昭和43(行ウ)5 収容令書無効確認等請求事件

裁判年月日・裁判所
昭和50年12月9日 広島地方裁判所 警察関係
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【DRY-RUN】○ 主文 原告の請求をいずれも棄却する。 訴訟費用は原告の負担とする。 ○ 事実 第一 当事者の申立 一 原告 (一) 被告広島入国管理事務所主任審査官(以下「被告主任審査官」という。) が原告に対し

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○ 主文原告の請求をいずれも棄却する。 訴訟費用は原告の負担とする。 ○ 事実第一当事者の申立一原告(一) 被告広島入国管理事務所主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)が原告に対し昭和三八年一一月二八日付でなした収容令書の発付処分は無効であることを確認する。 (二) 被告広島入国管理事務所入国審査官(以下「被告入国審査官」という。)が原告に対し昭和四三年一月一〇日付でなした「原告は、出入国管理令二四条六号に該当する。」旨の認定を取消す。 (三) 訴訟費用は被告らの負担とする。 二被告ら(被告入国審査官の本案前の申立)原告の被告入国審査官に対する訴えを却下する。 (被告両名の本案についての申立)主文同旨第二当事者の主張一原告の請求原因(一) 被告主任審査官は、原告が出入国管理令(以下「令」という。)二四条六号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして原告に対し昭和三八年一一月二八日付で収容令書を発付し、被告入国審査官は、昭和四三年一月一〇日付で原告が同条同号に該当する旨の認定をし、原告にその旨通知した。 (二) 右収容令書発付処分及び右認定処分は、いずれも原告が外国人であることを前提としてなされたものであるが、原告は、日本国籍を有するもので、外国人ではないから、右各処分には、重大かつ明白な瑕疵がある。 よつて、原告は、被告主任審査官に対し本件収容令書発付処分の無効確認を、被告入国審査官に対し本件認定処分の取消を求める。 二被告入国審査官の本案前の主張令は、その二四条各号に該当する外国人を退去強制する場合、容疑者が令二四条各号に該当するか否かを、まず入国審査官に審査、認定させ、右認定に異議があるときは、特別審査官に口頭審理の請求をしてその判定を受けさせ、さらに右判定に異議があるときは、法務大臣に対し異議の申出 四条各号に該当するか否かを、まず入国審査官に審査、認定させ、右認定に異議があるときは、特別審査官に口頭審理の請求をしてその判定を受けさせ、さらに右判定に異議があるときは、法務大臣に対し異議の申出をしてその裁決を受けさせるという三段階の手続を経て行なうこととしている。右一連の手続は、退去強制の慎重を期するためのものであり、最終的に主任審査官の行なう退去強制令書発付処分の事前手続として行なわれる内部的な行為に過ぎず、入国審査官が審査の結果行なう認定は、、令二四条各号に該当するか否かの確認的行為であり、これが直ちに容疑者に対する退去強制令書発付処分となるわけではない。右のように、入国審査官の認定は、内部的な意思決定行為の一環として行われる確認行為であり、これによつて直ちに当該容疑者の権利、義務、法律上の地位に影響を与えるものではないから、これを行政処分ということはできない。 従つて、被告入国審査官のなした本件認定の取消を求める原告の訴えは、不適法として却下されるべきである。 三請求原因に対する被告らの認否(一) 請求原因(一)の事実は認める。 (二) 同(二)のうち、本件各処分が原告が外国人であることを前提としてなされたものであることは認めるが、その余は否認する。 四被告らの積極的主張(処分の適法性)(一) 原告は、韓国人A(父)と同B(母)夫婦間に生れた長男Cであり、同人は、Aを戸主とする韓国戸籍に大正一二年四月二〇日朝鮮<以下略>で出生した旨記載されている。 そして、原告は、昭和一一年頃来日し、昭和一五年呉市でDと事実上の結婚をし、昭和一六年九月五日婚姻の届出をし、その間に終戦時までに二児が出生したが、AあるいはCを戸主とする韓国戸籍には、いずれも右婚姻及び子女出生の各届出事実が記載されている。 (二) 原告は、昭和二二年七月二五日 年九月五日婚姻の届出をし、その間に終戦時までに二児が出生したが、AあるいはCを戸主とする韓国戸籍には、いずれも右婚姻及び子女出生の各届出事実が記載されている。 (二) 原告は、昭和二二年七月二五日広島県賀茂郡<以下略>で「E」名義で外国人登録をし、昭和二四年五月頃E名義の外国人登録証を返納して韓国に引揚帰国したが、同年六月頃長崎県下に不法入国し、以来、C名義の外国人登録を更新していたが、昭和三三年八月一五日韓国政府よりC名義の入境許可証の発給を受け、再度韓国に引揚帰国した。 (三) その後、原告は、韓国政府よりC名義の船員手帳の発給を受け、同年一二月二一日韓国船南盛号の甲板員として大阪港に入国し、同港入国審査官より寄港地上陸許可書の発給を受けて上陸を許可され、右許可書に記載された期間の最終日である昭和三四年二月一七日をこえて本邦に残留しているものである。 (四) 以上のとおり、原告は、韓国戸籍に現存し、韓国人Cとして自ら行動し、韓国政府も入境許可証、船員手帳を発給する等して原告が韓国に籍を有する旨認定しているのであつて、原告が韓国人Cであることは明らかである。 従つて、原告は、令二四条六号に該当する外国人であるから、本件収容令書発付処分及び本件認定処分には、なんらの違法もない。 (五) 仮りに、現時点において原告が日本人であると判断されるか、あるいは日本人である可能性があるとしても、その故をもつて直ちに本件収容令書発付処分に明白な瑕疵があるとすることはできない。すなわち、令二四条各号の退去強制事由は、もつぱら外国人(日本国籍を有しない者、令二条二号)について定められており、およそ日本国籍を有する者に対する退去強制なるものはありえないのであるが、退去強制手続の開始、追行が許されるのは、容疑者が外国人であることについて争いのない場合もしくは日 )について定められており、およそ日本国籍を有する者に対する退去強制なるものはありえないのであるが、退去強制手続の開始、追行が許されるのは、容疑者が外国人であることについて争いのない場合もしくは日本国籍を有することにつき主張、立証が皆無の場合にかぎられ、そうでないかぎり許されないものと解すべきでなく、むしろ、令は、容疑者が外国人であることにつき個々の場合に争いがあると否とを区別することなく、合理的判断により外国人と認められる者について令二四条各号所定の事由の一に該当すると思料される場合にその者につき退去強制手続を開始し(令二四条)、追行すべきものとしているのであり、その手続の一過程としての収容令書発付処分については、「容疑者が二四条各号の一に該当すると疑うに足りる相当の理由がある」(令三九条)ことをその実体的要件として規定しているのである。 しかして、本件の場合、原告が韓国船員手帳を所持し、自ら韓国人であるとして入国審査官より寄港地上陸許可を受けて本邦に上陸した者であることは、原告の認めて争わないところであるから、本件収容令書発付当時において被告主任審査官が原告を外国人であると判断したことについては、十分な合理的理由が存したのである。そして、原告が「寄港地上陸許可書に記載された期間を徒過して本邦に残留」(令二四条六号)したことも原告において争いがなく、これを「疑うに足りる相当の理由」(令三九条)の存したことも明らかである。 従つて、本件収容令書発付当時においては、被告主任審査官の判断と処分には、なんらの瑕疵もなかつたものである。そして、行政処分の違法性判断の基準時は、処分時であるから、仮りにその後の時点において原告が日本人であると判断される可能性が増大したとしても、そのために右処分の効力に影響を及ぼすものではない。 五被告らの積極的主張 違法性判断の基準時は、処分時であるから、仮りにその後の時点において原告が日本人であると判断される可能性が増大したとしても、そのために右処分の効力に影響を及ぼすものではない。 五被告らの積極的主張に対する原告の認否(一) 被告らの積極的主張(一)の事実のうち、原告が昭和一五年Dと婚姻したこと、二児が出生したことは認めるが、その余の事実は争う。 (二) 同(二)、(三)の事実は認める。 (三) 同(四)、(五)は争う。 六原告の反論原告は、日本人である訴外Gの子として大正一〇年一二月一六日呉市<以下略>で出生したもので、原告の生立ちの詳細は、次のとおりである。 (一) Gは、訴外Hと内縁関係にあつたが、一時喧嘩別れをして呉市<以下略>の実家に帰つていた際、別の男と関係して原告を懐妊し、分娩したが、Gの父Iは、原告の出生届をしないまま生後一か月も経たないうちに原告を当時<地名略>に居住していた朝鮮人の訴外JことK夫婦に養子に出した。Kは、原告を「F」と命名し、また原告を「E」とも呼び、養育していたが、昭和五年頃(原告が九才頃)妻と離婚し、間もなく原告を同市<以下略>に居住していた訴外LことA夫婦に養子としてやつた。原告は、その後Aの許で生活していたが、昭和一〇年頃大阪市内のメリヤス工場に就職し、Aに戸籍謄本の送付を求めたところ、同人は、原告の出生届がなされていなかつたので、実子のCが七才の頃死亡したのに死亡届をしていなかつたのを奇貨としてCの記載されている戸籍謄本を送付して来たため、原告は、それ以来、自分の本名が「C」であると信じこむに至つた。 (二) 原告は、昭和一五年頃呉市<以下略>に帰り、朝鮮人の訴外Dと結婚し、終戦までに二児が出生した。昭和二一年四月頃A夫婦とその子、Dと原告の子供二人は、朝鮮に引揚げたが、原告は、日本に残り、訴外M 二) 原告は、昭和一五年頃呉市<以下略>に帰り、朝鮮人の訴外Dと結婚し、終戦までに二児が出生した。昭和二一年四月頃A夫婦とその子、Dと原告の子供二人は、朝鮮に引揚げたが、原告は、日本に残り、訴外Mと内縁関係を結び、昭和二三年一〇月頃因島市<以下略>に転居し、回漕店を経営していた。その間原告は、昭和二二年頃広島県賀茂郡<以下略>役場でE名義で外国人登録を受けたほか、食糧配給を受ける便宜上、Cの名義で二重に外国人登録を受けた。 (三) 原告は、昭和二四年四月妻Mと別れ、E名義で所定の手続をして韓国に引揚げ、Aの許に赴いたが、妻のDが再婚していたので、同年六月頃長崎県下に密入国し、因島市<以下略>のMの許に帰つて復縁し、以来、Cの名を用いて生活し、回漕店や建設業を営んできた。 (四) 原告は、昭和三三年八月一五日所定の手続を経て尾道港から長男Nを伴つて韓国に引揚げ、Aの許に身を寄せた。その後、原告は、Cの戸籍謄本の送付を受け、警察署より道民証(身分証明書)の交付を受ける手続をしようとしたが、Aは、原告がCの戸籍謄本や道民証の交付を受けることに強く反対したので、原告が詰問したところ、Aは、ここに始めて原告の前記のような出生の秘密を打明け、実母Gの戸籍謄本を原告に渡した。 (2) そこで、原告は、実母を訪ねるため昭和三三年一二月中旬麗水港で韓国船南盛号に甲板員として乗船し、同月二一日大阪港に入港し、同港入国審査官より寄港地上陸許可を得て上陸した。そして、原告は、前記Gの戸籍謄本を頼りにGを探し回つた結果、同人が尾道市<以下略>において訴外Hと同棲しているのを探し当てGと親子の対面をした。Gは、右戸籍謄本の存在や原告の背中にあるほくろ等から原告が実の子であることを確認し、昭和三四年一月二七日尾道市役所で原告の出生届をした。 原告は、右出生届後、日本 を探し当てGと親子の対面をした。Gは、右戸籍謄本の存在や原告の背中にあるほくろ等から原告が実の子であることを確認し、昭和三四年一月二七日尾道市役所で原告の出生届をした。 原告は、右出生届後、日本人Oとして建設業を営み、固定資産税、所得税、住民税その他の公租公課を負担し、選挙権を行使し、現在に至つている。 第三立証(省略)○ 理由第一本案前の主張について被告入国審査官は、入国審査官の行なう認定は、行政庁の内部的な確認行為に過ぎず、行政処分に該当しない旨主張するので、まずこの点について判断する。 令は、その二四条において同条各号の一に該当する外国人については、本邦からの退去を強制することができる旨定め、その第五章において退去強制の手続を規定しているが、それによると、退去強制手続は、入国警備官の容疑者に対する違反調査により開始せられ、容疑者が令二四条に該当するか否かを、まず入国審査官に審査、認定させ、該当する旨の認定をしたときは、その旨を主任審査官及び容疑者に知らせなければならないものとし、容疑者においてその認定に不服があるときは、特別審査官に口頭審理の請求をしてその判定を受けさせ、さらに、その判定に異議があれば、法務大臣に異議の申出をしてその裁決を受けさせることとし、主任審査官は、容疑者が入国審査官の認定あるいは特別審査官の判定に服したとき、法務大臣が異議申出が理由ないと裁決したときは、すみやかに退去強制令書を発行すべきものとしているのである。 これによると、入国審査官は、容疑者が令二四条各号の一に該当する旨の認定をしたときは、これを容疑者に通知すべきものとされ、右認定自体に対する不服申立の途が開かれており、他方、主任審査官は、容疑者が右認定に服したときは、退去強制令書を発付することを法律上義務づけられているのであるから、入国審査官 に通知すべきものとされ、右認定自体に対する不服申立の途が開かれており、他方、主任審査官は、容疑者が右認定に服したときは、退去強制令書を発付することを法律上義務づけられているのであるから、入国審査官のなす認定は、単なる行政庁の内部的行為ではなく、それ自体、容疑者の権利義務あるいはその法律上の地位に影響を与えるものであつて、主任審査官のなす収容令書発付処分とは別個独立に抗告訴訟の対象となる行政処分であると解するのが相当である。 よつて、被告入国審査官の本案前の主張は採用しない。 第二本案について一被告主任審査官が原告が令二四条六号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして原告に対し昭和三八年一一月二八日付で収容令書を発付し、被告入国審査官が昭和四三年一月一〇日付で「原告は、同条同号に該当する。」旨の認定をし、原告にその旨通知したことは当事者間に争いがない。 二ところで、令二四条にいう「外国人」とは、「日本の国籍を有しない者」であり(令二条二号)、日本の国籍を有する者であるか否かについては、国籍法の定めるところによるべきであるが、原告が現行国籍法施行の日(昭和二五年七月一日)以前に出生していることは、本件記録上明らかであるから、原告が旧国籍法(明治三二年法律第六六号)によつて日本国籍を取得していたとすれば、日本の国籍を有する者といえる。 しかして、原告は、本件において旧国籍法所定の出生による日本国籍取得原因のうち、「父が知れない場合において母が日本国民であることによる日本国籍の取得」(旧国籍法三条)を主張していることが明らかである。 そこで、以下この点、すなわち原告がその主張のように日本人Gの子であるか、被告ら主張のように韓国人A夫婦の子であるかについて考察する。 三原告が昭和二二年七月二五日広島県加茂郡<以下略>で「E」名義で外国 、以下この点、すなわち原告がその主張のように日本人Gの子であるか、被告ら主張のように韓国人A夫婦の子であるかについて考察する。 三原告が昭和二二年七月二五日広島県加茂郡<以下略>で「E」名義で外国人登録をし、昭和二四年五月頃E名義の外国人登録証を返納して韓国に引揚帰国したこと、原告が同年六月頃長崎県下に不法入国し、以来、C名義の外国人登録を更新していたが、昭和三三年八月一五日韓国政府よりC名義で入境許可証の発給を受けて韓国に引揚帰国したこと、原告が韓国政府よりC名義の船員手帳の発給を受け、韓国船南盛号の甲板員として昭和三三年一二月二一日大阪港に入国し、同港入国審査官より寄港地上陸許可書の発給を受けて上陸を許可されたことは当事者間に争いがない。 そして、成立に争いがない乙第八号証の一ないし三、第一一、第一五号証の各一、二及び原告本人尋問の結果(第一回)によると、原告は、昭和二三年八月二日今治市長に対しC名義の外国人登録を申請し、国籍朝鮮、本籍(国籍の属する国における住所又は居所)<以下略>、Cとして外国人登録を受けていること、原告が昭和三三年八月一五日尾道港から韓国に帰国する際作成し、尾道税関出張所長宛に提出した陳情書、履帰書には、出国者の本名C、本籍大韓民国<以下略>と記載されていること、原告が韓国政府より発給を受けた船員手帳には、姓名C、本籍<以下略>と記載されていることが認められる。 他方、成立に争いがない乙第一七、第六六号証の各二によると、本籍釜山市<以下略>、戸主Aの戸籍中に同人と妻B間の長男としてCの記載があり、また本籍<以下略>、戸主Cなる戸籍が存在することが認められる。 以上によれば、原告は、永年の間韓国人Cとして行動し、自分がCであることを自認していたものであり、しかも、Cは、韓国人A、B夫婦の長男として韓国戸籍に現存 戸主Cなる戸籍が存在することが認められる。 以上によれば、原告は、永年の間韓国人Cとして行動し、自分がCであることを自認していたものであり、しかも、Cは、韓国人A、B夫婦の長男として韓国戸籍に現存するのであるから、原告は、右戸籍上のCであるとの強い推定が働き、他に信用するに足りる反対の証拠資料がないかぎり、原告は、右Cであると認める外ない。 ところが、原告は、自分は、右戸籍上のCではなく、日本人Gの子であると主張し、その生立ちについて原告が昭和三四年に令違反容疑者として大阪入国管理事務所で調査を受けるようになつて以来、入国警備官に対する供述(成立に争いのない乙第一、第二一号証)、入国審査官に対する供述(成立に争いのない乙第二六、第二七、第三一号証)口頭審理の際の特別審査官に対する供述(成立に争いのない乙第三六、第三七、第四〇、第四三、第四六号証)及び本人尋問(第一回)においてかなり具体的に述べている。原告の供述するところは、供述の都度異つた部分もあるが、その要旨は、ほぼ事実摘示欄第二、六、記載のとおりである。そして、本件証拠中には、原告の右供述に符合するものも存在するので、以下、原告本人の供述及び右各証拠の信用性について種々の観点から検討を加えてみる。 (一) Cの死亡について原告が韓国人A、B夫婦の長男Cであるか否かについては、まず、原告が主張するようにCが既に死亡しているのかどうかが問題となる。 この点について、原告は前掲乙第二一、第二七、第三七号証及び本人尋問(第一回)において、昭和三三年にAより「同人の長男Cは、七才のとき死亡したと聞いた。」旨供述し、成立に争いのない甲第一八号証、録音テープ(Bの供述を録音したもの)の検証の結果によると、Bは、「実子Cは、釜山で死亡した。」と述べ、成立に争いのない乙第四四号証によると、Cの妹であ た。」旨供述し、成立に争いのない甲第一八号証、録音テープ(Bの供述を録音したもの)の検証の結果によると、Bは、「実子Cは、釜山で死亡した。」と述べ、成立に争いのない乙第四四号証によると、Cの妹であるPことQは、昭和四三年二月六日原告に対する口頭審理の際、特別審理官に対し「母から兄は、死亡したと聞いている。」と述べ、本件訴訟においてこれと同旨の証言をしている。 ところで、前掲乙第一号証及び原告本人尋問の結果(第一回)によると、原告は、昭和三三年一二月二一日大阪港において寄港地上陸許可書の発給を受け、上陸を許可されていたところ、翌三四年一月大阪入国管理事務所に自分が日本人Gの子であつて日本人である旨申立て、同事務所において令違反容疑者として調査を受けるようになつたが、調査の最初の段階である同年二月二〇日には、入国警備官に対し「昭和三三年一〇月Kより自分の出生の秘密を打明けられ、自分が日本人Gの子であることを聞いたが、その際、Kより、Cの家族がCは現在北鮮にいると言つている旨聞かされた。」とか、「自分は、昭和一一年竹原のK方でCに会つたことがある。」と述べていることが認められる。 ところが、原告本人尋問の結果(第一回)によると、原告は、自分がGの子であることと、Aの長男Cが七才の頃死亡したこととは同一の機会に聞いたというのであるから、原告が前記のようにGの子であると述べる反面Cが北鮮にいるとか、昭和一一年にCに会つたことがあると述べているのはきわめて不可解なことである(前掲乙第一七号証の二によれば、Cは、大正一二年四月二〇日生れであることが認められるから、七才のとき死亡したとすれば、死亡したのは昭和五年ということになり、原告が昭和一一年にCに会うということはありえないことである)。 そして、前掲乙第二一号証によると、原告は、昭和三八年一二月六日 から、七才のとき死亡したとすれば、死亡したのは昭和五年ということになり、原告が昭和一一年にCに会うということはありえないことである)。 そして、前掲乙第二一号証によると、原告は、昭和三八年一二月六日入国警備官に対し「AよりCが死亡したと聞いた。」旨供述するに至つたことが認められるのであつて、原告のこのような供述の喰違に照らし、Cが死亡したと聞いた旨の原告の前記各供述は、にわかに信用できない。 次に、成立に争いがない乙第二三号証によると、PことQは、昭和三八年一二月九日に入国警備官の取調を受けた際には、「兄のCが幼時死亡したことは全然聞いておらず、そのようなことは始めて聞くことである。」と述べ、前記乙第四四号証における供述及び前記証言と全く相反する供述をしており、しかもQは、右供述及び証言中において右のような供述変更の理由を問いただされたのに対してなんら合理的説明をしていないのであるから、母より実兄が幼時死亡したと聞いた旨のQの前記供述及び証言もにわかに信用し難い。 ところで、証人Rの証言によると、韓国においては明治四四年に民事令が公布されて戸籍事務が施行され、その後次第に整備され、昭和に入つてからは内地と変わらない戸籍事務が行なわれていたことが認められる。 しかして、本籍釜山市中区溘州洞五八番地、戸主Aの戸籍謄本である前掲乙第一七号証の二には、A、B夫婦間に長女S、長男C、二女Q、三女T、四女U、五女V、六女Wが出生し、CがDと婚姻し、S、Q、Tもそれぞれ婚姻したこと、C、D夫婦間に長男Nが一九四二年一月六日に、長女Xが一九四四年五月七日に各出生し、Aが一九三九年四月一日死亡したこと等の身分事項が逐一記載されているが(右のほか、C、D夫婦間の二女としてYが出生したことが記載されているが、原告本人尋問の結果(第一回)によると、右Yは、DとC し、Aが一九三九年四月一日死亡したこと等の身分事項が逐一記載されているが(右のほか、C、D夫婦間の二女としてYが出生したことが記載されているが、原告本人尋問の結果(第一回)によると、右Yは、DとC以外の男との間に生れた子であるが、DがCと婚姻中であつたためにCの嫡出子として記載されたものであることが認められる。)、前掲乙第二三、第三六、第三七、第四三、第四四号証及び原告本人尋問の結果(第一回)によれば、右戸籍記載事項は、いずれも事実に合致することが認められる。この事実と前記認定の韓国における戸籍事務の整備状況に照らすと、Aを戸主とする韓国戸籍は、一応信用するに足るものと認められるのであつて、Cの死亡についてのみその届出がなく、戸籍にその事実が記載されていないというのは、不自然であり、むしろ、Cは、右戸籍の記載どおり生存している可能性がきわめて強いものと認められる。 ところで、Cが死亡したか否かについては、被告らが主張するようにCが朝鮮で出生し、その後来日した事実があるかどうか重要な鍵になる。この点について公文書であつて真正に成立したものと認める乙第五二号証によると、Zは、大正一二年頃から主として竹原市に居住していること及び同人は、昭和四三年三月八日入国警備官に対し「Kは、昭和七年朝鮮人と結婚し、その後、妻の姉婿であるLことAを呼び寄せ、昭和一一年頃Lの妻P1と長男P2(現在因島市居住)、P2の妹がLの呼寄せで朝鮮から来日した。」旨供述していることが認められるところ(なお、この供述にいうP2は、Aの長男であるし、昭和四三年三月当時因島市に居住していたというのであるから、前掲乙第一七号証の二、原告本人尋問の結果(第一回)からして、Cであることが明らかである。そして、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める乙六一号証及び録音テープ(Zの いたというのであるから、前掲乙第一七号証の二、原告本人尋問の結果(第一回)からして、Cであることが明らかである。そして、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める乙六一号証及び録音テープ(Zの供述を録音したもの)の検証の結果によると、Zは、昭和四三年六月一一日入国警備官に対し右と同趣旨の供述をしていることが認められる。)、前掲甲第一八号証及び録音テープ(Bの供述を録音したもの)の検証の結果によると、Bは、「ばあさんがざんりゆう一年のときに国境から釜山にむす子Cそれとその上の長女を連れて釜山に暮しておる。その息子Cが死んだでしよ。それで死亡申告をせずにそのままはらだつて日本に行つた夫にしたつて娘を連れて日本に行つたでしよ。」と供述しており(右供述は、「Bが三一才のときに故郷から釜山に移住し、C及び長女と暮していたところ、Cが死亡したので、死亡届をしないで、日本に行つた夫をしたつて娘を連れて来日した。」という趣旨と認められる)、この供述によれば、Bの夫Aが先きに来日し、その後にBが子供を連れて来日したことが認められるのであつて、Zの前記供述は、この点においてBの右供述に符合しており、Zの前記供述が正確であることが窺われる。 Bの前記供述によつては、同人の来日の時期が明確でないが、前掲乙第一七号証の二によると、A、B夫婦間の長女Sが一九一九年(大正八年)二月五日、長男Cが一九二三年(大正一二年)四月二〇日、二女Qが一九二五年(大正一四年)三月二〇日、三女Tが一九三〇年(昭和五年)三月二〇日に慶尚北道尚州郡<以下略>で出生したこと、その後一九三四年(昭和九年)九月六日従前の本籍慶尚北道尚州郡<以下略>から釜山市<以下略>に転籍し、四女Uが一九三六年(昭和一一年)七月一七日釜山府<以下略>で出生し、五女Vが一九四〇年(昭和一五年)三月九日に (昭和九年)九月六日従前の本籍慶尚北道尚州郡<以下略>から釜山市<以下略>に転籍し、四女Uが一九三六年(昭和一一年)七月一七日釜山府<以下略>で出生し、五女Vが一九四〇年(昭和一五年)三月九日に呉市<以下略>で、六女Wが一九四四年(昭和一九年)五月二五日に呉市<以下略>で出生したことが記載されていることが認められるのであつて、この事実とBの前記供述を総合すると、B一家は、Bが三一才のとき(前掲乙第一七号証の二によると、Bは、一九〇〇年四月八日生れであることが認められるから、三一才のときというのは昭和六年ということになる。)慶尚北道尚州郡から釜山市に移住し、昭和九年に転籍手続をし、Bは、昭和一一年七月一七日同市で四女Uを出産し、その後昭和一五年三月九日に五女Vを呉市で出産するまでの間に来日したものと認められる。 そして、ZがBの来日時期を昭和一一年と供述していることは前記のとおりであり、前掲乙第二三号証によれば、Qは、「姉が結婚するというので、母か祖母に連れられて一〇才位のとき来日した。」と述べているところ、Qは、一九二五年生れであるから、同人が来日したのは、昭和一〇年ないし一一年と認められる(なお、前掲乙第一七号証の二によると、Qの姉は、金Sであり、同人は、昭和一二年四月三〇日に婚姻の届出をしていることが認められるから、この点も一〇才位のとき来日した旨の右供述が正確であることを裏付けている。)もつとも、前掲乙第四四号証によれば、Qは、昭和四三年二月六日の口頭審理の際、特別審理官の質問に対して「何才のときに来日したかはつきりしない。」と述べ、他方、原告の質問に対しては「六、七才のとき来日した。」と述べていることが認められるが、この供述は質問者によつて供述内容が異なつており、にわかに信用できない。また、Qは、本件訴訟で「三、四才の頃一家 方、原告の質問に対しては「六、七才のとき来日した。」と述べていることが認められるが、この供述は質問者によつて供述内容が異なつており、にわかに信用できない。また、Qは、本件訴訟で「三、四才の頃一家で来日し、母と一緒に朝鮮に帰り、七、八才のとき再び来日した。」と証言しているが、二度来日したというのは、Bの前記供述とも異なつており信用し難い。 以上検討したところによれば、Bは、昭和一一年七月一七日に釜山市で出産し、同年中に来日した可能性がきわめて強い。 次に、Bが来日した際、長男Cを同行したか否かであるが、前掲乙第八号証の一ないし三、第一五号証の一、成立に争いがない乙第一四号証、第一五号証の三、第五四、第五五号″証、証人Rの証言及び被告入国審査官田中勲本人尋問の結果によると、原告は、昭和二二年七月二五日E名義で外国人登録をした際、登録申請書に入国年月日昭和一一月一三日、上陸地下関市と記載し、昭和二三年八月二日C名義で外国人登録申請をした際には、申請書に上陸年月日一九三六年一一月、上陸港下関と記載していること、その後昭和三三年八月尾道港から韓国へ引揚げる際には、昭和一一年一一月一〇日(一四才)下関港に上陸した旨申述して出国手続をし、その際、尾道税関出張所長宛に提出した陳情書等にも昭和一一年一一月来日した旨記載していることが認められるのであつて、これによれば、原告は、従来、昭和一一年(一九三六年)一一月来日したことを自認していたことが認められる。 もつとも、原告は、前掲乙第四三号証において「昭和一一年一一月に来日したというのは嘘であり、自分が外国人登録申請書等に昭和一一年一一月に来日したと記載したのは、一一・一一とわかり易く記載したものである。」と供述し、本人尋問(第一回)においては「建設業者の登録を受けるのに無学では困るので、学歴を詐称するた 請書等に昭和一一年一一月に来日したと記載したのは、一一・一一とわかり易く記載したものである。」と供述し、本人尋問(第一回)においては「建設業者の登録を受けるのに無学では困るので、学歴を詐称するため釜山で学校を卒業したことにしたが、年齢的に学校卒業が昭和一一年になるので、これとつじつまをあわせ、学校卒業後の昭和一一年一一月に来日したと記載したものである。」と述べている。しかしながら、前掲乙第八号証の三によれば原告は、入国年月日を一九三六年一一月と記載しているのであるから、わかり易いとはいえないし、わかり易いということで適当に来日時期を記載したというのであれば、昭和三三年八月に記載した来日の年月とそれより一〇年前に外国人登録をした際に記載した来日の年月とが一致するというのはきわめて不自然であるというほかない。前掲乙第一五号証の二及び成立に争いのない甲第四号証によると、原告は、県知事宛の建設業者登録申請書等には、自分の学歴として昭和九年三月釜山公立普通学校卒業と記載していることが認められるから、卒業の時期とつじつまをあわせるために昭和一一年一一月に来日した旨記載したというのは、単なる言い逃れに過ぎないものと認められる。原告が前記のように終始昭和一一年一一月に来日したと記載したのは、自己の体験に基いて記載したものと見るのが最も自然である。 そうしてみると、原告は、昭和一一年にBに連れられて来日した可能性がきわめて強く、Cが七才の頃死亡したというのは、すこぶる疑わしい。 なお、証人P3は、「原告が最近訪ねて来て話したところ、自分が昭和の始め頃、竹原市で鉄工所をしていた際、五、六才の男の子を一回殴つたことがあり、そのことが原告の話と一致するので、原告とその子供は同一人物と思う。」と証言している(甲第一五号証にも同人の同趣旨の供述記載がある。)が、四 工所をしていた際、五、六才の男の子を一回殴つたことがあり、そのことが原告の話と一致するので、原告とその子供は同一人物と思う。」と証言している(甲第一五号証にも同人の同趣旨の供述記載がある。)が、四〇年前に子供を殴つたことや殴つた子供の面影を記憶しているというのは不自然であり、右証言は、たやすく信用できない。 また、証人P4は、「昭和六年頃原告と戦争ごつこをして遊んだ。」と証言している(甲第一六号証にも同人の同趣旨の供述記載がある、)。しかし、同証人は、「当時、原告宅には、両親と女の子が二、三人いた。」と証言しており、原告方の右家族構成は、前記認定のA一家の家族構成に照らすと、Bが来日後、Aと同居するようになつてからの家族構成に一致するところ、Bが来日したのは、昭和一一年頃であるから、右証言は、時期的に矛盾があり信用し難い。 (二) K夫婦及びA夫婦が原告を養子としたかどうかについて原告は、本訴において「自分は、生後間もなく実母からK夫婦に養子にもらわれたが、九才の頃(昭和五年頃)K夫婦が離婚し、原告は、Kに引取られ、同人は間もなく当時呉市広町横路に居住していた朝鮮人LことA夫婦に原告を養子にやつた。」と主張し、本人尋問においてこれと同趣旨の供述をしている(但し、原告がA夫婦にもらわれた時期は、七才の頃と供述している。そして、前掲乙第二一、第三六、第三七、第四六号証にも右と同趣旨の原告の供述記載がある)。 しかしながら、成立に争いのない甲第二八号証の一、二乙第七二号証の三によると、Kは、一九〇七年(明治四〇年)一〇月七日生れであることが認められるところ(原告は、本人尋問(第一回)においてKの出生届は、四年位遅れたと聞いていると述べ、前掲甲一八号証及び録音テープ(Bの供述を録音したもの)の検証の結果によれば、Bは、「Kは、自分より二つ年上で ころ(原告は、本人尋問(第一回)においてKの出生届は、四年位遅れたと聞いていると述べ、前掲甲一八号証及び録音テープ(Bの供述を録音したもの)の検証の結果によれば、Bは、「Kは、自分より二つ年上であつた。」と述べている(Bは、前認定のとおり一九〇〇年生れであるから、同人の右供述に従えば、Kは、一八九八年生れということになる。)が、右両供述の間にもかなり喰違いがあるばかりでなく、これを裏付けるに足る客観的資料もなく、右両供述は、にわかに信用できない。かえつて証人Mの証言(第三回)により真正に成立したものと認められる甲第二七号証の一、二によれば、Kの死亡診断書には、同人の生年月日が一九〇七年、同人が一九六九年一月一五日に死亡した際、満六〇才であつたことが記載されており、これは、Kが一九〇七年生れである旨の前記認定を裏付けるものである。)、原告の主張によれば、原告は、大正一〇年(一九二一年)一二月に生れ、生後間もなくKに養子にもらわれたというのであるから、Kは、一四才の時に原告を養子にもらつたことになり、著しく不自然である。 また、Bが来日したのは、前認定のとおり昭和一一年で、A夫婦が一緒に日本で生活するようになつたのは、同年以降のことであるから、原告が昭和五年(あるいは同三年)に呉市でA夫婦に養子にもらわれるということはありえないことである。 そのうえ、前掲乙第一、第二一号証によると、原告は、令違反容疑で大阪入国管理事務所で取調を受けたが、右取調の最初の段階である昭和三四年二月二〇日には、「自分は、実母GからKに養子にやられ、同人に養育されたと同人から聞いている。」と述べ、KからさらにAに養子にもらわれたことについては、なんら供述していなかつたのであるが、その後昭和三八年一二月六日に至りKからA夫婦にもらわれた旨供述を変更したことが認められ ら聞いている。」と述べ、KからさらにAに養子にもらわれたことについては、なんら供述していなかつたのであるが、その後昭和三八年一二月六日に至りKからA夫婦にもらわれた旨供述を変更したことが認められる。 この点につき、原告は、本人尋問(第一回)において「最初、大阪入国管理事務所で取調べを受けた際、取調官が一〇名以上、被調査者も五、六人以上おり、自分がKからさらにAにもらわれたということは、自分自身があわれで言わなかつたのである。」と述べている。しかしながら、韓国人船員Cとして大阪港に上陸した原告が韓国人Cではないかとの取調官の疑念を晴らし、原告が真実は日本人Gの子であることを証明するためには、原告がA夫婦の死亡した長男Cの身代りとして同夫婦に育てられたという事実が最も重要な事柄であるのに、その事実を単に前記のような理由で隠して述べなかつたというのは、全く理解し難いところである。 以上、検討したところによると、原告が生後間もなくK夫婦にもらわれ、その後九才(もしくは七才)の頃A夫婦にもらわれたというのは、すこぶる疑わしいといわざるをえない。 なお、成立に争いのない乙第一〇号証の二によると、P5(同人は、前掲乙第二一号証によるとKの妻であると認められる。)から原告宛の手紙には、「生後一か月しかならない原告を三八年間育成した。」旨記載されていることが認められるが、原告の主張によれば、原告は、大正一〇年生れであり、Kが先妻と離婚し、再婚したのは昭和五年以降のことで、Kは、再婚する際、原告をA夫婦に養子にやつたというのであるから、Kの再婚した妻が生後一か月の原告を養育するということはありえないことであり、右乙第一〇号証の二の記載内容は、原告の主張とも矛盾し、信用できない。 次に、成立に争いのない乙第一八号証の三によると、Bより原告に宛てた手紙には、 原告を養育するということはありえないことであり、右乙第一〇号証の二の記載内容は、原告の主張とも矛盾し、信用できない。 次に、成立に争いのない乙第一八号証の三によると、Bより原告に宛てた手紙には、「自分は、四〇年前に生後一か月の原告を実母よりもらい育てた。」と記載されていることが認められるが、原告は、A、B夫婦は原告が九才の頃原告を養子にもらつたと主張し、本人尋問(第一回)においては七才の頃同夫婦に引取られたと供述しているのであつて、右手紙の記載内容は、原告の主張や供述とも異り信用し難い。 また、Kより広島入管所長宛の一九六八年(昭和四三年)一月二六日付手紙である成立に争いのない乙第四二号証には、「Kが原告をIよりもらつた。原告の実母Gから昭和一四年頃原告を返してほしいという話があり、Gと一緒にA方に赴き、原告を返すように説得したが、承諾しなかつたので、原告を陰でGに会わしたこともある。」と記載されているが、Gが原告を返すように交渉したとか、原告に会つたということは、G自身全く供述していないことであるから、右手紙の記載内容も、とうてい信用できない。 (三) 原告がGの子であるか否かについて原告は、「自分は、Gの子である。」と主張し、成立に争いのない乙第四、第六、第三〇号証によれば、Gは、入国警備官、警察官、入国審査官の取調べを受けた際、右主張に符合する供述をしているので、以下、同人の供述について検討する。 前掲乙第六号証によると、Gは、「自分は、二五才のとき尾道でHと内縁関係を結び、結婚後一年位して夫婦喧嘩をして呉の実家に帰つたが、別の男と関係して妊娠し、二九才になつた大正一〇年一〇月一六日頃阿賀の叔父P6方でその隣家にいた叔母のP7に産婆を頼んで男児を出産し、約一ヵ月位後に子供を朝鮮人に養子にやり、けんか別れをして一年半位後に夫Hの許 て妊娠し、二九才になつた大正一〇年一〇月一六日頃阿賀の叔父P6方でその隣家にいた叔母のP7に産婆を頼んで男児を出産し、約一ヵ月位後に子供を朝鮮人に養子にやり、けんか別れをして一年半位後に夫Hの許に帰つた。」と供述し、前掲乙第四号証では、「Hと喧嘩別れをして尾道から阿賀の父親の許に帰り、二七才の時に妊娠し、叔母に本籍(世羅郡大田村)より来てもらつて大正一〇年一〇月一一日に男児を出産し、出産後三ヵ月位たつた二八才のときに尾道に帰つた。」と供述し、前掲乙第三〇号証では「自分が出産したのは大正一〇年一〇月一一日と思うが、はつきりしない。」と述べている。 Gの右供述は、出産年月日についてあいまいな点があるうえに、供述相互の間に喰違いがあり、しかも成立に争いのない乙第七〇号証によれば、Gは、昭和三四年一月二七日原告の出生届をした際には、右供述と異なり生年月日を大正一〇年一二月一六日として届出をしていることが認められるのである。 さらに、前掲乙第四号証によれば、Gは、二七才のとき妊娠し、出産をして三ヵ月位たつた二八才のときに尾道に帰つた、というのであるから、出産したのは、二七、八才のときということになるが、成立に争いのない乙第三号証によれば、Gは、明治二五年七月二二日生れであることが認められるから、前記供述のようにGが大正一〇年一〇月もしくは同年一二月に出産したとすれば、出産したのは二九才のときということになり、矛盾を生ずる。 また、Gの前記供述は、産婆をしたP7が隣家に住んでいたのか、世羅郡にいたのかについても喰違がある。 さらに、成立に争いのない乙第五号証によれば、P7は、「Gに頼まれてお産の手伝をするため尾道へ行つた。Gは、尾道の何町だつたか憶えていないが、狭苦しい家に一人住んでいたように憶えている。」と述べており、Gの出産場所についてGの前 証によれば、P7は、「Gに頼まれてお産の手伝をするため尾道へ行つた。Gは、尾道の何町だつたか憶えていないが、狭苦しい家に一人住んでいたように憶えている。」と述べており、Gの出産場所についてGの前記供述と異なる供述をしている。 以上のように、Gの出産に関する供述には、重要な点において矛盾や喰違いがあり、その信ぴよう性については強い疑問を抱かざるをえない。 原告は、Gは原告が同人の戸籍謄本を所持していた事実及び原告の背中にあるほくろによつて原告を自分の子と確認したのであつて、原告は、Gの子に間違いないと主張する。 この点につき、Gは、前掲乙第六号証(同人の昭和三四年二月三日付の警察官に対する供述調書)では、「昭和二〇年一〇月尾道駅前でF(Gが生んだ子)を養子にやつた朝鮮人に会い、自分の住所を教えてそのまま別れた。原告が昭和三四年一月一九日頃訪ねて来た際、原告の背中にあるほくろによつて原告が実の子であることを確認した。」と述べ、戸籍謄本のことについては全く触れていないのであるが、前掲乙第四号証(昭和三四年三月九日付の入国警備官に対する供述調書)においては「終戦の年の秋、尾道駅前でFを養子にやつた朝鮮人に会い、駅裏で自分の戸籍謄本を渡した。原告が昭和三四年一月二〇日頃右戸籍謄本を持つて訪ねて来たので、原告の背中にあるほくろによつて自分の子であることを確認した。」と述べている。そして、前掲乙第三〇号証(昭和四〇年六月二三日付の入国審査官に対する供述調書)では、「背中のほくろや顔付きによつて原告を自分の子と確認した。」と述べ、「原告は、昭和三四年一月に訪ねて来た際、証拠となるものは持つてこなかつたか。」との質問に対し「何も持つてこなかつた。」と答えながら、その後では、「昭和二〇年一〇月頃Fを養子にやつた朝鮮人に会い、その際渡した戸籍謄本を原告が持 て来た際、証拠となるものは持つてこなかつたか。」との質問に対し「何も持つてこなかつた。」と答えながら、その後では、「昭和二〇年一〇月頃Fを養子にやつた朝鮮人に会い、その際渡した戸籍謄本を原告が持つてきた。先程、何も持つてこなかつたと答えたのは、土産のことと感違いしたためである。」と供述している。右に見たとおりGが戸籍謄本を朝鮮人に渡したことや原告がGを訪ねた際、戸籍謄本を持参したことについてのGの供述には一貫性がないばかりではなく、前掲乙第六号証によれば、Gは、Fを養子にやつた朝鮮人には当時二、三回会つたのみでその後は全く会つていないというのであつて、それから約二四年を経過した昭和二〇年にその朝鮮人の顔を憶えていたというのは、不自然であるし、前掲乙第四号証では、「尾道駅前であちこちうろうろしている朝鮮人がおり、どこか見おぼえのある人だつたので、尋ねたところ、その人がFの育ての親であつた。」と述べているのであるが、あまりに偶然すぎ不自然であるとの感を免れない。 また原告は、Aから出生の秘密を打開けられ、Gの戸籍謄本を渡されたと主張し、前掲乙第三七、第四三号証及び本人尋問(第一回)においてこれに副う供述をしており(もつとも、前掲乙第一号証によると、原告は、最初、Kより出生の秘密を打明けられ、戸籍謄本を渡されたと述べていたが、後に右のように供述を変更した。)、他方Gの前記供述によると、Gが戸籍謄本を渡したという朝鮮人は、Kということになり、そうすると、Kよりどのような経過で戸籍謄本がAに渡されたのか問題となるが、原告は、この点についてなんら供述していないのである。 以上の点に照らすと、Gが戸籍謄本を朝鮮人に渡し、原告がこれを持参したので、Gがこれによつて原告を自分の子と確認したということは、にわかに信用し難い。 次に、成立に争いのない乙第六四 いないのである。 以上の点に照らすと、Gが戸籍謄本を朝鮮人に渡し、原告がこれを持参したので、Gがこれによつて原告を自分の子と確認したということは、にわかに信用し難い。 次に、成立に争いのない乙第六四号証の三によれば広島大学医学部P8は、原告の背中にあるほくろについて「上背部の小腫癌であつて、色素性母斑の真皮肉型と診断され、このような母斑は、生来性のものであり、人工的に作成しうるものではないが、生下時よりみられるものはむしろ稀であつて、生後時を経て発生するものが多いといわれている。」旨の鑑定をしているのであつて、これによれば、Gが生んだ男児の背中にほくろがあつた旨の同人の供述についても疑問が残る。 (四) 原告が自分の出生の秘密を知つてGと親子の対面をするまでの経過について原告が出生の秘密を打明けられ、実母Gと対面するまでのことは、原告にとつてきわめてシヨツキングな印象深い出来事であり、これに関する記憶も鮮明なはずである。 しかるに、前掲乙第一、第二一、第三七、第四〇、第四三号証、原告本人尋問の結果(第一回)によると、原告は、当初、自分がGの子であることを打明け、その証拠として同人の戸籍謄本を手渡したのは、Kであると供述していたのに、後にこれをAと訂正したり、出生の秘密を打明けられて来日した後、尾道市栗原町に居住していたGを探し出すまでの経過に関しても原告の供述自体の間に不一致があるばかりでなく、原告とGが親子の対面をし、親子であることを確認するのに関係したと述べているG、山内弥、Hの各供述と原告の供述との間にもそごが認められ、直ちに信用し難い。 四以上、種々の観点から検討したところによると、原告が日本人Gの子であるとの原告の主張に副う証拠には、矛盾や不合理な点が数多くあり、いずれも信ぴよう性に乏しいのに対して原告が韓国人A、B夫婦の長 四以上、種々の観点から検討したところによると、原告が日本人Gの子であるとの原告の主張に副う証拠には、矛盾や不合理な点が数多くあり、いずれも信ぴよう性に乏しいのに対して原告が韓国人A、B夫婦の長男Cであることを認めるべき有力な証拠資料の存することは、前記のとおりであつて、原告は、右Cであると認めざるをえない。 そして、本件においては、原告が日本人Gの子であること、すなわち、原告の父が知れない場合において原告の母が日本人であることによる日本国籍の取得以外に日本国籍の取得原因についてなんら主張、立証がないから、原告は日本国籍を有しない外国人であると認めるほかない。 五原告が大阪港入国審査官より寄港地上陸許可を受けて上陸し、当該許可書に記載された期間を経過して本邦に残留していることは、当事者間に争いがない。 そうすると、原告が令二四条六号に該当するとして、被告主任審査官がなした本件収容令書発付処分及び被告入国審査官がなした本件認定処分には、なんら瑕疵はなく、適法であるということができる。 よつて、原告の本訴請求は、いずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用し、主文のとおり判決する。 (裁判官森川憲明高升五十雄安次嶺真一)

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