主文 被告人を懲役10年に処する。 未決勾留日数中240日をその刑に算入する。 理由 (犯罪事実)被告人は,平成15年3月12日午前3時15分ころ,名古屋市a区bc丁目d番e号所在のfビル(鉄筋コンクリート造り5階建て)の5階部分にあるA居宅の南側10畳間において,B(当時60歳)に対し,同人の間近で同人に向けて,石油ファンヒーター用のカートリッジを振って灯油を撒布し,さらに同室内に敷かれた絨毯の上に灯油を撒き散らした上,同人らが同室内に佇立などしていることを知りながら,敢えて,その絨毯に持っていた簡易ライターで点火して火を放つ暴行に及び,その火を,同室の壁面,床,同人の全身等に燃え移らせ,A及びC(当時88歳)が現に住居として使用し,Bらが現在する居宅(床面積約72.9平方メートル)のうち,前記10畳間及び同室に隣接する仏間等約42.53平方メートルを焼損し,同日午後10時58分ころ,同市g区h町i番地j号所在のD病院において,前記暴行によりBを全身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡するに至らせるとともに,前記仏間の焼損の際,同仏間で就寝していたCを全身火傷により死亡させた。 (弁護人の主張に対する判断)第1 本件公訴事実の要旨は,「被告人は,fビル5階A居宅の南側10畳間において,B(以下,Bという。)に対する殺意をもって,同人の着衣及び床のじゅうたんの上に灯油約3リットルを撒き,そのじゅうたんに所携の簡易ライターで点火して放火し,その火を,同室の壁面,床,同人の全身等に燃え移らせ,A及びC(以下,Cという。)が現に住居として使用する居宅のうち前記10畳間及び同室に隣接する仏間等を焼損し,同日午後10時58分ころ,D病院において,前記暴行によりBを全身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡させて殺害するとともに,仏間の焼損の 居宅のうち前記10畳間及び同室に隣接する仏間等を焼損し,同日午後10時58分ころ,D病院において,前記暴行によりBを全身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡させて殺害するとともに,仏間の焼損の際,同所にいたCを全身火傷により死亡させた。」という現住建造物等放火及び殺人を内容とするものである。 これに対し,被告人及び弁護人は,本件犯行当時,被告人にはBに対する殺意はなかったとして,殺人罪の成立につき争うものであるが,当裁判所としても,本件において,被告人にBに対する殺意があったとするには合理的な疑いが残り,殺人罪が成立するとは認められず,被告人のBに対する行為は傷害致死罪に該当するにとどまるとの判断に至った。以下,その理由について述べる。 第2 前提事実関係各証拠によれば,本件犯行に至る経緯及び犯行状況等として以下の事実が認められる。 1 被告人は,父Bと母Eの間に次男として出生し,高校を中退後,土木会社の作業員等として稼働し,本件犯行時に至った。被告人は,本件犯行時,E及び実兄Fとともに名古屋市a区k町所在のmマンションn号(以下,E方という。)に居住していた。また,同所からほど近いfビル5階には,被告人の祖母C及び叔父Aが居住していた。 Bは,被告人らと共に生活することなく頻繁に外泊を繰り返し,家計を省みることもなく,被告人から借金をするなどの生活を送っており,被告人は,かかるBと関わり合いたくないという思いを抱いていた。一方,Fは,定職に就くことなく,Eらから金銭をせびり取るなどして生活しており,自己の要求が受け入れられないとEや被告人に暴言を吐き,暴力を振るうなどしていたものであり,被告人は,Fに対して,強い嫌悪の情を抱いていた。 2 ところで,被告人ら家族は,かつてfビルに同居しており,平成13年夏ころ同ビルが競売に や被告人に暴言を吐き,暴力を振るうなどしていたものであり,被告人は,Fに対して,強い嫌悪の情を抱いていた。 2 ところで,被告人ら家族は,かつてfビルに同居しており,平成13年夏ころ同ビルが競売に掛けられ,1階から4階部分を明け渡すこととなったことを受けて,被告人,F及びEは転居したのであるが,そのころより,Fは,同ビルを取り戻すために借金をしたなどとして,Bに対して執拗にその支払いを求め,曖昧な返事しかできない同人に対して暴力を加えるようになったため,同人は,今まで以上に頻繁に外泊し,ほとんどE方に戻らなくなった。Bが家に寄りつかなくなったことに憤激したFは,被告人に対し,Bがこのまま金を返さなければ暴力団員に引き渡すなどと言い出し,Bを捕まえて暴力団員に引き渡すまでの間,被告人に見張りをしていてもらいたいなどと依頼した。被告人は,Fとの間で,Bを暴力団員に引き渡したらEに暴力を振るわないことを条件としてこの申し出を受け,Bを見付けたら,連絡を取り合うことも約束したが,その後も被告人はFに隠れてBと連絡を取り合っていた。 3 本件当日午前1時ころ,fビル5階において,偶然Bに遭遇したFは,Bを足蹴にするなどした後,被告人に連絡をして,同所に呼び寄せた。被告人は,fビル5階の南側にある10畳間(以下,10畳間という。)でBを見るや,同人の右肩付近を殴打したが,数回殴るに止まり,それ以降はFがBを多数回にわたって殴打し足蹴にするなどの暴行に及んだ。 本件10畳間は,床全面に絨毯が敷かれているほか,布団,こたつ台,さらには段ボール箱等の可燃性の物が置かれていた。また,同室の南側にはベランダに通じる掃き出し窓が設置され,カーテンが掛けられていた。なお10畳間に隣接する仏間には,高齢のため足が不自由なCがいた。 4 Bに対する暴行を一旦止め 物が置かれていた。また,同室の南側にはベランダに通じる掃き出し窓が設置され,カーテンが掛けられていた。なお10畳間に隣接する仏間には,高齢のため足が不自由なCがいた。 4 Bに対する暴行を一旦止めたFは,被告人に対してBを見張るように命じ,E方に向かった。Fが外出した後,被告人は,しばらくの間Bを見張っていたが,そのうち,Bをビニール紐で10畳間南側掃き出し窓近くに置かれた椅子に縛り付け,自身は,10畳間の出入口付近に布団を敷いて横になった。 5 一方,Fは,E方にあったファンヒーターから灯油入りのカートリッジタンク(容量3.5リットル,以下,カートリッジという。)を取り出し,それを持ち,Eを連れてfビルへと戻った。その際被告人は,10畳間で依然横になっていた。Fは,再び手拳や同所に置いてあった金属棒などで,Bの腕や背中等を殴打し,腰部を足蹴にするなどの暴行に及んだ。かかる暴行の最中,Bを椅子に縛り付けていた紐がゆるんでほどけた。さらに,Fは,持ってきたカートリッジをBやEに示しながら,「灯油を撒け。火を付けろ」などと怒鳴って,Bらを脅すとともに,Eに対しても同女の腕部を殴打するなどの暴行に及んだ。 6 Eが殴打されるのを見た被告人は,布団から起きあがり,「なに弱い者いじめしとるんだ」などと言うとともに,Bに対し,「お前がだらしないからだろう」などとも言った。さらに,台所より包丁2本を持ち出して,10畳間に置かれていた衣装ケースに包丁を突き刺したが,Fは,何ら態度を改めず「灯油を撒け。火を付けろ」などと怒鳴り続けた。 7 すると,被告人は,カートリッジを持って給油口を開けてB(この際にBが床に座っていたのか立っていた状態なのか必ずしも明確ではないが,被告人の供述等によれば座っていた状態と認定できる。)やFがいる付近に行き,Bから110ない リッジを持って給油口を開けてB(この際にBが床に座っていたのか立っていた状態なのか必ずしも明確ではないが,被告人の供述等によれば座っていた状態と認定できる。)やFがいる付近に行き,Bから110ないし135センチメートルほどの距離で,Bの方向に向けて両手に持ったカートリッジを横に倒して前後に数回振って灯油を撒布し,さらに,若干後退した上で,カートリッジの給油口を下に向け,中に入った灯油のほぼ全量を絨毯の上に撒き散らした。そして,引き続き,被告人は,簡易ライターを取り出し,B及びFに見せつけながら火を付ける素振りをした後,ライターに点火し,Bから1メートルほど離れた自分の足元の絨毯にこれを近づけて火を放った。この前後ころ,Bは,掃き出し窓を背にしてFと対峙しており,絨毯の上に置いておいたハーフコートを着込み,Fに対して,外で話をしようなどと述べて,10畳間から出ようとする素振りをみせていた。 8 絨毯から燃え上がった炎は,間もなく南側掃き出し窓にかかっていたカーテンに燃え移るとともに,Bのズボンに引火した。B及び被告人らは,Bのズボンの火を消そうとしたが,その際にBは,灯油が撒布されていた絨毯の上に転倒し,同人の上着にも着火するに至った。 被告人は,Bの着衣に炎が上がっているのを見ると,Fらとともに,布団を被せて消火しようとしたが,炎はさらに燃え上がった。このころ,Eは南側掃き出し窓を開けて,ベランダに逃げ出した。被告人らは,Bを台所に連れ出し,水をかけ,Bが着ていたズボンやハーフコートを脱がせるなどした。 被告人は,Bを連れて一旦玄関から逃げたが,Cが仏間に取り残されていることに気付いたため,同女の救出を試みたものの,炎と煙にまかれ,助け出すことができなかった。 9 Bは判示のとおり,全身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡 から逃げたが,Cが仏間に取り残されていることに気付いたため,同女の救出を試みたものの,炎と煙にまかれ,助け出すことができなかった。 9 Bは判示のとおり,全身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡した。頭部,顔面,陰部,腕部をはじめとするBの体表の相当部分には,3度の火傷(表皮と真皮がすべて壊死し,皮下組織まで熱作用が及んでいる状態)が見られ,Bのほぼ全身が炎による熱の影響を受けたものと認められた。 また,仏間に取り残されたCも全身火傷によって死亡した。 なお,Bが本件被害時に着用していたトレーナー,ハーフコート及びズボンからは灯油が検出され,このうちハーフコートは,下部分及び左袖部分が焼け焦げ焼失していた。一方,被告人が当時着用していたスウェットズボン及びFが当時着用していたジーパンからも灯油が検出されている。 第3 検討 1 まず,被告人の客観的な行為を見ると,絨毯が敷かれ,可燃物が多数置かれた室内において,カーテンの掛かった掃き出し窓を背にして,直ぐ横にはこたつが置かれているという場所にいたBの間近で,同人のいる方向に向けて灯油を撒布するなどした後,同人から1メートル余り離れた灯油の染みこんだ場所で絨毯に火を付けたというものであるが,被告人の放った火がBの着衣に引火し,その結果同人の死亡という結果が生じたことについては疑いを容れる余地がない。そして,前記認定のとおり,被告人は,Fから呼ばれて本件犯行場所に赴き,Bと対面するや同人に対して前記のとおりの殴打行為に及び,さらに,FがBを殴打しているのを制止せず,FがEを呼びに行った際にも,Fの指示を受けてBを見張り,同人をビニール紐で椅子に縛り付けるなどしており,これらに鑑みれば,本件犯行当時,被告人は,Bに対して相当程度の悪感情を有していたことが認められる。さらに,前記認定のと Fの指示を受けてBを見張り,同人をビニール紐で椅子に縛り付けるなどしており,これらに鑑みれば,本件犯行当時,被告人は,Bに対して相当程度の悪感情を有していたことが認められる。さらに,前記認定のとおり,被告人は,本件放火に至る直前に,包丁を持ち出して衣装ケースに突き刺して怒鳴るなどしており,本件当時の被告人は,相当に興奮し憤激した心理状態にあったとうかがわれる。これらに照らせば,被告人が放火に及んだ際,激情に駆られた結果,Bの死を予見しながら,これを認容し,敢えて放火に及んだ,すなわち同人に対し未必的な殺意を抱いて本件放火に及んだとの疑いは十分認められる。 2 しかしながら他方で,本件においては,被告人に未必的にせよBに対する殺意があったと認定するに疑いを差し挟む事情となる以下の諸点も指摘できる。 (1) 本件犯行の態様と人の生命に対する一般的危険性についてア撒布した灯油の量について検察官は,被告人が本件において撒布した灯油の量を約3リットルであると主張し,このことを殺意を推認するにあたっての1つの事情としてあげる。かかる主張は,カートリッジの中に灯油が8割ないし9割入っていた旨の捜査段階における被告人の供述(乙3号証18丁,乙8号証8丁)を主たる根拠とするものと思料される。 しかしながら,被告人は,前記認定のとおりの激情に駆られた状態で,カートリッジを持つと,直ちに灯油を撒布したことが認められるのであって,かかる状況下において被告人が,カートリッジ内の灯油の量を正確に認知し,記憶することができたのか疑いを差し挟む余地がある。 この灯油の量に関しては,Eは捜査段階において,ファンヒーターを掃除した際にカートリッジを持ち上げたところ,灯油が入っていると思ったが,余り重くなかった記憶であり,入っていたとしても3分の1 この灯油の量に関しては,Eは捜査段階において,ファンヒーターを掃除した際にカートリッジを持ち上げたところ,灯油が入っていると思ったが,余り重くなかった記憶であり,入っていたとしても3分の1とか4分の1くらいの量ではないかと思う旨供述しており(甲59号証4丁参照。なお,同供述調書は平成15年3月31日付けで作成されたものであるが,同月25日付の捜査報告書[甲35]によれば,Eは同月21日に事情聴取を受けた際にも灯油の量はカートリッジの4分の1くらいであった旨供述しており,Eのこの供述を受けて試算した灯油の残量は約0.875リットルであるとされている。),同供述の内容には,特段不自然,不合理な点はないのであって,信用できないものとして直ちに排斥することはできない。 さらに,Fも第2回及び第3回公判において,撒かれた灯油の量はコップ1,2杯程度であった旨証言している(第2回公判証人尋問調書2丁,第3回公判証人尋問調書6丁,13丁等)。Fは,捜査段階においても,具体的な量は定かではないが,カートリッジ内の灯油の量を被告人よりも少量であったと供述していたことがうかがわれる(乙8号証18丁)。Fの公判廷での供述は,被告人を庇うべく,敢えて少なく供述したものとの疑いは禁じ得ないものの,これらの供述に照らすと,撒かれた灯油の量が3リットル程度と断ずることには躊躇を覚えると言わざるを得ない。 以上のとおり,被告人が撒布した灯油の量が約3リットルもの量であったとするには多分に疑いが残り,最大でも1リットル程度の量であった可能性が否定できない。 イ灯油を撒布した意図及びその対象についてまた,検察官は,被告人が意図的にBの身体に向けて灯油を撒布したと主張し,このことを殺意を推認させるもう1つの事情とする。かかる主張は,Bのズ 。 イ灯油を撒布した意図及びその対象についてまた,検察官は,被告人が意図的にBの身体に向けて灯油を撒布したと主張し,このことを殺意を推認させるもう1つの事情とする。かかる主張は,Bのズボンのみならずハーフコート及びトレーナーなどの上着からも灯油が検出されたこと及び被告人が捜査段階において,灯油をBの身体にかけた旨の供述をしていること(乙8号証8丁)を主たる根拠とするものと思料される。 なるほど,前記のとおり,被告人は座り込んだ状態のBのいる方向にカートリッジの給油口を向けてカートリッジを前後に揺する方法により灯油を撒布しているのであるが,かかる態様及び被告人とBとの間の距離からすれば,客観的にはBの身体に灯油がかかる可能性はあるし,被告人もそのような可能性を認識し,若干量はBにかかっていることを認識はしていたであろう。 しかし,被告人が意図的にBの身体に灯油をかけようと考えていたのであれば,Bの身体に近付いた上で,カートリッジの給油口を下に向けて直接灯油を撒布するなどの方法をとるのが通常というべきであって,カートリッジを数回前後に振った後,同人から一歩退き,給油口を下に向けて絨毯に向けて撒布するという方法は,同人の身体に対して敢えて灯油を撒布するやり方としては,いささか不自然と評せざるを得ない。灯油が最も多量に撒かれたのは,Bから離れた被告人の足元の絨毯であったと認められる。このような灯油撒布の態様は,BのみならずF,Eら全員に対しての示威行為と見るのが自然である。 また,Bが着ていたトレーナー及びハーフコートから灯油が検出されたことは前記のとおりであるが,灯油の付着量については証拠上必ずしも明らかではない。さらに,Bの上着に灯油が付着した原因としては,被告人の撒布した灯油が直接かかった可能性の他に,前記のとおりBが灯油の撒 は前記のとおりであるが,灯油の付着量については証拠上必ずしも明らかではない。さらに,Bの上着に灯油が付着した原因としては,被告人の撒布した灯油が直接かかった可能性の他に,前記のとおりBが灯油の撒布された絨毯に倒れて転がった際に付着した可能性,あるいは,被告人が灯油を撒布した際,Bの近くに置かれていたハーフコートに灯油が付着した後,ハーフコートを着たためにトレーナーにも付着するに至った可能性も存する。そして,前者の可能性については,全身にわたってほぼ同じ程度の火傷が認められるというBの遺体の状況に齟齬するものではないばかりか,むしろ符合するものということができる。他方,後者の可能性について,検察官は,灯油がかかったハーフコートを着ることなど不合理である旨主張するが,Bが本件犯行の前後にハーフコートを着て外に出ようとしたことについては,捜査段階においてE及びFが一致して供述しているところであり(Eについて甲59号証11丁,Fについて甲61号証15丁),前記に検討したとおり,そもそも,撒かれた灯油の量がさほど多いものではなく,それ故ハーフコートにも若干量の灯油がかかったにとどまったことを前提とするならば,室外に出ようとするにあたってハーフコートを着用した可能性をおよそ不合理なものとして排斥することはできないというべきである。また,被告人が敢えてハーフコート目掛けて灯油を撒布したと認めるに足る証跡もない。 これらに加え,被告人が灯油を撒布した意図について,Eに無理強いをするFに腹を立てた結果として,その様な行為に及んだと述べる被告人の供述に照らせば,Bの身体に対し意図的に灯油を撒布したという点についても相当の疑いが残るといわざるを得ない。被告人がBの方向に向けてカートリッジを振り,結果として灯油がBのズボンにかかり,あるいはハーフコートに ば,Bの身体に対し意図的に灯油を撒布したという点についても相当の疑いが残るといわざるを得ない。被告人がBの方向に向けてカートリッジを振り,結果として灯油がBのズボンにかかり,あるいはハーフコートに染みたと見うる余地がある。これは,Bに灯油がかかっていたことを被告人が認識していたことまでを否定するというものではない。 ウ灯油の燃焼に関する性質及び被告人の点火の位置についてさらに,そもそも灯油は,ガソリンやシンナーなど揮発性の強い物質とは異なり,引火性はさほど強くなく,爆発的な燃焼の仕方をする燃料でないことは一般的にも知られた事実である。実際,本件後に行われた燃焼実験の結果[甲55号証]によれば,本件犯行場所に敷かれていたものと同様の素材と認められる絨毯に灯油500ミリリットルを撒布した後に簡易ライターで着火したところ,着火直後から10秒経過時には約5センチメートル四方に,20秒経過時には約10センチメートル四方に,30秒経過時に絨毯の約20センチメートル四方に延焼し,60秒経過時に,ようやく絨毯の約30センチメートル四方に延焼するとともに炎の高さが約30センチメートルとなったことが認められ,その事実を裏付けている。加えて被告人は,Bの身体や衣類に直接火を付けたわけではなく,近接した場所ではあるが被告人自身の足元の絨毯に火を付けたものであり,火が燃え広がるまでには若干の時間を要することからしても,Bが火を避けようとすれば,それが比較的容易にできる状況にあったことがうかがえる。そうすると,被告人が灯油を撒いて絨毯に点火した行為自体から,被告人において,その火が直ちにBに燃え移り,同人の死という結果に結びつくほどの危険性を有するものであるとまで認識した上で,敢えて放火に及んだといえるかは甚だ疑問である。 (2) 本件犯行時の被告 告人において,その火が直ちにBに燃え移り,同人の死という結果に結びつくほどの危険性を有するものであるとまで認識した上で,敢えて放火に及んだといえるかは甚だ疑問である。 (2) 本件犯行時の被告人の心情について前記のとおり,本件犯行当時,被告人がBに対してある程度は悪感情を抱いていたことに疑いを差し挟む余地はない。 しかし他方で,被告人は,本件放火に至るまで,Bを見付けたら互いに連絡を取り合うとの約束をしていたFに隠れてBと連絡を取り合っていたことや,Bと遭遇した際に数回肩付近を殴打したことを除いては,自らは暴行には及んでおらず,Fが一旦外出後Eを連れて本件犯行場所に戻り,再度Bに対して暴行に及んだときも,しばらくの間は布団に入ったままの状態であったことが認められるのであって,本件放火に至るまで被告人はBに対して,殺したいと思うことは勿論のこと,Bが死んでしまってもいいとの思いが生ずるほど同人を嫌悪していたとは認めがたい。そして,Fが「灯油を撒け。火を付けろ」などと言ってB及びEを脅し,同女に暴力を振るうようになったことを受けて,被告人は起き上がり,「弱い者いじめはやめろ」などと言い,さらには包丁を持ち出してきて衣装ケースを突き刺すなどの行為に及んでいることなどの経緯に鑑みれば,この時点での被告人は,Eに対して暴行に及び,灯油の撒布を無理強いするFに対して憤激していたとみるべきであって,その直後に行われた本件放火の際にも,被告人の憤激は主としてFに向けられていたものと見るのが相当である。 そうすると,本件放火時に主としてFに対して憤激の情を有していた被告人が,同時に,Fによって脅されていたBに対してまでも未必的にせよ殺意までをも有していたとみることは不自然と言わざるを得ない。 (3) 加えて,被告人は,前記のとおりBの着衣に炎が引 有していた被告人が,同時に,Fによって脅されていたBに対してまでも未必的にせよ殺意までをも有していたとみることは不自然と言わざるを得ない。 (3) 加えて,被告人は,前記のとおりBの着衣に炎が引火した直後から,Bに対して積極的に救護措置をとっていることは明らかである。このことは,被告人がBに対する未必的な殺意を抱いていたということと矛盾する事情とまではいえないものの,否定的な方向に働く事情であることは否定できない。 3 被告人の供述について(1) ところで,被告人の捜査段階における供述調書中には,前記のとおりカートリッジ内に八,九割灯油が入っていた旨,あるいはBの身体に灯油をかけた旨の供述のほか,「(灯油を撒いた)状態で父の身体やその近くに火がつけば,父が焼け死にますし」(乙8号証9丁),「父が焼け死ぬことは十分に分かっていました」(同号証17丁)など,被告人がBに対して未必的な殺意を有していたとも受け取ることのできる供述記載(以下,これらの供述を併せて被告人供述という。)が存する。そして,関係各証拠上,取調べに際し,被告人が取調官から威迫や暴行を受けたなどの事情を認めることはできず,捜査段階の被告人供述の任意性に特段の疑いを差し挟む余地はない。 しかしながら,他方で,上記の乙8号証の供述調書を除いては,捜査官に対する被告人の供述中に,火を放つことによって父親が死亡する可能性があることを被告人が認識していたとの供述記載は見当たらない上,被告人の全供述調書を子細に検討しても,被告人がBの死を認容していた旨の記載も存しない。むしろ,逮捕後まもなくの取調べに際しては,放火することによってB及びCを死なせたことにつき,「(自分は)2度死刑になってもいい」などの強い自責の念を示しながら,「父親を殺すつもりはなかった」(乙1号証1丁)旨 後まもなくの取調べに際しては,放火することによってB及びCを死なせたことにつき,「(自分は)2度死刑になってもいい」などの強い自責の念を示しながら,「父親を殺すつもりはなかった」(乙1号証1丁)旨明確に供述している。乙8号証のみに,未必的な殺意があった旨の供述記載が存在するものである。 そして,第4回公判において被告人は,被告人供述が録取された経緯について,「取調官が殺意がないことを分かってもらったから署名指印した」旨供述する一方で,「人を殺したいと思って殺したのなら殺人だと思う」とも供述している(速記録4丁等)。このことに,被告人供述が,いずれもBに対して確定的な殺意を有していなかった旨を内容とするものであることをも併せ考えたとき,上記の殺人の未必の故意を認めるがごとき供述は,以下のとおりの心理過程を経て録取されたと見る余地が生じる。すなわち,被告人は,Bらを死に至らしめたことに対して強い自責の念を有しているとともに,未必的故意に対する知識を持ち合わせていなかったことから,被告人としては,取調官からの追及を受けた際に,自分が引き起こした結果から見れば,Bが焼死する可能性を認識していたと思われても仕方がないし,Bを殺したいと思っていたのではないということさえわかってもらえればよいと考え,その旨をわかってもらえた,すなわち殺人の故意がなかったことを記載してもらったものと理解して,録取されるに至ったとみる余地が生じる。乙8号証の被告人の供述調書の記載をもって,Bに対する未必的殺意を認定することはできない。 (2) また,被告人は,公判廷において,父親に対する殺意を有してはいなかった旨供述するとともに,本件放火に至った動機について,概要,「灯油を撒け,火を付けろ」と怒鳴っていたFに対する憤激の余り,言われたとおりに火を付けてFを驚 おいて,父親に対する殺意を有してはいなかった旨供述するとともに,本件放火に至った動機について,概要,「灯油を撒け,火を付けろ」と怒鳴っていたFに対する憤激の余り,言われたとおりに火を付けてFを驚かせ,諫めようとした旨の供述をしており,これは,犯行再現の実況見分時にも,「こうやって何度かライターの火をつけて,兄と父を脅した」との説明をしていること,包丁を持ち出してきた際の言動等をも併せ考えれば,公判廷での供述を何ら信用できないものとして排斥することはできない。 第4 結論以上の検討のとおり,被告人が,Bに対して,未必的にせよ殺意を有していたと認めるには,なおその認定の妨げとなる諸事情が多数認められ,被告人にBの死についての予見及び認容があったとするには合理的な疑いを差し挟む余地があるので,殺人の故意を認定することはできない。 もっとも,被告人の本件放火行為は,Bを含めてF及びEが在室しているなか,Bらに対する脅しの意味を込めて敢えて灯油の散布された絨毯に火を放ったというもので,Bらに対する暴行と評価することができる。そして,その暴行と相当因果関係の認められる結果としてBが死亡したことも明らかである以上,被告人には傷害致死罪が成立するというべきである。 (法令の適用)罰条現住建造物等放火の点刑法108条傷害致死の点刑法205条科刑上一罪の処理刑法54条1項前段,10条(重い現住建造物等放火罪の刑で処断)刑種の選択有期懲役刑未決勾留日数の算入刑法21条訴訟費用の不負担刑事訴訟法181条1項ただし書(量刑の理由) 1 本件は,判示のとおりの現住建造物等放火及び傷害致死の事案である。 2 前記認定のとお の算入刑法21条訴訟費用の不負担刑事訴訟法181条1項ただし書(量刑の理由) 1 本件は,判示のとおりの現住建造物等放火及び傷害致死の事案である。 2 前記認定のとおり,本件は,日頃からF及びBに対して悪感情を有していた被告人が,Fの言動に憤激して放火に及んだものと認められるのであるが,灯油を撒布した上,深夜室内で放火におよぶという危険極まりない行為を正当化するものではない。本件犯行は極めて短絡的に行われたという他なく,酌量の余地は乏しい。 また,被告人は,現に人がいるとともに,隣室には高齢で足が不自由なCがおり,多数の可燃物が置かれた本件犯行場所において,B,F及びEの目前で灯油を撒布して火を放ったものである。fビルの周辺には雑居ビルや住居が密集していることをも併せ考えた時,本件犯行は,人の生命及び身体に対する重大な危険を省みない悪質なものというほかない。 被告人の本件犯行により,実の父親であるBを死に至らしめたのみならず,何ら落ち度が認められない,祖母であるCをも火災に巻き込み死亡させた。結果は極めて重大である。自らの着衣に火がつき,あるいは,火災によって生じた煙に巻き込まれた際の被害者らの恐怖,苦痛,そして,ついには生命を奪われてしまった被害者の驚愕や無念の情は察するに余りある。加えて被告人の本件犯行により,本件犯行場所等に居住していたAは焼け出されることとなったのであり,かかる財産的損害も軽くみることはできない。 これらの事情を併せ考えると,被告人の刑事責任は極めて重い。 3 しかしながら他方で,前記のとおり,被告人にはBに対する殺意までは認められないこと,同人が死亡するに至った点については,同人らが消火を試みた際,灯油が撒布された絨毯の上に転倒してしまったといった不幸な偶然が関わった面があること, ,被告人にはBに対する殺意までは認められないこと,同人が死亡するに至った点については,同人らが消火を試みた際,灯油が撒布された絨毯の上に転倒してしまったといった不幸な偶然が関わった面があること,放火後,被告人は,自らの危険を省みることなくB及びCを救出しようと試みたこと,捜査公判を通じ,本件犯行によって生じた結果を深く悔悟していることがうかがわれ,反省の情がみられること,被告人の亡祖父と知己の間柄にあった者が,社会復帰後の被告人の監督を誓約していること,前科がなく,家庭が崩壊するなか,被告人は一人真面目に稼働していたことなど被告人には酌むべき事情も認められる。 4 そこで以上の諸事情を総合考慮して,主文掲記のとおりの刑を量定した。 (求刑・懲役15年)平成16年3月5日名古屋地方裁判所刑事第4部裁判長裁判官沼里豊滋裁判官田邊三保子裁判官安達拓
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