平成14(行ウ)2 退去強制令書発布処分取消等請求

裁判年月日・裁判所
平成16年2月26日 東京地方裁判所
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判決文本文59,031 文字)

平成16年2月26日判決言渡平成14年(行ウ)第2号退去強制令書発付処分取消請求(追加的併合)事件(以下「第1事件」という。)平成14年(行ウ)第88号難民の認定をしない処分無効確認等請求事件(以下「第2事件」という。)平成14年(行ウ)第90号裁決取消請求(追加的併合)事件(以下「第3事件」という。)口頭弁論終結日平成15年11月17日判決当事者の表示別紙当事者目録記載のとおり 主文 1 原告の被告法務大臣が原告に対し平成13年12月27日付けでした裁決の取消しを求める訴えを却下する。 2 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした難民の認定をしない処分が無効であることを確認する。 3 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年12月27日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。 4 訴訟費用は被告らの負担とする。 事実及び理由 第1 請求 1 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対してした退去強制令書発付処分を取り消す。 2 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。 3 (主位的請求)被告法務大臣が原告に対して行った難民の認定をしない処分が無効であることを確認する。 (予備的請求)被告法務大臣が原告に対して行った難民の認定をしない処分を取り消す。 第2 事案の概要原告は、平成13年7月ころ、本邦に不法入国した者であるところ、同年10月3日、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)の違反調査を受け、同月23日に出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)24条1号に該当する旨の認定がされ、同年11月8日に同認定に誤りがない旨が判定されたため、同日被告法務大臣に対し、異議の申出をしたが、同年12月27日、 入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)24条1号に該当する旨の認定がされ、同年11月8日に同認定に誤りがない旨が判定されたため、同日被告法務大臣に対し、異議の申出をしたが、同年12月27日、被告法務大臣は、上記異議の申出に理由がない旨の裁決をし(以下「本件裁決」という。)、被告東京入管主任審査官(以下「審査官」という。)は、同日、原告に対し、退去強制令書(以下「退令」という。)を発付した(以下「本件退令発付処分」という。)。また、原告は、平成13年8月27日、難民認定申請をしたところ、被告法務大臣は、同年11月20日、原告について難民の認定をしない旨の処分をした(以下「本件不認定処分」といい、本件裁決、本件退令発付処分と合わせて「本件各処分」という。)。 本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、本件各処分当時、アフガニスタンにおいて、タリバン勢力から迫害を受けていたから難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)上の難民に該当する等と主張して、本件裁決及び本件退令発付処分について取消しを、本件不認定処分について主位的に無効確認、予備的に取消しを求めるものである。 1 前提となる事実(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いのない事実か、弁論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)(1) 原告は、1974(昭和49)年1月20日に出生した、アフガニスタン国籍を有するイスラム教シーア派に属するハザラ人である(甲1の10、乙7の1)。 (2) 原告は、平成13年7月ころ、船籍船名不詳の貨物船で横浜港に入り、本邦に不法入国し、本邦入国後、千葉県佐倉市ab番地の自動車解体現場敷地内に居住している。 (3) 原告は、平成13年8月22日、千葉県佐倉市長に対し、同市b番を居住地として外国人登録の新規登録申請 邦に不法入国し、本邦入国後、千葉県佐倉市ab番地の自動車解体現場敷地内に居住している。 (3) 原告は、平成13年8月22日、千葉県佐倉市長に対し、同市b番を居住地として外国人登録の新規登録申請をした。 (4) 原告は、平成13年8月27日、東京入管において、被告法務大臣に対し、難民認定申請をした(以下「本件難民申請」という。)。 (5) 東京入管入国警備官は、平成13年10月3日、原告について、違反調査を実施し、原告が法24条1号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、被告審査官から収容令書(以下「本件収令」という。)の発付を受けた(乙7の1ないし7の3、乙9)。 なお、原告は、同月19日、当庁に収容令書発付処分の取消しを求める訴えを提起したが(当庁平成13年(行ウ)第287号事件)、平成14年9月25日、この訴えを取り下げた。 (6) 東京入管入国警備官は、平成13年10月22日及び同年11月7日、原告について、違反調査を実施した(乙7の4、7の5)。 (7) 東京入管入国審査官は、平成13年10月5日、同月17日及び同月23日、原告について、違反審査を実施し(乙11の1ないし11の3)、同日、原告が法24条1号に該当する旨を認定し(乙12)、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、東京入管特別審理官に対し、口頭審理を請求した。 (8) 東京入管特別審理官は、平成13年11月8日、B弁護士の同席の下で原告について口頭審理を実施し(乙13)、入国審査官の上記認定に誤りがない旨を判定したところ(乙14)、原告は、同日、被告法務大臣に対し異議の申出をした(以下「本件異議申出」という。乙15)。 (9) 被告法務大臣は、平成13年11月20日、原告からの本件難民申請について、不認定とする旨の本件不認定処分をしたところ(乙17)、原告は 議の申出をした(以下「本件異議申出」という。乙15)。 (9) 被告法務大臣は、平成13年11月20日、原告からの本件難民申請について、不認定とする旨の本件不認定処分をしたところ(乙17)、原告は、同月30日、同被告に対し、異議の申出をした。 (10) 被告法務大臣は、平成13年12月27日、本件異議の申出について理由がない旨の本件裁決をし(乙19)、被告審査官は、同日、原告に本件裁決を告知するとともに(乙20)、本件退令発付処分をした(乙21)。 (11) 原告は、平成14年1月4日、被告審査官に対し、本件退令発付処分の取消しを求める訴え(第1事件)を提起し、同年2月25日、被告法務大臣に対し、主位的に本件不認定処分の無効確認を、予備的にその取消しを求める訴え(第2事件)及び本件裁決の取消しを求める訴え(第3事件)を提起した。 2 争点及び争点に関する当事者の主張本件の争点は、本件各処分の適法性であり、その内容は原告の難民該当性である。なお、原告は、従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、第3準備書面において、主要な争点は原告の条約難民該当性の有無であることを主張し、平成13年1月30日付け意見書において、手続的瑕疵等の諸問題については主要争点と捉えていない旨を、同年2月13日付け意見書において、原告の難民該当性以外の争点については、第一審において争わない旨を重ねて明らかにした上、本件第10回口頭弁論期日において、「(処分の手続的瑕疵について言及した)第12準備書面は、本件処分の手続違反の主張をするものではない」旨を陳述したことが、当裁判所に明らかである。 (1) 被告らの主張ア本件不認定処分の適法性について原告は、「人種」及び「宗教」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそれがあり、国籍国の保護を受けることができないとして本件 に明らかである。 (1) 被告らの主張ア本件不認定処分の適法性について原告は、「人種」及び「宗教」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそれがあり、国籍国の保護を受けることができないとして本件不認定処分の取消しを求めているが、原告の主張は、以下のとおり理由がない。 (ア) 難民、迫害の意義について法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされている。そして、その「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要である(東京地裁平成元年7月5日判決・行裁例集40巻7号913頁、東京高裁平成2年3月26日判決・行裁例集41巻3号757頁)。 ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認定は、上記難民の定 裁平成元年7月5日判決・行裁例集40巻7号913頁、東京高裁平成2年3月26日判決・行裁例集41巻3号757頁)。 ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認定は、上記難民の定義に照らし、申請者各人につき、その申請内容の信ぴょう性等も吟味し、各人の個別の事情に基づいてされるべきであるところ、難民であることの立証責任は、申請者が負うべきである。つまり、いかなる手続を経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条約に規定がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我が国においては、法61条の2第1項において、被告法務大臣は、申請者の「提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定を行うことができる」と規定し、法61条の2の3において、被告法務大臣は、申請者により「提出された資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又は取消しに関する処分を行うため必要がある場合には、難民調査官に事実の調査をさせることができる」と規定していることからも明らかなとおり、難民認定申請者が、まず自ら条約に列挙された事由を理由として迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情があり、かつ、通常人が当該人の立場におかれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在していることを認めるに足りるだけの資料を提出することが求められている。外国人である申請人が難民であるか否かを判断する資料を、我が国が有権的に当然に把握できるものではない。 (イ) シーア派・ハザラ人に属することのみをもって、難民該当性が認められることがないことa ラバニ政権成立(1992(平成4)年)以降のアフガニスタンにおいて、ハザラ人を基盤とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イスラム統一党マザリー派 、難民該当性が認められることがないことa ラバニ政権成立(1992(平成4)年)以降のアフガニスタンにおいて、ハザラ人を基盤とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イスラム統一党マザリー派(ハリリ派)、同アクバリー派、イスラム運動、イスラム国民運動党、タリバンがある。そして、各グループは、それぞれ複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、タリバン台頭以前のアフガニスタン情勢は、ラバニ大統領派とヘクマティール首相派の双方にハザラ人を主体とするグループとパシュトゥーン人を主体とするグループの双方が属し、ハザラ人同士、パシュトゥーン人同士の抗争を含め複雑多岐にわたる抗争関係が存在しており、アフガニスタン全土が混沌とした内戦状態だったものであるから、特定の民族や集団について、常に当該民族や集団等が一方的に被害者であった等と断じることはできない。 b 次に、タリバン台頭後のアフガニスタンに関しても、シーア派・ハザラ人であることのみで難民該当性が認められるものではない。 すなわち、被告提出の書証(乙29、142、143、147)等に記載されているとおり、タリバン政権下において発生した人権侵犯の主要な要因は、宗教的又は民族的特性というよりも、むしろタリバンに対し、軍事的又は政治的に対立する者であったか又はそのように解されたことによると評価することが適当である。 そして、タリバンが、ハザラ人を迫害の対象とすることを意図する旨の公式見解を出したとの報告はいかなる国際機関等からも示されていない(乙29、142、143)。さらに、タリバンは、パシュトゥーン人全体を代表するものでもないのであって(乙138、144、145)、タリバンと対峙する北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシュトゥーン人がいたという事実からは、むしろ、タリバンと北部同盟との間の対 全体を代表するものでもないのであって(乙138、144、145)、タリバンと対峙する北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシュトゥーン人がいたという事実からは、むしろ、タリバンと北部同盟との間の対立構造が、宗教的又は民族的背景によるものというよりは、むしろ軍事的又は政治的な背景によるものであったことをうかがわせるものである。 c 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等における虐殺事件を指摘するが、これらについては、虐殺された被害者の数やその実態等について判然としない上、これらの虐殺は、北部同盟との戦闘地域に集中しており、両陣営の軍事衝突に伴い互いの報復行為として行われた側面が強いものといえる(乙139、142)。 d 諸外国政府においても、およそハザラ人に属することのみをもって難民認定を行うといった取扱いは行われておらず、申請者の迫害に係る個別の具体的事情等を考慮した上で難民認定の可否が判断されている(乙146の1ないし6)。 (ウ) 原告が迫害されたとする事実は客観的事実に反することa 原告は、2001(平成13)年にアフガニスタンのlにおいてタリバンに捕まったことを挙げる。 原告の供述によれば、タリバンに捕まった時期について、陳述書(甲4)、原告本人尋問第1日目においては同年3月か4月とするものの、平成15年7月23日に実施された原告本人尋問第3日目においては、あいまいな供述を繰り返しており、これらの供述をまとめると、原告は、2000(平成12)年11月7日に本邦を出国してからドバイ及びペシャワールに1、2か月滞在し、同年12月末から2001(平成13)年1月初めの間にlに戻り、そこで2か月か4か月暮らした後タリバンに捕まったことになる。 しかしながら、在ドバイの日本国総領事館に提出された査証申請書(乙16 し、同年12月末から2001(平成13)年1月初めの間にlに戻り、そこで2か月か4か月暮らした後タリバンに捕まったことになる。 しかしながら、在ドバイの日本国総領事館に提出された査証申請書(乙160)、同申請書に添付された原告名義の旅券に貼付されたUAE滞在査証の記載と、原告本人の供述を合わせると、原告は、同滞在査証の発行日である2001(平成13)年3月13日ころまでの間にUAEにおいて査証申請を行っていたことが推認され、上記供述と矛盾することとなる。この点について、原告は合理的な説明をしていない上、UAEの滞在査証更新の事実について、原告が本人尋問第3日目に至るまで供述していなかった点等を合わせると、原告のこの点の供述を信用することはできない。 b 次に、原告は、1998(平成10)年8月、マザリシャリフにタリバンが攻めてきた1週間後にタリバンに拘束されたが、1週間後に逃げ出すことができ、友人や親戚の家を1か月ほど渡り歩いた後、アフガニスタンからパキスタンに出国した旨を主張する。そうすると、原告がパキスタンに出国した時期は、早くとも同年9月20日ころとなるはずである。 しかしながら、原告は、1998(平成10)年8月27日付けでアラブ首長国連邦(以下「UAE」という。)の在ドバイ日本総領事発行の渡航証明書を取得しており(乙157)、原告が自ら査証を取得したことを認めていること(原告本人3日目23ないし26項)からすると、原告がタリバンに拘束され、逃れた時期にはUAEにいたことになるはずである。この点に関する原告の供述や、その変遷に照らせば、原告のこの主張を信用することはできない。 (エ) 原告の供述に不自然な変遷が認められることa 原告は、とりわけ本人尋問第3日目において、迫害の事実に関する質問に対し、全体としてあいまいな供述に 、原告のこの主張を信用することはできない。 (エ) 原告の供述に不自然な変遷が認められることa 原告は、とりわけ本人尋問第3日目において、迫害の事実に関する質問に対し、全体としてあいまいな供述に終始し、従前の供述が客観的事実と矛盾することを指摘されると、はぐらかして回答する(同65項等)等した。そして、原告の陳述書(甲4)の内容と本人尋問の回答が齟齬する点を指摘されると、陳述書の内容や従前の供述は通訳の誤りであること等を供述した。 b さらに、原告は、原告と同一場所で摘発された訴外C(以下「C」という。)との兄弟関係の有無について、原告本人尋問第1日目で問われた際には親戚である可能性を否定していたものの、DNA鑑定の結果が出た後になって、前記本人尋問の際にも、親戚であると供述した等と述べており、原告の供述には不自然な変遷が見られ、全体として信用することはできない。 (オ) 原告の真の目的は不法就労であることa 原告は、アル・アマナ社の取締役であり(乙149添付資料1及び3)、1995(平成7)年1月22日の入国を初めとして、今回の入国までに計6回の入国歴があり、そのいずれも渡航目的を「Business」としている(乙148)。そして、原告がタリバンから迫害されたとする1998(平成10)年8月のマザリシャリフへのタリバン侵攻の後にも4度にわたり本邦に入国するものの、この間、一時庇護を求めたり、難民認定申請をすることなく本邦に滞在しているのであるから、原告には、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖があったとは到底考えられない。 b 原告は、本邦滞在期間中、一貫して中古車部品取引に専念し、現在も継続しているのであり、結局原告の真の目的は本邦での不法就労活動にあったというほかない。 (カ) 本件が組織的背景を有する不法入国 b 原告は、本邦滞在期間中、一貫して中古車部品取引に専念し、現在も継続しているのであり、結局原告の真の目的は本邦での不法就労活動にあったというほかない。 (カ) 本件が組織的背景を有する不法入国事案であることa 原告は、C及びD(以下「D」という。)と同一場所で摘発されており、Cについては、アル・アマナ社の従業員であるEと同一人であるほか(乙161)、原告と兄弟関係にあることも判明しており、同様にDについては、アル・アマナ社の従業員であるFと同一人であることが判明している(乙162)。そして、そもそも原告は、アル・アマナ社において取締役であって、社員に対して身元保証書を発行できる立場にあり、原告とC及びDは、過去の本邦入国時の外国人登録上の居住地及び本邦に在留していた時期が重なること(原告本人2日目211、234項、乙152の1)、Cの査証申請の際、原告が2度にわたり身元保証書に署名していること(原告本人2日目204ないし208項、乙164)から、原告が本邦入国前に両名と面識を有していたことは明らかである。 b 原告は2001(平成13)年3月19日付けで(乙160)、Cは同年1月16日付けで(乙115の1)、Dは2000(平成12)年10月2日付けで(乙154)、それぞれ査証申請をしたものの、いずれも査証が発給されなかったため、本邦における中古自動車部品販売に関する業務遂行は困難となった。そのため、原告、C及びDは、難民認定されることにより従前どおりの業務を遂行しようと考え、難民認定され易いように、不法入国が組織的、集団的なものであることを隠蔽する必要から、原告、C及びDの3名が親戚関係にあること、同一会社に属していること等を秘匿し、C及びDは、過去の入国歴を隠蔽するため偽名を使用し、それぞれ難民認定申請したものである。 c とを隠蔽する必要から、原告、C及びDの3名が親戚関係にあること、同一会社に属していること等を秘匿し、C及びDは、過去の入国歴を隠蔽するため偽名を使用し、それぞれ難民認定申請したものである。 c そして、原告を含む中古自動車販売業に係わる一定のアフガニスタン人が難民認定申請をするに当たり、G(以下「G」という。)が不可欠の役割を果たしたことは、同人の証人尋問の結果等から明らかである。なお、Cは、原告との兄弟関係についてDNA鑑定のため検体を採取した後、急遽本国に帰国した旨を述べ、鑑定結果が明らかになる以前に本国に帰国し(乙134、135)、Dは、原告との血縁関係について被告らが鑑定申出書を提出した後、訴えを取り下げて帰国した(乙170の1ないし178)。 (キ) 以上によれば、原告が迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するとは到底認めることができないから、本件不認定処分は適法にされたものというべきである。 イ本件裁決の適法性について原告は、2001(平成13)年7月初めころ、釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発し、横浜港に到着して本邦に不法入国した者であり(乙7の1及び2)、法24条1号所定の退去強制事由に該当すると認められ、特別審理官の判定には何らの誤りもない。 そして、原告が難民に該当しないことは、前記アのとおりであり、その他に原告に対し在留特別許可を付与するか否かの判断において格別積極的に斟酌しなければならない事情は見当たらず、アフガニスタンにおいては、避難民の帰還が進んでおり、原告が本国に帰国して生活することに支障はないから、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量権を逸脱濫用した違法があるということはできない。 ウ本件退令発付処分の適法性について退去強制手続において、法務大臣から「異議の 障はないから、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量権を逸脱濫用した違法があるということはできない。 ウ本件退令発付処分の適法性について退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであって、退去強制令書を発付するにつき裁量の余地はないから、本件裁決が適法である以上、本件退令発付処分も当然に適法であるというべきである。 エ以上のとおり、本件不認定処分、本件裁決、本件退令発付処分はいずれも適法であるから、原告の各請求はいずれも棄却されるべきである。 (2) 原告の主張被告法務大臣は、原告が難民であるにもかかわらず、原告のした難民認定申請を認めなかったのであるから、本件不認定処分は違法なものであって、無効又は取り消されるべきである。また、被告法務大臣は、原告の法49条1項の異議の申出に対して、在留特別許可を認めずに異議の申出に理由がない旨の本件裁決をしたが、原告の難民該当性を看過した同被告の判断には重大かつ根本的な事実誤認による裁量権の逸脱があって、本件裁決は違法であるから、本件裁決は取り消されるべきである。さらに、本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとする点で、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反しており、被告審査官独自の裁量権についても濫用があり違法なものであるから、取り消されるべきである。 ア難民認定の際の立証基準の解釈の在り方(ア) 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民として認定することが義務付けられているから、いかなる者が難民として認定されるべきかは、難民条約の規定及び解釈により決せられるべき ア) 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民として認定することが義務付けられているから、いかなる者が難民として認定されるべきかは、難民条約の規定及び解釈により決せられるべきである。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的安定性の確保という一般の争訟の目的と異なること、難民認定制度は、証明対象を一般の争訟手続と異にすること、判断の誤りにより侵害される法益は重大であり、事後回復が不可能であることからすれば、難民認定手続における立証基準は、これまでの同手続の実務において形成されてきた様々なルール(例えば、後記の供述の信ぴょう性に関する議論や、灰色の利益のルール等)に共通する「難民の可能性のある者の取りこぼしをせず、できるだけ広く保護の網をかぶせる」という姿勢を念頭において検討されるべきである。 (イ) 上記を前提とすると、難民条約締結国における判例で示された解釈も、難民認定手続における立証の在り方を考える重要な手がかりとなる。そして、アメリカ合衆国においては、「十分に理由のある恐怖」については、迫害を受ける可能性が50パーセント以下であっても、その者が抱く恐怖には十分に理由があるといえると判断されている(カルドサ・フォンセカ事件に関する1987年連邦最高裁判所判決)。また、カナダにおいては、同文言の解釈に際しては、迫害を受ける合理的見込み、あるいはそう信じる十分な基盤があれば足りる旨が示されている(アジェイ事件に関する1989年1月27日ブリティッシュコロンビア州バンクーバー連邦控訴裁判所判決)。さらに、英国においても、同文言は、客観的な状況ではなく本人の立場に立った状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴァクラマン事件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいても、迫害発 文言は、客観的な状況ではなく本人の立場に立った状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴァクラマン事件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいても、迫害発生率がたとえ50パーセント以下であっても十分に理由のある恐怖になり得ることが明らかにされている(チャン事件における1989年最高裁判所判決、オーストラリア難民再審査委員会1995年8月11日決定及び同委員会1997年9月17日決定等)。 このように、諸外国の判例等は、「十分に理由のある恐怖」の立証について、極めて緩やかな判断基準を用いている。 (ウ) 以上の検討によれば、「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、主観的な恐怖に十分な理由があることであり、十分な理由とは、当該申請者がおかれた状況に合理的な勇気を有する者が立ったときに、帰国したら迫害を受けるかもしれないと感じ、国籍国への帰国をためらうであろうと評価し得る場合を指すものというべきである。 イ難民認定における信ぴょう性判断の在り方について(ア) 難民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や種々の要因(例えば、証拠収集が困難であるという物理的要因、申請者の心的ストレスによる記憶の変容等の心理的要因、言語的障害等の文化的要因、対審構造が取られていないことに由来する構造的要因)等にかんがみ、慎重な検討が必要である。 (イ) したがって、難民認定手続に際しては、証拠の一部が信ぴょう性に欠けるとしても全ての証拠を検証すべきであり、信ぴょう性を否定する場合には、合理的な理由に基づかなければならない。また、申請者の供述に一貫性や誠実性が認められる場合には、補強証拠がなくとも信ぴょう性を認めるべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容の変遷等があってもそれを絶 づかなければならない。また、申請者の供述に一貫性や誠実性が認められる場合には、補強証拠がなくとも信ぴょう性を認めるべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容の変遷等があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう性が見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認定される可能性があるというべきである。 (ウ) さらに、前記(ア)の特殊性にかんがみれば、難民認定に際しては、「疑わしきは申請者の利益に」という原則(いわゆる「灰色の利益」の原則)が妥当するというべきであり、同原則は、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア等の実務・判例で採用されている。 (エ) そして、以上のような信ぴょう性判断の在り方は、難民認定行為をする機関のみにとどまらず、その処分の妥当性を判断する裁判所にも妥当するものである。 ウアフガニスタン一般情勢について(ア) ハザラ人は、2300年以上前から現在のアフガニスタン地域に居住する先住民族であり、1880年代までは現在のアフガニスタン中央部に広がるハザラジャットという山岳地帯で完全な自治を確立していたものの、1890年代に王位についたパシュトゥーン人の王によって決定的な変容を迫られ、以後3回にわたり反乱を起こすも失敗に終わり、それ以降ハザラ人は社会的、経済的に社会の最下層として差別を受けている。 (イ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は様々な政党を結成し、連合、解散を繰り返して来たが、1890年代に入り、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。しかし、ヘズベ・ワハダット党は、ナジブラ政権崩壊後に成立した暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構成されたため、結局のところシーア派ハザラ人 て結束した。しかし、ヘズベ・ワハダット党は、ナジブラ政権崩壊後に成立した暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構成されたため、結局のところシーア派ハザラ人は無視され、1993(平成5)年2月には、西カブールのアフシャール地区において数百人のハザラ人がラバニ大統領とその司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。 (ウ) ヘズベ・ワハダット党(以下「イスラム統一党」ということもある。)は、1995(平成7)年2月、マスード部隊の攻撃に対処するため、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンはヘズベ・ワハダット党を援助することなく、政府軍の攻撃に耐えられず撤退する際に、マザリ師を連行する等して同党を裏切った。その後マザリ師は死体で発見されたことから、シーア派ハザラ人の活発な活動と苦闘は終局し、ハザラ人は、以後タリバン政権下で迫害を受けることとなった。 (エ) タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体とするイスラム原理主義の急進主義者であり、1995(平成7)年以降、急激に勢力を増大すると、1996(平成8)年9月にはアフガニスタンの首都カブールを占拠した。これに対しムジャヒディン各派は、反タリバン勢力として統一戦線(以下「北部同盟」ということがある。)を結成し、その後タリバン政権が崩壊するまで、両者の間の内戦が継続した。北部同盟は、タジク人を主体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。 少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下において迫害対象になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイス ン・イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。 少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下において迫害対象になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シーア派に属することから、タリバンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とされ、1998(平成10)年8月8日にタリバンがマザリシャリフを攻略したときには、何千人ものハザラ人の一般市民が、計画的かつ組織的に虐殺され、生き残ったシーア派に対しては、改宗か死かの選択が迫られた。1998(平成10)年9月には、バーミヤンにおいて、同様にハザラ人の一般市民が虐殺された上、同年には、ヘズベ・ワハダット党の支持者ないし党員と疑われた700人以上のハザラ人が投獄されたこと等が報道されている。 (オ) 2001(平成13)年12月、タリバンは、アフガニスタンにおいて統治機能を喪失し、同月22日には、かつての北部同盟を中心とする暫定政権が発足したと報道された。しかし、アフガニスタンにおけるハザラ人迫害はタリバン誕生前からのものであり、タリバンが崩壊したとの報道のみでハザラ人に対する迫害の危険がなくなったと判断するのは早計にすぎる。同暫定政権において、ハザラ人勢力は、重要性の低い5つのポストを与えられたのみであり、北部同盟内部についても、分裂が危惧される状況にあった。 (カ) 上記(オ)のような不安定な状況においては、タリバン崩壊及び暫定政権の発足という事実のみによりハザラ人迫害の歴史に本質的な変化が生じたと認めることはできない。したがって、本件各処分当時、シーア派ハザラ人は、シーア派ハザラ人であることのみをもってアフガニスタンにおいて、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められる。実際に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として ラ人は、シーア派ハザラ人であることのみをもってアフガニスタンにおいて、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められる。実際に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として難民該当性が認められた例は数多く存在し、とりわけオーストラリアに関しては、128件の決定例を調査したところ、調査した期間内において、アフガニスタン国籍のハザラ人のうち、難民と認定されなかった者はいなかった。また、東京弁護士会からUNHCRへの照会に対する回答(以下「UNHCR回答」という。甲14の3)においても、UNHCR本部が、2001年8月に各国事務所に対して発したガイドラインには、「特定地域出身の少数民族(主にシーア派)のアフガン人大多数については迫害の危険性が高いため(1998年のタリバンによるマザリシャリフの制圧がよい例である。)、同様の背景を有するアフガン人男性を集団別に集団認定に近い形での認定が正当化される」旨の記載がある。 (キ) 被告らは、国際機関等から、およそシーア派ハザラ人であれば殺害されるという報告はされておらず、タリバン支配地域の非パシュトゥーン人について、民族浄化は経験されなかった旨を主張する。 しかしながら、被告らがその主張の根拠とする連合王国の2001(平成13)年4月に公表された「アフガニスタンアセスメント」(乙29)においても、1998(平成10)年8月に、タリバンがマザリシャリフにおいて、「シーア派マイノリティ、ハザラ人屠殺作戦」あるいは「ハザラ人を根絶するための作戦」と評される虐殺をしたこと、ハザラ人少数民族が、主として拘束の標的とされた旨の報告がされたことが明記されている。また、デンマーク移民サービス局の「アフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告」(乙142)によれば、 、主として拘束の標的とされた旨の報告がされたことが明記されている。また、デンマーク移民サービス局の「アフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告」(乙142)によれば、ハザラ人は、その民族のために反タリバン勢力であるワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているためにも攻撃を受ける旨が記載されており、また、ワーダット党とのつながりを疑われるという理由で、その疑いの客観的な根拠もなく暴力が行われる場合もあるとの記載が認められる。さらに、前記UNHCR回答(乙14の3)からも、およそシーア派・ハザラ人であれば殺害されるという報告がされたと解されるのであって、民族浄化が経験されなかったとする被告らの主張は、文献資料の恣意的な引用に基づく不当なものであるといわざるを得ない。被告らは、東京入管難民調査部門入国審査官の報告書(乙147)を引用して、実際に平成13年6月にカブールを訪れた際、特にハザラ人であることから迫害されている様子は確認されなかった旨を主張するが、実質的な調査期間がわずか2日間であったこと、同審査官の訪問の目的は現地NGO視察であって、人権状況調査ではなかったこと、判断の根拠もカブール西部地区を車で通過した際に、ハザラ人が店舗を並べていたこと等内実に乏しいものであることからすると、このような資料に何ら証拠価値を見いだすことはできない。 被告らは、タリバンにはハザラ人も含まれていたことを指摘するが、確固たる情報源によるものではなく、また仮に含まれていたとしても、取るに足りない程度の勢力であったことが明らかである。また、被告らは、マザリシャリフ、バーミヤン、ヤカウラン等で行われた虐殺は、報復行為として行われた側面が強いことを指摘するが、仮にそのような側面があったとしても、その背景に宗教 ことが明らかである。また、被告らは、マザリシャリフ、バーミヤン、ヤカウラン等で行われた虐殺は、報復行為として行われた側面が強いことを指摘するが、仮にそのような側面があったとしても、その背景に宗教的・民族的な要因があったことは、前記に指摘した被告ら提出の書証の記載等からも明らかであり、シーア派ハザラ人に対する民族的・宗教的な理由に基づく迫害の事実を否定することはできない。 エ原告の難民性について(ア) 原告は、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であり、本件各処分当時、タリバンによる迫害の対象となっていたから、難民条約上の難民に該当することは、前記のとおりである。そして、原告の供述によれば、原告及びその家族は、個別的にもタリバンによる迫害を受けたことが認められるから、原告は難民条約上の難民に該当する。 (イ) 原告の個別的迫害の状況は、以下のとおりである。 a 原告は、2歳のころからカブールに居住していたが、1992(平成4)年、ムジャヒディン間の内戦が激化し、マスード派に属する者により父が連行されそうになり、従兄弟などの親戚が内戦で死亡し、原告の家もマスード派のロケット攻撃により破壊される等の事件が起きたことがあった。これを契機に、原告は、iへ転居し、さらに内戦のさらなる激化を受けて、同年のうちにマザリシャリフに転居した。 b 原告は、1997(平成9)年5月、タリバン侵攻の情報を聞いて、イスラム統一党の拠点の存在するマザリシャリフのm地区から、n地区に避難した。しかし、原告の両親は、m地区の自宅に家財を残していたことから、同地区に戻っていた際、夜間にタリバンが侵入して原告の父が連行されそうになる事件が起きた。また、このころタリバンにより原告のm地区の自宅が荒らされ、家財道具がほとんどなくなってしまった。 c 原告は、1998 っていた際、夜間にタリバンが侵入して原告の父が連行されそうになる事件が起きた。また、このころタリバンにより原告のm地区の自宅が荒らされ、家財道具がほとんどなくなってしまった。 c 原告は、1998(平成10)年8月、タリバンが再びマザリシャリフに侵攻したことから、m地区からn地区に再び避難した。そのころ、原告は、タリバンから機関銃を突きつけられて連行され、同地区の空き家の地下室で、約1週間にわたり、約20人のハザラ人の若者とともに監禁されるという迫害を受けた。原告は、タリバンに拘束されて約1週間の後、タリバンが早朝の礼拝をしている間に、隙を見て逃走したため無事であった。 d 原告は、2001(平成13)年3月か4月ころ、就寝中に突然やって来たタリバンの兵士により、タリバンの駐在地に連行され、他のハザラ人の若者とともに拘禁された。原告は、この際、タリバンの兵士から暴行を受けたり、武器や金員を要求されたりしたが、約1週間後、村の長老を通じて母がタリバンに400ドルを支払ったことから、釈放された。 さらに原告が釈放されてから1週間後、再びタリバン兵士が原告の自宅に来たが、原告は、自宅の裏口から付近の親戚の家に逃げ、かくまってもらったため無事であった。しかし、このとき原告の父は、タリバンに連行され、父の連行を止めようとした妹Hは、タリバンの銃でこめかみを殴られ、2日後に死亡した(父は現在も所在不明である。)。タリバンの来た翌日に家に戻った原告は、この状況を知り、母から安全な国に行くように勧められたため、アフガニスタンを出国して、難民認定申請することを決意した。 (ウ) 以上の原告の主張する事実は、いずれも具体的かつ詳細に供述され、アフガニスタンの客観的状況とも一致するほか、概ね一貫していると認められるから、十分信用することができる。そして、こ 意した。 (ウ) 以上の原告の主張する事実は、いずれも具体的かつ詳細に供述され、アフガニスタンの客観的状況とも一致するほか、概ね一貫していると認められるから、十分信用することができる。そして、これらの事実に照らせば、原告が、本件各処分当時アフガニスタンに帰国した場合、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあると信じる相当な理由が認められるから、原告は難民条約上の難民に該当するというべきである。 (エ) 以上に対し、被告らは、原告の供述には信用性が認められないと主張する。しかしながら、被告らの主張は以下のとおり理由がない。 a 被告らは、原告が、Cと兄弟であることについて虚偽の供述をしていたと指摘する。しかし、原告は、Cと幼少時から離れて生活しており、必ずしも兄弟と認識していなかった上、偽名を用いて来日歴を秘匿して難民認定申請していたCから、原告とCとは関係がないといわれていたのであるから、原告が、Cと兄弟であることを否定していたことには合理的な理由がある。 b 次に、被告らは、1997(平成9)年9月のタリバンによるマザリシャリフ侵攻に原告が言及しなかったことから、原告は当時マザリシャリフに居住していなかった可能性を指摘する。しかし、1997(平成9)年9月のマザリシャリフ侵攻の際、マザリシャリフ市内は混乱状態にあったのみで、タリバンに陥落されることはなかったものであるし、原告は同年5月のタリバンによる第1回侵攻の後も、タリバンが遠方から町を破壊したこと等に言及していることが認められる。 c また、被告らは、原告が仮に1998(平成10)年8月にタリバンにより拘束されていたとしても、原告が3度目の日本入国(同年11月)後も難民認定申請をすることなくマザリシャリフに戻ったことからすれば、原告がタリバンから迫害を受ける恐怖を有していた 8月にタリバンにより拘束されていたとしても、原告が3度目の日本入国(同年11月)後も難民認定申請をすることなくマザリシャリフに戻ったことからすれば、原告がタリバンから迫害を受ける恐怖を有していたとは認められないと主張する。 しかし、原告は、当時日本で難民認定申請をしなかった理由について、アフガニスタンの情勢が好転する希望を持っていたことや、マザリシャリフに家族が居住していたこと等を述べており、これらは十分に首肯できる理由であるといえる。 d さらに、被告らは、原告が2001(平成13)年3月13日付けでUAEの3年間の居住資格を延長し、同月19日付けで在ドバイ総領事において査証申請手続をしたことについて、原告の供述に変遷が見られ、これらの事実に照らせば、原告は同年3月当時原告がUAEに滞在していたことがうかがわれるとして、同年3月から4月ころにeでタリバンに連行されたという原告の供述には信用性が認められないと主張する。しかし、原告は、居住資格延長を否定したのは、UAEに退去強制されることを恐れたためである旨供述しており、供述の変遷には合理的な理由があるといえるし、原告が居住資格の延長をした時期が同年3月19日ころであったとしても、同月か同年4月であったとする原告の主張と必ずしも矛盾するものではない。 e その他、被告らは、原告の今回の入国経緯に関する供述の変遷や、原告や原告の家族が迫害を受けた時期等に関する原告の供述に見られる曖昧な点を捉えて、原告の主張に信用性がない旨を指摘する。しかし、原告が今回の入国経緯に関して、ブローカーに口止めされていたため虚偽の供述をしていたと説明する点は、合理的な理由であると認めることができるし、その他の時期の供述に関する曖昧な点や変遷は、原告の母国で、イスラム暦が使用されていたという事情等からやむを ていたため虚偽の供述をしていたと説明する点は、合理的な理由であると認めることができるし、その他の時期の供述に関する曖昧な点や変遷は、原告の母国で、イスラム暦が使用されていたという事情等からやむを得ないものというべきである。そして、難民認定申請者は、迫害の体験又は危険に起因して心理的作用に障害が及ぶことがあり、2001(平成13)年11月21日に原告の精神状態を診断した桑山医師は、原告には難民特有の心的外傷が存在することを指摘しており、そもそも本質的でない部分の供述の食い違いは、信用性を否定する根拠にはなり得ないというべきであるから、被告の指摘は当たらないというべきである。 f なお、被告らは、本件が組織的な不法入国事案であり、原告は、難民認定制度に乗じて就労目的で入国した旨を主張する。しかし、難民条約上の難民に該当すれば、原告の入国の態様が組織的背景を有する不法入国事案であるか否かは原告の難民該当性に何の影響も与えないというべきであるし、就業の動機と難民認定申請の意思は併存し得るものである。また、原告と同時期に不法入国を摘発された者の中には、原告と類似した迫害の事実を主張する者もいるが、これをもって不自然であるということはできないし、原告の難民認定申請の際にも通訳等を務めたGが、実は日本におけるブローカーの手引をしており、中古車自動車販売業に関わるアフガニスタン人の難民認定申請について積極的に主導した可能性がある等とする部分は、単なる憶測を述べているにすぎず、到底事実と認めることはできない。したがって、被告らの主張には、いずれも理由がないというべきである。 第3 争点に関する判断 1 法49条1項の異議の申出に対する裁決の処分性(1) 法49条1項の異議の申出を受けた法務大臣は、同異議の申出に理由があるかどうかを裁決して、その結 いというべきである。 第3 争点に関する判断 1 法49条1項の異議の申出に対する裁決の処分性(1) 法49条1項の異議の申出を受けた法務大臣は、同異議の申出に理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければならず(法49条3項)、主任審査官は、法務大臣から異議の申出に理由があるとした旨の通知を受けたときは、直ちに当該容疑者を放免しなければならない一方で(同条4項)、法務大臣から異議の申出に理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、速やかに当該容疑者に対しその旨を知らせるとともに、法51条の規定による退去強制令書を発付しなければならないこととされている(法49条5項)。 このように、法は、法務大臣による裁決の結果につき、異議の申出に理由がある場合及び理由がない場合のいずれにおいても、当該容疑者に対してではなく主任審査官に対して通知することとしている上、法務大臣が異議の申出に理由がないと裁決した場合には、法務大臣から通知を受けた主任審査官が当該容疑者に対してその旨を通知すべきこととする一方、法務大臣が異議の申出に理由があると裁決した場合には、当該容疑者に対しその旨の通知をすべきことを規定しておらず、単に主任審査官が当該容疑者を放免すべきことを定めるのみであって、いずれの場合も、法務大臣がその名において異議の申出をした当該容疑者に対し直接応答することは予定していない(なお、平成13年法務省令76号による改正後の法施行規則43条2項は、法49条5項に規定する主任審査官による容疑者への通知は、別記61号の2様式による裁決通知書によって行うものとすると定めているが、この規定はあくまで主任審査官が容疑者に対して通知する方式を定めたものにすぎず、法の定め自体に変更がない以上、この規則改正をもって法務大臣が容疑者に直接応答するこ って行うものとすると定めているが、この規定はあくまで主任審査官が容疑者に対して通知する方式を定めたものにすぎず、法の定め自体に変更がない以上、この規則改正をもって法務大臣が容疑者に直接応答することとなったとは考えられない。)。こうした法の定め方からすれば、法49条3項の裁決は、その位置づけとしては退去強制手続を担当する行政機関内の内部的決裁行為と解するのが相当であって、行政庁への不服申立てに対する応答行為としての行政事件訴訟法3条3項の「裁決」には当たらないというべきである。 (2) このことは、法の改正の経緯に照らしても明らかである。すなわち、法第5章の定める退去強制の手続は、法の題名改正前の出入国管理令(昭和26年政令319号)の制定の際に、そのさらに前身である不法入国者等退去強制手続令(昭和26年政令第33号)5条ないし19条の規定する手続を受け継いだものと考えられ、同手続令においては、入国審査官が発付した退去強制令書について地方審査会に不服申立てをすることができ(9条)、地方審査会の判定にも不服がある場合には中央審査会に不服の申立てをすることができ(12条)、中央審査会は、不服の申立てに理由があるかどうかを判定して、その結果を出入国管理庁長官(以下「長官」という。)に報告することとされ、報告を受けた長官は、中央審査会の判定を承認するかどうかを速やかに決定し、その結果に基づき、事件の差戻し又は退去強制令書の発付を受けた者の即時放免若しくは退去強制を命じなければならないものとされていた(14条)もので、この長官の承認が、法49条3項の裁決に変わったものと考えられる。そして、長官の承認は、中央審査会の報告を受けて行われるものとされていて、退去強制令書の発付を受けた者が長官に対して不服を申し立てることは何ら予定されておらず、長官の承 決に変わったものと考えられる。そして、長官の承認は、中央審査会の報告を受けて行われるものとされていて、退去強制令書の発付を受けた者が長官に対して不服を申し立てることは何ら予定されておらず、長官の承認・不承認は、退去強制手続を担当する側の内部的決裁行為にほかならない。したがって、同制度を受け継いだものと考えられる法49条3項の裁決についても、退去強制令書の発付を受けた者の異議申出を前提とする点において異なるものの、その者に対する直接の応答行為を予定していない以上、基本的には同様の性格のものと考えるのが自然な解釈ということができる。 (3) また、前記の解釈は、法49条1項が、行政庁に対する不服申立てについての一般的な法令用語である「異議の申立て」を用いずに、「異議の申出」との用語を用いていることからも裏付けられる。すなわち、昭和37年に訴願法を廃止するとともに行政不服審査法(昭和37年法第160号)が制定されたが、同法は、行政庁に対する不服申立てを「異議申立て」、「審査請求」及び「再審査請求」の3種類(同法3条1項)に統一し、これに伴い、行政不服審査法の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律(昭和37年法律第161号)は、それまで各行政法規が定めていた不服申立てのうち、行政不服審査法によることとなった行政処分に対する不服申立ては廃止するとともに、行政処分以外の行政作用に対する不服申立ては前記3種類以外の名称に改め、そうした名称の一つとして「異議の申出」を用いることとした。 他方、法の対象とする外国人の出入国についての処分は行政不服審査の対象からは除外されている(行政不服審査法4条1項10号)とはいえ、前記のとおり行政不服審査法の制定に際して個別に不服申立手続について規定する多数の法令についても不服申立てに関する法令用語の統一が図られた らは除外されている(行政不服審査法4条1項10号)とはいえ、前記のとおり行政不服審査法の制定に際して個別に不服申立手続について規定する多数の法令についても不服申立てに関する法令用語の統一が図られたのに、法49条1項に関しては、従前どおり「異議の申出」との用語が用いられたまま改正がされず、法についてはその後も数次にわたって改正がされたにもかかわらず、やはり法49条1項の「異議の申出」との用語については改正がされなかった。そして、現在においては、法令用語としての「異議の申出」と「異議の申立て」は通常区別して用いられ、「異議の申出」に対しては応答義務さえないか、又は応答義務があっても申立人に保障されているのは形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けることだけである場合に用いられる用語であるのに対し、「異議の申立て」は、内容的にも適法な応答を受ける地位、すなわち手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権を認める場合に用いられる用語として定着しているということができる。したがって、数次にわたる改正を経てもなお「異議の申出」の用語が用いられている法49条1項の異議の申出は、これにより、法務大臣が退去強制手続に関する監督権を発動することを促す途を拓いているものではあるが、同異議の申出自体に対しては、被告の応答義務がないか、又は、応答義務があっても、形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けることが保障されるだけであり、申出人に手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められているものとは解されない(最高裁第一小法廷判決昭和61年2月13日民集40巻1号1頁は、土地改良法96条の2第5項及び9条1項に規定する異議の申出につき、同旨の判示をしている。 いし申立権が認められているものとは解されない(最高裁第一小法廷判決昭和61年2月13日民集40巻1号1頁は、土地改良法96条の2第5項及び9条1項に規定する異議の申出につき、同旨の判示をしている。)。 よって、法49条1項の異議の申出に対してされる法49条3項の「裁決」は、不服申立人にそうした手続的権利ないし地位があることを前提とする「審査請求、異議申立てその他の不服申立て」に対する行政庁の裁決、決定その他の行為には該当せず、行政事件訴訟法3条3項の裁決の取消しの訴えの対象となるということはできない。 (4) さらに、法49条1項の異議の申出については、前記のとおり、申出人に対して法の規定により手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められているものと解することはできないのであるから、異議の申出に理由がない旨の裁決がこうした手続上の権利ないし法的地位に変動を生じさせるものということはできず、同裁決が行政事件訴訟法3条2項の「処分」に当たるということもできない(前記(3)の最一小判参照。)。 (5) 以上によれば、法49条1項の異議の申出に対する法務大臣の裁決は内部的決裁行為というべきものであり、行政事件訴訟法3条1項にいう公権力の行使には該当しないというべきものである。 2 原告の難民該当性について原告は、本件不認定処分は、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、これを看過してされた処分であるから無効あるいは取り消されるべきであり、本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとしたことが、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反し取り消されるべきである旨を主張する。そこで原告の難民該当性について検討する。 (1) 歴史的沿革本件各証拠(甲1の することを禁じた難民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反し取り消されるべきである旨を主張する。そこで原告の難民該当性について検討する。 (1) 歴史的沿革本件各証拠(甲1の20ないし30、乙38の1、38の2、39、40、49、53、137、142ないし145)によれば、アフガニスタンの歴史的沿革について、以下の事実が認められる。 アアフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系のウズベク人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。このうち、パシュトゥーン人が最大の民族グループで、人口の約35パーセントを占め、次に多いのがタジク人で約25パーセント、ハザラ人は約19パーセント、ウズベク人は約6パーセントを占める。 イアフガニスタンには、1979(昭和54)年12月、ソ連軍が侵攻し、ソ連の支援の下で、共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義を中心とするムジャヒディン(イスラム聖戦士達)がソ連及びカルマル政権に対する抵抗運動を開始し、以後、内戦状態が続いた。 ウ政権は、1986(昭和61)年5月にカルマルからナジブラへと引き継がれ、1989(平成元)年2月にはジュネーブ合意に基づき、ソ連軍が撤退し、1992(平成4)年4月には、ナジブラ政権は崩壊してムジャヒディン各派による連立政権が誕生したが、各派間での主導権争い等により、国内の内戦は激化した。 エ 1994(平成6)年末には、イスラム教スンニ派のパシュトゥーン人を中心としたタリバンと呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭し、イスラム原理主義政権の樹立を目指して勢力を拡大し、1996(平成8)年末には、タリバンが首都カブールを制圧して暫定政権の樹立を宣言した。これ以降、タリバンに反対するムジャヒディン各派、すなわち、タジク人 原理主義政権の樹立を目指して勢力を拡大し、1996(平成8)年末には、タリバンが首都カブールを制圧して暫定政権の樹立を宣言した。これ以降、タリバンに反対するムジャヒディン各派、すなわち、タジク人中心のイスラム協会(ラバニ派)、パシュトゥーン人中心のイスラム党(ハクマチヤル派)、イスラム教シーア派のハザラ人中心のヘズベ・ワハダット党(イスラム統一党、ハリリ派等)、ウズベク人中心のイスラム国民運動党(ドストム派)の四大勢力の統一戦線(通称北部同盟)とタリバンとの内戦が続いた。統一戦線は、タリバンによりカブールを追われた政府であるアフガニスタン・イスラム国(旧政府)を支持しており、旧政府の最高指導者であるグルバディン・ラバニが形式上の最高指導者とされていた。 オタリバンは、1998(平成10)年夏には、マザリシャリフ及びイスラム統一党の拠点であるバーミヤンを陥落させ、2001(平成13)年10月ころには、国土の9割を掌握し、アフガニスタンを実質的に支配していた。 カアメリカ合衆国におけるいわゆる同時多発テロを契機とした米英軍の空爆と統一戦線による攻撃により、2001(平成13)年12月には、タリバンは統治機能を喪失した。そして、同月22日には、アフガニスタン暫定政権が発足し、日本は、同政権を承認した。暫定政権は、パシュトゥーン人のハミド・カルザイ元外務次官を首相に相当する議長とする合計30人の閣僚で構成され、うち11人がパシュトゥーン人、8人がタジク人、5人がハザラ人、3人がウズベク人、その他が3人であった。 キ暫定政権成立以後のアフガニスタンについては、パキスタン等の隣国に逃れていた避難民の大量帰国を報じる新聞報道もある一方で、治安の悪化を懸念する報道もされており、さらには、暫定政権の成立に向けた交渉過程で、ラバニ元大統領派のタジ ンについては、パキスタン等の隣国に逃れていた避難民の大量帰国を報じる新聞報道もある一方で、治安の悪化を懸念する報道もされており、さらには、暫定政権の成立に向けた交渉過程で、ラバニ元大統領派のタジク人が政権の要職を占めつつあったことに反発して、ウズベク人の指導者であるドスタム将軍やクルド人の指導者であるイスマイル・カーン司令官が暫定行政機構への参加を一時見送ろうとしたことや、暫定行政機構の中心となっているパシュトゥーン人については、以前にあった部族有力者らの腐敗と権力闘争が再燃するおそれがあること等から、暫定行政機構には全土統一を達成できるだけの軍事力もなく、カリスマもイデオロギーもないとして、タリバンによる政権掌握前の内戦状態に後戻りすることを危惧する報道もされていた。 (2) アフガニスタンにおけるハザラ人の状況ア本件各証拠(甲1の2、1の3、1の5ないし1の8、1の18、1の19、2、乙29、30、47の1ないし3、48、49、53、137、142)によれば、アフガニスタンにおけるハザラ人の状況については、以下の事実を認めることができる。 (ア) ハザラ人は、アフガニスタンに存在する最も古い移住民族の1つであり、今から2300年以上前に今日ハザラジャットとして知られる地域に移住し、1880年代までは、完全に自治を確立し、同地域を支配していた。 (イ) しかしながら、アブドゥル・ラーマンがアフガニスタンの王位に就いた1890(明治23)年から1901(同34)年にかけて、ハザラ人は、宗教上の理由及び民族的理由により、同王による迫害の対象とされ、3度の反乱を起こしたが失敗に終わり、以後1970年代まで社会的経済的差別の対象とされ、厳しい政治的抑圧を受けた。 (ウ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は、政党を結成し、 れ、3度の反乱を起こしたが失敗に終わり、以後1970年代まで社会的経済的差別の対象とされ、厳しい政治的抑圧を受けた。 (ウ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は、政党を結成し、連合や解散を繰り返してきたが、1990年代に入ると、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。ハザラ人は、1992(平成4)年までにカブールのほとんどの地域に住むようになり、西カブールは、シーア派ハザラ人の居住地域として国内最大のものとなっていた。しかしながら、ナジブラ政権崩壊後、ムジャヒディンにより構成された暫定政権から、ヘズベ・ワハダット党は完全に閉め出され、シーア派ハザラ人は無視された。1993(平成5)年2月11日には、西カブールのアフシャール地区で、数百人のハザラ人が、ラバニ大統領とその主任司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。 (エ) その後、ヘズベ・ワハダット党は、1995(平成7)年2月、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンは同党を裏切り、同党の指導者であるマザリ師等を連行した。その後、マザリ師は死体で発見されるに至った。 (オ) タリバンは、1996(平成8)年にカブールを制圧し、1998(平成10)年8月8日、マザリシャリフを奪取したが、その際、わずか3日間に数千人(最大8000人ともいわれる。)のハザラ人の民間人が殺害された。また、タリバンは、同年9月には、当時ヘズベ・ワハダット党の根拠地であり、ハザラ人のホームランドとして同党に支配されていたバーミヤンを制圧した。これに対し、北部同盟は、1999(平成11)年4月21日、バーミヤンを奪還したが、翌5月9日には、同市は再びタリバン勢力下に戻った。タリバンによ ンドとして同党に支配されていたバーミヤンを制圧した。これに対し、北部同盟は、1999(平成11)年4月21日、バーミヤンを奪還したが、翌5月9日には、同市は再びタリバン勢力下に戻った。タリバンによるバーミヤン地方のヤカオラン奪取直後には、多くのハザラ人の一般市民が殺害された。また、タリバンは、2000(平成12)年12月、同地域において数百人に上る一般市民を即決処刑した。 イ被告らは、アフガニスタンにおけるハザラ人は、タリバン台頭前においては、複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、常に一方的な被害者であったと認めることはできないと主張し、また、タリバン台頭後については、ハザラ人に対する人権侵害の主要な要因は、宗教的又は民族的特性によるものではなく、むしろタリバンに対立する者であったか、そのように解されたことによるものであるから、本件各処分当時、シーア派ハザラ人が、その民族又は宗教のみを根拠に迫害を受けた事実は認められない旨を主張する。 ウそこで検討するに、本件各証拠中には、被告らの主張に沿うものとして、以下の記載があることが認められる。 (ア) 民族に基づく深刻な虐待行為は、反タリバン派も犯してきた。例えば、1999(平成11)年4月21日から5月9日の3週間に、バーミヤンを制圧しようとした反タリバン勢力は、新しく移ってきたパシュトゥーンの人々や、タリバンの協力者の疑いのある人々を激しく殴ったり、何人もの民間人を恣意的に拘束したり、それら家族にひどい仕打ちをしたといわれる(1999年1月付けUNHCR資料・甲1の5、4頁)。 (イ) タリバンによる処刑は、2000(平成12)年12月、反タリバン勢力イスラム統一党との激しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。今回の処刑は、この地域を征服する際にタリバンが被った被害に対す リバンによる処刑は、2000(平成12)年12月、反タリバン勢力イスラム統一党との激しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。今回の処刑は、この地域を征服する際にタリバンが被った被害に対する報復だと見られている。反タリバンと見られる13歳から70歳までのすべての男性を殺害するようタリバン司令官が命じたと伝えられている。 イスラム統一党も、この地域を支配していたときにタリバンに協力したと見なされた人々を虐待してきたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース2001年1月23日・甲1の7、1頁)。 (ウ) 1997(平成9)年5月末、およそ3000人のタリバン兵士の捕虜が、マザリシャリフ周辺で、アブダル・マリク・パラワン司令官指揮下の軍によって略式処刑された。また、同軍は、同年1月5日、空からカブールの住宅街にクラスター爆弾を投下した。通常爆弾も使われたこの無差別空襲により、市民の間に死傷者が数名出た(ヒューマンライトウォッチレポート(2001年10月5日付け)甲1の19)。 (エ) 発生した侵害の主要な要因は、宗教への加入又は民族的特性によるとは限らず、むしろ、タリバンに対し、実際に反対者であったか又はそのように解されたことによる。 1998(平成10)年8月に、タリバンはマザリシャリフを占拠した。約5000人(たいていはハザラ民族の民間人)が占拠後にタリバンにより虐殺されたとの報告があった。タリバンは、1997(平成9)年に、ハザラ人及び他の戦闘員が彼らに敵対し、彼らの側の約2000人を虐殺したことに対する報復をすることに集中していたとされる(連合王国における「国別評価アフガニスタンアセスメント2001年4月」(以下「連合王国アセスメント」という。)・乙29、訳文1・2頁)。 (オ) 宗教的少数派の状況は、地元のタリバン たとされる(連合王国における「国別評価アフガニスタンアセスメント2001年4月」(以下「連合王国アセスメント」という。)・乙29、訳文1・2頁)。 (オ) 宗教的少数派の状況は、地元のタリバン指導者がその権限をどう行使するかによる。一部地域では宗教的少数派も平和に暮らし、自分たちの宗教を奉じることができるが、他の地域では彼らへの嫌がらせや迫害の事件が起こっている。 国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるためで、主に政治的な動機によると強調した。これはつまり、戦闘地域及び衝突の恐れのある地域の少数民族が特に危険であるということである。 ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われている(デンマーク移民サービス局によるアフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告(2001年1月18日から29日、以下「デンマーク報告書」という。)・乙142)。 (カ) 上記(ア)ないし(オ)の各記載からは、ハザラ人を中心とするイスラム統一党等は、タリバンに協力したとみなされた者に暴行等の虐待を加えたことがあり、タリバンにより1998(平成10)年8月に行われたマザリシャリフの大虐殺や、1999(平成11)年に行われたバーミヤンにおける虐殺は、これらの反タリバン勢力による虐殺行為に対する報復として、反タリバン勢力に対する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者を対象としてされた側面のあることが認められ、タリバンは、ハザラ人を含む少数民族に対し、主に戦闘地域において反対勢力との接触の疑いのある場合に殺害や連行 する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者を対象としてされた側面のあることが認められ、タリバンは、ハザラ人を含む少数民族に対し、主に戦闘地域において反対勢力との接触の疑いのある場合に殺害や連行等の迫害を行ったことが認められる。 エ他方で、被告がその主張の根拠として引用する連合王国アセスメントやデンマーク報告書には、以下のような記載があることが認められる。 (ア) まず、連合王国アセスメントには、以下の記載がある。 継続した紛争等による人権侵害の状況下では、アフガニスタンで、誰が危険で、誰がそうでないかについて明確に区別する法則はない。しかしながら、人権侵害の主要な標的の中には、以下のような者が含まれているといえる。タリバンと関係しない非パシュトゥーン民族のメンバー、宗教的マイナリティーグループ等(訳文1頁)。 (イ) また、デンマーク報告書にも、以下のような記載がある。 a 「宗教的及び民族的少数者に対する状況について」と題する箇所中央の国連情報筋、アフガニスタン協働センター(CCA)、多くのNGO等いくつかの情報筋は、全体としてアフガニスタン少数民族の政治的迫害や追放は一般的ではなかったが、それは彼らがどこに住んでいるかによると述べた。しかし、戦闘地域又は衝突の恐れのある地域の少数民族は極めて危険である。この情報筋は、衝突のある地域数は、1997(平成9)年以来増加しており、ハザラジャットとアフガニスタン西部での政治的不安定を伴っていると述べた。 ある国連幹部情報筋は、戦闘が行われている地域、特に北部及びハザラジャットの少数民族の状況は、現在非常に悪いため、彼らを非常に特別な危険状態にあると見なされなければならないと報告した。ハザラ人は特に迫害を受けやすいグループで、1998(平成10)年以来そうである。 国連幹部情報筋や多くの国 在非常に悪いため、彼らを非常に特別な危険状態にあると見なされなければならないと報告した。ハザラ人は特に迫害を受けやすいグループで、1998(平成10)年以来そうである。 国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等は、タリバンと非パシュトゥーン人少数民族の間で民族分化が行われていると説明した。ある情報筋は、ハザラ人の「二重の少数派」であるために苦しんでいると付け加えた。ハザラ人は、その民族のためにハザラ人をベースとする反対勢力ワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているためにも攻撃を受けるからである。 全ての情報筋は、少数民族への攻撃は組織的ではなく、恣意的なものだと述べた。CCAは、1997(平成9)年にカンダハルの刑務所を、また1998(平成10)年末にバグラン州ナハリン地区の刑務所を訪れることができたが、タリバンが「政治犯」とする多くの拘留者が、実際には少数グループの普通の労働者または農民で、街で捕らえられたものだと報告した。 b 「紛争の宗教的様相の拡大」と題する箇所これまで述べたように、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族への対応は、反対勢力とのつながりの疑いによる主に政治的動機によるものだと確信していた。 しかし、国連幹部情報筋や、CCA、アフガニスタン救済団体調整局(ACBAR)等の多くの情報筋は、最近数年、宗教的要素が戦争に加わってきたと述べた。これは、タリバンが多くの外国人イスラム教スンニ派原理主義者を自軍に組み込み、彼らが非スンニ派を殺害することを自分たちの宗教的使命と見なしているからである。同様に最近、戦闘の実施に関して、強い反シーア派的声明が発されている。 c 「民族的少数者に対する状況」のうちハザラ人に関する箇所ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけ 、戦闘の実施に関して、強い反シーア派的声明が発されている。 c 「民族的少数者に対する状況」のうちハザラ人に関する箇所ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われていると報告した。タリバンが脅威を感じると、彼らはハザラ人に恣意的な逮捕等を押しつけて反応し、少数ながら処刑も行われた。この情報筋は、ハザラ人を基盤とするワーダット党とのつながりを疑われるという理由で、その疑いの客観的根拠もなく暴力が行われる場合もあると述べた。 CCAは、タリバンは脅威を感じると、カブールとマザリシャリフでいつもハザラ人とウズベク人を逮捕すると報告した(訳文19頁)。 d 「宗教的少数者に対する状況」と題する箇所ある中央の国連情報筋は、反対勢力とのつながりを疑われることが少数民族への迫害の主な理由だが、これは宗教的な迫害の点でも連鎖反応を招くと指摘した。例えば、シーア派教徒は、反対勢力に属していると疑われることがあるという(訳文22頁)。 (ウ) 以上の被告らがその主張の根拠とする資料中、被告らが引用していない部分の記載からは、タリバンによるハザラ人に対する暴行や殺害等の迫害は、必ずしも組織的に行われたものではないとしても、現実には、ハザラ人がその民族及び宗教的信仰のゆえに、タリバンから反対勢力に属することを疑われ、その疑いの客観的証拠がなくとも暴行や殺害等を受けることが相当の頻度であったことや、少なくとも一部のタリバン勢力が、非スンニ派を殺害することを宗教的使命とみなしていたことが認められる。 オさらに、本件各証拠には、以下のような記載もある。 (ア) アムネスティ・インターナショナルによれば、多数の非戦闘員が、タリバン スンニ派を殺害することを宗教的使命とみなしていたことが認められる。 オさらに、本件各証拠には、以下のような記載もある。 (ア) アムネスティ・インターナショナルによれば、多数の非戦闘員が、タリバンの警備兵によって、故意にかつ恣意的に殺害されている。1998(平成10)年9月、アムネスティ・インターナショナルは、同年8月8日のマザリシャリフの奪取において、タリバンの軍隊が街中及び市場で一般市民が逃げようとすると無差別に発砲したことを報告した。タリバンは、その後直ちに各家の捜索を行い、タジク人、ウズベク人及びハザラ人の男性と10代の少年を拘禁し、街中又は家で度々ハザラ人を射殺した。 上記マザリシャリフの奪取について、アフガニスタンにおける国連人権特別報告官は、タリバンが、主にシーア派ハザラ人を標的とした殺人的狂乱の中で、広範かつ無差別な発砲を行ったと報告している。(中略)タリバンは、路上で動く者を見ると、自分の家の窓やドアから覗いていただけかもしれない人も含め、誰であっても発砲した。 住民の中で攻撃と迫害を受ける特別の可能性があった、又は可能性がある集団としては、彼らに敵対的な軍事的指導者に支配された地域にいる特定の民族的、宗教的又は政治的集団が含まれ、政治的又は民族的に対立した集団に属している、あるいは属していると疑われた武装していない一般市民は、人権侵害の標的となっている旨の記載がある(UNHCR資料・甲1の2、5頁、同11頁)。 (イ) 何千人ものハザラ人系住民が、1998(平成10)年にタリバンにより殺害されたと推定されている。また、民族的な理由による市民の強制追放も行われた形跡がある。1999(平成11)年中、新たにタリバンの支配下に入った地域から、ハザラ系やタジク系の住民が強制的に追放されたとする複数の報告がされている。そし 的な理由による市民の強制追放も行われた形跡がある。1999(平成11)年中、新たにタリバンの支配下に入った地域から、ハザラ系やタジク系の住民が強制的に追放されたとする複数の報告がされている。そして、ハザラ系住民は、パシュトゥーン系であるタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の対象となっていると伝えられている(アメリカ合衆国国防省による2000年2月25日公表の1999年国別人権状況報告書・甲1の3、20頁、同31頁)。 (ウ) タリバンが1998(平成10)年8月にマザリシャリフを軍事的に制圧してから数日間、数千人のハザラの民間人がタリバン警備兵に意図的かつ組織的に殺害されたという報告が相次いだ(アムネスティ・インターナショナルの「アフガニスタン:マイノリティの人権」と題する資料・甲1の5)。 (エ) 1999(平成11)年5月にタリバンが前回ヤカオランを奪取した際に多くのハザラ民族の一般市民が、侵入してきたタリバン警備隊の組織的殺害の標的とされたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース(2001年1月23日)・甲1の7)。 (オ) タリバンは、1998(平成10)年8月のマザリシャリフ制圧及び同年9月のバーミヤン制圧に際し、ハザラ人を虐殺したと伝えられているが、1つの動機は、1997(平成9)年5月にマザリシャリフを制圧しようとした際にタリバン側に死傷者が出たことに対する報復であったが、もう1つの動機は、シーア派ムスリムのハザラ人に対する宗派的憎悪であったと思われる。 デンマーク移民局は、1997(平成9)年11月にアフガニスタンを訪問し、タリバン支配領土でも問題なくハザラ人が生きていけると報道担当者は述べているが、幅広い国連の情報筋やアフガニスタン内外のNGOはすべてハザラ人が迫害を受けやすい人々であるとの見解を示したと報告 し、タリバン支配領土でも問題なくハザラ人が生きていけると報道担当者は述べているが、幅広い国連の情報筋やアフガニスタン内外のNGOはすべてハザラ人が迫害を受けやすい人々であるとの見解を示したと報告した。 (中略)情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属しているという容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交換用として収容されているとのことである。1日に20人から50人のハザラ人がカブールで拘束されているとの報告がある(オーストラリア難民再審査審判書の決定・甲1の12、訳文6頁)。 カ以上の各証拠中の記載を総合的に考慮すると、被告らの主張するように、タリバンによって行われたハザラ人の虐殺行為には、反タリバン勢力の攻撃に対する報復という側面があったこと自体は否定できないし、タリバンも公式には組織的かつ日常的にハザラ人を迫害することを肯定していたものでもないが、実際には、少なくともアフガニスタンの一定の地域(例えば、戦闘地域であったマザリシャリフやバーミヤンのほか、元々ハザラ人が多数居住している地域等)において、その地に臨んだタリバン兵から、ハザラ人が、ハザラ人であること、あるいはシーア派であることのために、客観的な理由なく反タリバン勢力に属するものと見なされて積極的暴行を受けたり、あるいは宗教的憎悪の対象とされて、迫害を受けることが頻繁にあったと認めることができる。そうであるとすると、同じくシーア派に属するハザラ人であっても、比較的平和な地域に居住していて自らはもとより周辺に居住する者もタリバンによる暴行等の被害に遭うことがなかった者については、その者がシーア派でありハザラ人であることのみによって難民に該当するとは評価できず、被告らの主張もこの限度では正当であるが、原告のように元々ハザラ人が多数居住する地域に住む者が かった者については、その者がシーア派でありハザラ人であることのみによって難民に該当するとは評価できず、被告らの主張もこの限度では正当であるが、原告のように元々ハザラ人が多数居住する地域に住む者が、自ら又は周辺に住む者についてタリバンから客観的な理由もなく暴行や拘禁などの被害を受けた経験を有し、それが繰り返されるおそれがあった場合には、客観的にみても、その者がシーア派ハザラ人であることを理由とする迫害を受けるおそれがあると認めることができる。 なお、被告らは、タリバンによるハザラ人に対する暴行等がより限定的なものにすぎなかった旨主張し、2001(平成13)年6月に入国審査官がカブール市内においてハザラ人が何ら迫害を受けずに生活している状況を現認した旨の報告書(乙147)を証拠として提出している。しかし、上記認定は、タリバンが公式に組織的かつ日常的にハザラ人に対して迫害を行うことを肯定しているというものではなく、むしろ、タリバンも公式にはそのようなことは否定しているものの、タリバンの支配が十分に浸透していない地域においては、現地に臨んだタリバン兵が恣意的に上記のような行動に出ることが一般化しているというものであるから、カブールの中心街に近く、タリバンが確実に制圧している地域における白昼の状況に関する上記報告書の記載は、上記の認定を左右するものではない(なお、上記報告書中には、カブール西部の状況を報告したものとの記載があるが、カブールの市街地が同報告書添付の地図よりさらに西側に広がっていることは、当裁判所に顕著な事実であり、同地図には原告の供述中に現れるカブール西部の地名が全く現れていないことからすると、原告が居住していた地域付近についても調査が行われたか否か明らかでない。)。 キそして、本件退令発付処分は、タリバン政権崩壊後、アフガニ に現れるカブール西部の地名が全く現れていないことからすると、原告が居住していた地域付近についても調査が行われたか否か明らかでない。)。 キそして、本件退令発付処分は、タリバン政権崩壊後、アフガニスタン暫定政権が成立したわずか5日後にされているところ、前記のとおり暫定政権の基盤自体について、非常に脆弱なものであるとの評価がされ、タリバン政権前の内戦状態に後戻りすることも危惧される旨の報道がされていたこと、前記の各資料中の記載からは、ハザラ人に対する差別意識は、タリバン政権により初めて生じたものとは考えられず、民族的・宗教的な背景を持つものと認められることからすれば、タリバン政権が崩壊した事実のみをもって、直ちにハザラ人に対する迫害の状況に変化が生じたものとは到底認めることができないし、本件全証拠からも、このような事実は認められない。したがって、本件退令発付処分当時においても、タリバン政権下においてハザラ人の置かれた状況に特段の変化は認められないものというべきである。 (3) 原告の供述の内容及びその信ぴょう性ア原告は、原告本人尋問、原告代理人作成の陳述書(甲4)において、シーア派ハザラ人であること等を理由として、個別的に迫害を受けた経験がある旨を供述しており、その要旨は、以下のとおりである。 (ア) 原告は、アフガニスタン国籍の父I、母Jの子供であり、6人兄弟の長男として、1974(昭和49)年1月20日にアフガニスタンのc、d、e、fで出生した。後述のように、原告の父はタリバンに連行され行方不明となり、妹Hは、父が連行される際タリバンからの暴行により死亡し、その他の家族については、原告が今回入国のためにアフガニスタンを出国し、日本に入国して以来、連絡が取れておらず行方不明である。 原告は、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、 の暴行により死亡し、その他の家族については、原告が今回入国のためにアフガニスタンを出国し、日本に入国して以来、連絡が取れておらず行方不明である。 原告は、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、ダリ語を母国語としている。 (イ) 原告は、2歳のころからカブールに居住し、1986(昭和61)年ころまでハヤティ小学校に通った後、シシャイスリ中学校、同高校に通った。1992(平成4)年ころ、原告は、カブールのg、hに居住していたところ、ムジャヒディン間の内戦が激化し、ラバニ・マスード派に属する者により父が連行されそうになり、ヘズベ・ワハダットやヘズベ・ハラカット等のグループにより助けられたものの、Kという名の従兄弟や、L、M、N、O等の親戚が5、6人内戦で死亡し、原告の家も、コイトリーセンターというテレビアンテナのある山の上から行われたマスード派によるロケット攻撃により破壊される等の事件が起きたことから、原告ら家族は、iへ転居した。 しかし、iもロケット弾による攻撃を受けるなどし、内戦がさらに激化したため、原告らは、同年のうちにマザリシャリフに転居を余儀なくされた。 (ウ) 原告は、マザリシャリフへ転居後、バフタル高校に約1年間通学し、同高校を卒業した後、父の自動車修理工の仕事を手伝うなどして過ごしていたが、その後、親戚であるPから日本での自動車部品の購入を依頼され、1994(平成6)年8月1日、バルフ州で旅券を取得した。それ以後、原告は、今回入国に至るまで6度にわたり中古車部品を輸出する目的で日本に入国している。原告の1度目の日本への入国は、1995(平成7)年1月22日であり、同出国は同年3月24日であった。このとき、原告は、日本からパキスタンを経由してマザリシャリフに帰国した。 原告の2度目の日本への入国は、1995(平成7)年2月1 95(平成7)年1月22日であり、同出国は同年3月24日であった。このとき、原告は、日本からパキスタンを経由してマザリシャリフに帰国した。 原告の2度目の日本への入国は、1995(平成7)年2月19日であり、その際の出国は、翌1996(平成8)年2月19日であった。このときも、原告は、パキスタンを経由してマザリシャリフに戻っている。 Pは、その後マザリシャリフからUAEに移転した。 原告は、1997(平成9)年1月28日、旅券の有効期間を延長した。 (エ) 原告は、1997(平成9)年5月、タリバン侵攻の情報を聞いて、イスラム統一党の拠点の存在するマザリシャリフのm地区から、n地区に避難した。 タリバンは、4、5人で小型トラック等に乗車し、ロケット弾や機関銃で武装していた。原告の両親は、m地区の自宅に家財を残していたことから、同地区に戻っていた際、夜間にタリバンが侵入して原告の父が連行されそうになる事件が起きたほか、タリバンがm地区に侵攻した際、同地区にあった原告の自宅が荒らされ、家財道具がほとんどなくなる等の事件が起きた。 もっとも、マザリシャリフのn地区の住民がタリバンに抵抗を開始したことから、タリバンはマザリシャリフを制圧することができず、その後同所から撤退した。 この間、原告は、中古車部品の輸出のため、1997(平成9)年にUAEの15日ないし3か月の在留資格を取得し、また1998(平成10)年4月20日には同所の3年間の居住資格を取得し、パキスタンを経由してUAEに数度出国し、マザリシャリフに中古車部品を輸出していたが、それ以外は、マザリシャリフで父の仕事の手伝い等をして家族と共に生活していた。 (オ) 原告は、1998(平成10)年8月、タリバンが再びマザリシャリフに侵攻したことから、イスラム統一党の幹部であり、親戚でもあるQの助 シャリフで父の仕事の手伝い等をして家族と共に生活していた。 (オ) 原告は、1998(平成10)年8月、タリバンが再びマザリシャリフに侵攻したことから、イスラム統一党の幹部であり、親戚でもあるQの助言に従い、一度戻っていたm地区からn地区に再び避難した。原告が家族と避難した直後、タリバンがマザリシャリフに侵入したが、タリバンは原告の親戚や友人を含む多くのハザラ人を殺害し、あるいは連行した。原告の親戚であるLも、タリバンに連行された上、銃器で殺害された。 原告は、n地区に避難したものの、タリバン侵入の約1週間後、タリバンが家の中を調べるという名目で原告の家に来た。タリバンは、頭にタオルを巻き、長いひげを持ち、肩にロケットやカラシニコフ銃を持ち、5、6人であった。その際、タリバンは、原告に機関銃を突きつける等した上、原告をハイラックスという車に乗せて連行した。その結果、原告は、同地区の空き家の地下室で、約1週間にわたり、約20人の若者とともに監禁されることになった。地下室の部屋は、敷物も何もない土の床であり、日光が当たらないため常に湿ったままであった。また、一緒に監禁された約20人の者は、大体ハザラ人であったが、タリバンから虐待を受けることを恐れたため、話をすることはできなかった。地下室の中では、部屋が狭かったため横たわることはできず常に座ったままであり、トイレは一日一度、武器を持ったタリバンに連れられ部屋の外に出て行い、風呂やシャワーはなく着替えることもできなかったため、部屋の中はひどい臭いがしていた。また、食事は1日1回腐ったパンを与えられるだけであった。原告は、監禁されていた間、タリバンから侮辱を受けたり、銃尾や鉄製の鞭で暴行を受けたことがあった。原告は、監禁されてから約1週間後、タリバンが早朝の礼拝をしている間に、地下室に空気と だけであった。原告は、監禁されていた間、タリバンから侮辱を受けたり、銃尾や鉄製の鞭で暴行を受けたことがあった。原告は、監禁されてから約1週間後、タリバンが早朝の礼拝をしている間に、地下室に空気と光を入れるために少し開けられたドアからハザラ人の若者2人と部屋を出て、階段を駆け上り、2メートルくらいの高さの塀を上って逃走することができた。このときタリバンに監禁された理由について、原告は、自分がシーア派ハザラ人であることが原因であったと考えている。 (カ) 原告は、友人の家等に身を隠すように生活した後、中古車部品の輸出をするために、再度日本に入国することにした。原告は、安全に移動するため、パシュトゥーン人のブローカーを使ってパキスタンのペシャワールまで移動し、UAEに出国して、1998(平成10)年8月27日、在ドバイ総領事から有効期限を同年11月27日までとする渡航証明書の交付を受けた。原告は、再びパキスタンに戻りマザリシャリフの親戚の消息を調査した後、同月25日に日本に入国し、1999(平成11)年2月23日に日本を出国し、ドバイ、ペシャワールを経由してマザリシャリフに戻った(3度目の出入国)。帰国の際にも、原告はブローカーを利用した。また、原告は、友人の家に行く等しながら自宅でタリバンから身を隠すように生活した後、同年6月2日に日本に入国し、同年8月29日に日本を出国し、UAE、パキスタンを経由してマザリシャリフに戻った(4度目の出入国)。原告は、UAEやパキスタンには住む場所も仕事もなく、マザリシャリフには家族が一緒に住んでいたため、危険はあったものの3度目及び4度目の帰国の際、同所に戻っていた。 しかし、その後、原告は、ハザラ人の連行が相次ぐ等したことから、同年後半になると、家族とともにマザリシャリフを出て、父の故郷であり原告の はあったものの3度目及び4度目の帰国の際、同所に戻っていた。 しかし、その後、原告は、ハザラ人の連行が相次ぐ等したことから、同年後半になると、家族とともにマザリシャリフを出て、父の故郷であり原告の出生地でもある山間の村eに移転した。 (キ) 原告は、eで、父の農作業の手伝い等をしていたが、中古車部品の買い付けのため、2000(平成12)年1月24日に日本に入国し、同年4月21日に日本を出国し(5度目の出入国)、さらに、同様の目的から同年8月10日に日本に入国し、同年11月7日に出国した(6度目の出入国)。5度目及び6度目の帰国の際には、日本からドバイ、パキスタンのペシャワールを経由して、eに戻った。ペシャワールからeに戻る際には、ハザラ人であるという理由で車から降ろされ捕らえられることがあったため、原告は、安全のためにいつもブローカーを利用していた。 原告は、2001(平成13)年3月13日付けでUAEの3年間の居住資格を延長した後、パキスタンを経由してeに帰国した。 (ク) 原告は、2001(平成13)年3月か4月ころ、jのk、lという場所に居住していたところ、就寝中に突然タリバンの兵士が家に来た。原告は、母に「起きなさい。タリバンが来ている」と言われて目をさますと、タリバンが懐中電灯で原告の顔を照らしていた。原告は、そのまま5人のタリバン兵士に腕を捕まれてタリバンの本隊のあるローレンジュに車で連行され、他のハザラ人の若者4、5人とともに監禁された。ローレンジュに監禁されたハザラ人男性は、カンダハルに連行されるといわれていた。原告は、タリバンの兵士から手に持っていた銃で叩かれたり、蹴飛ばされる等の暴行を受け、食事は一日大体1回水やかびの生えたパン等を与えられたのみであった。監禁された場所は、元は学校であった平屋建ての建物の中で、窓か の兵士から手に持っていた銃で叩かれたり、蹴飛ばされる等の暴行を受け、食事は一日大体1回水やかびの生えたパン等を与えられたのみであった。監禁された場所は、元は学校であった平屋建ての建物の中で、窓からタリバンの兵士が武器やロケットを持って歩いている様子や戦車が1台見えたが、外を見ていることが分かると虐待を受けるのではないかと恐れていたため、原告はたまに外を見るだけであった。部屋の床は土であり、座ったり横になることができた。しかも、トイレは一日1回若しくは2日おきであり、山の方へ連れて行かれて行ったほか、風呂やシャワーを利用することはできず、着替えをすることもできなかった。原告は、度々タリバンから「武器を隠しているのであれば武器を出せ。」「釈放されたいのであれば金を出せ。」等と言われたが、多くのハザラ人の若者がカンダハルに連行され、あるいは殺害されているという話を聞いていたので、自分もカンダハルに連行されるかもしれないと考えておびえていた。しかし、原告は、約1週間後、母が村の長老を通じてタリバンに400ドルを支払ったことから釈放された。原告は、このとき自分が監禁された理由は分からないが、自分がハザラ人であることと、親戚であるR、Qがヘズベ・ワハダット党に入党していたことであると考えている。なお、Rは、カブールのデマザンというところで、ヘズベ・ワハダット党の司令官をしていて有名であり、ナジブラ政権崩壊後に、イスラム統一党がマスードらと戦闘をした際、数十人の兵士を率いてタジク人らの勢力と戦い、多数のタジク人らを殺害していた。また、同人は、西カブールから脱出した後も、マザリシャリフ等で数百人の兵士を率いて戦闘を行い、1997(平成9)年ないし1998(平成10)年、ウズベキスタンとの国境にあるハイラタンでドストム将軍の勢力との戦闘で死亡した から脱出した後も、マザリシャリフ等で数百人の兵士を率いて戦闘を行い、1997(平成9)年ないし1998(平成10)年、ウズベキスタンとの国境にあるハイラタンでドストム将軍の勢力との戦闘で死亡した。他方、Qは、現在デンマークで家族とともに難民認定を受けて生活している。 (ケ) さらに原告が釈放されてから1週間後、再びタリバン兵士が原告の自宅に来た。原告の居住していた地域は、夜は誰も車を使わず静かであり、約1キロメートルくらいの距離まで車が接近すると、タリバンが車で来たことが分かるため、原告は、車の音を聞いて裏口から外へ出て、山の方にある親戚の家に逃げ込み、かくまってもらった。このとき、原告の父は、タリバンに連行され、父の連行を泣いたり大声を出して止めようとした妹Hは、タリバンの銃口や銃尾でこめかみを殴られ、右側から出血し、ハンカチのようなもので頭を縛って止血したものの、2日後に大量の出血により死亡した。また、もう1人の妹であるTも、銃で叩かれて足にけがをした。このとき、原告の旅券の入った鞄も持ち去られてしまった。タリバンの来た翌日に家に戻った原告は、この状況を母から聞いて知り、母から安全な国に行くように勧められたため、アフガニスタンを出国して、難民認定申請をすることを決意した。 原告は、父がタリバンに連行されたことを聞いて、ローレンジュに連行されたのだと思い、長老を通じてタリバンから事情を聞いてもらったところ、父は、ローレンジュにはいないとのことであり、またどこに連行されたか分からないが、おそらくカンダハルに連行されたのだろうと聞いた。カンダハルに連行された場合には、連れ戻すことはほぼ不可能であったため、原告は、父が自分の身代わりとして連行されたのだと思い、悲しくて仕方がなかった。 (コ) 原告は、父が所有していた農地を売却する等して ルに連行された場合には、連れ戻すことはほぼ不可能であったため、原告は、父が自分の身代わりとして連行されたのだと思い、悲しくて仕方がなかった。 (コ) 原告は、父が所有していた農地を売却する等して費用を捻出し、アフガニスタンを出国するための手続を母の従兄弟であるUというブローカーに依頼した。上記事件から約2週間後の2001(平成13)年4月ころ、原告はブローカーとともにjからガズニー、カブール、ジャララバードに出て、ジャララバードからアフガニスタンを出国するため約3日かけて陸路でペシャワールに向かい、同所で他のブローカーを探して約20日間滞在した後、飛行機でカラチへ向かい、さらにUAEのドバイ、香港を通ってソウルへ行き、同所に約40日間滞在した後、釜山へ移動して11日間滞在し、釜山港から船籍船名不詳の貨物船で約7日間かけて移動し、同年7月13日ないし14日ころ、横浜港に到着し、日本に入国した。 原告は、かつてパキスタンで警察に捕まったり、警察官から金銭を支払うよう要求された上、払わない場合には車に乗せられて連行されたり、逮捕すると脅されたりしたことが複数回あったため、パキスタンに留まることは考えられなかった。 原告は、同年8月27日、東京入管において、難民認定申請をした。 イ原告の供述の信ぴょう性(ア) 客観的事実との符合の有無a 原告の身上関係に関する原告の供述以外の証拠としては、原告の旅券の写し(乙156、158、160)、身分証明書の写し(乙7の1、63の3)、在パキスタン日本大使館及び在ドバイ日本総領事に提出された査証申請書、本邦入国時の入国記録カード(乙148)があるところ、これらの各記載と原告の供述する氏名、生年月日、出生地、民族の記載は、いずれも一致している。なお、原告の査証申請書及び入国記録カードの中には、原告の 入国時の入国記録カード(乙148)があるところ、これらの各記載と原告の供述する氏名、生年月日、出生地、民族の記載は、いずれも一致している。なお、原告の査証申請書及び入国記録カードの中には、原告の出生年について1974年と記載されたものと、1977年と記載されたものがあるが、原告の旅券が発給された当時、原告の旅券には出生年は1977年と記載され、後に1974年に訂正されていること(乙7の1)、原告が査証申請書の記載をアル・アマナ社の社員に依頼することがあり、入国記録カードについては、近くにいた英語の分かる人に旅券等を渡して依頼することがあった(原告本人3日目98項)と供述していることを合わせ考えれば、特段不自然な点は見当たらない。 b また、原告の本邦への今回入国前までの6回の出入国歴は、被告らが把握している原告に関する出入国歴と一致する(乙4の別紙1)。もっとも、第5、6度目の日本からの帰国の際の出国先は、被告らの把握する出入国歴によればロサンジェルスと記録されているところ、原告は、来日前からドバイを経由する往復チケットを買っていたのでロサンジェルスへは言っていないと供述しており(乙11の2、16丁)、その真偽は不明である。 c 次に、原告が、1992年ころ、居住していた西カブールでムジャヒディン間の内戦が激化し、マスード派に父が連行されそうになり、親戚が死亡し、原告の家がマスード派のロケット攻撃を受けたと主張する点については、同年4月に、ムジャヒディン勢力の軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊し、ムジャヒディン政権であるラバニ政権が誕生したものの、以後ムジャヒディン間での内戦が激化したとの前記(1)ウの事実に合致する上、西カブールが、同年5月から1995(平成7)年3月まで、主たる戦場となり、全方向から空爆を受けることになった(甲2 のの、以後ムジャヒディン間での内戦が激化したとの前記(1)ウの事実に合致する上、西カブールが、同年5月から1995(平成7)年3月まで、主たる戦場となり、全方向から空爆を受けることになった(甲2・49頁等)ことや、翌1993(平成5)年2月に、ラバニ大統領とその司令官マスードにより数百人のハザラ人が虐殺されたこと(前記(2)ウの事実)とも合致する。 また、原告が、1997(平成9)年5月にタリバンのマザリシャリフ侵攻の情報を聞いて、マザリシャリフのm地区からn地区に避難したとする点や、その際父が連行されそうになったり、家財道具を全部取られる等の事件が起きたものの、住民が抵抗を開始したことからタリバンはマザリシャリフを制圧することができなかったと供述する点については、1997(平成9)年5月25日に、タリバンがマザリシャリフに侵入したものの、マリク等の攻撃を受け、同月28日に撤退を余儀なくされたという事実に合致する(乙163、3枚目)。 d また、原告が1998(平成10)年8月に、タリバンがマザリシャリフに侵攻し、原告の親戚や友人を含む多くのハザラ人を殺害又は連行したと供述する点や、タリバンが家に来て、原告を連行して1週間にわたり監禁したと供述する点は、同月8日に、タリバンがマザリシャリフを奪取し、その際、数千人のハザラ人の民間人が殺害されたという前記(2)オの事実や、その際、ハザラ人の家を捜索したり、若者を軍用車でマザリシャリフ市内の拘禁施設に連行した上、暴行を加え、あるいはカンダハルに移送しさらには殺害したという公的機関の報告書中の記載(甲1の2、1の3、乙29、142等)等と一致する。 e さらに、原告が、1999(平成11)年後半になると、ハザラ人の連行が相次ぐ等したため、マザリシャリフを出てeに移動したと供述する点や、原告 (甲1の2、1の3、乙29、142等)等と一致する。 e さらに、原告が、1999(平成11)年後半になると、ハザラ人の連行が相次ぐ等したため、マザリシャリフを出てeに移動したと供述する点や、原告が2001(平成13)年3月又は4月ころ、タリバンにより1週間にわたり拘束され、賄賂を渡して釈放されたという点や、同年4月ころタリバンにより父が連行され、妹が殺されたという点についても、タリバンの支配下にある地域の治安状況ないし人権状況について、正式な司法機関や警察機関は存在しないため、市民は恣意的な拘束に脅かされており、タリバンの民兵が市民の監獄からの釈放又は逮捕しないことと引き替えに賄賂を要求する等していたことや、タリバンの民兵は、大小の都市の街路をパトロールしていたが、事前の通告や所有者の承認なくして家宅に入って捜索していたという公的機関の報告書中の記載(甲1の2・訳文10、12頁、乙142・訳文8頁)と一致する。 f これに対し、被告らは、原告が1998(平成10)年8月に、タリバンがマザリシャリフに攻めてきた約1週間後にタリバンに監禁され、その約1週間後に逃走した後、1か月ほど友人や親戚の家を泊まり歩き、アフガニスタンからパキスタンに出国したと供述する(原告本人3日目5ないし22項)ことからすると、原告がパキスタンに出国した時期は、早くとも同年9月20日になるはずであるにもかかわらず、原告は、実際には同年8月27日付けで在ドバイ日本総領事発行の渡航証明書を取得しており(乙157)、原告が自らこの査証を取得したことを認めていること(原告本人3日目23ないし26項)を合わせ考えると、原告がタリバンに監禁されていたとする時期には、原告はUAEにいたことになるはずであり、原告の供述はこの客観的事実と反する旨を主張する。 そこで検討するに 3日目23ないし26項)を合わせ考えると、原告がタリバンに監禁されていたとする時期には、原告はUAEにいたことになるはずであり、原告の供述はこの客観的事実と反する旨を主張する。 そこで検討するに、原告は、被告ら指定代理人から、友人や親戚の家を転々としていた期間について問われた際、正確には覚えていないとした上で、ひょっとすると1か月より多かったか、少なかったと供述した上、その答えに続けて、自分の命が危険にさらされている戦争状態であったため、当時日付を意識することはなく、覚えられる状況でもなかったと自ら供述している(原告本人2日目21項)。そして、戦時下に日付や期間を正確に記憶することが困難であることは原告の供述するとおりであると思われる上、自らが迫害を受けた時期やその態様、その後の逃走の経緯等は、非日常的な体験であるために、記憶の中で強調されて鮮明に印象付けられることもあれば、逆に少なからぬ精神的苦痛を与えるが故に思い出すことが困難になり、あるいは断片的で歪んだものになる場合もあることもまた経験則上明らかである(UNHCRの研修マニュアルである「難民申請者を面接する」(甲13の7)の中にも、「誰にでもある物忘れは、過去の出来事を思い出すのに最大の障害の一つである。庇護希望者の場合、精神的ショックや時間の経過によって、日付、場所、距離、事件や重大な個人的体験までも忘れ去ったり、混乱してしまうことがある。 要領を得ない供述や不正確な情報は、必ずしも申請者が不誠実であるということではない。今までの体験すべてを記憶しておくことを申請者に要求するのは無理である(中略)。時系列順に事件を思い出すのには、とりわけ困難が伴うかもしれない。申請者は精神的・身体的に最も打撃を受けた出来事を記憶していても、その順序をほとんど憶えていないことが多い。(中 無理である(中略)。時系列順に事件を思い出すのには、とりわけ困難が伴うかもしれない。申請者は精神的・身体的に最も打撃を受けた出来事を記憶していても、その順序をほとんど憶えていないことが多い。(中略)面接が進むにつれて、この順序どおりに事件がおこったのではないことが明らかになるかもしれない。(中略)このような混乱自体は、必ずしも意図的な虚偽とはいえない」旨の記載がある。)。また、原告が、上記被告ら指定代理人からの質問を受けるまで、タリバンに監禁された時期及び監禁された期間について陳述書や本人尋問において供述する一方で、親戚の家を泊まり歩いていた期間については明確に述べていなかった点からは、原告が元々この期間について正確な記憶を有していなかったことをうかがうことができるものである。そうすると、そもそも原告が監禁を受けたと供述する時期(1998(平成10)年8月15日前後)と、UAEにいたと推認される時期(同年8月27日ころ)自体は重なっておらず、原告の供述は、原告自身が正確に思い出せないとする親戚の家を泊まり歩いていた期間との整合性に疑問があるというだけであることからは、原告が、迫害を受けたと主張する時期が客観的事実に反するということもできないというべきである。 g また、被告らは、原告が、タリバンに2度目に監禁された時期について2001(平成13)年3月か4月と供述する点は客観的事実に反する旨を主張する。すなわち、原告は、2000(平成12)年11月7日に本邦を出国してから、ドバイ及びペシャワールに1、2か月滞在し、同年12月末から翌年1月初めまでの間にlに戻り、そこで2、3か月暮らした後にタリバンに監禁されたと述べた上、タリバンに監禁された時期は2001(平成13)年3月か4月である旨を供述していたが、他方で原告は2001(平成1 初めまでの間にlに戻り、そこで2、3か月暮らした後にタリバンに監禁されたと述べた上、タリバンに監禁された時期は2001(平成13)年3月か4月である旨を供述していたが、他方で原告は2001(平成13)年3月13日付けで発行されたUAEの滞在査証を自分で受け取ったと供述しており、UAEでは滞在査証の有効期間が6か月を切ると出国できなくなるとも供述しているところ、更新前の同滞在査証の有効期間が同年4月19日までであったこと(乙156)を合わせ考えると、原告は、2000(平成12)年11月7日に日本を出国した後、少なくとも2001(平成13)年3月13日までUAEに滞在していたはずであり、lに戻って2、3か月した後にタリバンに監禁されたとする供述と整合しないことになるというものである。 しかしながら、原告がUAEで滞在査証を更新した(2001(平成13)年3月13日)後、パキスタンを経由してlに戻ったという事実と、原告が2001(平成13)年3月か4月にlで監禁されたとする事実は、それ自体矛盾するものではなく、我が国を出国後UAE及びパキスタンを経由してlに戻り、そこで2001(平成13)年3月か4月ころ監禁されたという点では、原告の供述は入管による事情聴取の段階から一貫しており、被告らの主張のように原告の供述が全体として矛盾しているのは、上記の供述にlに戻ったのが2000(平成12)年末か2001(平成13)年1月初めであって、その後2、3か月してから監禁されたとの供述部分が加わることによるものであるところ、この供述部分は、入管による事情聴取や原告の供述を2001(平成13)年10月ないし11月に聴取して作成された報告書(甲4)中には現れず、今回の入国後約2年が経過した後の2003(平成15)年7月23日にされた原告本人尋問において初 原告の供述を2001(平成13)年10月ないし11月に聴取して作成された報告書(甲4)中には現れず、今回の入国後約2年が経過した後の2003(平成15)年7月23日にされた原告本人尋問において初めてされたものであり、同尋問において、原告がlに戻るまでの時間的経過についてはもはや記憶が定かでないと述べており、パキスタンに滞在していた期間は1週間程度であったかもしれないとも供述していること(原告本人3日目129ないし131項、143項)等を合わせ考えると、むしろ上記供述部分の信用性には疑問があって採用できず、そのことによって原告が当初から一貫して述べている部分の信ぴょう性に疑問が生じるものではない。また、原告は、当初UAEの滞在査証を更新していないと供述していたところ、被告ら指定代理人からこの点を追及されると、更新していないというのは言い間違いであったと述べ(原告本人3日目217項)、その直後今度は原告代理人から、UAEに退去強制されることを恐れて更新していないと述べていたのではないかとの質問されると、今度はそれを認めるような供述をした上、実際にUAEに送還されたアフガニスタン人がいると聞いたことがある旨を供述している(同218ないし220項、247ないし249項)。このような供述の経緯に照らせば、原告は、UAEの滞在査証を更新したことが、難民認定申請の際に不利益に扱われることを恐れて意図的に更新の事実を隠していたものと解するのが相当である。そうすると、原告は、UAEでの滞在査証の更新の事実を隠すために、6度目の出国後lに戻るまでのドバイ、ペシャワールの滞在期間を真実よりも短く述べていたものと推認することも可能である。これらのことからすると、被告らの主張は、原告が迫害を受けたと主張する事実の認定を左右するものではなく採用することが ペシャワールの滞在期間を真実よりも短く述べていたものと推認することも可能である。これらのことからすると、被告らの主張は、原告が迫害を受けたと主張する事実の認定を左右するものではなく採用することができない。 h 以上によれば、原告の供述の概要は、提出された各証拠中に記載された客観的資料の記載と概ね一致するということができる。このうち、原告が個別的に迫害を受けたとする供述の時期や内容が書証として提出された前記各資料中の記載と一致する点については、これらの資料の多くが国内外で比較的容易に入手可能であることに照らせば、原告の供述の信ぴょう性を高めるものとして重要視することはできないが、少なくとも原告の主張する事実と客観的事実との間に齟齬がないという点で、原告の供述の信ぴょう性を裏付けるものとなるものである。 (イ) 内容の自然さ・合理性の有無a 原告の供述は、その内容において概ね自然であって、合理性を有するものである。特に、原告が2度にわたりタリバンに監禁されたとする点については、迫真性に富む具体的供述がされているということができる。 b もっとも、被告らは、原告が、1998(平成10)年8月にタリバンに拘束された後もマザリシャリフに居住し、今回入国まで4度にわたり日本に入国しているにもかかわらず、その間難民認定申請をしていないことは不自然である旨を指摘する。確かに、真に迫害を受けた者であれば、迫害を受け得る状況から一刻も早く抜け出したいと願い、そのように行動するのが自然であると思われるのであって、この点には疑問が残らないでもない。しかしながら、難民認定申請をするか否かは、本来的に申請者の意思に委ねられているのであって、申請者が申請をしないからといって、申請者の抱いている迫害を受けるおそれが一概に低いものということはできないし、原告は、1 民認定申請をするか否かは、本来的に申請者の意思に委ねられているのであって、申請者が申請をしないからといって、申請者の抱いている迫害を受けるおそれが一概に低いものということはできないし、原告は、1998(平成10)年8月の大虐殺以降のマザリシャリフの状況について、タリバンに無差別に虐殺されるという状況ではなくなり、状況は一定程度改善されたことを供述していること、それでもなおハザラ人が連行されるという事件は続いていたため、原告も友人宅や自宅で隠れるように生活していたと供述していたこと(原告本人1日目165ないし175項、甲4)、原告が、アフガニスタンに家族を残しており、同国の状況が好転して欲しいとの希望を持っていた旨供述していること(原告本人1日目192ないし201項、同3日目78項)、及び、難民認定が、難民にとって祖国との断絶という極めて重大な結果をもたらすものであることからは、原告が、3度目以降の出入国の際にもアフガニスタンに戻ったことに被告らが主張する程の不自然さはないものというべきである。このことは、先進諸国におけるアフガニスタン人の難民認定申請者の数が1998(平成10)年には比較的少なく翌1999(平成11)年及び2000(平成12)年にはそれぞれ飛躍的に増加していることからも裏付けることができる(乙142、「RefugeeCouncilofAustralia」による統計、「EuropeanCouncilonRefugeesandExiles」による統計等参照。)また、原告は、3度目の出入国の後一度マザリシャリフに戻ったものの、危険を感じ、家族でeに転居しているのであるから、原告がタリバンに拘束された後、漫然とマザリシャリフに居住していたものでもないこともまた明らかである。したがって、この点の被告らの指摘を ったものの、危険を感じ、家族でeに転居しているのであるから、原告がタリバンに拘束された後、漫然とマザリシャリフに居住していたものでもないこともまた明らかである。したがって、この点の被告らの指摘を重要視することはできない。 c 以上によれば、原告の主張は概して自然で合理的なものと認められる。 (ウ) 供述の一貫性a 原告の供述は、その難民該当性を基礎付ける事実については概ね一貫しており、とりわけ2度にわたりタリバンに監禁されたとする点及び父が連行され、妹Hが殺害された点に関して、原告の供述は、難民認定手続や、違反調査等の手続の中で、一貫して述べられているものと認めることができる。もっとも、以下の各点については、原告の供述に変遷が見られると評価され得ると解されるので、以下検討する。 b 当初の入国経緯について原告は、2001(平成13)年10月3日に行われた入国警備官の取調べにおいて、今回入国の経緯を、アフガニスタンを出国し、同年7月23日ころにパキスタンのカラチに到着し、約1か月滞在した後、同年8月13日ころ、船で横浜港に同年8月13日ころ到着した旨を述べ(乙7の1、7の2)、入国経緯につき虚偽の事実を述べていたが、同年10月3日に行われた第3回目の取調べにおいて、それまで虚偽の供述をしていたことを認め、本訴において主張する入国経緯を供述するに至ったことが認められる(乙7の3)。そして、原告は、虚偽の供述をした理由について、ブローカーからきつく口止めされていたため虚偽の入国経緯を述べたものの、韓国の出国カードを発見されたために言い逃れができなくなって正しい経緯を述べた旨を供述しており、このような供述の変遷の経緯には不自然な点は認められないから、この点が、原告の供述全体の信ぴょう性に影響を与えるものということはできない。 また、被告 なくなって正しい経緯を述べた旨を供述しており、このような供述の変遷の経緯には不自然な点は認められないから、この点が、原告の供述全体の信ぴょう性に影響を与えるものということはできない。 また、被告らは、前記のように、原告がUAEの滞在査証の更新を行っていないとの供述を翻したとして、原告の供述全体の信用性に影響を与える旨の指摘もするが、原告が同査証の更新をしていないと供述していたのは、それによりUAEに送還されてしまうことを恐れてしたものと認められることは前記のとおりである上、本来この点は、迫害の事実と直接関係のない点であるから、仮に原告が虚偽の事実を述べていたとしても、それゆえに、原告についての個別的な迫害の事実等に関する供述の信ぴょう性に直接影響を与えるものともいうことはできない。 cCとの関係について被告らは、原告がCとの兄弟関係について、当初否定した上、Cとは今回入国した後に初めて会ったとする供述をしていたものの、DNA鑑定の結果、原告とCが両親を共通とする兄弟であるとしたときの総合肯定確立を98.43パーセントとする結果が出るや、原告はCと兄弟であることを認め、Cは生まれてしばらくして里子に出されたことや、アフガニスタンにいる頃から原告宅に遊びに来ていたこと、及び1998(平成10)年ないし1999(平成11)年にUAEのシャルジャにあるアル・アマナーで会ったことがある旨の供述を始めており、このような供述の変遷は、原告の供述全体の信ぴょう性に影響を与える旨を主張する。 そこで検討するに、原告は、原告本人尋問第2日目において、Cは、幼いときに里子に出されていたのであって、アフガニスタンでは、里子については兄弟とはいわないため、従前は兄弟関係を否定する供述をしていたものと弁解している(原告本人2日目65ないし67項)。しかしな 幼いときに里子に出されていたのであって、アフガニスタンでは、里子については兄弟とはいわないため、従前は兄弟関係を否定する供述をしていたものと弁解している(原告本人2日目65ないし67項)。しかしながら、原告が、原告本人尋問第1日目において、Cとは何らの血縁関係もないと思うと述べていること(22、23項)や、今回入国後に初めてCと知り合ったと述べていたこと(24項)等からすると、原告は、Cと兄弟であることを意図的に隠していたものといわざるを得ず、上記弁解は採用できないし、Cが1997(平成9)年と2000(平成12)年の2度にわたって来日する際の査証申請書に添付された原告作成の渡航証明書には、Cの父親が「I」である旨記載されており、原告自身がCの父親が自己の父親と同名であることを認めていることからすると、Cが里子に出されたとの原告の後の供述もまた信用できないと考えるのが相当である。 したがって、この点は、原告が明らかに虚偽を述べるものといわざるを得ない。そして、原告の前記各供述とCのそれ(乙80)を対比すると、家族構成はもとより難民該当性を基礎付ける事情についても両者はかなり異なった供述をしており、仮にCの供述に信用性が認められるとすると、それに反する原告の供述の信用性が認められなくなる関係にある。しかし、Cの供述は、少なくとも今回の来日の直接のきっかけとなったのが、cのeの自宅から父親がタリバンに連行されて帰らなくなったことにあり、その時期等に相違がある点を除くと、原告の父親に関する供述と一致するところであるし(なお、Cは父親が2回にわたって連行された旨供述しているところ、1回目に連行されたのが父親ではなく原告であると読み替えると、原告の供述とほぼ一致することとなる。)、それ以前の出来事に関するCの供述は、時期及び場所に関する点に て連行された旨供述しているところ、1回目に連行されたのが父親ではなく原告であると読み替えると、原告の供述とほぼ一致することとなる。)、それ以前の出来事に関するCの供述は、時期及び場所に関する点においてあいまいであり、この点において、ほぼ同時期にされた原告の供述(甲4)と質的に異なっていると認められるし、Cの法廷における供述態度は原告に比べ明らかに落ち着きのないものであったことは、当裁判所に明らかである。これらのことは、Cが偽名を用いたことに伴って難民性を基礎付ける事実についても虚偽の事実を供述するほかなかったことによるものと認めるのが相当であり、同様のことが家族関係に関する供述についても認められる。このようにCの供述に信用性が認められないことからすると、原告の供述は、Cの供述に反することのみによってはその信用性に疑問が生ずる余地はない。もっとも、原告が、当初Cと兄弟であることを否定していたことからすると、その供述全体の信用性に疑問が生じないでもないが、その点については、上記のように原告の供述内容がCのそれとは質的に異なるものであることに照らすと、Cとの関係について虚偽の供述をしたことを過大視することは相当でなく、供述内容全体に着目してその信用性を判断すべきものというべきである。 d また、被告らは、原告の陳述書(甲第4号証)には、タリバンがマザリシャリフに侵攻した際、n地区には侵入することができなかったと記載されているにもかかわらず、原告は、本人尋問の際、タリバンがサイドバードに侵入し、ハザラ人を連れ去った旨を供述しており、この点を指摘されると、原告は、陳述書の内容や従前の供述は、通訳の誤りである等と述べており(原告本人2日目365、381、383項)、原告の供述には信ぴょう性が認められない旨を主張する。 しかしながら、甲第4号 れると、原告は、陳述書の内容や従前の供述は、通訳の誤りである等と述べており(原告本人2日目365、381、383項)、原告の供述には信ぴょう性が認められない旨を主張する。 しかしながら、甲第4号証中には、n地区は、ハザラ人の勢力が強いところであり、住民はタリバンに強行に抵抗した旨が記載されており、この記載からは、タリバンが同地区への侵攻を試みたものの、住民からの抵抗を受けたことが読みとれるのであって、タリバンがn地区へ侵入できなかったとの陳述書中の前記記載は、タリバンが同地区を結果的に制圧するに至らなかったことを指摘するものと解され、同地区のハザラ人住民にタリバン侵攻により何らの被害が生じていないことを述べたものではないものと解することが十分可能であるから、原告の供述にはそもそも変遷がないものというべきである。そして、このようなニュアンスの違いは、通訳を介して供述が行われている以上、不可避の事柄というべきであって被告らのこの点に関する主張は、あまりに些細な言葉の違いを捉えて供述の信用性が判断に影響するものという主張である点で不相当である。 e その他、被告らは、原告はとりわけ原告本人尋問第3日目において、迫害の事実に関する被告ら指定代理人からの質問に対し、全体としてあいまいな供述に終始しており、矛盾を突かれるとはぐらかした回答をする等と主張する。 しかしながら、被告ら指定代理人の質問には原告の6度の出入国の経路や個々の出入国の際の経由地での滞在期間に関する質問等、相当に詳細な質問が多く含まれるところ、原告が本邦に今回入国までの間に6回入国しており、その都度異なる入国経緯を有すること、迫害を受けたと述べている事実も、1998(平成10)年から2001(平成13)年前後に起きたことであり、尋問の時点はそれから2年以上が経過し、その間 国しており、その都度異なる入国経緯を有すること、迫害を受けたと述べている事実も、1998(平成10)年から2001(平成13)年前後に起きたことであり、尋問の時点はそれから2年以上が経過し、その間、原告が貨物船潜入による密入国や、入管当局による身柄拘束といった異常かつ過酷な事態に遭遇していること等を考慮すれば、原告が、被告ら指定代理人からの質問に即答できず、質問を聞き返したり、曖昧な供述をする点があったからといって、そのことを重要視して供述全体の信用性の問題に結びつけるのはあまりに早計であるといわざるを得ない。 また、原告が自己の供述を信用せず身柄拘束までした入管当局の関係者に対して敵意を抱き、その質問に素直に応じないことには無理からぬものがあり、被告ら指定代理人の質問に対する原告の供述内容を吟味する際には、この点にも十分留意すべきである。 f 以上によれば、原告の供述は、Cとの兄弟関係及びUAEの滞在査証の更新に関する部分を除いて変遷は見られず一貫したものと認めることができるし、上記2点についても原告の難民該当性に関する事実認定を左右するものではないというべきである。 (エ) その余の被告らの主張についてa 被告らは、原告の今回の入国の真の目的は、組織的背景を有する不法就労活動にあると主張する。 その根拠として、被告らは、原告が中古車部品販売を行うアル・アマナ社の取締役であること(乙149添付資料1及び3)、原告には平成7年以降、今回入国までに6回の入国歴があり、いずれも渡航目的が「Business」とされていたこと(乙148)等を挙げるほか、原告は、C及びDと同一場所で摘発されており(乙166)、Cについては、アル・アマナ社の従業員であるEと同一人であり(乙161)、原告と兄弟関係にあることが判明している上、Dについても、同社の か、原告は、C及びDと同一場所で摘発されており(乙166)、Cについては、アル・アマナ社の従業員であるEと同一人であり(乙161)、原告と兄弟関係にあることが判明している上、Dについても、同社の従業員であるFと同一人であり原告と親戚関係にあることが判明していること(乙162)や、同社の従業員数は6人ないし8人であり、取締役を務める原告は、社員に対し身元保証書を発行できる立場にあり(乙149)、原告とC及びDは、いずれも過去の本邦入国時の外国人登録上の居住地及び本邦に在留していた時期が重なっており(原告本人2日目211項、234項、乙152の1)、3人は互いに面識を有していたことが明らかであること、原告ら3人は、いずれも2000(平成12)年10月ないし2001(平成13)年3月までに本邦入国のための査証申請をしたものの、いずれも査証が発給されなかったために、本邦における中古車自動車部品販売が困難になり、難民認定されることにより本邦に在留しようと企て、難民認定され易くするために、3人は親族関係にあり同一の会社に属することを秘匿していたと解されること等を主張する。そして、原告らを含む中古車自動車販売業に関わるアフガニスタン人が難民認定申請をするに当たり、被告らは、G証人が不可欠の役割を果たした旨等を主張する。 しかし、本件第1事件に伴って申し立てられた執行停止申立事件(当庁平成14年(行ク)第1号事件)の疎甲第24、25号証によると、我が国では、平成12年夏ころからアフガニスタン人が我が国へ入国しようとする際に必要な渡航証明書の発行事務についての審査を厳格化し、その結果、アフガニスタン人に対する入国査証発行件数は、平成11年の1118件に対して平成12年は584件、平成13年は1月から10月までで24件と激減していることが認められ、 ての審査を厳格化し、その結果、アフガニスタン人に対する入国査証発行件数は、平成11年の1118件に対して平成12年は584件、平成13年は1月から10月までで24件と激減していることが認められ、このこと自体が異常なものといわざるを得ないし、この間、前記(イ)bのとおり、他の先進諸国においてアフガニスタン人の難民認定申請者が急増していることと対比すると、多数のアフガニスタン人が密入国を企てた背景には、このような我が国の対応があったことに留意しなければならない。 そして、原告の過去の入国歴や、C及びDとの関係については、被告らの指摘するとおりであって、これらの事情を総合的に考慮すれば、原告ら3人が難民認定申請をする際、中古車部品販売を継続したいという意図をも持っていたことが一定程度推認される。しかしながら、難民申請者が、母国から出て別の国で難民申請をする際には、その国で生活していく必要性があることから、過去に訪れた経験のある国や、自分が生計を立てることのできる見込みのある国をできる限り選択した上で難民認定を受けたいと考えることは人間として自然な感情であって、難民申請者の心情のうちに難民認定を受ける希望と就労の希望が併存したからといって、それ自体責められるべき点は存在しない。そうすると、過去に原告が6回にわたり日本に入国していたという事実から、原告が迫害の事実をねつ造した上、日本での居住・就業を望み難民認定申請をすることとしたと断定するのは短絡にすぎるというべきである。また、原告が、C及びDとの関係を当初明らかにしなかった点についても、両名がそれぞれ身分を偽った上で難民認定申請をしていたこと、原告が両名と親族であることを合わせ考えれば、原告が真実を語ることに躊躇をおぼえていたことは一定程度理解可能であって、この事実が原告の難民該当性の れぞれ身分を偽った上で難民認定申請をしていたこと、原告が両名と親族であることを合わせ考えれば、原告が真実を語ることに躊躇をおぼえていたことは一定程度理解可能であって、この事実が原告の難民該当性の判断に決定的な意味を持つものということもできない。 b また、被告らの主張は、原告が日本における中古車部品販売事業を継続するために、真実は迫害を受けた事実が存在しないにもかかわらず、難民であるかのごとく偽装して難民認定申請をしたというものである。しかし、日本においては、2000(平成12)年の難民認定申請件数は216件であるのに対し、同年に認定された件数は22件、2001(平成13)年は申請件数は353件であるのに対し、認定件数は24件にすぎない。また、アフガニスタン国籍を有する難民認定申請については、1998(平成10)年1月1日から2001(平成13)年11月30日までの間に難民認定申請をした者は149人であるが、このうち認定を受けた者はわずか6名にとどまっていることは、当裁判所に顕著である。また、前記のように2001(平成13)年に入ると我が国はアフガニスタン人に対する査証の発給を極度に制限しているのである。これらのことをアフガニスタン人からみれば、我が国は以前からアフガニスタン人を保護しようという姿勢に欠けたばかりか、この時期はさらにその傾向を強めて入国すら拒否しようとしているものと理解できるのであって、そのような国で難民として認定されることは期待できないと考えるのが通常であると考えられる。また、我が国には常時相当多数の不法入国又は不法滞在者が存在することは当裁判所に顕著であり、原告のように度々来日している者は、このような実態についてもある程度認識しており、あえて難民としての保護を受けなくても我が国に一定期間事実上留まることは可能 者が存在することは当裁判所に顕著であり、原告のように度々来日している者は、このような実態についてもある程度認識しており、あえて難民としての保護を受けなくても我が国に一定期間事実上留まることは可能であると認識していたものと認められる。そして、法の規定上、難民認定を受けた者に対して本邦における在留資格が付与される制度にはなっておらず、難民と認定された者に対して退令が発付され、第三国に送還されることも制度上予定されていること(法53条)にかんがみれば、原告が難民であるかの偽装をしたとしても本邦に在留して事業を継続することができる見込みがあったとは到底考え難い。さらに、難民認定がされた場合であっても、本邦への不法入国の事実について不問に付されることになるわけではなく、有罪判決を受けた上で刑の免除を受け得るにとどまるのであるから(法70条の2参照)、原告が自ら入管に出頭して不法入国の事実を自白し、難民の偽装をして難民認定申請することが、原告の事業の継続にとって利益に働くものとは解し難い。これらのことからすると、仮に被告らの主張するように原告の本邦入国の目的が単に中古車部品買い付けにあったのであれば、何らの調査も受けていない段階で入管に自主的に出頭して不法入国した事実を自白し、難民認定申請をするとは考え難いというべきである。 c さらに、被告らが、Gの役割について論じる点については、Gが通訳を務めた難民申請者の供述に一定程度の共通点が見られたとしても、そのことをもってGが申請者に虚偽の事実を記載するよう教え、手引きしていたと即断することはできず、Gの証人尋問の結果からも、このような事実を認めることはできない。また、G自身が、かつて難民不認定処分を受け、同処分の取消しを求める訴えを当庁に提起したものの(乙129)、同訴え提起後に在留資格が付 の証人尋問の結果からも、このような事実を認めることはできない。また、G自身が、かつて難民不認定処分を受け、同処分の取消しを求める訴えを当庁に提起したものの(乙129)、同訴え提起後に在留資格が付与されたため、同訴えを取下げたところ(乙130の1)、Gが当部に提出した取下書に難民であることが考慮されて在留資格が付与された旨の記載がされていたことに対し、同訴えの被告法務大臣は、そのような事実はないと強く反発して取下げに同意せず、Gが上記記載を撤回した取下書(乙130の2)を改めて提出したことにより、ようやく取下げに対する同意が得られたことは当裁判所に明らかである。そうすると、Gについては、難民であった事実や難民認定申請をしていたという事実は在留資格を得る際の考慮要素にすらならなかったものというべきであるから、偽装難民が難民認定の獲得に成功すると信じてGに手引きを依頼しているということ自体、合理性に欠ける推測であるというべきである。そもそも被告らは、本件第3回口頭弁論期日において、被告らが主張する原告らの今回入国の組織的関連性について、証拠は所持していないと明言していることが当裁判所に明らかであることからは、被告らが各処分の際、確たる証拠もないままに、本件が真の目的は就労である組織的不法入国事案であると即断していたことがうかがわれ、不当であるといわざるを得ない。 (オ) 以上の事実によれば、原告の供述は、客観的な資料によって裏付けられ、その内容において自然で合理的なものということができ、さらに、概して一貫性が認められるというべきである。そして、原告の供述に変遷が見られる部分のうちには、被告らの指摘が当たる部分が認められることは前記のとおりであり、また、原告が日本で難民認定申請をした動機には、就労目的も含まれていること、原告が自らの難民 原告の供述に変遷が見られる部分のうちには、被告らの指摘が当たる部分が認められることは前記のとおりであり、また、原告が日本で難民認定申請をした動機には、就労目的も含まれていること、原告が自らの難民認定手続あるいは親族の同手続を有利に進めるために、虚偽の事実を述べていたとうかがわれる部分もあることは否定できないものの、これらの点は、いずれも原告の難民該当性と直接の関わりのない部分に関する供述であって、これらの事実から、原告が迫害を受けたとする供述の信用性を全面的に否定する程のものとは考えられないというべきである。 ウ小括(ア) 以上によると、原告が、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であって、前記のようなアフガニスタンにおける状況下で、原告が、シーア派ハザラ人であることを理由として、タリバンによって迫害を受けたとする供述は十分信用することができるし、そのことを前提とすると、通常人が原告の立場に置かれたとしても、本国に帰国すればいつ何時同様の事態に遭遇するかも知れないと考えるのが相当であるから、迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在するものと認められる。したがって、本件不認定処分及び本件退令発付処分当時、原告は、難民条約及び難民議定書所定の難民に該当するものと認められる。 (イ) したがって、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、この点を看過してされた本件不認定処分には、少なくとも重大な瑕疵があるというべきであり、難民認定処分が難民該当性を有する者に対してもたらす結果の重大性にかんがみれば、本件不認定処分は当然に無効なものというべきである。 (ウ) また、難民条約33条は、締約国は、難民をいかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威に いうべきである。 (ウ) また、難民条約33条は、締約国は、難民をいかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない旨を定め、法53条3項には、法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除き、前2項(退去強制を受けるものの送還先を定めるもの)には難民条約33条1項に規定する領域の属する国は含まないものとすると定められているところ、本件退去強制令書は、その送還先をアフガニスタンとしており、前記のとおり、原告が本件不認定処分当時において難民に該当すると認められ、その後、本件退令発付処分時までに特段の事情が生じたと認めるに足りる証拠が存しない以上、原告をアフガニスタンに送還することは許されず、本件で原告に発付された退去強制令書は、送還先の記載に誤りがあることは明らかといわざるを得ない。 もっとも、法51条及び法施行規則45条の規定からすると、送還先は、退去強制令書に記載が求められる法的事項ではなく、退去強制令書は、それを受ける者に本邦から退去をせよとの意思表示をすることを本質とするものであって、送還先の記載は、処分が有する本来の効力に関する記載ではなく、同令書の執行の便宜のために記載されたものとみることもできるのであり、そのような解釈にたった場合、送還先の記載に誤りがあることは、直ちに退去強制令書発付処分全体を違法なものとするには疑問が生じないでもない。しかし、弁論の全趣旨によれば、現在の退去強制の実務において、退去強制令書発付処分の効力は、我が国からの退去のみならず、退去強制令書の送還先に記載された特定国への送還を本質とするものとして取り扱われており、被告審査官も送還先を退去強制令 強制の実務において、退去強制令書発付処分の効力は、我が国からの退去のみならず、退去強制令書の送還先に記載された特定国への送還を本質とするものとして取り扱われており、被告審査官も送還先を退去強制令書の本質的要素ではないとの解釈を前提とした訴訟活動をしていないことが認められ、これらを前提とすると、送還先の記載に誤りがある場合には、退去強制令書全体を違法なものとしてこれを取り消さない限り、当該送還先への送還を阻止する手段がないことになるのであるから、上記のような解釈を前提としても、同令書全体を取り消し得ると解さざるを得ない。 第4 結論以上によれば、原告の本件裁決の取消しを求める訴えは不適法であるからこれを却下するものとし、その余の本件不認定処分の無効確認を求める請求及び本件退令発付処分の取消しを求める請求は、いずれも理由があるから認容することとし(予備的請求は判断の必要がない。)、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法64条ただし書及び61条を適用して、主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第3部裁判長裁判官藤山雅行裁判官新谷祐子裁判官加藤晴子当事者目録原告  A第1事件被告東京入国管理局主任審査官第2・第3事件被告法務大臣

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