令和6年7月18日宣告東京高等裁判所第4刑事部判決令和4年(う)第1834号殺人被告事件 主文 本件控訴を棄却する。 差戻前控訴審における未決勾留日数中600日を原判決の刑に 算入する。 理由 第1 事案の概要、当審係属までの経緯及び控訴の趣意 1 事案の概要本件公訴事実は、被告人が、平成28年8月9日、被告人方において、当 時38歳の妻に対し、殺意をもって、その頸部を圧迫し、よって、その頃、同所において、妻を頸部圧迫による窒息により死亡させた、というものである。 2 原審(第1審)における争点及び当事者の主張被告人が、平成28年8月9日午前1時過ぎに帰宅した後、119番通報 した同日午前2時45分頃までの間に、被告人方で、妻が頸部圧迫により窒息死したことや、その当時被告人方にいたのは被告人と妻のほかには幼い子供らだけであったことには争いがなく、被告人が頸部を圧迫したことによる他殺か、妻自身が首をつったことによる自殺かという、事件性が争点とされた。なお、妻は左前額部に出血を伴う挫裂創を負っており、これが死因では ないことも争いはなかった。 検察官は、被告人が、帰宅後、妻とトラブルとなって突発的に殺意を抱き、被告人方1階の寝室に敷かれたマットレス(以下「本件マットレス」という。)上で、背後から腕で妻の頸部を圧迫して窒息させ、妻が窒息死するまでの間に、意識を失った妻を階段から落下させるなどの偽装工作を行い、そ の際に前額部挫裂創を負わせた旨主張した。 弁護人は、主として被告人の供述に基づき、被告人は、帰宅後、包丁を持った妻ともみ合いになり、本件マットレス上で妻を押さえ 行い、そ の際に前額部挫裂創を負わせた旨主張した。 弁護人は、主として被告人の供述に基づき、被告人は、帰宅後、包丁を持った妻ともみ合いになり、本件マットレス上で妻を押さえ付けたが、妻が再び起き上がって包丁を持ったことから、2階の子供部屋に入りドアを閉じて待っていたところ、ドアの外からは「ドドド」などという物音がし、しばらくして子供部屋から出ると、妻が階段の手すりに被告人のジャケットを巻き 付け、それに首を通して自殺を図っていた旨主張した(以下、これを「本件自殺の主張」という。)。 3 原判決(第1審判決)原判決は、本件公訴事実どおりの犯罪事実を認定して、被告人を懲役11年に処した。その事実認定の理由の要旨は、次のとおりである。 窒息を伴う態様で頸部圧迫されてから二、三分が経過した窒息の第2期(呼吸困難及び痙攣期)の後半になると、尿失禁が生じたり、血液が唾液に混じったりすることがある。本件マットレスに、尿斑や唾液混じりの血痕という窒息第2期後半の痕跡がそろっており、それ以外に被告人方に窒息第2期後半の痕跡が見当たらないことや、被告人の右腕に7か所の表皮剥奪があ り、妻の指の爪の付着物から被告人と妻の混合DNA型と矛盾しないDNA型が検出されたことなどからすれば、被告人が本件マットレス上で妻の頸部を圧迫して窒息死させたことが推認される(以下、これを「本件推認」という。)。尿斑や唾液混じりの血痕が窒息第2期後半以外の事情から生ずる可能性があり得ないとはいえないが、本件自殺の主張を前提とし、妻が前額部挫 裂創を負った後に自殺を図ったとすると、被告人方の血痕の付着箇所が限られた範囲(寝室、洗面所、階段、階段下の合計15か所)にとどまっているのは説明が困難であること(以下、このことを「現場 挫 裂創を負った後に自殺を図ったとすると、被告人方の血痕の付着箇所が限られた範囲(寝室、洗面所、階段、階段下の合計15か所)にとどまっているのは説明が困難であること(以下、このことを「現場血痕の不整合」という。)などからすれば、自殺の可能性は抽象的なものにとどまり、本件推認を妨げない。したがって、被告人が妻の頸部を圧迫して窒息死させたことは 常識に照らして間違いない。 4 差戻前控訴審判決被告人が控訴し、訴訟手続の法令違反、事実誤認を主張したところ、差戻前控訴審判決は、原審の訴訟手続に法令違反は認められず、原判決の事実認定について、本件推認は不合理とはいえないが、差戻前控訴審における事実の取調べの結果によると、被告人方に更に13か所の血痕が存在する可能性 が明らかになったことから、原判決の前提は客観的事実に反し誤りである上、前額部挫裂創に関し、想定される出血量や出血態様等に対する十分な検討をしないまま、現場血痕の不整合を指摘したことは、客観的事実及び経験則等に反して不合理であるものの、他方で、妻の両手には血液の付着がなく、その痕跡もないことや、血液を拭うなどした際に使用した可能性のある物が見 当たらないこと、前額部挫裂創の周囲を除く妻の顔の前面には、血液の付着や、血液が流れたり血液を拭いたりした痕跡(以下、これらを「顔前面の血痕」ともいう。)がないことが認められ、これらは、本件自殺の主張が客観的証拠と矛盾するとしてそれを否定する一方で、本件推認を支える根拠になり、原判決の判断は結論において相当であって事実誤認はない、とした。 5 上告審判決被告人が上告したところ、上告審判決は、差戻前控訴審判決が、妻の遺体検視時の前額部挫裂創の写真及び救急搬送時の顔の写真を根拠に、妻の顔前面 あって事実誤認はない、とした。 5 上告審判決被告人が上告したところ、上告審判決は、差戻前控訴審判決が、妻の遺体検視時の前額部挫裂創の写真及び救急搬送時の顔の写真を根拠に、妻の顔前面の血痕がないと認定したことについて、検視時の写真には狭い範囲しか写っておらず、救急搬送時の写真は電子カルテから普通紙に印刷されたもので 色調が不鮮明であり、これらの写真から妻の顔前面の血痕の有無を判断することは困難というほかなく、他に顔前面の血痕の有無を判断する根拠となり得る証拠は取り調べられていないことなどからすると、妻の顔前面の血痕の有無や、それと本件自殺の主張との関係について、審理が尽くされたとはいい難く、妻の両手に血液の付着やその痕跡がなく、血液を拭うなどした物も 見当たらないことと併せて、妻の顔前面の血痕がないことを挙げ、本件自殺 の主張は客観的証拠と矛盾するとした差戻前控訴審判決の判断は、論理則、経験則等に照らして不合理であるとして、差戻前控訴審判決を破棄した。 6 本件が当審に係属するに至った経緯は以上のとおりであって、本件控訴の趣意は、前記のとおり、訴訟手続の法令違反及び事実誤認の主張である。 なお、当審では、上告審判決の判断を踏まえ、検視時の妻の顔全体や前額 部挫裂創の写真(当審検10、職1、2)、救急搬送時の妻の顔の写真を鮮明化した鑑定書等(当審検1、弁1)を取り調べたほか、妻の顔前面の血痕の有無等に関連する証人尋問を実施したので、これらの事実の取調べの結果も併せて検討する。 第2 訴訟手続の法令違反の主張について 論旨は要するに、妻の前額部挫裂創からの出血量と現場の血痕の付着箇所との整合性の点について、原審で検察官が全く主張しておらず、また、争点が顕在化されていれば主張や反証が 違反の主張について 論旨は要するに、妻の前額部挫裂創からの出血量と現場の血痕の付着箇所との整合性の点について、原審で検察官が全く主張しておらず、また、争点が顕在化されていれば主張や反証が可能であったのに、原判決が争点を顕在化させずにこの点を有罪認定の中核部分としたのは不意打ちであって、原審の訴訟手続には審理不尽の違法がある、というのである。 しかし、原審公判では、妻の窒息死の原因が被告人による他殺であるのか妻の自殺であるのかという争点に関連して、前額部挫裂創が生じた時期及びその時点で妻が意識喪失状態にあったかが争われ、その考慮要素として、前額部挫裂創からの出血量や現場に遺留された血痕の状況等を踏まえた主張、立証も行われていたと認められるから、前額部挫裂創からの出血量と被告人 方に遺留された血痕の範囲が整合しないことを本件自殺の主張を否定する根拠とすることも、不意打ちとはいえないし、自由心証主義(刑訴法318条)の趣旨に照らして許容されるということができる。 原審の訴訟手続に法令違反があるとは認められず、論旨は理由がない。 第3 事実誤認の主張について 1 論旨は要するに、被告人は妻を殺害していないから無罪であるのに、 被告人が妻の頸部を圧迫して窒息死させたと認定した原判決には事実の誤認がある、というのである。 しかしながら、被告人が妻の頸部を圧迫して窒息死させたと認定した原判決の判断は、論理則、経験則等に照らして不合理であるとはいえない。以下、その理由を補足して説明する。 2 本件推認について⑴ 原判決が判示するとおり、頸部圧迫による窒息死という死因からすると、妻が被告人方内のいずれかの場所で窒息第2期後半の状態を経たことは動かし難い事実であるといえる。 原判決は、本件 認について⑴ 原判決が判示するとおり、頸部圧迫による窒息死という死因からすると、妻が被告人方内のいずれかの場所で窒息第2期後半の状態を経たことは動かし難い事実であるといえる。 原判決は、本件推認に先立ち、窒息第2期後半の状態について、人は腹筋 や括約筋が痙攣することや意識低下又は喪失によって括約筋が弛緩することなどで尿失禁を生じることがあり、この場合に失禁する尿量は膀胱内の尿量にもよるが多い傾向にあり、口腔内や副鼻腔内等の粘膜の毛細血管が破れるなどして血が唾液に混じることがあるとした上で、このような状態下ですぐに立ち上がって歩くというのは非常に難しく、起き上がったり動き回ったり できるようになるまでには30分から1時間半程度の時間を要すると認定している。これらの事実は、妻の司法解剖を行ったA医師、同医師の鑑定書等を法医学的見地から検討したB医師及びC医師といった複数の法医学の専門家の各原審証言を踏まえたものであり、認定に誤りはない。 また、原判決は、客観的事実として、実況見分等の結果をまとめた統合捜 査報告書(原審甲106)等により、尿斑が、妻が当時着用していたパンツ及びパジャマズボンの表面に集中して付着していたほか、カバーだけでなくその下の本件マットレスに最大で約20cmの範囲に付着するなどしていたこと、寝室に通常の鼻血に見られるような出血の痕跡はなかったこと、唾液混じりの血痕が、本件マットレスのカバーに3か所付着し、本件マットレス上 にまで染み込んでいること、発見された3か所全てで血液と唾液が混ざり合 っていることを認定し、尿斑の状況等から失禁の量は相当程度あったとし、唾液混じりの血痕について、表皮剥奪からの出血量程度では本件マットレスにまで染み込む状態は通常考え難い上、発見された3 っていることを認定し、尿斑の状況等から失禁の量は相当程度あったとし、唾液混じりの血痕について、表皮剥奪からの出血量程度では本件マットレスにまで染み込む状態は通常考え難い上、発見された3か所全てで血液と唾液が混ざり合う可能性も相当低いとしており、このような原判決の認定、評価は不合理とはいえない。 そして、原判決は、前記のとおり、本件マットレスに尿斑や唾液混じりの血痕という窒息第2期後半の痕跡がそろっており、それ以外に窒息第2期後半の痕跡は見当たらないこと、被告人の右腕に表皮剥奪があり、妻の指の爪の付着物から被告人と妻の混合DNA型と矛盾しないDNA型が検出されたことなどから、右腕の表皮剥奪は被告人がうつ伏せ又はこれに近い体勢の妻 の背後から右腕を回してその頸部を圧迫した際に、抵抗しようとした妻が爪を立てるなどして生じたと考えて矛盾はないとし、これらの事情も含めて総合して、被告人が、寝室の本件マットレス上で妻の頸部を圧迫し、窒息の第2期後半の状態を経て窒息死させたことが推認されるとした。 このような本件推認については、その基礎とした事実関係の認定やその評 価に不合理な点はなく、正当として是認できる。 ⑵ 所論は、①本件マットレス上の尿斑は、妻が一時的に失神して失禁したことにより生じた可能性があるし、失禁の量が相当程度であったとする原判決の前提にも根拠がない、②唾液混じりの血痕は、唾液に鼻血や表皮剥奪の出血が混じって生じた可能性があり、窒息死を推認させるものではない、 ③寝室に相当量の出血の跡が見られない一方、階段下や階段部分に血痕が点在していることに鑑みると、妻は寝室で失禁後に前額部を受傷したことになるが、A医師やC医師はこれが死戦期にできた傷とは考えにくい旨証言しており、前額部の受傷が死戦期(い 、階段下や階段部分に血痕が点在していることに鑑みると、妻は寝室で失禁後に前額部を受傷したことになるが、A医師やC医師はこれが死戦期にできた傷とは考えにくい旨証言しており、前額部の受傷が死戦期(いわゆる脳死状態だが心臓は動いている状態で、傷を負えば生活反応が見られる状態)ではなく、それ以前の状態である 活動時に生じた可能性があるから、寝室での失禁が窒息ではない別の原因に よって生じた可能性が現実的となり、妻の死亡が他殺であることには合理的な疑いが残る、④妻の首の索条痕、特に、着衣の模様であることが示唆される二条の線は、妻がジャケットに首を通して自殺したことを示している、⑤妻の死亡が他殺であるとすると、ア被告人が妻をわざわざ階段下に移動させる理由がない、イ階段や手すり等に血痕があることを説明できない、ウ 妻の下顎に近い頸部に広範な擦過傷があることを説明できない、エ被告人の着用していたジャケットに妻の血痕が付着していることを説明できない、といった、不自然な状況を想定しなければ説明できない事情や合理的な説明が困難な事情がある、などと主張するので、以下、検討する。 ⑶ 所論①及び②について 原判決は、前記のような本件推認を基礎付ける事実関係を踏まえ、所論①、②が述べるような事態は相当に不自然ではあるが個別にみればあり得ないとまではいえないとした上で、被告人が述べる自殺の状況に当てはめて考えると現実的にあり得る可能性とは認められないと判断しているのである。そして、後述するように、本件自殺の主張が依拠する被告人の供述は相当不自然 であり、信用性が認められないから、本件推認を妨げるものとはいえないとした原判決の判断に誤りはない。 ⑷ 所論③について原判決は、前額部挫裂創が死戦期にできたもので 人の供述は相当不自然 であり、信用性が認められないから、本件推認を妨げるものとはいえないとした原判決の判断に誤りはない。 ⑷ 所論③について原判決は、前額部挫裂創が死戦期にできたものであるとするB医師の原審証言の信用性を否定し、A医師及びC医師が写真から見られる生活反応等か ら死戦期に生じた傷と断定することは難しいとした原審証言を合理的とした上で、A医師が、意識のないところで落ちたか無理やり落とされたという方が考えやすいと述べ、C医師が、意識を喪失してぶつけたときに生じることが多く、意識があれば、防御姿勢を取るのでこれほど強い打撲にならないことが多いなどと、前額部挫裂創の発生時に妻が意識を失っていたと考える方 が自然である旨の証言をしていることを指摘して、所論と同旨の主張を排斥 している。このような原判決の判断に何ら不合理な点はないし、所論のいう活動時の内容が曖昧である上、所論は、A医師及びC医師の原審証言を正解せず、独自の見解で種々指摘するものであって、採用の限りではない。 ⑸ 所論④について妻の司法解剖を行ったA医師は、原審公判において、頸部に認められる赤 色小斑点は溢血点で、頸部圧迫などで血液が首より上の方に集中することによりできるものであり、溢血点のまとまりより下の部分が、幅広で表面が柔らかく滑らかなものにより圧迫されてできたとの所見を述べており、その信用性に疑問はない。これに対し、検視時の頸部の写真を見た法医学者のD医師は、当審において、左右に走る二条の線は、幅のある索条物が、しわにな るような形で重なり圧迫したことに整合し、ジャケットを用いた首つりで矛盾がない一方、腕による圧迫は非常に考えにくいと述べる。しかしながら、D医師の所見は、A医師がいう溢血点の集まりの部分が るような形で重なり圧迫したことに整合し、ジャケットを用いた首つりで矛盾がない一方、腕による圧迫は非常に考えにくいと述べる。しかしながら、D医師の所見は、A医師がいう溢血点の集まりの部分が圧迫されたことを前提としたものであり、A医師と前提を異にしているし、写真のみに基づく所見でもあって、信用性に欠けるというほかない。D医師の所見に基づく所論 は採用できない。 ⑹ 所論⑤について所論が指摘する点は、被告人が事件後に現場の状況を改変する種々の行為を行っているとうかがわれることに鑑みれば、あらゆる可能性を指摘することができるのであって、本件推認を左右するような事情ではない。 3 本件推認を妨げる事情について⑴ 差戻前控訴審判決が、妻の両手にも顔面にも血液の付着やその痕跡がないこと等を根拠として本件自殺の主張を排斥したのに対し、上告審判決は、差戻前控訴審判決には審理を十分に尽くさなかった結果、重大な事実誤認をしたと疑うに足りる顕著な事由があるとしてこれを破棄しているから、まず この点について、当審における事実の取調べの結果も踏まえて検討する。 妻の顔面の血痕の付着やその痕跡の有無については、救急搬送時に撮影された妻の写真を鮮明化した鑑定書(当審検1)等のほか、その際の治療に当たったI病院のE医師、法医学者であるF医師、写真工学の知見及び経験がある警視庁刑事部鑑識課特殊写真係のG係長の当審における各証言によれば、上記写真における妻の顔面左側の灰色調の部分はI病院初療室の照明光によ る影とみるのが合理的であり、血液の付着やその痕跡があるとはうかがわれない。 もっとも、上記写真は、一定の医療的な措置がされた後に撮影されたものであって、死亡直後の妻の顔面が同様の状態であったといってよいか のが合理的であり、血液の付着やその痕跡があるとはうかがわれない。 もっとも、上記写真は、一定の医療的な措置がされた後に撮影されたものであって、死亡直後の妻の顔面が同様の状態であったといってよいかについては疑問がある。また、前額部挫裂創からの出血が妻の顔面にどのような痕 跡を残すのかについては、差戻前控訴審でA医師が、血液がたらたらと流れるような状況になると思う旨証言しているほか、当審でF医師が、にじみ出した血液が重力に従い何条かにわたり筋状に流れ出る旨を証言するものの、それ以上に具体的には明らかとなっていない。また、前額部挫裂創が生じた時期や出血量についても同様に、当審における事実の取調べの結果を踏まえ ても、具体的に明らかとなっているとはいえない。そして、本件自殺の主張を前提とした場合の妻の行動には様々なものを想定し得る以上、顔前面に血液の付着やその痕跡が見当たらないことを根拠にして本件自殺の主張を排斥することはできないというべきである⑵ そこで、本件推認を妨げる事情に関する原判決の判断について更に検 討する。 ア原判決は、被告人方内の血痕の付着箇所が合計15か所と限定的であることを本件自殺の主張を排斥する根拠の一つとしているところ、差戻前控訴審の事実の取調べの結果、被告人方内に遺留された血痕ないし血痕様のもののうち、妻の血痕である可能性のあるものが、原判決が挙げる15か所以 外に、更に13か所存在したことが明らかとなっている。 これら13か所の痕跡が存在した場所をみると、寝室の床、壁、ドアノブに合計5か所、1階廊下の照明スイッチと1階トイレのドアに各1か所、階段及び手すりに合計6か所であって、原判決が指摘する合計15か所の血痕の付着箇所と比較しても、依然として限られた範囲にと ドアノブに合計5か所、1階廊下の照明スイッチと1階トイレのドアに各1か所、階段及び手すりに合計6か所であって、原判決が指摘する合計15か所の血痕の付着箇所と比較しても、依然として限られた範囲にとどまっているということができる。そうすると、原判決が挙げる15か所の血痕のほかに、妻の 血痕である可能性のある痕跡が13か所に存在したからといって、それにより直ちに原判決の判断が不合理なものとなるわけではない。また、原判決が、被告人の供述を前提とすると、妻は自らジャケットを手すりの留め具にくくりつけて中に首を入れたことになるが、この状況に見合うような血痕がその付近からは見つかっていないと説示する点も、階段上で自殺した時点で前額 部に挫裂創を負っていたはずであるから、その付近に血痕が認められるのが自然であるとはいえる。 もっとも、前記のとおり、前額部挫裂創が生じた時期や出血量が明らかでなく、本件自殺の主張を前提とした場合の妻の行動には様々なものが想定できるから、これらの点を根拠にして本件自殺の主張を排斥することは困難で ある。 イしかしながら、原判決が、妻が首をつった場所であると被告人が供述する階段上に妻の尿斑が認められないこと、階段手すりの留め具からジャケットの繊維は検出されていないことについて、不自然な状況を想定しなければこれらを説明できないと判断した点は、寝室での失禁の量は相当程度あっ たといえ、妻のパジャマズボンの表面及び裏面に尿斑の付着があったこと、手すりの留め具にジャケット以外の繊維は付着していたこと等に照らして、合理的であるといえる。 所論は、尿斑検査は階段の幅の半分しか行われていないし、被告人方が養生されるまでの間に救急隊や被告人等が階段を昇降するなどして尿斑が失わ れた可能性がある、などと 、合理的であるといえる。 所論は、尿斑検査は階段の幅の半分しか行われていないし、被告人方が養生されるまでの間に救急隊や被告人等が階段を昇降するなどして尿斑が失わ れた可能性がある、などと主張する。しかし、H警察官の原審証言によれば、 尿斑検査の範囲には、被告人の供述する妻が首をつった場所付近が含まれていたと認められるし、階段下の床面には尿斑が認められたことに照らすと、所論の指摘は原判決の判断を揺るがすものとはいえない。 ウ進んで、本件自殺の主張が依拠する被告人の原審公判の供述について検討すると、ジャケットの結び方や妻の体勢等が曖昧で不明確であることは 原判決が指摘するとおりである。また、原判決が、カバーだけでなく本件マットレスまで一定範囲に及ぶ尿斑が生じるほど絞めながら、何もしないのに短時間で意識が回復するというのも不自然な感を否めないと説示した点も、短時間で意識が回復した可能性自体を否定しているわけではなく、その他の事情をも踏まえて、その可能性はいまだ抽象的なものにとどまるとしている のであって、その判断は不合理とはいえない。 さらに、前記のとおり、被告人の右腕の表皮剥奪や妻の手指の爪の隙間の付着物からのDNA型検出結果からすると、妻は苦しさから必死に抵抗したものの意識を失って失禁したとみるのが自然である。そうであるのに、ほどなく妻が包丁を握って起き上がり、被告人が2階の子供部屋に逃げた後も 「ドドド」などといった物音を立てるほど動き回っていたというのは相当不自然であるし、その後に階段の手すりにジャケットをくくりつけて首をつるという方法で自殺を図ったというのも、それまでの行動からすると余りにも唐突である上、自殺が可能な方法であるとしても、状況がよく分かっているはずの自宅における自殺の にジャケットをくくりつけて首をつるという方法で自殺を図ったというのも、それまでの行動からすると余りにも唐突である上、自殺が可能な方法であるとしても、状況がよく分かっているはずの自宅における自殺の仕方として、奇異というほかない。 しかも、妻の救命を第一に考えるであろう状況で、被告人が臨場した救急隊員に対して妻が自殺した状況を説明しようとしなかったこと等の事情にも照らすと、原審公判での被告人の供述は信用性に欠けるというべきである。 なお、被告人は、階段で妻を発見した後の状況について、ジャケットの結び目をほどいた後、重くて手が滑り、妻が階段を滑り落ちて下で座るような 姿勢となった、死んだと思って茫然としていたところ、子供の泣き声が聞こ え、子供たちに何と言うんだと思って妻のほうを見たら、階段の下の大きな血だまりに気付き、階段から落ちて死んだことにできないかと思い、妻の頭を血だまりの横になるように横たえた、子供を寝かせた後、妻のそばに落ちていた包丁を、軍手をし、2階の包丁入れに洗って片付けた、妻の顔の血を拭くためにタオルを取りに行き、下りてくる途中で階段のへりや手すりに付 いていた血をタオルで拭き、同じタオルで妻の顔を拭き、そばの血だまりも拭いた、息を吹き返したような声がしたので、まだ生きてると思って救急に電話した、救急隊員には警察が来たら話すと言い、その後警察官には階段から落ちたことにしてくださいと言ったなどと供述している(原審第5回公判被告人供述調書)。しかし、仮に妻が死亡したと思ったとしても、自殺を試 みてから短時間しか経っておらず、何とか救命しようと考えないはずはないのであって、そのような場面に直面した者の行動として不自然かつ不合理というほかなく、被告人の供述は全体的に見ても信用性が認めら みてから短時間しか経っておらず、何とか救命しようと考えないはずはないのであって、そのような場面に直面した者の行動として不自然かつ不合理というほかなく、被告人の供述は全体的に見ても信用性が認められない。 エこうしてみると、被告人方の血痕の付着箇所の点を除いても、被告人の供述に依拠し、妻が階段の手すりにジャケットをくくりつけて首をつった とする本件自殺の主張は、現実的にあり得る可能性と評価することはできないのであって、原判決が、自殺の可能性はいまだ抽象的なものにとどまり、本件推認を妨げるものとはいえないと判断したことが、論理則、経験則等に照らして不合理であるとはいえない。 4 所論は、原判決は判断の構造を誤っており、立証責任を事実上被告人 側に転換しているなどとも主張するが、前記のとおり本件推認は所論がいうような脆弱なものではなく、それを妨げる事情としても相応のものが必要というべきであるから、原判決が判断構造を誤り、立証責任を事実上転換しているなどとはいえない。 その他、所論が種々指摘する点を踏まえて検討しても、被告人が妻の頸部 を圧迫して窒息死させたと認定した原判決の判断は不合理ではなく、原判決 に事実の誤認はない。 論旨は理由がない。 第4 結論よって、刑訴法396条、181条1項ただし書、刑法21条により、主文のとおり判決する。 令和6年7月18日東京高等裁判所第4刑事部 裁判長裁判官家令和典 裁判官早川幸男 裁判官任介辰哉は差支えのため署名押印できない。 裁判長裁判官 裁判官早川幸男 裁判官任介辰哉は差支えのため署名押印できない。 裁判長裁判官家令和典
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