判決平成14年2月15日神戸地方裁判所平成13年(わ)第900号殺人未遂被告事件 主文 被告人を懲役3年に処する。 この裁判確定の日から4年間刑の執行を猶予する。 文化包丁1本(平成13年押第171号の1),果物ナイフの柄1本(同号の2),果物ナイフの刃1枚(同号の3)を没収する。 理由 (犯罪事実)被告人は,夫(当時62歳)の酒癖が悪く,日頃から被告人に暴力を振るったり,被告人を罵ったりする等していたことに憤まんの情を抱いていたところ,平成13年8月15日午後7時40分ころ,兵庫県伊丹市a町b丁目c番地のdの自宅で,飲酒した夫に「うじ虫,出ていけばええやん。」,「うじ虫。よううじ虫で生きてられるなあ。うじ虫は死ね。」等と口汚く罵られたことから,そこまで言われることはないと思い,さらに1か月程前に夫から受けた暴力等を思い出し,夫を殺せば今のような惨めな生活を抜け出すことができると考え,とっさに夫を殺害することを決意し,同所台所から刃体の長さ約16.5センチメートルの文化包丁1本(平成13年押第171号の1)及び刃体の長さ約10.3センチメートルの果物ナイフ1本(同号の2はその柄,同号の3は根の付け根から折れて夫の体内に刺入されたままになっていたその刃)等を持ち出し,同所6畳間で,被告人に背中を向け,体の右側を下にして寝そべってテレビを見ていた夫の背後にしゃがみ,前記文化包丁でその左側背部を数回突き刺した上,上半身を起こした夫の右腋窩部を前記果物ナイフで1回突き刺したが,夫が早期に医師の治療を受けたため,夫に全治まで約40日間を必要とする左側背部刺創,右腋窩部刺入創の傷害 の左側背部を数回突き刺した上,上半身を起こした夫の右腋窩部を前記果物ナイフで1回突き刺したが,夫が早期に医師の治療を受けたため,夫に全治まで約40日間を必要とする左側背部刺創,右腋窩部刺入創の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった。 (証拠)なお,かっこ内の番号は,証拠等関係カードの検察官請求番号を示す。 省略(争点に対する判断) 1 本件の争点は,中止未遂が成立するかどうか,という点である。 2 前掲証拠によれば,次の事実が認められる。 (1) 被告人は,夫を殺害しようと決意し,6畳間で,被告人に背中を向け,体の右側を下にして寝そべってテレビを見ていた夫の背後にしゃがみ,文化包丁で殺意をもって夫の左側背部を数回突き刺したところ,夫が,「痛い。何すんねん。」等と言って上半身を起こし,右手で被告人の持っていた文化包丁を払いのけた。そこで,被告人は,失敗したと思い,柄が茶色の果物ナイフを右手に持ち,夫の後ろに回り込んだ後,殺し損なっては困る,とどめを刺そうと考え,夫の右腋窩部を心臓の方向に向けて,1回思い切り突き刺した。夫の右腋窩部からはたくさんの血が噴き出していた。 (2) 夫は,左側背部に4か所の刺創,右腋窩部に1か所の刺入創を負っている。左側背部の刺創は,幅約1.5センチメートルから最大約3センチメートル,深さが約1センチメートルから最大約3センチメートルの刺創であり,内臓までは達せず筋肉でとどまるものであるが,右腋窩部の刺入創は,脇の下約5センチメートルの位置に,幅約3センチメートルで,果物ナイフの刃が体内に挿入されたままの状態であり,右肺上葉を貫通しており,深さは,(目測で)約12センチメートルか13センチメートルはあり,このまま悪化すれば死に至る非常に危険な状態にあった。右腋窩部に挿入された刃体の角度がもう少し 状態であり,右肺上葉を貫通しており,深さは,(目測で)約12センチメートルか13センチメートルはあり,このまま悪化すれば死に至る非常に危険な状態にあった。右腋窩部に挿入された刃体の角度がもう少し内側に向いていれば,即死あるいは病院に搬入されるまでに死亡に至った可能性が極めて大きかった。 (3) 被告人は,夫の右腋窩部からたくさんの血が噴き出すのを見て怖くなり,夫の側からすぐに離れ,そばに置いていた柄が白色の果物ナイフを,夫に取り上げられて反撃されないようにするため,風呂場に持っていき投げ捨てた。それから再び夫の様子を見ると,夫が6畳間の敷布団の上にうずくまり,たくさんの血を出し,「痛い。」とうめいていたので,被告人は,大変なことをしてしまったと思い,救急車を呼ぶため,電話のある隣りの3畳間に行き,119番通報した。被告人は,その際,Aという姓と「私が主人を刺しました。」と言ったものの,名前や住所は言わなかった。また消防受理者からどこを刺したのかと問われても,被告人は,「どこでもええやん。」と答え,再度問われても「覚えていない。」と答え,さらに消防受理者から,死んでいるのかと問われ,「生きている。」と答え,血が出ているかと問われ,「血が出ている。」と答え,警察に行ってもらうよと言われると,「はい。」と答えて電話を切った。なお,消防受理者においては,被告人が名前や住所を言わなかったため,119番受理台備え付けのNTT発信地検索の要求ボタンを押して夫方を確認した。その後,被告人は,家の中で茫然と立ちすくんでいたところ,伊丹市消防救急隊が到着し,夫は,救急車で病院に搬送され,医師の治療を受けたため,一命を取り止めた。 3 そこで,以上に認定した事実によって,中止未遂の成否を検討する。 被告人が夫の右腋窩部を突き刺したその部位,刺創の程度等に ,救急車で病院に搬送され,医師の治療を受けたため,一命を取り止めた。 3 そこで,以上に認定した事実によって,中止未遂の成否を検討する。 被告人が夫の右腋窩部を突き刺したその部位,刺創の程度等に照らすと,被告人が夫の右腋窩部を1回突き刺した時点において夫には死の結果に至る高度の危険性が生じていたと認められ,被告人が夫の右腋窩部を1回突き刺したのは,とどめを刺す考えであったことを考慮すると,被告人の夫に対する殺人の実行行為は,その時点において終了したというべきであり,本件はいわゆる実行未遂の事案である。したがって,被告人が任意かつ自発的に夫の死という結果の発生を防止すべき真摯な努力をすること(中止行為)によって,現実に結果の発生が防止されたと認められなければ,中止未遂は成立しないことになる。 そこで,さらに進んで検討すると,被告人が119番通報したのは,被告人が,大変なことをしてしまったと思ったことによるものであるから,被告人の119番通報をした行為は,被告人の任意かつ自発的なものであったと認められる。しかしながら,被告人は,119番通報をしてはいるものの,その際,被告人のフルネームや住所を告げることなく,また消防受理者からどこを刺したかを質問されたにもかかわらず,「どこでもええやん。」とか「覚えていない。」と言って質問に答えておらず,さらに通報後,救急隊員が到着するまでの間,被告人は茫然と立ちすくんでいただけで,それ以上の行為には及んでいないのであって,当時の時間的,場所的状況からすると,被告人の前記の程度の行為が結果発生を防止すべき真摯な努力をしたものとまではいい難い。 夫が一命を取り止めたのは,消防救急隊において,被告人が名前や住所を答えなかったことから,電話の発信地検索をして夫方を確認し,夫を病院に搬送し,医師の治 摯な努力をしたものとまではいい難い。 夫が一命を取り止めたのは,消防救急隊において,被告人が名前や住所を答えなかったことから,電話の発信地検索をして夫方を確認し,夫を病院に搬送し,医師の治療を受けたことによるものであることを考慮すると,本件が被告人の中止行為によって現実に結果の発生が防止されたものとは認められない。 4 よって,被告人に,中止未遂は成立しない。 (法令の適用)罰条刑法203条,199条刑種の選択有期懲役刑刑の執行猶予刑法25条1項没収いずれも刑法19条1項2号,2項本文訴訟費用の不負担刑訴法181条1項ただし書(量刑の事情) 1 犯行に至る経緯,動機形成について(1) 被告人と夫の生活状況被告人は,昭和55年4月,夫(昭和14年3月27日生)と婚姻し,昭和56年1月に長男を出産した。夫は,平成3年ころから多量に飲酒するようになり,酒に酔っては,被告人に対し,「うじ虫。ゴキブリ。」等と怒鳴ったり,被告人の顔や胸等を殴り付けたり,被告人の脇腹を蹴り付けたりするようになった。また被告人も,平成元年ころから飲酒するようになり,平成8年から平成10年の間に合計3回アルコールが原因の慢性肝炎等で入院したことがあった。平成9年ころ,長男が別居し,そのころから夫の被告人に対する暴言,暴力はひどくなり,被告人は,手首,胸椎,肋骨の骨折等により何度も病院で診察,治療を受け,前記慢性肝炎と右手首骨折のため約6か月間入院したことも1回あった。被告人は,夫の暴言に対し,言い返したこともあったが,夫がこの世からいなくなればよい等と思うこともあり,夫に対する恨み,憎しみが次第に募っていったが,夫を殺害することまでを考えたことはなかった。 平 の暴言に対し,言い返したこともあったが,夫がこの世からいなくなればよい等と思うこともあり,夫に対する恨み,憎しみが次第に募っていったが,夫を殺害することまでを考えたことはなかった。 平成13年7月18日,被告人は,酒に酔った夫から「お前はゴキブリや。」等と言われ,夫に向かって言い返したことが原因で喧嘩となり,怒った夫から,鍋に入ったカレーを頭からかけられ,体中がカレーまみれになり,カレーの鍋の角で額等を何度も殴り付けられ,被告人の額が切れて出血した。被告人は,救急車で病院に運ばれ,額を3針縫う怪我を負った。被告人は,その日,自宅に帰らず,長男宅に泊まり,翌19日夕方ころ,帰宅すると,夫から「うじ虫おるんか。」等と怒鳴られたため,「うじ虫と違うわ。」と怒鳴り返した。すると,夫が,ポリタンクとライターを持ってきて,「灯油をまいて火つけたろか。」と言いながら,ポリタンクの中の液体を3畳板の間にまいたので,焼き殺されるという恐怖心でいっぱいになり,近くの交番に駆け込んだ。被告人は,その日から3日間自宅に帰ることなく公園等で野宿したが,その間,夫から自分が殺されるくらいなら,自分が夫を殺してしまおうと考え続けてみたものの被告人が夫を殺害すると長男に迷惑をかける等と考えると,夫を殺害する決心をすることができなかった。 被告人は,3日後に所持金も尽きたことから帰宅したところ,被告人の予想に反して,夫は,被告人を優しく迎え,その後数日間は,被告人に対し,暴言を吐いたり,暴力を振るったりすることはなかった。ところが,同年8月3日,生活保護費を受け取った被告人が,夫の好物の蟹を買って帰り,蟹とビールを食卓に出したところ,夫は,被告人に対し,「何でこんな食べにくいもの買ってくるんや。実をとるのが邪魔くさいやないか。」等と怒り出し,被告人 を受け取った被告人が,夫の好物の蟹を買って帰り,蟹とビールを食卓に出したところ,夫は,被告人に対し,「何でこんな食べにくいもの買ってくるんや。実をとるのが邪魔くさいやないか。」等と怒り出し,被告人に対し,「うじ虫,ゴキブリ。」等と罵った。被告人は,翌4日も夫に蟹とビールを出したところ,夫から同様の文句を言われて言い返したが,夫は,蟹を床の上に放り投げて,「うじ虫。」等と言いながら,被告人に対し,頭髪を掴んで引っ張り回したりする等の暴力を振るった。 被告人は,再度家出をし,旅館に泊まる等したが,同月11日,帰宅した。 同月14日,被告人が夫に昼食を出したところ,夫は,「こんなまずいもの食えるか。」と文句を言い,「うじ虫,ゴキブリ。」等と被告人を罵り,さらに夕食のときも,夫が,同様に文句を言って被告人を罵ったので,被告人が言い返すと,夫は,「うじ虫,黙っとけ。」と言いながら,被告人の頭髪を掴み,こぶしで被告人の頭や顔を何度も殴り付けた。被告人は,これにじっと耐えて,夫の怒りが静まるの待っていたが,夫を殺さなければ,このように夫に罵られ,暴力を振るわれる生活が続くと考えた。 (2) 犯行当日の状況翌同月15日午後4時すぎころ,被告人は,夫にビールと枝豆を出していたが,6畳居間にいる夫から「うじ虫,酒を買ってこい。」と怒鳴られたので,酒店から,夫の分として日本酒1合半,被告人の分として日本酒1合を買ってきて,夫の横に日本酒1合半を置き,被告人も炊事場で日本酒1合を飲んだ。その後同日午後6時30分ころ,夫から「おーい,酒買うてこい。酒が足らんやんか。うじ虫。」と怒鳴られたので,被告人は,再度酒店から,先程と同様,夫の分として日本酒1合半,被告人の分として日本酒1合を買ってきて,夫に日本酒1合半を出し,被告人も炊事場で日本酒 酒が足らんやんか。うじ虫。」と怒鳴られたので,被告人は,再度酒店から,先程と同様,夫の分として日本酒1合半,被告人の分として日本酒1合を買ってきて,夫に日本酒1合半を出し,被告人も炊事場で日本酒1合を飲んだ。その後,夫は被告人に背を向けてテレビを見ながら,「うじ虫,出ていけばええやん。」,「うじ虫。よううじ虫で生きてられるなあ。うじ虫は死ね。」等と長い間言っていた。被告人は,夫が言っていることを無視していたが,酒の酔いも手伝って,そこまで言われることはないと思い,さらに,夫から,7月18日にカレーを頭からかけられて体中がカレーまみれにとなり,カレー鍋で額を殴られて3針縫う怪我をしたことや,同月19日にポリタンクの中の液体を部屋にまかれて,「火をつけたろか。」等と言われたことを思い出し,あれこれ考えるうち,夫を殺してしまおう,そうすれば今のような惨めな生活を抜け出すことができると考え,夫を殺害することを決意し,炊事場にある文化包丁と果物ナイフ2本を使って,夫が被告人に背中を向けて寝そべっている間に,後ろから近付いてその背中を突き刺して,殺害しようと決め,本件犯行に及んだ。 2 特に考慮した事情(1) 本件犯行に至る経緯等については前記1に詳細に認定したとおりであるが,被告人は,夫の生活態度,被告人に対する暴力,暴言に対して不満に思うのであれば,夫と話し合ってこれをやめさせ,あるいは離婚する等,とるべき手段はあったと考えられるのに,これまでにそのような手段,方法をとったことはなく,夫に対する憤まんの情を抱いて募らせてきたもので,本件当日,夫に口汚く罵られたことから,夫を殺害することを決意して本件犯行に及んでいるのであって,その犯行動機は,いささか性急にすぎて短絡的であり,自己中心的である。しかも,その犯行態様は,殺傷能力の高い文化包 口汚く罵られたことから,夫を殺害することを決意して本件犯行に及んでいるのであって,その犯行動機は,いささか性急にすぎて短絡的であり,自己中心的である。しかも,その犯行態様は,殺傷能力の高い文化包丁1本と果物ナイフ2本の合計3本の凶器を用意して,確定的殺意をもって,被告人に背中を向けて寝そべってテレビを見ている全く無防備な状態にある夫に対し,背後からその背中を文化包丁で数回突き刺し,さらにとどめを刺すため,その右腋窩部を果物ナイフで力を込めて1回突き刺した(果物ナイフの刃は,柄の付け根から折れて体内に刺入されたままになっていた。)というものであって,危険で執拗,悪質である。その結果,夫に全治まで約40日間を必要とする左側背部刺創,右腋窩部刺入創の傷害を負わせており,負傷の程度も軽くない上,妻からこのような被害を受けた夫の苦痛,驚愕は小さくない。 これらの事情にかんがみると,被告人の刑事責任には重いものがある。 (2) しかし,他方,幸いにも夫は一命を取り止め,被告人の本件犯行は,未遂に止まっていること,被告人は,前にも夫を殺害することを考えたことがあるとはいえ,殺害を決意するには至っておらず,本件は直前の夫の口汚い暴言がきっかけとなっており,偶発的な側面があること,前記認定のとおりの本件犯行に至る経緯等に照らせば,被告人が本件犯行に至った一因は,被告人に対し,暴力,暴言を続け,被告人を追い詰めた夫にもあり,被害者である夫の落ち度は大きいこと,夫は,自分の被告人に対する態度,言動に非があったことを認め,被告人を宥恕し,被告人に寛大な処分を願っていること,被告人は,本件犯行直後,大変なことをしてしまったと思い,119番通報をしていること,被告人は,本件犯行の全てを率直に自白し,本件犯行を深く反省,悔悟していること,被告人には,前科・前 っていること,被告人は,本件犯行直後,大変なことをしてしまったと思い,119番通報をしていること,被告人は,本件犯行の全てを率直に自白し,本件犯行を深く反省,悔悟していること,被告人には,前科・前歴がないこと等被告人にとって酌むべき事情も認められる。 3 そこで,以上のような諸事情を総合考慮して,被告人に対しては,主文の刑を科した上,その執行を猶予することとした。 平成14年2月15日神戸地方裁判所第4刑事部裁判長裁判官白神文弘裁判官寺本明広裁判官中原淳一
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