は約10センチメートルであった。 イ右前胸部の刺創右乳頭の直下方約10センチメートルの部に,右上から左下方に向かう長さ4.5センチメートル及び下創端からその延長上に1.5センチメートルの切痕を伴うし開創があり,上創端はやや鈍で,米粒大表皮剥脱を伴い,下創端は尖鋭で,創縁は共に整鋭であった。創洞はほぼ水平後方に向かい,右第7肋骨,第7肋間を切破し,胸腔内ほぼ下端部に入り,直ちに横隔膜を穿通して腹腔内に刺入し,肝右葉に深さ約11.5センチメートルの創を与え肝内に停止していた。刺創管の全長は約17センチメートルであった。なお,上記し開創は,立った状態で足裏から約110センチメートルの部位にあった。 (3) 左右上肢,前腕から手背にかけて,新旧様々な皮膚変色部が多数散在し,皮下に軽度出血があったが,防御創と認められる切創はなかった。 (4) Aは,鑑定書によれば,身長165センチメートル,体重63.4キログラムであり,被告人は,その供述によれば,身長163センチメートル,犯行当時の体重は約53キログラムであった。 6 凶器等の種類・性状について被告人が使用した凶器は,先がとがった,全長約27.5センチメートル,刃体の長さ約15.5センチメートルの包丁であり,普段は被告人が料理の際に使用していたものである。犯行後,刃の根元部分に少量の血痕が付着していた。 Aが被告人を脅迫する際に使用した菜箸は,全長約32.5センチメートル,先端部の太さが約0.32センチメートルの木製のもので,先端部が黒くこげてい 後,刃の根元部分に少量の血痕が付着していた。 Aが被告人を脅迫する際に使用した菜箸は,全長約32.5センチメートル,先端部の太さが約0.32センチメートルの木製のもので,先端部が黒くこげていた。 7 被告人の負傷状況について被告人が,犯行当日にAから受けた暴行により生じた傷害についてみると,関係証拠により,以下の事実が認められる。 (1) 被告人は,犯行当日に逮捕された後の午前6時30分から午前8時までの間,D大学医学部付属病院脳外科,整形外科,眼科の医師の診察を受けたが,その診断結果は,次のとおりである。 脳外科での診断名は「頭部外傷」であるが,頭蓋骨内に異常は認められず,頭・顔等に打撲があって,数日間の経過観察を要する症状とされている。 整形外科では,両大腿,腰部等に全治3週間の打撲があるとされている。 眼科では「結膜下出血」と診断されており,目の周りに皮下出血があって,眼科的な治療は不要であるが,全治1週間程度とされている。 (2) 被告人の顔面等を撮影した写真をみると,左目下辺りに紫色の痣ができており,額にも皮下出血があり,首付近にも擦過傷と思われる傷がある。 第3 殺意について 1 まず,被告人の刺突行為の状況についてみる。 (1) 刺突行為の状況についての被告人の供述には,捜査段階から公判にかけてかなりの変遷がみられるが,最終的には,被告人は,概ね以下のとおり供述している。 被告人は,本件犯行当日,台所兼食堂や和室において,判示のとおりの経緯で約1時間にわたってAとつかみ合い等を続け,その間Aから判示のとおりの暴行を受けた。被告人が台所兼食堂の電子レンジの前に行き,両手をついていたところ,被告人の右後方に来たAが右手で被告人の右手をつかみ,その右手をひねって被告人の背中に け,その間Aから判示のとおりの暴行を受けた。被告人が台所兼食堂の電子レンジの前に行き,両手をついていたところ,被告人の右後方に来たAが右手で被告人の右手をつかみ,その右手をひねって被告人の背中に回し,その手を今度はAの左手で押さえ,空いた右手で電子レンジの前に置いてあった菜箸をつかんで,2本そろえて被告人の頬等に突き付け,「あごをぶち抜いて,目ん玉ぶち抜いてやることもできるんだぞ。ぶっ殺してやる。お前の家族もめちゃめちゃにしてやるし,かわいがっている猫もぶっ殺してやる。」などと言った。被告人は,空いている左手でAの手をつねったり,体を動かすなどして,Aから菜箸を取り上げ,流し台に菜箸を放り投げた。その後,被告人は,電子レンジと食器かごの間の包丁立てに,刃を西側を向けて立ててあった包丁を右手で逆手でつかんで振り返り,包丁を持った右手を頭の上まで上げ,Aの背中付近をめがけて振り下ろした。このとき,Aは,頭を被告人の方に向け,腰を折って,背中をやや丸めた中腰の姿勢をしていた。また,包丁を頭の上に振り上げた際,包丁の刃は上を向いていた。被告人が振り下ろした包丁はAの背中に刺さり,被告人は,包丁から手を離した。Aは,「てめえ,刺しやがったな。」などと言い,右腰部に刺さった包丁を右手で抜き取って,頭上に振りかざし,空いている左手拳で被告人の顔面を数回殴打してきた。被告人は,冷蔵庫の前付近で,Aと正対し,左手でAの右腕のひじをつかみ,右手でAの右手首をつかんで,自己の左手でAの右ひじを徐々に下げていくような形で下に下ろしていった。被告人は,包丁がAの腰より低い位置辺りまできたとき,Aの右手から前記包丁を奪い取ると,すぐに順手で包丁を握り,Aの右ひじを左手でつかんだ状態で,包丁を持った右手を突き出した。被告人は,包丁が刺さっていく瞬間を見たくな より低い位置辺りまできたとき,Aの右手から前記包丁を奪い取ると,すぐに順手で包丁を握り,Aの右ひじを左手でつかんだ状態で,包丁を持った右手を突き出した。被告人は,包丁が刺さっていく瞬間を見たくなかったので,Aの右肩を見つめていた。 (2) 以上の被告人の供述の信用性について検討する。 前記のとおり,被告人の供述は,捜査段階から公判にかけて様々な点で変遷しており,特に,公判供述には,それ自体の中にも変遷がみられるが,Aから様々な暴行を受けた後,菜箸を突き付けられて,「(菜箸で)ぶち抜いてやる。ぶっ殺してやる。」などと言われ,菜箸を奪った後,第1刺突行為に及び,その後,Aが刺さった包丁を抜き取って,空いている左手拳で被告人を殴打してきたため,Aから包丁を奪って第2刺突行為に及んだという基本的な流れや,刺突行為の態様,包丁を奪ったときの状況に関する供述については,特段不自然,不合理な点はなく,捜査段階からほぼ一貫している上,前記第2記載の現場の状況,被告人及びAの負傷状況等の客観的な状況とも合致している。第1刺突行為の際のAの体勢,包丁の握り方についての供述には,捜査段階から変遷が多いが,これらに関する上記の最終的な供述は,当初包丁があったという位置,立て方,Aの右腰部の負傷の状況及びAが被告人に菜箸を突き付けた時点で,Aは被告人の右後方に,被告人の方を向いて立っていたという状況と整合している。 なお,被告人の公判供述の中での変遷には,検察官の質問を誤解したり,あるいは把握不十分なまま答えたことによるものも含まれているとみられ,被告人の供述の根幹部分の信用性に疑問を生じさせるものとまではいえない。 よって,被告人の上記供述は基本的な点においては信用できる。 2 以上を踏まえて,殺意の有無,発生時期について検討する。 告人の供述の根幹部分の信用性に疑問を生じさせるものとまではいえない。 よって,被告人の上記供述は基本的な点においては信用できる。 2 以上を踏まえて,殺意の有無,発生時期について検討する。 (1) まず,第1刺突行為時点における殺意の有無についてみる。 ア被告人は,中腰で前屈みの姿勢のAに対し,包丁を頭より上の位置まで振り上げ,そのまま振り下ろして,身体の枢要部である右腰部を刺したものであり,両者の体勢等からすれば,被告人は,そこに包丁を刺すことを認識しながら,そのような行為に出たものと認められる。 もっとも,被告人が刺した右腰部という部位は,身体の重要部分であるとはいえ,胸・腹部等に比して生命侵奪の危険性は相対的に低いといえる。 イ傷の深さは刃体の長さの約3分の2に相当する約10センチメートルであり,刺突時にAは動いておらず,被告人の力だけでこれだけの深さの傷が生じたのであるから,被告人は相当の力を加えたものと認められるが,後述する第2刺突行為とは異なり,包丁は根元までは刺さっておらず,創洞は骨等に突き当たることなく軟部組織内に停止していることからすれば,被告人が力一杯包丁を振り下ろしたとまでは認められない。 ウ被告人が使用した包丁は,被告人が菜箸を突き付けられた暴行,脅迫を受けた位置の近くに置かれていたものであり,その握り方も,振り上げた際に刃が上を向くという一般的ではないものであることからすれば,被告人は,包丁立てに立ててあった包丁をそのままの状態でつかんだものとみられること,Aは,被告人から刺されるまで,これに抵抗しておらず,被告人が包丁を手にしたことに気付かなかったとみられることなどからすれば,被告人は,Aから奪った菜箸を流し台に放り投げた後,咄嗟に近くにあった包丁をつかみ,時間的間 されるまで,これに抵抗しておらず,被告人が包丁を手にしたことに気付かなかったとみられることなどからすれば,被告人は,Aから奪った菜箸を流し台に放り投げた後,咄嗟に近くにあった包丁をつかみ,時間的間隔をおかず,直ちにAを刺したものと認められる。 エ被告人は,包丁をAの体に突き刺すと,すぐに包丁から手を離しており,その後Aからその包丁を奪い取るまでは,Aに対して何ら積極的な攻撃を加えていない。 オ被告人とAとの関係からすれば,被告人にはもともとAを殺害する動機がない。 カこの点に関する被告人の供述をみると,捜査段階の供述調書には,「私が殺してしまうしかないと思いました。」(平成13年10月29日付け検察官調書)といった殺意を肯定する旨の供述の記載もあるが,その後,「Aを最初背中から刺しましたが,このときはAからこれ以上暴力を振るわせないようにその場から動けなくしてやろうと思って刺した」旨供述して,殺意を否認し(同年11月8日付け警察官調書),その後の検察官の取調べにおいても殺意を肯定する旨の供述はなく,被告人は,公判においても一貫して殺意を否認しているものであるところ,以上を総合すれば,殺意を否認する被告人の供述が不自然,不合理であるとは断定できず,第1刺突行為の段階では,まだ被告人に殺意があったとは認められない。 (2) 次に,第2刺突行為の時点における殺意の有無についてみる。 ア被告人は,Aの右前胸部を刺突したものであるが,その部位はまさに身体の枢要部であり,生命侵奪の危険性は非常に高い。 弁護人は,被告人は,あえて右胸部をねらったものではないと主張するが,被告人とAの身長差は約2センチメートルしかないところ,第2刺突行為の時点では,被告人とAは正対しており,被告人は腰より低い位置辺りで包丁を 被告人は,あえて右胸部をねらったものではないと主張するが,被告人とAの身長差は約2センチメートルしかないところ,第2刺突行為の時点では,被告人とAは正対しており,被告人は腰より低い位置辺りで包丁を奪うや,すぐにそのまままっすぐ包丁を突き出していること,被告人は,刺突の際に左手でAの右ひじをつかんでいることなどの点からすれば,被告人は,自分が突き出した包丁がAの胸腹部に刺さることは十分認識していたものと認めることができる。なお,被告人は,刺突の際,Aの右肩を見ていたと供述しているが,そのこと自体,包丁がAの体に突き刺さることを認識し,それを見たくないとの心理によるものとみることができる。 イ右前胸部の刺創の創洞は,前記のとおり,右第7肋骨,第7肋間を切破し,肝右葉に深さ約11.5センチメートルの創を与え肝内に停止するものであり,刺創管は全長約17センチメートルにも及んでいて,かかる刺創管の長さと,包丁の根元部分にまで血痕が付着しており包丁がその付近まで刺さったと認められることからすると,被告人の予期しない別の力がそこに作用したなどの特段の事情がない限り,被告人が相当強度の力で刺突行為に及んだものと推認できる。 この点に関して,弁護人は,刺されたAが背後の冷蔵庫にぶつかり,被告人の方にはね返ってきたため,包丁が思いのほか深く刺さったものと主張し,被告人も捜査段階途中からは一貫してその旨述べている。 そこで,Aの体がはね返ったという事実の有無について検討すると,この点に関し,被告人は,公判廷において,Aを刺したところ,まず包丁が半分くらい刺さり,その後は力を加えて包丁を前に動かしてはいないという趣旨のことを述べているが,そもそも被告人自身は包丁が刺さる瞬間を見ていないのであり,包丁が半分くらい刺さったというのも被告 丁が半分くらい刺さり,その後は力を加えて包丁を前に動かしてはいないという趣旨のことを述べているが,そもそも被告人自身は包丁が刺さる瞬間を見ていないのであり,包丁が半分くらい刺さったというのも被告人の手の感触によるものというのであり,半分くらい刺さった後にAと被告人がどのような動きをして,包丁が全部刺さることになったのかということについても,その供述内容は甚だ曖昧であり,被告人の供述する両者の動きについての状況からすると,包丁が深く刺さることなく,むしろ抜けてしまうと思われるような供述もあって,その供述内容からその状況を想像すること自体が困難である。 もっとも,それが一瞬の出来事であり,事柄の性質上,その状況に関する供述に曖昧な部分が残ることはやむを得ないとしても,この点に関しては,解剖医の前記Cが,Aの前胸部の刺創は表面の傷も非常にきれいで,創洞が直線部分のみで,枝分かれしておらず,創縁も非常に精鋭であることからすると,1度刺したものと考えるのが自然であると述べており,被告人の供述は,このような刺創の状態と合致しない。また,Cは,2度突いた場合でも,途中まで引き抜いてまた短時間にもう一度同じ方向に刺すのであれば,そのような刺創ができることも有り得るとも述べてはいるが,上記刺創がAの体の中央部分から外れた右乳頭部の直下にあることからすると,そのように体の右端に近い位置に力が加わった場合に,Aが冷蔵庫に当たったとしても,全く同じ方向にはね返るとは考え難い。 そうすると,Aが冷蔵庫に当たってはね返ったという事実自体を認めることは困難であり,したがって,弁護人の主張には理由がなく,前記刺創は,被告人がAを刺した力によって生じたものと認められ,被告人が相当強度の力で刺突行為に及んだものと推認できる。 めることは困難であり,したがって,弁護人の主張には理由がなく,前記刺創は,被告人がAを刺した力によって生じたものと認められ,被告人が相当強度の力で刺突行為に及んだものと推認できる。 ウそして,被告人は,既に第1刺突行為を行ったことにより,一定の力で刺突すれば,包丁がAの身体に相当深く刺さることを認識したものと考えられるのであり,第2刺突行為によってどの程度の刺創を負わせることになるかについても概ね認識していたものと推認できる。 エ弁護人は,被告人にはAを殺す動機がない旨主張し,確かにもともと被告人にその動機がなかったことは首肯できるものの,犯行当日,被告人は,Aからこれまでにない執拗な暴行を受けた上,自己の第1刺突行為の後,Aが包丁を抜き取り,頭上に振りかざしたというのであるから,これによる恐怖から,自己の身を守るため咄嗟に殺意を抱くことも十分有り得るといえる。 オ被告人の捜査段階における供述調書には,第2刺突行為の時点では殺意があった旨の供述の記載があるが,被告人は,公判においては,自分が刺されると思い,自分の方が先に刺しただけであり,Aを殺してしまおうというつもりはなかったなどと述べて,殺意は一切なかった旨供述している。 しかしながら,以上のとおり,被告人は,身体の枢要部に向け,相当強度の力を入れて包丁を突き刺したものであり,その行為によって包丁が深く突き刺さることも認識していたと認められるのであって,被告人が咄嗟に殺意を抱く動機ないし状況もあったと認められるのであるから,第2刺突行為の時点においては,被告人は少なくとも殺人の未必的故意を有していたと認められる。 第4 正当防衛,過剰防衛等について 1 急迫不正の侵害について(1) まず,第1刺突行為の時点における急迫不正の侵害の有無に 被告人は少なくとも殺人の未必的故意を有していたと認められる。 第4 正当防衛,過剰防衛等について 1 急迫不正の侵害について(1) まず,第1刺突行為の時点における急迫不正の侵害の有無について検討する。 前記のとおり,被告人は,Aからかなり強度の暴行を相当時間,かつ断続的に受けており,Aに菜箸を突き付けられ,前記暴言を言われた時点で急迫不正の侵害があったことは明らかである。 そして,Aは,被告人がAから離れて電子レンジの前に行ったにもかかわらず,なおも被告人に近付き,被告人の背後から被告人の腕をつかんで顔に菜箸を突き付ける等の暴行,脅迫を行っており,そこでは「ぶっ殺してやる。」などの強度の脅迫文言を使用していること,Aに日頃から粗暴で,被告人を服従させようとする傾向があったことなどを考えると,Aが,被告人に菜箸を奪われたからといって,攻撃意思及び能力を失ったとは考え難い。 そして,前記のとおり,第1刺突行為は被告人が菜箸を奪って間もない時点でなされており,前記菜箸を突き付けられる等の暴行,脅迫行為と第1刺突行為との間には時間的・場所的離隔がほとんどなく,Aは,菜箸を奪われた後は,前屈みの体勢になっており,これは疲労によるものと推測されるものの,攻撃を放棄するような言動はなされていない。 よって,第1刺突行為の時点でも,急迫不正の侵害が継続していたといえる。 検察官は,この点について,Aが菜箸を取り上げられた後は,反撃する気配がなく,被告人の第1刺突行為に対しても抵抗していないこと,Aが相当酔いが回り長時間の暴行によりかなり疲労していたことなどから,菜箸を取り上げられた時点でAの攻撃意思は消失し,急迫不正の侵害は終了していたと主張する。 しかしながら,Aが第1刺突行為に対して反撃しな 回り長時間の暴行によりかなり疲労していたことなどから,菜箸を取り上げられた時点でAの攻撃意思は消失し,急迫不正の侵害は終了していたと主張する。 しかしながら,Aが第1刺突行為に対して反撃しなかったのは,被告人の攻撃に気付かなかったからにすぎないと考えられ,そのことから攻撃意思が消滅したとは直ちにいえない。また,Aの疲労・酩酊については,前記第2の3記載のとおり,Aは帰宅後に普通に会話をしたり,ご飯を食べるなどしており,その後,現実に相当時間に及ぶ暴行,脅迫を行っていることから考えると,Aの酩酊度が高度のものであったとは考えられず,相当時間に及ぶ暴行によって疲労したとはいっても,第1刺突行為後にも現実に包丁を抜き取り,被告人の顔面を殴打するなどの暴行を加えているのであるから,攻撃能力も有していたとみられる。 よって,検察官の主張は採用できない。 (2) 次に,第2刺突行為の時点における急迫不正の侵害の有無について検討する。 ア前記のとおり,第1刺突行為の時点でもAによる急迫不正の侵害は継続しており,Aは,第1刺突行為後,刺さっていた包丁を抜き取り,頭の上に振りかざして,被告人の顔面を数回殴打する暴行を加えており,この時点でも急迫不正の侵害が継続していたことは明らかである。 なお,検察官は,第1刺突行為後のAの暴行は,被告人の自招侵害であるとも主張するが,本件においては,もともとAが被告人に対して暴行,脅迫を断続的に行っていたものであり,これに対する反撃行為として被告人がAに対して第1刺突行為を行ったというものである上,後述するように,第1刺突行為が防衛行為としての相当性を欠いていたとしても,被告人は,第1刺突行為の後に更に攻撃を加えようとしたわけではないから,その後のAの暴行を,被告人が自ら招いたもので る上,後述するように,第1刺突行為が防衛行為としての相当性を欠いていたとしても,被告人は,第1刺突行為の後に更に攻撃を加えようとしたわけではないから,その後のAの暴行を,被告人が自ら招いたものであり,急迫性がないものとして,これに対しては防衛行為としての反撃行為をすることができないということはできず,この点に関する検察官の主張も採用できない。 イそこで,被告人が包丁を奪った後の第2刺突行為の時点においても急迫不正の侵害が継続していたかについて検討するに,確かに,Aは,相当時間の暴行等により疲労していたはずであり,第1刺突行為によって右腰部も負傷したことから,その力は当初より相当弱まっていたものと推認され,現にAより本来はかなり力が劣るはずの被告人に包丁を奪われていること,また,左手に防御創がなく,第2刺突行為に対して空いていた左手による抵抗をした様子がないことなどに照らすと,被告人がAから包丁を奪い取った時点では,Aの攻撃能力が低下していたものとは認められる。 しかしながら,Aは,第1刺突行為後も自ら包丁を抜いて攻撃を続けており,被告人が包丁を奪おうとした際にも,徐々に力が弱まりつつではあるが,これを奪われないように抵抗し,被告人に暴行を加える意思を放棄するような言動は全くしていない。Aが被告人に対してその顔面等を殴る暴行を加えてから,被告人がAから包丁を奪って第2刺突行為に及ぶまでは,時間的にはごく短かく,一連の連続的な出来事でもあると考えられるところ,その間に,被告人に対するAの攻撃の意思や能力が消失したとみられるような顕著な状況の変化は存在しないのであるから,被告人が包丁を奪い取ったからといって,Aの急迫不正の侵害が終了したということはできず,第2刺突行為の時点においても,急迫不正の侵害はなお継続していたと認 顕著な状況の変化は存在しないのであるから,被告人が包丁を奪い取ったからといって,Aの急迫不正の侵害が終了したということはできず,第2刺突行為の時点においても,急迫不正の侵害はなお継続していたと認めるのが相当である。 2 防衛の意思について前記認定の事実関係に照らせば,被告人は,犯行当日にAから執拗な暴行,脅迫を受け,被告人が一貫して供述するとおり,相当の恐怖や身の危険を感じていたものと認められること,被告人の各刺突行為は,いずれも直前にAから受けた暴行,脅迫に対応する形で加えられており,Aの暴行,脅迫との間に時間的,場所的離隔がないこと,第1,第2のいずれの刺突行為も,それぞれ1回だけ包丁を突き刺したものであることからすると,被告人は,防衛の意思をもって各刺突行為に及んだものと認めるのが相当である。 この点に関し,検察官は,前屈みの状態で被告人に攻撃を加えてくる様子があったと認められないAに対する第1刺突行為は,積極的加害意図に基づくものであると主張するが,前述したとおり,被告人は,Aから菜箸を突き付けられる等の暴行,脅迫を受けて,咄嗟に包丁を取って第1刺突行為に及び,刺突後は包丁から手を離しており,包丁は根元まで刺さっていないこと等に照らすと,被告人が防衛の意思が否定されるほどの積極的加害意図をもって第1刺突行為を行ったとは認定できず,検察官のこの点の主張も採用できない。 3 相当性についてそこで,次に,被告人の本件行為が,防衛行為として許される必要かつ相当な範囲にあったかにつき検討する。 Aの被告人に対する暴行,脅迫は,相当の時間にわたり,執拗に行われたものであり,被告人の受傷の状況からみても,かなり激しいものであったことが認められる。しかし,Aは,殴る蹴る等の暴行を加えているが,凶器は使用して する暴行,脅迫は,相当の時間にわたり,執拗に行われたものであり,被告人の受傷の状況からみても,かなり激しいものであったことが認められる。しかし,Aは,殴る蹴る等の暴行を加えているが,凶器は使用しておらず,灰皿を投げつけたときも,被告人に向かって投げたわけではなく,菜箸を突き付けたときも,被告人の目尻や頬に強く押し付けたわけではなく,軽く押し当てた程度であったこと,第1刺突行為後に包丁を手にしたときも,包丁を頭の上に振りかざしただけで,それで被告人を刺そうとするかのような脅迫は行っていないことなどからすると,Aに被告人が生命を失うほどの暴行を加えようとする意図があったとまでは考えにくい。そして,被告人の第1,第2刺突行為の各時点では,未だ急迫不正の侵害は存続していたとみられるとはいえ,第1刺突行為の際は,Aは菜箸を取り上げられ,かつ,前屈みの状態であり,第2刺突行為の際は,被告人と対峙してはいるものの,包丁は取り上げられており,いずれにおいても被告人の生命に対する危険は相当程度弱まっていたものとみられる。これに対して,被告人は,Aによる身体的な拘束を受けていない状況下で反撃を行っており,その態様は,第1刺突行為については,素手で前屈みの状態のAに対して,包丁を頭の上まで振り上げて,そのまま振り下ろして刺突するというものであり,第2刺突行為については,包丁を奪われ素手となったAに対し,相当程度の力で包丁を突き刺すというものである。かかるAによる急迫不正の侵害の程度と,被告人の行った暴行の態様,程度に照らせば,犯行当日のAの被告人に対する執拗な暴行,脅迫とそれによる被告人の受傷,被告人とAとの体力差等を考慮しても,被告人の行為は,全体として社会通念上防衛行為として許される,必要かつ相当の範囲を逸脱しているといわざるを得ない。 4 以上 暴行,脅迫とそれによる被告人の受傷,被告人とAとの体力差等を考慮しても,被告人の行為は,全体として社会通念上防衛行為として許される,必要かつ相当の範囲を逸脱しているといわざるを得ない。 4 以上より,結局,被告人の判示各刺突行為については,過剰防衛が成立するものと判断した。 (量刑理由) 1 本件は,被害者から生活費等の援助を受け,いわゆる愛人として生活を送っていた被告人が,自宅で被害者から殴る蹴る等の暴行を受け,あるいは菜箸を突き付けて脅す等されたことから,自己の身を守るために,防衛の程度を超えて,その場にあった包丁で被害者を突き刺して殺害したという,過剰防衛の成立する殺人の事案である。 2 被告人の供述する犯行に至る経緯からすると,被害者は,犯行当日も被告人に47万円もの現金を渡し,ホステスとの関係について弁明するかのような話をしていたというのであるから,おそらくは本心からではなく,被告人に対して別れ話をしたところ,被告人は「じゃあ,これで終わりにしようね,どうもありがとう。」などとあっさりとこれを承諾したというのであり,被害者としては,4年間にもわたり被告人に多額の金銭的援助をしてきたにもかかわらず,被告人からそのような態度をとられたため,憤激し,激しい暴力行為に及んだものと思われる。 被害者の性格や粗暴癖を十分に知りながら,そのような言動をした被告人にも,被害者の暴力行為を招いた一因があるとはいえ,被害者の暴力行為は相当に激しいものであって,厳しい非難に値するものであることは当然である。しかし,本件各刺突行為の状況についてみると,被告人は,暴行,脅迫を一旦止めて前屈みの姿勢になっていた素手の被害者に対して,咄嗟に包丁を手に取り,頭の上まで振り上げそのまま振り下ろして被害者の右腰部を突き刺し,その後,被害者が体に刺さった包丁 告人は,暴行,脅迫を一旦止めて前屈みの姿勢になっていた素手の被害者に対して,咄嗟に包丁を手に取り,頭の上まで振り上げそのまま振り下ろして被害者の右腰部を突き刺し,その後,被害者が体に刺さった包丁を抜き取り,再び空いている手で被告人の顔を殴打する暴行を加えたのに対し,疲労等の影響で力が弱まった被害者から包丁を奪うや,殺意をもって,被害者の前胸部を刺突したものであり,ことに死因となった第2刺突行為については,被害者から包丁を奪い取った以上,被害者の更なる攻撃を避けるためには,他に様々な方法があったはずであり,奪い取った包丁で同人を殺害する必要があったとは到底言い難く,短絡的で防衛行為として相当な程度を大幅に超えた行為といえる。 被害者は,その生命まで奪われなければならないような理由はないにもかかわらず,被告人の刺突行為により重篤な傷害を負い,間もなく意識を失って,そのまま絶命したものであり,53歳という年齢で妻子を残してこの世を去らざるを得なかった被害者はさぞ無念であったであろうし,また,突然,一家の大黒柱である被害者を失った遺族の被った衝撃や精神的苦痛は甚大であり,その生活に与えた影響も大きく,本件犯行の結果は重大である。しかるに,被告人自身は遺族に対して何ら慰藉の措置を講じておらず,遺族の処罰感情が大きいのもとうぜんである。 以上によれば,被告人の刑事責任は重い。 3 他方,本件は被害者の執拗な暴行,脅迫に起因する偶発的な犯行であって,被害者に大きな落ち度があること,被告人の行為は過剰とはいえ,防衛のためになされたものであること,被告人は,公判において殺意等については争うものの,自己の行為の結果の重大性を十分認識し,遺族に対して謝罪の言葉を述べ,反省の態度を示していること,犯行後しばらく時間が経過した後とはいえ,自ら警察に通報し は,公判において殺意等については争うものの,自己の行為の結果の重大性を十分認識し,遺族に対して謝罪の言葉を述べ,反省の態度を示していること,犯行後しばらく時間が経過した後とはいえ,自ら警察に通報しており,刑法上の自首が成立すること,前科前歴がないこと,母親や友人が出廷し,それぞれ被告人の更生に協力,助力する旨を述べていることなど,被告人のために斟酌することができる事情もある。 そこで,これらの点を総合考慮の上,主文の刑が相当と判断した。 平成15年7月4日東京地方裁判所刑事第4部裁判長裁判官峯俊之 裁判官岡田健彦 裁判官中村光一

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