平成27(行ウ)73 難民の認定をしない処分取消請求事件

裁判年月日・裁判所
平成30年2月23日 東京地方裁判所 その他
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判決文本文47,059 文字)

平成30年2月23日判決言渡平成27年(行ウ)第73号難民の認定をしない処分取消請求事件 主文 1 原告の請求を棄却する。 2 訴訟費用は原告の負担とする。 事実及び理由 第1 請求法務大臣が原告に対して平成22年11月5日付けでした難民の認定をしない処分を取り消す。 第2 事案の概要本件は,ミャンマー連邦共和国(以下「ミャンマー」という。)国籍の男性である原告が,原告は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する難民であるとして,法務大臣に対し,平成21年9月1日に2度目の難民の認定の申請をしたところ,法務大臣(処分行政庁)が,原告に対し,平成22年11月5日付けで難民の認定をしない処分をした(以下「本件難民不認定処分」という。)ことから,原告が,これを不服として,処分行政庁の所属する被告国に対し,本件難民不認定処分の取消しを求める事案である。 1 前提事実(後掲各証拠により容易に認められるか当事者間に争いがない。)(1) 原告の出自原告は,1967年(昭和42年)▲月▲日にミャンマーにおいて出生した同国国籍を有する男性である。 (2) 原告の入国・不法残留と1度目の難民の認定の申請ア原告は,1998年(平成10年)10月2日,大韓民国(以下「韓国」という。)から本邦に到着し,在留資格を「短期滞在」,在留期間を15日とする上陸の許可を受けて入国したが,在留期間の更新又は変更を受けないで,在留期限である同月17日を超えて本邦に在留した。 イ原告は,平成16年10月20日,出入国管理及び難民認定法(以下,単に「法」という。)違反(不法残留)の容疑で警察官に現行犯逮捕され,東京入国管理局(以下「東京入管」という。)入国審査官は,同月2 原告は,平成16年10月20日,出入国管理及び難民認定法(以下,単に「法」という。)違反(不法残留)の容疑で警察官に現行犯逮捕され,東京入国管理局(以下「東京入管」という。)入国審査官は,同月28日,原告が法24条4号ロの不法残留者として退去強制対象者に該当すると認定したところ,原告は,同日,口頭審理の請求をした。 ウ原告は,法務大臣に対し,平成16年10月29日,難民の認定の申請をした(以下「第1次難民認定申請」という。)。 エ東京入管特別審理官は,平成16年11月15日,口頭審理を経た上で,上記イの入国審査官の認定が誤りがないと判定したところ,原告は,同日,異議の申出をした。 オ法務大臣は,原告の第1次難民認定申請について,平成16年12月16日付けで難民の認定をしない処分をする(以下「第1次難民不認定処分」という。)とともに,上記エの原告の異議の申出には理由がない旨の裁決をし,東京入管主任審査官は,原告に対し,翌17日付けで退去強制令書(以下「本件退令」という。)を発付した。 原告は,平成17年3月15日,上記裁決及び本件退令発付処分の取消しを求める訴えを東京地方裁判所に提起した。 カ一方,原告は,法務大臣に対し,平成16年12月21日,平成26年法律第69号による改正前の法61条の2の9第1項1号に基づき,第1次難民不認定処分について異議申立てをした(以下「第1次異議申立て」という。)ところ,法務大臣は,原告に対し,平成17年4月8日付けで第1次異議申立てを棄却する旨の決定をし(以下「第1次異議決定」という。),同月14日にこれを原告に通知した。 原告は,同年10月7日,第1次難民不認定処分の取消しを求める訴えを東京地方裁判所に提起した。 キなお,原告は,上記イの現行犯逮捕後,即日引き渡された東京入管 月14日にこれを原告に通知した。 原告は,同年10月7日,第1次難民不認定処分の取消しを求める訴えを東京地方裁判所に提起した。 キなお,原告は,上記イの現行犯逮捕後,即日引き渡された東京入管入国警備官により収容令書を執行されて東京入管収容場に収容され,引き続き本件退令を執行され,平成17年6月29日に仮放免を許可されて出場する(以下「本件仮放免」という。)まで,同収容場に収容されていた。 ク東京地方裁判所は,上記オ及びカの両訴えの口頭弁論を併合した上,平成19年7月27日,これらの原告の請求をいずれも棄却する旨の判決を言い渡した(乙A1。以下「前訴判決」という。)。 原告が前訴判決に対して控訴したところ,東京高等裁判所は,平成20年3月6日,その控訴を棄却する旨の判決を言い渡し,原告が更に上告及び上告受理申立てをしたところ,最高裁判所は,平成21年3月26日,その上告を棄却するとともに,上告審として受理しない旨の決定をし,これにより前訴判決が確定した(乙A2,3)。 (3) 原告の2度目の難民の認定の申請ア原告は,法務大臣に対し,平成21年9月1日,再度,難民の認定の申請をした(以下「本件難民認定申請」という。)。これについて,法務大臣は,平成22年11月5日付けで難民の認定をしない処分をし(本件難民不認定処分),同月18日にこれを原告に通知したところ,原告は,同月25日,本件難民不認定処分について異議申立てをした(以下「本件異議申立て」という。甲A1ないし4,乙A5,8,9)。 イ法務大臣は,本件異議申立てについて難民審査参与員の意見を聴いたところ,難民審査参与員3名のうち2名は原告は難民に該当する旨の意見(以下「本件参与員多数意見」という。)を述べたが,原告は難民に該当しない旨を述べたもう1名の難民審査参与 審査参与員の意見を聴いたところ,難民審査参与員3名のうち2名は原告は難民に該当する旨の意見(以下「本件参与員多数意見」という。)を述べたが,原告は難民に該当しない旨を述べたもう1名の難民審査参与員の意見を採用して,原告に対し,平成26年6月20日付けで本件異議申立てを棄却する旨の決定をし(以下「本件異議決定」という。),同年8月22日にこれを原告に通知した(甲A5,乙A12)。 ウ原告は,平成27年2月18日,本件難民不認定処分の取消しを求める本件訴えを提起した(顕著な事実)。 2 争点及び当事者の主張本件の争点は,原告が難民に該当するか否かであり,これに関する当事者の主張は以下のとおりである。 (原告の主張)(1) 「難民」の意義法における「難民」の要件は,難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)及び難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」といい,難民条約と合わせて「難民条約等」という。)の「難民」と同一であり(法2条3号の2),その解釈は全面的に難民条約等に依拠するところ,難民条約が単なる「恐怖」ではなく,「十分に理由のある恐怖」を要求していることに鑑みれば,当該恐怖に客観的な根拠があることを求めていることは否定し難いが,その趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い誠実に解釈した場合(条約法に関するウィーン条約31条1項),最低限の客観性,すなわち,単なる主観的な可能性を超えて,証拠に基づく合理的ないし現実的な根拠を有する恐怖であると解するのが相当である。 そして,迫害を受けるのが10人に1人であったとしても,自分が選ばれる可能性がないと断言できない限り,迫害の恐怖を感じるのが通常であり,注視される可能性があるか否かを確実に見極めることが不可能である以上,この点が恐怖の有無あ 人に1人であったとしても,自分が選ばれる可能性がないと断言できない限り,迫害の恐怖を感じるのが通常であり,注視される可能性があるか否かを確実に見極めることが不可能である以上,この点が恐怖の有無あるいは客観的な根拠の有無を左右すると考えるのも誤りである。 (2) ミャンマー(1989年(平成元年)6月18日に国名が改められる前の旧ビルマ連邦及び旧ビルマ連邦社会主義共和国(以下,まとめて「ビルマ」という。)当時を含む。)の一般情勢ア 1988年(昭和63年)の民主化運動と軍政の成立ビルマは,1948年(昭和23年)に英国から独立し,1962年(昭和37年)にネィウィンが軍事クー・デタによって全権を掌握し,独自の社会主義思想に基づいて国軍の指導のもとビルマ社会主義計画党によって一党支配した。しかし,ビルマ式社会主義は,極端な経済不振にあえいで,1987年(昭和62年)12月には国際連合(以下「国連」という。)によって後発発展途上国(いわゆる最貧国)の指定を受けるまでに至り,1988年(昭和63年)3月,ヤンゴン工科大学の一部の学生が,体制に対して命がけの抵抗を始めた。同年8月後半から9月前半にかけて最も高揚した民主化運動は,初期の反ネィウィン闘争から,複数政党制の実現,人権の確立,経済の自由化を三本柱とする民主化闘争にその姿を変えていった。連日のように数十万人の人々がデモや集会に参加し,アウンサンスーチーも,同年8月に学生たちに推される形で表舞台に登場したが,同年9月18日,国軍の幹部20名から構成される国家法秩序回復評議会(以下「SLORC」という。)による軍事政権(以下「軍政」という。)の成立が宣言され,国軍が全面的に政治権力を行使することになった。 同年の民主化運動を率いた学生運動(以下「88学生運動」という。)のリ LORC」という。)による軍事政権(以下「軍政」という。)の成立が宣言され,国軍が全面的に政治権力を行使することになった。 同年の民主化運動を率いた学生運動(以下「88学生運動」という。)のリーダーたちは88世代学生リーダーと総称されている。 イ軍政による民主化運動の弾圧1990年(平成2年)5月27日に軍政によりミャンマーで30年ぶりに実施された複数政党制による総選挙(以下「90年総選挙」という。)では,前年7月からアウンサンスーチーを自宅軟禁するという露骨な選挙妨害にもかかわらず,同人が書記長を務める国民民主連盟(以下「NLD」という。)が総定数485議席のうち392議席(81%)を獲得し,軍政が後押しした国民統一党(以下「NUP」という。)はわずかに10議席にとどまった。SLORCはこの選挙結果を認めず,人民会議を招集せず,政権委譲の無期限延期という態度をとった。軍政主導の制憲国民会議の代議員に選ばれた当初の701名のうち,90年総選挙で当選した議員は99名しかおらず,1995年(平成7年)11月に,NLD所属の代議員全86名が,制憲国民会議における議論の進め方が非民主的であるとして会議のボイコット戦術をとると,軍政はその全員を除名した。 1996年(平成8年)12月25日に,ヤンゴンの世界平和仏塔で,SLORC第二書記で軍司令官であるティンウー中将が参拝する直前に爆破事件が発生し,5人が死亡し,17人が負傷した。また,1997年(平成9年)4月7日,ティンウー中将の娘が自宅に送られてきた小包爆弾を開けて死亡した。SLORCは,この2つの攻撃を,追放されている全ビルマ学生民主戦線(以下「ABSDF」という。)及びカレン民族同盟(以下「KNU」という。)の武装反対勢力によるものであるとし,NLDはこれらのグループ RCは,この2つの攻撃を,追放されている全ビルマ学生民主戦線(以下「ABSDF」という。)及びカレン民族同盟(以下「KNU」という。)の武装反対勢力によるものであるとし,NLDはこれらのグループと連絡を取り合っている「公然とした破壊的因子」であるとした。 同年11月15日,SLORCは国家平和開発評議会(以下「SPDC」という。)に名称を変更したが,政権交代ではなく単なるメンバーの入替えにすぎなかった。2001年(平成13年)末現在,政府は,20名の90年総選挙選出議員と,800名以上のNLD党員を拘束し,1500名以上の政治犯を収監している。 2003年(平成15年)5月30日,北部のディペインで,USDA(連邦団結発展協会)のメンバーが,遊説中のアウンサンスーチーらNLD党員・支持者を襲撃するというディペイン事件が発生し,アウンサンスーチーをJ1に拘束するこれまでで最も強硬な措置がとられた。同年7月上旬には,ディペイン事件について意見を公表したNLD党員や市民ら10名を拘束する等,一層NLDに対し弾圧を強めた。アウンサンスーチーは,その後刑務所からは釈放されたものの,最近に至るまで自宅軟禁を課された。 2004年(平成16年)10月19日,軍政の中では穏健派とされたキンニュン首相が失脚させられて自宅軟禁の状態に置かれ,後任にはディペイン事件の計画者とされるソーウィン第一書記が就任して,軍政は強硬派で固められ,民主化活動家などの反政府活動家は従前以上の迫害にさらされるおそれが強まり,現に,同日,KNUの代表団16人が拘束されるなど反政府活動家弾圧を強める動きが出ている。 ウサフラン革命2007年(平成19年)8月,軍政が天然ガスと石油の公定価格を大幅に引き上げた事態を受けて,同月17日,88世代学生リーダーら など反政府活動家弾圧を強める動きが出ている。 ウサフラン革命2007年(平成19年)8月,軍政が天然ガスと石油の公定価格を大幅に引き上げた事態を受けて,同月17日,88世代学生リーダーらは,軍政に対し,今後予想される日用品価格の高騰とインフレーションに対処するとともに,国民が直面している経済社会的な苦境を打開するよう求める声明を出し,同月18日午前,ヤンゴンで3時間近くにわたって平和的に抗議活動を行い,参加者約500人を集めた。これに対し,軍政は,同年8月21日,88世代学生リーダーら13人を逮捕し,NLDもまた,多くの党員が身柄を拘束された。弾圧の対象は,僧侶や一般市民まで広がり,同年9月末には午後9時から午前5時までの夜間外出禁止令が出され,5人以上での集会や行進を全面的に禁止され,これに違反するデモ隊への発砲が始まり,多くの僧侶・市民が犠牲になった。 ミャンマーの国営放送は,この運動(サフラン革命)に関して2093人を拘束し,うち692人を「今後はデモに参加しない」という念書を取って釈放したと報じたが,英国国営放送(以下「BBC」という。)は,ミャンマー国内の消息筋の情報として,逮捕者は計1万人に達したとした。 当局は,デモを撮影したビデオを使って逮捕者リストを作成しているといわれる。 エ 2008年(平成20年)に承認された憲法の実質2008年(平成20年)11月,国民投票により新憲法(以下「2008年憲法」という。)が承認されたが,この国民投票は,自由で公正な国民投票に必要な条件が存在しておらず,「見せかけ」と評価されるものであった。2010年(平成22年)11月7日,2008年憲法に基づき総選挙(以下「2010年総選挙」という。)が行われ,軍政の翼賛政党である連邦団結発展党(以下「USDP」という。) 価されるものであった。2010年(平成22年)11月7日,2008年憲法に基づき総選挙(以下「2010年総選挙」という。)が行われ,軍政の翼賛政党である連邦団結発展党(以下「USDP」という。)を含む軍関係の政党が8割を超える議席を得て圧勝した。 (3) 原告が難民であることを基礎付ける事実ア V1革命グループとしての政治的活動(ア) 革命誌の発行原告は,東京入管に収容されていた2005年(平成17年)4月に,同じく東京入管に収容されていたミャンマー人のQ1と軍政を批判する雑誌を発行することを相談し,他のミャンマー人にも声を掛けて,ビルマ語で「新しい血」という意味のV1革命グループを結成するとともに寄稿を募集し,同年6月14日にV1革命誌(以下,単に「革命誌」という。)創刊号を発行した。V1革命グループの当初のメンバーは10名であり,原告はQ1,Q2とともにグループの代表を務め,革命誌の編集も担当した。 革命誌は,同年中は毎月発行され,Q3,Q4,Q5ら,世界各国から著名な民主活動家が寄稿して,毎号に10件ないし15件の軍政を批判する論説や散文,詩,風刺漫画などが掲載された。原告も自ら本名あるいはペンネームで詩や散文を創作して掲載し,毎回,200部ないし300部を印刷,配布して普及に努めたほか,V1革命グループのウェブサイトに全ページがアップロードされ,世界中どこからでもその内容を読むことができた。 なお,革命誌の発行は,2006年(平成18年)以降は徐々に発行頻度が下がり,2007年(平成19年)中に第15号を発行したのを最後に,以後は発行をしていない。 (イ) 原告創作の詩の放送タイ王国(以下「タイ」という。)のαにいたX1放送の記者は,入管収容中に電話でQ1にインタビューし,革命誌創刊の翌日である たのを最後に,以後は発行をしていない。 (イ) 原告創作の詩の放送タイ王国(以下「タイ」という。)のαにいたX1放送の記者は,入管収容中に電話でQ1にインタビューし,革命誌創刊の翌日である2005年(平成17年)6月15日の番組でそのインタビューの内容が放送された。同放送では,Q1が電話口で朗読した「省略」という詩の一部も紹介されたところ,この詩は原告の創作であり,革命誌創刊号に実名で掲載されている。 (ウ) 講演会の開催V1革命グループは,2回,文化講演会を主催して開催した。 1回目には米国在住のミャンマー人であり新聞記者かつ作家でもあるQ6を,2回目にはミャンマー人の作家であるQ7を,それぞれ招き講演してもらった。2回の講演会には在日ミャンマー大使館の職員が来て,その内容を監視していた。 (エ) ハンガーストライキ(以下「ハンスト」という。)の実施V1革命グループは,2回,ハンストを実施した。 1回目は,2006年(平成18年)9月17日午後3時から翌18日午後3時までの24時間,ミャンマー大使館前などで,ハンストを実施し,グループのメンバー5人が参加した。その準備として,原告は,日本語ができる知人に相談して警察への申請手続を行い,また,ハンストを行っている間は参加者は一切の会話をしないことを約束事としており,実行中に通行人とのトラブルや警察からの質問等があったときにも対応できなくなるという問題があったため,原告自身は,ハンスト自体は行わず,主催者として現場で指揮及び監視を行ったり,ハンストの目的を記載した文書を通行人に配布し,自らスピーチを行い,当時来日していた米国在住のミャンマー人活動家でV2の元議長のQ8に来てもらい,ハンストを支持する演説をしてもらってその司会をしたりした。このとき原告は,代 書を通行人に配布し,自らスピーチを行い,当時来日していた米国在住のミャンマー人活動家でV2の元議長のQ8に来てもらい,ハンストを支持する演説をしてもらってその司会をしたりした。このとき原告は,代表者としてX2の取材に応じ,その内容が同紙のインターネット版に掲載されたほか,X3,X4などの在日ミャンマー人メディアからも取材を受けた。なお,Q8もX2もミャンマー本国政府や在日ミャンマー大使館が関心の対象に置いている。 2回目は,2007年(平成19年)9月16日午後5時から翌17日午後3時までβ公園で,同時刻から同日午後5時まではミャンマー大使館前で,ハンストを実施した。このときはグループのメンバー10人が参加し,原告は,ハンスト自体は行わなかったが,主催者として現場で指揮及び監視を行い,X1放送記者の電話取材に対して原告がハンストの目的,組織,代表者,参加者の名前などを答えたほか,X2,X3,X4などの取材を受け,同月19日のX1放送の放送で,ハンストの様子が報道され,その際に団体名や原告の名前,肩書きなどが報じられ,X2の記事もインターネット版に掲載された。 イ 88世代学生リーダーたちとの連携(ア) Q3を通じた政治的活動88世代学生リーダーの1人であるQ3は,1987年(昭和62年)以降,民主化活動に加わるようになり,1988年(昭和63年)にQ9が中心となってV3が結成された際にはその中央執行委員会のメンバーに加わった。Q3は,1991年(平成3年)12月17日に逮捕され,1999年(平成11年)10月10日に刑務所から釈放された後もヤンゴンにとどまって民主化活動を継続し,特に2005年(平成17年)6月以降,毎朝7時に88学生運動の著名な活動家であるQ10の家に,Q9,Q11,Q12,Q13といった活動家らと 釈放された後もヤンゴンにとどまって民主化活動を継続し,特に2005年(平成17年)6月以降,毎朝7時に88学生運動の著名な活動家であるQ10の家に,Q9,Q11,Q12,Q13といった活動家らとともに集まって会議に参加し,国民的和解に向けた活動を行っていた(Q3は,後の2008年(平成20年)には米国に出国し,国連難民高等弁務官事務所(以下「UNHCR」という。)で認定された難民として米国永住権を取得している。)。 原告は,本件仮放免を受けた後の2005年(平成17年)7月に,義兄のQ14を通じて,幼馴染みであったQ3と連絡を取ることができ,両者の交流が再開された。88世代学生リーダーたちは,軍政による国民に対する監視・統制が極めて強固になっており,88学生運動当時のような反政府活動の盛り上がりを再現することは非常に困難な状況であった中,外国政府や国外のマスメディア,人権関係の非政府機関等に訴えてミャンマーの状況を改善することを1つの戦略として企図し,原告を海外への情報提供ルートの1つとして考えた。他方,原告も,当時革命誌の発行を始めた頃で,国内の状況に関する記事を掲載することは革命誌の趣旨に沿い,また,国外での活動のみで完結せずミャンマー国内の情報をメディア等に提供することによって世論を動かしミャンマー政府に圧力を掛けることができれば民主化の達成により資すると考えて,積極的にこれに協力することにした。 具体的には,原告は,同月頃からQ3と毎日のように電話で連絡を取り,国外からミャンマー政府やミャンマー社会,国内の反政府活動を観察する者としての意見を事前に述べたり,提案をしたりし,その内容や提案をQ3が上述の会議で他のメンバーに提示して議論し,その結論をQ3が原告に報告するという形で,同会議に参加し,また,Q3に依頼し 察する者としての意見を事前に述べたり,提案をしたりし,その内容や提案をQ3が上述の会議で他のメンバーに提示して議論し,その結論をQ3が原告に報告するという形で,同会議に参加し,また,Q3に依頼して,ミャンマー国内の状況やQ3自身の刑務所での体験などを記した文章を寄稿してもらい,革命誌に掲載して国内情勢に関する認識を広める努力をした。 原告が提案した中には,当時本国政府が行った一方的な燃料価格値上げに対し,明確な抗議として車に乗らず道を歩き,デモに結び付けるという計画を実行するべきだと原告がQ3に伝え,Q3がこれを提言したこともあり,当時は88世代学生リーダーたちが出所直後であり時期的にリスクが高すぎるという意見が一部から出て,最終的に全体としては採用されなかったものの,Q3はその後1人で近くのバス停で抗議活動を行っており,さらに,この計画は2年後の燃料価格値上げの際にQ9によって実現され,サフラン革命に結び付いている。 原告は,Q3がミャンマー国内で活動していた2005年(平成17年)7月から10月までの4か月間に約2000米ドルの資金を提供し,国内の88世代学生リーダーたちの活動を経済的にも支援した。 なお,2005年(平成17年)10月下旬,Q3は原告が指示した人物に88世代学生リーダーたちの活動の様子などを記した資料を託すべく準備をしていたところ,その資料を盗まれるという事件が発生した。 盗まれた資料にはQ3及び原告の名前も入っており,これを見れば同人らがミャンマー国内と国外で相通じて反政府活動を行っていることが一目瞭然であったため,Q3は逮捕を恐れてQ11とともに直ちにタイのγに避難した。Q3がタイに出国し,国外の民主化活動家と連絡を取っていたことは,ミャンマー本国政府の当局に知られており,後の2007年(平成1 ったため,Q3は逮捕を恐れてQ11とともに直ちにタイのγに避難した。Q3がタイに出国し,国外の民主化活動家と連絡を取っていたことは,ミャンマー本国政府の当局に知られており,後の2007年(平成19年)8月25日付けのX5により報道されている。 (イ) V4日本支部としての政治的活動原告とγ在住の88世代学生リーダーたちは,反政府民主化活動を国外から支えるために,2006年(平成18年)頃,Q16,Q17,Q3,Q11,Q15など15ないし20人程度で,V4というグループを結成した。同グループは,本国から逃れてきたミャンマー人難民の支援と,ミャンマー政府による人権侵害行為を国連その他の国際社会に訴えること及び人権侵害の証拠となる情報の収集活動を目的としていた。 原告は,同グループの結成と同時に設けられた日本支部の代表に就くことになったところ,日本支部の活動内容は,資金集めと日本政府への働き掛けなどであり,具体的には,毎月700ないし800米ドルの資金援助を行うとともに,上述ア(エ)のQ8が来日し日本の国会議員らと面談する際に,事前に同氏と面談し,日本政府に対する要請事項を協議するなどの活動をしていた。 (ウ) その他原告は,V4の活動とは別に,Q8が提唱し実施した国際電話会議に,各国の元V2のリーダーらとともに参加した。 ウ V3再々結成への協力V3は,Q9の逮捕などにより壊滅させられ,その後何度か再結成の動きがあり,2007年(平成19年)にはQ18を中心として再結成されたが,同年9月のサフラン革命の際に同人は逮捕され,その他のメンバーは国外に逃れた。 原告は,γに滞在していたQ3や,原告の親類に当たるQ5らと連絡を取り合い,2007年(平成19年)のV3再結成時の上ビルマ地域の責任者で,その後γに逃れて ,その他のメンバーは国外に逃れた。 原告は,γに滞在していたQ3や,原告の親類に当たるQ5らと連絡を取り合い,2007年(平成19年)のV3再結成時の上ビルマ地域の責任者で,その後γに逃れてきていたQ19らを交えて,γでV3の中央組織化委員会を結成し,中央執行委員(CEO)に就任した。原告とQ3は,Q19を中央及び下ビルマの,Q20を上ビルマのV3再々結成のための地下工作員(UG)としてミャンマー国内に送り込み,その後もQ19,Q5,Q21,Q20及びQ22とGメール(電子メール)やGトーク(電子チャットシステム)を利用して情報や意見の交換を行った結果,2009年(平成21年)ないし2010年(平成22年)にV3が再々結成された。 V3の再々結成は,軍政の弾圧を回避するために非公式であったが,同年1月28日付けミャンマーの国営新聞は,前年12月から同年1月にかけて国内で発生した複数の爆弾事件の犯人として11名を逮捕したとの記事を掲載したところ,これらの11名はいずれもV3のメンバーであり,Q19がビラ配布などを指示した学生たちであったことから,軍政がV3再々結成の事実及びメンバーらを把握していることは明らかであると考えられた。 (4) 総括完全な個人独裁の国家でもない限り,為政者による国民の支配は法律の形式を伴って行われるのが通常であり,ミャンマーの軍政も同様であるところ,反政府民主化を求める革命誌の発行,ハンストデモや人権活動家の講演会の実行,開催は軍政に対する反対活動を鼓舞奨励しあるいは煽動するものとして,苛烈な刑罰を予定したミャンマーの国内法であるSLORC法などの反政府活動を標的とした取締法規や刑法に抵触するものとなる可能性がある。 また,ミャンマー本国政府が88世代学生リーダーたちを釈放後も危険人物として 予定したミャンマーの国内法であるSLORC法などの反政府活動を標的とした取締法規や刑法に抵触するものとなる可能性がある。 また,ミャンマー本国政府が88世代学生リーダーたちを釈放後も危険人物として監視の対象としていることは明白であり,V3は本国政府から非合法団体に指定されており,そのような団体の再結成を計画すること自体,本国政府による処罰の対象となることが明らかで,Q19らの反政府活動家との電子メールによる交信ともども刑法,電子取引に関する法律等によって,処罰を受ける可能性がある。 本国政府が国内の反政府活動家と国外の反対勢力組織との連絡を調査し把握する能力を有していることを考えるならば,原告の活動は本国政府及び在日ミャンマー大使館に把握されている可能性が高く,これらの活動は,軍政に反対する原告の一貫した政治的意見の発露であることは明白であり,原告は,本国に送還されたときはその政治的意見により刑事処罰の名の下に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有すると認められることは明らかであって,原告は難民に該当するから,これを否定した本件難民不認定処分は取り消されるべきである。 なお,本件異議決定は,互いに対等な3名の難民審査参与員のうち2名の本件参与員多数意見を排斥する以上,これを排斥した合理的理由及び判断過程を,付する理由において明らかにすべきところ,適正手続の基本的内容であるその理由付記に問題があるため,難民審査参与員制度の趣旨を没却しているという事情もある。 (被告の主張)(1) 「難民」の意義法が難民条約等に依拠して定義する難民の要件としての「迫害」とは,「通常人において受任し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し,「迫害を受けるおそれがあるという十分 依拠して定義する難民の要件としての「迫害」とは,「通常人において受任し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し,「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには,当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに,通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要であって,単に迫害を受けるおそれがあるという抽象的な可能性が存するにすぎないといった事情では足りず,当該申請者について迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような個別かつ具体的な事情が存することが必要である。 (2) ミャンマーの一般情勢について現在のミャンマーにおいて,政治的意見を理由として迫害を受けるという個別,具体的な事情があるといえるためには,単にその者が何らかの反政府的活動を行っているというだけでは足りないのであって,積極的な反政府活動を行う団体をその中心的な構成員として組織している人物であれば格別,高い政治意識を持って積極的な反政府活動を行っているとは認められない,いわば「その他大勢の活動家」にすぎない者については,ミャンマー政府から迫害の対象とされるという客観的,具体的事情は認められないというべきである。そのような個別,具体的事情があるといえるためには,その者の反政府活動の内容やそれを行った人物の経歴等からして,当該者が本国政府をして迫害を企図させるほどの政治的意見を有する者であることが必要である。 (3) 原告が難民であることを基礎付けると主張する事実についてア V1革命グループとしての政治的活動について(ア) 革命誌の発行についてV1革命グループは,原告の供述を前提としても,そのメンバーは, 難民であることを基礎付けると主張する事実についてア V1革命グループとしての政治的活動について(ア) 革命誌の発行についてV1革命グループは,原告の供述を前提としても,そのメンバーは,活動開始当初,原告を含めて10名で,その活動内容である革命誌の発行についても,発行部数200ないし300部で,本邦においてミャンマー人経営の店やデモの際に無料で配布していたにすぎない上,資金面と参加者減少のために第15号までで発行停止したというのであり,このような同紙の発行・配布が本国政府から特に注視されるほどの影響力を有していたとは認め難い。原告に対し,本国官憲から逮捕状の発付又は手配はされていない上,2007年(平成19年)中には活動そのものも事実上終了しているのであるから,本国政府が原告の活動を知るところではないといえるのであって,そうであれば,革命誌の発行・配布を犯罪事実として立件しようはずもない。 また,革命誌は,不法残留等の容疑で入管に収容されたことを発行の契機としていることに加えて,在留資格を得られた者たちは,その活動をやめてしまったというのであるから,革命誌の発行目的は,反政府活動を標榜しつつも,その実態は,在留許可を目論んで計画したものであることが明白であるというべきである。さらに,革命誌には,原告の詩を3つも4つも載せなければいけないこともあったというのであるから,原告以外にメンバーが存在していたのかは定かではないし,この点をおくとしても,内容が変わり映えしない傾向が拭えず,在留許可を目論む者の間にのみ流通する革命誌が,殊更本国政府の関心を寄せる内容の雑誌であったとは認め難い。 ミャンマーで政治活動を行っているQ3,Q9,Q23らは,いずれも本名ではなく政治活動家としての別名であるというのに,原告が,政治活動家 本国政府の関心を寄せる内容の雑誌であったとは認め難い。 ミャンマーで政治活動を行っているQ3,Q9,Q23らは,いずれも本名ではなく政治活動家としての別名であるというのに,原告が,政治活動家として世間に名の知られた別名の存在について何ら主張していないというのは不自然であることも,原告の反政府活動に係る主張が虚偽であることの表れというべきであり,殊更本名で政治的意味合いを持つ文筆活動を行っているということは,真に本国政府から迫害を受けるおそれがあるという恐怖を感じて庇護を求めている者の行動とはいえないというべきである。 (イ) 原告創作の詩のラジオ放送についてラジオのX1放送ニュースで革命誌の創刊が紹介され,原告自作の詩「省略」が朗読されたとする点については,かかるラジオ放送の存在自体に疑義が残るといわざるを得ない。その点をおいて,仮に,かかるX1放送ラジオ放送がされ,それが本国政府から注視される媒体であるとしても,同放送において,原告の氏名は出ていない上,上記の詩の創作者として原告の名が明記されているとする革命誌創刊号の発行部数が僅か150部であり,容易に入手可能とまではいい難いことからすれば,その詩が1度朗読されたことをもって,聴衆や政府が原告作成のものであると判断することは困難であるといえ,本国政府から注視されるほどの特段の影響力があるとは考え難い。しかも,同ラジオ放送がされたのは,本件難民不認定処分の5年ほど前である2005年(平成17年)であって,これをもって本国政府が迫害の対象として注視するとは想定し難い。 (ウ) 講演会の開催について原告は,V1革命グループの活動として講演会を開いたとする新聞記者・作家のQ6及び作家のQ7は,反政府活動により国外追放となったため,軍政も彼らの行動を監視しており,当日 講演会の開催について原告は,V1革命グループの活動として講演会を開いたとする新聞記者・作家のQ6及び作家のQ7は,反政府活動により国外追放となったため,軍政も彼らの行動を監視しており,当日の講演会には在日ミャンマー大使館員も傍聴していた旨供述しているが,これらの事情は,本件難民認定申請手続では一切述べていないばかりか,客観的証拠もない。 仮にV1革命グループの活動そのものが原告の難民該当性を基礎付ける事情とするのであれば,本件難民認定申請手続で当然供述されてしかるべき事情であるのに,本訴訟において突如供述するに至ったことは,不自然,不合理である。また,原告の記憶は,講演会の年月をよく覚えていないという程度のものであり,V1革命グループの活動として位置付けているのか疑義なしとしない。仮に原告の供述を前提としても,講演会の標題は飽くまで「文芸講演会」であり,その講演内容は不明であるものの,結局のところ,在日ミャンマー大使館員から妨害されたり,圧力を加えられたり,原告自身が監視されたなどの申立ては一切ないことから,本国政府が,当該講演会の開催を理由として,原告を殊更注視していたとは考え難い。 (エ) ハンストの実施について2006年(平成18年)9月及び2007年(平成19年)9月のハンストについても,原告は,ハンストには参加していない上,そのような原告がいかなる指揮をとったのかが何ら明らかにされておらず,原告が主催者であることや,参加者であることさえ,本国政府において明らかとなる状況であったことを示す事情は見当たらない。また,仮に,グループのメンバーらが原告をリーダーとして推挙した事実があるのだとしても,リーダーたる原告がハンスト中に食事をしていたとは極めて節操がなく,原告の反政府活動に対する熱意のなさの表れというべきと ,グループのメンバーらが原告をリーダーとして推挙した事実があるのだとしても,リーダーたる原告がハンスト中に食事をしていたとは極めて節操がなく,原告の反政府活動に対する熱意のなさの表れというべきところ,このような活動実態をもって,本国政府が原告を迫害の対象として強く敵視するとは考えられない。 なお,ハンストについて,X2,X3及びX4からの取材や報道を証する客観的資料は何ら提出されていない上,ラジオ放送がされたことを示す証拠の出典等は明らかでなく,かかるラジオ放送がされたか否かは疑問であるといわざるを得ないし,ラジオ放送がされたとしても,これをもって本国政府が原告を迫害の対象として注視するとは認め難い。 イ 88世代学生リーダーたちとの連携について(ア) Q3を通じての政治的活動について原告がQ3と連絡を再び取り合うようになった時期及び動機等の経緯に係る原告の供述は,不合理に変遷しているし,この点に関するQ3の証言も,原告の供述と符合するものではない。原告が本件仮放免直後の時期にあえてQ3と連絡を取ろうとしたのは,自らの難民該当性の根拠となり得る事実としてQ3との連絡の事実を作出しようとしたというべきであり,そのように解すれば,原告の供述が変遷した理由は,上記のような原告の企図を糊塗するため,両名が自然な成り行きで交流を再開したように原告が供述を変遷させているとも考えられる。 また,原告は,Q3が出席する88世代学生リーダーらによる会議に週3回以上は間接的に参加していた旨述べているが,本件難民認定申請手続では,このような会議が開かれていること自体一切供述しておらず,不自然というほかない。そもそも,Q9など著名な政治活動家が集まる会議に,原告のように本国において反政府活動の実績のない人物が参加すること自体考え難いとい が開かれていること自体一切供述しておらず,不自然というほかない。そもそも,Q9など著名な政治活動家が集まる会議に,原告のように本国において反政府活動の実績のない人物が参加すること自体考え難いといえる。仮に原告の供述を前提としても,原告の意見は採用されたとはいえず,その意向がQ3を始めとした88世代学生リーダーらの反政府活動に影響したとは認めることはできないというべきである。 さらに,資金援助に関し,約2000米ドルを実際に送金したのか,送金しようとしたがしなかったのかについて合理的な理由もなく変遷している原告の供述は信用することができないし,50万チャットという客観的な裏付けもない上,その金額では,本国政府が注視するような事情とはなり得ないというべきである。 なお,原告は,Q3がミャンマーからγに逃亡した動機につき,Q3が反政府活動の内容を記して原告に渡そうとした資料を,Q3と原告の名前の入った手紙を含めて,政府の人間と思われる者に盗まれたためである旨,本訴訟提起後に主張を変更したが,これを裏付ける証拠は原告とQ3の供述のみである。しかしながら,Q3の供述内容は変遷している上,その供述において輸送を託そうとしたとされる日本から本国に一時帰国した知り合いのミャンマー人女性の存在及び素性も明らかにはされていない。そもそも原告とQ3は,2005年(平成17年)7月から11月まで毎日連絡を取っていたのであるから,軍政下においてあえて盗難や紛失に遭う危険を冒してまで原告の宛名の入った依頼文を送付する必要性があったのか疑問を差し挟まざるを得ず,手紙を添えたことが原因で本国を出国せざるを得なかったという供述を併せ考えると,反政府活動家の行動としては余りにも軽率であり,不自然といわざるを得ないから,原告らの供述は信用性に乏しいというべき ,手紙を添えたことが原因で本国を出国せざるを得なかったという供述を併せ考えると,反政府活動家の行動としては余りにも軽率であり,不自然といわざるを得ないから,原告らの供述は信用性に乏しいというべきである。さらに,Q3は逃亡せざるを得ないほどの危険が差し迫って出国したにもかかわらず,手紙の宛先となった原告の本国にいる家族に対し,本国政府から迫害が加えられたという事情も見受けられないのであるから,仮に上記事情の一部が認められたとしても,原告が本国政府から注視されているとは認められない。 (イ) V4日本支部としての政治的活動について原告は,本件難民認定申請手続時,難民該当性の大きな根拠となり得る,原告がQ8に面談して協議を行った上で日本政府への働きかけを行ったことについて何ら述べておらず,不自然というほかない。また,Q3は,その当時原告と頻繁に連絡を取り合い,タイのV4のメンバーであったにもかかわらず,その日本支部における活動内容やメンバーの数といった基本的な概要を何ら聞いていないと証言しているのであるから,そもそも日本支部の存在自体を含め認めることはできないというべきである。 仮に,原告がV4の活動として国連に提出するための資料集めを行っていたのだとしても,原告は,実際には国連に対して何も行動は取らなかったというのであり,また,V4は,メンバーが2008年(平成20年)に米国に渡ったことで自然消滅しており,その後原告自身も活動を行っていないのであるから,V4における活動により原告が本国政府から注視されているとは認められず,その活動が原告の難民該当性を基礎付ける事情とはなり得ないというべきである。 原告がV4に対して資金援助していたのかも明らかではない。 ウ V3再々結成への協力について原告は,本件難民認定申請手続 が原告の難民該当性を基礎付ける事情とはなり得ないというべきである。 原告がV4に対して資金援助していたのかも明らかではない。 ウ V3再々結成への協力について原告は,本件難民認定申請手続において,V3への関与の態様について供述を変遷させており,極めて信用性が乏しい。 また,原告はV3再々結成のために行ったとする活動内容について,協力したとか支援したなどと抽象的に主張するほか,具体的な活動内容として,GメールやGトークを利用して情報や意見の交換を行っていた旨主張するにとどまっている。そのやり取りを示すものとして提出された電子メール等は,いずれもフリーメールのGメールであることから,インターネット環境があればどこからでも送受信できるのであって,原告がミャンマー国内にいるQ19や,タイのγにいるQ21と連絡を取り合っていたことの証拠としての価値は低いというべきであるし,原告が共にV3の再々結成のために活動した5名のうち,面識があるQ5以外について原告が主張するとおりの人物であるかどうかも不明であるといわざるを得ない。また,メールの内容を見ても,①送金についての記述や対話者の状況等についての記述は多少あるものの,原告が資金以外に活動に関する何らかの協力や支援をしているとか,共に活動していることを示すような特段の記述は見当たらないものや,②転送されたにすぎず,原告に宛てられたものではないものである上,これらの内容が本件難民認定申請手続時における供述と整合しない点について原告の説明がないことからも,原告の活動を立証するものとは認め難く,これらのメールによって原告の具体的な活動が明らかとはいえない。 なお,原告の援用する2010年(平成22年)1月28日付けミャンマーの国営新聞の記事を見ても,2009年(平成21年)12月から2 れらのメールによって原告の具体的な活動が明らかとはいえない。 なお,原告の援用する2010年(平成22年)1月28日付けミャンマーの国営新聞の記事を見ても,2009年(平成21年)12月から2010年(平成22年)1月にかけて発生した爆弾事件のテロリストグループが,V3と同じあるいは関連グループであるとか,逮捕された11名がV3のQ19の仲間であり,同人と連絡を取り合っている原告の仲間であることなどを示す記載はなく,上記爆弾事件及び11名の逮捕者と,原告及び原告が関係するとしている組織や人物との間に何らかの関係があったと認めることは困難である。原告は,本件難民認定申請手続の1回目の事情聴取において,上記爆弾事件の犯人逮捕について何ら話しておらず,2回目の事情聴取で,言い忘れたことがあるとして,上記爆弾事件の犯人につき説明し始めたものであり,かかる供述経緯からしても,原告が,上記爆弾事件の犯人逮捕との関連で特段の恐怖を抱いているとは考え難い。 (4) 総括原告は,本国政府が原告につき察知している可能性といった抽象的な可能性をもって「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」があるとしているのであるが,そもそも失当である上,上記(3)のような事情を踏まえると,原告に反政府活動に対する影響力があると認めることは困難といわざるを得ず,原告がミャンマー政府をして迫害を企図させるほどの政治的意見を有する者であるとは到底認められない。したがって,原告について,ミャンマー政府から個別,具体的な迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような客観的,具体的な事情があるとはいえない。本国の家族が平穏かつ無事に生活している事実は,原告に迫害を受けるおそれがないことを示す事情といえる。 原告を難民条約等に定める難民と認めることはでき うな客観的,具体的な事情があるとはいえない。本国の家族が平穏かつ無事に生活している事実は,原告に迫害を受けるおそれがないことを示す事情といえる。 原告を難民条約等に定める難民と認めることはできないから,本件難民不認定処分は適法である。 第3 当裁判所の判断 1 認定事実前提事実及び後掲各証拠等によれば,以下の各事実が認められ,これらに反する証拠は信用することができない。 (1) ミャンマーの一般情勢ア軍政の成立と軍政下の政情(ア) ビルマは,1948年(昭和23年)に英国から独立した後,1962年(昭和37年)にネィウィン将軍の指揮したクー・デタにより民政が倒され,同年7月にビルマ社会主義計画党が結成されて社会主義体制を追求したが,国連から後発発展途上国に認定されるほどに経済が悪化したことから,1988年(昭和63年)3月以降,ヤンゴンで学生主導の反政府デモが拡大し,警察や軍との衝突が発生した。同年8月8日,学生,市民によるいわゆるゼネストがビルマ全土で展開されて(以下「8888ゼネスト」という。),やがて民主化運動となり,アウンサンスーチーがリーダー的存在になるなどしたものの,同年9月18日,軍事クー・デタにより,SLORCが全権を掌握して軍政が成立した。 (甲C17のパラグラフ3.02,乙B3,弁論の全趣旨)(イ) SLORCは,1989年(平成元年)7月20日にアウンサンスーチーを国家破壊分子法違反で自宅に軟禁して政治活動を禁止しつつ,1990年(平成2年)5月27日に複数政党参加の90年総選挙を実施したが,アウンサンスーチー率いるNLDが全485議席中8割超の392議席を獲得して圧勝し,政権与党であったNUPは10議席を獲得するにとどまったところ,SLORCは,民政移管のためには堅固な憲法が必要であ ウンサンスーチー率いるNLDが全485議席中8割超の392議席を獲得して圧勝し,政権与党であったNUPは10議席を獲得するにとどまったところ,SLORCは,民政移管のためには堅固な憲法が必要であるとして,選挙を無効とし,政権の委譲を拒否した上,アウンサンスーチーら何十名のNLD構成員を投獄した。 1993年(平成5年)1月からは,新憲法の基本原則を審議する国民会議が断続的に開催されたところ,軍政がその代議員701名を指名したうち,90年総選挙の当選者は99名にとどまり,NLDは,1995年(平成7年)11月に至って,国民会議をボイコットしたところ,SLORCは,その対抗措置として,NLD所属の代議員全86名の代議員資格を剝奪した。(全体につき,甲C17のパラグラフ3.02,弁論の全趣旨)(ウ) 1997年(平成9年)11月15日,SLORCはSPDCに改組したところ,2000年(平成12年)頃から,アウンサンスーチーとの対話を始め,2002年(平成14年)半ばまでには,NLDに対する規制を緩和する方向を示したが,この方針に軍政強硬派は不満を募らせ,2003年(平成15年)5月30日,北部モンユワ市近郊のディペインで,SPDCの武装集団がNLDのパレード車列を奇襲して,多数のNLD幹部及び支持者が死傷し,遊説中のアウンサンスーチーも拘束されてJ1に収監されたほか,政治活動家やジャーナリスト,学生なども身柄を拘束された(ディペイン事件。甲C6,7,甲C17のパラグラフ3.02,乙B3)。もっとも,その後,同事件で身柄を拘束された者は,その多くが同年6月中旬までには順次解放されたものの,アウンサンスーチーは自宅に移送されて軟禁状態に置かれた。(弁論の全趣旨)(エ) 2007年(平成19年),燃料価格が5倍値上がりしたことを契 その多くが同年6月中旬までには順次解放されたものの,アウンサンスーチーは自宅に移送されて軟禁状態に置かれた。(弁論の全趣旨)(エ) 2007年(平成19年),燃料価格が5倍値上がりしたことを契機として,同年8月,ヤンゴンなどで抗議行動が起き,同月19日,Q9ら88世代学生リーダーを中心とするグループが主導するデモが発生し,同月21日には同人らの身柄が拘束された。この抗議行動には仏僧らも加担した(サフラン革命)ところ,軍政は,同年9月25日には,ヤンゴンとマンダレーに午後9時から午前5時までの夜間外出禁止令を発し,1988年(昭和63年)から続く5人以上の集会禁止の遵守徹底を命令し,翌26日から治安部隊及び軍がデモの武力鎮圧に乗り出して,殺害,逮捕などが行われた。それまで仏教は,他の宗教と比較して奨励されていたものの,以後は仏教コミュニティ等に関する監視が少なくとも2010年(平成22年)までは継続し,逮捕された僧侶の多くの身柄拘束が解かれることもなかった。(甲C2の訳文8~9頁,甲C4,15,甲C17のパラグラフ3.02・19.02,乙B3,弁論の全趣旨)(オ) このサフラン革命前までに起草された憲法草案は,2008年(平成20年)3月に,限られた出版物で一般公開された後,同年5月10日及びサイクロン被災地でその2週間後に行われた国民投票で承認,制定された(2008年憲法)が,この憲法は,上下院の各議席の4分の1を国軍最高司令官が任命するものとされているほか,国軍のために主要大臣のコントロールを含む広範囲の権限を認めるものであった。2008年憲法に基づき2010年(平成22年)11月7日に実施された2010年総選挙は,軍系政党のUSDPが,下院である人民代表院(定数440)の被選挙議席330のうち259議席を,上院である 。2008年憲法に基づき2010年(平成22年)11月7日に実施された2010年総選挙は,軍系政党のUSDPが,下院である人民代表院(定数440)の被選挙議席330のうち259議席を,上院である民族代表院(定数224)の被選挙議席168のうち129議席をそれぞれ獲得して勝利した(乙B3,12の2)。(甲C17のパラグラフ3.03・4.04・4.05・4.17・5.01・6.03・6.04)NLDは,上記の2008年憲法承認の国民投票及び2010年総選挙をいずれもボイコットした(弁論の全趣旨)。 (カ) アウンサンスーチーの自宅軟禁は,2010年総選挙直後の同月13日に解除されたものの,この前後,NLDに命じられていた解党決定に対する不服申立ては,同月下旬,最高裁判所で認められなかった(甲C17のパラグラフ4.13・4.15・7.02・7.03,乙B3)。 イ 2010年総選挙後の政情(ア) 2011年(平成23年)1月31日,国会が召集されて,同年2月4日,同国会で副大統領3名が選出され,同年3月30日には3名の副大統領のうちテインセイン元首相が大統領に就任した(甲C17のパラグラフ4.16・4.19,乙B3,弁論の全趣旨)。 (イ) テインセイン政権は,2011年(平成23年)5月17日以降,順次恩赦を実施し,2012年(平成24年)1月1日及び同月13日には,Q9などの政治犯を含む1200人以上の服役囚を釈放した(乙B13の1・2,弁論の全趣旨)。 (ウ) この間,NLDは,2011年(平成23年)11月25日に連邦選挙管理委員会に政党設立・登録を申請して,同年12月12日に政党設立が許可されたところ,2012年(平成24年)4月1日に実施された議会補欠選挙で,45議席中43議席を獲得した(弁論の全趣旨)。 (エ 理委員会に政党設立・登録を申請して,同年12月12日に政党設立が許可されたところ,2012年(平成24年)4月1日に実施された議会補欠選挙で,45議席中43議席を獲得した(弁論の全趣旨)。 (エ) テインセイン大統領は,2013年(平成25年)12月30日,全ての政治犯を恩赦した(乙B13の3・4,弁論の全趣旨)。 (2) 第1次異議決定までの原告の行動アミャンマー(ビルマ当時を含む。)における行動(ア) 原告は,1967年(昭和42年)▲月▲日にヤンゴンにおいて出生し,同月▲日に同じくヤンゴンで出生したQ3と,1980年(昭和55年)に13歳で中学校の同級生として知り合った。両名は,同じ高等学校を経て,共にZ大学に進学した。(前提事実(1),甲A70の1頁,甲A74の1頁,乙A1の28頁,証人Q3・1頁・23頁・25頁・45頁・47~48頁)(イ) 1987年(昭和62年),当時のビルマ政府は,貨幣を廃止してこれを通用できないようにする廃貨令を発したところ,Z大学の学生らは抗議行動を起こして反政府政治活動と化し,やがて同大学は閉鎖された。Q3は,この活動に身を投じ,8888ゼネスト(前記(1)ア(ア))後の1988年(昭和63年)8月28日に学生らによって結成されたV3でも,その中央執行委員に就任し,この頃には政治活動用の名としてQ3を名乗るようになった(甲A68,証人Q3・1~5頁・23~24頁・26頁・45頁・47~48頁)。他方,原告は,廃貨令後に抗議ビラを配布したことはあったものの,行動を共にした友人が逮捕されたことから,海軍に所属していた親戚に相談するなどし,1987年(昭和62年)12月にZ大学を第2学年で休学した上,その親戚の便宜を頼って翌年1月19日に海軍に最下級の水兵として入隊した(乙A5)。 (甲 から,海軍に所属していた親戚に相談するなどし,1987年(昭和62年)12月にZ大学を第2学年で休学した上,その親戚の便宜を頼って翌年1月19日に海軍に最下級の水兵として入隊した(乙A5)。 (甲A70の3~4頁,甲A74の1頁,乙A1の28~29頁,原告本人45~46頁)(ウ) 原告は,やがて軍規違反となる怠勤等の罪に問われ,1991年(平成3年)5月12日にJ1に投獄されるとともに軍籍を失って,除隊した(乙A5)。原告は,同年12月に出所した後,再び開学していたZ大学に復籍したが,在学中,政治活動に直接関わる状況にはなかった。 公務員をしていた原告の母は,原告は外国に出た方がよいと勧め,原告は,1992年(平成4年)と1993年(平成5年)の2度,旅券の取得を申請したが,認められなかった。(甲A74の1頁,乙A1の30頁,原告本人46~48頁)なお,Q3は,1989年(平成元年)4月からの約1か月半と同年8月からの約2か月半,逮捕,勾留されたほか,1991年(平成3年)12月にアウンサンスーチーに対するノーベル平和賞の授与が発表されたことを受けて,V3の中央執行委員として,Z大学講堂において,当時自宅軟禁中であったアウンサンスーチーを解放して,90年総選挙の結果を尊重するよう求めていこうと学生らに呼び掛ける演説をして学生らがデモ化したことを受けて,同月17日に逮捕されてJ1に収容され,同月25日には禁固15年の刑を受けてJ2に投獄されたため,復学後の原告がQ3と接触することはなかった(甲A70の1~3頁,甲A74の1~2頁,証人Q3・4~7頁)。 (エ) 原告は,1994年(平成6年)にZ大学を第4学年で中退した後,特に職に就くことなく過ごしていたが,1997年(平成9年),原告の母が,9月に亡くなる前,原告の旅券の取 Q3・4~7頁)。 (エ) 原告は,1994年(平成6年)にZ大学を第4学年で中退した後,特に職に就くことなく過ごしていたが,1997年(平成9年),原告の母が,9月に亡くなる前,原告の旅券の取得に尽力するとともに,韓国の語学学校に行けるよう手配してくれていて,翌1998年(平成10年)5月に,旅券と,留学目的の韓国の有効期間3か月の査証が取得できると,同年6月10日に同国に向けて出国した(乙A1の30~31頁,原告本人47~51頁)。 イ本邦における行動(ア) 原告は,韓国に入国後,査証の有効期間が迫ると,その更新の申請をしたが,容易には認められず,それでも1度は更新を受けられたものの,2度目の更新は受けられず不法残留になることが予想されたため,原告は,観光目的の日本の査証を取得して,ミャンマーの友人とともに観光旅行のツアーに参加し,1998年(平成10年)10月2日,在留資格を「短期滞在」,在留期間を15日とする上陸の許可を受けて本邦に入国した(前提事実(2)ア,乙A1の31~32頁,原告本人50頁)。 (イ) 原告は,本邦に入国した後,在留期間の更新又は変更を受けないで,在留期限を超えて在留し,遅くとも1999年(平成11年)3月頃から,職を転々としつつ,不法就労をした(前提事実(2)ア,乙A1の31~32頁)。 (ウ) 原告は,その間,軍政により投獄された人のことについて,X6とX3という2つの雑誌にQ24という筆名を用いて寄稿した(乙A1の33頁,原告本人28~29頁)。 (エ) 原告は,平成16年10月20日,不法残留の容疑で警察官に現行犯逮捕された後の同月29日,法務大臣に対し,第1次難民認定申請をしたが,法務大臣は,これについて,平成16年12月16日付けで第1次難民不認定処分をした。原告は,同月21日 留の容疑で警察官に現行犯逮捕された後の同月29日,法務大臣に対し,第1次難民認定申請をしたが,法務大臣は,これについて,平成16年12月16日付けで第1次難民不認定処分をした。原告は,同月21日,第1次異議申立てをしたところ,法務大臣は,原告に対し,平成17年4月8日付けでこれを棄却する旨の第1次異議決定をし,同月14日にこれを原告に通知した。この間,原告に対して本邦からの退去を命じる本件退令が平成16年12月17日に発付されたところ,原告は,平成17年3月15日,その取消し等を求める訴えを提起した。(前提事実(2)イないしカ)(3) 第1次異議決定後の原告の行動ア革命誌の創刊原告は,平成17年(2005年)6月29日の本件仮放免まで東京入管収容場に収容されていた(前提事実(2)キ)ところ,本件異議決定がされたのと同じ同年4月頃,同収容場に収容されていたQ1と軍政を批判する雑誌を発行することを相談した。同年6月14日付けで,ミャンマー語で「新しい血」という意味のV1と名付けられた革命誌の創刊号が発行され,そこには,編集担当と連絡先として,共同代表であるQ2,原告及びQ1の名が記載されるとともに,独裁を批判する内容の「省略」という題名の詩も原告の実名で掲載された(甲A6)。革命誌の創刊は,Q1の妻を通じてX1放送ラジオ局のQ25記者に紹介され,Q1は,同記者のインタビューを受け,①収容されている自分たちは自由に民主化活動ができない中,できるのは書くことだけなのでペンを武器として戦うことを決意した,②収容中の10人ないし15人が皆で書き,外にいる仲間たちの支援金で完成した,③1回目として150部を出版した旨などを表明するとともに,④上記の「省略」の一部を朗読し,⑤毎月出版することを頑張りたいと述べた模様が,ミャンマー語 皆で書き,外にいる仲間たちの支援金で完成した,③1回目として150部を出版した旨などを表明するとともに,④上記の「省略」の一部を朗読し,⑤毎月出版することを頑張りたいと述べた模様が,ミャンマー語により,同局からラジオ放送された(甲A18,48)。(甲A40,甲A65の2~4頁,乙A6の10~12頁,原告本人1~4頁・34頁・51~52頁)イ本国との連絡(ア) 原告の本件仮放免直後の2005年(平成17年)7月7日,軍政は88世代学生リーダー等の多くを釈放する恩赦をしたところ,原告は,これにより釈放された者の名がインターネットで報道された中に,原告の母の従兄弟に当たる政治活動家のQ26(乙A11の16頁)と,その息子の88世代学生リーダーの1人で原告より2歳ほど年上であり,原告が大学生であった時代に直接薫陶を受けたことがあるQ5の名を見付けたことから,本国にいる実兄のQ27に架電して,Q5と連絡を取ることができないかを尋ねた。Q27は,Q3の兄と友人であったところ,丁度その頃,Q27と原告の従姉妹の夫に当たるQ14が,自分も親しくしていたQ3の兄の下を訪れた。すると,その場には,1999年(平成11年)10月10日にJ2を出所していたQ3もおり,Q14とQ3は,中学校時代の同級生であったことから,同じ同級生であった原告のことに話が及んだ。日系企業に勤務していたQ14は,2000年(平成12年)頃に仕事で来日したことがあり,その際に原告と電話で話をして原告の電話番号を知っていたことから,Q3に原告の電話番号を教え,持っていた携帯電話から原告に国際電話を架けた。Q14が原告と話した後,Q3に電話を替わり,Q3と原告は,学生時代以来の話を交わした。(甲A65の7~9頁,甲A70の4頁,甲A74の2頁,乙A6の15頁,証人Q3・ から原告に国際電話を架けた。Q14が原告と話した後,Q3に電話を替わり,Q3と原告は,学生時代以来の話を交わした。(甲A65の7~9頁,甲A70の4頁,甲A74の2頁,乙A6の15頁,証人Q3・8~9頁・26~27頁・29~31頁・49~52頁,原告本人8~9頁・16~17頁・36~39頁・53~54頁)(イ) 以後,原告とQ3は,ミャンマー側にいるQ3が盗聴のおそれの少ない携帯電話機を使える機会などを捉え,使用する電話機を固定させない方法で,相応の頻度で連絡を取るようになった(甲A70の4頁,甲A74の2頁,証人Q3・44~45頁)。 そのような連絡の中で,原告は,Q3に対し,何か緊急の用でお金が必要になることがあれば,Q14に言って受け取ってほしい旨を告げた。 もっとも,この頃,Q3は,携帯電話機を入手することを計画していたが,2000米ドルほどの費用が掛かることから実現しなかった。(証人Q3・11頁,原告本人11頁・41~42頁)(ウ) また,この頃,Q3は,上記(ア)の恩赦により釈放された88世代学生リーダーの1人として著名なQ10の家に,Q9,Q11らの政治活動家らとともに頻繁に集まるようになった(甲A70の4~5頁,甲A74の2頁,乙A6の17頁,証人Q3・7~8頁・28~29頁・33~35頁,原告本人9~10頁)。 Q3は,これらの政治活動家らとも調整の上,日本からインターネットでミャンマーの内情や反政府活動の状況を発信してもらうため,政治的背景がなく厳しい手荷物検査等を受けないと考えられる知人がミャンマーと日本の間を往来する機会を捉えて電子データを託して原告に届けることを,原告との間で相談していたところ,2005年(平成17年)10月頃,原告から,配送役に適した女性が近くミャンマーを訪れる旨を聞き及ん の間を往来する機会を捉えて電子データを託して原告に届けることを,原告との間で相談していたところ,2005年(平成17年)10月頃,原告から,配送役に適した女性が近くミャンマーを訪れる旨を聞き及んだ。Q3が,同月31日,原告に発信してもらうことを予定する資料を紙で準備し,これをCDに焼き付けて電子データ化する作業のためにパソコンを保有する協力者の下に赴こうとしたところ,その道すがら,資料を入れていた鞄を切り裂かれて資料を盗まれる被害に遭った。Q3は,自身の身に危険が及ぶと判断し,Q10らにも相談して国外に脱出することを決意し,かねて原告から告げられていたところに甘えて,Q14から50万チャットの資金(貨幣相場につき乙B3参照)を用立ててもらった上,Q11とともに,同年11月上旬にはタイのγに避難し,以後,そこを拠点として活動するようになった。原告は,後にQ14に上記の50万チャット相当額を支払った。(甲A65の9~10頁,甲A70の6~8頁,甲A74の3~4頁,乙A6の16頁,証人Q3・10~13頁・20頁・32~37頁・41~42頁・54頁,原告本人11~12頁・41頁)Q11とQ3がタイに移動したことは,ミャンマーのX5に,後に,2007年(平成19年)8月25日付けで,同年7月5日付けの他紙の新聞報道を引用しつつ,国外で活動する反政府団体と連絡を取りテロ暴力活動を成功させるために,88世代学生リーダーたちが2005年(平成17年)後半にミャンマーからタイに両名を派遣したという趣旨の内容で報じられ,2007年(平成19年)9月9日付けX5でも同趣旨が報じられた(甲A25,66,67)。 ウ Q3の活動との関係(2005年(平成17年)頃から2007年(平成19年)頃まで)(ア) Q3は,タイに拠点を移すと,通信環境が 付けX5でも同趣旨が報じられた(甲A25,66,67)。 ウ Q3の活動との関係(2005年(平成17年)頃から2007年(平成19年)頃まで)(ア) Q3は,タイに拠点を移すと,通信環境が向上し,また,ミャンマー国外間では,電話やインターネット上の情報交換内容を傍受される危険性も低まったことから,原告との連絡の頻度は増した(甲A70の8頁,証人Q3・14頁)。 革命誌は,日本国内で2005年(平成17年)6月に創刊号が発行された後,同年7月発行の第2号以下,毎月発行が重ねられるとともに,Q1がV2のδ事務所にも送付し,デザイン等の相談もしていたところ,Q3は同年12月発行の第7号以降はその毎号に記事を寄稿するようになった(甲A6ないし17(各枝番を含む。),甲A74の4頁,証人Q3・18~19頁,原告本人9頁・51~52頁)。 (イ) また,この頃,原告は,V3の元メンバーでX7というメディアの在γ女性特派員をしていたQ28の協力を得て,在日ミャンマー人のQ29がγを訪れた際に,自己名義の金融機関のキャッシュカードをQ28に手渡しておき,原告が同口座に月二,三万円を入金し,Q28が上記キャッシュカードを用いてこれをタイ・バーツで引き出してQ3に渡すという方法で,原告からQ3への資金提供が行われるようになった(甲A70の9頁,甲A74の4頁,乙A6の18頁・21頁,証人Q3・20~22頁,原告本人14~15頁)。 (ウ) Q3は,V2の元指導者であるQ30に促され,2006年(平成18年)1月,γで,SPDCの弾圧から逃れてきた元政治囚の安全を守り,引き続き政治活動を行うため,V5を結成して,その初代書記長に就任した(甲A70の10頁,証人Q3・18頁)。 (エ) 他方,Q3は,同年6月,γの同じ難民キャンプを拠点に行 元政治囚の安全を守り,引き続き政治活動を行うため,V5を結成して,その初代書記長に就任した(甲A70の10頁,証人Q3・18頁)。 (エ) 他方,Q3は,同年6月,γの同じ難民キャンプを拠点に行動していたQ11らと共に,V5とは異なって対象を政治囚に限らず,少数民族等を含む国外ミャンマー避難民の支援等に活動の主眼を置いたV6(甲A17の3参照)という団体を組織したが,現地で別に活動していたV7という団体と称呼が類似し区別が付きにくかったことから,同年9月には,V6からV4に団体名を改めた(甲A65の10頁,証人Q3・16~17頁・40頁・55頁)。もっとも,同月頃には,タイ政府が難民キャンプの生活者を複数のキャンプに振り分けて移動させるようになり,同団体のメンバーも散り散りになったことから,そのγにおける活動は縮小した。Q3自身も,同年10月には難民キャンプを移され,同年11月頃からは避難民への教育機会の確保のための活動に傾注するようになり,V4の活動からは遠ざかった(甲A74の4頁,証人Q3・22頁)。(甲A70の8~10頁)原告は,γにいたQ3やQ3に近い仲間が電話で述べたメッセージを録音して,V1革命グループとして開設していたウェブサイトに一部アップロードしたことがある(甲A70の9頁,甲A74の4~6頁,証人Q3・19~20頁)。 (オ) Q3は,2008年(平成20年),UNHCRで政治的難民と認められ,同様にこれを認められたV5やV4の仲間らと相前後して,同年9月9日にタイを出国し,Q3においては米国に渡ったことにより,V4は解体した(甲A65の11頁,乙A6の20頁,乙A11の17頁,証人Q3・22~23頁・37~38頁,原告本人42頁)。Q3は,後に米国の永住権を取得した(甲A71,72)。 エ上記ウ ,V4は解体した(甲A65の11頁,乙A6の20頁,乙A11の17頁,証人Q3・22~23頁・37~38頁,原告本人42頁)。Q3は,後に米国の永住権を取得した(甲A71,72)。 エ上記ウの時期における原告の日本国内における行動(ア) 革命誌の発行等革命誌は,毎号約10篇ないし15篇の軍政を批判する論説,散文,詩,風刺画等を掲載して発刊が続けられ(うち第7号以降にQ3の記事が寄稿されたことは,前記ウ(ア)のとおり。),その中には,原告が,実名のほか,見映えを良くする等の目的で数個の筆名を使い分けて制作した詩や散文も多く載せられた。革命誌は,毎号200ないし300部程度印刷されて,日本国内のミャンマー関連の飲食店や雑貨店に置かれ無料頒布され,デモや祭りの場でも配布に供され(そのほかにV2のδ事務所に送付されたことも,前記ウ(ア)のとおり。),V1革命グループのウェブサイトにもPDFファイル化してアップロードされたが,V6が8888ゼネスト18周年を記念して2006年(平成18年)8月8日付けで発表した声明を掲載した第14号より後は,発行されたことを認めるに足りる証拠はない。第14号までの全ての号の奥書には責任者,連絡先として原告の実名が記載された一方,創刊時の共同代表の1人であったQ1は,第3号までは責任者,連絡先として名を連ねたものの,2005年(平成17年)9月発行の第4号ではタイピング担当となり,第5号では再び連絡先の1人とされたものの,同年11月発行の第6号以降は奥書から名が消えた。なお,Q1は,同年,在留資格を得ており,同人を含め,革命誌創刊当初,約10名であったV1革命グループに属していた者は,在留資格が得られると活動から遠ざかるという傾向にあった。(甲A6ないし17,甲A65の4頁・6~7頁,乙A6の おり,同人を含め,革命誌創刊当初,約10名であったV1革命グループに属していた者は,在留資格が得られると活動から遠ざかるという傾向にあった。(甲A6ないし17,甲A65の4頁・6~7頁,乙A6の11~12頁,乙A7の2~3頁,原告本人2~4頁・29~31頁・35頁)(イ) 講演会2005年(平成17年)又は2006年(平成18年)に,米国在住のミャンマー人作家兼ジャーナリストであるQ6が来日して講演会を行った際,原告はその場に居合わせた(甲A21)。 (ウ) 第1回ハンスト2006年(平成18年),V2の初代議長で米国在住の政治活動家である〇〇ことQ8が,18年前に軍事クー・デタが行われた9月18日を前に来日したのに合わせ,V1革命グループの者5名は,同年9月17日午後から翌18日午後までの24時間,東京都品川区北品川四丁目所在のミャンマー大使館前でハンストを行った。原告は,その現場でハンストの実行を予告する宣言をしたが,自身はハンストそのものには加わらなかった。Q8は,同月17日の昼前後にミャンマー大使館前を訪れてハンスト参加者らを激励したが,ハンストが実行された午後3時にはε駅前に移動して演説し,さらに,夜には北区ζで講演した後,翌18日朝には韓国のηに向けて飛び立った。なお,ミャンマー大使館前は,大使館敷地内から監視カメラで撮影されている環境にある(甲C20)。(甲A19,21,甲A65の5頁,甲A75,乙A6の13頁,原告本人5~7頁・31~33頁)(エ) 第2回ハンスト2007年(平成19年)9月16日午後5時頃から翌17日午後5時頃まで,β公園(最後の2時間は在日ミャンマー大使館前)において,V1革命グループの者を含む10名がハンストを実施した。原告はハンスト自体は行わなかったが,警察との交渉 後5時頃から翌17日午後5時頃まで,β公園(最後の2時間は在日ミャンマー大使館前)において,V1革命グループの者を含む10名がハンストを実施した。原告はハンスト自体は行わなかったが,警察との交渉に携わり,また,現場にいてメディアの取材に対応した。(甲A20,甲A65の6頁,乙A6の13~15頁,原告本人7~8頁・32~34頁)これに先立ち,Q3からは,同月14日付けで,ミャンマー国民は衣食住及び交通の苦難に直面しており,健康,教育等の水準も低下しているとして,海外在住の民主化勢力が世界各国のミャンマー大使館前で抗議デモを行うよう協力を求める文書が電子メールで送付された(甲A23,甲A65の10頁,原告本人8頁)。また,88世代学生リーダーたちからは,V1革命グループ及びV4が同月16日に東京でハンストを行うことに大いに満足している旨の見解が記載された文書が送付された(甲A22)。 原告は,革命誌創刊を報じたのと同じX1放送のQ25記者の取材を受け,軍政に反対するハンストが,ミャンマー大使館前については警察の許可が下りなかったことから,公園で行う予定であること,ハンストは立ったまま水以外の飲食物を摂取しないで行う予定であることを答え,その旨が同月16日夕刻のX1放送のラジオ放送で報じられた(甲A20,41)。 なお,原告は,V4の日本におけるディレクターという肩書きの使用を許されていたところ(甲A70の9頁,甲A74の4頁,証人Q3・17頁・37頁),第2回のハンストに近接した2007年(平成19年)9月18日頃,V4の声明文が,原告,Q17及びQ16の連名で作成された。そこには,独裁軍政の抑圧,暴力行為によりミャンマーからの避難民が年々増加しており,これを国連安全保障理事会が問題にすること,ミャンマー国民全てを避難 が,原告,Q17及びQ16の連名で作成された。そこには,独裁軍政の抑圧,暴力行為によりミャンマーからの避難民が年々増加しており,これを国連安全保障理事会が問題にすること,ミャンマー国民全てを避難民として認めてもらうこと,軍政(ナ・ア・パ)の挙行した制憲国民会議(ニャウンナピン)における決定事項全てに反対すること,90年総選挙の結果を実行すること等を求める内容が記載されていた。(甲A24,甲A65の10頁,原告本人12~14頁・40~41頁)オ V3に関連する行動(2009年(平成21年)頃の状況)(ア) 原告の第1次難民不認定処分取消請求を棄却した前訴判決は,平成21年3月26日付けで最高裁判所で上告棄却,不受理決定がされたことにより,確定した(前提事実(2)カ及びク)。原告は,同年9月1日,本件難民認定申請をした(前提事実(3)ア)。 (イ) これより前,V3は,1988年(昭和63年)にQ9が中心となって結成された学生団体であったが,同人の逮捕などにより壊滅していたところ,2007年(平成19年)に,Q18を中心として一時再結成されたものの,同人が同年9月のサフラン革命時に投獄され,他のメンバーも国外に逃れたために,組織の体を成していなかった。他方,88世代学生リーダーの1人であったQ5(上記イ(ア)参照)は,2006年(平成18年)末ないし2007年(平成19年)頃にミャンマーからタイのγに出国したが,V3を立て直したいという意向を有しており,原告は2008年(平成20年)頃にそのことを聞いていた。 その後,原告がQ5から聞いたところなどによれば,現役の学生世代であるQ19は,2007年(平成19年)のV3の再結成に携わったものの,この頃にはγに避難しており,その当時,γには,V3の立て直しを志向する同志として, 聞いたところなどによれば,現役の学生世代であるQ19は,2007年(平成19年)のV3の再結成に携わったものの,この頃にはγに避難しており,その当時,γには,V3の立て直しを志向する同志として,Q5,Q21のほか,Q19及びQ20がおり,Q19は下ビルマにおけるオルグ活動を担当することを予定し,Q20は上ビルマにおけるオルグ活動を担当することを予定して,2009年(平成21年)4月頃,それぞれ,ミャンマーに再度潜入し,同年6月頃,V3が再々結成され,組織を拡大しようとしているとのことであった。もっとも,原告は,Q19及びQ20以外に,V3再々結成に係る活動をしている若者世代の人数や名前は知らず,両名との間にも面識はなかった。((イ)全体につき,甲A65の9頁・11~12頁,乙A6の23~25頁,原告本人16~19頁・54頁)(ウ) 原告は,「GMail」や「GTalk」を利用して,Q19とされる人物との連絡や金品援助に関与したと供述する(甲A65の13頁,乙A6の24~25頁,乙A11の6頁)ところ,これを裏付ける証拠として原告が提出した文書には,以下のものがある。 a 東京入管に対して平成21年9月15日に提出したもの(甲A26ないし34の東京入管の受付印参照)(a) 「省略」(以下「Q19のアドレス」という。)から「省略」(以下「本件アドレス」という。)に宛てた同年7月26日及び8月13日付けのメールの内容が「省略」(以下「本件転送アドレス」という。)に宛てて転送されたもの(甲A26,27)。 (b) Q19のアドレスと本件アドレスとの間の同年8月13日から9月2日までの間のチャットの内容が,本件転送アドレスに宛てて転送されたもの(甲A28ないし34)。 b 本件訴訟に提出したもの(a) Q19のアドレスから 件アドレスとの間の同年8月13日から9月2日までの間のチャットの内容が,本件転送アドレスに宛てて転送されたもの(甲A28ないし34)。 b 本件訴訟に提出したもの(a) Q19のアドレスから本件アドレスに宛てた同年9月8日及び同月29日付けのメール(甲A35,49)(b) 「省略」(以下「Q21のアドレス」という。)からQ19のアドレスに宛てた同年9月12日及び同月14日付けのメールが,Q19のアドレスから本件アドレスに宛てて転送されたもの(甲A36,42)(c) Q19のアドレスと本件アドレスとの間の同年9月14日,同月17日,同月18日及び同年10月1日から2日にかけてのチャット(甲A43ないし45,50)(d) Q21のアドレスと本件アドレスとの間の同年9月18日のチャット(甲A46)(e) Q19のアドレスからQ21のアドレス及び本件アドレスに宛てた同年10月3日付けのメールの内容が,本件アドレスから本件転送アドレスに宛てて転送されたもの(甲A51の1)(f) 本件アドレスからQ21のアドレスに宛てた同年10月4日付けのメール(甲A52の1)(g) Q19のアドレスから本件アドレスに宛ててビラの写真画像ファイルを添付した同年10月5日付けのメール(甲A53)及びQ19のアドレスからQ21のアドレス及び本件アドレスに宛てた同日付けのメール(甲A47)(h) Q19のアドレスからQ21のアドレス及び本件アドレス等に宛てて民主化を求めるビラや声明文を市街地の壁や柱に貼った様子等を写した写真画像ファイルを添付した同年10月8日及び同月10日付けのメール(甲A54ないし57)(i) 「省略」(以下「Q22のアドレス」という。)から本件アドレスに宛てた同年10月23日付けのメール及びこれに返信する形で た同年10月8日及び同月10日付けのメール(甲A54ないし57)(i) 「省略」(以下「Q22のアドレス」という。)から本件アドレスに宛てた同年10月23日付けのメール及びこれに返信する形で本件アドレスからQ22のアドレスに宛てた同月24日付けのメール(甲A59の1・2)(j) Q22のアドレスから本件アドレスに宛てて「地域内闘争から都市闘争へ計画草案」と題する文書ファイルを添付した同年10月26日付けのメールが,本件アドレスからQ21のアドレス及び本件転送アドレス等に宛てて転送されたもの(甲A60の1~3)並びにQ22のアドレスから本件アドレスに宛てた同日付けのメール(甲A61)上記添付ファィル文書の末尾近くには,一時的に定めた連絡ネットワークとして,Q5,Q21,Q19,Q20などと並んで,原告の名も「V3―日本」という肩書きで記されている(甲A60の4)。 (k) 本件アドレスからQ19のアドレス,Q22のアドレス及びQ21のアドレス等に宛てた同年10月28日付けのメール(甲A62)(l) Q21のアドレスから本件アドレスに宛てて上記(j)と同じ「地域内闘争から都市闘争へ計画草案」と題するもの外2つの文書ファイルを添付した同年12月19日付けのメール(甲A63の1~4) 2 原告の難民該当性についての検討上記1に認定した事実に基づき,原告が法に定義される難民条約1条の規定又は難民議定書1条の規定により難民条約の適用を受ける難民(法2条3号の2),即ち,「人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその 又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」に該当するか否かを検討する。 (1) 革命誌についてア運動としての広がりについて認定事実(3)ア,ウ(ア)及びエ(ア)によれば,革命誌は,原告,Q1ほか1名が共同代表となって,2005年(平成17年)6月に創刊され,以後,2006年(平成18年)8月頃に発行されたとみられる第14号(甲A17)まで発行されていたが,その部数は毎号200ないし300部程度であり,主として日本国内のミャンマー関連の飲食店等に置かれて配布されていたにすぎず,同誌を通じた反政府運動の顕著な広がりがあったことはうかがわれない。また,創刊時の共同代表の1人であったQ1は,妻を通じてX1放送ラジオ局のQ25記者と接触し,革命誌の創刊に関するインタビューを受けて,その内容が放送されたが,その後,在留資格の取得に伴い,同年11月発行の第6号以降は奥書から名が消え,同誌に関する活動をしなくなったほか,他に革命誌の発行に関与したV1革命グループに属する者も減少傾向にあったことがうかがわれる。 イ原告の政治的背景についてまた,認定事実(2)によれば,原告は,第1次異議決定を受ける頃までは取り立てて目立った政治的活動を行っていた形跡はうかがわれず,政治的色彩を帯びた行動に及んだとうかがわれるのは,せいぜい,①本国で1987年(昭和62年)に廃貨令が発せられた後に一時抗議ビラの配布に携わり,②本邦で2つの雑誌に筆名で軍政に関する寄稿をしたという程度のものにとどまる。このうち①については,その後抗議ビラを共に配布した友人が逮捕 2年)に廃貨令が発せられた後に一時抗議ビラの配布に携わり,②本邦で2つの雑誌に筆名で軍政に関する寄稿をしたという程度のものにとどまる。このうち①については,その後抗議ビラを共に配布した友人が逮捕されたことを契機として,親戚に相談して海軍に入隊するという政府への帰順意思を示すような行動に出ており,また,②についても,筆名での単発的な2回のみの寄稿にとどまるものであり,いずれも確固たる政治的意見の発現としての行動であったと認めるには程遠いものといわざるを得ない。 そうすると,それまでそのような行動しか取ってきていなかった原告が,格別政治的志向を高める契機となったような事情もうかがわれないままに,2005年(平成17年)4月頃になって突如,軍政批判の記事を相当数掲載する内容の革命誌の創刊を思い立ち,しかも,同年6月に実際にその発行がされた後,編集,発行の責任者ないし連絡先,あるいは反政府詩の制作者として実名を著すに至るというのは,経緯として相当唐突であるといわざるを得ない。 ウ小括以上のとおり,原告が発行や寄稿に関与していた革命誌自体,さほどの広がりをもって発行されていたものでなく,その担い手は減少傾向にあり,発行期間も2005年(平成17年)6月から2006年(平成18年)8月頃までの1年余りと短かったこと,また,原告自身,革命誌を発行するより前は目立った政治的活動の実績もなかったことを勘案すると,それが発行されなくなって4年以上経過した平成22年11月の本件難民不認定処分の時点において,本国政府が,革命誌の発行や寄稿に原告が過去一時関与していたことを捉えて原告に迫害を加えるおそれがある状況にあったとは考え難いというべきである。 (2) Q3に関係した行動についてア Q3との関係について認定事実(2)ア,(3) 一時関与していたことを捉えて原告に迫害を加えるおそれがある状況にあったとは考え難いというべきである。 (2) Q3に関係した行動についてア Q3との関係について認定事実(2)ア,(3)イ及びウによれば,原告とQ3は,中学校,高校及び大学を通じて知人の関係にあり,Q3は学生運動に身を投じて1999年(平成11年)まで刑務所において服役していたところ,原告は,2005年(平成17年)7月になって同人との音信を再開し,Q3を含む88世代学生リーダーらの本国における活動について電話で話をするようになったこと,同人が同年10月頃にタイのγに退避した後は,連絡の頻度が増し,月額2ないし3万円程度の資金提供を行ったことが認められる。 イ Q3が本国にいた当時の連絡の密度について原告とQ3が連絡を取るようになった後,その間に電話が交わされた頻度につき,原告及びQ3は,その尋問において,本国のQ3の隣家にあった固定電話に毎日のように時間を決めて原告から架電していた旨を供述する。 しかも,そこで交わした会話の内容は政治的なものであったというのである。(証人Q3・9頁・31~35頁・52~53頁,原告本人9頁)しかし,これらの供述内容は,政府に知られないように複数の電話を使い分けていたという両名の陳述録取書の内容とも異なっていて(認定事実(3)イ(イ)参照),不合理に変遷しており,信用することができない。両名が毎日のように連絡を取り合っていたというのは,Q3がタイのγに移動してから連絡の頻度が増したということとも相容れ難いもので,明らかに誇張があると考えられ,この時期,両名は,より少ない頻度で連絡を取り合っていたにとどまるものと解される。 ウサフラン革命への影響についてもっとも,両名の間で政治的行動について一定の会話が交わされ があると考えられ,この時期,両名は,より少ない頻度で連絡を取り合っていたにとどまるものと解される。 ウサフラン革命への影響についてもっとも,両名の間で政治的行動について一定の会話が交わされたものとは考えられ,そのような中で,原告が,本国における燃料価格の値上げに際して採る行動のアイディアを提供し,あるいはこれを練り上げるのに何らか寄与する発言をした可能性があることは否定できない。 しかしながら,原告のアイディアが2年後のサフラン革命時の市民行動に結実したと原告が主張する点については,本件難民認定申請手続における調査時はおろか,本件訴訟においても,原告が,提訴から1年4か月以上を経過した平成28年7月に,Q3から詳しい供述を得られたとして原告の難民該当性を基礎付ける事実についての追加主張をした準備書面(3)ですら,主張としては触れられず,これと同時に提出されたQ3及び原告の各陳述録取書(甲A70,74)に記載があるのみであって,これが主張として明示されるに至ったのは,平成29年11月24日付け原告最終準備書面におけるものが初めてである。 このような経過からすると,原告は,少なくとも,本件訴訟の提起後にQ3に指摘されるまで,自分がQ3と交わした会話がサフラン革命時の市民行動に影響を与えたものと認識していたとは認められず,まして,自分がそのような影響を与えるようなことを行ったことから迫害を受けるおそれがあると,本件難民不認定処分時において考えていたとは認め難いものである。 エ Q3のタイ退避の契機となった盗難事件について原告は,Q3がタイのγに避難する契機となった盗難事件に遭った際,盗まれた資料の中にQ3と原告の名前が入ったものが存在したと主張する。 しかしながら,Q3が,タイのγに退避することとなった直前の時期に は,Q3がタイのγに避難する契機となった盗難事件に遭った際,盗まれた資料の中にQ3と原告の名前が入ったものが存在したと主張する。 しかしながら,Q3が,タイのγに退避することとなった直前の時期に,日本の原告の下に届ける電子データを作成しようと資料を持ち歩いている際に盗難に遭った事実は認められるとしても(認定事実(3)イ(ウ)),手荷物検査をされる危険もあろうかという荷物を政府の目を盗んで受渡ししようとするに際して,関係当事者間で既に届け先と届ける目的も分かりきっているにもかかわらず,あえて宛先人の名前が分かるように記載したものを同梱することは,その必要性には乏しく,むしろ害あって利がないと考えられる。宛名を記載した理由についてQ3から合理的な説明もないこと(証人Q3・54頁)に照らせば,盗まれた資料の中に原告の名前を記載したものが混在していたことについては,疑いを差し挟まざるを得ない。 なお,上記のことは差出人であるQ3の名前についても同様に当てはまるところ,仮に盗まれた資料中にQ3の名前を記載したものも存在していなかったとしても,盗難被害自体がQ3を狙い打ちしたものであった可能性を否定することができない以上は,その被害に遭ったという事実だけからQ3の身に危険が及ぶ可能性があると判断して退避行動に出ることはあり得るというべきであるから,Q3が盗難被害後にタイに退避している事実から,盗まれた資料中に名前を記載した資料が混在していたことを推認できる関係にもないというべきである。 オ X5の報道について原告は,2007年(平成19年)8月25日付けX5が,88世代学生リーダーたちが,タイに移動したQ11とQ3を介して,国外で活動する反政府団体と連絡を取り合っている旨報じたこと(甲A25)について,当該国外の反政府団体とは,V 8月25日付けX5が,88世代学生リーダーたちが,タイに移動したQ11とQ3を介して,国外で活動する反政府団体と連絡を取り合っている旨報じたこと(甲A25)について,当該国外の反政府団体とは,V4やV1革命グループを意味すると主張し,これに沿う供述をする(甲A65の11頁,原告本人15頁)。 しかし,同記事の文脈上,国外の反政府団体とはタイのそれを意味すると解するのが自然であり,日本のそれを意味すると解するのが困難であることはQ3自身も認めるところである(証人Q3・13頁)し,他に少なからずミャンマー国外の反政府団体が存在することも想像に難くないから,当該記事を上記の原告の主張のように理解することは困難である。 カ小括以上のとおり,原告は,88世代学生リーダーの1人と位置付けられるQ3と連絡をとり,政治的行動について一定の会話をしたほか,同人がタイに移動した後も,若干の資金提供を行ったことなどが認められるが,証拠上,その関与が認められる程度は2005年(平成17年)7月から2006年(平成18年)ないし2007年(平成19年)頃にかけての一時期における限定的なものにとどまること,これに加えて,前記(1)イのとおり,原告自身,2005年(平成17年)6月より前は目立った政治的活動の実績もなく,Q3の活動に上記の程度原告が関与した事実を本国政府が知り得る契機にも乏しかったと考えられることも勘案すると,本件難民不認定処分の時点において,本国政府が,原告がQ3の活動に関与していたことを捉えて原告に迫害を加えるおそれがある状況にあったとは考え難いというべきである。 (3) 講演会について原告は,認定事実(3)エ(イ)の講演会を含めて,V1革命グループが2005年(平成17年)と2006年(平成18年)の2回にわたりミャンマ 考え難いというべきである。 (3) 講演会について原告は,認定事実(3)エ(イ)の講演会を含めて,V1革命グループが2005年(平成17年)と2006年(平成18年)の2回にわたりミャンマー人作家2名を招いて講演会を主催した旨主張し,これに沿う供述があるが(甲A65の4頁,乙A6の13頁,原告本人4~5頁・52~53頁),これらの講演会の開催の経緯及び内容等を的確に認めるに足りる証拠はない。 (4) ハンストについてアハンストの内容について認定事実(3)エ(ウ)及び(エ)によれば,①平成18年9月,米国在住の政治活動家でV2の初代議長として名の知られたQ8の来日に合わせて,V1革命グループの者5名が,ミャンマー大使館前で第1回ハンストを行い,原告はその現場でハンストの実行を予告する宣言などをしたこと,②翌年9月,V1革命グループの者ら10名が,主としてβ公園で第2回ハンストを行い,原告は警察との調整などを行ったほか,X1放送ラジオ局のQ25記者の取材を受け,その内容が放送されたことが認められる。 イ運動としての広がりについてしかしながら,認定事実(3)エ(ウ)のとおり,第1回のハンストにおいては,デモ開始前にQ8が激励に訪れた様子が見受けられるとはいえ,同人は,実際にハンストが始まった頃には実行場所を離れて,別の場所で演説ないし講演に奔走した上,ハンスト継続中に離日してしまっているのであり,同人とこのハンストとの関わりが密接であったとも認め難い。 また,第2回のハンストは,認定事実(3)エ(エ)によれば,Q3を含む88世代学生リーダーたちの要請があって行われたものである可能性が高いと考えられ,原告自らが企画したことをうかがわせる的確な証拠はなく,原告自身がハンストの実行行為には加わっていないことと合わせ む88世代学生リーダーたちの要請があって行われたものである可能性が高いと考えられ,原告自らが企画したことをうかがわせる的確な証拠はなく,原告自身がハンストの実行行為には加わっていないことと合わせ,原告は,調整,司会進行及びメディア対応を担当する役回りとして関与したにとどまると解される。 加えて,これらのハンストの実行行為に加わった者は5名ないし10名程度と少なかったばかりか(認定事実(3)エ(ウ)及び(エ)),その主たる参加者であったV1革命グループに属していた者は,在留資格が得られるとその活動から遠ざかるという傾向にあった(認定事実(3)エ(ア))。 ウ小括以上のとおり,原告の主張するハンストは,海外における反政府活動と連携していることがある程度うかがわれる反面,原告がこれらの実行を主導したとまではうかがわれず,また,原告自らがハンストの実行行為をしたものではないこと,ハンストをした者の人数からみて企画の規模が小さかったこと,参加者の主たる母体であったV1革命グループは,2007年(平成19年)9月に実施された第2回のハンスト後ほどなくして活動を停止して,政治的広がりが皆無の状況となり,翌年以降,抗議活動として継続的に定着したような様子も見受けられないこと,これらの点に,前記(1)イのとおり,原告自身,2005年(平成17年)6月より前は目立った政治的活動の実績もなかったことも勘案すると,上記の第2回ハンスト後3年余りを経過した平成22年11月の本件難民不認定処分の時点において,本国政府が,原告がこれらのハンスト行動に過去単発的に一時関与したことを捉えて原告に迫害を加えるおそれがある状況にあったとは考え難いというべきである。 (5) V4について原告は,原告がQ3らの結成したV4の日本支部のディレクターの地位 発的に一時関与したことを捉えて原告に迫害を加えるおそれがある状況にあったとは考え難いというべきである。 (5) V4について原告は,原告がQ3らの結成したV4の日本支部のディレクターの地位に就いたことも,原告の難民該当性を基礎付ける事実として主張する。 しかし,認定事実(3)ウ(エ)によれば,V4は,V6から名称を変更して間もない頃,タイ政府によって関係者の生活していた難民キャンプを分けられたことからその活動を縮小したものと認められ,タイにおいてもその後の活動実態は明らかではない上,日本における活動についていえば,原告の名前が入った声明文が存在する(認定事実(3)エ(エ))以外には,具体的な活動が行われていたことを示す的確な証拠はなく,その声明文も,第2回のハンストに近接した時期の単発的なものであるにとどまり,それ固有で反政府活動に多大な影響があったのかはうかがい知れないことからすると,上記の原告の主張を採用することはできない。 (6) 国際電話会議について原告は,2007年(平成19年)頃,Q8が主宰した国際電話会議に各国の元V2のリーダーらとともに参加したことも,原告の難民該当性を基礎付ける事実として主張するが,これを裏付ける証拠は原告自身の陳述録取書(甲A74の4~5頁)しか存在しないことに加え,この点が主張されたのは,平成28年7月4日受付の準備書面(3)におけるものが初めてであって,これに参加したことから迫害を受けるおそれがあると,原告が本件難民不認定処分時において考えていたとは認め難いことからすると,上記の原告の主張は採用の限りでない。 (7) V3に関係した行動についてア本件アドレスを利用した交信の時期について原告は,本件アドレスを利用した交信により情報や意見の交換を行った結果,V3が再々 主張は採用の限りでない。 (7) V3に関係した行動についてア本件アドレスを利用した交信の時期について原告は,本件アドレスを利用した交信により情報や意見の交換を行った結果,V3が再々結成されたと主張するが,認定事実(3)オ(イ)及び(ウ)によれば,原告が提出した証拠によって認められる本件アドレスを利用した交信は,V3が再々結成された2009年(平成21年)6月より後のものであり,まず,時期的に見て,これらの交信の結果としてV3が再々結成されたものとは認められない。 イ本件アドレスの利用者について(ア) もっとも,認定事実(3)オ(イ)によれば,Q19は,ミャンマー国内において上記のV3の再々結成に係る活動を行っていたとされる人物であるところ,Q19のアドレスと本件アドレスとの間では,V3の再々結成後離れていない時期にメールやチャットの方法で交信されていることが認められる。そして,原告は,本件アドレスは自分が利用しているものであると主張し,これに沿う供述をする(甲A65の13頁,原告本人43頁)。 (イ) しかしながら,本件アドレスを利用してQ19のアドレス等との間でメールやチャットを交信した者が原告であると認めるには,以下のように疑わしい点が相当数存在するといわざるを得ず,本件アドレスは,これらの交信がされた当時,原告と関係のある第三者が利用していた可能性を払拭することができない。 a 2009年(平成21年)7月26日(以下,この項において,同年の年の表記は省略する。)から9月2日までのメールやチャットは,全てQ19のアドレスと本件アドレスとの間でされた交信そのものでなく,これらが本件アドレスから本件転送アドレス宛てに転送されたものが証拠として提出されているが(認定事実(3)オ(ウ)a),これらの交信を原 9のアドレスと本件アドレスとの間でされた交信そのものでなく,これらが本件アドレスから本件転送アドレス宛てに転送されたものが証拠として提出されているが(認定事実(3)オ(ウ)a),これらの交信を原告が本件アドレスを利用して行っていたのだとすれば,そのような迂遠な方法で証拠化する必要には乏しいと考えられるし,仮に本件アドレスにおいては受信履歴を削除しまっていたのだとしても,特定の本件転送アドレスに継続的にメールやチャットが転送されて保存されている理由も明らかではない。 b 9月14日のチャットで,本件アドレスから,自分も直ぐに入国する意向であるかのような旨が述べられているが(甲A43の10:49以降),当時,原告がミャンマーに入国する意向を有していたとは考え難い。 c 9月17日のチャットでは,本件アドレス利用者が,88学生運動の様子について触れるくだりや,V3とV8の関係について意見するくだりがあるが(甲A44の10:32以降),88学生運動に深く関わっていたとまでは認め難い原告が,このようなコメントをすることができる知識を有しているか疑念がある。 d 9月18日の本件アドレスとQ21のアドレスとのチャットにおいて,本件アドレス利用者からQ20を調べることが申し出られているが(甲A46の10:49),日本からみれば遠くミャンマーの上ビルマに潜入していて,原告と面識がないQ20について,原告がこのようなことを申し出るのは不自然である。 e 10月1日から翌2日にかけてのチャットでは,①本件アドレス利用者は,金銭の受け取りに使う名前はQ31であり,Q32が日本から送ったと説明しており,本件アドレス利用者と原告とが別人であることが前提とされていること(甲A50の11:27以降),②本件アドレスとは異なる「θ」(原語の綴りも原告の「 1であり,Q32が日本から送ったと説明しており,本件アドレス利用者と原告とが別人であることが前提とされていること(甲A50の11:27以降),②本件アドレスとは異なる「θ」(原語の綴りも原告の「θ」と同じ。)なる発信者からのコメントが入り込んでいること(同12:21),③本件アドレス利用者が,そばにQ5がいるとして,Q5と話し合われた結果を送信したかのような外観を呈する交信がされていること(同12:38付近)から,当時,本件アドレスを利用していたのは,日本にいる原告ではなく,ミャンマーに隣接するタイのγにいる第三者であった可能性が考えられる。 なお,このチャットにおいて,Q19のアドレスから「兄さんの電話番号」を問われたのに対して返された電話番号(同12:45)は,原告自身のものであるとうかがわれるが(乙A5参照),「兄さん」とは,チャットの相手のみならず,年上の男性全般を意味し,冒頭で「Q32が日本から送ったのだと。明日電話しなければならない。」とのくだりがあること(同11:28)を受けてのやり取りであったとも考えられるし,そうでなくても,このチャットが外出するので電話を架けてくれれば架け直すという内容で締め括られていること(同12:47)からすると,上記の電話番号は,必ずしも本件アドレス利用者が自分の電話番号として答えたものであるとは限らない。さらに付け加えると,より時期の遅い10月24日のメールにおいては,本件アドレス利用者の電話番号と思しき箇所が秘匿されている(甲A59の2)。 f 10月28日には,本件アドレスからQ19のアドレス等に宛てて,「Q33」なる暗号名のEメールアドレスを宛先に入れるよう指示がされているが(甲A62),本件アドレス利用者がQ32の名前で継続的に交信していたのだとすれば,この指示内容は不可 アドレス等に宛てて,「Q33」なる暗号名のEメールアドレスを宛先に入れるよう指示がされているが(甲A62),本件アドレス利用者がQ32の名前で継続的に交信していたのだとすれば,この指示内容は不可解である。 (ウ) 上記(イ)に指摘した各点に加え,原告はそもそもQ19と面識がなく,両名の関係性は,生じているとしても,せいぜい2009年(平成21年)6月以降のものであることも勘案すると,いわゆるフリーメールとして十分な本人確認がされないままにアカウントを取得することのできる本件アドレスを利用してされた交信の全てについて,原告が関与したわけではないという蓋然性があるといわざるを得ない。 ウ本件アドレスを利用した交信内容の証拠価値また,ミャンマーにおける2007年(平成19年)及び2011年(平成23年)の人権状況に関する米国国務省等の報告には,政府がフリーメールを定期的に遮断し,電子メールを監視の対象としている疑いがある等の旨の指摘があるところ(甲C2の訳文21頁,甲C17のパラグラフ16. 07~16.15),その間の時期において,同国政府から弾圧を受ける可能性がある政治活動を,そのような同国の国内事情を知悉しつつ真摯に遂行しようとしている集団が,国境を跨いで政治活動内容に関わる通信を行うに際し,通信内容が政府に露呈する可能性があると考えられる方法で,暗号や隠語も用いることなく無防備に交信すること自体,合理的に理解し難い行為であるといわざるを得ない。 そして,実際に本件アドレスを利用して交信された内容を見ても,本件アドレスとQ19のアドレスとの交信の当初,本件アドレスからは,Q19のアドレスに対し,無警戒にミャンマー国内の活動の様子の写真などを送るよう促された(甲A43の9:40)後,Q19のアドレスからビラ貼り等の結果を アドレスとの交信の当初,本件アドレスからは,Q19のアドレスに対し,無警戒にミャンマー国内の活動の様子の写真などを送るよう促された(甲A43の9:40)後,Q19のアドレスからビラ貼り等の結果を示した写真が送付され(甲A53ないし57),その後になって,Q19のアドレスに対し,暗号名のアドレスを利用するようにとか,本名や電話番号は足が付くので用いないようにとかの,本来なら初期にやり取りされてしかるべき基本的な注意事項が伝えられており(甲A62),他方で,Q34という原告の本名については,この注意事項に反して,送金者や暗号名等として自ら示すことが行われている(甲A50,62)というように,いわばちぐはぐな状況が生まれている。 以上のような交信方法やその内容の不自然さに照らしても,本件アドレスを利用した交信内容は,現実のV3の再々結成後,これに関連する誠実な活動として行われたものであるのか,疑問を禁じ得ないというべきである。 エ小括以上のとおり,本件アドレスを利用してされた交信の全てについて原告が関与していると認めることはできないし,仮に関与している部分があるとしても,それらの証拠価値には疑問がある。 原告は,本件アドレスを利用してされた交信内容を根拠として,原告がミャンマー国内におけるV3の再々結成とその活動を積極的に支援していた旨を主張するけれども,これまでに判示したところに照らし,採用することはできない。 (8) 総合判断以上を要するに,原告は,まず,①1967年(昭和42年)生まれの男性であり,いわゆる88世代に属しているが,ミャンマーにおいても,本邦においても,第1次異議決定を受けた2005年(平成17年)4月までの間,目立った政治活動を行っておらず,社会的な抗議活動に本格的に参画することなく年齢を重ね しているが,ミャンマーにおいても,本邦においても,第1次異議決定を受けた2005年(平成17年)4月までの間,目立った政治活動を行っておらず,社会的な抗議活動に本格的に参画することなく年齢を重ねてきた者であるということができる。また,②第1次異議決定の後,V1革命グループを結成して革命誌を発刊し,古い知人の関係にあった88世代学生リーダーの1人であるQ3と通じて,その活動に若干の資金提供をするとともに,在日ミャンマー大使館前におけるハンストに関与するなどの行動をしたが,いずれも小規模ないし単発的なものであった上,原告自ら政治活動を牽引するような強い主導性の下で行われたともいい難く,期間的にも,本件難民不認定処分の約5年5か月前から約2年余りの間にとどまり,そのうち1年余りを経た後は,その行動も散発的で,その後も含めて,こうした行動が一貫性をもって継続されたとは認められない。③それから時を置いて,前訴判決が確定した2009年(平成21年)になると,親戚であるQ5を通じ,V3再々結成後の動きに関連して,原告自身は面識のない若者との間で交信が行われたとする本件アドレスに係るアカウントの提供等に何らかの関与をした形跡はうかがわれるものの,その交信の全てを原告自らが行ったと認めることはできず,一部の交信に原告が関与したとしても,その交信方法や内容も不自然である。 本件参与員多数意見は,原告が,自ら発行,編集,執筆した革命誌の存在を客観的に立証しているとともに,ハンストを指揮し,88世代学生リーダーらと連絡を取り合い,V4の日本支部の責任者となり,2009年(平成21年)6月に本国で再々結成されたV3の中央執行委員として活動していると主張していた点について,客観的・直接的な立証がされているわけではないものの,その供述内容が具体的で大筋にお 2009年(平成21年)6月に本国で再々結成されたV3の中央執行委員として活動していると主張していた点について,客観的・直接的な立証がされているわけではないものの,その供述内容が具体的で大筋において首尾一貫しており,矛盾点が認められず,立証の困難性を考慮すべきであるとして,全体として,原告の行動には,政治的信念や反政府的な意思の表明の継続性及び一貫性と,一部活動において原告の主導性が認められるなどとして,原告を難民と認定するのが相当であるとしたものである(甲A5)。しかしながら,V3に関連した原告の行動は,本件提訴後に提出された証拠をも総合すれば,上記③のとおりのものと評価せざるを得ないものであり,また,原告が第1次異議決定後の時期に一時携わった政治的行動も,小規模,単発的なものでしばらくすると収束していることも,上記②のとおりである。上記①の原告の経歴と合わせ,本件参与員多数意見における原告の政治的信念,政治的意思表明の継続性・一貫性及び主導性の点についての評価が当を得ているとはいい難い。 以上を総合すると,本件難民不認定処分の当時のミャンマーにおける軍政優位の政治情勢(認定事実(1)ア(オ)及び(カ))を考慮しても,原告は,政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する者であるとまではいえず,法に定義する難民に該当するとはいえない。 3 結論よって,原告を難民と認定しなかった本件難民不認定処分は,適法であり,原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし,訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第38部 裁判長裁判官谷口豊 民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第38部 裁判長裁判官谷口豊 裁判官平山馨 裁判官馬場潤(別紙省略)

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