平成8(ワ)23786 損害賠償

裁判年月日・裁判所
平成14年8月27日 東京地方裁判所
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判決文本文14,837 文字)

H14.8.27 東京地方裁判所平成8年(ワ)第23786号損害賠償事件 主文 原告らの請求をいずれも棄却する。 訴訟費用は原告らの負担とする。 事実及び理由 第1 請求被告は,原告らに対し,それぞれ1187万5000円及びこれに対する平成5年11月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 第2 事案の概要原告らの亡父が,被告の設置する病院から他の病院に転院し,その後肺がんを原因に死亡したことについて,原告らは,被告の設置する病院の担当医に,原告らの亡父に対する肺がんについての精密検査を遂げないで同人を他の病院に転院させた過失,及び転院の際の紹介状に肺がんの疑いを記載するなどして転院先の医師に適切な情報提供をしなかった過失があるとして,被告に対し,不法行為の使用者責任に基づく損害賠償を求めている。 1 前提事実(争いのない事実及び証拠(【 】内の数字は書証番号を示す。以下同じ。)等により容易に認められる事実)(1) 当事者等ア Aは,昭和2年4月25日生まれの男性である。 原告B及び同Cは,それぞれAの長男及び二男である。 イ被告は,川崎市中原区において,関東労災病院(以下「被告病院」という。)を開設している。 (2) Aに対する診療経過ア Aは,平成5年10月,自宅近くの病院で健康診断を受けた結果,胸部エックス線写真の所見として肺の右下部に異常陰影が見られたため,被告病院で精密検査を受けることとなった。なお,この際,平成4年12月撮影の胸部エックス線写真において同じ部位に見られた陰影に比して平 エックス線写真の所見として肺の右下部に異常陰影が見られたため,被告病院で精密検査を受けることとなった。なお,この際,平成4年12月撮影の胸部エックス線写真において同じ部位に見られた陰影に比して平成5年10月の写真においては陰影が拡大していることが指摘されていた。 イ Aは,同年11月1日から被告病院に通院を始め,同月5日,気管支鏡検査等の精密検査を受けるため被告病院に入院した。主治医の呼吸器内科D医師は,Aについて,胸部エックス線撮影,血液,尿,痰及び肺機能の検査等の一般検査,胸部CT撮影並びに気管支鏡検査を実施した【乙1ないし3】。 そのうち,喀痰についてそれぞれ数回行われた細胞診検査(がん細胞の発見を主たる目的とする検査)及び抗酸菌塗抹検査(結核菌の発見を主たる目的とする検査)の結果はいずれも陰性であった【乙1,2】。 血清中の腫瘍マーカー(悪性腫瘍から比較的高い特異性を持って産生されることが知られている物質。がんの有無の診断,経過観察並びに治療の効果及び予後の判定等に用いられる。)については,CEA(carcinoembryonicantigen。糖たん白の一種),TPA(tissuepolypeptideantigen。たん白質の一種),SCC及びSLXの4種が測定され,そのうちCEA(8.2ng/ml及び7.6ng/ml。標準値5ng/ml以下)及びTPA(130U/l。標準値110U/l以下)の2種が軽度陽性を示した。また,血液検査の結果,白血球数がやや高い値(11600/μl及び10600/μl。標準値4000/μlないし9700/μl)を示した。【乙2】同月11日に実施された胸部CT撮影についての担当医による放射線診療報告書には,所見として,「右S9末梢に径2.5cmほどの不整形の結節影 00/μlないし9700/μl)を示した。【乙2】同月11日に実施された胸部CT撮影についての担当医による放射線診療報告書には,所見として,「右S9末梢に径2.5cmほどの不整形の結節影を認める,空洞を認める,血管集中像を認める,胸膜ひきつれを認める」「胸水を認めない」等との記載があり,診断として,「肺がん(腺がん?)」等との記載があり,「生検してみませんか」と付記されている【乙3】。 同月12日の気管支鏡検査においては,気管支末梢(右側B9a,b部位)の擦過及び洗浄が行われた。なお,この際,可視範囲内に組織片採取の対象とすべき異常が見られず,また,エックス線テレビジョン透視(以下「エックス線透視」という。)装置が用意されていなかったため,経気管支肺生検は行われなかった。 この際に回収された気管支肺胞洗浄液について当日中に実施された抗酸菌塗抹検査において,抗酸菌(ガフキー2号)が検出された。抗酸菌とは,マイコバクテリウム属の細菌の別称であり,統計的には抗酸菌のうち約8割が結核菌であるとされている。ガフキー表とは,喀痰などの材料の塗抹染色標本における結核菌(抗酸菌)の多少を表す基準であり,顕微鏡の視野における菌数によって1ないし10号の10段階に分けられている。抗酸菌塗抹検査においては,検出された抗酸菌の種類を特定することはできない。なお,Aの気管支擦過物及び気管支洗浄液の細胞診検査の結果はいずれも陰性であった【乙2】。 ウ抗酸菌の検出を受けて,D医師は,Aを結核病棟を有する川崎市立井田病院(以下「井田病院」という。)に転院させることとした。Aは,同日(金曜日)夕刻から外泊扱いで被告病院を退出し,週末を自宅で過ごした上,同月15日(月曜日)に被告病院を退院した。 エ D医師は,同日付けでAについての井田病 )に転院させることとした。Aは,同日(金曜日)夕刻から外泊扱いで被告病院を退出し,週末を自宅で過ごした上,同月15日(月曜日)に被告病院を退院した。 エ D医師は,同日付けでAについての井田病院に対する紹介状(以下「本件紹介状」という。)を作成し,退院の際に同人にこれを手渡した。 本件紹介状には,次の記載がある。 傷病名 ①肺結核 ②糖尿病 ③両下肢動脈硬化性閉塞症紹介目的平成5年11月1日当院へ近医より紹介された患者です。〈胸部X線異常〉 平成4年12月11日の胸部エックス線に比し平成5年10月15日の胸部エックス線で右下の影が増大しているとの事。 症状経過及び検査結果当院入院後気管支鏡にてガフキー2号出現したため,貴院での治療をお願いいたします。当院結核病棟ないため。 よろしくお願いいたします。胸部エックス線,CT,持たせます。 オ Aは,平成5年11月15日,井田病院呼吸器内科を外来で受診し,同月22日,同病院に入院した。なお,同病院の外来で診察を行ったE医師作成の初診時の診療録には,「胸部レントゲン写真異常陰影」,「関東労災にて肺結核として紹介」との記載や抗結核剤の処方の記載のほか,「悪性につきデータを労災よりもらう」との記載がある。また,入院時に主治医のF医師が作成した診療録には,本件紹介状記載の傷病名,既往症及び抗結核剤の処方の記載のほか,「悪性が疑われ気管支鏡」との記載がある。 F医師は,同月中に,喀痰の一般細菌検査のほか,喀痰細胞診検査を3回実施したが,いずれも陰性であった。また,喀痰の抗酸菌塗抹検査を同年11月中に3回,同年12月中に2回,平成6年1月中に2回,同年2月中に2回それぞれ実施したが,いずれも陰性であった。なお,同年2月までに,喀痰の抗酸菌培養検査の 。また,喀痰の抗酸菌塗抹検査を同年11月中に3回,同年12月中に2回,平成6年1月中に2回,同年2月中に2回それぞれ実施したが,いずれも陰性であった。なお,同年2月までに,喀痰の抗酸菌培養検査の陽性結果は得られなかった(培養検査の最終結果を得るためには4週間ないし8週間の期間が必要である。)。【乙14の1】カ被告病院では,前記気管支鏡検査の際に採取された気管支洗浄液についての抗酸菌培養検査を行っていたが,平成6年2月1日,最終検査結果として培養陰性と判定した。 キ同月18日,井田病院においてAの胸部CT撮影が実施された。なお,F医師作成の同日の診療録には,「胸部CTが実施された」,「結核らしくない」,「2月25日気管支鏡」との記載がある【乙14の1】。同月25日の気管支鏡検査(右側B10部位に対するエックス線透視下での経気管支肺生検,気管支擦過及び気管支肺胞洗浄を含む。)の結果,肺がんの疑いが濃厚となったため,同年3月2日に再び気管支鏡検査(右側B10a部位に対するエックス線透視下での経気管支肺生検,気管支擦過及び気管支肺胞洗浄を含む。)が行われ,確定的に肺がんと診断された【乙14の1,弁論の全趣旨】。F医師は,Aについて手術適応があると判断し,同人を呼吸器外科に転科させた。 ク Aは,同月9日,同病院において肺右下葉切除術を受けた。この際の手術記録における術後診断として,「P1(がん組織が肉眼的に肺胸膜表面に達しているとの所見) D0(胸膜播種(胸腔内にがん細胞が散布される形での転移)を認めないとの所見) E1(300ml未満の胸水を認めるとの所見)」の記載がある【乙47】。また,切除肺の病理報告書には,外側区胸膜直下に3.2cm×2.4cm大の腫瘤を認める,がん組織が(組織学的に)肺胸膜弾性膜を越えているが,胸膜 満の胸水を認めるとの所見)」の記載がある【乙47】。また,切除肺の病理報告書には,外側区胸膜直下に3.2cm×2.4cm大の腫瘤を認める,がん組織が(組織学的に)肺胸膜弾性膜を越えているが,胸膜表面に達していない(p1),リンパ節に腫瘍の転移を認めない等の所見の記載があり,低分化腺がんと診断されている【乙14の1】。なお,手術時に採取された胸水の細胞診において,がん細胞が確認された【乙14の1】。 ケ Aは,同年4月13日に井田病院を退院【乙13】の後,がん性胸水の治療を目的として,同月14日から27日まで千葉県がんセンターに入院した。同センターでは,2度にわたり胸水の採取とその細胞診検査が行われたものの,がん細胞は検出されなかった。【甲19の3】コその後,井田病院では,Aについて継続診療を行っていたが,同年5月の胸部レントゲン写真において右側肺野に円形陰影が出現,以後次第に増大し,肺がんの再発が認められた【乙14の2】。Aは,同年10月3日,井田病院に再入院し【乙13】,平成7年4月4日,肺がんを直接の原因として死亡した【甲12】。 2 原告らの主張(1) 被告病院担当医の過失ア平成5年11月にAが被告病院の診療を受けていた当時,胸部エックス線写真及び胸部CT写真の所見,腫瘍マーカーの値,喫煙歴等から,Aの疾患が肺がんであることが強く疑われる状況であった。そして,肺がんは悪性疾患である上に進行が速いことから,被告には,Aに対し肺がんの診断のための精密検査を完遂すべき注意義務があった。 そして,当時,Aの疾患は肺の末梢部にあることが画像所見により分かっていたから,気管支鏡検査の際に可視範囲に異常が見られなければ,エックス線透視下での経気管支肺生検を行い,それでも診断ができなければ経皮肺生検を行う必要が 肺の末梢部にあることが画像所見により分かっていたから,気管支鏡検査の際に可視範囲に異常が見られなければ,エックス線透視下での経気管支肺生検を行い,それでも診断ができなければ経皮肺生検を行う必要があった。 しかし,被告病院担当医のD医師は,気管支鏡検査の際に可視範囲に異常が見られないとして生検を行わず,気管支擦過及び気管支肺胞洗浄を行ったのみでAを転院させてしまい,肺がん診断のための精密検査を完遂する義務を怠った。 この点,被告は,気管支肺胞洗浄液の抗酸菌塗抹検査において抗酸菌が検出されたことによりAの胸部異常陰影が結核によるものである可能性が高まり,院内感染防止のためやむを得ずAを結核病棟のある井田病院に転院させたのであって,それゆえ検査を継続できなかったものであると主張する。しかし,抗酸菌が検出されただけではそれが結核菌かどうかは分からないから,この段階で結核の感染防止のための転院措置を執る必要はない。また,喀痰ではなく気管支肺胞洗浄液から結核菌が検出されたにすぎない結核患者は感染源として扱う必要はなく,しかもAの場合ガフキー2号程度の少量の抗酸菌が検出されたにすぎないから,この点からいっても転院措置の必要はなかった。 したがって,D医師は,実施した気管支鏡検査の際に同時にエックス線透視下の経気管支肺生検までを行うか,又は,後日速やかに,自らエックス線透視下の経気管支肺生検を行い,更に必要があれば経皮肺生検を行うべきであった。 イ仮にAを転院させたことがやむを得ない措置であったとしても,D医師は,肺がんの精密検査が中途の段階にあり続行の必要があること等,転院先の医師において肺がんに対する配慮に欠けることのないよう適切に情報を提供すべき注意義務があった。 しかし,D医師は,Aを井田病院へ紹介する際に肺 中途の段階にあり続行の必要があること等,転院先の医師において肺がんに対する配慮に欠けることのないよう適切に情報を提供すべき注意義務があった。 しかし,D医師は,Aを井田病院へ紹介する際に肺がんの可能性への配慮を一切行わず,かえって,本件紹介状に「肺結核」という病名を記載し,井田病院の担当医に対してAの疾患が肺結核であるとの誤った情報を与えた。 さらに,D医師は,平成6年2月1日,被告病院における前記気管支肺胞洗浄液についての抗酸菌培養結果が陰性と判定されたことによりAの疾患が肺結核ではないことを明確に認識したのであるから,この検査結果を井田病院に通知すべき義務があったのに,これを怠った。 (2) 因果関係及び損害ア被告が,Aについて肺がんを念頭に置いた精密検査を自ら完遂し,又は井田病院に対して適切な情報提供を行っていれば,Aの肺がんはより早期に発見され,速やかに治療が行われたはずである。そして,平成6年3月9日に切除された肺の病理診断においてもリンパ節へのがんの転移や胸膜へのがん組織の露出が見られなかったことからすれば,より早期に摘出手術を行えば,Aの肺がんは根治できた可能性が相当に高かった。にもかかわらず,前記のD医師の過失によりAの肺がんの発見が遅れたため,手術によっても再発を防ぐことができず,同人は平成7年4月4日に死亡するに至った。 イ仮にD医師の過失とAの死亡との間に因果関係が認められないとしても,A及び原告らは,Aが被告病院において適切な検査及び処置を受けるという当然の期待を裏切られたものである。 ウ Aの死亡又は同人が被告病院において適切な検査及び処置を受けるという当然の期待を裏切られたことによってA及び原告らが受けた精神的苦痛を金銭的に評価すれば,それぞれ少なくとも875万円及び750 ウ Aの死亡又は同人が被告病院において適切な検査及び処置を受けるという当然の期待を裏切られたことによってA及び原告らが受けた精神的苦痛を金銭的に評価すれば,それぞれ少なくとも875万円及び750万円を下ることはない。 (3) 原告らの請求ア Aは,不法行為(使用者責任)に基づき,被告に対し875万円の損害賠償請求権を有していたところ,Aの死亡によって原告らは上記損害賠償請求権をそれぞれ2分の1の割合で相続により取得した。 イ原告らは,被告の原告らに対する不法行為(使用者責任)に基づき,それぞれ750万円の損害賠償請求権を有する。 ウよって,原告らは,被告に対し,それぞれ1187万5000円及びこれらに対するD医師の不法行為の日である平成5年11月15日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。 3 被告の主張(1) 被告病院においてAの肺がんの診断に必要な精密検査を完遂しなかったとの点についてア被告病院においては,気管支鏡検査室にエックス線透視装置を備えておらず,本件のような胸部異常陰影についての精密検査の手順としては,まず通常の気管支鏡検査を行い,その結果に応じて必要があれば次の段階としてエックス線透視下の気管支鏡検査を予定し,その際には改めて放射線科にある同装置を備えた部屋の使用を予約するとともに同検査に立ち会う人員の手配をした上でこれを実施していた。平成5年当時,気管支鏡検査室にエックス線透視装置を備えた医療機関は少なく,上記のような検査の進め方は,他の総合病院と比較しても一般的なものであった。しかも,胸部異常陰影から疑われる疾患は数種類に及ぶのであるから,これらの疾患全体を念頭に置きつつ疾患の除外及び特定を行うことが必要であって,そのような観点からすれば,まずは 般的なものであった。しかも,胸部異常陰影から疑われる疾患は数種類に及ぶのであるから,これらの疾患全体を念頭に置きつつ疾患の除外及び特定を行うことが必要であって,そのような観点からすれば,まずは可視範囲内の観察所見を得ることが精密検査として適切な手法である。 したがって,D医師がAについて気管支鏡検査を行った際に同時にエックス線透視下の経気管支肺生検も行うべき義務はなかった。 イ D医師が,Aに対する気管支鏡検査の後,Aを結核病棟のある井田病院へ転院させたことも適切な措置であって,引き続き自ら検査を行うまでの義務はなかった。 すなわち,胸部異常陰影を呈するAに対する気管支鏡検査の際に回収された気管支肺胞洗浄液から,その約8割程度が結核菌であることが知られている抗酸菌が検出されたことから,同人が結核菌に感染している疑いが高まった。そして,抗酸菌の同定のための培養検査には約8週間の期間を要したことに照らし,院内感染防止の観点からいって,Aを同定結果が出るまで結核病棟を有しない被告病院に滞在させておくことはできない状況であった。 ウなお,経皮肺生検は,経気管支肺生検に比べて患者の身体への負担や合併症の危険性が大きいから,通常は経気管支肺生検によって有意な結果が得られなかった場合に行うべきものであって,D医師がAを転院させた措置が適切であった以上,自らAに対し経皮肺生検を行わなければならない義務はなかった。 (2) 井田病院に対する情報提供が不十分であったとの点についてア本件紹介状は,呼吸器内科の専門医師にあてられたものである。そして,D医師は,本件紹介状の記載において,肺結核の病名とともに,被告病院での初診日及び診療をするに至った経緯,つまり胸部異常陰影が特に問題とされていることを明示した上,被告病院での気管支鏡検査に して,D医師は,本件紹介状の記載において,肺結核の病名とともに,被告病院での初診日及び診療をするに至った経緯,つまり胸部異常陰影が特に問題とされていることを明示した上,被告病院での気管支鏡検査において抗酸菌(ガフキー2号)が検出され,被告病院に結核病棟がないため井田病院での治療を願いたい旨を記載した。この記載は,呼吸器内科医として一般的に期待される知識及び経験を有する者にとって,Aの診断に関する客観的な状況,すなわち,被告病院において約2週間前に新患として受診を開始した当該患者に一般検査から順次検査等を進めていたところ気管支鏡検査の際に抗酸菌(ガフキー2号)が検出されたため,被告病院の院内感染防止対策や同患者についての結核予防法上の対応のためさしあたり肺結核の病名を付して紹介したものであること,それゆえ肺がんの可能性もいまだ排除された段階ではないことを容易に理解し得るものである。しかも,D医師は本件紹介状にAの胸部エックス線写真及びCT写真を添付しており,これらの画像及び異常陰影が前年に比して増大しているとの情報を検討すれば,肺がんの可能性についても配慮を要することが十分に認識され得るものである。 よって,Aの転院時においてD医師が行った井田病院に対する情報提供に不適切な点はない。 イ加えて,現実にも,井田病院の医師が転院時におけるAの診断の段階について誤解した事実はなかった。井田病院における各種書類の記載からは,E医師及びF医師はもちろん,同病院の看護婦らも,Aが同病院に紹介された経緯を正しく理解しており,被告病院において肺結核との確定診断がされた等の誤解をしてはいなかったことが伺われる。井田病院におけるAの主治医のF医師は,独自の判断に基づき,平成6年2月中旬までAについて肺結核の治療を継続したのである。 ウ 結核との確定診断がされた等の誤解をしてはいなかったことが伺われる。井田病院におけるAの主治医のF医師は,独自の判断に基づき,平成6年2月中旬までAについて肺結核の治療を継続したのである。 ウ Aの気管支肺胞洗浄液の抗酸菌培養検査の結果が陰性であったことは,単に何らかの原因で培地上に菌の集落が繁殖しなかったことを意味するにすぎず,塗抹検査で検出された抗酸菌が結核菌でなかったことを意味しないから,診断にとって重要な意味をもつ情報ではない。したがって,被告病院の医師には,井田病院側からの依頼もないのに進んで同病院へ培養陰性結果を通知すべき義務はない。 (3) Aの完治又は延命の可能性について平成6年3月9日に行われたAの手術の際には悪性胸水が見られたところ,仮に3か月程度早く手術が行われていたとしても,その時点においてすでに悪性胸水があった可能性が高く,完治又は延命の可能性は低かった。また,仮にこの時点において悪性胸水がなかったとしても,Aの肺がんの組織類型が低分化腺がんという予後の悪いのものであったことや,平成6年3月9日の時点で胸膜直下までがんが浸潤した状態であったことに鑑みれば,やはり完治又は延命は困難であったといわざるを得ない。 なお,原告は,適切な検査及び処置を受けることについての期待権を侵害されたとも主張するが,前記のとおりそもそも延命が困難であったことに照らせば,上記期待権の侵害は成立しない。 第3 当裁判所の判断 1 原告ら主張のD医師の各過失について検討する。 (1) D医師が,胸部異常陰影を呈するAに対する気管支鏡検査の際に,可視範囲の観察,気管支擦過及び気管支肺胞洗浄を行ったのみで,エックス線透視下の検査は行わなかったことについてア被告病院における気管支鏡検査当時のAの胸部写真の所見等か る気管支鏡検査の際に,可視範囲の観察,気管支擦過及び気管支肺胞洗浄を行ったのみで,エックス線透視下の検査は行わなかったことについてア被告病院における気管支鏡検査当時のAの胸部写真の所見等からすれば,同人の疾患として末梢型の肺がんが相当程度疑われる状況であった(疑いの程度を除いては争いがない。)。そして,病巣が肺の末梢部にあることから,気管支鏡の可視範囲内には病巣が確認できないことも予想され得た【鑑定の結果】。 気管支鏡によって腫瘍を直接観察できない末梢型肺がんの確定診断のためには,エックス線透視で病巣を確認しながら行う経気管支肺生検又は擦過細胞診が有益である【乙24の4,鑑定の結果,弁論の全趣旨】。そして,最初の気管支鏡検査の際にエックス線透視下での経気管支的な検査も同時に行えば,後日改めてエックス線透視下の検査を行う場合よりも患者の負担はより軽くなると考えられるから,胸部異常陰影を呈する病巣が肺がんであるかどうかを確定するという観点のみからすると,最初の気管支鏡検査の際にエックス線透視下の検査も同時に行うことが有利であるといえる。 イしかし,胸部異常陰影に対する精密検査は,肺がんのみならず,有意な可能性のある疾患のすべてを想定して行うべきものであるし,肺がんの場合を含め,胸部写真に現れている病巣が気管支鏡の可視範囲内に確認できなかったとしても,可視範囲内における気管支病変や気管支壁外からの圧排等の有無及び状況について確認しておくことは,診断及び治療にとって有益である。ところが,気道の局所麻酔が有効である時間は通常1時間程度であるため,エックス線透視下の検査を同時に行った場合,可視範囲の検査の時間は有意な制約を受けることになる。【鑑定の結果】ウそうすると,胸部異常陰影に対する精密検査の手順として,最初の気管 度であるため,エックス線透視下の検査を同時に行った場合,可視範囲の検査の時間は有意な制約を受けることになる。【鑑定の結果】ウそうすると,胸部異常陰影に対する精密検査の手順として,最初の気管支鏡検査の際には可視範囲の観察,気管支擦過及び気管支肺胞洗浄を行うこととし,その結果に応じて必要があれば後日エックス線透視下の検査を行うとする判断も,医師の合理的な裁量の範囲内にあるといえる。 よって,D医師が,Aの気管支鏡検査の際に行った検査を可視範囲の観察,気管支擦過及び気管支肺胞洗浄にとどめたことに過失があるとはいえない。 (2) D医師が,前記気管支鏡検査の際に採取された気管支肺胞洗浄液から抗酸菌(ガフキー2号)が検出された段階でAを結核病棟のある井田病院に転院させ,その後更なる精密検査を行わなかったことについてア原告らは,抗酸菌が検出された段階ではそれが結核菌かどうかは不明であるから院内感染防止措置は不要であると主張する。 しかし,抗酸菌のうち約8割程度が結核菌であるとされているところ,平成5年当時に抗酸菌の同定方法として確立されていた検査方法である培養検査【弁論の全趣旨】の最終結果を得るためには最大で約8週間の期間を要するのであるから,結核菌かどうかの判定を待たずに院内感染防止のための措置を執ることは合理的であるといえる。原告らの上記主張は採用することができない。 イまた,原告は,結核菌が患者の喀痰ではなく気管支肺胞洗浄液から検出されたにすぎない場合は当該患者を感染源として扱う必要はないとも主張する。 この点,甲7号証によれば,結核患者の家族等,患者に接触した者に対する検診の必要性について,当該患者の喀痰中の結核菌が塗抹陽性の場合に限られるとするのが一般的見解であることが認められる。 しか の点,甲7号証によれば,結核患者の家族等,患者に接触した者に対する検診の必要性について,当該患者の喀痰中の結核菌が塗抹陽性の場合に限られるとするのが一般的見解であることが認められる。 しかし,このことは,気管支洗浄液から結核菌が検出された患者の感染力が日常生活において当該患者に接触した者に対する検診の必要性を生じさせる程度には達しないとされていることを意味するにすぎず,免疫力が弱く容易に細菌に感染する可能性のある者(血液疾患患者,抗がん剤の投与を受けている患者,高齢者及び乳幼児等)が多く収容されている上,外気の流入が少なく空気循環が閉鎖的である病棟内における院内感染のおそれのある場合をこれと同列に論じることはできない。そして,平成5年当時,気管支洗浄液から結核菌が検出された患者の感染力が院内感染対策上も無視できる程度に低いという医学上の一般的見解があったことの主張及び立証もない。 そうすると,D医師が,胸部異常陰影を呈する患者であるAの気管支洗浄液から抗酸菌が検出された段階で,同人からの結核の感染可能性が院内感染対策上無視できないと判断し,同人を結核病棟のある井田病院へ転院させたことは,合理的裁量の範囲内の行為であるといえる。 ウ以上によれば,D医師が,前記気管支鏡検査の際に採取された気管支肺胞洗浄液から抗酸菌(ガフキー2号)が検出された段階でAを結核病棟のある井田病院に転院させ,その後更なる精密検査を行わなかったことについて,過失があるとはいえない。 (3) D医師が本件紹介状に肺がんの疑い又は肺がんについての継続検査の依頼を記載しなかったことについてア本件紹介状の記載に過失がある,すなわちD医師が本件紹介状に肺がんの疑い又は肺がんについての継続検査の依頼を記載すべき義務があったというためには,そのよ の依頼を記載しなかったことについてア本件紹介状の記載に過失がある,すなわちD医師が本件紹介状に肺がんの疑い又は肺がんについての継続検査の依頼を記載すべき義務があったというためには,そのような記載をしないと,Aの生命身体を侵害することとなる,すなわち井田病院におけるAの肺がんの診断を遅らせることとなる相当程度の蓋然性を有するものと認められることが必要であるというべきである。 イ本件紹介状の記載からは,呼吸器内科専門医として一般的に期待される知識及び経験を有する者にとって,本件患者が平成5年11月1日から被告病院の診療を受けていたものであること,被告病院受診の目的がエックス線写真における胸部異常陰影についての精密検査であったこと,エックス線写真上の異常陰影が約10か月前に比して拡大していること,被告病院において気管支鏡検査を行ったこと,その際に抗酸菌(ガフキー2号)が検出されたこと,いまだ結核菌の同定はされていないこと,及び被告病院に結核病棟がないことが井田病院に対する紹介の動機であることを読み取ることができる【乙1,証人F,弁論の全趣旨】。加えて,傷病名欄に「肺結核」と記載されていることからは,被告病院担当医がAの胸部異常陰影の原因として肺結核の可能性が最も高いと判断したものと理解するのが通常であるといえる。 ウところで,一般に,患者の紹介を受けた医師は,当該患者に対する診断について,紹介をした医師の主観的判断をそのまま自己の判断とするとは通常考えられず,紹介状の記載や自らの診察等によって得られる患者の状態についての客観的な情報によって改めて診断を行うことが当然に期待される。 本件においては,Aの診療を担当する井田病院の医師において,Aが被告病院を受診するに至った経緯及び被告病院における抗酸菌検出の事実を本件紹 情報によって改めて診断を行うことが当然に期待される。 本件においては,Aの診療を担当する井田病院の医師において,Aが被告病院を受診するに至った経緯及び被告病院における抗酸菌検出の事実を本件紹介状の記載により確認するとともに,本件紹介状に指摘のあるエックス線写真及びCT写真を確認するか又は自ら撮影して検討することが通常の対応として期待される。そして,呼吸器内科の専門医としての一般水準を満たす医師がこのような確認作業を行えば,Aの疾患について肺がんの可能性もあることが容易に理解され得る状況であったものと認められる。 エ以上に照らすと,D医師が本件紹介状に肺がんの疑い又は肺がんについての精密検査継続の依頼について記載しなかったことが井田病院におけるAの肺がんの診断を遅らせることとなる相当程度の蓋然性を有するものとは認められず,そのような記載をすべき義務まではなかったものということができる。したがって,D医師による本件紹介状の記載に過失があったとは認められない。 オ実際にも,井田病院において外来初診時にAを診察したE医師は,診療録に「悪性につきデータを労災よりもらう」と記載しており(「悪性」が肺がんを意味することについては争いがない。),同医師が肺がんの可能性を考慮し,その診断に有益な検査結果等の情報を被告病院に照会すべきであると考えたことが推認される。 なお,F医師は,入院時の診療録に「悪性が疑われ気管支鏡」と記載しているところ,同医師が直ちに気管支鏡検査を実施していないことからは,当該記載は,肺がんが疑われるから気管支鏡検査を実施すべきであるとの趣旨ではなく,被告病院において肺がんを疑って気管支鏡検査を行ったとの趣旨であると推認するのが自然である。そして,同医師が,被告病院において行った気管支鏡検査の際にエックス 査を実施すべきであるとの趣旨ではなく,被告病院において肺がんを疑って気管支鏡検査を行ったとの趣旨であると推認するのが自然である。そして,同医師が,被告病院において行った気管支鏡検査の際にエックス線透視下の検査まで行ったものと誤解した,すなわち被告病院における肺がんの除外診断の程度について誤解した可能性は否定できない(証人Fの証言には,これに沿うかのような部分がある。)。そうすると,被告病院で肺がんを疑って気管支鏡検査を行った上で結核と診断されたのであるから肺がんの可能性は極めて低いであろうと判断したことが,同医師が平成6年2月に至るまでAについて肺がんを念頭に置いた精密検査を行わなかったことの一因である可能性はある。そして,本件紹介状に肺がんの疑い又は肺がんについての精密検査の依頼が記載されていれば,前記のような誤解を避けられたかもしれないとはいえる。しかし,仮にそうであるとしても,そのような誤解が本件紹介状の記載から相当程度の蓋然性をもって導かれるものとはいえないから,D医師による本件紹介状の記載に過失はないとの前記判断を左右するものではない。 カなお,鑑定の結果によれば,本件紹介状の記載の意味内容は,「気管支鏡下洗浄でガフキー2号を認め肺結核と診断しましたが,当院は結核病棟がないため貴院での治療をお願いします。」というものであり,これを受け取った側は「では結核の治療を始めよう。」と考えてしまうであろうから,本件紹介状の記載は不適切であるとされている。 確かに,本件紹介状を受け取った医師がそのような判断をする可能性が全くないとはいえず,その意味で,本件紹介状の記載は最善の方法ではなかったということもできる。 しかし,結核の可能性が最も大きいという前担当医の判断を信頼して直ちにそのための治療を開始することと,な とはいえず,その意味で,本件紹介状の記載は最善の方法ではなかったということもできる。 しかし,結核の可能性が最も大きいという前担当医の判断を信頼して直ちにそのための治療を開始することと,なお肺がんの可能性を考慮して精査を継続することは十分に両立するものであり,このような姿勢こそ,患者を引き継いだ医師に通常期待されるものというべきである。そうすると,本件紹介状の記載方法が最善のものとはいえないからといって,D医師による本件紹介状の記載に過失はないとの前記判断を左右するものではない。鑑定の結果のうち,これに反する部分は採用することができない。鑑定理由は,患者を受け取った側の医師に通常期待される行為についての考慮に欠ける嫌いがある。 (4) D医師が抗酸菌培養検査の陰性結果を井田病院に通知しなかったことについて抗酸菌培養検査の陰性結果は,培地上に抗酸菌が繁殖しなかったとの意味である(争いがない)。同一の検体において塗抹陽性培養陰性となる原因としては,塗抹検査における陽性結果が検査器具の汚染等によるものであって本来の検体に抗酸菌が含まれていなかったことも可能性としてあり得るが,検体に含まれた抗酸菌が死菌又は活力の弱い菌であったこと,検査の過程で他の雑菌の処理がうまく行かずその影響を受けて抗酸菌が繁殖しなかったこと等も十分考えられる【甲1,証人F】。したがって,培養検査の陰性結果は塗抹検査の陽性結果と矛盾するものではないし,患者が結核菌に感染していないとの診断に直ちにつながるものでもない。 そうすると,被告病院において抗酸菌培養検査の結果が陰性と判断されたことは,Aの疾患の診断に対して重要な意味を持つとはいえない。しかも,被告病院において気管支洗浄液の抗酸菌培養検査を行っていることは,井田病院の医師においても容易に推 養検査の結果が陰性と判断されたことは,Aの疾患の診断に対して重要な意味を持つとはいえない。しかも,被告病院において気管支洗浄液の抗酸菌培養検査を行っていることは,井田病院の医師においても容易に推測し得たはずであるから,井田病院における診療の状況に応じて必要があればその結果を被告病院に照会することもできたのであって,患者を紹介した側の医師としてはむしろこのような照会を待ってから検査結果を通知するのが通常の態度であるといえる。 したがって,D医師に抗酸菌培養検査の陰性結果を井田病院に対して自発的に通知すべき義務があったとはいえず,同人がこれを行わなかったことについて過失があるとはいえない。 2 結論原告らの請求は,その余の点につき判断するまでもなく,いずれも理由がない。 東京地方裁判所民事第45部裁判長裁判官春日通良裁判官岸日出夫裁判官塚田奈保

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