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主文 被告が原告に対し昭和四二年六月二三日付の通知書をもつてなした戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく遺族年金請求の却下処分を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。事実 第一当事者双方の申立(原告)主文と同旨の判決を求めた。(被告)「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求めた。第二原告主張の請求原因一(一) 原告は昭和一七年九月一二日Aと婚姻をしたものであるが、同人は軍属として関東軍第八、三七四部隊に勤務するため、同月中、原告をたずさえて満洲北安省●化に赴き、同地の陸軍官舎に居住中、終戦を迎え、その後満洲を移動するうち、発疹チフスに罹患し、昭和二〇年一一月一七日奉天市(中共治下になつてからは、瀋陽市)の難民収容所において死亡した。(二) そして、原告は帰国後、Aの遺族として被告に対し戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下、援護法ともいう。)に基づく遺族年金の請求をしたが、昭和四二年六月二三日付の通知書をもつてこれを却下する旨、主文第一項掲記の処分を受けたので、同年一〇月一一日付をもつて被告に対し異議申立をしたところ、被告から昭和四三年四月二六日付をもつてこれを棄却する旨の決定がなされ、右決定は、同年七月四日原告に送達された。二しかしながら、被告が原告の右請求を却下した処分には事実を誤認した違法がある。すなわち、右処分の理由は原告がAの死後、少くとも昭和二七年三月三一日までの間に、Bと事実上婚姻関係と同様の状態にあつたと認められ、同法二九条一項二号、三一条一項五号の規定に該当するから、同法に基づく遺族年金の請求権を有しないというのであつて、事実原告は昭和二〇年一一月から昭和三九年八月までの間、Bという中国人と共同の生活をし、その子を生んだには相違ないが、そもそも原告がさような 同法に基づく遺族年金の請求権を有しないというのであつて、事実原告は昭和二〇年一一月から昭和三九年八月までの間、Bという中国人と共同の生活をし、その子を生んだには相違ないが、そもそも原告がさような生活をしたのは、病気のため昏睡状態にある間にBに拉致されたうえ、生命を完うするには、その意に従うほかない情況下において同人から強要されたがためであつて、決して自由な婚姻意思に基づくものではなかつたから、被告の右認定は誤りである。 請求権を有しないというのであつて、事実原告は昭和二〇年一一月から昭和三九年八月までの間、Bという中国人と共同の生活をし、その子を生んだには相違ないが、そもそも原告がさような生活をしたのは、病気のため昏睡状態にある間にBに拉致されたうえ、生命を完うするには、その意に従うほかない情況下において同人から強要されたがためであつて、決して自由な婚姻意思に基づくものではなかつたから、被告の右認定は誤りである。その間の事情を詳述すると、次のとおりである。(一) 原告は昭和二〇年八月一五日前記●化において終戦を迎え、夫Aとともに長男C(昭和一八年二月二五日生)および次男D(昭和二〇年四月一一日生)を擁して満洲を南下するうち、同年一〇月二九日新京で長男Cを発疹チフスのため失い、同年一一月一日奉天市の難民収容所に収容されたが、自らも、発疹チフスに罹患し、重篤な症状のため意識不明に陥り、同所で、知らない間に次男Dを栄養失調のため、また夫Aを発疹チフスのため相次いで失つた。(二) ところが、原告は意識のいまだ回復しないうちに、文盲の日雇農夫、Bによつて荷車に乗せられ、同市<以下略>(現在、瀋陽市<以下略>)の同人方に運ばれた。そして、意識回復後、床を離れるのに約一〇〇日を要したが、昭和二一年春にはBから情交を挑まれ抵抗する術がないまま、その意に従い、その後も同様の関係が続き、これがため昭和二二年から昭和三〇年一月までに五回分娩した(ただし、第二子は死産、第四子は流産、第三子は生後一二日目に死亡)。その間において、原告は文字を解する隣人を介したり、数ケ月たつうち少し覚えた満語を使つたりしてBに送還を頼んだが、許されなかつた。(三) また、原告は昭和二八年瀋陽市公安局の戸籍調査の際、ようやく日本人として登録され、その後毎年一度、在留期間 り、数ケ月たつうち少し覚えた満語を使つたりしてBに送還を頼んだが、許されなかつた。(三) また、原告は昭和二八年瀋陽市公安局の戸籍調査の際、ようやく日本人として登録され、その後毎年一度、在留期間更新のため同局に出頭し、そのつど帰国を申出て、果さなかつたが、昭和三五年同市和平区国営市場において、たまたまEに出会い、その夫Fに依頼して作成した帰国申請書を昭和三六年右公安局へ提出したところ、昭和三七年夏日本政府から帰国の許可が下り、昭和三九年八月二五日宿願がかなつて神戸港に上陸したものである。 た、原告は昭和二八年瀋陽市公安局の戸籍調査の際、ようやく日本人として登録され、その後毎年一度、在留期間更新のため同局に出頭し、そのつど帰国を申出て、果さなかつたが、昭和三五年同市和平区国営市場において、たまたまEに出会い、その夫Fに依頼して作成した帰国申請書を昭和三六年右公安局へ提出したところ、昭和三七年夏日本政府から帰国の許可が下り、昭和三九年八月二五日宿願がかなつて神戸港に上陸したものである。第三、被告の主張(請求原因に対する答弁および抗弁)一請求原因一の事実はAの死因の点を除き、これを認める。同人の死因は不知。二同二の冒頭の事実は被告がした却下処分の理由の点および原告とBらとの生活の外形的事実の点を除いて、これを争う。すなわち、原告はその夫Aの死後、昭和二〇年一一月から帰国するまでの間、約一九年間にわたり、Bと生活を共にし、その子までもうけたから、同人と事実上の婚姻関係にあつたものというべきであり、右事実は援護法二九条一項二号、三一条一項五号の規定に該当する。従つて、原告の援護法に基づく遺族年金の請求は理由がなく、被告がこれを却下した処分にはなんら違法がない。三同二の(一)ないし(三)の事実のうち、原告がその主張のころ、夫Aおよびその間の子C、Dを病いのため失つたこと、原告がBとの間の子を分娩したこと(なお、その第二子が死産、第四子が流産、第三子が生後一二日目に死亡したこと)、原告がその主張の日、神戸港に上陸したことは認めるが、その余は不知。第四、証拠(省略) 理由 一原告が昭和一七年九月一二日Aと婚姻したものであること、同人が軍属として関東軍第八三七四部隊に勤務するため同月中、原告をたずさえて満洲北安省● 不知。第四、証拠(省略) 理由 一原告が昭和一七年九月一二日Aと婚姻したものであること、同人が軍属として関東軍第八三七四部隊に勤務するため同月中、原告をたずさえて満洲北安省●化に赴いたが、終戦後、満洲を移動するうち、昭和二〇年一一月一七日奉天市(後の瀋陽市)の難民収容所において死亡したこと、そして、原告が昭和三九年八月二五日帰国し、その後Aの遺族として被告に対し援護法に基づく遺族年金の請求をしたが、昭和四二年六月二三日付の通知書をもつてこれを却下する旨、主文第一項掲記の処分を受けたので、これを不服として同年一〇月一一日付をもつて被告に対し異議申立をしたところ、被告から昭和四三年四月二六日付をもつて、これを棄却する旨の決定がなされ、右決定が同年七月四日原告に送達されたこと、もつとも、原告がその夫Aの死後、昭和二〇年一一月項から右帰国直前まで中国人Bと生活を共にし、その子を五回分娩した事実があり、これがため、被告からBと事実上婚姻関係と同様の状態にあつたものと認められ、同法二九条一項二号、三一条一項五号の規定に該当するという理由で、前記却下処分を受けたものであることは当事者間に争いがない。 つて、これを棄却する旨の決定がなされ、右決定が同年七月四日原告に送達されたこと、もつとも、原告がその夫Aの死後、昭和二〇年一一月項から右帰国直前まで中国人Bと生活を共にし、その子を五回分娩した事実があり、これがため、被告からBと事実上婚姻関係と同様の状態にあつたものと認められ、同法二九条一項二号、三一条一項五号の規定に該当するという理由で、前記却下処分を受けたものであることは当事者間に争いがない。二被告は、原告がBと共にした生活をもつて右処分認定のように事実上の婚姻関係にあつたものと認むべきであると主張し、原告は右生活をもつて自由な婚姻意思に基づくものではなかつたと主張するので、この点について考察する。証人G、同Fの各証言および原告本人尋問の結果を総合すると、以下の事実を認めることができる。(一) 原告は●化において終戦を迎えると(当時二九才)、直ちに夫Aとともに、長男C(当時二才五ケ月)、次男D(当時生後四ケ月)の二児を連れ、Aの所属部隊に従つて移動し、昭和二〇年八月二七日平戻(へいぼう)に到着したが、同地でAが えると(当時二九才)、直ちに夫Aとともに、長男C(当時二才五ケ月)、次男D(当時生後四ケ月)の二児を連れ、Aの所属部隊に従つて移動し、昭和二〇年八月二七日平戻(へいぼう)に到着したが、同地でAがソ連軍に連れ去られた。原告は二児を擁して同年九月半ば頃ハルピンに移り、同地でソ連軍から脱出、帰来したAを迎え、相たずさえて同年一〇月一五日新京に向つたところ、ハルピン滞在中覚え始めた下痢症状がにわかに激しくなつたため、同地到着と同時に入院して小康を得たが、間もなく、Cが発疹チフスに罹患して同月二九日死亡した。それから、原告は同月三一日AおよびDとともに奉天に移り、難民収容所となつていた加茂小学校の講堂の一隅に身を寄せたが、その頃から再び下痢症状が現われ、肉体的、精神的疲労が加わつて、次第に意識がもうろうとなり、やがて昏睡状態に陥つた。その間においてDが同年一一月六日頃栄養失調のため、また、Aが同月一七日発疹チフスのため、相次いで死亡した。なお、その頃同地の邦人難民は極度の栄養不足と伝染病蔓延とのため、幼児にあつては生命の維持が殆んど困難であり、成人にあつてもひとたび伝染病に感染すれば、ただ死期を待つほかないという最悪の状況にあつた。また、近隣の中国人の中には右収容所に出入して邦人難民から幼児をもらい受けたり、身寄りのない婦人を拉致しようとしたりする者が現われた。 養失調のため、また、Aが同月一七日発疹チフスのため、相次いで死亡した。なお、その頃同地の邦人難民は極度の栄養不足と伝染病蔓延とのため、幼児にあつては生命の維持が殆んど困難であり、成人にあつてもひとたび伝染病に感染すれば、ただ死期を待つほかないという最悪の状況にあつた。また、近隣の中国人の中には右収容所に出入して邦人難民から幼児をもらい受けたり、身寄りのない婦人を拉致しようとしたりする者が現われた。(二) そして、B(当時二八才)は同地の西郊瀋台分区候家村という僻村に居住し、手足の不自由な妻を抱え、日雇農夫の仕事で極貧の生活を凌いでいた文盲の徒であるが、原告を妾または婢とする目的で同年一二月頃、原告が昏睡状態にあつたのを幸いに、人力車に乗せて、その居宅に連れ込んだ。ところが、原告が拉致された際、その傍にいた邦人難民は肉体的に衰弱していたためBの意図を察しながら、その所為を阻止 一二月頃、原告が昏睡状態にあつたのを幸いに、人力車に乗せて、その居宅に連れ込んだ。ところが、原告が拉致された際、その傍にいた邦人難民は肉体的に衰弱していたためBの意図を察しながら、その所為を阻止することができなかつた。ただ、当時の状況からすれば、原告は、かえつて、そのため生命を保つことができたといえるかもしれない。(三) 原告は、やがて同所で病状を回復したが、まだ起居が自由にならないうちに、Bから情交を挑まれ、やむなく、その意に従つた。しかし、その後床を離れるようになつてからも、同所を脱出して生命を維持することができる見透しが全くなかつたので、そのまま同所に滞留し、襤褸をまとい、粗食を忍んで乞食同然の最低生活を送ることになつたが、勢いBとの肉体関係を回避することができず、心ならずも、同人の欲求に屈した。そのため、昭和二二年から昭和三〇年一月までの間に五回分娩した(ただし、第二子と第三子とは双生児であつて、前者は死産、後者は生後一二日目に死亡。また第四子は流産。)。(四) しかし、原告はなおBとの関係を絶つて帰国する希望を捨てず、なんとかしてその手ずるをつかもうとし、勿論、同人に対しても何度もその意を伝えたが、同人において原告の希望を絶つには、ただ取りあわないだけで事が足りた。もつとも、原告は昭和二〇年暮には国民政府が、また昭和二八年には中共政府が行つた戸籍調査によつて、その存在を右各政府に知られたけれども、帰国についての積極的な援助をされないまま放置された。 四) しかし、原告はなおBとの関係を絶つて帰国する希望を捨てず、なんとかしてその手ずるをつかもうとし、勿論、同人に対しても何度もその意を伝えたが、同人において原告の希望を絶つには、ただ取りあわないだけで事が足りた。もつとも、原告は昭和二〇年暮には国民政府が、また昭和二八年には中共政府が行つた戸籍調査によつて、その存在を右各政府に知られたけれども、帰国についての積極的な援助をされないまま放置された。ところが、原告は昭和三五年六月所要のため奉天市に赴いたところ(その頃になると、原告も現地語が判り、また外出の機会もあつた。)、邦人と遭遇したのを機縁として帰国手続の教示を受け、これに従つた結果、日本政府から入国許可書、中共政府から出国許可書の各交付を受け、昭和三九年八月二五日 告も現地語が判り、また外出の機会もあつた。)、邦人と遭遇したのを機縁として帰国手続の教示を受け、これに従つた結果、日本政府から入国許可書、中共政府から出国許可書の各交付を受け、昭和三九年八月二五日念願かなつて神戸港に上陸した。以上が認定される事実であつて、右認定をくつがえすに足る証拠はない。そして成立につき争いのない乙第一号証中、「原告が昭和二〇年一一月二〇日頃Bと結婚」したとの記載部分および成立につき争いのない乙第二号証中、原告が「農業を営むBさん(四七才)に救われて結婚した」との記載部分はいずれも原告の終戦後、満洲における生活関係を誤りなく伝えているものとは考えられない。三ところで、援護法二九条一項二号、三一条一項五号所定の事実が存在する場合に、戦没者たる軍人軍属の配偶者が遺族年金を受給する権利を否定されるのは、もはや、その配偶者に遺族年金を支給すべき実質的理由が消滅したとみられるからであり、従つてさような事由があるというがためには戦没軍人軍属の残存配偶者が亡夫との間に形成された従来の生活関係を脱し、別人との間において新らたに精神的、肉体的ならびに経済的に夫婦とみられる共同生活が始まつていて、少くとも、その当事者間に右のような婚姻生活を維持する意思が合致し、かつ、相当期間さような共同生活が継続していることが必要であると解する。しかるに、原告とBとの関係をみると、その両名は外形上、夫婦とみられる共同生活を継続していたようにもみえるけれども、その実、そうではなかつたことは、さきに認定したところから明らかである。 いて新らたに精神的、肉体的ならびに経済的に夫婦とみられる共同生活が始まつていて、少くとも、その当事者間に右のような婚姻生活を維持する意思が合致し、かつ、相当期間さような共同生活が継続していることが必要であると解する。しかるに、原告とBとの関係をみると、その両名は外形上、夫婦とみられる共同生活を継続していたようにもみえるけれども、その実、そうではなかつたことは、さきに認定したところから明らかである。すなわち、原告とBとの共同生活は終戦後の満洲という極めて特異な環境のもとに生じた特殊の関係というべきであつて、両名の間に社会通念上、婚姻生活を継続する意思の合致があつたものとは、とうてい認められないのである。四以上 同生活は終戦後の満洲という極めて特異な環境のもとに生じた特殊の関係というべきであつて、両名の間に社会通念上、婚姻生活を継続する意思の合致があつたものとは、とうてい認められないのである。四以上の次第であつて、原告がBと共にした生活関係は援護法三一条一項五号所定の「事実上婚姻関係と同様の事情に入つていると認められる場合」に該らないというべきであるから、これを被告主張のように右事由に該るものと認め、その前提のもとに原告の遺族年金請求を却下した本件処分には違法な瑕疵があるといわなければならない。よつて、右処分の取消しを求める原告の本訴請求は理由があるので、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。(裁判官駒田駿太郎小木曾競山下薫)
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