平成12(行ウ)33 難民の認定をしない処分取消請求等

裁判年月日・裁判所
平成16年2月19日 東京地方裁判所
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判決文本文55,798 文字)

平成16年2月19日判決言渡平成12年(行ウ)第33号難民の認定をしない処分取消請求事件(以下「平成12年事件」という。)平成13年(行ウ)第277号退去強制令書発付処分取消等請求事件(以下「平成13年事件」という。)平成15年(行ウ)第608号退去強制令書発付処分無効確認請求追加的併合事件(以下「平成15年事件」という。)判決当事者の表示別紙当事者目録記載のとおり 主文 1 被告法務大臣が原告に対し平成10年8月25日付けでした難民の認定をしない処分を取り消す。 2 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年7月9日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。 3 原告の本件訴えのうち、被告法務大臣が原告に対し平成13年6月22日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議申出は理由がない旨の裁決の取消し及び無効確認を求める部分を却下する。 4 訴訟費用は被告らの負担とする。 事実及び理由 第1 請求 1 主文第1項、第2項同旨 2 被告法務大臣が平成13年6月22日付けで原告に対してした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議申出は理由がない旨の裁決を取り消す。 3 被告法務大臣が平成13年6月22日付けで原告に対してした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議申出は理由がない旨の裁決が無効であることを確認する。 第2 事案の概要 1 事案の要旨本件は、ミャンマー国籍を有する外国人である原告が平成9年2月3日付けでした出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)61条の2に基づく難民認定申請(以下「本件申請」という。)に対し、被告が、原告は難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)及び難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)にいう難民と認めら 基づく難民認定申請(以下「本件申請」という。)に対し、被告が、原告は難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)及び難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)にいう難民と認められないとして、平成1 0年8月25日に難民に認定しない処分(以下「本件不認定処分」という。)をしたことから、原告が、自らが難民条約及び難民議定書にいう難民に該当するのに難民に該当しないとしてした本件不認定処分が違法である旨主張し、本件不認定処分の取消しを求めるものである(平成12年事件)。原告は、被告が本件不認定処分の後である平成13年7月9日に、原告の法49条1項に基づく異議申出に理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をし、原告に対し退去強制令書発付処分(以下「本件退令発付処分」という。)を行ったことから、平成13年10月9日に、本件裁決及び本件退令発付処分の取消訴訟を提起し(平成13年事件。 なお、この事件において当初から本件裁決の取消しが求められていたか否かについては、後記のとおり、当事者間に争いがある。また、同事件は、難民の認定をしない処分取消請求事件と弁論併合されている。)、平成15年10月31日には本件裁決の無効確認を求める訴えを提起した(平成15年事件)。 2 判断の前提となる事実(認定根拠を掲記しない事実は、当事者間に争いがないか当裁判所に顕著な事実である。)(1) 原告は、昭和40年1月17日、ミャンマー(当時はビルマ連邦)ヤンゴン(当時はラングーン、以下年代を問わず「ヤンゴン」という。)において出生したミャンマー国籍を有する外国人である(乙1)。 (2) 原告は、平成元年11月18日、新東京国際空港に到着し、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田支局入国審査官に対し、渡航目的「観光」、日本滞在予定期間「15日 外国人である(乙1)。 (2) 原告は、平成元年11月18日、新東京国際空港に到着し、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田支局入国審査官に対し、渡航目的「観光」、日本滞在予定期間「15日間」とそれぞれ外国人入国記録の所定の欄に記入して上陸申請をし(乙2)、同日、平成元年法律第79号による改正前の法4条1項4号所定の在留資格及び在留期間を30日とする上陸許可を受け、本邦に入国した(乙1)。 (3) 原告は、在留期間の更新又は在留資格の変更の許可を受けることなく、前記上陸許可の在留期限である同年12月18日を超えて本邦で不法残留することとなった(乙1参照)。 (4) 原告は、平成5年3月26日、平成6年5月19日、同年12月12日及び平成8年4月24日に、それぞれ在京ミャンマー大使館において、原告名義の旅券の有効期間の延長許可を受けた(乙1)。 (5) 原告は、平成9年2月3日、東京入管において、被告法務大臣に対し難民認定申請をした(乙3)。 (6) 原告は、平成10年5月14日、新宿区長に対して、東京都新宿区ab丁目c番d号を居住地として外国人登録申請をした(乙4)。 (7) 東京入管難民調査官は、平成10年5月18日及び同年6月1日、原告から事情を聴取するなどの調査をした(乙5、6)。 (8) 被告法務大臣は、平成10年8月25日、「特定の社会的集団の構成員であること」及び「政治的意見」のために迫害を受けるおそれがあるという申立てについては、これを立証する具体的な証拠がないので、原告は難民条約第1条A(2)及び難民議定書第1条2に規定する「特定の社会的集団の構成員であること」及び「政治的意見」を理由として迫害を受けるおそれは認められず、難民条約及び難民議定書にいう難民とは認められないとして、本件不認定処分をし、同年10月2日、原 「特定の社会的集団の構成員であること」及び「政治的意見」を理由として迫害を受けるおそれは認められず、難民条約及び難民議定書にいう難民とは認められないとして、本件不認定処分をし、同年10月2日、原告に対し本件処分を告知した(乙7)。 (9) 原告は、平成10年10月7日、被告に対し、本件不認定処分について異議の申出をした(乙8)。 (10) 東京入管難民調査官は、平成10年11月18日、東京入管第二庁舎において、原告から事情を聴取するなどの調査をした(乙9の1、2)(11) 被告は、平成11年9月10日、(9)の異議申出については、原告の難民認定申請につき再検討しても、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に、原告が難民条約上の難民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見出し得なかったとして、理由がない旨の裁決をし、平成12年1月7日、原告に告知した。 (12) 東京入管入国警備官は、平成10年9月21日違反調査を実施した結果(乙11)、原告が法24条4号ロに該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、同月29日、東京入管主任審査官から収容令書の発付を受け、同年10月2日、同令書を執行し、原告を法24条4号ロ該当容疑者として東京入管入国審査官に引き渡した。 (13) 被告主任審査官は、平成10年10月2日、原告の請求に基づき、原告に対し仮放免を許可した。 (14) 東京入国審査官は、平成10年10月2日及び同年11月5日、原告について違反審査をし、その結果、同日、原告が法24条4号ロに該当する旨の認定をし、原告にこれを通知したところ(乙17)、原告は、同日、口頭審理を請求した。 (15) 東京入管特別審理官は、平成11年3月17日、口頭審理を実施し(乙18)、その結果、特別審理官は、同日、入国審査官の前記認定 を通知したところ(乙17)、原告は、同日、口頭審理を請求した。 (15) 東京入管特別審理官は、平成11年3月17日、口頭審理を実施し(乙18)、その結果、特別審理官は、同日、入国審査官の前記認定に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知したところ(乙19)、原告は、同日、被告法務大臣に異議の申出をした(乙20)。 (16) 被告法務大臣は、平成13年6月22日、原告からの上記(4)の異議の申出については、理由がない旨裁決し(本件裁決、乙21)、同裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同年7月9日、原告に本件裁決を告知するとともに、本件退令発付処分をした(乙23)。 3 当事者の主張(1) 原告ア難民条約の解釈基準(ア) 難民認定手続を正しく運用するためには、「難民」の定義、立証基準、立証責任、信憑性などの諸原理について正しい解釈を得なければならない。しかし、我が国の難民認定手続を定める入管法には、これらの諸原理に関する明文の規定がなく、これらの諸原理を解明するためには入管法の解釈を要するところであるが、入管法の難民認定制度に関する諸規定は、我が国が難民条約及び難民議定書を批准したことによりこれらを国内法化するために制定されたものであり、その解釈は全面的に難民条約及び難民議定書の解釈に依拠するものである。 ことに、難民の意義については、入管法上の「難民」と難民条約及び難民議定書が定める「難民」とは全くの同義であり、かつ、難民の意義について締約国は何らの留保を付することも認められていない(難民条約42条1項)から、我が国は難民条約及び難民議定書の定める難民を「そのまま難民として」認定する義務を負っている。したがって、「難民」の意義の解釈や、いかなるものを難民として認定すべきかの基準については、全て難民条約及び難民議定書の解釈によっ 定書の定める難民を「そのまま難民として」認定する義務を負っている。したがって、「難民」の意義の解釈や、いかなるものを難民として認定すべきかの基準については、全て難民条約及び難民議定書の解釈によって導かれなければならない。 以上の理由から、難民条約の解釈は不可欠な作業となる。 (イ) 難民条約解釈のルール条約を含む国際法規は、これを批准した締約国間に共通の法規であって、締約国間に客観的に存在し、締約国を等しく拘束する法秩序となる。したがって、国際法規は締約国ごとの区々の解釈がされるべきではなく、個々の締約国の政策や思惑を超えた国際的に統一された解釈がされる必要がある。 このような観点からすれば、難民認定手続における諸原理を難民条約の解釈によって導出するに際しても、その解釈が締約国ごとに独自なものであることは許されず、各締約国において共通に運用される、統一的かつ普遍的な解釈がされることが難民条約それ自体の要請であることは明らかである。 「条約法に関するウィーン条約」(以下「条約法条約」という。)31条及び32条は、条約その他の国際法の解釈基準を定めており、同条約がそれまで国際慣習法として成立した解釈基準を確認したものであるから、難民条約もそれにより定められる解釈基準により解釈されるべきものである。そして、条約法条約31条は、文言解釈ないし文理解釈と称される原則に依拠し、条約の文言が明らかに不合理な結果や条約の他の部分との整合性を有しない結果を来したり、締約国の意図するところを明らかに逸脱する場合を除いては、用語の通常の意味に解釈しなければならないものとし、同32条では、31条の規定による解釈では意味があいまい又は不明瞭である場合、明らかに常識に反した不合理な結果がもたらされる場合には、条約の準備作業段階の事情や条約に基づく ればならないものとし、同32条では、31条の規定による解釈では意味があいまい又は不明瞭である場合、明らかに常識に反した不合理な結果がもたらされる場合には、条約の準備作業段階の事情や条約に基づく判例法、同種の他の条約又は類似の条項に関する裁判例を補足的手段として、解釈を行うべきであると定める。 以上によれば、難民条約は、その条約文や締約国間でされた難民条約の関係合意である「最終文書の規定」さらには、難民の人権の広範な保障という難民条約の趣旨・目的に照らし、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の見解や難民条約を実施する各国の先例等をも解釈の準則として解釈を行うべきである。 イ難民認定の要件(ア) 難民の定義難民として認定され、保護されるための該当条項に係る要件は、①本国の外にあること、②十分に理由のある恐怖、③迫害、④理由であり、これら全ての要件を合わせ満たす必要があるが、以下、本件で問題となる「国外にいること」以外の3要件につき検討する。 (イ) 十分に理由のある恐怖この要件は、「恐怖」という主観的要素と、「十分に理由のある」という客観的要素の双方を明示的に求めており、当事者の内心及びこれを合理的に裏付ける客観的な事情の両方の要素が考慮されなければならないが、難民の認定が覊束的なものであることからすれば、客観的な要素を確定し、その内容を予め明確にすることが必要であり、その指標として、申請者の個別的状況、出身国の人権状況、過去の迫害、同様の状況におかれている者の事情などが考慮されるべきである。 (ウ) 迫害迫害とは「国家の保護の欠如を伴う基本的人権に対する持続的若しくは系統的危害」であり、迫害の認定をするに当たっては広く、経済的・社会的・精神的自由に対する抑圧や侵害も検討されなければならず、そのように迫害を広く捉える の欠如を伴う基本的人権に対する持続的若しくは系統的危害」であり、迫害の認定をするに当たっては広く、経済的・社会的・精神的自由に対する抑圧や侵害も検討されなければならず、そのように迫害を広く捉える解釈が、条約法条約の解釈手法、難民条約「前文」との間での整合性を有するものといえる。 (エ) 理由迫害の理由として列挙されている、人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員であること、政治的意見は、これらのうちいずれか一つ以上があれば足り、このうちの1つであるのかいくつの理由を組み合わせるのか、どの1つに該当するのかといったことは申請者において特定する必要はない。 ウ立証責任・立証基準(ア) 難民認定手続は、申請者の難民該当性に関する事実認定及びあてはめ作業を内容とする手続であるから、証明に関するルールが明らかにされる必要がある。そして、難民認定申請を行ったものが本国を捨て、保護の確証のない外国で手続を行うものであること、本来、対立当事者間の武器対等を前提とした対審構造が予定されたものではなく、非対審構造が予定されていること、訴訟が過去の事実を認定する手続であるのに対し、難民認定手続は将来予測的な事実の証明を行うものであること、難民認定機関は、認定者であると同時に申請者に対する協力者であることが求められていることによれば、訴訟手続における証明のルールをそのまま導入することは妥当なものではないというべきである。そして、その証明のルールを検討する際には、締約国各国の判例や先例が重要な参考資料となり、それらを重視して、検討を行うべきである。 (イ) 立証責任難民認定手続における立証責任の問題は、訴訟手続における立証手続とは異質のものであり、訴訟手続における立証責任の概念は妥当しない。そして、我が国の難民認定制度立法過程での国会の審議に ) 立証責任難民認定手続における立証責任の問題は、訴訟手続における立証手続とは異質のものであり、訴訟手続における立証責任の概念は妥当しない。そして、我が国の難民認定制度立法過程での国会の審議における当時の法務省入国管理局長の答弁や法61条の2の3の規定によれば、同条は、難民認定申請者には身分事項、経歴、迫害の根拠とされる事由についての説明、活動歴、自己又は同じ集団に属する他人若しくは集団自体に対する過去の迫害の事実、出国から入国の経過、入国後申請に至るまでの経過、入国後の活動状況について事実を提供する義務を負い、一方で、出身国情報や、申請者が記憶する過去の事件の有無・内容、同種の理由による我が国への難民認定申請の有無、同種の理由による他国への難民認定申請事例の有無、申請者の活動を裏付ける資料の収集や申請者の知人・親族等からの事情聴取などを積極的に行うべきである。 (ウ) 立証基準我が国の難民認定制度は、条約上の難民をそのまま難民として認定することが義務付けられており、いかなるものが難民として認定されるべきかは、難民条約に従って、その規定及び解釈により決せられるべきものであり、難民認定の目的は、紛争の解決や法的安定性の確保ではないから、それらを目的とする訴訟制度のルールを導入する合理的基盤はないし、その証明対象は、主観的要素を含み、将来予測を含むものであり、訴訟手続と異なっており、また、判断の誤りにより侵される法益は重大であり、事後的な回復は不可能であるから、難民認定手続の立証基準は、訴訟手続との対比からではなく、難民条約の文言に基づき決せられるべきものであり、難民条約の内容や難民保護の目的、各締約国の運用実務からみれば、難民性の立証基準としての「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、主観的な「恐怖」 づき決せられるべきものであり、難民条約の内容や難民保護の目的、各締約国の運用実務からみれば、難民性の立証基準としての「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、主観的な「恐怖」に十分な理由があることであり、その「十分な理由」とは、当該申請者がおかれた状況に、合理的な勇気を有するものが立ったときに、「帰国したら迫害を受けるかもしれない」と感じ、国籍国への帰国をためらうであろうと評価し得る場合に、その恐怖に「十分な理由」があるということができる。 エ信憑性判断(ア) 難民認定手続は、難民であることを有権的に確定する行為であるから、認定機関は、個々の外国人が難民に該当する事実を具備しているか否かを誤りなく判断することが要求される。そして、この事実の確定作業において、申請者の申請・供述の信憑性の判断は決定的な要素となるものである。そして、申請者が証言の全てを裏付ける物証や書証を提出し得ることがむしろ例外的であるという難民認定手続の特殊性をかんがみれば、信憑性評価の重要性は一層増すこととなる。 (イ) このような難民認定手続が取り扱う保護法益の重要性、難民認定における信憑性判断のもつ重要性から、難民認定機関においては信憑性判断を誤りなく行うことが求められ、難民認定における信憑性判断の有する、①申請者及び難民認定機関の双方で証拠収集が制限されているという物理的要因の特殊性、②申請者が本国において現実に迫害を受けてきたか、あるいは潜在的に迫害の危険を有していることから、しばしば申請者の心的作用に障害が認められることがあり、また、官憲に対する不信感・警戒心、出身国に残る家族や知人に危害が及ぶことを避けようとする意識等が存するという心理的要因の特殊性、③申請者が言語的障害・文化的相違をもち、申請者の言語や概念について審査官の に対する不信感・警戒心、出身国に残る家族や知人に危害が及ぶことを避けようとする意識等が存するという心理的要因の特殊性、③申請者が言語的障害・文化的相違をもち、申請者の言語や概念について審査官の解釈が常に合致しているとは限らないという文化的要因の特殊性、④難民認定手続について対審構造が採られていないという構造的特殊性といった特殊性により、信憑性判断は困難で専門的な作業となっており、これらの特殊性を十分念頭におかねばならず、信憑性判断が無原則なものとなれば、難民認定行為の覊束性は無に帰することとなる。 (ウ) そして、各締約国の信憑性判断の経験上、注意すべき点の共通点をまとめると①疑わしきは申請者の利益に(灰色の利益の原則)。この原則は、主張の実質的本案審議と申請者の信憑性評価の両方に適用される。②信憑性についての懸念を申請者や証人に提示し、釈明の機会を与えなければならない。③信憑性についての否定的な判定には、証拠中に適当な根拠がなければならず、申請者の供述は、単なる憶測や推測により排除されるべきではない。理由を説明せずに申請者の話を「あり得ない」とするだけでは不十分であり、なぜその証言が合理的にあり得ることと明らかに矛盾するか説明できなければならない。特に矛盾しない証言を排除する際には注意を払うべきである。④信憑性についての否定的な判定は、申請の重要な面に基づいて行われるべきである。ただし、主要でないことに関する矛盾でも、それが重なると申請者の信憑性に疑問を投げかけることになる。⑤証拠を全体として、また客観的で偏見のない目で考慮することが重要である。⑥矛盾のない、信憑性のある説明については独立した裏付けは必要ではない。⑦信憑性の欠如が理由で認めらない証拠があっても、必ずしも申請の却下につながるとは限らない。⑧矛盾を見つけるのに が重要である。⑥矛盾のない、信憑性のある説明については独立した裏付けは必要ではない。⑦信憑性の欠如が理由で認めらない証拠があっても、必ずしも申請の却下につながるとは限らない。⑧矛盾を見つけるのに過度の熱意を示してはならない。認定者は矛盾点や信憑性がない証拠などを探し、結果として申請者の信憑性を攻撃するために証拠を調べてはならない。⑨信憑性を評価する際には事情に通じていなければならない。証言の信憑性と価値は申請者の出身国の状況や法等について一般的に知られている事実に照らし合わせて評価されなければならない。⑩信憑性について明確な判定をし、それについて適切な理由が付されなければならない。認定者は供述の中で信憑性がないようにみえる部分を明確に指摘し、その結論に至った理由も明確に伝える義務を負う。⑪不真実表示・事実隠ぺいや証言内容の変遷は、信憑性評価に影響を及ぼすものであるが、人が嘘をつく背景には様々な動機があり得、それ自体は申請の却下を意味しないし、逆に、申請者の主張の信憑性を裏付ける証拠にもなり得る。⑫常識とは、歴史的に構築されたものであり、文化によって決定され、それゆえ普遍的でないから、その評価は重視されるべきではない。⑬手続の特徴を考慮に入れるべきである。難民認定手続はしばしば迅速で形式張らず、本質的に探求的であり、口頭の証拠のほとんどは通訳というフィルターを通している結果、認定過程は誤解の可能性に満ちている。申請者の緊張、トラウマや文化的相違も混乱や誤解を作り出すことがある、⑭信憑性判断の要素として証人の様子に頼るのは避けるべきである。⑮申請の遅延は、そのこと自体決定的な要素とはならず、申請が遅れた背景事情を追求しなければならない。といったものが挙げられる。 オ難民認定手続と適正手続行政手続においても憲法上、適正手続の保 。⑮申請の遅延は、そのこと自体決定的な要素とはならず、申請が遅れた背景事情を追求しなければならない。といったものが挙げられる。 オ難民認定手続と適正手続行政手続においても憲法上、適正手続の保障があることが認められており、難民認定手続においても適正手続の保障が及ぶというべきであるところ、我が国の難民認定手続においては、事後手続としての異議申立ては認められるものの、難民不認定処分を出す前に申請者に釈明の機会が与えられていない点、処分書に要求されるべき理由が明記されていない点、判断の主体が直接手続に関与していない点(直接主義違背)において、適正手続を欠くものといわざるを得ない。 カ原告の難民該当性(ア) 原告の供述の信憑性前記ウ(ウ)の信憑性評価の注意点に加え、供述の信用性に関する一般原則を勘案すれば、供述の信憑性の評価に当たっては、些末な事項についていちいち細かい点をとらえて表現の違いを問題としたり、ましてや、最初からあら探しをするような態度で供述を吟味することは妥当でなく、全体的な供述の自然性や一貫性、重要な部分についての供述の詳細さ、客観的証拠との符合などに重きをおいて供述をみるべきである。 このような観点から原告の供述をみるに、原告の供述は、基本的な流れにおいて一貫しており、とりわけ不自然という点もみられない。特に、原告が仕事を辞めて学生達の民主化運動に加わる決意をした事件の様子、インセイン刑務所で受けた尋問の様子、原告がデモ参加中に発砲を受けた様子などについての供述は、自ら体験したものでなければ語り得ない具体性、迫真性がある。 さらに、客観的証拠との符合という観点でも、原告のビルマにおける活動の内容は、民主化運動の歴史的経緯と合致しており、原告の日本における民主化運動の参加についての供述も客観的証拠により裏付け ある。 さらに、客観的証拠との符合という観点でも、原告のビルマにおける活動の内容は、民主化運動の歴史的経緯と合致しており、原告の日本における民主化運動の参加についての供述も客観的証拠により裏付けられている。 被告は、原告の供述の信憑性を疑うべき事情を縷々述べるが、いずれも、前記ウ(ウ)の注意点に背を向けて独自の信憑性評価原則に固執し、その信憑性評価を誤ったものというほかない。 (イ) 原告の難民該当性a 出身国の外にあること原告はビルマ出身であり、現在日本に在留し当該国の外にある。 b 迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖原告は、民主化運動の活動家として、1988年に民主化運動に公然と参加し、一度は逮捕され、拷問を受けたこともある。また、原告が日本におけるビルマ民主化運動の中心的活動家の一人であることは明らかである。 かかる人物についての迫害の危険性についてみると、ビルマの当時の状況やビルマにおける民主活動家に対する逮捕・拘禁そして拷問等の迫害の実態にかんがみ、原告がビルマに継続してとどまっていたならば、原告の自由と権利が危害を被る客観的可能性は十分に認められたというべきであるし、我が国における活動の継続を経た本件不認定処分時、本件退令発付処分時において、原告がビルマに帰国すれば、逮捕や殺害の危険をはじめとして、原告の自由と権利が危害を被る客観的可能性は十分に認められたというべきである。 少なくとも、原告がおかれた状況に合理的勇気を有するものが立ったときに、「帰国したら迫害を受けるかもしれない」と感じ、国籍国への帰国をためらうであろうと評価し得ることは明白である。 したがって、原告には、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」は優に認められる。 c 迫害原告に及ぶ危害の内容が生命及び身体 帰国をためらうであろうと評価し得ることは明白である。 したがって、原告には、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」は優に認められる。 c 迫害原告に及ぶ危害の内容が生命及び身体の自由への脅威を含んでいることは、1988年以降のビルマにおける民主化に対する弾圧の内容をみれば明らかである。 d 理由原告は、ビルマにおいても、日本においても、ビルマの現軍事政権に反対し、民主化を求めて活動してきた結果として、迫害の危険にされされている。したがって、原告には、政治的意見を理由とする根拠がある。 キ本件不認定処分の違法前記アないしカによれば、原告は難民として認められること、及び十分な理由の附記を欠いている点のいずれからしても本件不認定処分は違法であり取り消されるべきものである。 ク本件裁決の違法及び無効(ア) 前記アないしカのとおり、迫害及び拷問のおそれが認められる原告については、難民条約33条1項及び拷問及びその他の残虐な非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰を禁止する条約3条1項に違反しないために、また、人道上の見地からも、被告法務大臣は、原告に対し在留特別許可をすべきであった。しかし、被告法務大臣はこれをせず、原告に対して、本件裁決をした。これは、処分の前提たる事実に誤認があったものであり、同裁決は、取り消されるべきものであり、その瑕疵の重大性にかんがみれば、本件裁決は無効であるともいえる。 (イ) 平成13年事件の請求の趣旨の記載について原告は、平成13年事件訴状において、被告法務大臣を被告とする本件裁決の取消訴訟を提起したのであるが、請求の趣旨において、その旨の記載が脱漏していた。 事件名を退去強制令書発付処分等取消請求事件と「等」を付していること、当事者目録において被告主任審査官と列記して法務 取消訴訟を提起したのであるが、請求の趣旨において、その旨の記載が脱漏していた。 事件名を退去強制令書発付処分等取消請求事件と「等」を付していること、当事者目録において被告主任審査官と列記して法務大臣を被告としていること、訴状の請求原因において「行政処分の存在」の項で本件裁決の告知を受けたことについて述べていること、請求原因4項の表題が「本件裁決及び退去強制令書発付の違法性」となっていること、同項(3)の表題も「原告に対する本件裁決・退去強制令書発付の是非」としていることから、これが単なる脱漏にすぎず、訴状において既に原告が本件裁決の取消しを求めていることは、一見明白である。 ケ本件退令発付処分の違法本件裁決が違法であることにより、本件退令発付処分も当然に取り消されることになるが、本件退令発付処分は、難民条約33条1項及び拷問等禁止条約3条1項のノンルフールマン原則に違反して、送還先を本国と指定しており、本件退令発付処分は、難民条約及び拷問等禁止条約に違反する違法なものである。 (2) 被告らア難民・迫害の意義(ア) 法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するために国籍国の保護を受けることを望まないもの及び(中略)常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを ことを望まないもの及び(中略)常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされている。そして、その「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該人が迫害を受ける恐れがあるという恐怖を抱いていたという主観的な事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的な事情が存在していること」が必要である。 (イ) そして、ここにいう客観的な事情があるというためには、単に迫害を受ける恐れがあるという抽象的な可能性が存するにすぎないといった事情では足りず、当該申請者について迫害を受ける恐れがあるという恐怖を抱くような個別的かつ具体的な事情が存することが必要である。 すなわち、ある国の政府によって民族浄化が図られていることが明らかな場合はともかく、そうでなければ、当該政府が特に当該難民認定申請者を迫害の対象としたことが明らかになる事情が存在しなければならないのである。そのことは、難民条約及び議定書が集団全体を一個の難民として認定する手法を採用していないこと、原告が頻繁に引用するUNHCR作成の難民認定ハンドブックにおいても「各個人の状況はそれぞれの事案ごとに評価されなければならない」(43項)、「ある特定の人種的集団に属するという事実のみでは、通常、難民の地位の申請を裏付けるのに十分とはいえない」(70項)、「ある特定の宗教的社会に属するという事実のみでは、通常、難民の地位の申請を裏付けるのに十分とはいえ 団に属するという事実のみでは、通常、難民の地位の申請を裏付けるのに十分とはいえない」(70項)、「ある特定の宗教的社会に属するという事実のみでは、通常、難民の地位の申請を裏付けるのに十分とはいえない」(73項)、「特定の社会的集団に属するという事実のみでは、通常、難民の地位の申請を裏付けるのに十分とはいえない」(79項)、「政治犯罪人が難民に該当するか否かを決定するに当たっては次のような要素が考慮に入れられなければならない。即ち、申請人の人格、政治的意見、犯罪の動機、犯された行為の性質、訴追の性質及び動機、そして最後に訴追がなされる基礎となっている法律の性質がこれである」(86項)とされていることからも明らかである。 イ難民であることの立証責任は原告にあり、真偽不明な場合は難民とは認定されないこと(ア) いかなる手続きを経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条約に規定がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我が国において法61条の2第1項は、「法務大臣は、本邦にある外国人から法務省令で定める手続により申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定(以下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と定め、申請者に対し申請資料として「難民に該当することを証する資料」の提出を求めている(法施行規則55条1項)。この法令の文理からすれば、難民であることの資料の提出義務と立証責任が申請者に課されていることは明らかである。 このように、難民不認定処分は、申請者が自ら難民であることを立証できなかったために行われる処分であることから、その提出した資料等からも難民ではないと確認される場合と、難民であるとも難民でないとも確定的には確認できない(真偽不明)場合との双方を含む概念であ 証できなかったために行われる処分であることから、その提出した資料等からも難民ではないと確認される場合と、難民であるとも難民でないとも確定的には確認できない(真偽不明)場合との双方を含む概念である。 (イ) このことは、難民認定処分の処分としての性質からも明らかである。 すなわち、難民認定処分は、当該難民認定申請者(以下単に「申請者」という。)が難民条約所定の「難民」であるか否かを申請者から提出された資料に基づいて確認し、処分時において難民であることを認定する行為である。このように難民認定処分は本質的には事実の確認であるが、法務大臣により難民認定を受けていることが、他の利益的取扱いを受けるための法律上の要件となっており(法61条の2の5、61条の2の6、61条の2の8)、この点からすると、難民認定処分は、その処分自体が申請者に対して直ちに何らかの権利を付与するものではないものの、授益処分とみるべきである。 授益処分については、一般に、申請者側に処分の基礎となる資料の提出義務と立証責任があると解されているのであって、このような難民認定処分の性質からみても、難民認定の資料は、授益者となるべき申請者が提出すべきものである。 (ウ) さらに、このことは、難民認定のための資料との距離という観点からみても、合理的である。 すなわち、難民であると認められるためには、前記のとおり、「人権、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ことが立証される必要があり、このような難民該当性の判断の対象とされる諸事情は、事柄の性質上、外国でしかも秘密裏にされたものであることが多い。このような事実の有無及びその内容は、それを直接体験した申請者こそが最もよく知ることがで ような難民該当性の判断の対象とされる諸事情は、事柄の性質上、外国でしかも秘密裏にされたものであることが多い。このような事実の有無及びその内容は、それを直接体験した申請者こそが最もよく知ることができる立場にあって、申請者においてこれを正確に申告することは容易である。しかも、これらの事実は難民認定を受けるための積極的な事実であって申請者に有利な事実である。 これに対し、法務大臣は、それらの事実につき資料を収集することがそもそも困難であり、ましてや、難民該当性を基礎付ける事実の不存在を立証する資料の収集は不可能に近い。 仮に、法務大臣にこうした資料収集の義務を負わせるとすると、法務大臣に難民認定手続上の過重な負担を負わせ、適正な難民認定ができなくなる恐れが生じる。このような観点からも、法は、申請者に自らが難民であることを証明する資料を提出する義務を負わせ、真偽不明な場合には難民不認定処分を行うことができるとしたものと解される。 ウ難民認定されるための立証の程度(ア) 原告は、難民認定されるための立証の程度は、争訟手続と同様に解することができず、我が国の訴訟制度において採用されている「合理的疑いを容れない程度の証明」である必要はない旨を主張するところ、原告の同主張が、難民認定手続において、行政庁である法務大臣が難民認定申請者の難民該当性を判断する際に当該申請者が尽くすべき立証の程度を指すものか、不認定処分の取消しを求めた訴訟手続において、原告として尽くすべき立証の程度を指しているのかは必ずしも明らかではない。 しかしながら、本件においては、原告を難民と認定しなかった被告の判断の適否、すなわち、原告が本件不認定処分当時において難民と認められるに必要な「十分に理由のある迫害の恐怖」を有していたかが訴訟の場において争われているのであ は、原告を難民と認定しなかった被告の判断の適否、すなわち、原告が本件不認定処分当時において難民と認められるに必要な「十分に理由のある迫害の恐怖」を有していたかが訴訟の場において争われているのであるから、原告がこの点について「合理的な疑いを容れない程度の証明」をしなければならないのは当然である。 すなわち、民事訴訟における「証明」とは、裁判官が事実の存否について確信を得た状態をいい、合理的な疑いを容れることができないほど高度の蓋然性があるものでなければならないが、通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信で足りる。行政事件について行政事件訴訟法に定めがない事項については民事訴訟の例によるから、上記の民事訴訟法の原則は、特段の定めがない限り、行政訴訟における実体上の要件に該当する事実の証明についても当然当てはまるものである。 以上のような民事訴訟における事実の証明は、実体法の定める全ての要件に共通するものであり、特別の定めがないにもかかわらず、特定の類型の事件若しくは特定の事件の特定の要件に該当する事実に限って証明の程度を軽減することは許されない。しかるところ、難民認定手続について、難民条約及び難民議定書には、難民認定に関する立証責任や立証の程度についての規定は設けられておらず、難民認定に関しいかなる制度及び手続を設けるか否かについては、締約国の立法政策にゆだねられているが、我が国の法は、難民認定手続やその後の訴訟手続について、立証責任を緩和する旨の規定は存しない。そうである以上、難民認定手続やその後の訴訟手続について、立証責任を緩和する旨の規定は存しない。そうである以上、難民認定されるための立証の程度は、難民認定手続においても、その後の訴訟手続においても、通常の民事訴訟における原則に従うべきであり、難民認定申 立証責任を緩和する旨の規定は存しない。そうである以上、難民認定されるための立証の程度は、難民認定手続においても、その後の訴訟手続においても、通常の民事訴訟における原則に従うべきであり、難民認定申請者は、自己が難民であることについて、「合理的な疑いを容れない程度の証明」をしなければならない。 (イ) この点に関し、原告は、いわゆる灰色の利益論を主張するが、原告の主張が独自の法解釈に基づくもので到底現行法の解釈とし採り得ないことは明らかである。原告の主張する難民認定手続の特殊性については、いずれも各事案において自由心証の枠内で当該裁判所が考慮すべきかどうか検討すれば足りるものであり、法解釈として難民認定の立証基準や立証責任を原告側に緩和すべき理由はない。現に裁判例をみても、一般の民事訴訟と同様の立証責任と立証の程度を求めている。 エ原告が難民とは認められないこと前記アないしウのとおり、本件不認定処分が違法であるとしてこれを取り消すためには、原告において、自らが難民であることにつき「合理的な疑いを容れない程度の証明」をしなければならないが、本件においては、次の諸点からすると(被告らは、当初他の事情を指摘していたが、口頭弁論終結時に陳述した準備書面(6)においては、次の(ア)ないし(エ)を指摘するにとどまっている。)、このような立証責任論を持ち出すまでもなく、原告が難民でないことは明らかというべきである。 (ア) ミャンマー政府が原告を迫害の対象としているとはおよそ考え難いこと原告は、ミャンマー政府が原告を迫害の対象としているという根拠として、1988(昭和63)年3月に反政府活動に参加するようになり、デモや集会に参加し同年6月に当局に約1週間拘束されたこと、同年10月には当局による再度の拘束を恐れてインドへ逃れたこと、1989 して、1988(昭和63)年3月に反政府活動に参加するようになり、デモや集会に参加し同年6月に当局に約1週間拘束されたこと、同年10月には当局による再度の拘束を恐れてインドへ逃れたこと、1989(平成元)年1月に帰国した後もビラを配るなどの反政府活動に従事したこと、反政府活動家としてリストに登載されていることなどを主張する。 しかしながら、これらを裏付ける客観的な証拠はなく、その指摘する出来事はいずれもにわかに信じ難いものばかりである上、1989(平成元)年10月10日、本国政府から原告名義の有効な旅券の発券を受け、同年11月には何の問題もなく出国し、タイを経由して来日しているばかりか、その際、成田空港において、在日ミャンマー大使館員の息子の出迎えを受け、平成5年から平成8年までに入国時に使用した旅券の更新手続を4回にわたって在東京ミャンマー大使館において行っている。原告が、ミャンマー大使館において旅券の更新手続を行っていることは、原告が本国政府に対して庇護を求めていること、迫害を受けるおそれや恐怖心など抱いていないこと、本国政府から敵視されていないことの現れである。本国では、原告の両親も平穏に生活していることがうかがわれ、平成10年6月には、原告が交際していた日本人女性に会うために来日し、無事帰国している。したがって、ミャンマー政府が原告を迫害の対象としていたなどとはおよそ考え難く、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を原告が有していたとは到底認め難いというべきである。 (イ) 原告の来日目的は本邦での不法就労であること被告らも、申請人が就労活動をしたからといって直ちに難民性を失うとまで主張するものではないが、原告は、本法入国の動機として日本の先端技術にあこがれており、電気関係の技術を学びたかったとも供述 こと被告らも、申請人が就労活動をしたからといって直ちに難民性を失うとまで主張するものではないが、原告は、本法入国の動機として日本の先端技術にあこがれており、電気関係の技術を学びたかったとも供述し、来日した約1週間後には、栃木県芳賀郡e町所在の会社で溶接工として不法就労を開始し、その後、都内のそば屋や清掃員、ラーメン店、居酒屋等で稼働するなどしていたが、来日後7年余り、その間、難民認定申請することも、我が国に対して庇護を求めることもなかったものであって、原告の本邦への真の入国目的は、不法就労にあったものと推認せざるを得ない。 (ウ) 原告が反政府活動等に従事していたとは考え難いこと原告は、自らが反政府活動をしていたことを裏付ける一つの出来事として、1988年に他の学生とともにアウンサンスーチー女史(以下「スー・チー女史」という。)に会いに行き、直接、武装闘争を訴えて同人に反対されたなどと主張する。 反政府活動の重要人物と目されるスー・チー女史と直接対話したことがあるということは、本邦において難民認定申請をする者が自己の難民性を裏付ける有力な事情として強調する傾向があることが顕著にみられるものであるものの、平成9年2月3日に原告によって作成された難民認定申請書において、この点は何ら触れられていない。原告は、難民調査官の質問の仕方が原因でこの事実が記載されなかった旨述べるが、そもそも、スー・チー女史と対話したことがあるなどということは、本件各事件の訴状や執行停止事件にかかる疎明資料等のいずれにおいても何ら主張されていなかったのである。一方で、原告は、難民認定申請時には、この旨を全て代理人に話した旨述べていたというのであるが、これが事実とすれば訴状等に記載されていないこと自体が不可解である。結局、本件難民認定申請後6年以上も経過 方で、原告は、難民認定申請時には、この旨を全て代理人に話した旨述べていたというのであるが、これが事実とすれば訴状等に記載されていないこと自体が不可解である。結局、本件難民認定申請後6年以上も経過した、平成15年6月3日付け原告の供述録取書において初めて、上記のような陳述を始めたものと認められ、なぜ当初からその点の供述がされなかったかについて、何ら合理的な説明はされていないのである。 以上の事情にかんがみると、原告自身がスー・チー女史と会って武装闘争の話をしたとする供述自体疑わしい。 こうした点に加え、原告は、本国での迫害をおそれ一時インドに逃れたなどと主張しているが、インドに3か月ほど滞在したものの、体の不調を来して帰国したなどと、本国政府から迫害を受けてインドに逃れた者とは考えられない供述をするなどしていることに照らしても、原告が反政府活動をしていたとも考え難い。 (エ) 原告が不自然な供述を繰り返したことa 原告は、原告の両親が来日したことがある旨を述べていたが、本人尋問においては、この事実を否定し、原告の父親のみが1回来日したことがあるにすぎないなどと供述したり、一転してさらにこれを翻したりするなど、いかにも場当たり的な供述に終始した。 また、原告は、両親が来日する際、盗聴等をおそれ、両親との連絡は、全て交際中であった日本人女性が行った旨述べるが、同人は、英語の会話能力もミャンマー後の会話能力もほとんどないことを自認しているのであるから、原告の両親と来日に関わる連絡を全て日本人女性が行ったとの原告の供述はもとより信用できず、原告が本国の家族との間の手紙が没収されることや電話が盗聴されることを恐れていると述べていることも信用できない。 b 原告は、本国の家族構成につき、難民認定申請書に父母及び5人の姉妹を記載し、原告以外 が本国の家族との間の手紙が没収されることや電話が盗聴されることを恐れていると述べていることも信用できない。 b 原告は、本国の家族構成につき、難民認定申請書に父母及び5人の姉妹を記載し、原告以外に家族で来日歴があるのは両親だけである旨述べ、被告らが入国歴がある旨指摘したBは、原告の姉とは全く別人である旨供述している。しかしながら、原告の難民認定申請書には、姉妹としてBとの記載がある上、原告の外国人登録証明書写しの表面に世帯主として記載されている人物名と同一である。そして、Bが供述した家族関係は、原告以外の家族については原告が難民認定申請書に記載した家族関係と一致している上、本国の住所も一致していることからすると、原告らは姉弟であるにも関わらず、ことさらにこれを隠そうとして虚偽の供述をしていることは明らかである。また、原告にはCという妹が本国におり、同人が来日したことはない旨述べるところ、原告及びBと本国における住所を同じくするCなる人物が平成7年12月11日に本邦に入国し、同人の外国人入国記録の連絡先として原告及びBの外国人登録をした住所が記載されている。 そして、Cは、原告と同様、Bを世帯主及び同人の妹として、前記住所を居住地として外国人登録を行っており、その際のCの父母の氏名及び本国の住所は、原告及びBの父母の氏名や本国の住所と一致しており、原告は、姉妹関係や妹の来日歴を殊更に隠しているというほかない。 なお、Cは、在留期限である平成8年3月10日を超えて本邦内にとどまった後、在東京ミャンマー大使館において平成11年5月28日付け旅行文書となる身分証明書の発給を受け、同年6月1日、東京入管に出頭し、不法残留事実を申告した。東京入管主任審査官は、同日、送還先をミャンマーとした退去強制令書を発付し、Cは、関西空港から送還され 旅行文書となる身分証明書の発給を受け、同年6月1日、東京入管に出頭し、不法残留事実を申告した。東京入管主任審査官は、同日、送還先をミャンマーとした退去強制令書を発付し、Cは、関西空港から送還された。 (オ) 小括以上から判断すると、結局、原告は、本邦で専ら稼働することを目的に入国し、在留資格を得るための口実として、難民認定申請をしたものと推認せざるを得ず、ミャンマー政府が原告を迫害の対象としていたなどとはおよそ考え難く、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を原告が有していたとは到底認め難い。 オ本件裁決取消の訴えについて(ア) 本件裁決取消しの訴えについて原告は、平成13年事件の平成14年1月29日付け訴状の訂正申立書及び平成15年11月7日付けの原告準備書面(4)において、請求の趣旨に本件裁決の取消しを求める訴えの記載が欠落していたとして、これを訂正する旨の申立てをしているが、請求の原因を記載した部分にも、本件裁決の取消しを求める旨の記載はなく、これを単なる記載漏れとして処理することは許されない。原告の上記申立てを善解すれば、平成14年1月29日付けでされた訴えの追加的併合の申立てと解するのが相当であるが、被告法務大臣が原告に対して本件裁決の告知をしたのは、平成13年7月9日であるから、出訴期間を明らかに徒過しており、本件裁決の取消しを求める訴えは不適法というほかない。 (イ) 本件裁決の適法性原告が難民であると認め難いことは、前記エのとおりであり、在留特別許可を付与すべき積極的な理由が原告にあるとは到底考えられないから、在留特別許可を付与することなくされた本件裁決が適法であることは明らかである。 カ本件退令発付処分の適法性退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決を られないから、在留特別許可を付与することなくされた本件裁決が適法であることは明らかである。 カ本件退令発付処分の適法性退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を発付しなければならず、この点について裁量の余地はない。 また、主任審査官の送還先に関する判断にも誤りはない。 したがって、本件退令発付処分は適法である。 第3 争点及び争点に関する当裁判所の判断本件の争点は、①本件裁決の取消訴訟の適法性(争点1)、②本件不認定処分及び本件退令発付処分の適法性であり、②の前提として、原告の難民該当性(争点2)が問題となる。 1 争点1(本件裁決の取消訴訟の適法性)(1) 法49条1項の異議の申出に対する裁決の処分性ア法49条1項の異議の申出を受けた法務大臣は、同異議の申出に理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければならず(法49条3項)、主任審査官は、法務大臣から異議の申出に理由があるとした旨の通知を受けたときは、直ちに当該容疑者を放免しなければならない一方で(同条4項)、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、速やかに当該容疑者に対しその旨を知らせるとともに、法51条の規定による退去強制令書を発付しなければならないこととされている(法49条5項)。 このように、法は、法務大臣による裁決の結果につき、異議の申出に理由がある場合及び理由がない場合のいずれにおいても、当該容疑者に対してではなく主任審査官に対して通知することとしている上、法務大臣が異議の申出に理由がないと裁決した場合には、法務大臣から通知を受けた主任審査官が当該容疑者に対してその旨を通知すべきこととする一方、法務大臣が異議の申出 に対して通知することとしている上、法務大臣が異議の申出に理由がないと裁決した場合には、法務大臣から通知を受けた主任審査官が当該容疑者に対してその旨を通知すべきこととする一方、法務大臣が異議の申出に理由があると裁決した場合には、当該容疑者に対しその旨の通知をすべきことを規定しておらず、単に主任審査官が当該容疑者を放免すべきことを定めるのみであって、いずれの場合も、法務大臣がその名において異議の申出をした当該容疑者に対し直接応答することは予定していない(なお、平成13年法務省令76号による改正後の法施行規則43条2項は、法49条5項に規定する主任審査官による容疑者への通知は別記61号の2による裁決通知書によって行うものとすると定めているが、この規定はあくまで主任審査官が容疑者に対して通知する方式を定めたものにすぎず、法の定め自体に変更がない以上、この規則改正をもって法務大臣が容疑者に直接応答することとなったとは考えられない。)。こうした法の定め方からすれば、法49条3項の裁決は、その位置づけとしては退去強制手続を担当する行政機関内の内部的決裁行為と解するのが相当であって、行政庁への不服申立てに対する応答行為としての行政事件訴訟法3条3項の「裁決」には当たらないというべきである。 イこのことは、法の改正の経緯に照らしても明らかである。すなわち、法第5章の定める退去強制の手続は、法の題名改正前の出入国管理令(昭和26年政令319号)の制定の際に、そのさらに前身である不法入国者等退去強制手続令(昭和26年政令第33号)5条ないし19条の規定する手続を受け継いだものと考えられ、同手続令においては、入国審査官が発付した退去強制令書について地方審査会に不服申立てをすることができ(9条)、地方審査会の判定にも不服がある場合には中央審査会に不服の 続を受け継いだものと考えられ、同手続令においては、入国審査官が発付した退去強制令書について地方審査会に不服申立てをすることができ(9条)、地方審査会の判定にも不服がある場合には中央審査会に不服の申立てをすることができ(12条)、中央審査会は、不服の申立てに理由があるかどうかを判定して、その結果を出入国管理庁長官(以下「長官」という。)に報告することとされ、報告を受けた長官は、中央審査会の判定を承認するかどうかを速やかに決定し、その結果に基づき、事件の差戻し又は退去強制令書の発付を受けた者の即時放免若しくは退去強制を命じなければならないものとされていた(14条)もので、この長官の承認が、法49条3項の裁決に変わったものと考えられる。そして、長官の承認は、中央審査会の報告を受けて行われるものとされていて、退去強制令書の発付を受けた者が長官に対して不服を申し立てることは何ら予定されておらず、長官の承認・不承認は、退去強制手続を担当する側の内部的決裁行為にほかならない。したがって、同制度を受け継いだものと考えられる法49条3項の裁決についても、退去強制令書の発付を受けた者の異議申出を前提とする点において異なるものの、その者に対する直接の応答行為を予定していない以上、基本的には同様の性格のものと考えるのが自然な解釈ということができる。 ウまた、前記の解釈は、法49条1項が、行政庁に対する不服申立てについての一般的な法令用語である「異議の申立て」を用いずに、「異議の申出」との用語を用いていることからも裏付けられる。すなわち、昭和37年に訴願法を廃止するとともに行政不服審査法(昭和37年法第160号)が制定されたが、同法は、行政庁に対する不服申立てを「異議申立て」、「審査請求」及び「再審査請求」の3種類(同法3条1項)に統一し、これに伴い 止するとともに行政不服審査法(昭和37年法第160号)が制定されたが、同法は、行政庁に対する不服申立てを「異議申立て」、「審査請求」及び「再審査請求」の3種類(同法3条1項)に統一し、これに伴い、行政不服審査法の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律(昭和37年法律第161号)は、それまで各行政法規が定めていた不服申立てのうち、行政不服審査法によることとなった行政処分に対する不服申立ては廃止するとともに、行政処分以外の行政作用に対する不服申立ては前記3種類以外の名称に改め、そうした名称の一つとして「異議の申出」を用いることとした。 他方、法の対象とする外国人の出入国についての処分は行政不服審査の対象からは除外されている(同法4条1項10号)とはいえ、前記のとおり行政不服審査法の制定に際して個別に不服申立手続について規定する多数の法令についても不服申立てに関する法令用語の統一が図られたのに、法49条1項に関しては、従前どおり「異議の申出」との用語が用いられたまま改正がされず、法についてはその後も数次にわたって改正がされたにもかかわらず、やはり法49条1項の「異議の申出」との用語については改正がされなかった。そして、現在においては、法令用語としての「異議の申出」と「異議の申立て」は通常区別して用いられ、「異議の申出」に対しては応答義務さえないか、又は応答義務があっても申立人に保障されているのは形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けることだけである場合に用いられる用語であるのに対し、「異議の申立て」は、内容的にも適法な応答を受ける地位、すなわち手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権を認める場合に用いられる用語として定着しているということができる。したがって、数次にわたる改正を経 、内容的にも適法な応答を受ける地位、すなわち手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権を認める場合に用いられる用語として定着しているということができる。したがって、数次にわたる改正を経てもなお「異議の申出」の用語が用いられている法49条1項の異議の申出は、これにより、法務大臣が退去強制手続に関する監督権を発動することを促す途を拓いているものではあるが、同異議の申出自体に対しては、被告の応答義務がないか、又は、応答義務があっても、形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けることが保障されるだけであり、申出人に手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められているものとは解されない(最高裁第1小法廷判決昭和61年2月13日民集40巻1号1頁は、土地改良法96条の2第5項及び9条1項に規定する異議の申出につき、同旨の判示をしている。)。 よって、法49条1項の異議の申出に対してされる法49条3項の「裁決」は、不服申立人にそうした手続的権利ないし地位があることを前提とする「審査請求、異議申立てその他の不服申立て」に対する行政庁の裁決、決定その他の行為には該当せず、行政事件訴訟法3条3項の裁決の取消しの訴えの対象となるということはできない。 エさらに、法49条1項の異議の申出については、前記のとおり、申出人に対して法の規定により手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められているものと解することはできないのであるから、異議の申出に理由がない旨の裁決がこうした手続上の権利ないし法的地位に変動を生じさせるものということはできず、同裁決が行政事件訴訟法3条2項の「処分」に当たるということもできない(前記ウの最1小判参照。)。 オ以上によれば、法49条1項の異議の申出 ないし法的地位に変動を生じさせるものということはできず、同裁決が行政事件訴訟法3条2項の「処分」に当たるということもできない(前記ウの最1小判参照。)。 オ以上によれば、法49条1項の異議の申出に対する法務大臣の裁決は内部的決裁行為というべきものであり、行政事件訴訟法3条1項にいう公権力の行使には該当しないというべきものである。 (2) 退去強制令書発付処分における主任審査官の裁量及び比例原則の適用ア法24条は、同条各号の定める退去強制事由に該当する外国人については、法第5章に規定する手続により、「本邦からの退去を強制することができる」と定めている。そして、いかなる場合において行政庁に裁量が認められるかの判断において、法律の規定が重要な判断根拠となることに異論はないというべきであり、法律の文言が行政庁を主体として「・・・することができる」との規定をおいている際には、その裁量の内容はともかく、立法者が行政庁に一定の効果裁量を認める趣旨であると解すべきものであって、同条が退去強制に関する実体規定として、退去強制事由に該当する外国人に対して退去を強制するか否かについてはこれを担当する行政庁に裁量があることを規定しているのは明らかであり、法第5章の手続規定は、主任審査官の退去強制令書の発付に至る手続を規定しているにすぎないことからすれば、退去強制について実体規定である法24条の認める裁量は、具体的には、退去強制に関する前記手続規定を介して主任審査官に与えられ、その結果、主任審査官には、退去強制令書を発付するか否か(効果裁量)、発付するとしてこれをいつ発付するか(時の裁量)につき、裁量が認められているというべきである。 このような解釈は、行政法の解釈において伝統的に認められる行政便宜主義、すなわち権力発動要件が充足されている場合にも行政 をいつ発付するか(時の裁量)につき、裁量が認められているというべきである。 このような解釈は、行政法の解釈において伝統的に認められる行政便宜主義、すなわち権力発動要件が充足されている場合にも行政庁はこれを行使しないことができるとの考え方や、警察比例の原則、すなわち、警察法分野においては、一般に行政庁の権限行使の目的は公共の安全と秩序を維持することにあり、その権限行使はそれを維持するため必要最小限なものにとどまるべきであるとの考え方ばかりか、憲法13条の趣旨等に基づき、権力的行政一般に比例原則を認める考え方によっても肯定されるべきものである。 イなお、法47条4項、48条8項及び49条5項は、いずれも「主任審査官は・・・(中略)・・・退去強制令書を発付しなければならない。」と規定しており、その文言は、上記の解釈に反するようにみえないでもない。 しかし、退去強制手続は、原則として容疑者である外国人の身柄を収容令書により拘束していることを前提としているため、その手続を担当する者が何の考慮もないままに手続を中断し、放置することを許さないように、法47条1項、48条6項及び49条4項において、それぞれ容疑者が退去強制事由に該当しないと認められる場合に「直ちにその者を放免しなければならない」ことを定めるとともに、法47条4項、48条8項及び49条5項においては、退去強制に向けて手続を進める場合においても、「退去強制令書を発付しなければならない」として主任審査官の義務としての規定をおいたものと解され、これらの規定と法24条をあわせて解釈すれば、実体規定である法24条において退去強制について前記効果裁量及び時の裁量を認めている以上、主任審査官において、そうした裁量の判断要素について十分考慮してもなお退去強制手続を進めるべきであると判断した場 規定である法24条において退去強制について前記効果裁量及び時の裁量を認めている以上、主任審査官において、そうした裁量の判断要素について十分考慮してもなお退去強制手続を進めるべきであると判断した場合には、放免又は退去に至らないまま手続を放置せず、法の定める次の手続に進む(退去強制令書を発付する)べきことを定めたものと解すべきである。このように法の各規定をその位置づけに応じて解釈すれば、主任審査官に退去強制令書発付についての裁量を認めることは、法47条4項、48条8項及び49条5項の各規定と何ら矛盾するものではない。 ウまた、退去強制事由に該当する外国人には比例原則において警察権の行使と対比されるべき権利利益が存在せず、退去強制令書の発付には、法の定める要件適合性以外に比例原則違反の有無が問題となる余地がないとの考え方もないではない。 しかし、たとえ正規の在留資格を有しない外国人であっても、その性質が許す限り基本的人権を享有するのであって、退去強制手続に当たっても、このことと外国人の出入国の公正な管理という公益上の要請とを調和させる必要があることはいうまでもないことであり、上記の考え方は、当該外国人の人権を全く無視するに等しく、到底採用できない。 なお、退去強制令書の発付は、これまでの訴訟実務上は行政処分として扱われているが、これに応じない者に対しては直ちに実力を持って執行することが可能なものであることからすると、むしろ義務の賦課という段階を伴わない即時強制(又は即時執行)手続とみるべきものであって(このように解しても、その実力行使の継続性からして取消訴訟の対象となることには問題がない。)、それが、行政処分という義務の賦課にとどまるものに比べて、より直接的かつ強力な権力行使の手段であることからして、比例原則のより厳格な適用が求めら からして取消訴訟の対象となることには問題がない。)、それが、行政処分という義務の賦課にとどまるものに比べて、より直接的かつ強力な権力行使の手段であることからして、比例原則のより厳格な適用が求められるべきであり、このことは学説上も異論がないものと思われる。すなわち、法は、退去強制事由を定めているが、それらは一般的かつ抽象的にみて比例原則を満たすことが多いと考えられる類型にすぎないのであるから、それらに該当することのみをもって比例原則上の問題がないとは到底いえず、現に退去強制令書を発付するに当たっては、それが比例原則に違反しないか否かにつき、当該外国人の個別具体的事情など当該事案に即した個別的かつ具体的な検討を要するのであり、退去強制令書の発付が、このような検討を全く経ないでされた場合や、考慮すべき事情を考慮せず、考慮すべきでない事情を考慮するなどして社会通念上著しく不当な判断をした場合には、当該令書の発付は、比例原則に反する違法なものになるというべきである。 エそのほか、上級行政機関である法務大臣の意思決定を同大臣の指揮監督を受ける下級行政機関である主任審査官が、その独自の判断に基づいて覆し、あるいはその適用時期を考慮できるとすることは行政組織法上の観点から想定し難いとの考え方もないではないが、前記のとおり裁決は、行政処分ではなく単なる行政機関内部における決裁手続にすぎないと解すべきであるから、その決裁の趣旨が退去強制令書の発付を命じる趣旨であるとしても、それは組織法上の義務を生じさせるにとどまり、それにより当該発付処分が適法となるのではなく、客観的に裁量違反ないし比例原則違反の事実がある場合には当該処分は違法といわざるを得ない。 このことは処分庁が事前に上級行政庁の決裁を受けて行政処分をした場合一般に生じることであり、そのような なく、客観的に裁量違反ないし比例原則違反の事実がある場合には当該処分は違法といわざるを得ない。 このことは処分庁が事前に上級行政庁の決裁を受けて行政処分をした場合一般に生じることであり、そのような決裁が行われたとしても、裁量権行使の主体は、あくまでも当該行政処分を行う行政庁であり、上級行政庁となるわけではないのである。 (3) 以上を前提とすれば、法49条1項の異議の申出に対する裁決につきその取消しを求める訴訟は、対象の処分性を欠く不適法なものといわざるを得ないこととなり、前記(2)のとおり、退去強制令書発付処分につき効果裁量、時の裁量が認められていることによれば、退去強制令書発付処分の取消し等を求める訴訟において、退去強制事由の有無に加え、その裁量の逸脱濫用についても同処分の違法事由として主張し得ると解すべきである。このような解釈によれば、前記判示の解釈により法49条3項の法務大臣の裁決につき独立して適法に取消訴訟を提起することができなくなるが、法49条3項の裁決の取消訴訟で問題とされた法務大臣の裁量権行使の適否は、退去強制令書発付における主任審査官の裁量権行使の適否においてもほぼ同一の内容で審理の対象となるべきものであって、外国人が退去を強制されることを争う機会を狭めるものとはならない。むしろ、在留特別許可をするか否かの判断がたまたま法49条の裁決に当たってされるとの制度が採用されていることのみを捉え、本来全く別個の制度である在留特別許可の判断(法50条3項は、在留特別許可が、専ら退去強制事由に該当するか否かを判断してされる法49条の裁決とは本来的に異なる制度であることから、在留特別許可がされた場合には、あえて、それを法49条4項の適用につき異議の申出に理由がある旨の裁決とみなす旨を定めている。)の当否を法49条3項の裁決の違 決とは本来的に異なる制度であることから、在留特別許可がされた場合には、あえて、それを法49条4項の適用につき異議の申出に理由がある旨の裁決とみなす旨を定めている。)の当否を法49条3項の裁決の違法事由として主張し得ることを認めるという無理のある解釈を採用する必要がなくなるものである。 (4) そうすると、本件訴状の請求の趣旨において裁決の取消しを求める旨の記載が欠けていたことについて、仮に、原告の主張するとおり、請求の趣旨の脱漏であり、当初から裁決の取消しを求めるものであったと評価するとしても、同請求に係る訴えは、もとより、原告が追加的に申し立てた同裁決の無効確認の訴えもまた、行政事件訴訟法3条において取消しを求める対象として挙げられた処分その他の公権力の行使に当たる行為や審査請求、異議申立てその他の不服申立てに対する行政庁の裁決、決定その他の行為に該当しないものを対象としている点において不適法なものといわざるを得ないこととなる。 2 争点2(原告の難民該当性)(1) 原告の出身国情報証拠(甲11ないし甲13)及び顕著な事実(外務省ホームページ各国・地域情勢、ミャンマー政府/在日ミャンマー大使館公式ホームページビジネス情報・ミャンマーの歴史参照)によれば、原告の出身国であるミャンマー(ビルマ)の状況等については、以下の事実が認められる。 ア歴史的沿革ミャンマーにおいては、ネウィン将軍が昭和37年(1962年)のクーデターで民主的に選出された政権を覆し、ビルマ社会主義計画党を設立し、社会主義政権を維持してきた。その後、昭和63年(1988年)3月上旬に学生の先導によって大衆民主化運動が起こったが、この運動は当時の政権により激しい弾圧が加えられ、政治囚への拷問や虐待はエスカレートし、治安部隊によって約3000人が殺害されたと推 88年)3月上旬に学生の先導によって大衆民主化運動が起こったが、この運動は当時の政権により激しい弾圧が加えられ、政治囚への拷問や虐待はエスカレートし、治安部隊によって約3000人が殺害されたと推定されている。この民主化運動によって26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍は、同年9月にデモを鎮圧するとともに国家秩序回復評議会(SLORC)を組織し政権を掌握し、民主化運動を暴力的に弾圧した。これにより、何百人もの学生が反政府的な行動に加わったとして逮捕され、少なくとも43人の政治囚(実際の数はこれよりかなり多いと考えられている。)が、拷問や虐待、刑務所内の厳しい状態、不十分な医療、衛生、栄養状態により身柄拘束中に命を落としている。また、多数の若い活動家が近隣国に逃れた一方で、国内で闘争を続けようとした者もいたが、その多くが逮捕されることとなった。政権は国軍司令官タン・シェ将軍を頂点とし、国軍高官により編成され、同政権による支配は現在も続いている。 SLORCは、政権樹立と同時に、平成2年(1990年)に選挙を行うことを表明したものの、選挙の準備段階として政党の活動が活発化するにつれ、取締りを強化し、平成元年(1989年)7月には大規模な取締りに至り、NLDの指導者であるスー・チー女史をはじめ、何百人もの逮捕者が出た。学生たちも逮捕・投獄の標的とされた。 平成2年5月に選挙が実施され、スー・チー女史率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、SLORCは、民政移管のためには堅固な憲法が必要であるなどとして、国会を召集せず、政権委譲も行わないまま、平成7年(1995年)に至るまでスー・チー女史に対し国家防御法違反により自宅軟禁措置を課した。 平成8年(1996年)末には、5年ぶりに学生デモがヤンゴン、マンダレー及びその他の主要 ないまま、平成7年(1995年)に至るまでスー・チー女史に対し国家防御法違反により自宅軟禁措置を課した。 平成8年(1996年)末には、5年ぶりに学生デモがヤンゴン、マンダレー及びその他の主要な都市で連続して発生した。デモは、ヤンゴン工科大学の3人の学生に対する警察による暴行への抗議として10月に始まり、12月はじめまでにはヤンゴン大学の本キャンパスにまで広がって、2000人の学生及び少なくともそれと同じくらいの数の一般市民にまで膨れ上がった。最終的には武装した暴動警察と兵士が群衆を襲撃し、何百人も逮捕した。12月4日、政府は609人が拘留され、そのうちの487名は学生で122人は「煽動者」であるとする声明を発表した(平成9年(1997年)末の時点で、そのうちほぼ100人は拘留されていると考えられている。)。 デモの間、SLORCは、ヤンゴン、マンダレーなどの主要都市において大学から小学校までの全ての学校を閉鎖し、学生を強制的に帰省させた。 初等学校及び一部の中等学校は翌年7月ないし8月に再開されたが、ほとんどの高等学校、単科大学及び総合大学は、平成10年(1998年)1月時点ではまだ閉鎖されたままであった。SLORCは、その際の抗議集会等に関係した34名に対し、翌11年(1997年)1月に判決を下し、最短で7年の禁固刑が科された。 SLORCは、NLDが1990年選挙の7周年記念を迎えるために平成11年(1997年)5月27日に党大会を開催しようとしたのに対し、同党の300名を超える選出議員及びヤンゴン以外から参加した党員を拘束し、又は出席を阻止するために脅迫した。そして、平成10年(1996年)後半から自宅へ続く道路に軍事バリケードが設置されるなど、自宅外に出る自由や訪問を受ける自由を制限されていたスー・チー女史に対する自由の 出席を阻止するために脅迫した。そして、平成10年(1996年)後半から自宅へ続く道路に軍事バリケードが設置されるなど、自宅外に出る自由や訪問を受ける自由を制限されていたスー・チー女史に対する自由の制限をさらに強化した。 平成10年1月30日付けの米国国務省「各国人権情報」(甲11)には、「SLORCは、1993年、表向きは新憲法の草案作成を目的とする『国民会議』を設立した。SLORCは慎重に代表者の指名を行い、国軍関係者が圧倒的多数を占め、憲法会議の進捗過程を操作し、限定的な反対意見さえも度外視している。(中略)反政府的な表現を理由にした任意の逮捕および勾留も継続的に行われており、(中略)1990年の選挙で選出された31名の議員を含む数百名-それ以上ではないにしても-の政治犯が投獄されたままとなっている。1996年5月以降、少なくとも340名が政治的理由で逮捕・投獄され、その多くが年末の時点でも投獄されたままの状態であると考えられている。」との記載がある。 イ平成10年(1998年)1月の人権状況につき、前記米国国務省の文書(甲2)には、次のような記載がある。 1998年1月の時点において、国民は、国内のいかなる場所に居住する法的権利を有するものの、都市部、村落部の住民はともに強制移動の対象となっている。反政府暴動の起きている地域を除き、国民は国内を自由に移動することが可能ではあるが、地元当局に居場所を届け出なければならない。 市民権の制限条項に当てはまらない居住者(中国系、アルカン系、イスラム教徒その他)は移動に際し、事前に許可を得なければならない。政府は見込まれる海外旅行を綿密に調査している。そのため、汚職がはびこっており、多くの旅行申請者は旅券を取得するために多額の賄賂を支払うよう強制され、さもなくば旅券の取得ができな なければならない。政府は見込まれる海外旅行を綿密に調査している。そのため、汚職がはびこっており、多くの旅行申請者は旅券を取得するために多額の賄賂を支払うよう強制され、さもなくば旅券の取得ができない。旅券申請を審査する委員会は、政治的とみられる理由で申請を不許可にしている場合があった。 1998年1月30日現在において、SLORCは、言論、報道、集会及び結社の自由に関する基本的人権に対する規制を維持し、場合によっては強化している。NLDを合法的な政党と認めているものの、日常の政治活動を阻止し、政府は、明白な法的根拠のないまま国内各所の多くの党事務所を閉鎖した。 ウミャンマーにおける拷問の状況につき、平成12年(2000年)12月13日付けのアムネスティ・インターナショナル報告書(甲13)には、次のような記載がある。 ミャンマーにおいては、1988年の軍事政権成立以前の社会主義政権時代から、情報を引き出し、政治囚を処罰するための道具として拷問が日常的に使用されてきた。 当時の政治囚は、足かせをはめられ両手を縄で縛られた状態で殴打され蹴られたこと、つま先に電極を当てられ強い電気ショックを繰り返し加えられ、意識を失うまで強さを増加していったことを証言し、また、別の政治囚は、逮捕時に、当初、後ろ手に手錠をかけられ、拘留場所を知られないように頭部に袋を被せられていたこと、軍の情報員が入れ替わり立ち替わり一晩中尋問を続けたこと、情報を暴露させるために綱で縛られた両手を天井から吊され回転させられた(ヘリコプター)こと、つま先立ちの状態で半分かがんだ姿勢を作ること(オートバイ)を強いられ、その姿勢がいつまで続くのかと尋ねると「お前が慈悲を求めるまでだ。たぶん10分から15分と言うところだろう」と応じたこと、尋問が丸1か月に及んだことを証言し 姿勢を作ること(オートバイ)を強いられ、その姿勢がいつまで続くのかと尋ねると「お前が慈悲を求めるまでだ。たぶん10分から15分と言うところだろう」と応じたこと、尋問が丸1か月に及んだことを証言した。 1988年の民主化運動の後、軍情報部も前記と同様の拷問の方法を用いており、同じパターンの拷問が国中で行われてきたことは、40年以上にもわたって報告されている。治安部隊は、情報を引き出したり、政治囚や少数民族の人々を罰したり、軍事政権に批判的な人々に恐怖を植え付ける手段として拷問を用い続けている。 ビルマの軍政、国家平和発展評議会は、拷問は国内法に反していると主張し、一貫して拷問の事実を否定しているが、政治囚や少数民族が拷問や虐待を受けることが日常化しており、拷問を禁止した国内法に反するとして処罰された者はいない。 政治囚は、拘禁の初期段階において、軍の情報員が入れ替わり立ち替わり行う尋問中に、既に拷問の危険にさらされている。尋問は何時間も、時には何日間も続く。また、政治囚は、判決後も刑務所の定めた恣意的なルールを破ったとして罰せられる場合に拷問や虐待を受けやすい。 拷問被害者は、軍の情報員が初期の尋問で一貫して用いられてきた特有の拷問方法を報告しており、その方法には皮がむけるまで脛に鉄を当てて上下させる「鉄の道」、身体のあらゆる部分への「電気ショック」などがあり、軍情報部のセンターは、広範囲に国中に張り巡らされ、そこでは拷問が日常化している。政治的な理由によって逮捕されると、彼らはまずこうしたセンターに連れて行かれ判決を受けた後、全国43か所の刑務所のうちの20の刑務所のいずれかに移される。そして、状態は各刑務所により異なるが、いずれの刑務所でも囚人は残酷で非人道的、品位を落とすような処分を受けている。刑務所の看守は、ほとんど換 か所の刑務所のうちの20の刑務所のいずれかに移される。そして、状態は各刑務所により異なるが、いずれの刑務所でも囚人は残酷で非人道的、品位を落とすような処分を受けている。刑務所の看守は、ほとんど換気のない、また光の届かない小さなレンガ房に数週間か数か月も拘留する「タイクペイク」や様々な困難な姿勢を長時間強いる「ポンサン」を囚人を処罰する方法として用いている。 1988年の民主化運動への軍の暴力的な弾圧が始まって以来、少なくとも43人の政治囚が拘留中に命を落としているが、実際の数はこれよりもかなり多いと考えられ、拷問や虐待、刑務所内の厳しい状態、不十分な医療、衛生、栄養状態が特に高齢者や慢性的な病にさいなまれている囚人に拘留中の死をもたらしている。逮捕時には良好な健康状態にある囚人の中にも拷問によって死に至らしめられている者がいる。 (2) 原告の供述等の内容及びその信憑性評価ア原告の供述等の内容原告は、原告本人尋問、原告代理人作成の供述録取書(甲第3号証、甲第8号証及び甲第15号証)において、要旨、以下のとおり供述している。 (ア) 原告は、1965年(昭和40年)2月17日にビルマ国アウンラン市で生まれ、1970年(昭和45年)の小学校入学から1981年(昭和56年)の高等学校卒業までヤンゴン市内の学校に通い、1982年(昭和57年)から2年間ヤンゴン大学に、1984年(昭和59年)からヤンゴン工科大学に在学していた。 1987年(昭和62年)9月ころ、当時のビルマ式社会主義政府の政権党であるビルマ社会主義計画党(BSPP)は、インフレーションに対抗するために廃貨令という、それまで流通している貨幣を無効にする政策を行ったが、その方法があまりに乱暴で、庶民の持っている紙幣が紙切れになってしまうという問題が起こった。ヤンゴ インフレーションに対抗するために廃貨令という、それまで流通している貨幣を無効にする政策を行ったが、その方法があまりに乱暴で、庶民の持っている紙幣が紙切れになってしまうという問題が起こった。ヤンゴン工科大学内では、このような問題はビルマ式社会主義という体制自体が抱える問題であるという考え方から、ビルマ式社会主義に反対する学生運動グループが結成されて活動を開始し、原告も創設時からのメンバーとなった。 学生運動が起きたため、学内の試験が中止され、約1ヶ月間学校が閉鎖された後、1987(昭和62年)年11月に試験が行われ、原告は、1988(昭和63年)年1月にヤンゴン工科大学を卒業し、大学院へ進学するつもりでいたが、その学生募集を待つ間、ヤンゴン市内で飛行場建設関係の仕事に就いた。原告は、そのころ、日本からビルマに援助に来ている日本人と知り合い、日本語に興味を持ったので、ビルマ人と結婚しているD(又はD)という日本人女性に日本語を教えてもらうようになった。 (イ) ヤンゴン工科大学内部の学生運動は、原告が卒業した後も次第に高揚していった。1988年(昭和63年)3月12日の夜に町の有力者の息子とヤンゴン工科大学の学生が喫茶店で喧嘩するという事件が起き、その際、ヤンゴン工科大学の学生だけが逮捕されたことから、同大学の学生が騒ぎ始め、翌日、原告の高校の同級生で大学では後輩であったEが警察の発砲で射殺されるという事件があったため、さらに学生の怒りが増幅され、全国の大学で学生が集会やデモを行うという事態に発展した。同月16日にはヤンゴン大学の学生がヤンゴン工科大学での集会に参加するためにデモ行進しながら移動しているのを警察が道を封鎖して阻止しようとしたが、原告も、警察が学生たちを警棒で殴り始め、多くの学生が血を流して路上に倒れたり、湖の岸辺から ン工科大学での集会に参加するためにデモ行進しながら移動しているのを警察が道を封鎖して阻止しようとしたが、原告も、警察が学生たちを警棒で殴り始め、多くの学生が血を流して路上に倒れたり、湖の岸辺から湖の中に突き落とされ、その学生に警察隊が襲いかかったりする様子を職場からの帰宅途中に原告の家の近くで目撃した。原告もそこから逃げ出したが、その際、学生が死亡した。 (ウ) 原告は、そのような経緯から、自分も学生たちの民主化運動に参加しようと決意し、即日仕事を辞め、顔見知りのヤンゴン工科大学の学生たちに話をして、彼らをグループにまとめて活動していくように説いて、学生たちとデモや集会に参加するようになり、学内集会で演説したり、地元であるヤンゴン管区f区のリーダーとして学生を指示するような主導的な立場で民主化運動のために活動した。 (エ) 1988年(昭和63年)6月22日、原告らの学生運動グループ数百人がヤンゴン大学内にある広い場所において、集会をするとか、あるいは組織を作ろうとかいった話をしている際、ロンテインという治安部隊が学内に侵入し、集会参加者の身柄を拘束し、原告も逮捕され身柄を拘束された。その際、原告は、逃げようとしたが、盾で進路をふさがれ、1メートル近くある警棒で殴られて捕まった。原告は、頭を押さえられる状態で目隠しをされ、トラックに乗せられ、どこか分からない施設(方向などからインセイン刑務所であると推測され、釈放されるときにはインセイン刑務所であることが分かった。)に収容された。そこでは、10人くらいの定員の広さの部屋に30人くらいが押し込められ、翌日から1人ずつ呼び出されて取調べを受けた。連日12時間に及ぶ取調べが行われ、そこでは、「何をやっているか」、「これから何をやる予定か」、「仲間は何人か」「リーダーは誰か」「シュプレヒ 込められ、翌日から1人ずつ呼び出されて取調べを受けた。連日12時間に及ぶ取調べが行われ、そこでは、「何をやっているか」、「これから何をやる予定か」、「仲間は何人か」「リーダーは誰か」「シュプレヒコールの内容はどんなことか」「隣にいたのは誰か」「その隣にいたのは誰か」などの尋問を受けた。尋問は12時間連続して行われるのではなく、寝ることができないように、いったん居室に戻り少し眠くなったという感じの時にまた尋問に呼び出すというものであり、前で尋問している係官と後ろに立っている係官がいて、質問にすぐ答えなかったりすると、後ろの係官が後頭部を殴ったりし、身柄拘束の間には食べ物も十分に与えられなかった。 逮捕された者の親のところには、警察や地区評議会などを経由して連絡が行き、親が警察に対して、今後は政治・民主化運動に参加させないという念書を書いた者から釈放された。原告の両親もその念書を書き、原告は、約1週間後である同月30日に釈放された。 (オ) ビルマにおける民主化運動は、その後も高揚を続け、1988年(昭和63年)8月に最高潮に達し、学生だけでなく市民も含めて、全国で民主化を求めるデモ、集会が行われるという事態に至った。原告は、釈放後も民主化運動を続け、新聞を出したり、ビラを配ったり、デモをやろうと相談したりし、7月ころからはデモを行ったが、7月22日か24日のデモの際、デモのルートにある警察署から発砲を受けた。また、同年6月ころから学生が集まってされた全ビルマ学生連盟(ABFSU)の結成に関与した。原告は、ヤンゴン工科大学の学生組織をまとめる活動をし、その他の大学の学生組織と合流して、同年8月にはABFSUの結成に至ったものである。同年の8月の中旬くらい(陳述書においては7月の終わりないし8月のはじめとされている。)には、スー・チー 活動をし、その他の大学の学生組織と合流して、同年8月にはABFSUの結成に至ったものである。同年の8月の中旬くらい(陳述書においては7月の終わりないし8月のはじめとされている。)には、スー・チー女史宅の警備をしていた知り合いの学生を通じて、他の学生たち4、5人とともにスー・チー女史に会いに行き、武器を取って戦いたいという話をしたが、そういうことは絶対にするべきではないと強く言われた。 しかし、同年9月18日に国軍による全権掌握の事態となった。原告は、その翌日の19日にも中学生や高校生のデモに加わった際に発砲を受けた。軍部は、民主化運動の参加者の逮捕に乗り出し、ABFSUのメンバーも次々と逮捕された。 原告は、軍事政権の成立直後である同年10月初めに逮捕される危険を感じ、また、武器を取って戦いたい気持ちがあったため、ABFSUのメンバーであり一緒に学生運動をしていた他の学生4名とともにインド国境の山岳地帯に逃げ出した。9月18日直後には、多くの学生がタイビルマ国境に逃げ出したが、10月になるとその方面は警戒が厳しくなり、途中で見つかると殺されてしまう様な状況であったため、原告の両親の故郷があり土地勘があるビルマ北部に逃げることにした。 原告らは、ヤンゴンからマンダレーまで列車で行き、マンダレーから原告の両親の故郷に近い町であるgまでは自動車で行った。gからは河をボートで遡航してhという町に行き、それから徒歩で1週間かけて国境のiという町に着いた。そこから、川を徒歩で渡って軍事政権が追って来られないインド国内に逃げ込んだ。国境を越えると、インドの官憲がいて、jという町の郊外にインド政府が設置した難民キャンプに連れて行かれた。そこには、ビルマから逃げてきた学生民主運動の活動家数百名がいた。そこで、インド政府から支給されるわずかな米 インドの官憲がいて、jという町の郊外にインド政府が設置した難民キャンプに連れて行かれた。そこには、ビルマから逃げてきた学生民主運動の活動家数百名がいた。そこで、インド政府から支給されるわずかな米や豆を食べながら、自分たちで竹を切って柱や床を組み、シュロなどの大きな葉で編んで屋根を作って建てた建物で生活した。 原告らは、武器を調達して軍事政権と戦うつもりであったが、武器の調達はできない状況であった。その上、難民キャンプ付近は山岳地帯であり、10月を過ぎるととても寒かったが毛布や服の支給がなかったため、原告は、12月ころには健康を害するに至り、ビルマに戻ることにした。1988年(昭和63年)の年末から1989年(平成元年)初めにかけて、一緒に来た他の4人にもう1人の友人を加えた6人でヤンゴンに戻ってきた。 原告は、逮捕される恐怖心から自宅に帰ることはできず、学生活動に理解のある僧侶を頼ってヤンゴン市内の僧院などで潜伏生活を続けつつ、秘かに医師の治療を受けて健康を回復し、友人を介して両親にヤンゴンに戻ってきたことを伝えたものの、その後も両親との連絡は友人を介して行った。 (カ) 原告は、潜伏生活を強いられながらも、全ビルマ学生連盟のリーダーであるFやG、一緒にインド国境に逃げたHとともに民主化運動を続けた。原告は、1989年(平成元年)1月には、スー・チー女史の母の逝去を悼む追悼大会に参加したり、その後も反政府活動のビラを配ったり、迫害を受けた学生らの消息を求めたりした。 FとHは、ヤンゴン市内のkという町に出かけたときに捕まってしまった。原告は、Fは、今も刑務所におり、Hは、7年くらい刑務所にいた後釈放され、オーストラリアに逃げたと聞いている。また、原告が後記(ク)のとおり我が国に出国した後、原告の友人であるI、J及びKの3名も 。原告は、Fは、今も刑務所におり、Hは、7年くらい刑務所にいた後釈放され、オーストラリアに逃げたと聞いている。また、原告が後記(ク)のとおり我が国に出国した後、原告の友人であるI、J及びKの3名も捕らえられ、このうち、Kは現在も刑務所におり、他の2人は釈放されてオーストラリアで難民の認定を受けたと認識している。 (キ) 軍事政権は、政権掌握後、政党の登録を始め、1990年(平成2年)5月に総選挙を実施するということを発表したため、Gらが中心となってDPNS(新社会を作るための民主党)という政党を作って、選挙のための準備活動を始めた。原告は、逮捕歴もあり、今後は地下活動をしようという気持ちがあったため、正規の党員として登録をしなかったが、学生たちを相手に、同党の宣伝活動を行った。DPNSは選挙の際、1議席を獲得したが、総選挙の後解散させられた。Gらは、タイビルマ国境に逃げ、国境地帯の学生組織であるABSDFに合流した。 (ク) 原告の両親宅(lmn YANGON)は、学生街にあったこともあり、ビルマの軍情報局(MI)の監視下にあり、原告が潜伏生活をしている間にも、MIの者が4、5回実家を捜索に来て家中を探し回ったことから、原告の両親、特に母親は、原告が逮捕されることをおそれ、外国に逃げるように勧めた。そして、実際にパスポートの取得等に要する費用を出してくれた。そこで、原告は、1989年(平成元年)の8月か9月ころに内務省特別調査局に対しパスポートの交付申請をした。その役所では、正規にパスポートの発給業務を行っている役人が賄賂を取ってパスポートを発給しており(そのためその役人はブローカーと呼ばれている。)、原告は、ブローカーに賄賂2万チャットを支払い、そのブローカーがMIによる調査をおそれて偽の生年月日(1965年1月17日生まれ、 トを発給しており(そのためその役人はブローカーと呼ばれている。)、原告は、ブローカーに賄賂2万チャットを支払い、そのブローカーがMIによる調査をおそれて偽の生年月日(1965年1月17日生まれ、実際は同年2月17日生まれである。)で申請をするように言ったため、偽の生年月日でパスポートを申請した。当時は、反政府活動歴があっても賄賂を払えばパスポートが発給された時期であり、申請に必要な国民登録証も入国管理局の役人に2、3000チャットの賄賂を払って偽の生年月日のものを偽造してもらった。そして、1989年(平成元年)10月ころにはパスポートを入手した。 その一方で、原告は、前記(ア)のとおり以前日本語を習っていた日本人女性(名前はD又はD)にビザ取得のための援助をしてもらい、在ビルマ日本大使館から日本への入国ビザを取得し、1989年(平成元年)11月14日にビルマを出国し、タイのバンコクで3泊し、同年11月18日に新東京国際空港に上陸した。 (ケ) 原告は、ビザの取得に協力してくれた日本人女性から、川崎市の日本人学校の紹介を受け、そこに通って在留資格を就学に変更したらどうかと言われたが、日本人学校入学の資金がなく、栃木県の溶接工場で働くことになった。その後、東京に戻り、そば屋で働くようになったが、そのころまではビルマ人と知り合うこともほとんどなく、日本語もほとんどできず、難民申請という制度の存在すら知らなかった。 (コ) 原告は、1992年(平成4年)夏ころにビルマでの学生運動時代からの知人であるLから、在日ビルマ人協会という団体があり、そのメンバーのMらが中心となって、民主化を求める在日ビルマ人の集会が熱海で開かれるということを聞き、それに参加した。それが、原告の日本での民主化運動参加の始まりであった。しかし、その後、在日ビルマ人協 ンバーのMらが中心となって、民主化を求める在日ビルマ人の集会が熱海で開かれるということを聞き、それに参加した。それが、原告の日本での民主化運動参加の始まりであった。しかし、その後、在日ビルマ人協会は在日ビルマ人の互助会のようで、政治団体であると感じられなくなったため、たまに誘われてデモや集会に参加したり、国境地帯の学生たちに資金カンパしたりするだけで、それ以上の関与をすることもなかった。 (サ) 1995年(平成7年)春ころ、在日ビルマ人の知人Nの兄であり、在学当時面識はなかったがヤンゴン大学の後輩でもあり、その後、アメリカに逃れて難民認定を受けているOが来日し、民主化運動をして米国に逃れた学生のメンバーが中心となってビルマ民主学生連盟(DBSO)を結成したので、日本でも結成したらどうかと勧めたため、原告らが中心となり、日本でもビルマ民主学生連盟(DBSO)を結成した。 (シ) その後原告は、DBSOの中心メンバーとして、在日ビルマ大使館に対する抗議デモをしたり、日本の大学に行ってビルマの民主化運動のことを説明したり、依然として国境地帯に残っていた元学生たちに対する送金活動などを行った。 (ス) 1996年(平成8年)始め、スー・チー女史率いるNLDの指導者の一人で、当時はアメリカにいたウィン・ケNLD-LA議長が来日し、日本でもきちんとした政党を結成して活動するように指示したため、原告やPが中心となって、NLD-LA日本支部を結成した。Pが同支部の代表になり、原告は、労働問題担当の役員、書記長、青年学生担当の役員などを歴任し、在日ビルマ大使館に対する抗議デモのほか、日本の大学に行ってビルマの民主化運動のことを説明したり、日本の政治家・国会議員にビルマの民主化運動に対する支援を求める陳情をしたりした。 (セ) 原告は、上記(サ)な 大使館に対する抗議デモのほか、日本の大学に行ってビルマの民主化運動のことを説明したり、日本の政治家・国会議員にビルマの民主化運動に対する支援を求める陳情をしたりした。 (セ) 原告は、上記(サ)ないし(ス)のように、積極的に活動を始める前の1994年(平成6年)ころ、匿名で日本のMXテレビに出演し、ビルマ大使館が在日ビルマ人から税金を徴収しているという問題を告発していたが、NLD-LA日本支部の活動を開始した後は、積極的にテレビやラジオに出て同支部の主張を訴えようという考えに至り、実名を明かして、米国のビルマ語放送(レディオフリーエイシア(RFA)・VOA)や英国BBCのビルマ語放送、原告の高校時代の同級生が担当しているノルウェーのビルマ語放送などで、日本におけるビルマ民主化運動の活動状況を述べたり、軍事政権に対する批判を強い口調で展開したりした。そのほか、NHKテレビやTBSテレビが日本のビルマ人の民主化運動を紹介する番組を放映した際にも、他の仲間とともに出演してインタビューに答えたりした。このように匿名から実名に転換したことについては、初めにMXテレビに出た際には、未だ在日ビルマ大使館に反政府側の人間として把握されていないのではないかと考えて匿名で出演したものの、その後、在日ビルマ大使館前で頻繁にデモを行うようになり、自分の顔や名前などは在日ビルマ大使館も把握しているであろうと考え、顔や名前を出すことに躊躇がなくなったことによるものである。 (ソ) 原告は、来日してから1995年(平成7年)ころまでは、間もなくビルマが民主化されて、自分が帰れるような状況になるだろうという気持ちから、パスポートだけは有効なものを持っていたかったことと、大使館に個人的な知り合いがいたため、両親を通じてその知人に頼んで、知人の便宜のもとパスポートの が帰れるような状況になるだろうという気持ちから、パスポートだけは有効なものを持っていたかったことと、大使館に個人的な知り合いがいたため、両親を通じてその知人に頼んで、知人の便宜のもとパスポートの更新をしていた。原告は、そのころまでは日本でほとんど反政府活動をしていなかったし、ビルマで政治活動をしていたといっても有名な活動家だというわけでもないので、国外の大使館まで名前が把握されているとは思わなかったためである。しかし、1995年(平成7年)以降は、DBSOを結成し、活発に民主化運動をするようになったので、同年10月を最後にパスポートの更新を受けるのをやめた。パスポートの更新日付は1996年(平成8年)4月になっているが、原告は、パスポート期限の切れる1995年(平成7年)10月以前にパスポートを大使館員である知人に渡しており、翌年4月までその知人がパスポートを持っていたか、大使館に保管されていて、4月以降に、その知人から原告に送られてきたものと思われる。原告が在日ビルマ大使館に税金を払っていなかったため、その知人がパスポートの更新に苦労したのではないかと思われる。 (タ) 1995年(平成7年)秋にはDBSOが中心となってヤンゴン大学75周年記念集会を代々木の青少年センターで行ったが、原告が実名を明かして司会を行い、その模様はVOAやBBCのビルマ語放送によって広く報道された。同集会は、ヤンゴン大学75周年記念集会という名目ではあるが、実際には、1988年(昭和63年)の学生運動を記念するような集会であった。 原告は、1999年(平成11年)に在日ビルマ大使館が主催したビルマの舞踊団の日本でのコンサートに抗議活動にいった際、MIと思われるビルマ大使館員から抗議活動の様子を写真に撮られ、また、2000年(平成12年)に軍事政権の 1年)に在日ビルマ大使館が主催したビルマの舞踊団の日本でのコンサートに抗議活動にいった際、MIと思われるビルマ大使館員から抗議活動の様子を写真に撮られ、また、2000年(平成12年)に軍事政権のキン・ニュン第1書記が来日した際には、ビルマ大使館前で抗議活動をしている姿を写真に撮られた。 (チ) 原告は、在日ビルマ人協会会長であるQが難民認定を受けたという話を聞いたときに難民認定制度の存在自体は知ったが、そのころは、どういう手続で難民認定申請をするのか知らなかったし、民主化されたらビルマに帰りたいという気持ちがあったので、難民認定申請の手続を知りたいという気持ちにもならなかった。DBSOとして活動していた1995年(平成7年)ないし1996年(平成8年)ころには、他の民主化運動の仲間から、彼らが難民認定申請をしているということを聞いたが、原告らDBSOのメンバーは、民主化運動をするのは在留資格が欲しいからではないという気持ちがあり、また、難民認定を受けること自体を批判されることもあったことから難民認定申請を控える方針であり、それに従っていた。しかし、その後、1996年(平成8年)秋に、DBSOのメンバーであるRとSが不法残留で捕まり、強制送還の危機にさらされ、また、同年12月にビルマで学生運動が弾圧され、依然として帰国すれば危険であると再認識したこともあって、1997年(平成9年)2月3日に難民申請をした。 (ツ) 原告の父は、日本の文部科学省に当たるような教育省の中等教育局カリキュラム編成課長であったが、原告の出国後、1989年(平成元年)と1991年(平成3年)にMIに連行され、一晩泊められて、原告がなぜビルマを離れたのか、外国で何をしているのかなどについて尋問を受けた。また、原告の活動を理由に1989年(平成元年)に免職となっ )と1991年(平成3年)にMIに連行され、一晩泊められて、原告がなぜビルマを離れたのか、外国で何をしているのかなどについて尋問を受けた。また、原告の活動を理由に1989年(平成元年)に免職となった。このことは、原告の父が原告の友人に手紙を出して知らせてくれた。その後は家族と連絡が取れないため、MIが来ているか来ていないかは不明である。 イ原告供述の信憑性(ア) 客観的事実との符合の有無a 前記ア記載の原告の供述内容と前記1で認定した出身国情報は、昭和63年(1988年)3月上旬に学生の主導により民主化運動が起こった点、その運動には激しい弾圧が加えられ、多数の者が殺害されたとする点、同年9月の国軍による政権掌握後、多くの学生が逮捕され投獄され、何千という若い活動家が近隣の国に逃れたという点、その後、選挙の準備のために政党の活動が許容されたが、選挙の前に大きな取締りがあり、仲間が逮捕されたという点、選挙後にも民主化を望む活動家に弾圧が加えられ、多くの者が逮捕されたという点、平成8年(1996年)に学生によるデモが起こったという点等において概ね一致している。原告が書証として提出した出身国情報は、ビルマで民主化運動に関心をもっている者であれば容易に知り得る内容で、また、海外においても広く入手が可能な情報である上、その情報を記載した書証(甲第11号証ないし第13号証)は、供述録取書の作成日や当裁判所における他の同種事件の書証の提出状況にかんがみれば、原告の供述録取書の作成や証人尋問の実施前に原告代理人において入手はされていたものと推認されるものであるから、原告の供述の信憑性評価において決定的な裏付け(例えば秘密の暴露が存在するといったようなもの)となるものということはできないが、客観的情報との不一致という消極的な評価を受けることは ものであるから、原告の供述の信憑性評価において決定的な裏付け(例えば秘密の暴露が存在するといったようなもの)となるものということはできないが、客観的情報との不一致という消極的な評価を受けることはないという点において、原告の供述の信憑性を裏付ける上で有意な事項であるといえる。 b また、原告は、その本人尋問において、ヤンゴン市内の地図を用い、自らのデモ行進の目撃の場所や、自らがデモ行進に参加し発砲を受けた場所についての地理的説明を行い、また、ミャンマー全土の地図を用いて自らが昭和63年(1988年)10月にインドに逃走した際の経路について説明を行っており、その説明内容は、その地図の客観的記載内容との間で齟齬なく行われている。ヤンゴン市内やミャンマー国内の地理的状況も、ヤンゴン市内やミャンマー国内に住んだことがある者であれば、当然に把握していてしかるべきものであるから、これも原告の証言の信憑性を基礎付ける決定的な材料となり得るものとまではいえないが、客観的事実と齟齬するという消極的評価を受けないものであるということはできるし、その内容が具体的なものであり、かつその際の供述態度が誠意に満ちたものであったことについては、一定の積極的材料ともなり得るものというべきである。 c 甲2号証の1及び2のビルマジャーナル誌2003年3月号には、Tという人物が基礎教育省の科学支部長であり、同人が昭和63年(1988年)の民主革命運動勃発時に基礎教育省本部のストライキ委員に参加していた9人のうちの1人であり、運動終結の際には省内の書類を持ち出したとして3人の要注意人物の中の最先端となっていた旨の記載があり、乙第3号証及び第5号証中には、原告の父親の名前は、Tである旨の記載があるところ、前記ビルマジャーナル誌の記載内容は、原告の自らの父の職業等に関す 要注意人物の中の最先端となっていた旨の記載があり、乙第3号証及び第5号証中には、原告の父親の名前は、Tである旨の記載があるところ、前記ビルマジャーナル誌の記載内容は、原告の自らの父の職業等に関する供述部分の内容とほぼ一致しており、原告の供述内容を基礎付けるものと評価し得る。そして、同証拠中、原告の父も民主化運動に関与していたとの記載は、原告が積極的に民主化運動に参加したことも不自然ではないことをうかがわせるものである。 d また、甲第6号証及び甲第7号証の内容によれば、日本において、ヤンゴン大学ダイアモンド・ジュビリー(創立七五周年記念大会)が行われたこと、原告が日本の国会議員や大学生と会談したり、デモ行進に参加していることについて、客観的事実と一致していることが認められる。 e 乙第24号証ないし34号証によれば、Bという人物が、平成3年(1991年)10月12日に本邦に就学の在留資格で入国し、以後5回の在留期間の更新及び2回の在留資格の変更を受け、その最終期限である平成8年(1996年)12月20日を超えて本邦にとどまり、平成15年7月24日に退去強制令書の発付を受け、同年8月13日にミャンマーに向け送還されたこと、原告が平成10年5月14日にした外国人登録の居住地が前記Bの平成6年11月10日以降の外国人登録上の居住地と同一であり、原告の外国人登録の世帯主の氏名がBとなっており、原告の外国人登録の国籍国における住所とBの外国人登録の国籍国における住所が一致していること、原告が難民認定申請書の家族構成欄に姉妹としてBとの記載をし、また、原告が同申請書や当裁判所における尋問の際に話した父の名前と前記Bが退去強制手続の際に供述した自らの父親の名前が一致することが認められる。また、乙第38号証ないし第45号証によれば、Cという人 た、原告が同申請書や当裁判所における尋問の際に話した父の名前と前記Bが退去強制手続の際に供述した自らの父親の名前が一致することが認められる。また、乙第38号証ないし第45号証によれば、Cという人物が、平成7年(1995年)12月11日に本邦に短期滞在の在留資格で入国し、在留期間の更新や在留資格の変更を受けずに、在留期限である平成8年(1996年)3月10日を超えて本邦にとどまり、平成11年6月8日に収容令書及び退去強制令書の発付を受け、同月11日にミャンマーに向け送還されたこと、Cもまた平成7年12月13日に原告の外国人登録上の居住地と同一地を居住地として外国人登録を行っていること、原告の外国人登録の国籍国における住所とCの身分証明書及び前記外国人登録の国籍国における住所が一致していること、原告が難民認定申請書の家族構成欄に姉妹としてCとの記載をし、また、原告が同申請書や当裁判所における尋問の際に話した父の名前と前記Cの身分証明書に記載された父親の名前が一致することが認められる。 被告らは、これらの事実に基づいて原告とB及びCとが姉弟と兄妹の関係にあり、姉や妹が来日したことはないという原告の供述は事実に反すると主張する。 しかし、甲第8ないし第10号証によると、原告の姉であるBは、被告らが指摘するBとは別人物ではないかとうかがわれるところであり、被告らの上記主張はBに関する限り、その裏付けが不十分といわざるを得ない(なお、被告ら提出に係るBの供述調書(乙33、34)は平成15年7月中に作成されており、同女は同月22日から退去強制されて同年8月13日まで収容されていたことが認められるところ、被告らは、同年7月11日に行われた原告本人尋問の際に、既に原告と同女との関係について疑問を有していたことは同尋問の内容から明らかである れて同年8月13日まで収容されていたことが認められるところ、被告らは、同年7月11日に行われた原告本人尋問の際に、既に原告と同女との関係について疑問を有していたことは同尋問の内容から明らかであるから、同女について上記のような資料が得られた以上、速やかに当裁判所と原告にこれを示し、証拠保全等によって事実関係を確認する機会を与えるべきであったと考えられるのであり、このような措置を講じないまま、同女が帰国した後に至って自らが得た資料のみを提出した被告らの訴訟活動は不相当なものといわざるを得ない。)。その上、原告は、当初の難民認定申請時から、自己の居住地の世帯主がBであり、自己がその弟である旨の記載のある外国人登録原票の写し(乙4)を入管当局者に提出しているところ、原告はこの点については同地に真に居住するものではなく、形式上そこに登録したにすぎず、世帯主はたまたま姉と同名であったというだけで、同居人として登録する方便として弟と記載したと弁解しており、被告ら主張のBもまた原告との家族関係を否定していることや、上記のような資料(乙4)を自ら提出しながら、何ら躊躇なく姉妹の来日の事実を否定する供述をしていたことからすると、むしろ、原告の弁解は信用するに足りるものと考えられる。 そして、被告ら主張のCは、同主張に係るBの妹であるとしながら、原告との家族関係は否定していることと、上記のとおり、被告ら主張のBと原告との姉弟関係があるとは認め難いことに照らすと、上記Cと原告との兄妹関係も認め難いといわざるを得ず、結局、被告らの上記主張は採用できない。 また、仮に、これら両名と原告との家族関係が肯定できたとしても、姉妹より前に本邦に入国していた原告も不法就労の目的で入国したとか、日本での就労を継続するために難民認定申請を行ったとするのはあまりに早 た、仮に、これら両名と原告との家族関係が肯定できたとしても、姉妹より前に本邦に入国していた原告も不法就労の目的で入国したとか、日本での就労を継続するために難民認定申請を行ったとするのはあまりに早計であるし、Bの入国時期が平成3年10月であって、Cの入国時期が平成7年12月であり、原告の平成元年11月よりも約2年以上後であることにかんがみれば、原告が不法就労目的ではなく、迫害を逃れるために本邦に入国したものと仮定しても、その後、原告が本邦で一定の生活基盤を築いたことから、姉や妹が不法就労を行うために本邦に入国したという可能性も十分あり得るところである。そうであるとした場合、原告が難民であるにもかかわらず、姉妹が不法就労目的で来日していることによって自らも不法就労目的であるとの認定がされることをおそれて、姉妹の来日の事実を隠蔽したとしても、そのこと自体には合理的な動機があるといえ(現に、Bも東京入管職員の調査に対して、自らが原告と姉弟関係にあることすら否定している。)、前記の供述の客観的事実との不一致が、直ちに、原告の供述の信憑性を阻却し、原告の申請を却下すべきとの結論に至るものではないというべきである。また、姉妹の来日の事実そのものは、原告の難民性、すなわち原告に迫害を受ける恐れを抱く十分に理由のある恐怖が存するか否かを評価するに当たってはさほど重要な事実ではないというべきであり、その点を考慮すれば、前記の原告の供述の客観的事実との不一致によって原告の供述の信憑性が減殺される程度は著しいものとはなり得ないというべきである。 (イ) 内容の自然さ・合理性の有無原告の供述は、全体を通じ、その内容において概ね自然で合理性を有するものといえる。特に、原告が自宅近くで学生が警官から襲撃を受けるところを目撃し、即日会社を辞めて民主化運動 の自然さ・合理性の有無原告の供述は、全体を通じ、その内容において概ね自然で合理性を有するものといえる。特に、原告が自宅近くで学生が警官から襲撃を受けるところを目撃し、即日会社を辞めて民主化運動に加わろうとした心情やデモに参加して発砲を受けた際の状況、身柄を拘束され、その後厳しい取調べを受けた際の状況は、それを受けたものでなければ語り得ないと思われる迫真性のある供述がされているといえる。被告は、原告が本国での迫害をおそれ一時インドに逃れ、インドに3か月ほど滞在したものの、体の不調を来して帰国したなどと、本国政府から迫害を受けてインドに逃れた者とは考えられない供述である旨指摘するが、インドに逃れる際の経路やインドからヤンゴンに帰国した後に僧院に身を潜め生活したことに関する供述は、一定程度詳細なものであるから、インドに逃れる前後の経緯は自然なものといえ、インドに逃れたこと自体を否定することは困難であるし、インドから帰国する動機についても、インドの寒い気候の影響で体調を崩したことに加え、インドに滞在しても自らが考えていた武装闘争を行うための武器の入手が困難であったことをも理由として挙げており、武装闘争をも辞さないとの覚悟をしていた者であれば、インドに滞在しても先行きが不透明である上、体調を崩したとすれば、多少の身の危険の可能性があっても、状況を変えるために危険を承知で帰国をしたとしてもさほど不自然なものとはいえないというべきである。 (ウ) 供述の一貫性の有無原告の供述は、父の本邦入国の有無について、本人尋問の主尋問と再主尋問においてその供述内容が変化し、また、原告が昭和63年(1988年)8月にスー・チー女史と面会したとの供述も、難民認定手続においては、全く供述がされておらず、原告代理人作成の供述録取書や原告本人尋問に至り供述 供述内容が変化し、また、原告が昭和63年(1988年)8月にスー・チー女史と面会したとの供述も、難民認定手続においては、全く供述がされておらず、原告代理人作成の供述録取書や原告本人尋問に至り供述がされるなど、必ずしも全てについて供述が一貫しているものではないといわざるを得ない。 しかし、父の入国に関する点についていえば、仮に父が本邦に入出国をしていたからといって、その事実自体が原告の難民性評価に重要な意味を持つ事項ではないから、このような変遷があったからといって、そのことが原告の難民性に関する供述の信用性を大きく損なわせるものではないし、原告は、当初父の来日の事実を秘していたのは、以前交際していて現在は交際が終了してしまった女性について法廷で言及するのは本意ではなく、父の来日の事実を話せばその女性について言及せざるを得ないことからそれについて虚偽の供述をした旨述べたものの、反対尋問の直後、再主尋問に先立ちごく短時間の休廷中に原告代理人とその供述を行うのか否かを打ち合わせした上(当裁判所に顕著な事実)、父の来日の事実があったこと、虚偽の供述をしたこと及びその理由が前記のとおりであることを明確に述べているものであり、その理由は、供述の経過等にかんがみ十分信用し得るし、合理的なものであるといえる(我が国の文化にかんがみれば、交際が終了した女性について公開の法廷での供述をすることを躊躇することには、その合理性に疑問が生じないでもないが、この点について供述を求められた際、当初頑なに供述を拒んだ原告の供述態度に照らせば、原告がそのように考えていたことには、疑問の余地がない。)。また、スー・チー女史との面会を供述しなかった点についても、原告として、申請書において自らが逮捕された事実を記載し、その後の難民調査官の調査においても身柄拘束を受け ことには、疑問の余地がない。)。また、スー・チー女史との面会を供述しなかった点についても、原告として、申請書において自らが逮捕された事実を記載し、その後の難民調査官の調査においても身柄拘束を受けた事実を詳細に供述していることから、原告において、自らが受けた最も重大な態様での迫害については供述したものと考えて、スー・チー女史と面会したことを供述しなかったとしても、さほど不自然とはいえないし、原告の供述によれば、スー・チー女史との面会の際には、原告らが特に約束もなく面会を求め、武装闘争を提案したことに猛反対を受けたというものであり、原告としてその事実を積極的に表に出すことが、自らに不利に働くと考えても不思議とはいえない。また、難民認定申請書の申請者記載の欄は、申請者の全ての経歴を記載するにはいかにも狭小なものというべきであり、原告が自らが最も主要な迫害を選別して述べた上、その余の事実については記載を行わなかったからといって、そのことから当該供述で述べた以外の事実が存在しないとか、概括的に記載した事実から詳細な事実を述べた際に、後になって突如新たな事実を主張したものと評価するのは妥当ではないというべきであるし、被告らは、前記のとおり自らの調査義務を否定しており、申請者が示した事実のみに基づいて調査を進めている以上、申請書に記載されなかった事実について、調査で言及されないこともむしろ当然のことというべきである(なお、原告と同じくミャンマーから逃れて我が国で難民認定申請をしたものの、一旦不認定処分を受けた後に、改めて難民認定を受けるに至ったUもまた、難民認定手続において当初の調査時においては、NLDに迷惑がかかることを恐れて、スー・チー女史に面会に行ったが会えなかったと述べ、その後に面会の事実を供述するに至ったところ、同人に対する当裁判 た、難民認定手続において当初の調査時においては、NLDに迷惑がかかることを恐れて、スー・チー女史に面会に行ったが会えなかったと述べ、その後に面会の事実を供述するに至ったところ、同人に対する当裁判所においての本人尋問後、面会の際の様子に関する同人の供述が信用するに足りることも一事由として、難民認定がされるに至っており、これらは当裁判所に顕著な事実である。)。 (エ) 小括以上によれば、原告の供述には、両親の来日の点で変遷が存し、スー・チー女史との面会の事実について難民認定手続で述べていないことが存し、その供述の信憑性に全く問題がないということはできないものの、前記のとおり、供述の変遷はいずれも原告の難民該当性の認定とは直接関係がないものである上、変遷に合理的な理由が存し、その理由を考慮すれば、原告の供述全体の信用性を揺るがすものとはいえないものであるというべきである。そして、本邦入国前に民主化活動に参加し逮捕された経歴があること、本邦入国後も本邦において積極的に民主化活動に取り組んでいることについて、その内容は一貫しており、その内容も客観的事実と一致した合理的なものであるといえるものであるから、原告の供述のうち、少なくともそれらの部分については、原告が難民であることや難民認定手続の特殊性等の原告が主張する事由を考慮するまでもなく、仮に、被告らのいうように、通常の訴訟手続における証人尋問や本人尋問における供述の信用性の評価と同様の手法に立って評価した場合においても、信憑性が存すると認められ、前記(1)記載の原告の供述内容のとおりの事実が認められるというべきである。 (3) 原告の難民該当性ア前記2のとおり、原告には前記2(1)記載の事情が認められるところ、それによれば、原告は、ミャンマー出身で、現在日本に在留し出身国の外に が認められるというべきである。 (3) 原告の難民該当性ア前記2のとおり、原告には前記2(1)記載の事情が認められるところ、それによれば、原告は、ミャンマー出身で、現在日本に在留し出身国の外にあるものであり、昭和62年(1987年)ころから、ビルマ式社会主義に反対する学生運動グループのメンバーであり、昭和63年3月からは民主化グループのメンバーとして主導的に活動をしていたものであって、同年6月には、大学内で集会を行った際に身柄を拘束され、1週間ほど厳しい取調べを受け、その後、一旦釈放されたものの、民主化運動を続け、スー・チー女史と面会するなどしたが、同年9月18日の国軍による全権掌握の後、民主化運動の参加者の逮捕を逃れるため、インド国境に逃げ、その後、体調を崩してヤンゴンに戻り潜伏しながら民主化活動をしたものの、仲間が逮捕され、原告の自宅も数回にわたり捜索を受けたことから、平成元年(1989年)11月18日に、両親の勧めで本邦に向け出国し、本邦入国後もDBSOやNLD-LA日本支部のメンバーとして民主化活動を行い、日本のテレビや世界各国のビルマ語放送などに実名を明かして出演していることなどが認められるところ、これに加え、本件不認定処分時である平成10年8月25日ころの出身国の状況等を加味すれば、原告は、本件不認定処分時において、政治的意見を理由に拘束された上、拷問を受け、場合によっては命を落とす可能性があり、政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖が存したものと認められる。 イ被告らは、原告が有効な旅券の発行を受け、何の問題もなく出国していること、ミャンマー大使館員の息子の出迎えを受けたこと、ミャンマー大使館において旅券の更新を受けていること、本件不認定処分当時、本国の両親が平穏に生活しており、 発行を受け、何の問題もなく出国していること、ミャンマー大使館員の息子の出迎えを受けたこと、ミャンマー大使館において旅券の更新を受けていること、本件不認定処分当時、本国の両親が平穏に生活しており、一度来日して無事に帰国していることなどを主張し、ミャンマー政府が原告を迫害の対象としているとはおよそ考え難い旨主張する。 まず、原告が有効な旅券の発行を受けた点については、原告は、ブローカーに多額の現金を支払って無事にそれらが行えるように手配した旨の供述をしており、原告の供述が全体として信憑性を持つものであることは、前記2のとおりであり、その点についての供述内容は、賄賂の授受により旅券が発行されるからくりやブローカーからの指示の内容など極めて詳細なものとなっている上、旅券の発行について汚職が横行しており、多くの旅券申請者が旅券を取得するために多額の賄賂を支払うよう強要されていることは、米国国務省作成の各国人権情報(甲11)にも記載されているところであるから、原告の旅券の交付に関する供述は信用し得るものであるといえるところ、その説明を前提にすれば、旅券の交付を受けたことが原告の難民該当性を覆す事由とはなり得ない。 そして、原告がミャンマーを無事に出国できたことについては、原告が出国した平成元年(1989年)11月は、昭和63年(1988年)9月に国軍が政権を掌握し、平成2年(1990年)に予定された選挙に向け、具体的な政党活動等については国軍の規制が及んだものの、原告が実際に身柄を拘束された昭和63年(1988年)当時と比べれば比較的自由な活動ができた時期であり、原告としても潜伏して活動することは余儀なくされていたものの、出国について規制が及ばないとしてもさほど不自然とはいえず(軍事政権が常に水も漏らさぬ体勢で空港を警備していたとの前提自 できた時期であり、原告としても潜伏して活動することは余儀なくされていたものの、出国について規制が及ばないとしてもさほど不自然とはいえず(軍事政権が常に水も漏らさぬ体勢で空港を警備していたとの前提自体がかえって不自然であるといえる。)、原告が空港から出国できたからといって、そのことが原告が迫害の対象であったことを否定する材料とはなり得ない。 また、大使館職員の息子の出迎え及びパスポートの更新の点であるが、大使館員の息子の出迎えを受けた事実について、原告の証人尋問で一貫して否定しているものの、原告は、難民認定手続における調査(乙第6号証)の際と退去強制手続の口頭審理(乙第18号証)の際に、大使館員の息子による出迎えの事実を明確に述べており、この事実があった可能性は否定し得ない。また、パスポートの更新を受けていたことは原告も認めるところである。しかし、原告は、乙第6号証において「父の知人の息子が出迎えに来た」旨を述べ、また、パスポートの更新に関しても、大使館に知人が複数いて、個人的に便宜を図ってもらいパスポートの更新をしてもらっていた旨述べているところであり、これを前提に考慮した場合には、パスポートの更新は、個人的なつながりのある大使館員が個人的に便宜を図ってくれていたものとみるべきであり、仮に出迎えの事実が存在したとしても、これと同様の個人的な配慮であるとみるのが自然である。そうすると、出迎えにしても、パスポートの更新にしても、ミャンマー政府が原告の入国を承認したり、黙認したりといったものではないのであるから、原告の難民性とは何ら関係を有しないとみるべきである。 家族がミャンマーで無事に生活していることや両親が本邦に入国し無事に帰国した点についても、ミャンマー政府が民主化運動に関与した者の家族に対しても例外なく迫害を加えるという事 ないとみるべきである。 家族がミャンマーで無事に生活していることや両親が本邦に入国し無事に帰国した点についても、ミャンマー政府が民主化運動に関与した者の家族に対しても例外なく迫害を加えるという事実が認められるのであればともかく、そこまでの迫害の情報はなく、あくまで民主化運動に参加した者に対する迫害が行われると認められるにすぎないのであるから、特に政治活動を行っていない原告の家族が全く迫害を受けていないとしても、原告の難民性には全く関係のない事由である。 また、被告は、原告が入国後1週間で不法就労を開始していることや入国後約7年間庇護を求めなかったことから来日目的が不法就労である旨を述べるところ、本邦で就労したことが直ちに難民性を否定する要素となるものではないし、短期滞在のビザで入国している者が労働を行うことは認められていないものの、申請から処分までには通常相当に長期間を要するところであり(本件においても約1年半の期間を要している。)、その間、全く就労をせずに生活を行うことはほぼ不可能というべきであり、難民が迫害を逃れるために本国を離れてきたことを考慮すれば、入国時に生活を長期間維持する現金を有している可能性は極めて低く、申請の準備期間においても取りあえず生活を維持するために仕事を探そうということはやむを得ないものというべきであり、そのことをもって、申請者の難民性を否定するのは酷であるというべきである。また、原告は、本国において大学を卒業し、父も相当の社会的地位を有する者であって、同国人としては恵まれた境遇にあったと認められるのであり、そのような者があえて不法滞在を覚悟の上で単なる就労目的で具体的な職の目当てもなく来日するとは考え難く、被告らの主張の方がむしろ不自然なものともいえよう。その上、原告が、入国後長期間にわたって庇護を のような者があえて不法滞在を覚悟の上で単なる就労目的で具体的な職の目当てもなく来日するとは考え難く、被告らの主張の方がむしろ不自然なものともいえよう。その上、原告が、入国後長期間にわたって庇護を求めなかった点についても、そもそもそのことから就労目的を推認することには、あまりに飛躍があるといわざるを得ないし、出身国で迫害を受け第三国に逃げ込んだ者が自分を保護してくれるか否かについて確証を持ち得ないその国の政府に対して積極的に庇護を求めることは、決して容易なことではなく、その国で在留を続けることに何らかの障害が生じて初めて庇護を求めようとするのは出身国で迫害を受けたものにとってはむしろ当然のことというべきであり、原告も当初は、難民という言葉が本国では否定的な意味合いを持つことや日本で民主化運動を行っていた組織が日本政府には庇護を求めないとの方針で望んでいたことから、あえてその方針に従ったものであると述べるところであり、そのことによって、原告の難民性を否定することはできないし、ましてや、就労目的を推認することなどできようはずがない。 (4) 結論ア以上によれば、原告は、難民条約及び難民議定書所定の難民に該当するものと認められるところ、被告が、原告は難民に該当しないことを理由としてした本件不認定処分は違法なものといわざるを得ない。 イ(ア) そして、難民条約33条は、締約国は、難民をいかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない旨定め、法53条3項には、法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除き、前2項(退去強制を受けるものの送還先を定めるもの)には難民条約33条1項に へ追放し又は送還してはならない旨定め、法53条3項には、法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除き、前2項(退去強制を受けるものの送還先を定めるもの)には難民条約33条1項に規定する領域の属する国を含まないものとすると定められているところ、本件退去強制令書は、その送還先をミャンマーとしており、前記のとおり、原告が本件不認定処分当時において難民に該当すると認められ、その後、本件退令発付処分時までに特段の事情の変化があったと認めるに足りる証拠が存しない以上、原告をミャンマーに送還することは許されず、本件で原告に発付された退去強制令書は、その送還先の記載に誤りがあることは明らかといわざるを得ない。 もっとも、法51条及び法施行規則45条の規定からすると、送還先は、退去強制令書に記載が求められる法定事項ではなく、退去強制令書は、それを受ける者に本邦からの退去をせよとの意思表示をすることをその本質とするものであって、送還先の記載は、処分が有する本来の効力に関する記載ではなく、同令書の執行の便宜のために記載されたものとみることもできるのであり、そのような解釈に立った場合、送還先の記載に誤りがあることは、直ちに退去強制令書発付処分全体を違法なものとするかには大いに疑問があるといわざるを得ないところである。しかし、弁論の全趣旨によれば、現在の退去強制の実務において、退去強制令書発付処分の効力は、我が国からの退去のみならず、退去強制令書の送還先に記載された特定国への送還を本質とするものとして取り扱われていることが認められ、これによれば、送還先の記載に誤りがある場合には、退去強制令書全体を違法なものとしてこれを取り消さない限り、当該送還先への送還を阻止する法的な手段がないことになるのであるから、上記のような解釈を前提としても、 、送還先の記載に誤りがある場合には、退去強制令書全体を違法なものとしてこれを取り消さない限り、当該送還先への送還を阻止する法的な手段がないことになるのであるから、上記のような解釈を前提としても、同令書全体を取り消し得ると解さざるを得ない。 (イ) また、本件退令発付処分時は、違法な難民不認定処分を前提としてされたものであり、難民認定処分の効力にかんがみればその違法が直ちに本件退令発付処分に承継されるとまではいえないものであるが、本件退令発付処分は、原告が難民でないことを前提としてされたものであるから、本来、当然に考慮すべき事実を考慮せずにされた社会通念上著しく不相当なものというべきであり、本件退令発付処分は、被告主任審査官がその与えられた裁量権を逸脱又は濫用して行ったものであることは明白である。 (ウ) そうすると、いずれにしても本件退令発付処分は違法であり、取り消されるべきものというべきである。 第4 結論以上によれば、原告の訴えのうち、本件裁決の取消し及びその無効確認の請求にかかる部分は不適法であるからこれを却下するものとし、その余の請求はいずれも理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法64条ただし書及び61条を適用して、主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第3部裁判長裁判官藤山雅行裁判官廣澤諭裁判官新谷祐子(別紙)当事者目録原告 A被告法務大臣平成13・15年事件被告東京入国管理局主任審査官以上 以上

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