主文 1 原告の請求をいずれも棄却する。 2 訴訟費用は原告の負担とする。 事実及び理由 第1 請求 1 被告法務大臣が平成10年12月28日付けで原告に対してした難民の認定をしない旨の処分は無効であることを確認する。 2 被告法務大臣が平成12年11月10日付けで原告に対してした異議の申出は理由がない旨の裁決は無効であることを確認する。 3 被告法務大臣が平成13年7月13日付けで原告に対してした難民の認定をしない旨の処分を取り消す。 4 被告名古屋入国管理局主任審査官が平成12年11月13日付けで原告に対してした退去強制令書発付処分は無効であることを確認する。 第2 事案の概要本件は,本邦に在留中のスーダン国籍を有する原告が,出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)に基づいて難民認定を申請したところ,被告法務大臣が認定しない旨の処分を行い,その後の名古屋入国管理局特別審理官による退去強制事由の判定に対する異議申出に対しても理由がない旨の裁決をした上,被告名古屋入国管理局主任審査官が退去強制令書発付処分を行ったことから,これらの処分の無効確認を求め(上記請求の1,2項及び4項),次いで,原告が再度難民認定の申請をしたのに対し,被告法務大臣が前同様の処分を行ったことから,その取消しを求めた(上記請求の3項)抗告訴訟である。 1 前提事実(争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実)(1) 原告の国籍について原告は,1963年(昭和38年)9月4日,スーダン共和国(以下,スーダン民主共和国と称する場合を含めて「スーダン」とも略称する。)のa(b)市において出生した同国籍を有する男性である。 (2) 原告の入国及び在留状況について(甲1,16,乙1,2,4) (以下,スーダン民主共和国と称する場合を含めて「スーダン」とも略称する。)のa(b)市において出生した同国籍を有する男性である。 (2) 原告の入国及び在留状況について(甲1,16,乙1,2,4)原告は,平成10年(1998年)6月9日,スーダン政府発行の旅券を所持して,新東京国際空港に到着し,東京入国管理局(以下,入国管理局を「入管」という。)成田空港支局入国審査官に対し,渡航目的「VISA」,日本滞在予定期間「15日」とする上陸申請を行い,同審査官から在留資格「短期滞在」,在留期間90日の許可を受けて,本邦に上陸した。 そして,原告は,平成10年9月14日と同年12月17日に各90日の在留期間の更新許可を受けた(最終の在留期限は平成11年3月6日である。)。 (3) 原告の居住関係について(乙3,5,20,24)原告は,平成10年6月11日,東京都板橋区長に対し,居住地を同区cd丁目e番f号gh号として,外国人登録法に基づく新規登録申請をし,次いで,平成11年7月22日,東京都杉並区長に対し,居住地を同区ij丁目k番l号mとして同法に基づく居住地変更登録をしたが,その後は居住地変更登録をすることなく,同年11月ころから静岡県n市o町p番地qr号室に居住し,後記の仮放免を受けた平成14年5月28日以降は,原告肩書地に居住している。 (4) 難民認定申請等の経緯についてア原告は,平成10年7月21日,被告法務大臣に対し,ウンマ党に所属していることにより迫害を受けるおそれがあるという理由で,法61条の2第1項の規定に基づく難民認定申請をした(以下「第1次申請」という。乙6)。 イ東京入管難民調査官は,平成10年11月12日及び同月26日,原告から事情聴取をするなどの事実の調査を行った(乙7,9)。その上で,被告法務大臣は,同年12月 以下「第1次申請」という。乙6)。 イ東京入管難民調査官は,平成10年11月12日及び同月26日,原告から事情聴取をするなどの事実の調査を行った(乙7,9)。その上で,被告法務大臣は,同年12月28日,原告の上記申立てについては,これを立証する具体的な証拠がないので,難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)1条A(2)及び難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条2に規定する「政治的意見」を理由として迫害を受けるおそれは認められず,同条約及び同議定書にいう難民(以下「条約上の難民」という。)とは認められないとして,不認定処分(以下「第1次不認定処分」という。)を行い,平成11年1月19日,原告に告知した(乙11)。 ウ原告は,平成11年1月25日,第1次不認定処分を不服として,法61条の2の4に基づき,被告法務大臣に対する異議の申出をした(乙12)。そこで,東京入管難民調査官は,同年2月15日,原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行った(乙13)。 その後,被告法務大臣は,同年11月22日,第1次不認定処分に誤りは認められず,他に原告が条約上の難民に該当することを認定するに足りる資料もないとして,原告からの異議の申出は理由がない旨判断し,平成12年9月21日,原告に通知された(乙17)。 エ東京入管難民調査官は,平成12年1月25日と同年2月21日,杉並区阿佐谷南一丁目32番3号あてに普通郵便及び簡易書留を郵送する方法で,原告に対して出頭要請をしたが(乙15,16),原告は転居のため通知を受け取らず,出頭しなかった。 オ名古屋入管入国警備官は,平成12年9月18日,静岡県n市o町p番地qr号室に居住する原告を摘発し,法24条4号ロ(「在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に残留する かった。 オ名古屋入管入国警備官は,平成12年9月18日,静岡県n市o町p番地qr号室に居住する原告を摘発し,法24条4号ロ(「在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に残留する者」)該当容疑で違法調査に着手し(乙5),同日,被告名古屋入管主任審査官が発付した同日付け収容令書を執行して,名古屋入管収容場に収容した(乙18,19)。 カ名古屋入管入国警備官は,平成12年9月18日,原告について違反調査を実施し(乙20,21),同月19日,原告を法24条4号ロ該当容疑者として名古屋入管入国審査官に引き渡した(乙22)。 キ名古屋入管入国審査官は,平成12年9月19日,同月28日,同年10月5日及び同月10日,原告について違反調査を実施し(乙23ないし25,27),その結果,同月10日,原告が法24条4号ロに該当する旨の認定を行い(以下「不法残留認定処分」という。),原告にこれを通知した(乙29)。 ク原告は,平成12年10月10日,不法残留認定処分を不服として,法48条1項に基づく口頭審理の請求をした(乙27)ため,名古屋入管特別審理官は,同年10月20日,原告について口頭審理を実施し(乙30),その結果,同日,入国審査官の上記認定には誤りがない旨判定し,原告にこれを通知した(乙32)。 ケ原告は,平成12年10月20日,上記判定を不服として,法49条1項に基づき,被告法務大臣に対して異議の申出をした(乙33)ところ,被告法務大臣は,同年11月10日,原告の上記異議の申出については,理由がない旨裁決した(以下「本件裁決」という。乙35)。 同裁決の通知を受けた被告名古屋入管主任審査官は,同月13日,原告に本件裁決を告知するとともに(甲4,乙36),退去強制令書(乙37)を発付した(以下「本件退令発付処分」という。)。 。乙35)。 同裁決の通知を受けた被告名古屋入管主任審査官は,同月13日,原告に本件裁決を告知するとともに(甲4,乙36),退去強制令書(乙37)を発付した(以下「本件退令発付処分」という。)。 なお,名古屋入管入国警備官は,平成12年12月13日,原告を入国者収容所西日本入国管理センターに移収した(乙37)。 コ原告は,平成12年12月1日,被告法務大臣に対し,再度難民認定申請をしたため(以下「第2次申請」という。乙38,39の1ないし9),大阪入管難民調査官が,平成13年1月9日及び同年4月19日,原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行った(乙40,41)。その上で,被告法務大臣は,同年7月13日,第2次申請は,法61条の2第2項所定の期間を経過してされたものであり,かつ,申請遅延の申立ては,同項ただし書の規定を適用すべき事情とは認められないとして,不認定処分を行い(以下「第2次不認定処分」という。),同月27日,原告に告知した(甲2,乙42)。 サ原告は,平成13年8月1日,大阪入管において,第2次不認定処分を不服として,異議の申出をしたため(乙43,44),大阪入管難民調査官が,同年9月4日及び同月12日,原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行い(乙45,46,48,49の1),被告法務大臣は,同年11月1日,第2次申請は,法61条の2第2項所定の期間を徒過してなされたものであり,かつ,同項ただし書の規定を適用すべき事情も認められないので,原処分に誤りは認められないとして,第2次不認定処分に対する異議の申出は理由のない旨判断し,同年11月7日,原告に通知した(甲3,乙50)。 シ原告は,本訴提起後である平成14年5月28日,仮放免され,以後,原告肩書地において,居住している。 なお,原告は,平成14年12月10日,国 ,同年11月7日,原告に通知した(甲3,乙50)。 シ原告は,本訴提起後である平成14年5月28日,仮放免され,以後,原告肩書地において,居住している。 なお,原告は,平成14年12月10日,国連難民高等弁務官によって,関心の対象となる者の認定を受けた(甲55の1)。 (5) スーダン情勢について(甲20,21,27ないし30,41,47,乙58ないし60,69)ア独立後の概略について(ア) スーダン共和国は,1956年(昭和31年)1月1日,エジプトとの統合から独立し,Aを党首とする統一国民党政権が誕生したが,統一国民党はウンマ党と民主統一党に分裂し,同年7月から,両党の2大政党による議会制民主主義政権が誕生した。 その後,1958年(昭和33年)3月に総選挙が行われて,ウンマ党が圧勝し,B内閣が誕生したが,同年11月,C将軍が起こした軍事クーデターによって軍事政権が成立した。同政権は,1964年(昭和39年)10月に崩壊し,1965年(昭和40年)4月,ウンマ党と国民統一党による連立内閣が成立したが,1969年(昭和44年)5月22日,D大佐を中心とする陸軍中堅将校による無血クーデターが成功し,同大佐を議長とする革命評議会が全権を掌握して一党独裁制をとった上,国名を「スーダン民主共和国」に改称した。 1979年(昭和54年),ウンマ党指導者Eの指導の下,クーデター未遂事件が発生した。スーダンは,この事件へのリビアの関与を非難し,同国と断交した上,エジプトとの間に共同防衛条約を締結した。そして,1983年(昭和58年),D大統領が南部州を3州に分割し,全国に「シャリア」(イスラム法)を導入したところ,南部の黒人系キリスト教徒等の反政府勢力は,これに強く反発し,今日まで継続している内戦状態に突入した。 (イ) 1985年(昭和60 を3州に分割し,全国に「シャリア」(イスラム法)を導入したところ,南部の黒人系キリスト教徒等の反政府勢力は,これに強く反発し,今日まで継続している内戦状態に突入した。 (イ) 1985年(昭和60年),D大統領の米国訪問中,F国防相がクーデターを起こし,暫定軍事評議会を発足させたため,D大統領は,エジプトに亡命した。 そして,スーダンは,同年6月,リビアとの関係を修復し,同国との間で軍事協定を締結し,同年12月には,国名を再度「スーダン共和国」に改めた。 1986年(昭和61年)4月,民政移行のための総選挙が実施され,ウンマ党と民主統一党の連立によるE文民政権が発足したが,1989年(平成元年)6月30日,G中将の率いるスーダン軍部がクーデターを起こし,多数の主要な政治家を逮捕した。これにより,非常事態宣言がなされ,憲法は停止し,議会は解散,政党活動も非合法化され,Gを議長とする革命評議会が全権を掌握した(以下「89年クーデター」という。)。そして,1990年(平成2年)10月,同評議会は,政党政治を否定し,リビア型人民議会体制に倣う新政治体制の導入を決議した。 89年クーデターにより政権を掌握したG政権は,イスラム原理主義を標榜する民族イスラム戦線(NIF)を支持基盤とする一党翼賛体制であり,同政権による各国のイスラム原理主義運動への同情的態度は,国際社会からの非難を招き,1993年(平成5年)以降,アメリカは,スーダンをテロ支援国家に指定している。さらに,1995年(平成7年)6月のHエジプト大統領暗殺未遂事件を契機に,1996年(平成8年)4月以来,国連安保理の制裁対象国となった。 (ウ) G政権は,近年,従来の軍事色の強い一党独裁体制から,限定的ではあるが,民主政治への移行を図り,1992年(平成4年)暫定国民議会を設立し,1 月以来,国連安保理の制裁対象国となった。 (ウ) G政権は,近年,従来の軍事色の強い一党独裁体制から,限定的ではあるが,民主政治への移行を図り,1992年(平成4年)暫定国民議会を設立し,1993年(平成5年)10月全権を掌握していた革命評議会を解散し,立法権及び行政権はそれぞれ暫定国民議会及び大統領を長とする内閣に全面移管されるとともに,89年クーデター以来継続していた夜間外出禁止令は解除された。そして,1995年(平成7年)12月,「第13次憲法令」が発布され,大統領,内閣及び国民議会党の国家統治機構の新たな枠組みが決まり,1996年(平成8年)3月には大統領及び国民議会議員の直接選挙が行われ,G大統領が選出され,1997年(平成9年)8月に北部州知事選挙,同年12月には,南部州知事選挙を実施した。さらに,1998年(平成10年)6月,これまで発出された暫定憲法令を集約した新憲法が制定され,同年12月には同憲法施行の一環として政治結社設立に関する法が制定され,多数政党制を前提とする政治へと歩み出した。そして,1998年(平成10年)5月,政党結成の自由などを含む新憲法の可否を問う国民投票が実施され,圧倒的な賛成票を得て成立し,同年6月30日,同憲法が施行された。 2000年(平成12年)12月,大統領及び国民議会議員の直接選挙が実施され,G大統領が86パーセント以上の得票を得て再選されたが,主要野党は選挙をボイコットした。また,1999年(平成11年)12月施行の国家非常事態令は2001年(平成13年)末まで延長されている。 イスーダン内戦について(ア) スーダン内戦は,そもそも,1956年(昭和31年)の独立以前から,スーダン国内が,アラブ人でイスラム教信者が多い北部と,ブラックアフリカ民族でキリスト教信者あるいは伝統宗教の信 戦について(ア) スーダン内戦は,そもそも,1956年(昭和31年)の独立以前から,スーダン国内が,アラブ人でイスラム教信者が多い北部と,ブラックアフリカ民族でキリスト教信者あるいは伝統宗教の信者が多い南部とに分かれ,北部が経済的にも発達し,南部との格差が大きかった上,行政機関が北部出身者によって占められ,1955年(昭和30年)に南部住民から求められた連邦制導入を北部住民が無視して翌年独立したことから,南部住民の北部住民すなわち政府に対する抵抗運動が始まったことに端を発する(第1次内戦)。 (イ) 1975年(昭和50年),米シェブロン社によって,南部にあるマルート油田等の油田が発見された。その後,D大統領時代に,イスラム法シャリアが導入されたため,南部住民の政治家等がイスラム人民解放運動(SPLM)を結成し,南部ヌバ山岳地帯で武力闘争を開始した(第2次内戦)。米シェブロン社は,内戦激化に伴い,開発利権をスーダン政府に返上し,中国,マレーシア,カタール及びカナダが後を引き受けて,石油開発を継続した。第2次内戦は,歴史的な宗教・文化的対立に加え石油の利権が絡み合い,今日まで継続している。 (ウ) 89年クーデター以後,北部のウンマ党,民主統一党,共産党,労働組合組織,スーダン国軍合法司令部,ゲリラ組織スーダン人民解放軍(SPLA)は,反政府組織である国民民主同盟(NDA)を結成し,SPLAを中心に政府に対して抵抗を続けた。 1998年(平成10年)にも,スーダン南部及び東部国境地帯における戦闘が継続的に発生し,これに伴い大量の国内被災民が発生した。特に,バハル・エル・ガザール州では,大規模な飢餓発生の危険が高まったため,スーダンと近隣6カ国で作る政府間開発機構(IGADパートナーフォーラム),I・ケニア大統領及びJ国連事務総長の働きか た。特に,バハル・エル・ガザール州では,大規模な飢餓発生の危険が高まったため,スーダンと近隣6カ国で作る政府間開発機構(IGADパートナーフォーラム),I・ケニア大統領及びJ国連事務総長の働きかけにより,スーダン政府とSPLAは,同年7月に,国連による人道緊急援助活動(OLS)の円滑な実施を確保するため,同州において3か月間の部分的停戦に合意した。その後も両者は,同年10月,1999年(平成11年)1月及び2002年(平成14年)7月,停戦に合意したが,そのたびに内戦が再燃している。 (エ) なお,スーダン政府は,1997年(平成9年)4月,SPLAを除く南部反政府勢力の分派(SSIM,ケルビーノ派,アロク・トン・アロク派等)との間で「ハルツーム和平協定」を調印し,その後,個別にSSLMUNITED(アラーム・アコル派),ヌバ山脈分派と停戦合意を調印している。上記協定は,南部住民に4年間の移行期間終了時に行われる国民投票によって,統一又は独立を決定する自決権を保証している。 ウウンマ党について(ア) ウンマ党は,1956年(昭和31年)のスーダン共和国独立後間もなく,スーダン北部のイスラム教の宗教的名家であったK家を中心とし,同家支持者を基盤として結成されたイスラム教アンサール派の政治組織である。同党は,その後2年間,同様に宗教的名家であったL家を中心として結成された民主統一党と共に議会制民主主義政治を行ったが,1958年(昭和33年)のC将軍によるクーデターにより政権を失った。 その後も最大野党として存在し,1961年(昭和36年),Eがウンマ党党首となり,前記のとおり,1965年(昭和40年)4月に,ウンマ党・国民統一党による連立内閣を成立させたが,D大佐によるクーデターにより政権を失った。 (イ) 1986年(昭和61年)4 がウンマ党党首となり,前記のとおり,1965年(昭和40年)4月に,ウンマ党・国民統一党による連立内閣を成立させたが,D大佐によるクーデターにより政権を失った。 (イ) 1986年(昭和61年)4月,ウンマ党は,再度,民主統一党との連立による文民政権を発足させ,Eが首相に就いたが,これも,G現大統領の89年クーデターによって政権を奪われ,政党の非合法化に伴い,ウンマ党員の多数が国外に追放された。国内に残ったウンマ党員等は,1989年(平成元年)6月,民主統一党,共産党やSPLAとともに国民民主同盟に加わり,SPLAを中心に政府に対して,抵抗を続けながら,G政権打倒後の新しいスーダンへの動きを模索してきた。 (6) 条約上の難民の定義について難民とは,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって,当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないものである。 2 争点(1) 総論その1-原告は,条約上の難民に該当するか。 (2) 総論その2-被告らによる調査の過程に適正手続違反が存在したか。 (3) 各論その1-第1次不認定処分は無効か。 (4) 各論その2-本件裁決は無効か。 (5) 各論その3-第2次不認定処分は違法か。 (6) 各論その4-本件退令発付処分は無効か。 3 争点に対する当事者の主張の要旨(1) 争点(1)(総論その1-原告は の2-本件裁決は無効か。 (5) 各論その3-第2次不認定処分は違法か。 (6) 各論その4-本件退令発付処分は無効か。 3 争点に対する当事者の主張の要旨(1) 争点(1)(総論その1-原告は,条約上の難民に該当するか)について(原告)ア立証責任の所在について申請者の個人的事情については,申請者本人に基本的な主張責任があることは認めるが,その個人的事情の下で,迫害概念の要素である「十分に理由のある恐怖」を認定する根拠となる迫害国の状況については,国に立証責任があると解すべきである。 イ条約上の難民該当性について原告は,以下のとおり,G政権から迫害を受け,あるいは受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するから,条約上の難民に当たる。 (ア) G政権のウンマ党員に対する迫害のおそれについて① 89年クーデターによって誕生したG政権は,軍事力を組織的に用いて断固とした行動をとる軍事政権であり,その統治の手法は,軍事力そのものに頼る強権的なもので,反対派や民主的政治勢力に対しては,違法な人権侵害手段を当然とする体質を有している。現に,アムネスティ報告は,G政権の誕生は,スーダン史上空前の規模と範囲を特徴とする人権侵害の新時代の到来を告げたと総括している。 具体的には,政権のイデオロギーを支持する者らによって構成された準軍事的組織である人民防衛軍(PDF)と,非公式な治安部隊である革命治安部,さらには政権にイデオロギー上の影響を与えている急進的イスラム政党である民族イスラム戦線(NIF)らは,反対派を大量に逮捕し,裁判もないまま,一般刑務所か治安局事務所に拘禁し,看守によって過度の肉体的虐待が加えるなどの弾圧を実行している。その実態は,アムネスティ報告によって公表された,拷問体験者らの証言によって明らかである。 ② まま,一般刑務所か治安局事務所に拘禁し,看守によって過度の肉体的虐待が加えるなどの弾圧を実行している。その実態は,アムネスティ報告によって公表された,拷問体験者らの証言によって明らかである。 ② アムネスティ報告によれば,G政権は,1989年(平成元年)と1990年(平成2年),政治的意見を理由に何百人も逮捕し,その中には少なくとも35人のウンマ党の主要メンバーと89年クーデター後に解任された軍隊の上級将校が含まれていた。1992年(平成4年)にハルツームだけで拘禁された政治犯は250人余りに達し,1月に逮捕されたウンマ党員は8月まで拘禁されている。また,1993年(平成5年)4月から6月にかけて,北部の複数の町で多数の人が拘禁されたが,特にイスラム教アンサール派の信者やその政治組織であるウンマ党党員が猛攻撃を受けた。さらに,1994年(平成6年)9月末には,ハルツームで100人以上のスーダン共産党とウンマ党の活動家,ジャーナリスト,労働組合活動家,弁護士その他の人々が逮捕され,数週間から数か月間拘禁されている。そして,党首であるEも,同年4月に24時間の拘禁を受け,6月及び7月に13日間拘禁された。 このように,G政権は,拷問と虐待を公式の政策として採用しており,その実態は常軌を逸したものになっている。そのため,ウンマ党関係者は,多くがスーダン国外に脱出することを余儀なくされている。 ③ なお,被告らは,ウンマ党が,2000年(平成12年)以降,G政権と和解する姿勢を示していることから,原告に対する迫害のおそれはないと主張するが,その主張は客観性に欠ける。すなわち,和解の姿勢を示しているのは,ウンマ党から分派したエルサディク派の者にすぎず,原告も所属している主流派のうち,M(N)を指導者とするグループの代表者らはアメリカに,同じく主 客観性に欠ける。すなわち,和解の姿勢を示しているのは,ウンマ党から分派したエルサディク派の者にすぎず,原告も所属している主流派のうち,M(N)を指導者とするグループの代表者らはアメリカに,同じく主流派であるO博士(P)を指導者とするグループの代表者らは英国に滞在するなど,主要な部分は,依然として帰国することができない状態にある。これらの主流派は,ウンマ党はG政権を含むいかなる全体主義政権にも参加せず,公正な選挙の実施と国民主体の広い基盤を持つ政府が形成されることが政権参加の条件であることを表明している。 そして,G政権と和解し,これに参加する姿勢を示したかのように報道されたグループは,G政権の画策によって分裂したといわれており,G政権と和解のための会談をした前首相Eも,全体主義政権である現政権に加わる意思のないことを表明している。 このような情勢下で,G政権は,依然として強権的な対野党姿勢を維持している。 すなわち,2002年(平成14年)8月19日,野党である大衆国民会議(PNC)の指導者であるQ(R)の自宅軟禁が,裁判も行われないまま1年間延長されたし,同月10日,G政権によって発表された政党活動禁止の解除も,スーダン国会の復権について言及されず,政党活動許可申請に条件を付した結果,許可を得た約20の政党の多くはGが率いる与党国民会議党の影響下にある。ウンマ党は,民主連合党とともに,条件を容認することはできないとして,登録を拒んでいる。 (イ) 原告に対する迫害のおそれについて① 原告は,スーダン政府が迫害・逮捕を繰り返すウンマ党の思想的な創立者である4代前のS(T)の家系に属し,幼少のころから党員としてその活動に従事し,家族全員も党員であった。 ちなみに,原告とは,その曾祖父が兄弟であるEは,89年クーデターによって政権を追われた 立者である4代前のS(T)の家系に属し,幼少のころから党員としてその活動に従事し,家族全員も党員であった。 ちなみに,原告とは,その曾祖父が兄弟であるEは,89年クーデターによって政権を追われた前首相であり,その祖父の兄弟であるU(V)は,1970年(昭和45年),D政権によって殺害されている。 そして,原告は,1987年(昭和62年)から1995年(平成7年)まで,インド国プーナ(POONA)大学に留学し,修士号を取得したが,この間,スーダンのG政権に批判的なスーダン学生組織に所属し,その活動の一端を担った。 なお,原告は,現在では,国民民主同盟を離脱し,帰国した分派ではなく,アメリカにいるM(N)を指導者とするグループらのウンマ党主流派に属している。 ② 原告は,1995年(平成7年)4月,スーダンに帰国し,a・アハリア総合大学のエルナセル工科大学にて教鞭を執り始め,学生に対して,政府の政策に批判的で自由主義的な立場からの講義を行った。ところが,原告の講義を受けている学生の中に,原告の政治的見解や講義姿勢について政府関係機関に通報する者がいたため,原告は,ある日の講義が終わった後,政府との関係が緊密な民族イスラム戦線の特別捜査官によって逮捕された。原告は,逮捕後,ウンマ党や家族について質問されたが,反抗的な態度をとったため,同捜査官の一人に建物の2階から突き落とされ,生命の危険にさらされた上,落下の衝撃で両足等を骨折し,同年5月1日,a教育病院に担ぎ込まれた。 なお,その際の治療経過等を記録したものが,2通の医療報告書(乙48添付資料7と同9。以下,それぞれ「医療報告書資料7」,「医療報告書資料9」という。)である。ところで,原告が,第1次難民認定の申請をした際に,上記の迫害の事実を証するものとして提出した退院カード(乙27添付の「D 。以下,それぞれ「医療報告書資料7」,「医療報告書資料9」という。)である。ところで,原告が,第1次難民認定の申請をした際に,上記の迫害の事実を証するものとして提出した退院カード(乙27添付の「DISCHARGECARD」。以下「退院カード」という。)は,実際には別人のものであったが,兄が入手し,原告に渡してくれたものであったため,誤りに気づかなかったものである。 ③ 原告は,1995年(平成7年)7月28日,上記病院を退院することができたが,教職にはもはや就けなかったので,大学を辞め,コントロールユニオンという会社に勤務した。しかし,そのころから,政府の監視が更に厳しくなり,原告の2人の兄が逮捕されたため,原告は,自分に追及の手が及ぶことは必至であると考えて身を隠した。 しかし,1997年(平成9年)12月,原告は,再度逮捕されて軍隊に送られ,スーダン南部の人々と戦うように命じられた。原告は,この命令が,原告を生命の危険にさらさせようとする当局の思惑と理解しており,平和主義者として同じ国の人々と殺し合いをするのは耐えられなかったため,南部戦線へ行くことを断った。 その結果,原告は,拷問を受け,食物と水も与えられず,衰弱してマラリアに罹患したため,病院に担ぎ込まれた。 1週間後,原告は,病院を抜け出し,警察官をしていた党員の助力を得て国外へ脱出する計画を立て,1998年(平成10年)6月6日,スーダンを出国し,カイロ,アムステルダムを経由して同月9日,来日した。 ④ 被告らは,原告が条約上の難民に当たらないと主張し,その理由として,迫害の事実についての原告の供述が齟齬し,変遷していることを指摘する。しかしながら,それは,原告の供述の信用性のなさを証明するものではなく,むしろ,被告らの難民行政の根本にあるところの,国際的に批判されてきた についての原告の供述が齟齬し,変遷していることを指摘する。しかしながら,それは,原告の供述の信用性のなさを証明するものではなく,むしろ,被告らの難民行政の根本にあるところの,国際的に批判されてきた消極姿勢(難民認定数を制限する運用,難民調査官の専門性の欠如,研修の不足等)の反映にすぎない。 すなわち,被告らは,難民認定申請者は全員が経済難民であるとの予断を抱き,その結果,国際人道法,国際庇護法たるべき法の解釈,運用を基本的に誤り,国境管理法としてのみ機能させている。 例えば,原告の旅券(乙1)は,アラビア語を用いて作成されているところ,その訳文には,数字の見誤り(3や0),固有名詞と普通名詞の取り違い,原告の住所の地名を全く違う発音に訳すなど,20箇所の誤訳,翻訳漏れ等があり,ずさんな翻訳であると評価せざるを得ないが,これからも,被告らが用意している通訳人のレベルに疑問を抱かせるに十分である。したがって,被告らの指摘する原告の供述の変遷等の相当数は,通訳の誤訳あるいは不適切な訳が原因となっている可能性が十分にあるというべきであり,これを考慮した上で判断すべきである。 また,被告らの指摘する原告の供述の食い違いは,子細に検討すれば,事実関係に矛盾はないから,齟齬とか変遷と評価すべきものではないし,表現上の相違も,調書というものは調査担当者が編集者として素材を取捨選択して作成されるものであることを考慮すると,不自然,不合理と評価すべきではない。 そもそも,被告らは,難民認定申請者の事情が,純粋に個人的な事情と,その個人を取り巻く政治的,社会的事情が渾然一体となっていることを捨象しており,この基本的理解のずれによって,難民調査は,申請者の供述への過度の依存を生んでいるが,迫害状況から逃れてきた難民認定申請者は,立証手段を所持していることが少なく 一体となっていることを捨象しており,この基本的理解のずれによって,難民調査は,申請者の供述への過度の依存を生んでいるが,迫害状況から逃れてきた難民認定申請者は,立証手段を所持していることが少なく,迫害によるトラウマによる記憶の混乱もあり得るから,難民受入先進国のように,申請者の供述のみに依存せず,客観的情勢の科学的調査を重視することを手続指針として,難民調査手続が行われるべきである。 ⑤ 原告は,国連難民高等弁務官の関心の対象となる者の認定を受けており,帰国すれば迫害のおそれがあり人道上問題であると公に認められている。 (ウ) 原告の家族に対する迫害について① 原告の父W(X)は,a市にて,a・マーケットに多数の店を出し経営していたが,1982年(昭和57年)ころ,D政権によって主要な財産を没収されたため,ショックと怒りで心臓発作を起こし,死亡した。 ② 長兄Y(Z)は,カイロ大学卒業後,1969年(昭和44年)からスーダン財務省に勤務し,その後,E政権下で,内務省に招請され,1989年(平成元年)にはアミード(警察署長級)を勤めていたが,同年のクーデターにより,1990年(平成2年)に上記地位を追われた上,逮捕されて1年以上の拘禁を受けた。同人は,1995年(平成7年)と1997年(平成9年)ころにも逮捕・拘禁され,1999年(平成11年)に,エリトリアに脱出後エジプトへ移った。その後,家族もエジプトに移り,現在は,SPLAやSNDAの軍事訓練を指揮している。 ③ 次兄α(β)は,イタリアの大学で工学を学んだ後,サウジアラビアの石油会社に勤務したが,E政権下の1985年(昭和60年)ころ,軍の技術官に就いた。しかし,1990年(平成2年)に職を追われた上,逮捕・拘禁された。同人も,1995年(平成7年)と1997年(平成9年)ころに逮 したが,E政権下の1985年(昭和60年)ころ,軍の技術官に就いた。しかし,1990年(平成2年)に職を追われた上,逮捕・拘禁された。同人も,1995年(平成7年)と1997年(平成9年)ころに逮捕・拘禁されたので,1999年(平成11年)に,長兄と共にエリトリアに脱出した。現在は,SPLAやSNDAに所属して,軍の指導をしている。 ④ 三兄γ(δ)は,カイロ大学卒業後,スーダンの保険会社に部長として勤務し,その後,ハルツーム大学,a・アハリア大学で保険の講義を担当していた。しかし,89年クーデターの直後にエジプトに脱出し,その後,サウジアラビアで保険会社を経営している。原告の母εは,現在,三兄と同居している。 ⑤ 五兄のζ(η)は,アジスアベバ大学卒業後,アメリカに渡り,ロサンゼルスのクウェート航空に勤務した,その後,ニューヨークの貨物空輸会社に勤務し,アメリカ市民権を取得している。 ⑥ 六兄θ(ι)は,アレキサンドリア大学を卒業後,スーダンで弁護士になり,また新聞記者としても仕事をしていた。しかし,同人は,1990年(平成2年)から1994年(平成6年)までの間に,他の弁護士と共に逮捕された。その後はサウジアラビアに脱出し,現在は同国で弁護士をしている。 ⑦ 弟κ(λ)は,エルナセル工科大学に入学したが,1992年(平成4年)ころ,反政府活動をしている大学生に対する粛清が始まり,学生組合に参加していた同人も追われた。現在,同人は,アメリカで暮らしている。 (被告ら)ア立証責任について法の定める難民とは,前提事実(6)で示した条約上の難民をいうところ(2条3号の2),そこでいう迫害とは,「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し,また,迫害を受けるおそれがある 難民をいうところ(2条3号の2),そこでいう迫害とは,「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し,また,迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するというためには,「当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに,通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在することが必要」というべきである。 そして,ある者が条約上の難民に該当するか否かを認定する作業は,申請人各人に対して,その申請内容の信ぴょう性等を吟味し,各人の抱える個別事情に基づいて行われるべきものであるところ,いかなる手続を経て難民の認定がされるべきかは,難民条約及び難民議定書のいずれにも規定がないことから,これらを締結した各国の立法政策に委ねられていると解される。 しかるところ,法61条の2第1項が,申請者の提出した資料に基づいて法務大臣がその者を難民と認定することができる旨規定し,法61条の2の3第1項が,申請者の提出した資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又はその取消しに関する処分を行うため必要がある場合には,法務大臣は難民調査官に事実の調査をさせることができる旨規定していることに照らすと,難民該当性の立証責任は申請者にあり,まず,申請者が難民であるとの陳述を行い,これを立証する証拠資料を提出する必要があると解すべきである。このことは,そもそも難民認定の申請は,申請人が自己の便益を受けようとする行為であること,およそ難民該当性の判断に必要な出来事は外国でしかも秘密裏にされたものであることが多く,それを直接体験した申請人がもっともよく主張し得る立場にあることからも,合理的であるというべきである。 こと,およそ難民該当性の判断に必要な出来事は外国でしかも秘密裏にされたものであることが多く,それを直接体験した申請人がもっともよく主張し得る立場にあることからも,合理的であるというべきである。 イ条約上の難民該当性について原告の供述は,その内容について変遷や齟齬があり,信用性はなく,さらに,近年のスーダン国内やウンマ党情勢からすれば,原告が帰国したとしても,「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ものとは認められない。 すなわち,(ア) G政権のウンマ党員に対する迫害のおそれについてスーダンでは,1989年(平成元年),G中将が民族イスラム戦線と連繋して無血クーデターを起こし,革命評議会を設置してその議長に就任した。その後,1992年(平成4年)1月,民政移管に向けた暫定国民議会が発足し,1993年(平成5年)10月には革命評議会が解散され,G議長が大統領に就任して,立法権及び行政権は暫定国民議会と内閣に全面移管されるとともに,夜間外出禁止令が解除された。1995年(平成7年)12月には,第13次憲法令が発布され,国家統治機構の新たな枠組みが決まり,1996年(平成8年)3月には,大統領及び国民議会議員総選挙が実施され,G大統領が再選された。 ところで,スーダンにおいては,独立以前から,アラブ人でイスラム教徒の多い北部と,ブラックアメリカでキリスト教徒あるいは伝統宗教の信者の多い南部とに分かれていたところ,経済的に発達し,行政機関を占めていた北部が,連邦制導入を求める南部を無視して独立したことから,内戦が開始され(第1次内戦),イスラム法シャリアを南部にも適用したD政権の時代にも,再発し(第2次内戦),石油開発の利権もからんで現在まで継続している。そして,G政権が誕生した後は,ウンマ党,民主統一党,共産党, 1次内戦),イスラム法シャリアを南部にも適用したD政権の時代にも,再発し(第2次内戦),石油開発の利権もからんで現在まで継続している。そして,G政権が誕生した後は,ウンマ党,民主統一党,共産党,SPLA等が国民民主同盟を結成し,政府に抵抗するようになった。 しかし,G政権は,1997年(平成9年)4月,SPLAを除く南部反政府勢力の一部(SSIM,ケルビーノ派,アロク・トン・アロク派等)と「ハルツーム和平協定」を締結し,これを法制化した第14次憲法令が制定されたが,この協定は,抗争の主要な相手方である南部住民に対し,4年間の移行期間終了時に実施される国民投票によって,統一又は独立を決定する自決権を保証している。同政権は,その後も,SSLMUNITED(アラーム・アコル派)やヌバ山脈分派と個別的に停戦合意を調印した。 そして,1998年(平成10年)6月,これまで発布された憲法令をまとめた新憲法が制定され,同年12月には,政治結社設立に関する法が制定されるなど,多数政党政治を前提とする政治に踏み出している。 このような情勢の下で,国民民主同盟は,2000年(平成12年)3月ころ,エリトリアの首都アスマラにて会議を開催したが,ウンマ党は,これから離脱した上,G政権と和解する姿勢を示し,同年4月,国外追放処分を受けていたウンマ党の活動家約40名が帰国するに至り,G政権の副大統領が出迎えた。そして,同年11月23日には,原告の親戚で,ウンマ党党首であるEが帰国し,多くのウンマ党員が出迎えた。同人は,平穏にa市の自宅に居住し,政権と和解に向けた協議を続けている。 以上の状況に照らせば,原告がスーダンに帰国しても,迫害を受けるおそれは到底認められない。 (イ) 原告に対する迫害のおそれについて① 原告は,ウンマ党員であると主張するが,当初は, 続けている。 以上の状況に照らせば,原告がスーダンに帰国しても,迫害を受けるおそれは到底認められない。 (イ) 原告に対する迫害のおそれについて① 原告は,ウンマ党員であると主張するが,当初は,スーダン国内の最大野党であってE首相を輩出したウンマ党の党員であると供述していたにもかかわらず,ウンマ党がG政権と和解したことが明らかとなるや,μを党首とするウンマ党(以下「イスラム・ウンマ党」という。)の党員であると供述を変更させた。 しかし,イスラム・ウンマ党は,1999年(平成11年)4月の結党以来,上記ウンマ党とは別個独立の政党であって,G政権とは同盟関係にある。原告が,真に政党活動をしていたのであれば,当然,両者を区別していたはずであるから,原告の供述は不合理であり,信用することができない。 ② 原告は,両踵骨骨折に関して医療報告書資料7及び同9を提出するが,同一の病院発行であるにもかかわらず,記載内容・書式,作成名義人等が異なること,署名は1995年から現在に至るまでの間の病院長のものでないことなどから,いずれも偽造された書類である。 かえって,原告から当初提出された退院カードは,その記載された手術内容や今後の予約が原告の訴える症状と合致すること,インドにあるサドゥ・ヴァスワニ(SADHUVASWANI)医療総合病院には,その担当医師ν(ξ)が実在すること,ν医師と退院カードのο医師とは同一人物であること等からすると,原告の治療についてのものであり,したがって,原告は,インドにおいて,両踵骨骨折の傷害を負い,治療を受けたと考えるのが合理的である。これに関する原告の供述は,平成12年10月10日の調査の際には,いったんは自らの退院カードであることを認めたものの,日付の矛盾を指摘されるや,他人の診断書であると供述を翻し,同月20日の調 ある。これに関する原告の供述は,平成12年10月10日の調査の際には,いったんは自らの退院カードであることを認めたものの,日付の矛盾を指摘されるや,他人の診断書であると供述を翻し,同月20日の調査の際には,自らの退院カードであることを認めた上で担当医師が誤った日付を記載したと供述したが,平成13年9月13日の調査においては,長兄に頼んで取り寄せたものの,長兄が間違えて取得したものをよく確認しないまま,東京入管へ提出したと供述するに至ったが,このような変遷は,相互に矛盾し,不自然,不合理なものである上,G政権から迫害を受けていた長兄に,退院カードを取りに行かせたことや,誤って原告以外の人物の退院カードを交付したというのは,不合理である。 しかも,原告の傷害は,高いところから飛び降りてかかとから着地して負う時に起こりやすいものであって,本人が供述するように後ろ向きに落ちたことと符合しないし,両足から着地した場合には意識を失うはずはなく,供述内容は不合理である。また,治安部隊が,原告から情報を得ようとして逮捕したにもかかわらず,転落後放置したこと,逮捕状況についての供述が不自然に変遷していることからも信用できない。 以上のとおり,原告の1995年(平成7年)5月1日の迫害についての原告の供述は信用できない。 ③ 1997年(平成9年)12月の迫害の事実について,原告の供述する逮捕の状況,逮捕場所,逮捕時期は不自然に変遷していること,原告が供述するスーダンで行った政治活動は,1995年(平成7年)4月の大学での講義だけである(もっとも,原告は,その後,同年5月の逮捕後も政治活動を続けていた旨の平成14年10月10日付け陳述録取書を提出したが,その変遷は不合理で信用できない。)のに,1年以上経ってから突然治安機関に逮捕されるというのは不自然で 後,同年5月の逮捕後も政治活動を続けていた旨の平成14年10月10日付け陳述録取書を提出したが,その変遷は不合理で信用できない。)のに,1年以上経ってから突然治安機関に逮捕されるというのは不自然であること,治安機関により迫害を受けるおそれがある者が普通の会社に就職して稼働していたということも不自然であることなどからすると,原告の2回目の逮捕に関する供述は信用できず,迫害の事実は認められない。 ④ また,原告は,原告名義の正式な旅券と,日本の査証を取得して,合法的に航空機によって出国しているから,治安機関が原告に関心を持っていたとは考えられず,この点からも迫害を受けるおそれがあるとはいえない。そもそも,原告が,ウンマ党の支部がなく,兄弟の住んでいない日本へ逃れてきたことも不自然である。 ⑤ なお,原告は,供述変遷の原因として,通訳の能力不足を指摘するところ,なるほど,旅券(乙1)についての誤訳はあるが,これは,通常通訳人として選任している者の都合がつかなかったため,アラビア語に精通しているとはいえない者に依頼したためであり,難民調査等においては,後記(2)の被告ら主張のとおり,法廷通訳等の経験者の中から適正な通訳人を選任しており,原告は,録取した内容に誤りがないとして署名しているのであるから,原告の主張は不当である。 ⑥ 国連難民高等弁務官による難民認定は,難民の条件を充たしていなくとも本国の事情により難民に類似した状況に置かれた者を援助・保護するため,避難民や難民とも難民に類似した避難民にも当たらないが人道支援の必要がある国内避難民も対象としており,原告に対して,認定がなされたとしても,そのことによって,条約上の難民に該当するとはいえない。 (ウ) 原告の家族に対する迫害について原告は,平成10年11月12日の東京入管難民調査官による調 おり,原告に対して,認定がなされたとしても,そのことによって,条約上の難民に該当するとはいえない。 (ウ) 原告の家族に対する迫害について原告は,平成10年11月12日の東京入管難民調査官による調査においては,長兄及び次兄はG政権によって職場を追われて年金生活を送り,三兄はa市に居住して会社勤務,四兄が同じく大蔵省勤務,五兄がワシントンに居住して会社勤務,六兄がa市に居住して弁護士業務,八弟が製薬会社に勤務しているなどと供述していたが,平成12年9月24日付けの上申書や同年10月10日の名古屋入管入国審査官による調査においては,長兄と次兄が1997年(平成9年)12月に解雇されて逮捕され,弟も大学を辞めさせられたこと,長兄ないし六兄は,1998年(平成10年)以降のスーダン情勢のため,国外に出国したなどと述べるに至った。 しかしながら,ウンマ党は,1999年(平成11年)11月に国民民主同盟を脱退してG政権と協定を締結し,また,原告が所属すると主張するイスラム・ウンマ党はこれに先立って同政権と同盟していたことに照らせば,原告の家族に対する迫害の事実があったとは認められない。 また原告自身の供述も,前記のとおり,1990年(平成2年)に既に解雇されて年金生活を送っていたはずの長兄及び次兄が,1997年(平成9年)に解雇されたり,製薬会社に勤務していたはずの弟が大学を辞めさせられるなど,相互に矛盾し,長兄及び次兄に対する迫害に関する供述は,時間の経過とともに深刻なものとなるにもかかわらず,長兄に退院カードを取りに行ってもらったことと矛盾するなど,信用できない。 (2) 争点(2)(総論その2-被告らによる調査の過程に適正手続違反が存在したか)について(原告)難民認定申請者は,世界各地からそれぞれの母国で,宗教上,政治上等の理由で迫 信用できない。 (2) 争点(2)(総論その2-被告らによる調査の過程に適正手続違反が存在したか)について(原告)難民認定申請者は,世界各地からそれぞれの母国で,宗教上,政治上等の理由で迫害を受け,日本国にその救済を求めてくるのであるから,申請者の母国語は様々であり,その訴えは,当該国の宗教的,民族的,政治的な様々な背景に根ざしており,専門的知識がなければ理解できないものもある。さらに,迫害を受けた申請者は,心理的に不安定で,トラウマにより,迫害の記憶自体や,記憶の喚起に問題のある場合も多い。しかも,申請者は,入管で行う供述が外部に漏れ,母国に残した親族等に重大な影響を与えるのではないかという不安も抱きがちである。そうすると,難民認定手続における通訳,翻訳は,高度の語学力,知識を必要とする。しかるに,本件においては,能力不足の通訳人によったため,旅券の数字の判読すらできず,20箇所にも上るミスがあったり,誤訳によって,供述の変遷であるとの疑いを抱かれたりする結果になっており,重大かつ明白な手続上の瑕疵がある。 (被告ら)難民調査官は,原告に対する事実の調査において,条約上の難民を難民として認められるように,難民に該当しない者を誤って難民と認定しないように,難民該当性に判断に係る重要な点について,根気強く原告の供述を聴取し,慎重に調査を行っている。また,事実調査においては,裁判所の法廷通訳等の経験のある適切な通訳人を選任し,難民認定申請者から当該通訳人を忌避する旨の申立てがない限り通訳人として使用することとしている。そして,本件に係る調査においても,アラビア語又は英語の通訳を介して原告の供述を録取し,調書を取った後には読み聞かせを行った上で,原告は録取した内容に誤りがないとして供述調書に署名しているのであり,通訳人を忌避する 調査においても,アラビア語又は英語の通訳を介して原告の供述を録取し,調書を取った後には読み聞かせを行った上で,原告は録取した内容に誤りがないとして供述調書に署名しているのであり,通訳人を忌避することもせず,録取した内容に誤りがないとして署名しているにもかかわらず,訴訟になって,突然通訳人に問題があったと主張するのは,単なるいいがかりにすぎない。 (3) 争点(3)(各論その1-第1次不認定処分は無効か)について(原告)ア原告は,争点(1)の原告主張のとおり,条約上の難民に該当する。それにもかかわらず,第1次不認定処分は,原告が条約上の難民に該当することを認定するに足りる資料がないとして,不認定処分をしており,その判断には,重大かつ明白な瑕疵がある。したがって,第1次不認定処分は無効である。 イ第1次申請に当たり,被告法務大臣は,申請者に要求される立証責任について教示しなかった。そのため,原告は,十分な立証を尽くせなかったのであるから,この点で重大かつ明白な手続上の瑕疵がある。 (被告法務大臣)ア行政処分が無効であるというためには,当該処分に重大かつ明白な瑕疵が存在しなければならず,その瑕疵が明白であるか否かは,処分の外形上,客観的に瑕疵が一見して看取し得るか否かにより決せられるべきところ,争点(1)の被告ら主張のとおり,第1次不認定処分における被告法務大臣の判断には何ら誤りがなく,まして,重大かつ明白な瑕疵が外形上客観的に看取できるものとはいえないから,無効とはいえない。 イ前記のとおり,法律上難民該当性について,原告に立証責任が課されていることが明らかであるから,難民調査官が原告に対してどの程度立証責任が課せられているか教示する義務はない。 したがって,手続上の瑕疵があるとの原告の主張は失当である。 (4) 争点(4) が課されていることが明らかであるから,難民調査官が原告に対してどの程度立証責任が課せられているか教示する義務はない。 したがって,手続上の瑕疵があるとの原告の主張は失当である。 (4) 争点(4)(各論その2-本件裁決は無効か)について(原告)仮に,被告法務大臣において,証拠上あるいは60日ルールによって,条約上の難民に該当しないと判断したとしても,原告についての政治的な理由による迫害状況があり,しかも危険な南部戦線への兵役を強要され,これを拒否した経緯があることからすると,原告が帰国すれば生命の危険を招来することを理由に人道上在留特別許可が与えられるべきである。被告法務大臣の裁量権の行使は,思想及び良心の自由を保障する憲法の人権規定によっても制約を受けるのであるから,在留特別許可を与えなかった本件裁決が裁量権の行使を誤ったものであることは明白であり,かつその結果は重大である。 現に,難民行政の実務においても,難民認定申請に対しては不認定としながらも,在留特別許可を与えている場合も少なくない。このような便宜的な処分には,処分本来の性質をあいまいにする問題点を含むが,難民該当性の立証責任を課せられた難民認定申請者にとって,立証不十分による不認定という不条理を是正する第2次的救済手段として機能することが期待される。 したがって,本件裁決は無効である。 (被告法務大臣)ア憲法上,外国人は,本邦に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん,在留の権利ないし引き続き本邦に在留することを要求する権利を保障されているものでもない。そして,法50条1項所定の在留特別許可を与えるか否かも,外国人の出入国に関する処分であることから,同様に被告法務大臣の自由裁量に委ねられているものと解すべきである。このことは,同項の規定の仕方からも明らか 50条1項所定の在留特別許可を与えるか否かも,外国人の出入国に関する処分であることから,同様に被告法務大臣の自由裁量に委ねられているものと解すべきである。このことは,同項の規定の仕方からも明らかである。しかも,在留特別許可は,退去強制事由に該当することが明らかで当然に本邦からの退去を強制されるべき者に対し,特別に在留を認める処分であるから,その性質は恩恵的なものである。そうすると,その判断に当たっては,当該外国人の個人的事情のみならず,その時々の国内の政治,経済,社会等の諸事情,外交政策,当該外国人の本国との外交関係等の諸般の事情を総合的に考慮すべきものであって,同許可に係る裁量の範囲は極めて広範囲なものというべきである。すなわち,被告法務大臣の判断が違法となるかを判断するに当たっては,被告法務大臣の裁量権の行使としてなされたものであることを前提として,その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があること等により上記判断が全く事実の基礎を欠くか否か,又は事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等により,社会通念に照らして著しく妥当性を欠くことが明らかであるか否かについて審理し,それが認められる場合に限り,裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして違法となるというべきである。 イまた,法は,24条で退去強制事由を列挙し,27条以下にその手続を規定しているが,難民認定手続と退去強制手続の関係については何ら規定しておらず,むしろ,法61条の2の8の規定からは,難民認定を受けている者についても法24条1項各号に該当する限りこれを認定しなければならないし,退去強制手続も進めなければならないことを前提としていると解することができるから,難民認定申請をしていること又は難民認定を受けていることは,退去強制手続を当然に停止せしめるものではなく, らないし,退去強制手続も進めなければならないことを前提としていると解することができるから,難民認定申請をしていること又は難民認定を受けていることは,退去強制手続を当然に停止せしめるものではなく,在留特別許可を付与するか否かについて判断する際に考慮することになる事情の一つにすぎない。 ウしかして,原告に下記の諸事情があることを考慮すると,本件裁決が無効となる余地はないというべきである。すなわち,(ア) 原告は,在留期限である平成11年3月6日を経過して,本邦に不法に残留しており,法24条4号ロの要件を充たす。 (イ) 原告は,外国人登録法8条1項に基づく居住地変更登録義務に違反している。 (ウ) 原告は,本国スーダンで出生・生育しており,来日するまで我が国と関わりがない。 (エ) 前記のとおり,原告が帰国したとしても,迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖があるとは認められない。 (オ) その他,原告には,在留を特別に許可すべき事情がない。 (5) 争点(5)(各論その3-第2次不認定処分は違法か)について(原告)ア法は,日本が難民条約を批准したことに基づき,締結国の義務履行として立法されたものであり,かつ根本概念である難民概念を独自に定義することなく,難民条約に譲っている。そして,難民条約は,決して難民の概念を申請時期に係らしめることをせず,単なる手続としてもそのような規定を置いていない。このことは,難民認定が確認行為であることからすると,当然のことである。しかるに,申請に法定期間を設けることは,条約上の難民概念の要件を充足することに加え,難民認定の申請を上陸後法定期間内に行うことの要件を付加し,難民概念を加重,厳格化するものというべきである。したがって,いわゆる60日ルールは,法の基礎である難民条約の趣 要件を充足することに加え,難民認定の申請を上陸後法定期間内に行うことの要件を付加し,難民概念を加重,厳格化するものというべきである。したがって,いわゆる60日ルールは,法の基礎である難民条約の趣旨に反し,違法・無効である。このことは,国連難民高等弁務官事務所執行委員会が定めた「難民の国際的保護に関する結論」の記述からも明らかであり,これは法規範性を有するというべきである。 現に,被告法務大臣自身,60日の法定期間を経過した難民認定申請に対して弾力的な運用をしており,被告法務大臣の主張は破綻している。 イ形式的に第2次申請の申請日を基準日として60日ルールを適用すると,いかなる理由があっても難民認定申請手続における再審は成立しないことになる。しかし,このような判断は,生命の危険を含む迫害から申請者を庇護しようとする難民条約及び法の趣旨に反する。 少なくとも,第1次申請に難民条約や法の趣旨に反する重大な瑕疵がある場合は,再審申請を許容すべきである。この場合,司法的救済が存することを理由に再審申請を拒否することは,難民条約,憲法31条又は条理上認められる「難民申請に関して適正な行政手続を受ける権利」を侵害するというべきである。 本件においては,第1次申請の際,被告らが適正な翻訳者,通訳人を選任せず,立証責任を教示しないなど,著しくずさんな手続によって不認定処分が行われた以上,上記の重大な瑕疵があるものとして,再審申請が認められるべきである。 ウまた,本件においては,第1次不認定処分において,原告が,難民に当たるにもかかわらず,争点(2)の原告主張のとおり,適正な手続による十分な調査が実施されなかったことにより第1次申請が不認定となり,やむなく第2次申請がなされたのであるから,法61条の2第2項ただし書のやむを得ない事情に当たると解すべきで とおり,適正な手続による十分な調査が実施されなかったことにより第1次申請が不認定となり,やむなく第2次申請がなされたのであるから,法61条の2第2項ただし書のやむを得ない事情に当たると解すべきである。 エ以上のとおり,第2次不認定処分は違法であり,取消しを免れない。 (被告法務大臣)ア法61条の2第2項は,難民認定申請は,本邦にある外国人が本邦に上陸した日から60日以内に,また,本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあっては,その事実を知った日から60日以内に行わなければならない旨,また,やむを得ない事情があるときは,この限りではない旨定め,申請者が申請期間内に申請したことを難民の認定を受けるための手続的要件としている。これは,難民となる事実が生じてから長期間経過後に申請されると,その当時の事実関係を把握するのが著しく困難となり,適正かつ公正な難民認定ができなくなること,迫害を受けるおそれがあるとして我が国に庇護を求める者は,速やかにその旨申し出るべきであること及び我が国の国土面積,交通・通信機関,地方入国管理官署の所在地等の地理的,社会的事情からすれば,60日という期間は申請に十分な期間と考えられること等を理由としており,十分に合理性を有する。そして,やむを得ない事情とは,病気,交通の途絶等の客観的事情により物理的に入国管理官署に出向くことができなかった場合のほか,本邦において難民認定の申請をするか否かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をいうものと解すべきである。 イしかるところ,第2次申請の理由は,ウンマ党に所属し活動していた証拠となる党員証明書等を提出して,帰国すれば迫害を受けるというものであり,その内容はおおむね第1次申請のそれと同じである。したがって,原告の主張する迫害事由 請の理由は,ウンマ党に所属し活動していた証拠となる党員証明書等を提出して,帰国すれば迫害を受けるというものであり,その内容はおおむね第1次申請のそれと同じである。したがって,原告の主張する迫害事由は,本邦入国以前に係るものであり,また,原告は,本邦においては何ら政治活動を行っておらず,本邦にある間に難民となる事由が生じた場合に当たらないから,申請遅延についてやむを得ない事情も認められない。また,原告は,第1次申請の補充というべき再審として第2次申請をなした旨主張するが,第2次申請は,新たに申請がなされたものであって,原告の主張は失当である。しかも,原告の供述は,前記のとおり,信用できず,条約上の難民に該当しない。したがって,第2次不認定処分に何らの違法はない。 (6) 争点(6)(各論その4-本件退令発付処分は無効か)について(原告)本件裁決は,争点(4)の原告主張のとおり,違法・無効であるから,本件退令発付処分も違法・無効である。 (被告名古屋入管主任審査官)ア退去強制手続においては,容疑者が法24条各号の一つに該当するとの入国審査官の認定若しくは特別審理官の判定に容疑者が服したとき又は法務大臣から上記判定に対する容疑者の「異議の申出は理由がない」旨の裁決の通知を受けたときには,主任審査官は,当該容疑者に対する退去強制令書を発付しなければならないのであり,退去強制令書を発付するか否かについて主任審査官の裁量の余地は全くない。 イこの点について,原告は,条約上の難民と認定されなくとも,帰国すれば迫害を受け,生命の危険を招来するおそれがあると主張する(争点(4)における原告の主張)が,退去強制手続において,迫害を受けるおそれがあると主張する外国人からの法49条1項に基づく異議の申出がなされた場合には,被告法務大臣は, するおそれがあると主張する(争点(4)における原告の主張)が,退去強制手続において,迫害を受けるおそれがあると主張する外国人からの法49条1項に基づく異議の申出がなされた場合には,被告法務大臣は,その送還が,難民をいかなる方法によっても人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること,又は政治的意見のために,その生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放又は送還してはならないという「ノン・ルフールマンの原則」(難民条約33条参照)に違反することにならないか否かについても考慮した上で,在留特別許可の許否の判断をしているから,何ら難民条約33条1項に反するものではなく,原告の主張には理由がない。 ウしたがって,本件裁決が違法であるといえない以上,本件退令発付処分も適法である。 第3 当裁判所の判断 1 争点(1)(総論その1-原告は条約上の難民に当たるか)について(1) 難民であることの立証責任の所在について一般に,抗告訴訟における主張立証責任については,その適法性が問題とされた処分の性質によって,分配原則を異にするのが相当である。すなわち,当該処分が,国民の自由を制限し,国民に義務を課するいわゆる侵害処分としての性質を有する場合は,処分主体である行政庁がその適法性の主張立証責任を負担し,逆に,国民が,特別な利益・権利を取得し,あるいは法定の義務を免れるいわゆる受益処分としての性質を有する場合には,当該国民がその根拠法令の定める要件が充足されたこと(申請却下処分が違法であること)の主張立証責任を負担すると解するのが原則であり,これに根拠法令の規定の仕方や要件に該当する事実に対する距離などを勘案して,総合的に決するのが相当である。 本件において問題とされている難民の認定処分は,本来,当然には本邦に滞在する権利を 則であり,これに根拠法令の規定の仕方や要件に該当する事実に対する距離などを勘案して,総合的に決するのが相当である。 本件において問題とされている難民の認定処分は,本来,当然には本邦に滞在する権利を有しない外国人(最高裁判所昭和53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)に対して,その資格をもって滞在することを認め,あるいは出入国管理上の特典を与えるものであり(法61条の2の5,61条の2の6第3項,61条の2の8参照),これに,法61条の2第1項が,申請者の提出した資料に基づいて法務大臣がその者を難民と認定することができる旨規定し,法61条の2の3第1項が,申請者の提出した資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又はその取消しに関する処分を行うため必要がある場合には,法務大臣は難民調査官に事実の調査をさせることができる旨規定するなど,申請者の提出した資料が第1次的判断資料とされていること,さらには,難民であることを基礎づける事実は,申請者の生活領域内で生ずるのが通常であることなどを総合すると,条約上の難民に該当する事実の主張立証責任は,申請者が負担すると解するのが相当である(原告も,申請者に基本的な主張責任があること自体は認めている。)。 もっとも,経験則上,迫害を受け,あるいは受けるおそれがあることによって母国を出国した者については,十分な客観的証明資料を所持していることを期待できず,出国してからも,これらの資料を収集するための協力を得ることが困難であることが多いと考えられるから,申請者がこれらの資料を提出しないからといって,直ちに難民であることを否定すべきではなく,申請者本人の供述するところを主たる材料として,恐怖体験による記憶の変容,希薄化の可能性なども十分に考慮した上で,その内容が 資料を提出しないからといって,直ちに難民であることを否定すべきではなく,申請者本人の供述するところを主たる材料として,恐怖体験による記憶の変容,希薄化の可能性なども十分に考慮した上で,その内容が首尾一貫しているか,不合理な内容を含んでいないか等を吟味し,難民であることを基礎づける根幹的な主張が肯認できるか否かに従って,最終的な判断を行うべきである。 以下においては,このような見地から,原告の難民該当性について判断する。 (2) G政権によるウンマ党員に対する迫害のおそれについてアウンマ党が,独立直後から政権の主要な役割を果たすことがあった反面,クーデターによって政権を追われることを繰り返しており,特に89年クーデターを起こしたG政権からは,政党非合法化と多数の党員の国外追放という迫害を受けたこと,そのため,国内に残ったウンマ党員らは,G政権に対抗して結成された国民民主同盟に加盟して反政府運動の一翼を担っており,そのうちのSPLAを中心とする武装勢力は政府軍との間で熾烈な内戦を継続してきたこと,以上の事実は前記前提事実(5)に記載のとおりである。 また,証拠(甲47)によれば,89年クーデターによる軍事政権の誕生は,スーダン史上空前の規模の人権侵害をもたらしていること,具体的には,「幽霊屋敷」と呼ばれる秘密拘禁センターにおける拷問等や,政治犯に対する不公正な裁判によって,処刑や迫害が実行されてきたこと,1989年(平成元年)と1990年(平成2年)には,政治的意見を理由に何百人も逮捕され,その中には少なくとも35人のウンマ党の主要メンバーと89年クーデター後に解任された軍隊の上級将校が含まれていたこと,1993年(平成5年)4月から同年6月にかけて,北部の複数の町で多数の人が拘禁されたが,特にイスラム教アンサール派の信者及びウンマ党関 年クーデター後に解任された軍隊の上級将校が含まれていたこと,1993年(平成5年)4月から同年6月にかけて,北部の複数の町で多数の人が拘禁されたが,特にイスラム教アンサール派の信者及びウンマ党関係者に対する迫害が厳しかったこと,1994年(平成6年)においても,ハルツームにて反政府デモを行った共産党やウンマ党の関係者,ジャーナリスト,労働組合活動家,弁護士ら100名以上が数週間から数か月間拘禁されたこと,同年4月,6月及び7月には,ウンマ党党首のE自身も拘禁されたこと,89年クーデター以来,複数の大学において,政府の政策及び大学職員の解雇と貧しい生活状態に抗議するデモに対して定期的な妨害がなされ,発砲を受けることもあったこと,教員に対する逮捕や追放が相次ぎ,これに抗議した66人の学生がPDFキャンプに連行され,釈放前にそれぞれ30回の鞭打ちを受けたこと,このような迫害によって,死亡したり負傷したりする者が多数あり,また,行方不明者も多数発生したこと,以上のように,アムネスティ・インターナショナルがスーダンの状況を報告している事実が認められる。 以上を総合すれば,ウンマ党に所属し,反政府活動に従事している者は,これを敵視するG政権によって生命,身体,自由等を脅かされ,迫害を受ける客観的なおそれがあると認めるのが相当である。 イこの点について,被告らは,G政権は,1997年(平成9年)4月,SPLAを除く南部反政府勢力の一部とハルツーム和平協定を締結する一方,政治結社を認める法を制定するなど,多数政党政治を前提とする政治に踏み出しつつあり,このような情勢を受けて,ウンマ党は,国民民主同盟を離脱し,E党首を含む多数党員が帰国し,G政権と和解に向けた協議を継続していることなどを理由に,ウンマ党員らに対する迫害のおそれはない旨主張するところ のような情勢を受けて,ウンマ党は,国民民主同盟を離脱し,E党首を含む多数党員が帰国し,G政権と和解に向けた協議を継続していることなどを理由に,ウンマ党員らに対する迫害のおそれはない旨主張するところ,証拠(乙61ないし64,69,70)によれば,このような動きが事実であると認められる。 しかしながら,証拠(甲33ないし40及び42の各1,原告本人)によれば,G政権との和解協議を選択したのは,ウンマ党全体ではなく,πを中心とする反主流派であり,ρ博士,σ副議長らは,このような動きを批判していること,和解協議に参加した党首のEも,全体主義政権に加わることを否定していること,ハルツーム和平協定合意の後も,内戦は終息せず,部分的には激化したところもあること,以上の事実が認められ,これによれば,G政権とウンマ党全体とが和解し,友好関係を樹立したというにはほど遠い状況といわざるを得ず,89年クーデター以来長期間にわたって対立してきた両者の関係は,部分的には改善の様相を見せながらも,基本的には依然として継続していると認めざるを得ないから,迫害のおそれがあるとの前記判断を覆すには足りない。 (3) 原告に対する迫害のおそれについて原告は,迫害のおそれを基礎づける事実として,①原告がウンマ党の思想的な創立者の家系に属し,幼少時代からウンマ党の活動に従事してきたこと,②1995年(平成7年),教鞭を執っていたエルナセル工科大学で行った講義が原因で逮捕され,2階から突き落とされて,両足等を骨折したこと,③1997年(平成9年)12月,再度逮捕され,南部戦線に行くことを断ったところ,拷問を受けたこと,④家族らも迫害を受け,国外に脱出していること,以上のとおり主張するので,以下において,順次検討を加える。 ア原告がウンマ党員として幼少時代から活動してきたことに を断ったところ,拷問を受けたこと,④家族らも迫害を受け,国外に脱出していること,以上のとおり主張するので,以下において,順次検討を加える。 ア原告がウンマ党員として幼少時代から活動してきたことについて(ア) 証拠(甲5の1,19,22,44,乙6,7,9,10,13,14,20,24ないし27,30,33,34,38,39の1,3,6及び9,40,41,44,46,48,49の1及び2,原告本人)によれば,原告の曾々祖父がウンマ党の思想的な創始者であり,自宅のあるa市s(t)地区には,党関係者の建物が集中していたこと,原告は,幼少のころから,ウンマ党の基盤であるイスラム教アンサール派のモスクに出入りし,その活動に従事してきたこと,親戚には,D政権による迫害の犠牲者U(V),元内務大臣τ(υ),前首相Eなどのウンマ党幹部がおり,家族全員もウンマ党員であったこと,インドのプーナ大学において,スーダン学生連盟(ただし,89年クーデター後は,G政権に反対する学生が結成した分派)に加入し,福祉部長をしていたこと,大略,以上のように供述してきた事実が認められる。 加えて,2000年(平成12年)11月1日付けスーダンウンマ党青年・学生連盟事務局長φ(χ)作成名義の嘆願書,同年10月23日付けウンマ党総指導者ψ作成名義の文書,同月28日付けインドウンマ国民党及びアンサー学生同盟作成名義の嘆願書,2001年(平成13年)2月5日付けスーダン人学生組合(在インド-プーナ)事務局長ω(A’)作成名義の証明書等が提出されている(乙39の3,48添付資料)ところ,これらには,いずれも原告がウンマ党員として活動していた旨の記載がある。 以上を総合すれば,原告が,その家系上の関係から,幼少のころからウンマ党やそのモスクに関係し,インドでの学生時代もその主張に ,これらには,いずれも原告がウンマ党員として活動していた旨の記載がある。 以上を総合すれば,原告が,その家系上の関係から,幼少のころからウンマ党やそのモスクに関係し,インドでの学生時代もその主張に係る学生団体に関係していたこと自体は認められるというべきである。 (イ) ところで,被告らが,第2準備書面によって,ウンマ党が国民民主同盟を離脱し,G政権と和解の姿勢を示すようになったことを指摘した後,原告は,アメリカにいるMを指導者とするグループらウンマ党主流派に属している旨主張するに至っている(準備書面(3))ところ,なるほど,2002年(平成14年)7月26日付けウンマ党首B’(C’)作成名義の当裁判所あて証明書(甲31及び32の各1)には,ウンマ党が国民民主同盟を形成する政党の一つで,現政権を打倒する運動を展開してきたこと,原告は,長年にわたり,ウンマ党の一員であり,スーダンに帰国すれば,現政権によって死刑を言い渡される可能性があること,原告を難民と認めることを希望すること,以上のような記載があり,原告自身も,本人尋問において,これに沿う供述をしている。 しかしながら,証拠(上記本人尋問後に提出された乙69)によれば,B’は,1999年(平成11年)4月13日に政府に政党として登録されたイスラム・ウンマ党の党首であり,この党は,スーダンの政治史上において重要な役割を果たしてきた既述のウンマ党とは全く別の政党であって,G政権と同盟関係にあることが認められる(原告がウンマ党主流派の指導者として主張するMと上記党首とが,同姓同名の別人であることをうかがわせる証拠はない。)。したがって,このような政党がG政権を打倒する運動に参加したり,その党員が帰国することによって生命の危険にさらされることは考え難いといわざるを得ず,上記証明書は,偽造された かがわせる証拠はない。)。したがって,このような政党がG政権を打倒する運動に参加したり,その党員が帰国することによって生命の危険にさらされることは考え難いといわざるを得ず,上記証明書は,偽造された内容虚偽のものと認めるほかない(ちなみに,甲31の1において,スーダン国民民主同盟を示すに当たり,「SudanNationalAlliance」と「SudanNationalDemocraticAlliance」の異なった二つの表記が用いられている理由も不可解である。)。 (ウ) 原告が前記証明書を真正な証拠として提出する以上,その他の原告の主張に沿う証拠の信用性に対しても重大な疑義を抱かざるを得ず,結局,原告がスーダンの政治情勢に通じているとは認め難く,果たしてウンマ党の活動家として積極的に反政府活動に従事し,G政権の迫害の対象となっていたかについては疑問が残るといわざるを得ない(乙9,20,27によれば,原告は,本邦において何らの政治活動をしていない旨自認していることが認められるが,この事実も上記の疑問を裏付けるというべきである。)。 イ 1995年(平成7年)5月ころの迫害について(ア) 原告は,1995年(平成7年)4月,スーダンに帰国し,a・アハリア総合大学のエルナセル工科大学にて教鞭を執り始め,学生に対して,政府の政策に批判的で自由主義的な立場からの講義を行ったため,ある日の講義が終わった後,政府との関係が緊密な民族イスラム戦線の特別捜査官によって逮捕され,その後の取調べの際,原告の反抗的な態度に怒った捜査官の一人に建物の2階から突き落とされ,両足等を骨折したと主張するところ,証拠(甲7,25,26,乙7)によれば,原告は,両踵骨骨折による足部痛及び両膝内障の障害を抱えていること,左脚部には,その治療に用いられた金属支 ら突き落とされ,両足等を骨折したと主張するところ,証拠(甲7,25,26,乙7)によれば,原告は,両踵骨骨折による足部痛及び両膝内障の障害を抱えていること,左脚部には,その治療に用いられた金属支柱が入っていること,踵骨骨折は,高所から飛び降り,かかとから着地したときに起こりやすいこと,以上の事実が客観的に明らかであり,かつ,かかる障害を負うに至った経緯についても,大略,原告主張に沿う証拠(甲5の1,44,乙6,7,9,13,14,25ないし27,31,39の9,40,41,46,48,49の1,原告本人)が多数存在する(原告は,その本人尋問において,受傷してa教育病院に搬送された後,サドゥ・ヴァスワニ医療複合施設から来た医師(ν氏)によって手術を受けた旨供述する。)。 (イ) ところで,原告は,受傷の治療経過等を証する証拠として,医療報告書資料7及び9を提出する。 しかしながら,a教育病院の整形外科医(D’)及び医療部長(E’)の連署に係る1998年(平成10年)12月1日付け医療報告書資料7には,「外傷性骨折による右足かかと,及び内部骨折した左足かかとについて単純な整形外科リハビリテーションを受けた。どちらも1995年5月1日治療を施した。患者は1995年7月28日良好な状態で退院した。」と記載されているが,前記のとおり,原告の左脚には金属支柱が入っており,リハビリテーションだけの治療内容の記載は,ここで治療を受けたとする原告主張やこれに沿う前掲各証拠と整合しない。 次に,同病院の医師(F’)作成名義に係る医療報告書資料9には,「上記患者(原告)が,1995年5月から1998年7月28日まで当病院に入院していたことを証明する。高所からの不自然な転落により,右脚骨折1箇所,左脚骨折2/3箇所。同人の家族の決定により,当病院外からインド 原告)が,1995年5月から1998年7月28日まで当病院に入院していたことを証明する。高所からの不自然な転落により,右脚骨折1箇所,左脚骨折2/3箇所。同人の家族の決定により,当病院外からインド人医師ν氏が招かれ,…同医師が手術を行い,G’(H’)がその後のケアーを行いました。」と記載されているが,同資料7と治療内容等が異なる上に,入院期間の終期を示す1998年が誤記であるとしても,入院開始時期を「5月から」,負傷原因を「高所からの不自然な転落」と記載するのみであって,医療報告書と題する書面にしては内容が雑ぱくであるとの印象を拭えない。 また,医療報告書資料7と同9は,いずれも同一の病院が発行した書面であるにもかかわらず,書式,作成名義人が異なっている上,証拠(乙68)によれば,医療報告書資料7には,a教育病院のスタンプが押されていないこと,同9の作成名義人である医師(F’)は,同病院には存在しないことが認められる。 以上を総合すると,医療報告書資料7及び同9,なかんずく同9が,果たして真正に成立したものであるかについては,疑問が残るといわざるを得ない。 (ウ) この点に関連して,原告は,第1次申請をした際に提出した退院カードは,別人のものと気づかないで提出した旨主張し,その本人尋問においても,長兄が医師から別人のものと気づかないまま交付を受け,原告も同様に気づかないままスーダンにおいて長兄から受け取り,提出した旨述べる。 しかしながら,退院カードには,サドゥ・ヴァスワニ総合病院のインラックス・アンド・ブドラニ病院及び計画研究センターが,「Mr.I’ 29歳」について発行したものであり,「入院日95年2月6日,退院日95年2月9日,担当医ο,診断両方の踵骨」,「手術の注左…C.R.I.F. cKワイヤーとねじくっつけて整復 Mr.I’ 29歳」について発行したものであり,「入院日95年2月6日,退院日95年2月9日,担当医ο,診断両方の踵骨」,「手術の注左…C.R.I.F. cKワイヤーとねじくっつけて整復され固定された c ‘K,ワイヤーと押し合わせて挿入されたねじのサイズ 6.5㎝右→C.R.裏ピアストル型のカーブが与えられた」,「95年2月1日に2階から落ちたと称す,両足首の痛みと腫れ」,「X線-両方の踵骨」等の記載がある。これらの事項は,原告の述べる症状,落下状況及び手術担当医の名称ともよく合致していると認められるところ,証拠(乙65,67)によれば,原告が留学していたインドのプーナにあるサドゥ・ヴァスワニ医療総合病院が上記退院カードを発給したことを肯定していること,同病院には,上記担当医師が実在しており,その医師が上記内容の診療をしたことを確認していること,以上の事実が認められる。 そうすると,仮に原告本人尋問のとおり,これが別人のものであり,長兄が入手し,原告に交付したものであるとすると,同一病院にて,近接した時期に同じ傷害(両踵骨骨折)を受け,同じ治療を受けた患者が2名存在したことになって不自然であること,しかも,1995年(平成7年)当時,スーダンにいて逮捕等の迫害の危険にさらされていた原告の長兄は,わざわざインドのプーナまで出向いて退院カードを入手し,しかも同人とサドゥ・ヴァスワニ医療総合病院の双方が,別人のものであることに気づかぬまま,授受したことになるところ,これらの不自然な事実について原告から首肯できる合理的な説明がない。 また,証拠(乙7,9,13,27)によれば,原告は,当初,1994年(平成6年)6月プーナ大学の修士課程を卒業し,衣類売買やウンマ党の連絡業務のためボンベイ等に渡航し,1995年(平成7年)1月ス また,証拠(乙7,9,13,27)によれば,原告は,当初,1994年(平成6年)6月プーナ大学の修士課程を卒業し,衣類売買やウンマ党の連絡業務のためボンベイ等に渡航し,1995年(平成7年)1月スーダンに帰国し,エルナセル工科大学の教員の仕事に就き,同年3月ころ治安機関に逮捕され両足骨折の傷害を負った旨供述していたが,インド出国時期が同年3月23日であることを調査官から指摘された後,受傷時期が5月であると供述を変更し,同年2月に治療を受けた旨の記載のある退院カードが他人のものであると主張するようになった事実が認められる。 以上のとおり,退院カードは,記載された患者名や年齢が異なっているものの,その内容等に照らすと,原告本人のものであって,原告がスーダンに帰国した1995年(平成7年)3月以前に,インドの上記病院から入手されたものである可能性が相当程度あるといわざるを得ず(原告が,I’名義の書類を利用して受診した可能性相当があると思われる。),その場合には,両踵骨骨折の受傷は,迫害の事実を裏付けるものではない。 (エ) 加えて,原告は,逮捕状況について,当初は軍事訓練を受けた後に南部戦線へ行くかと脅されて突き落とされたと供述していた(乙7)が,やがて,原告の政治活動,とりわけインドにおける活動を問題とする脅迫があったと述べ(乙13,40,41,46),本人尋問においては,ウンマ党や家族に関する質問に対して反抗的な態度をとり,口論となったため,押されてバルコニーから落とされたと供述していること,退院後の居住状況についても,知人宅と供述したり(乙13,25),コントロールユニオンの4階の部屋である旨供述している(原告本人)こと,その後の政治活動についても,当初は政治活動をする状況にはなかったなどとして,積極的な活動に従事していなかったかのよ ,25),コントロールユニオンの4階の部屋である旨供述している(原告本人)こと,その後の政治活動についても,当初は政治活動をする状況にはなかったなどとして,積極的な活動に従事していなかったかのように供述していた(乙7,13,25)が,後に,ウンマ党員に会議開催を連絡したり,出された意見を党首に伝えたりする活動に従事したと述べ(乙34),さらには,ウンマ党員を海外に逃亡させる活動をしていた(甲5の1,44,原告本人)と供述していること,以上のように,受傷の前後の状況に関する供述に変遷等が見受けられ,迫害を受けた者の記憶障害を考慮するとしても,その供述の信用性を判断するに際し,看過し難い不自然さが存するといわざるを得ない。 (オ) 以上を総合すると,スーダンに帰国した後に,対立する民族イスラム戦線の特別捜査官によって両踵骨骨折の傷害を受けたとの原告主張の事実については疑問が残り,かえってインド滞在中に何らかの原因によって受傷し,同所にて手術等の治療を受けた可能性を否定し難いといわざるを得ない。 ウ 1997年(平成9年)12月の迫害について原告は,1997年(平成9年)12月,再度逮捕されて,軍隊に送られ,スーダン南部の人々と戦うよう命じられ,戦場に行くことを拒否したところ,水も食べ物も与えられないまま約1か月間収容された結果,マラリアを発病して入院することになったと主張し,大略,これに沿う証拠(甲5の1,22,44,乙7,9,13,14,25ないし27,39の9,41,46,49の1,原告本人)を提出する。 しかしながら,逮捕時期について覚えていないと述べたり(乙13,41),1998年(平成10年)5月に至っても,原告がスーダンの経済と他の国との関係を講義していたと述べる(乙34)ことが記憶障害によるものと善解しても,逮捕後,マラ ていないと述べたり(乙13,41),1998年(平成10年)5月に至っても,原告がスーダンの経済と他の国との関係を講義していたと述べる(乙34)ことが記憶障害によるものと善解しても,逮捕後,マラリアを発病した原告は軍によって病院に運ばれて治療を加えられたが,入院後約1週間で一人の医師(兄の友人)の手助けで病院を抜け出し,ウンマ党員の自宅に戻ったとの原告の供述(前掲各証拠)を前提にすれば,これが政治的意見やウンマ党員であることによる政治的迫害であるならば,容易に病院から抜け出せるような状態に置くということ自体不自然と考えられること,前記のとおり,1992年(平成4年)1月民政移管に向けた暫定国民議会が発足した後は,北部の政治情勢は徐々にではあるが安定化の兆しを示していることが認められ,これらを考慮すると,原告が軍のキャンプに連行されて南部戦線に行くことを強要されたとしても,それが原告の政治的意見やウンマ党に属することを理由とするものとは断定し難く(原告は,乙49の1にて,徴兵年齢を過ぎている旨述べているが,その経緯に照らせば,むしろ,通常の徴兵と考えるのが自然である。),難民の要件である「人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由」による迫害に当たるとまでは認め難い。 エ原告の家族に対する迫害状況について原告は,G政権によって,長兄を始めとする家族らが迫害され,現在は一人としてスーダン国内に居住していない旨主張し,これに沿う証拠(甲5の1,44,46,乙7,14,20,26,27,39の9,40,41,46,原告本人)を提出する。 しかしながら,前掲各証拠を子細に検討すると,平成10年11月12日の調査の際は,「長兄は元警察官,長姉は医師の妻,次兄は元技師,三兄は中東保険会社部長,四兄は大蔵省の 6,原告本人)を提出する。 しかしながら,前掲各証拠を子細に検討すると,平成10年11月12日の調査の際は,「長兄は元警察官,長姉は医師の妻,次兄は元技師,三兄は中東保険会社部長,四兄は大蔵省の課長,次姉は小学校の校長の妻,五兄はアメリカの航空会社勤務,三姉は小学校校長の妻,六兄は弁護士,八弟は製薬会社社員であり,五兄を除いていずれもaに居住している。長兄と次兄は1990年に強制解雇された。」旨供述し(乙7),平成12年9月18日の際は,「母と弟はaに居住しているが,長兄,三兄及び四兄はエジプトカイロ,次兄はイタリア,五兄はエチオピア,六兄はエジプトに居住している。」旨供述し(乙20),平成12年9月24日付け陳述書(乙26,39の9)では,「長兄はエジプト,次兄はエジプト,三兄はサウジアラビア,四兄はサウジアラビア,五兄はアメリカ,六兄サウジアラビア,弟と母はスーダンにおり,長兄と次兄は1997年12月に解雇され逮捕された。弟は,大学を退学させられた。」旨述べ,平成12年10月10日の調査の際には(乙27),「2年前話したときとは,兄たちの居住地が違っているが,これは兄たちが皆その後スーダンを出国したためです。2年前までは,スーダン以外に居住していたのは,五兄のζだけでした。兄たちは,職を失い,毎日取調べを受けて,ときどきは逮捕されていました。」旨供述し,平成13年1月9日の調査の際には(乙40),「家族関係は以前と変わっておらず,要するに,母と一人の弟はスーダンに居住し,そのほかの兄,姉はエジプト,サウジアラビア,アメリカに散らばっている。」旨供述し,同年4月19日の調査の際には(乙41),「現在,スーダンには,家族は誰一人おらず,母と弟もアメリカに行ったと聞いている。」旨供述し,最後に,本人尋問において,「母と弟は,平成1 る。」旨供述し,同年4月19日の調査の際には(乙41),「現在,スーダンには,家族は誰一人おらず,母と弟もアメリカに行ったと聞いている。」旨供述し,最後に,本人尋問において,「母と弟は,平成12年ころ,スーダンを離れてアメリカに行き,その後,母はサウジアラビアに渡った。なお,長兄と次兄が年金生活をしていた旨の記録は誤りである。」旨供述している。 これらによると,原告の長兄と次兄が解雇された時期について,89年クーデター直後であるとするものと,原告が2度目の迫害を受けた1997年(平成9年)12月ころととするものがあるが,その両時期では状況が大きく異なり,単なる記憶障害というだけでは説明が困難であるといわざるを得ない。また,上記各供述によると,平成10年には,五兄を除く原告の兄弟がスーダンに在住していたものの,その後,迫害を受けるなどしてスーダンを出国したことになるが,原告は家族に対する迫害状況を現認したわけではなく(前掲各証拠によっても,その迫害状況が具体的に示されているとはいえない。),前記のとおり,1992年(平成4年)1月以降,スーダンの北部の政治情勢は,徐々にではあるが安定化の兆しを示していることをも斟酌すると,現在は家族全員がスーダンを出国しているとしても,迫害以外の理由による出国である可能性を否定し難いというべきである。 そうすると,原告の家族に対する迫害があったとの原告の主張は,にわかに採用できない。 オまとめ以上によれば,原告が条約上の難民であることを基礎づけるものとして主張する根幹的な事実のうち,ウンマ党に関係していたことについては肯認できるものの,これを超えて,積極的な反政府活動に従事していたことによる迫害の事実までは認めることができず,したがって,原告の証拠収集能力に限界があり,あるいは迫害による心理的障 ことについては肯認できるものの,これを超えて,積極的な反政府活動に従事していたことによる迫害の事実までは認めることができず,したがって,原告の証拠収集能力に限界があり,あるいは迫害による心理的障害の結果,過去の事実を適切に供述できない可能性を最大限斟酌するとしても,なお,難民に該当するとの原告の主張を採用することはできない。 この点について,原告は,前記前提事実(4)記載のとおり,国連難民高等弁務官によって,関心の対象となる者の認定を受けていることを理由に,帰国すれば迫害のおそれがある旨主張するが,同弁務官による認定と法の定める難民認定とは,その趣旨,手続,効果等が異なり,その判断が被告らを拘束するものでないことは明らかであるので,上記判断を覆すものとはいえない。 2 争点(2)(総論その2-被告らによる調査の過程に適正手続違反が存在したか)について(1) 難民条約及び難民議定書は,難民認定のための手続について,何ら定めていないから,具体的にどのような認定手続をとるかについては,基本的に各国の裁量に委ねられていると解される。もっとも,法61条の2第1項は,「法務大臣は,本邦にある外国人から法務省令で定める手続により申請があったときは,その提出した資料に基づき,その者が難民である旨の認定を行うことができる。」と規定するところ,これは,法務大臣の裁量行為であることを示すものではなく,申請人が条約上の難民の要件を充たすときは,羈束的に難民の認定をしなければならない旨定めていると解されるから,その手続や運用が,できるだけ正確に事実関係を把握できるような適正なものであることが望ましくかつ要するというべきである。 (2) ところで,原告は,本件における適正手続違反として,難民認定手続の調査の過程における入国管理担当者の通訳,翻訳能力の不足を主張する な適正なものであることが望ましくかつ要するというべきである。 (2) ところで,原告は,本件における適正手続違反として,難民認定手続の調査の過程における入国管理担当者の通訳,翻訳能力の不足を主張するところ,なるほど,証拠(乙1)によれば,原告の旅券について,被告ら提出に係る翻訳文に多数の誤訳が存在することが認められ,また,証拠(甲7,乙66)によれば,平成13年9月4日の大阪入管入国審査官による調査に立ち会った通訳人の通訳能力(英語)が十分でなかったことが認められる。 しかしながら,旅券の記載内容は断片的な情報にすぎず,誤訳が原告に不利益な処分に影響したとは考え難いし,また,上記通訳人が立ち会って作成された調書は,乙45,46の2通にすぎず,これについては,むしろ入国審査官からの要望もあって,原告代理人とその支援者である鯛治祐子が立ち会い,通訳人の誤訳を指摘しつつ調査が行われ,最終的に,両立会人が調書に署名押印(指印)してその正確性を確認している事実が認められるから,通訳人の通訳能力の不足によって原告が不利益を受けたとはいえない。 そうすると,上記のような運用上の問題点があったからといって,これをもって適正手続に反する違法があったとの原告の主張は採用できない。 3 争点(3)(各論その1-第1次不認定処分は無効か)について(1) 原告が条約上の難民に当たると認め難いことは前記認定・判断のとおりであり,これが認められることを前提とする原告の無効の主張は,その前提を欠くものとして採用できない。 (2) 次に,原告は,立証責任を教示しないことが適正手続違反となる旨主張するが,そのような教示義務を定めた法令は存在せず,法61条の2第1項も「その提出した資料に基づき」と規定していること,そもそも難民認定の申請は,前記のとおり,申請人が特別の便益を受 反となる旨主張するが,そのような教示義務を定めた法令は存在せず,法61条の2第1項も「その提出した資料に基づき」と規定していること,そもそも難民認定の申請は,前記のとおり,申請人が特別の便益を受けようとする行為であって,難民該当性を積極的に立証しなければならない立場にあるのは当然と考えられること,これらからすれば,調査に当たった入国管理担当者らが,立証責任が基本的に申請人にあることについて積極的に教示しなかったことをもって,適正手続に反するとの原告の主張は採用できない。 (3) したがって,原告が条約上の難民に該当しないとした第1次不認定処分が違法であるとは認め難く,まして無効をもたらす程度の重大かつ明白な違法があるとは到底認められない。 4 争点(4)(各論その2-本件裁決は無効か)について難民認定申請をしていること又は難民認定を受けたことは,被告法務大臣が在留特別許可(法50条又は61条の2の8)を付与するか否かを判断する際の一事情となるにすぎないと解されるところ,在留特別許可は,法24条各号に定める退去強制事由が存在すると認められる場合に恩恵的に与えられるものであるから,これを付与するか否かについては,被告法務大臣に広範な裁量が認められているというべきである。したがって,被告法務大臣が在留特別許可を与えなかったことが,社会通念上著しく妥当性を欠き,在留特別許可の制度を設けた趣旨を没却することが明らかな場合を除くほか,その裁量権の行使が違法となることはないと解するのが相当である。 この点について,原告は,条約上の難民に該当しないと判断されても,政治的な理由により迫害され,帰国すれば生命の危険を招来するおそれがあるから,人道上,在留特別許可が与えられるべきところ,これをしなかった本件裁決は,裁量権の行使を誤ったものとして無効である ても,政治的な理由により迫害され,帰国すれば生命の危険を招来するおそれがあるから,人道上,在留特別許可が与えられるべきところ,これをしなかった本件裁決は,裁量権の行使を誤ったものとして無効であると主張する。しかしながら,原告について,政治的理由による迫害のおそれを認め難いことは前記認定・判断のとおりであり,手続的にも,前記前提事実(3),(4)のとおり,本件裁決は,第1次不認定処分とこれに対する異議申出は理由がない旨の通知がなされた後になされたものである上,原告が,外国人登録法8条1項に基づく居住地変更登録をすることなく,居所を変更していることなどを考慮すると,原告に在留特別許可を付与しなかった本件裁決が,裁量権を逸脱ないし濫用してなされたものとは認め難く,ましてやその行使に重大かつ明白な誤りがあるとは到底いえない。 5 争点(5)(各論その3-第2次不認定処分は違法か)について前記のとおり,難民条約及び難民議定書には,難民認定の手続について,何ら定めておらず,庇護に関する規定も設けていない。したがって,具体的にいかなる難民認定手続を採用するかは,基本的に各締結国の裁量に委ねられていると解されるが,難民条約が,「人間は基本的な権利及び自由を差別を受けることなく享有するとの原則を確認している」世界人権宣言を引用し,「すべての国が,難民問題の社会的及び人道的性格を認識して,この問題が国家間の緊張の原因となることを防止するため可能なすべての措置をとることを希望し」て締結されたこと(前文)を考慮すると,実体的に条約上の難民に該当するにもかかわらず,難民として認定することが一般的に困難となるような,合理性を欠くものであってはならないというべきである。 ところで,法61条の2第2項は,難民認定申請は,本邦にある外国人が本邦に上陸した日から60 難民として認定することが一般的に困難となるような,合理性を欠くものであってはならないというべきである。 ところで,法61条の2第2項は,難民認定申請は,本邦にある外国人が本邦に上陸した日から60日以内に,また,本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあっては,その事実を知った日から60日以内に行わなければならない旨定め,申請者が申請期間内に申請したことを難民の認定を受けるための手続的要件としているところ,この規定は,難民となる事実が生じてから長期間経過後に申請されるとその当時の事実関係を把握するのが著しく困難となり,適正かつ公正な難民認定に支障が生ずる可能性があること,迫害を受けるおそれがあるとして我が国に庇護を求める者は,速やかにその旨申し出るのが通常であり,かつ60日程度の期間があれば,申請を準備するのに足りないとは考えられないこと,仮に,難民として庇護を求める者が上記の期間内に申請することが困難な事情があれば,やむを得ない事情が存するものとして救済することが可能であることをも考慮すれば,全体として不合理な規定とはいえないと解すべきである(最高裁判所平成9年(行ツ)第10号・平成9年10月28日第三小法廷判決参照)。 そして,上記のやむを得ない事情とは,病気,交通の途絶等の客観的事情により物理的に入国管理官署に出向くことができなかった場合のほか,申請期間内に難民認定の申請をすることが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をも含むと解すべきであるが,第2次申請は,ウンマ党に所属して活動していた証拠となる党員証明書等を提出して,帰国すれば迫害を受けるという理由でなされているところ,その内容はほぼ第1次申請の内容と同じであるから,上記申請期間内に難民認定の申請をすることが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合に当たる すれば迫害を受けるという理由でなされているところ,その内容はほぼ第1次申請の内容と同じであるから,上記申請期間内に難民認定の申請をすることが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合に当たるとはいえず,証拠を補完した点も,このような立証活動は,第1次不認定処分に対する抗告訴訟においても可能であることをも考慮すれば,上記やむを得ない事情に該当するとは認め難い。 また,原告は,第1次不認定処分の再審として第2次申請をなした旨主張するが,行政不服審査手続上,再審という概念を容れる余地はなく(もともと,再審の概念は,確定した司法判断を覆すためのものである。),第2次申請は,新たな申請がなされたものと考えるほかないから,原告の上記主張は採用できない。 6 争点(6)(各論その4-本件退令発付処分は無効か)について法49条5項は,法務大臣から異議の申出に理由がないと裁決した旨の通知を受けた場合,主任審査官は退去強制令書を発付しなければならないと定めており,その発付について主任審査官に裁量を認める余地は全くないというべきである。したがって,その前提となる裁決に違法,無効原因がない場合には,これを受けた退令発付処分が違法,無効となる余地はないと解される。そして,本件裁決が違法,無効でないことは,前記4のとおりであるから,本件退令発付処分が無効であるとの原告の主張は採用できない。 ちなみに,原告について,母国であるスーダンに帰国しても迫害を受けるおそれがあると認め難いことは前記認定・判断のとおりであるから,本件退令発付処分のうち,原告の送還先をスーダンと指定した部分についても,難民条約33条1項の定めるノン・ルフールマンの原則に反するものとはいえない。 7 結論以上の次第で,原告の請求は,いずれも理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担につ 定した部分についても,難民条約33条1項の定めるノン・ルフールマンの原則に反するものとはいえない。 7 結論以上の次第で,原告の請求は,いずれも理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担につき,行訴法7条,民訴法61条を適用して,主文のとおり判決する。 名古屋地方裁判所民事第9部裁判長裁判官加藤幸雄裁判官舟橋恭子裁判官富岡貴美
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