- 1 - 主文 被告人を懲役5年6月に処する。 未決勾留日数中300日をその刑に算入する。 岐阜地方検察庁で保管中の文化包丁1本を没収する。 理由 被告人は,平成23年夏ころに,京都でAと知り合い,間もなく岐阜県関市内にある被告人方に転がり込んできたAと同居生活を始めた。被告人方で生活を始めたAは,生活費を被告人に渡すこともほとんどしないばかりか,全く働かずに被告人の年金や被告人が個人で経営していた理美容はさみ製造販売業により稼いだ金を使ってパチンコやスナックでの遊興にふけっていた。さらに,Aは,被告人に対して,仕事よりも自分を優先した生活をしろと強要するとともに,暴力,暴言で被告人を支配し,被告人は,Aに抑圧された生活を強いられていた。そのような中,被告人は,Aからの暴力や暴言について警察に相談したり,妹や知人に,Aに殺されるかもしれないなどと話したりすることもあったが,生き甲斐とする仕事の拠点でもある自宅を離れてAから逃げ出すこともできずにいた。このため,被告人は,Aから更なる暴力や暴言を受けることをおそれ,同人に反抗することもなく服従する生活を続けることを余儀なくされ,多大なストレスを抱えつつ,Aにいなくなってほしいという思いを募らせていた。 平成25年6月14日午後9時頃,被告人は,Aがいた被告人方近くのスナック「a」を訪れ,Aと共に飲食したが,翌日の早朝から仕事があったために,同日午後9時30分頃にはAを残して同スナックを出て帰宅の途についた。被告人は,帰宅に際して,コンビニエンスストアに寄って,Aが帰宅した後に食べるための唐揚げなどを購入し,帰宅後は,翌日の仕事に備えてベッドで休むなどしていた。一方,Aは,同スナックで最も高額な酒をボトルキープするなどしながら,翌15日午前1時5 って,Aが帰宅した後に食べるための唐揚げなどを購入し,帰宅後は,翌日の仕事に備えてベッドで休むなどしていた。一方,Aは,同スナックで最も高額な酒をボトルキープするなどしながら,翌15日午前1時5分頃まで同スナックで酒を飲み,3万5000円余り請求された飲食料金のうち手持ちの現金で支払える7000円のみを支払い,その余はつけ払いとして帰宅した。 - 2 -同日午前1時15分頃,早朝からの仕事に備えて被告人方寝室のベッドで休んでいた被告人は,同スナックから酒を飲んで帰宅したAから,つけの料金を今すぐに支払ってこいなどと言われて起こされ,寝かせて欲しいと頼んだにもかかわらず,さらに,被告人があらかじめAのために準備していた唐揚げについて,塩味ではなくしょうゆ味のものに今すぐ買い換えて来いなどと言われた。被告人は,このような理不尽な要求を受け,それまで2年近くにわたる抑圧された生活の中で蓄積されたストレスと相まって,Aに対する強い怒りを爆発させた。 (罪となるべき事実)被告人は,平成25年6月15日午前1時15分頃から同日午前2時頃までの間,岐阜県関市内の被告人方1階台所において,A(当時59歳)に対し,殺意をもって,その正面から同人の左腹部を文化包丁(刃体の長さ約17.7センチメートル)で1回突き刺した上,その左前胸部の同一箇所を前記包丁で4回突き刺し,よって,その頃,同所において,同人を心臓を貫通する胸部刺創に基づく失血により死亡させて殺害した。 (証拠の標目)略(争点に対する判断)被告人が,判示「罪となるべき事実」記載の文化包丁(以下,単に「包丁」というほか,「本件包丁」ということもある。)で被害者の前胸部を刺し,同人を胸部刺創に基づく失血により死亡させたことは証拠上容易に認められ,当事者間にも争いがない 記載の文化包丁(以下,単に「包丁」というほか,「本件包丁」ということもある。)で被害者の前胸部を刺し,同人を胸部刺創に基づく失血により死亡させたことは証拠上容易に認められ,当事者間にも争いがない。本件の争点は,①被告人が被害者の腹部を刺したか,②被害者が殺されることを承諾していたか,③被告人の責任能力の程度(病気の影響の程度)の3点である。 第1 争点①(被告人が被害者の腹部を刺したか)について弁護人は,被告人の供述に依拠して,被告人は被害者の腹部を刺していないと主張する。しかし,腹部の傷の形状や被害者には自らの腹部を刺す動機がないことなどの事情を総合すると,被告人が被害者の腹部を刺したことが優に認- 3 -められ,それを覆す事情は存在しない。また,前胸部についても,ほぼ同様の理由から被告人が1人で刺したものと認められる。以下,その理由を説明する。 1⑴ 関係証拠によれば,本件当時,現場である被告人方には,被告人と被害者の2人しかいなかったと認められるから,被害者の左腹部及び前胸部の傷は,それぞれ被告人か被害者本人のいずれかが1人で刺したか,あるいは,両者が2人で一緒に刺したことによって生じたものであると考えられる。 ⑵ そして,被害者の左腹部及び前胸部の刺創の形状や向き等に照らすと,それらの傷は,いずれも,被害者自らが1人で,あるいは,被告人の手を借りて刺したものとしては物理的に困難又は著しく不自然である一方,被告人が1人で刺したものとしては自然なものであると認められる。 アすなわち,被害者の司法解剖を行った甲医師の証言等の関係証拠によれば,被害者の左腹部及び前胸部の刺創の形状,向き等について以下の事実が認められる(以下の刺創の方向については,直立した状態の被害者を前提に,被害者正面に向き合った状態か 医師の証言等の関係証拠によれば,被害者の左腹部及び前胸部の刺創の形状,向き等について以下の事実が認められる(以下の刺創の方向については,直立した状態の被害者を前提に,被害者正面に向き合った状態から見た方向を指す。)。 被害者の左腹部と前胸部には,いずれも本件包丁により形成された刺創があった。 左腹部の刺創は,包丁の峰がやや左上,刃が右下の状態で,傷口からやや背中方向に向かいながらも地面に対してほぼ垂直方向に延びる直線状の傷である。同刺創は,左腸骨を貫通し,左臀部の筋肉に達しており,深さは約14.6センチメートルであった(以下,「腹部刺創」という。)。 前胸部の刺創は,左腹部が刺された後,短時間のうちに,包丁の峰がやや左上,刃がやや右下を向いた状態で,同一の傷口から包丁が抜けきらないようにして4回にわたり連続的に刺されて形成されたものである。最初の刺し傷は,上記傷口から左下方に向かい第5肋骨の上部を傷つけ,第4肋骨と第5肋骨の間を通って心臓を貫通し,右肺の内側にまで達しており,深さは約16.5センチメートルであった(以下,「胸部刺創①」という。)。その後の3回の刺し傷は,心臓及び右肺の内側- 4 -にできた刺創であり,胸部刺創①ができた直後に,傷口から包丁が抜けない程度に少し引き,第5肋骨をえぐるように包丁を反時計回りに回転させ,峰を左側,刃を右側にして,3回連続的に刺されてできたものである(以下,「胸部刺創②」といい,胸部刺創①,②をあわせて「胸部刺創」ということもある。)。 イ腹部刺創及び胸部刺創の形状等から推認できる刺し方また,関係証拠によれば,腹部刺創及び胸部刺創の形状を前提に,被告人,被害者と同程度の体格の警察官等が,本件包丁と同一の大きさ・形状の包丁又は模擬包丁を用いて,刺突場面の再現 ら推認できる刺し方また,関係証拠によれば,腹部刺創及び胸部刺創の形状を前提に,被告人,被害者と同程度の体格の警察官等が,本件包丁と同一の大きさ・形状の包丁又は模擬包丁を用いて,刺突場面の再現実験を行ったことが認められるところ,これらの実験をした乙証人及び丙証人の各証言や甲証言によれば,以下の事実が認められる。 腹部刺創について被害者自らがこれと同様の位置,角度で包丁を刺そうとすると,不自然な包丁の持ち方となって力を入れるのが困難になるか,自己の前腕部が自己の体に当たって深く刺すことができず,腹部刺創と同様の深さの傷をつけることができない。また,傷口のみに包丁の先端を合わせて腹部刺創と同様の約14.6センチメートルの深さの傷をつけようとすると,自己の前腕部が自己の体に当たることを避けて,力を入れやすい姿勢を得るために,その刺突の角度が垂直方向ではなく水平方向(背中方向)に向いてしまい,腹部刺創の角度と異なる刺創となってしまう。 一方,腹部刺創は,被告人が,立っている被害者の正面から,右手で逆手に包丁を持って(又は,右手で逆手に包丁を持って,これに左手を添えて),これを振り下ろすように刺してできた傷であるとすると自然な形状である。 胸部刺創について- 5 -刺されており,被害者自身が自らこの方向に刺すにはかなり不自然な姿勢と手首の動きを強いられる。このことは,同刺創と同一の傷口から概ね同じ方向に形成されている胸部刺創②についても同様であり,さらに,被害者が被告人の手を借りて2人で刺したとしても,被害者の姿勢や手首の動きが不自然になることは変わらない。また,胸部刺創①,②は連続して形成されたものである上に,心臓を貫く刺創であってその抜き刺しには体内での多量の出血を伴うことからすると,被害者が不自然な姿勢か の動きが不自然になることは変わらない。また,胸部刺創①,②は連続して形成されたものである上に,心臓を貫く刺創であってその抜き刺しには体内での多量の出血を伴うことからすると,被害者が不自然な姿勢から4回連続で自らの胸部を刺すことも考えにくい。 一方で,胸部刺創①,②は,被告人が,立った状態(前屈みになるなど体勢を崩法で持った包丁をやや右側から振り下ろすように刺してできた傷であるとすると自然な形状である。 ⑶ 被害者及び被告人の動機についてさらに,被害者には,自らを包丁で刺す動機がうかがわれない一方,被告人には,被害者を刺す十分な動機があったと認められる。 ア被害者に自らを刺す動機があるかすなわち,前記「犯行に至る経緯」のとおり,被害者は,被告人を暴力,暴言で支配しつつ,働かずに遊興の日々を過ごしていた上に,本件直前にも,スナックで飲食し,その店で一番高い酒をボトルキープし,スナックから帰る際には,同店のママに対して「細く長くよろしく」と言うなど,その後も従前と同様の生活を続けていこうとしていたことがうかがわれ,このように被告人に自己の生活費,遊興費を負担させて自由気ままに生きていた被害者には,自らの腹部や胸部を刺す動機が見当たらない。 イ被告人に被害者を刺す動機があるか一方で,被告人は,被害者に従属させられ続け,生き甲斐としていた仕事も思うようにさせてもらえないことにストレスを蓄積させる中,本件直前にも,早朝から仕事があるために寝室で寝ようとしていたにもかかわら- 6 -ず,些細なことで起こされて,理不尽な文句を言われたことから,怒りを爆発させ,被害者を刺すことを思い立ったとしても何ら不思議はなく,被告人には被害者の腹部及び胸部を刺す十分な動機があったと認められる。 ⑷ 以上 起こされて,理不尽な文句を言われたことから,怒りを爆発させ,被害者を刺すことを思い立ったとしても何ら不思議はなく,被告人には被害者の腹部及び胸部を刺す十分な動機があったと認められる。 ⑷ 以上の事情を総合すれば,腹部刺創及び胸部刺創は,いずれも被害者が自分で刺したものでも,被告人の手を借りて2人で刺したものでもなく,被告人が1人で被害者を刺してできたものであると優に認められる。 2 被告人供述の信用性これに対し,被告人は,公判において,腹部刺創については,自分が刺したものではなく,胸部刺創①,②については,被害者に命じられ,同人に手首をつかまれるなどしながら刺したなどと供述する。 しかし,それらの供述は,客観的な傷の形状と矛盾する上,その内容自体も不自然であることなどから,信用することができない。 すなわち,被告人は,被害者の腹部の傷を見た覚えはないとしつつも,被害者は,自分の腹部を5,6回刺したと言っていた,と供述している。しかし,腹部刺創は,上記のとおり単一の直線状の刺創であって,被告人の供述は,客観的事実と整合しない。また,被告人は,当時の被害者の服装は全裸であったといいながら,腹部の傷は見ていないと述べるなどその供述は不合理である。 さらに,被告人の供述によれば,被害者は,自らの腹部を5,6回刺した後に被告人を呼び,自分の胸を刺すように命じたことになるが,被害者があえてこのような行動をとる理由は考えられず,供述内容自体不自然である。 また,胸部刺創に関する被告人の供述も,第2で詳述するとおり,客観的な傷の形状等に矛盾するなどの理由から,信用することができない。 3 弁護人の主張について(腹部刺創について) これに対し,弁護人は,腹部刺創は,被害者自ら刺したものと考えても不自然ではないと 状等に矛盾するなどの理由から,信用することができない。 3 弁護人の主張について(腹部刺創について) これに対し,弁護人は,腹部刺創は,被害者自ら刺したものと考えても不自然ではないと主張する。 しかし,上記のとおり,腹部刺創は,その位置や角度から,被害者が自ら刺すには困難である。弁護人は,包丁が刺し入れられる最中に手を持ち換え- 7 -る可能性などについても言及しているが,持ち換えたとすれば,本件腹部刺創の形状が一直線状であることと矛盾し,仮に包丁を持ち換えることによって同様の刺創を形成することが物理的に不可能とまではいえないとしても極めて不自然である。また,被害者自身が刺したとして,なぜ,あえて包丁を持ち換えてまで刺しにくい位置,角度で刺したのか説明がつかない。 また,弁護人は,被害者と被告人の体格差等からすれば,被害者が被告人の攻撃に対応することは十分に可能であり,被告人が被害者の正面から近づき,腹部を刺して傷を付けることは著しく困難だったと主張する。 しかし,本件当時,被害者はスナックで飲酒してから帰宅したもので,相当に酔った状態(血中アルコール濃度1ミリリットルあたり2.54ミリグラム)にあったことが認められ,このような酔いの状態に加えて,日頃被害者の言うがままに従ってきた被告人が包丁を持って被害者に襲いかかることは被害者にとって予想外の出来事でもあったと考えられることからすると,被告人の攻撃に対し被害者が何ら警戒をしておらず,被告人からの突然の攻撃に対し,とっさに抵抗するなどの対処ができなかったとしても不自然ではない。そうすると,被告人と被害者との体格差等を考慮しても,事件当時,被告人が被害者の腹部を刺して腹部刺創を生じさせることが著しく困難だったとはいえない。 者の腹部を刺し しても不自然ではない。そうすると,被告人と被害者との体格差等を考慮しても,事件当時,被告人が被害者の腹部を刺して腹部刺創を生じさせることが著しく困難だったとはいえない。 者の腹部を刺したとの前記判断は揺るがない。 第2 争点②(被害者が殺されることを承諾していたか)について弁護人は,被告人の供述に依拠して,被害者は,言葉及び動作により,被告人に殺されることを明示的に承諾したと主張する。すなわち,被害者は,本件当日,左腹部に傷を負った後,被告人に対して,「死に別れの結果出したるから手伝え」と怒鳴り,被告人の右手に包丁を持たせて突き刺すよう命じた上,包丁を持った被告人の右手を掴んで自分の胸に包丁の切っ先を当てたり,「突っ込んで,上げてこい」,「根元まで突っ込んでくれ」と言ったりして,殺さ- 8 -れることを承諾したと主張する。しかし,同旨の被告人の公判供述は以下の理由から信用することはできず,被害者が被告人に殺されることを承諾したとは認められない。以下,説明する。 1⑴ 傷の形状等の客観的事実との矛盾そもそも,被告人は,腹部刺創には,一切関与しておらず,同刺創は被害者自身によるものであることを前提に供述をしているが,同刺創は前記第1のとおり,被告人によるものである。 また,被告人の供述によれば,被告人は,被害者の胸を1回包丁で刺し,包丁が抜けた後に,もう一度別の場所に包丁を刺し,そのまま包丁を上方に移動させて奥まで差し込み,それ以後包丁を触っていないと述べるが,被害者の胸部には,被告人の説明が正しいとすれば存在するはずの傷(包丁を刺したまま上方に動かした際に出来るはずの傷等)が存在せず,逆に,被告人の説明どおりであったとすれば存在しないはずの傷(刃を抜ききることなく連続3回刺されたことによ とすれば存在するはずの傷(包丁を刺したまま上方に動かした際に出来るはずの傷等)が存在せず,逆に,被告人の説明どおりであったとすれば存在しないはずの傷(刃を抜ききることなく連続3回刺されたことによりできた傷)が存在し,被告人の供述内容は,このような客観的な傷の形状と矛盾する。 ⑵ 被害者の動機 被告人に手伝わせて自ら命を絶つような動機は存在しない。 ⑶ 被告人の供述の変遷被告人は,事件直後から,本件について何度も供述を変遷させているが,被害者の承諾があった旨の供述は,起訴前には一度もしていなかった。 殺人罪の犯人であると疑われている被告人にとって,被害者の承諾があったことは,極めて重要な点であるといえ,もし被害者の承諾があったのであれば,当初からそのような供述をするのが自然である。にもかかわらず,起訴後に至って初めてそのような供述を始めたことに合理的な理由があるとは認められず,かかる不合理な供述の変遷は被告人の公判供述の信用性を低くするといわざるをえない。 - 9 -⑷ また,被告人供述の内容そのものを見ても,腸骨を貫くほどの強さで自ら腹部を刺した被害者が,そのような傷を負いながらも,いやがる被告人にその前胸部を無理やり刺すように依頼し,言うとおりにしない被告人の頭部を複数回にわたり平手打ちにしたなどというもので,それ自体不自然である。 ⑸ 以上によれば,被害者が殺されることを承諾していたとの被告人の供述は信用できず,本件で被害者が殺されることを承諾していたものとは認められない。 なお,被告人の供述のうち,被害者が,本件直前に「死に別れの結果出したる」と言ったとする点については,被告人が,捜査・公判を通じて,被害者が同様の言葉を日常的に口にしていた旨繰り返し述べていることからす ,被告人の供述のうち,被害者が,本件直前に「死に別れの結果出したる」と言ったとする点については,被告人が,捜査・公判を通じて,被害者が同様の言葉を日常的に口にしていた旨繰り返し述べていることからすると,事件当日にも被害者がそのような発言をした可能性も否定できない。 もっとも,被告人の供述によれば,この言葉自体は被害者が日常的に口にしていたものであり,被告人自身も「いつもかっこいいことばかり言って」などと述べるとおり,金銭を渡しても京都に帰ることさえしてくれなかった被害者が,口先だけではなく,本当に死に別れてくれると信じていたものとは考えられない。そして,日常的に同様の言葉を口にしていたという被害者が,事件当日に限って真意に基づいて,すなわち,殺されることを承諾する趣旨で発言したと被告人が信じるような事情も認められない。また,被告人自身も起訴に至るまでは被害者が殺されることを承諾していた旨全く供述していないことも併せると,被告人が,被害者が真意から殺されることを承諾していると勘違いした可能性も考えられない。 ⑺ 以上によれば,被告人の供述は信用できず,被害者が被告人に殺されることを承諾した事実そのものが認められず,被告人も被害者の真意の承諾がないことを十分に認識しながら,被害者の腹部及び胸部を刺す行為に及んだものと認められる。 2 弁護人の主張について弁護人は,被害者の胸部刺創は,被害者が抵抗したら負わせることが困難な- 10 -っていた上,無警戒な状態で,いきなり被告人から攻撃され,抵抗することすらできなかったと考えられ,また,甲証言によれば,胸部刺創そのものは,女性でも十分に生じさせることのできる傷であると認められるのであって,上記主張は採用することができない。 その余の弁護人の主張を踏まえても,被告人の供述 ,また,甲証言によれば,胸部刺創そのものは,女性でも十分に生じさせることのできる傷であると認められるのであって,上記主張は採用することができない。 その余の弁護人の主張を踏まえても,被告人の供述は信用することができず,被害者の承諾はなかったとの前記判断は揺るがない。 第3 小括以上のとおり,被告人が,被害者の腹部及び胸部を刺していたこと(争点①),被害者が被告人に殺されることを承諾していなかったこと(争点②)の各事実が認められる上,被告人が,殺傷能力の高い包丁を用い,その胸部を目掛けて心臓を貫通する複数の刺創を負わせるような攻撃をしていることや,そのような行為に及んだ動機等に照らせば,被告人には,被害者を確実に殺そうとの確定的な殺意が認められ,判示のとおり,殺人罪が成立する。 第4 争点③(被告人の責任能力の程度)について本件起訴前に被告人の精神鑑定を行った丁医師の証言等の関係証拠によれば,被告人は,本件当時,前頭側頭型認知症(以下,「FTD」という。)に罹患していたことが認められ,この点については当事者間にも争いがない。もっとも,FTDが,被告人のいかなる能力に,いかなる程度,いかなる影響を与えたかについては,検察官においては,自己の行動をコントロールする能力に若干の影響を与えたにとどまり,被告人は完全責任能力を有していた旨主張するのに対し,弁護人においては,FTDによる強い影響により,自己の行動をコントロールする能力が著しく損なわれた心神耗弱の状態で本件行為に及んだ旨主張するので,以下検討する。 1 本件当時のFTDの症状,進行の程度等丁証言等の関係証拠によれば,①被告人は,本件のおよそ1年前からFTDに罹患していたこと,②本件以前から,無関心(服装や化粧に気を遣わなくな- 11 -る。) FTDの症状,進行の程度等丁証言等の関係証拠によれば,①被告人は,本件のおよそ1年前からFTDに罹患していたこと,②本件以前から,無関心(服装や化粧に気を遣わなくな- 11 -る。),脱抑制・反社会的行動(万引きをしたことがあったほか,コンビニで購入したたばこの包み紙をレジに置き去りにするなどの行動をしていた。)等,FTDの症状が見られたほか,起訴前鑑定における丁医師との面談の際にも,意味障害(「お吸い物」の意味が分からない。),場にそぐわない行動(面談中に歌い出す。)等,FTD特有の症状が見られたこと,③FTDは発症から概ね2年から10年で末期に至り,認知機能,身体機能の低下が進行して動けなくなるとされるところ,被告人の本件当時のFTDの進行の程度としては,徐々に症状が強く現れるようになる中間的な段階にあったこと,④もっとも,上記②のような症状はありながらも,被告人は,本件当時,1人で行っていた理美容はさみ製造販売業の仕事を含め,大きな問題を起こすことなく社会生活を過ごしていたこととの各事実が認められる。 2 FTDが被告人の能力に与えた影響そこで,上記1のFTDの症状,進行程度に加え,前記「犯行に至る経緯」の本件犯行の動機をも踏まえて,FTDが被告人の能力に与えた影響について検討する。 善悪を判断する能力について被告人は本件犯行後,救急車を呼ぶことも,直ちに警察に連絡することもなく,葬儀場の従業員や知人などに,被告人自身が被害者を刺したことを隠すような言動をしており,その後の警察への通報でも自分が被害者を刺したことを述べていない。このような被告人の犯行後の言動は,まさに自分のした行為が悪いことであると分かっていたからこそ行われたものと言うべきである。また,丁医師も,被告人がFTDの影 分が被害者を刺したことを述べていない。このような被告人の犯行後の言動は,まさに自分のした行為が悪いことであると分かっていたからこそ行われたものと言うべきである。また,丁医師も,被告人がFTDの影響により善悪がわからない状態になってはいないと証言していることも併せれば,本件犯行当時,被告人はFTDに罹患していたとはいえ,善悪を判断する能力にその影響があったとは認められない。 行動をコントロールする能力についてア前記「犯行に至る経緯」のとおり,本件は,被告人が,被害者に従属さ- 12 -せられ続けていたことによるストレスの蓄積と,本件直前の被害者の理不尽な言動に対する怒りから被害者を刺して殺害したものであり,その主たる動機は,被害者の言動によって引き起こされた激しい怒りである。前記認定にかかる犯行前の経緯からすれば,被告人が被害者に対して怒りを爆発させ殺意を抱くことも十分に理解できるものであるし,被告人がFTDを発症する以前から,感情の起伏が激しく,怒りっぽい性格であったと認められることからすれば,本件犯行は,被告人の性格等から考えられる行動としても,その想定から大きく逸脱するものではなく,むしろ,被告人の元来の人格の延長線上に位置づけられるものとして理解できる。 また,丁証言によれば,FTDはその症状が急激に進行するような病気ではないことが認められるが,被告人は,FTDに罹患した状態であっても,本件犯行までの間は,被害者から日常的に繰り返されていた理不尽な暴言や暴力に対して,怒りを爆発させることなく我慢して服従するなど,その行動をコントロールすることができていたと認められる。 イもっとも,他方において,被告人が罹患していたFTDは,自己の行動にブレーキをかける機能を司る前頭葉の機能を低下させる精 るなど,その行動をコントロールすることができていたと認められる。 イもっとも,他方において,被告人が罹患していたFTDは,自己の行動にブレーキをかける機能を司る前頭葉の機能を低下させる精神障害であり,本件前に見られた被告人の万引き等の犯罪行為や周囲への配慮を欠く身勝手な行為は,FTDの症状である脱抑制・反社会的行動の現われと考えられる。そして,本件直前の被害者の言動が,それ自体理不尽であるにせよ,従前までの被害者の暴言・暴力と比べて特に激しいものとはいえないことからすれば,それにもかかわらず,これまで反抗しなかった被告人が,鋭利な包丁で被害者の胸部等を突き刺す行為にまで及んだ背景には,FTDの症状としての抑制力の低下が一定程度影響していたとも考えられる。 また,FTDの症状として,刺激に反応しやすくなる,常同行動(毎日同じ行動を決まった時間に行うこと)あるいは常同行動とまではいえなくとも,本人がこれと決めていた行動を妨げられることによって衝動的に暴- 13 -力行為に及んでしまうというものも認められる。そして,被告人が,本件直前にそれ自体は特に従前と比較して激しい暴言ではなかったとしても,自己の生き甲斐である仕事に行くために早朝から出勤しようと準備していたところを邪魔されたことが,FTDの影響により激しい怒りと衝動性を招き,被告人を本件犯行に駆り立てたという可能性も考えられる。 ウ以上のとおり,本件は,被害者に対する激しい怒りを主たる動機とするものであり,かつ,被告人の元来の人格の延長線上の行為と理解し得るから,その意味で,FTDの影響を強く受けたものではないというべきであるが,FTDの影響による抑制力の低下や衝動性も一定程度作用した可能性があるから,被告人の行動をコントロールする能力については限定的なが の意味で,FTDの影響を強く受けたものではないというべきであるが,FTDの影響による抑制力の低下や衝動性も一定程度作用した可能性があるから,被告人の行動をコントロールする能力については限定的ながらもFTDの影響があったというべきである。 3 結論以上のとおり,本件犯行当時,被告人の善悪を判断する能力は損なわれていなかった上,行動をコントロールする能力については,FTDの影響により限定的ながらも損なわれていたものの,その程度は著しくなく,被告人は,完全責任能力を有していたと認められる。 (法令の適用) 1 罰 条刑法199条 2 刑種の選択有期懲役刑を選択 3 未決勾留日数算入刑法21条(300日を算入) 4 没収刑法19条1項2号,2項本文(主文記載の文化包丁1本は,判示殺人の用に供した物で犯人以外の者に属しない) 5 訴訟費用の処理刑事訴訟法181条1項ただし書(不負担)(量刑の理由) 1 事件そのものに関する事情 被告人は,無警戒かつ無抵抗の被害者にいきなり攻撃を加えており,その態- 14 -様は,殺傷能力の高い鋭利な包丁(刃体の長さ約17.7センチメートル)を用いてその胸部を短時間に連続して計4回突き刺すなどというものであるが,これは,人体の中枢器官である心臓を貫く深さ約16.5センチメートルの傷を付けた上でさらに包丁を抜ききることなく包丁の向きをかえて続けて3回同一箇所を刺すという危険なものである。また,本件は突発的な犯行で計画性は認められないものの,上記の行為態様からすれば,被告人は確実に被害者を殺そうとして犯行に及んでいたといえ,強い殺意が認められる。 一方で前記「犯行に至る経緯」のとおり,被告 的な犯行で計画性は認められないものの,上記の行為態様からすれば,被告人は確実に被害者を殺そうとして犯行に及んでいたといえ,強い殺意が認められる。 一方で前記「犯行に至る経緯」のとおり,被告人は,約2年間に及ぶ被害者との同居生活において,生き甲斐である仕事を思うようにさせてもらえず,日常的に暴言・暴力を受けるという抑圧された生活でストレスをため,事件当日の被害者からの理不尽な言動を契機に怒りを抑えきれずに本件に及んでいる。 このような事情からすれば,被害者に殺されるまでの落ち度がないとはいえ,犯行に至る経緯,動機には,被告人にも同情の余地はある。また,前記のとおり,本件当時,被告人はFTDの影響により,自己の行為を抑制する能力が低下していたと認められる上,衝動的な行動に出やすくなっていた可能性もある。 そうすると,責任能力を損なうほどのものではなかったとはいえ,被告人が犯行に及んだことについては,FTDがある程度影響していると認められ,被告人に対する非難の程度は,FTDの影響をも踏まえて評価すべきである。 以上に照らすと,本件は,家族間の殺人事案(1件のみのもの)の中ではやや軽い部類に属する事案である。 2 事件そのもの以外の事情(更生可能性等)被告人は,元来,暴力的な性格ではなく,本件に至るまで大きなトラブルを起こすこともなく社会生活を送っており,前科もない。そして,本件は,前記「犯行に至る経緯」のような被告人と被害者との特異な人間関係等を前提にした犯行であることからすると,その被害者が既に亡くなっている以上,被告人が今後再犯に及ぶ可能性は低いといえる。また,被告人は,法廷において就労の意欲を見せており,出廷した妹も,被告人と一緒に暮らして同人を監督する旨誓っており,- 15 -被告人との同居を見据えて家も探し 犯に及ぶ可能性は低いといえる。また,被告人は,法廷において就労の意欲を見せており,出廷した妹も,被告人と一緒に暮らして同人を監督する旨誓っており,- 15 -被告人との同居を見据えて家も探していると述べている。これらの事情からすれば,被告人が妹の監督を受けながら更生することを期待できる。 3 結論そこで,以上を踏まえて検討すると,上記2の事情を最大限に考慮しても,本件は酌量減軽が相当な事案とはいえず,上記1,2の事情に加え,被告人の病気や被害者の遺族に処罰感情がないことをも併せ考慮し,被告人に対しては,主文掲記の刑に処するのが相当であると判断した。 よって,主文のとおり判決する。 (検察官の求刑-懲役10年,主文同旨の没収)平成26年12月26日岐阜地方裁判所刑事部 裁判長裁判官大西直樹 裁判官溝田泰之 裁判官石黒史岳
▼ クリックして全文を表示