主文 1 被告法務大臣が,原告に対して平成14年1月16日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく異議の申出は理由がないとの裁決を取り消す。 2 被告名古屋入国管理局主任審査官が,原告に対して平成14年1月18日にした退去強制令書の発付を取り消す。 3 原告の被告法務大臣に対するその余の請求を棄却する。 4 訴訟費用はこれを3分し,その1を原告の,その余は被告らの各負担とする。 事実及び理由 第1 請求 1 被告法務大臣が,原告に対して平成14年1月16日付けでした難民の認定をしないとの処分を取り消す。 2 主文1,2項と同旨第2 事案の概要(以下,年号については,本邦において生じた事実は元号を先に,本邦外において生じた事実は西暦を先に表記する。)本件は,旧ビルマ連邦(現ミャンマー連邦。以下,国名の変更があった1989(平成元)年6月18日を境に,これより前は「ビルマ」,同日以後は「ミャンマー」という。また,同名の民族,言語については,その前後を問わず「ビルマ民族」又は「ビルマ人」,「ビルマ語」といい,国籍で区別するときは「ミャンマー人」という。)において出生した原告が,被告法務大臣(以下,本件における被告としてのそれを「被告大臣」という。)に対して難民認定申請をしたところ,同被告が原告に対し難民の認定をしない処分をし,次いで原告に不法入国の退去強制事由がある旨の入国審査官の認定に誤りがないとの特別審理官の判定に対してした異議の申出は理由がないとの裁決をしたため,同被告に対してこれらの取消しを求め,さらにその裁決に基づいて被告名古屋入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)が原告に対する退去強制令書を発付したため,同被告に対してその取消しを求めた事案であ これらの取消しを求め,さらにその裁決に基づいて被告名古屋入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)が原告に対する退去強制令書を発付したため,同被告に対してその取消しを求めた事案である。 1 前提となる事実(1) 原告の身上と本邦への入国原告は,1967(昭和42)年1月4日に出生したミャンマー国籍を有する外国人であり,平成4(1992)年6月22日,他人(a)名義のミャンマー旅券を用いて,名古屋空港に到着した。 原告は,同空港において,名古屋入国管理局(以下「名入管」という。)名古屋空港出張所入国審査官に対し,渡航目的「訪問(Visit)」,日本滞在予定期間「10日間」として上陸申請を行い,同入国審査官から,在留資格「短期滞在(TemporaryVisitor)」及び在留期間「15日間」の許可を受け,本邦に上陸した(乙3)。 (2) 退去・収容関係手続ア原告は,平成11(1999)年12月6日,帰国を希望して名入管に出頭申告した。そこで,名入管入国警備官は,同日,原告について違反調査を実施し(乙5の1及び2),同年12月9日に再度出頭するよう求めた(乙5の3)が,原告は出頭しなかった。 イ名入管入国警備官は,原告が平成13(2001)年11月2日に出入国管理及び難民認定法(以下,法律名を示すときは「入管難民法」と,条文を示すときは単に「法」という。)70条1項5号違反(不法在留)の被疑事実により逮捕(乙4),勾留された(甲7)ことから,同月21日,名入管主任審査官から収容令書(乙7)の発付を受け,同月22日の不起訴(起訴猶予)処分(乙6)後,これを執行して名入管収容場に収容するとともに,同年12月6日まで4度の違反調査をした(乙8,10ないし12)。 他方,名入管入国審査官は,同年11月22日に入国警備官 (起訴猶予)処分(乙6)後,これを執行して名入管収容場に収容するとともに,同年12月6日まで4度の違反調査をした(乙8,10ないし12)。 他方,名入管入国審査官は,同年11月22日に入国警備官から原告の身柄の引渡しを受け(乙9),同年12月14日まで4度にわたり違反審査をした(乙13ないし16)結果,同日,原告が法24条1号(不法入国)に該当すると認定し,その旨通知した(甲3,乙16,17)。 ウ原告は,この認定を不服として,前同日,法48条1項に基づき,名入管特別審理官に口頭審理の請求をした(乙16)が,名入管特別審理官は,同月20日の口頭審理(乙20)の結果,同認定に誤りがないと判定してその旨原告に通知した(甲4,5,乙18,21)。 エ原告は,この判定を不服として(乙20),同日,法49条1項に基づき,被告大臣に異議の申出をした(乙22)が,同被告は,平成14(2002)年1月16日,その理由がない旨裁決し(以下「本件裁決」という。),同月18日,これを被告主任審査官を通じて,原告に通知した(甲2,乙23,24)。 オ被告主任審査官は,同日,原告に対して,送還先をミャンマーとする退去強制令書(以下「本件退令」という。)を発付した(乙25の1。以下「本件発付」という。)。 カ原告は,平成14(2002)年2月14日,法務省入国者収容所西日本入国管理センターに移収された(乙25の2)が,同年6月3日,仮放免を許可された(乙26)。 (3) 難民認定申請関係手続ア原告代理人bは,前記入管難民法違反(不法在留)の嫌疑により原告が勾留中であった平成13(2001)年11月20日,政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるとして,被告大臣に対して難民認定申請書を提出したところ,名入管は,難民認定申請の代理人資格を制限した法施行規 であった平成13(2001)年11月20日,政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるとして,被告大臣に対して難民認定申請書を提出したところ,名入管は,難民認定申請の代理人資格を制限した法施行規則55条を理由として,原告の同申請の意思が確認された同月22日付けをもって受理した(甲6の1及び2,乙27,86,87,弁論の全趣旨。以下「本件難民申請」という。)。 被告大臣は,難民調査官による2度の調査(乙28,29)の結果,平成14(2002)年1月16日,本件難民申請が,法61条の2第2項所定の期間を経過してされたものであり,かつ,原告の申請遅延について,同項ただし書の規定を適用すべき事情は認められない旨を理由として,原告に対して難民の認定をしない処分をし(甲1,乙30。以下「本件不認定処分」という。),同月18日,これを原告に通知した。 イ原告は,本件不認定処分を不服として,同月22日,被告大臣にこれに対する異議の申出をし(甲64,乙31),現在被告大臣において審理中である。 (4) 本件訴訟の提起原告は,本件訴訟を平成14(2002)年4月12日に提起した。 2 主な争点(1) 本件不認定処分の適否ア難民認定申請期間制限条項(法61条の2第2項本文。以下「60日ルール」という。)の合憲性等の有無イ 「やむを得ない事情」(同項ただし書)の有無ウ適正手続の履行の有無エ原告の難民性の有無(2) 本件裁決の適否(3) 本件発付の適否 3 争点に関する当事者の主張(1) 争点(1)ア(60日ルールの合憲性等の有無)について(原告の主張)ア国際法及び憲法98条2項違反(難民の待遇に関する国際慣習違反)我が国は,難民の地位に関する条約(以下,単に「条約」という。)及び難民の地位に関する議定書(以下,単に「議定書」 (原告の主張)ア国際法及び憲法98条2項違反(難民の待遇に関する国際慣習違反)我が国は,難民の地位に関する条約(以下,単に「条約」という。)及び難民の地位に関する議定書(以下,単に「議定書」といい,条約と併せて「条約等」という。)の締約国として,条約1条に定義する難民に該当するすべての者に対して様々な便宜を供与する義務を負うから,条約等上の難民に該当する者が難民としての庇護を求めた場合に,こうした便宜を与えないことは許されない。そして,条約の基本構造に照らせば,人は,認定を経て難民となるのではなく,認定は難民であることを確認し,宣言するものであるから,上記の定義に含まれている要件を満たすや,特別の難民認定手続を経ることなく,直ちに条約等上の難民として扱われるべきである。したがって,条約等は,締約国により条約等上の難民に当たる者がそのまま正確に難民であると認定されることを要請しており,仮に国内法の難民認定手続が,条約等上の難民に当たる者のうち一定の者を難民と認定しない結果をもたらすようなものである場合,その手続規定は,条約等に違反する疑いが極めて濃いといわなければならない。現に,欧州諸国をはじめとする先進国において,難民認定申請に期間制限を設けている国はほとんどなく,設けている米国,ベルギー等においても,例外を認める扱いを採っている。 もっとも,条約等は,難民認定手続について具体的な規定を置いていないから,日本を含めた条約等の締約国は,自国が妥当と考える行政的・司法的認定手続を選択することができ,難民認定申請者に対して,申請を一定期間内に行うよう求めることはできる。しかしながら,条約等は,被告らが想定するようなフリーハンドの難民認定手続を設けることを許容しているわけではなく,条約等の上記趣旨・目的に適合する必要があるので,手続 に行うよう求めることはできる。しかしながら,条約等は,被告らが想定するようなフリーハンドの難民認定手続を設けることを許容しているわけではなく,条約等の上記趣旨・目的に適合する必要があるので,手続上の要件欠缺を理由に難民の権利及び基本的自由の否定という結果を招くような慣行は,いかなるものであっても許されない。この点について被告らは,c氏の難民不認定処分に関する最高裁判所平成9年10月28日第三小法廷判決を援用するが,同判決は,法規その他の法原則の適用に関して一定の判断を示したものではなく,拘束力を有するものではないし,c氏は,その後の第2,3次難民認定申請のいずれかが理由ありと認められ,難民として認定されてもいる。したがって,その期間内に申請がない場合でもその者の申請を検討の対象から除外すべきでなく,難民性の実体判断を行わなければならないというのが条約等から導かれる論理的帰結である。そして,60日という極めて短期間の申請期間を定めた法61条の2の規定をこれに適合するように解釈するならば,上記申請期間は,単に努力目標を定めたものと解釈するか,その例外としての「やむを得ない事情」をかなり広く解して,期間経過後の難民認定申請についても難民性の実体判断をすることが原則となるような解釈をするほかない。 しかるに,被告らの主張するように,申請期間の遵守を難民性の実体審査に入る前にクリアされるべき条件と位置付け,「やむを得ない事情」を極めて限定的に解するならば,条約等上の難民であるにもかかわらず,難民認定申請が60日以内に行われないという理由によって難民と認定されない者を制度的に生み出すものとして,「入管難民法上の難民」と「条約等上の難民」という2種類の難民概念を作り出すに等しく,合理性を欠く。そのような解釈では,条約7条ないし34条の各個別条 と認定されない者を制度的に生み出すものとして,「入管難民法上の難民」と「条約等上の難民」という2種類の難民概念を作り出すに等しく,合理性を欠く。そのような解釈では,条約7条ないし34条の各個別条項に定められた各種の難民保護措置(特に33条1項のいわゆるノン・ルフルマン原則,28条の旅行証明書の発給,7条の相互主義の適用の免除,27条の身分証明書の発給,22条2項の教育に関する待遇等)を全うすることができない。 この点について,被告らは,例えば退去強制手続に関する法53条3項によってノン・ルフルマン原則が保障されていると主張するところ,第三国に送還するためにはその国の承諾等が必要であるが,その受入れについては何らの制度的保障もないし,我が国では現実に法務省(入国管理局)のいう「国益」を重視する裁量判断が先行していて,現行の退去強制手続は何ら同原則の担保になっていないことは明白であること,また,恩恵的な在留特別許可制度によって同原則が担保されるということ自体深刻な矛盾であることなどを考慮すると,入管難民法は,本来,難民認定手続における難民認定を通じてノン・ルフルマン原則等を担保することを予定しているというべきである。 以上の法理は,国連難民高等弁務官事務所(以下「UNHCR」という。)執行委員会結論15号が「庇護なき難民の決議」において,「難民として保護を求める人々がその難民認定申請を一定期間内にしなければならないと定められている場合にも,そのような期間を遵守せず,ないしはその他の形式上の要件を履行していないことを理由として難民申請を審査の対象から除外してはならない。」と定めていることからも明らかであり,短期間内に難民認定申請をしない条約上の難民に対して,難民としての庇護を与えないことが許されないことは,国際慣習として確立しているとい から除外してはならない。」と定めていることからも明らかであり,短期間内に難民認定申請をしない条約上の難民に対して,難民としての庇護を与えないことが許されないことは,国際慣習として確立しているというべきである。 この点について,被告らは,条約等上の難民でありながら60日ルールによって難民と認定されなくとも,条約上の保護措置の利益は,一部を除いて,(ア)難民であるか否かに関わらず享受し得るか,又は(イ)各行政機関が難民であるとの個別的判断を行うことによって享受し得ると主張するが,難民認定という複雑な判断を各行政機関がその都度行うことは効率的でないし,行政の不統一を露呈することにもなりかねず,また条約等上の義務履行に問題を生じかねないので,我が国においては,法務大臣の難民認定を受けずに各行政機関が個別に難民性を判断することはできない(いわゆる統一認定方式)と解すべきであり,難民と認定された者に交付される難民認定証明書,難民旅行証明書は,まさに統一的な認定を行うべき機関である法務大臣が難民と認めた証明書となる。被告らが,(ア)難民と認定されているか否かに関わらず利益を享受することができるという保護措置は,認定難民に限り保護措置を認める通達等が実務を羈束しているか,そもそも条約から解釈される保護措置に当たらないかのどちらかであるし,(イ)各行政機関等の判断により実施される保護措置があるというのも,現実と乖離している。 さらに,被告らは,難民が迫害の恐怖から早期に逃れるために速やかに他国の保護を求めるのが通常であり,早期に保護を求めなかったことは,難民に当たるとの主張の信ぴょう性を疑わしめるかのような主張をするが,多くの難民は当局の人間に不信感を抱くに十分な経験をしてきて,不正規在留者の場合,難民認定申請をすることによって逆に本国に送還され 民に当たるとの主張の信ぴょう性を疑わしめるかのような主張をするが,多くの難民は当局の人間に不信感を抱くに十分な経験をしてきて,不正規在留者の場合,難民認定申請をすることによって逆に本国に送還されるのではないかという恐怖心が非常に強い上,自分以外の人を危険にさらすことを恐れている可能性もあるから,速やかに難民認定申請をしなかった事実を難民非該当性に直結させることは,重大な事実誤認又は経験則違背である。日本では,難民認定手続が外国人に周知されていないため,申請期間に制限があること自体があまり知らされておらず,手続的に不透明であることに加え,難民行政が(必要以上に)厳格に運用されていて,そのことが申請者の懸念を一層増幅させており,このような難民の特殊性を何ら考慮することなく,申請の時期を信ぴょう性の判断要素とするどころか,それによって難民性の判断そのものを放棄するような運用及びその理由付けとしての被告らの主張は,全く妥当性を欠くものとして,我が国が何らの留保を付さずに条約を批准していることと矛盾し,条約等や国際慣習法を含めた国際法,ひいては条約の国内的効力を認めた憲法98条2項に違反する。 イ憲法31条違反憲法31条の適正手続保障規定は,行政手続にも準用され,難民認定申請者が正当な理由なく難民認定申請を行う機会を奪われないこと,難民認定手続の準備のために十分な時間を与えられることを保障するところ,60日ルールは,短期間の経過をもって,本人の難民該当性の有無を審査することなく難民認定を拒絶することにより,我が国における庇護の可能性を否定するという結果をもたらすものであって,憲法31条に違反する。 (被告らの主張)ア国際法及び憲法98条2項適合性原告の主張アは争う。 原告の主張は,以下のとおり,条約等の国際法及び我が国の法制度を いう結果をもたらすものであって,憲法31条に違反する。 (被告らの主張)ア国際法及び憲法98条2項適合性原告の主張アは争う。 原告の主張は,以下のとおり,条約等の国際法及び我が国の法制度を正解しないものであって,失当といわざるを得ない。 条約が,難民の定義及び締約国の採るべき「保護」措置について相当に詳細な規定を置いているにもかかわらず,難民認定手続については何ら定めていないのは,各国の置かれた政治的,社会的,経済的,地理的等々様々な与件の下で,外国人(難民も外国人である。)の入国・滞在を許容するか否かを各主権国家の裁量に委ねてきた伝統的な国際法の原則の修正を受け容れることは困難であるという共通の認識が国際社会に存在し,これを反映して各国の出入国管理制度がかなり不揃いであること,難民の入国・滞在については一国の負担が他国の利害と複雑に絡まっていること等の理由によるものである。したがって,そもそも条約の下で,締約国は,難民を積極的に受け入れる義務,すなわち,難民を「庇護」する義務を課されていないのであって,条約等は,締約国が受け入れた難民に対して当該締約国が一定の「保護」を与えることを義務付けているにすぎず,認定手続を定めるか否か,定めるとした場合にどのように定めるかについても,各締約国の立法政策上の裁量に委ねているから,条約等上の難民に該当する者であっても,自分の希望する締約国に入国できず,難民申請もできない場合が理論上生じ得ることを当然に認めている。このことは,原告と同様の主張を明確に排斥した最高裁判所平成9年10月28日第三小法廷判決(いわゆるc判決)からも明らかである。 我が国においては,入管難民法が難民認定手続について規定しているところ,60日ルールを含む法61条の2第2項の規定も,難民認定申請の手続的要件であり 廷判決(いわゆるc判決)からも明らかである。 我が国においては,入管難民法が難民認定手続について規定しているところ,60日ルールを含む法61条の2第2項の規定も,難民認定申請の手続的要件であり,これに違反して不適法な申請をした者が難民認定を受けられないのは当然であって,同項は,条約等の定める「難民」の要件を加重してその概念を変更し,又はその法的効果を排除し若しくは変更するものではないから,条約42条による同1条の留保禁止に何ら反するものではない。難民として受け入れ,条約上の「保護」を与えるか否かは,締約国が主権的判断に基づいて決定すべき事項であり,このことは,条約前文が難民を自国の領域内に受け入れて滞在を認めることを意味する「庇護」と,難民に対して種々の権利ないし利益を付与することを意味する「保護」とを明確に区別していることや,条約の起草過程における議論等からも明らかである。 この点について,原告は,UNHCR執行委員会の見解を援用するが,条約の解釈は,条約締約国の意思に適合するように条約の規定の意味と範囲を確定させるものであるところ,UNHCR執行委員会は,条約によって設立されたものではなく,飽くまで第三者機関にすぎないのであって,締約国の合意を離れて締約国がその見解に拘束されるものではない。しかも,同委員会の結論15号は,難民認定手続に関するものではなく,当該難民を受け入れる国がない難民に対し,庇護を与えるよう最善の努力をすべきであるという指針を示したものにすぎないし,そもそも同委員会の結論30号も,明らかに理由がないとみなされる申請を迅速に処理するための特別の規定を置くことができる旨述べており,申請期間の制限を禁止するようなことは全く述べておらず,ましてそれを禁止する国際慣習法は存在しない。現に,米国では到着してから1年 を迅速に処理するための特別の規定を置くことができる旨述べており,申請期間の制限を禁止するようなことは全く述べておらず,ましてそれを禁止する国際慣習法は存在しない。現に,米国では到着してから1年以内,ベルギーでは不法入国者の場合入国から8勤務日以内,スペインでは同様に入国後1か月以内の期間に難民認定申請すべきことを定めている。 また,60日ルールが適用される結果,条約等上の難民でありながら難民と認定されない場合であっても,条約上の保護措置の利益は,難民旅行証明書の発給(法61条の2の6第1項,条約28条)を除いて,(ア)難民であるか否かにかかわらず享受し得るもの(教育や労働法制・社会保障に関する保護措置,身分証明書の発給,合法にいる難民の国外追放の禁止など)か,(イ)関係行政機関等が個別に難民性を判断して実施することによって実質的に享受することが可能なもの(ノン・ルフルマン(送還の禁止)原則,相互主義の適用免除,属人法の問題,避難国への不法入国・不法滞在の刑事免責など)であるし,難民旅行証明書を有していなくても,我が国に合法的に滞在する難民は,旅券と同様のものとして取り扱われている再入国許可書の交付を受けて(法26条)海外渡航することは可能であり,運用実態等を入管難民法の条約適合性の判断要素として考慮しようとする原告の主張は,不適切である上,その指摘する通達等についても,認定を受けていない難民について何らかの制限を設けたものではなく,その趣旨を正解していない。 そもそも,避難国に不法にいる難民については,遅滞なく当局に出頭することを要件として刑罰が免除されることを定めた条約31条1項,庇護希望者は庇護を求める意思を庇護国当局又はUNHCRに速やかに伝えなければならない旨記載されたUNHCR作成の「難民認定研修マニュアル」並びに先進 して刑罰が免除されることを定めた条約31条1項,庇護希望者は庇護を求める意思を庇護国当局又はUNHCRに速やかに伝えなければならない旨記載されたUNHCR作成の「難民認定研修マニュアル」並びに先進諸外国の国内法令の規定及び行政・司法解釈に照らしても,難民が迫害の恐怖から早期に逃れるために速やかに他国の保護を求めるのが通常であることが,一般的な経験則として認められているところ,原告の主張するように難民認定申請に期間制限を設けていない条約の締約国もあることは確かであるとしても,このことによって同経験則が何ら否定されるものではなく,このような経験則が認められる場合に,それを難民該当性の信ぴょう性の判断の資料として使用するにとどめるのか,それとも,それを基礎として,我が国のように,難民認定行政の適正かつ円滑な実施を図るという目的達成のために,合理的な期間制限を設けるのかは,条約等が各締約国の裁量に委ねている事柄であり,法61条の2第2項は,こうした経験則を基礎として,難民認定行政の適正かつ円滑な実施を図るという目的達成のために設けられた規定である。 そして,仮に上陸後60日を経過した後に行われた難民認定の申請であっても,法61条の2第2項ただし書に規定する「やむを得ない事情」が認められる場合には,60日の期間内にされた申請と同様に難民性の有無を判断され得ることをも併せ勘案すれば,同項の規定が,条約等の趣旨に照らし合理性を欠くとは解されず,憲法98条2項に反するともいえない。 イ憲法31条適合性原告の主張イは争う。 法61条の2第2項は,前記のとおり,我が国の実情にあった合理的かつ適正な手続を定める規定である。 すなわち,法務大臣は,上陸後60日を過ぎて申請があった場合でも申請を受理してやむを得ない事情があったか否か等を判断しているの とおり,我が国の実情にあった合理的かつ適正な手続を定める規定である。 すなわち,法務大臣は,上陸後60日を過ぎて申請があった場合でも申請を受理してやむを得ない事情があったか否か等を判断しているのであり,加えて,仮に法61条の2第2項により難民認定しなかったときでも,条約等上の難民該当性を審査し,難民であると判断されれば,当該外国人は条約で規定されている保護措置の利益を実質的に享受することが可能であり,条約等上の難民に対して何ら不利益を課すものではないから,入管難民法の手続は適正なものであり,憲法31条の規定に反するものではない。 (2) 争点(1)イ(法61条の2第2項ただし書のやむを得ない事情の有無)について(原告の主張)ア難民の特殊性と「やむを得ない事情」の趣旨60日ルールが仮に条約等に反しないとしても,難民の立場で考えれば,難民であることの表明は故国との絶縁という重大な結果をもたらすばかりか,それ自体危険を伴う行為であるから,避難国が信頼に足るか否かに不安を抱く場合もある(日本の入国管理局が難民を認めようとしないことは外国人であれば周知の事実であり,当局に自らの難民性を認めさせるためには,明白な証拠とその翻訳のため等の多大な労力と時間と費用が必要である。)し,差し当たり平穏に在留できていれば迫害を受ける危険から逃れられるから,そのような状態が続く限りは難民であることを秘匿し,それが維持できなくなって初めて,いわば最後の手段として,難民であることを理由に保護を求めるのも無理からぬものと考えられる。そのような実情に照らすと,平穏に在留している以上は難民認定を申請しないことにつき定型的に「やむを得ない事情」があるというべきであって,それが難民申請権の濫用にわたるなど難民としての保護に値しないと認められる特段の事情がなく, に在留している以上は難民認定を申請しないことにつき定型的に「やむを得ない事情」があるというべきであって,それが難民申請権の濫用にわたるなど難民としての保護に値しないと認められる特段の事情がなく,実体審査をするまでもなく難民に該当しないことが明らかな場合でない限りは,原告の難民認定制度に関する知識の有無や申請を決意した時期等にかかわらず,期間徒過のやむを得ない事情があったと解するのが,条約等はもとより,入管難民法の立法目的にも適う。 前記の条約等の趣旨や締約国としての義務にかんがみれば,法61条の2第2項ただし書の「やむを得ない事情があるとき」については,形式的に60日間を過ぎていても,その都度,期間徒過の程度,徒過に至った理由,難民申請者の難民該当性等を総合勘案してその有無を決定すべきところ,その判断が著しく合理性を欠く場合には,裁量の範囲を逸脱するものとして違法性を有すると解すべきである。 イ被告らの主張に対する反論被告らは,申請期間の遵守を難民性の実体審査に入る前にクリアされるべき条件であると位置づけ,「やむを得ない事情」について,病気,交通の途絶等の客観的事情により物理的に入国管理官署に出向くことができなかった場合か,本邦において難民認定の申請をするか否かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をいう旨極めて限定的に解し,その理由として,長期間経過後に難民認定申請がされると事実関係を把握するのが著しく困難となること,我が国に庇護を求める者は速やかにその旨を申し出るべきであること,我が国の地理的,社会的実情からすれば,60日という期間は申請に十分な期間と考えられることを主張するが,迫害から逃走してくる者は,ごく少量の必需品のみを所持して到着することが通常であり,60日ルールを強固に貫いたところで事 からすれば,60日という期間は申請に十分な期間と考えられることを主張するが,迫害から逃走してくる者は,ごく少量の必需品のみを所持して到着することが通常であり,60日ルールを強固に貫いたところで事実関係の把握という観点からはそれほど意味がないこと,速やかに難民認定申請をしないことが難民非該当性を物語るという被告らの主張自体が経験則に反していること,我が国の物理的環境だけで難民性の実体判断をしないことを正当化することはできないことを考慮すれば,かかる解釈は合理性を欠き,条約等に違反することが明らかである。 ウ原告の本件難民申請に係る事情原告は,在留資格は有していなかったが,我が国において平穏に在留していたものであり,日本入国後は頼るべき人物もおらず,難民認定申請についての知識もなく,もちろん60日ルールも知らなかった。したがって,原告に上陸後60日以内に難民認定申請することを期待するのは不可能であり,これができなかったことには相当な理由があるというべきであって,それをもって原告の難民性を否定するようなことが許されるはずがない。原告が入管難民法所定の期間を経過したことには「やむを得ない事情」が存したというべきである。 (被告らの主張)原告の主張は争う。 ア 「やむを得ない事情」の意義入管難民法が,本邦に上陸した日又は本邦にある間に難民となる事由が生じた場合にあってはその事実を知った日から60日以内に難民認定の申請を行わなければならないと定めているのは,難民となる事実が生じてから長期間経過後に難民の認定が申請されるとその当時の事実関係を把握するのが著しく困難となり,適正かつ公正な難民認定ができなくなること,迫害を受けるおそれがあるとして我が国に庇護を求める者は,速やかにその旨を申し出るべきであり,速やかに難民認定申請をしないこと自 するのが著しく困難となり,適正かつ公正な難民認定ができなくなること,迫害を受けるおそれがあるとして我が国に庇護を求める者は,速やかにその旨を申し出るべきであり,速やかに難民認定申請をしないこと自体,難民非該当性を物語ると考えられること,及び我が国の国土面積,交通・通信機関,地方入国管理官署の所在地等の地理的,社会的実情からすれば,60日という期間は申請に十分な期間と考えられること等の理由によるものであり,この趣旨からすれば,「やむを得ない事情」とは,本邦に上陸した日又は本邦にある間に難民となる事由が生じた場合にあってはその事実を知った日から60日以内に難民認定の申請をする意思を有していた者が,病気,交通の途絶等の客観的事情により物理的に入国管理官署に出向くことができなかった場合か,本邦において難民認定の申請をするか否かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をいうものと解すべきである。 イ原告の主張に対する反論「やむを得ない事情」を原告主張のように解した場合,我が国においては,相当長期にわたって難民認定申請を行わないことが容認される者が出てくる可能性があるが,長期の猶予期間を与えることによって,時間の経過による証拠散逸のリスクが大幅に高まり,本人及び関係者の記憶があいまいになる結果,正確な情報の収集が一層困難になると考えられるところ,特に1980年代後半以降の難民認定申請者の急増に伴って,国際的に難民を装った移民の問題が深刻化した結果,これに対処するため,難民認定制度の濫用を防止する必要性は,近年ますます高まっており,こうした状況の下で,正確な情報の収集の困難を防止して偽装難民の問題にまさに対処するために設けられた申請期間の制限の例外を広く解することは,到底是認できないものといわなければならない。 ており,こうした状況の下で,正確な情報の収集の困難を防止して偽装難民の問題にまさに対処するために設けられた申請期間の制限の例外を広く解することは,到底是認できないものといわなければならない。 また,原告は,平穏に在留していたことが「やむを得ない事情」を裏付けるかのように主張するが,そのように無限定的に解釈することはできないのみならず,不法入国して不法に在留を続け,入国後10年にわたって外国人登録をすることもなく,不法に就労して得た利得を,正規の手続に基づかずに海外流出させたと述べている上,自動車を無免許で運転するなど,数々の重大・悪質な違法行為を行っており,日常生活を営む上での様々な保護や利益を日本国の地域社会等から享受しながら,それを支える税金の納付を行っている裏付けもなく,日本国の国益という観点からみて,善良な通常人と比較して「平穏」な在留と呼ぶ余地もない。 ウ原告の本件難民申請に係る事情そもそも原告は,本邦入国後,平成11(1999)年12月6日に仕事がなくなったとして名入管に出頭申告して帰国しようとするなど不自然な行動を取った上,帰国後逮捕されることを危惧して,名入管が出頭を指示した違反調査日に出頭せず,不法に滞在していたところ,平成13(2001)年11月22日,名入管に収容されて,本件難民申請に及んだものであり,法定申請期間を経過した理由については,同年1月又は8月に弁護士から難民申請手続の説明を受けて間もなく難民申請しようと資料を集め始めていた矢先に名入管に捕まった旨主張する一方で,難民申請のことは,「1998年,東京でミャンマー人のデモに参加してから,同じロヒンギャー民族の人から声をかけられ知りました」旨も供述しているし,平成13年の退去強制手続時には,平成11年の出頭理由を母の病気見舞いに変えるなどの供述の ミャンマー人のデモに参加してから,同じロヒンギャー民族の人から声をかけられ知りました」旨も供述しているし,平成13年の退去強制手続時には,平成11年の出頭理由を母の病気見舞いに変えるなどの供述の変遷も見られるところであり,真に迫害を逃れ庇護を求める者であれば,手続を知った時点で直ちに申請を行うのが当然と思われるにもかかわらず,真しに難民申請を行おうとしていたとは考え難い。しかも,原告は,単なる法の不知を申し立てるのみで何らやむを得ない事情に該当する具体的事実を主張するものではないから,申請期間の経過についてやむを得ない事情は認める余地がない。 (3) 争点(1)ウ(適正手続の履行の有無)について(原告の主張)ア通訳人の不適格本件のような難民事件においては,ミャンマー政府と利害関係を持たず,あるいは原告の属する民族に偏見を持っていない通訳人を選任すべきであったにもかかわらず,原告の難民調査の際の通訳人は,ロヒンギャーに批判的なラカイン出身のミャンマー人であったと思われ,現に「ロヒンギャー民族」を「国民」と訳す等,十分な通訳がされなかった。そこで,不信感を募らせた原告は,日本語で通訳人の通訳に介入し,そのような通訳であれば日本語で説明した方がまだましであると考えて,調査担当者に対し,日本語で説明を加えたほどである。 イ難民調査官の予断また,原告の調査を担当した難民調査官(現在は大阪入国管理局所属)は,予断を持ち,原告に対して時間が限られているから全ての話を聞くことはできないと述べて,それまでに作成された供述調書の内容を引用することを伝え,現に原告が難民であることを訴えるべく繰り返し説明したシットウェ刑務所の解放運動の話が意図的に除かれているが,難民調査官の都合でこのような不十分な調査を行うことは許されるものではない。 以上 伝え,現に原告が難民であることを訴えるべく繰り返し説明したシットウェ刑務所の解放運動の話が意図的に除かれているが,難民調査官の都合でこのような不十分な調査を行うことは許されるものではない。 以上のように,難民調査においては,適正手続違反の違法がある。 (被告らの主張)原告の主張は争う。 ア通訳人の適格性名入管においては,能力及び人物評価をして選んだ名簿の中から,過去数年間の実績を調査し,難民認定申請者と利害関係のない等適切な者を選定し,難民認定申請者から忌避する旨の申立てがない限り通訳人として使用することとしているところ,本件不認定処分に関する調査において,通訳人の適格性に問題はなく,原告からも忌避する旨の申立てはなかった。通訳人がラカイン出身の人物であったと思われるとする根拠も明らかでなく,仮にそうだとしても,そのことだけで虚偽の通訳がされたということはできない。そもそも,通訳人の通訳に問題があると考えたのであれば,相当な日本語能力を有する原告がそれを指摘したはずであるが,そのようなことをしなかったばかりか,難民調査の際,ビルマ語で供述調書の読み聞かせを受けた上で,それが誤りのない旨を申し立てたり,「昨日の通訳は十分理解しました。」などと供述するはずがない。 イ難民調査官による供述録取の妥当性また,調査を担当した難民調査官が,原告に対して時間が限られているから全ての話を聞くことはできないと述べた事実はなく,十分に時間をかけて原告から供述を録取しているし,それまでに作成された供述調書の内容を引用することを伝えた事実もなく,かえって原告から「経歴については,何度も聞かれて矛盾点が出て,嘘をついていると思われるのが嫌で,これまでの調書を難民の資料にしてほしい。」旨の申出があったものである。そして,同調査官は,ほかの調書を引用 て原告から「経歴については,何度も聞かれて矛盾点が出て,嘘をついていると思われるのが嫌で,これまでの調書を難民の資料にしてほしい。」旨の申出があったものである。そして,同調査官は,ほかの調書を引用する場合には,当該供述調書に引用を示す記載を行っている。ちなみに,シットウェ刑務所の解放運動については,難民認定申請書に記載されているが,難民調査等の手続においては,何らの供述がなかったので,調書に記載されていないにすぎない。 (4) 争点(1)エ(原告の難民性の有無)について(原告の主張)ア難民性の立証難民認定申請者は,必ずしも補強証拠等を携えて出国するわけではないので,個々の申請者が本国に戻れば迫害を受ける可能性がどの程度あるかについては,最終的には個々のケースにおいてその本人の供述の信ぴょう性の存否を判断するほかない。そして,その判断には,事実の評価や異文化コミュニケーションなどの面で極めて高度な能力を要するのであり,その意味で,難民認定を行う者は,十分な経験と見識が必要とされる。 難民該当性に関する原告の供述は具体的であって,若干の記憶違いあるいは表現違いはあるにしても一貫しているから,十分に信用できるものであるが,仮に原告の供述に矛盾点があれば,難民調査官はその点について説明を求めるべきであり,これをすることなく矛盾を理由に難民性を否定することは許されるものではない。 イミャンマーの一般的情勢(ア) 政治情勢ビルマは,1948(昭和23)年にイギリスから独立した後,1962(昭和37)年に,ネ・ウィン将軍が軍事クー・デタによって全権を掌握し,その後,軍と情報組織を用いながら独自の社会主義思想を標榜するビルマ社会主義計画党(BSPP)による一党支配が行われたが,極端な経済不振にあえぎ,1987(昭和62)年12月には国連 全権を掌握し,その後,軍と情報組織を用いながら独自の社会主義思想を標榜するビルマ社会主義計画党(BSPP)による一党支配が行われたが,極端な経済不振にあえぎ,1987(昭和62)年12月には国連により後発発展途上国(いわゆる最貧国)としての指定を受けるに至った。 1988(昭和63)年3月,旧ラングーン工科大学(現ヤンゴン工科大学)の一部の学生が反体制の抵抗運動を始め,同年8月後半から9月前半にかけてその運動は最も高揚し,当初の「反ネ・ウィン」闘争から,複数政党制の実現,人権の確立,経済の自由化を三本柱とする民主化闘争に姿を変えて,首都ラングーン(以下,1989(平成元)年6月18日を境に,同日以降については「ヤンゴン」という。)市では連日数十万人がデモや集会に参加した。アウン・サン・スー・チー(以下「スー・チー」という。)も1988(昭和63)年8月に学生たちに推されて表舞台に登場したが,同年9月18日,国軍幹部20名から構成される国家法秩序回復評議会(以下「SLORC」という。)による軍事政権の成立が宣言され,それまで建前上は政治の表舞台に立つことがなかった国軍が全面的に政治権力を行使することになった。 SLORCは,デモ隊に発砲を続ける一方,複数政党制の導入と総選挙の実施を公約し,1990(平成2)年5月27日に複数政党制に基づく国会(人民会議)の総選挙を実施したところ,前年7月からの国家防御法に基づくスー・チーの自宅軟禁による露骨な選挙活動妨害にもかかわらず,軍事政権の後押しした民族統一党(NUP)の10議席に対し,スー・チーが書記長を務める国民民主連盟(以下「NLD」という。)が全485議席の81パーセントに当たる392議席を獲得して圧勝した。しかし,SLORCはこの結果を認めず,国会も招集せずに,政権委譲を無期限延 書記長を務める国民民主連盟(以下「NLD」という。)が全485議席の81パーセントに当たる392議席を獲得して圧勝した。しかし,SLORCはこの結果を認めず,国会も招集せずに,政権委譲を無期限延期するとともに,代議員701名中,先の総選挙で当選した議員を99名しか含まない制憲国民会議を1993(平成5)年1月に発足させ,1995(平成7)年11月にNLD所属の代議員全86名が同会議が非民主的であることを理由にボイコットするや,その全員を同会議から除名し,また,長期休会を繰り返しながら,現在まで長々と憲法草案の審議を続けている。 当局は,NLDを合法的な政党と認めながら,明白な法的根拠のないまま国内各所の多くの同党事務所を閉鎖して日常の政治活動を阻止し,スー・チーら党首脳陣らの政治的地位を認めることを拒否しており,この間,SLORCは,1996(平成8)年末の大規模な抗議集会に関係した34人(内11人がNLD党員)全員について,翌1997(平成9)年1月下旬に,現存しないビルマ共産党の党員であるとして,最短で7年の禁固刑を科す等し,他のNLD党員らも相次いで逮捕した。この時期に,NLD所属の議員は,辞職しなければその家族が逮捕や公共部門からの永久解雇を受けるとの脅迫を受け,20人以上の議員が辞職を余儀なくされたほか,7人の議員が逮捕され,獄中にある議員数は33人となった。 前後して,1996(平成8)年12月25日には,SLORC第2書記官で軍司令官でもあるティン・ウ中将がヤンゴンの世界平和仏塔を参拝する直前に爆弾が爆発して5名が死亡,17名が負傷し,1997(平成9)年4月7日には,同中将の娘チョ・レイ・ウが自宅に送られた小包爆弾を開けて死亡した事件が発生したところ,SLORCは,これらを全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)及びカレ 名が負傷し,1997(平成9)年4月7日には,同中将の娘チョ・レイ・ウが自宅に送られた小包爆弾を開けて死亡した事件が発生したところ,SLORCは,これらを全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)及びカレン民族同盟(以下「KNU」という。)の武装反対勢力によるものとして,NLDをこれらのグループと連絡を取り合う「公然とした破壊的因子」であると決めつけ,後者の事件につき,後に日本で難民として認定されるゴ・アウンによるものと公表した。 NLDは,軍政が国会開催に応じないことから,1998(平成10)年9月16日,独自に先の総選挙で当選した議員の過半数の委任状を正統性の根拠として,当選議員10名から成る国会代表者委員会(CRPP)の代行開催に踏み切ったが,軍政はNLDに対する抑圧を強め,脱党の強要,国営紙への中傷記事や漫画の掲載,翼賛団体である連邦連帯開発協会(USDA)による同党非難とスー・チーの海外追放要求の決議等の様々な方法を採るとともに,スー・チーのヤンゴンからの移動を認めず,強制的な自宅への連れ戻しと軟禁を3度も繰り返し,米国政府による制裁が厳しくなる中,2002(平成14)年5月6日にようやく軟禁状態が解除されたが,その後も対話は進展せず,周知のとおり,本件口頭弁論終結直前には,スー・チーは軍事政権により四たび身柄を拘束された。 被告らは,スー・チーの軟禁や行動制限措置の解除により,ミャンマーにおいてあたかも政治的理由に基づく迫害がなくなっているかのように主張するが,ヤンゴンにおける政治情勢の変化だけでは軍事政権の体質は判断できず,重要なのは,少数民族に対する姿勢であって,20を超える少数民族政党は,SLORCが1997(平成9)年11月15日に名称変更した国家平和開発評議会(以下「SPDC」という。)によって厳しい弾圧や活動制限 は,少数民族に対する姿勢であって,20を超える少数民族政党は,SLORCが1997(平成9)年11月15日に名称変更した国家平和開発評議会(以下「SPDC」という。)によって厳しい弾圧や活動制限を受け,被告らの指摘する政治犯の釈放も,すべてNLD関係者で,学生,僧侶,少数民族活動家,他の政党関係者らは1人も釈放されておらず,依然1400名の政治犯が拘束されたままである。また,政治活動家等が一時的に逮捕されて行方不明になるケースや,拷問,家庭生活への干渉が報告されていて,尼僧がビラを配っただけで投獄されるような状況であるし,司法機関は行政機関から独立しておらず,公正な公開裁判も行われていない。 (イ) ロヒンギャー民族の待遇ビルマ西南部のアラカン地方(現ラカイン州)には仏教国のアラカン王国が栄えていたが,15世紀ころ,ベンガル地方(現バングラデシュ)からイスラム教徒が流入して,両教徒の共存が始まり,19世紀以降のイギリス植民地期以降も基本的状況に変化はなかった。20世紀に入り,仏教徒であるビルマ民族によるナショナリズム運動が盛り上がり,1948(昭和23)年にイギリスから独立を達成したが,アラカン地方に住むイスラム教徒による政治活動も活発化し,1960年代初頭から,ロヒンギャーを名乗るイスラム教徒集団がビルマ政府と対立関係に入った。 ミャンマー政府も,彼らをロヒンジャー(ビルマ語に「ギャ」の音がないため)と呼んで,歴史的にベンガル地方からアラカン地方に勝手に移動してきたイスラム教徒集団とみなし,反ミャンマー的集団として公式の居住権を認めず,「国民」,「準国民」,「帰化国民」の3ランクから成るミャンマー国民のどれにも当たらない,不法に滞在する外国人として扱ったため,ロヒンギャー民族は,公的にはロヒンギャーであることを主張せず,様々 ,「国民」,「準国民」,「帰化国民」の3ランクから成るミャンマー国民のどれにも当たらない,不法に滞在する外国人として扱ったため,ロヒンギャー民族は,公的にはロヒンギャーであることを主張せず,様々な書類を上手に作成してロヒンギャー以外の民族名で国民である旨の認定を受けられるよう努力しなければならない上,苦労して「国民」となってもイスラム教徒であるため公平に扱われず,一般に仏教徒ビルマ人に根強くあるイスラム教徒への偏見と差別が,政府によるロヒンギャー非難と相まって,ロヒンギャー民族の安全な居住を妨げている現実が存在する。ロヒンギャー民族は,強制労働を強いられ,土地使用権を認められず,様々な新しい税を課徴され,移動の自由が制限され,同民族がミャンマー軍によって殺されたとしても,ミャンマーの警察は捜査を行わないほどであり,集団的に迫害されている。 そうした経緯から,1991(平成3)年12月から翌年3月にかけて,25万人ないし30万人といわれるロヒンギャー難民が,アラカン地方からバングラデシュ側へ避難するという事件が発生している。大量難民が流入したバングラデシュは,UNHCRや国際社会の非難にもかかわらず,たびたび実力を行使して強制送還を行った。その後,両国政府とUNHCRの協議により,ロヒンギャー難民の帰還促進が決まったが,ミャンマーにおける迫害状況に変化がないことなどの理由で,帰還は順調に進んでいない。 ウ原告固有の事情(ア) 政治活動原告は,1988(昭和63)年ころから,ラングーン市の私立学校に在籍しながら,民主化のための学生運動に参加するようになり,このころNLDの幹部であるdや同年7月に逮捕され以後行方不明のeと知り合った。原告は,その後,同市及びアラカン州アキャブ市(シットウェ市ともいう。)の政治団体や,イスラム教の 参加するようになり,このころNLDの幹部であるdや同年7月に逮捕され以後行方不明のeと知り合った。原告は,その後,同市及びアラカン州アキャブ市(シットウェ市ともいう。)の政治団体や,イスラム教の学生政治団体であるムスリム学生連盟にも加入するようになった。 原告は,同年8月8日の全国的なデモの際,ア・ロッタマ市民病院から出発したグループの旗持ちとして参加したところ,同月13日ころ,マークした当局が逮捕するために自宅に来たが,不在だったために逮捕を免れた。そこで,身の危険を感じてシットウェ市に逃れたが,その直後ころ,シットウェ刑務所においてロヒンギャー人2名と学生1名が発砲されて殺される事件があったため,原告は,他のメンバーとともに同刑務所長の自宅に押しかけ,同人から鍵を受け取って投獄されていたロヒンギャー民族や仲間の学生を解放した。 その後10日ほどして,原告は,当局が実家に来て警告したことを知り,また同年9月26日ころにロヒンギャーの同級生2名が逮捕されたことを聞いて,父の故郷であるチェイチャオン村に隠とんしたが,間もなく,父と長兄が当局から暴行を受けて取り調べられた旨記載された父からの手紙を受け取って村を出,同年10月ころ,バングラデシュ国境を越えてロヒンギャー難民キャンプへ,さらにインド,パキスタンへと逃れた。 その後,原告は,タイの首都バンコク等で政治活動に参加していたが,1990(平成2)年5月にミャンマー総選挙でNLDが勝利したと聞いて,スー・チーらの民主化運動を支援するために帰国を決意し,1991(平成3)年2月ころ,幼なじみの助けを借りてミャンマーへ密入国してヤンゴンにたどり着いた。原告は,親戚の家を転々とした後,父や長兄の行商の仕事を手伝いながら密かにビラ配り等の民主化運動を行うとともに,万一の際の国外逃亡のために の助けを借りてミャンマーへ密入国してヤンゴンにたどり着いた。原告は,親戚の家を転々とした後,父や長兄の行商の仕事を手伝いながら密かにビラ配り等の民主化運動を行うとともに,万一の際の国外逃亡のためにブローカーを経由して旅券を入手したが,1992(平成4)年4月ころ,軍に身分証明書,履歴書,家族関係の書類等の提出を求められ,逮捕される危険を感じたため,知人に相談し,同年5月,空路タイのバンコクへ出国し,同年6月22日,前記前提となる事実(1)のとおりに来日した。 来日後,原告は,日本の「ロヒンギャーグループ」の代表に連絡を取ろうとしたが取れなかったため,東京都八王子市在住のミャンマー人から教えてもらった名古屋市で活動している政治団体を頼って来名したが,紹介を受けたミャンマー人がカレン民族の反ビルマ軍ゲリラグループであるKNUに加盟することを求めたので,これを断り,苦労の末,名古屋市内で仕事を見つけて生活するようになった。この間,原告は,タイ所在のロヒンギャー民族の政治活動メンバーらと連絡を取り,毎月3万円位を送金していた。なお,1994(平成6)年半ばころ,原告と連絡していることが疑われた父や義兄がミャンマーにおいて軍から暴行を受けたのを始め,原告の実家は,何度も軍による捜査を受けたため,父は,現地の慣習に従い,原告と親子の縁を切る旨を新聞に掲載したほどであった。 その後,原告は,平成9(1997)年ころから,ロヒンギャー民族に限らずミャンマー国内で反政府活動を行ってきたメンバーによって構成され,後にビルマ民主化同盟(以下「LDB」という。)に発展する学生ボランティアグループに参加し,その名古屋支部(以下「LDB名古屋」という。)財務担当として,駐日ミャンマー大使館前でのデモ活動等,同国政府に反対する政治活動をしている。そして,平 )に発展する学生ボランティアグループに参加し,その名古屋支部(以下「LDB名古屋」という。)財務担当として,駐日ミャンマー大使館前でのデモ活動等,同国政府に反対する政治活動をしている。そして,平成13(2001)年11月2日の入管難民法違反による逮捕後,本件難民申請前の同月6日ころに,逮捕の事実をまだ知らなかったと思われる両親からバンコク経由で届いた手紙によれば,ミャンマー当局が日本での原告の政治活動を把握し,ミャンマーの家族を迫害していることは明らかであり,その後も原告の父は,同年のクリスマス過ぎに軍情報部に連行されて,翌2002(平成14)年1月3日まで1週間帰宅せず,その際,腕や肋骨を折られる暴行を受けている。 なお,原告の旅券及び有効期間の更新印はいずれも偽造されたものであるところ,被告らは,差別から生じる問題を賄賂によって解決できるという程度のものであれば,そもそも難民には当たらないなどと主張するが,非常識極まりないというべきである。 (イ) ロヒンギャー民族であること原告のロヒンギャー名はfであり,ロヒンギャー民族の出自であることは「民族:バンガリー/ラカイン」と記載されている原告の国民登録証明書,ロヒンギャー語を話せること,原告の幼なじみが原告のことをロヒンギャー民族であると述べていること等の事実に照らし,明らかである。被告らは,原告の母がラカイン族であるかのように主張するが,原告の母は「g」,その父は「h」,その祖父は「i」というロヒンギャー名を持つロヒンギャー民族である。このように,原告がロヒンギャー民族であることから,1984(昭和59)年ころ,軍人から荷物の運搬を命じられてこれを断ったところ,耳元でライフルを3発発射され,片耳の聴力に障害を残すに至っている。 また,被告らは,原告の父が軍人であったこと,原 ,1984(昭和59)年ころ,軍人から荷物の運搬を命じられてこれを断ったところ,耳元でライフルを3発発射され,片耳の聴力に障害を残すに至っている。 また,被告らは,原告の父が軍人であったこと,原告が教育を受けることができたこと,家族がヤンゴンに移住したことなどを理由に,原告に対する迫害の事実やロヒンギャー民族であることに疑義があると主張するが,原告の父が軍人であったのは,1962(昭和37)年のネ・ウィン政権発足前に軍人になったためであり,その後も,学歴が高く英語ができ,車の修理技術を持っていたこと等の理由で軍務を続けられたものの,1988(昭和63)年の原告のデモ参加を理由に,軍から暴力を受け退役している。また,原告は,シットウェ地区で生まれ,ビルマ名で育てられたため,11歳まで自分がロヒンギャーであることを知らなかったほどで,教育を受けられたのもロヒンギャーであることを隠していたからである。さらに,原告の親族には,仏教徒によって殺され,あるいは軍によって負傷した者もおり,許可なしの移動の自由はないのであるから,現に迫害を受けており,被告らの主張は理由がない。 (ウ) 来日が就労目的でないこと(被告らの主張に対する反論)被告らは,原告が,平成11(1999)年12月6日ころ,仕事がなくなったため本国に帰国したいとして名入管に出頭したこと,来日するに当たって旅券ブローカーに支払った費用が多額にのぼることなどを理由に,原告の本邦への入国目的は不法就労であった旨主張する。 しかしながら,原告は,同年11月23日ころ,タイにいた父から,母の心臓病の状態が芳しくなくタイの病院に入院中であると聞き,タイ行きを検討して名入管に架電し,同年12月6日ころには名入管に出頭してタイ経由での帰国を相談したが,タイ経由になるかミャンマーへの直行便とな 病の状態が芳しくなくタイの病院に入院中であると聞き,タイ行きを検討して名入管に架電し,同年12月6日ころには名入管に出頭してタイ経由での帰国を相談したが,タイ経由になるかミャンマーへの直行便となるかは名入管の判断で決まると言われたため,帰国は危険だとのミャンマーの妹等からの話に従って断念した経緯があるが,その際,出頭理由を仕事がないためとされたのは,日本語で聴取した名入管入国警備官の判断によるものにすぎない。 また,原告が旅券を取得した当時は,反軍事政権の活動家であっても,賄賂を払えば旅券を取得できたのであり,ブローカーに支払った金員が多額であることから就労目的であるとするのは短絡的である。お金は父が借りて準備したものであるし,来日した理由の1つには,原告の祖父母が仏教徒に殺されたため,父や兄弟が日本人に育てられて好印象を持っていたこともある。 エまとめ以上のような事情からすれば,原告が帰国すれば,軍事政権による逮捕,投獄,拷問,あるいは行方不明になる現実的な危険が存するものであり,原告は条約1条A項(2)号及び議定書1条の規定により条約の適用を受ける難民のうち,「人種…若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,…そのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」に該当する。 被告らは,UNHCRが原告をマンデート難民と認定していないことを原告に不利益な事情として主張するが,本末転倒も甚だしい。 (被告らの主張)ア難民,迫害の意義及び主張立証責任(ア) 難民等の意義入管難民法に規定する「難民」とは,条約1条又は議定書1条の規定により条約の適用を受ける難民をいうところ,その定義にある「 被告らの主張)ア難民,迫害の意義及び主張立証責任(ア) 難民等の意義入管難民法に規定する「難民」とは,条約1条又は議定書1条の規定により条約の適用を受ける難民をいうところ,その定義にある「迫害」とは,通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味し,それを受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するというためには,当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに,通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要と解すべきである。 (イ) 難民該当性の主張立証責任そもそも,難民の認定は,申請人各人に対して,その申請内容の信ぴょう性等を吟味し,各人の抱える個別の事情に基づいてされるべきものであるが,その申請は,申請人が自己の便益を受けようとする行為であるから,これを得るためには,難民該当性を積極的に立証しなければならない立場に置かれるのは当然のことであって,法61条の2第1項において,法務大臣が,申請者「の提出した資料に基づき」難民と認定することができると規定したのは,一定の便益を受けようとする者は,そのような便益を享受し得る立場にあることを自ら立証すべきとの法の一般原則を明らかにしたものにほかならない。 法61条の2の3第1項の規定を併せみても,我が国においては,難民認定申請者が,まず,迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有することを認めるに足りるだけの資料を提出することが必要であり,条約31条1項ただし書も,この法理を明文化しているし,実質的に考えても,およそ難民該当性の判断に必要な出来事は,外国でしかも秘密裏になされたものであることが多いから,これらの事実の有無及びそ り,条約31条1項ただし書も,この法理を明文化しているし,実質的に考えても,およそ難民該当性の判断に必要な出来事は,外国でしかも秘密裏になされたものであることが多いから,これらの事実の有無及びその内容については,それを直接体験した申請人が最もよく主張し得る立場にあるのに対し,法務大臣は,それらの事実につき資料を収集することがそもそも困難であるから,法61条の2第1項が,申請人自身がこれを証明すべきものであるとしたのは合理的であるといわなければならない。 イミャンマーの一般情勢(ア) 政治情勢原告の主張イ(ア)のうち,ビルマが1948(昭和23)年にイギリスから独立したこと,同国において,1962(昭和37)年に社会主義政権が成立したこと,1988(昭和63)年に国軍がSLORCを組織して政権を掌握したこと,1990(平成2)年に国会の総選挙が実施され,スー・チー率いるNLDが圧勝したこと,ミャンマー政府が民政移管には堅固な憲法が必要であるとして政権を委譲していないこと,1989(平成元)年からスー・チーに対し国家防御法違反を理由に自宅軟禁措置を課したこと及び2002(平成14)年5月にスー・チーの行動制限が解除されたこと,以上の事実はいずれも認める。 ミャンマー政府は,スー・チーに対し,1989(平成元)年から1995(平成7)年まで自宅軟禁措置を課し,2000(平成12)年9月には同人らを再び事実上の自宅軟禁に置くなどしたが,同年10月から,軍事政権とスー・チーとの間で直接対話が開始され,政府は,拘束していた政治犯170余名を2001(平成13)年10月までに釈放するとともに,NLD支部9か所の活動再開を認め,2002(平成14)年5月には,スー・チーに対し,行動制限措置を解除するとともに,政治活動を含むすべての活動の自由を (平成13)年10月までに釈放するとともに,NLD支部9か所の活動再開を認め,2002(平成14)年5月には,スー・チーに対し,行動制限措置を解除するとともに,政治活動を含むすべての活動の自由を伝えたところである。 (イ) ロヒンギャー民族の待遇原告の主張イ(イ)のうち,ミャンマーが旧イギリス領であった時代に,多くのイスラム教徒が西南部の現ラカイン州に移住し,その子孫がロヒンギャー民族と称されていること,ロヒンギャー民族は,ミャンマー国内でイスラム教を信仰する民族であるところ,ビルマ独立後に,同国政府により自国の民族として認められず,移動の自由について一定の制限を課されたため,社会的に差別を受け,基本的な社会・教育・医療サービスを受けるのが極めて困難となり,1978(昭和53)年3月には,当時の社会主義政権により,国境付近に居住する不法移民排除のための大規模な住民調査がされた結果として,処罰を恐れた22万5000人のロヒンギャー民族がバングラデシュへ避難したり,1991(平成3)年3月ころに再度バングラデシュへ難民が流出して一時難民数は25万人を超えたことがあったこと,以上の事実はいずれも認めるが,その余は知らない。 上記の難民流出後,国際社会の支援や国連難民高等弁務官の協力等によって,多くのロヒンギャー難民がミャンマーに帰還し,2001(平成13)年9月現在,バングラデシュに残るロヒンギャー民族は約2万1600人に減少するなど,帰還民の再定住支援が重大な問題となっている。また,1982(昭和57)年の新しい国籍法(ビルマ市民権法)によっても,ロヒンギャー民族が市民権を取得するのは非常に難しい状況であったことは確かであるが,ロヒンギャー民族のすべてが国籍を取得できなかったということではない。2000(平成12)年現在,UNHC っても,ロヒンギャー民族が市民権を取得するのは非常に難しい状況であったことは確かであるが,ロヒンギャー民族のすべてが国籍を取得できなかったということではない。2000(平成12)年現在,UNHCRは,ロヒンギャー民族の国籍問題の解決についてミャンマー政府と意見交換をしているが,UNHCR自体,海外にいるロヒンギャー民族が,条約等上の「難民」にも,また,UNHCR規程に所定の責務(マンデート)に基づき,国連総会及び経済社会理事会の決議中に反映された難民的状態に置かれた他の部類の者について,これより広い範囲で独自に「高等弁務官の関心の対象となる者」として認定するいわゆるマンデート難民にも該当するわけではないことは認めている。 以上のとおり,本件不認定処分時において,真にロヒンギャー民族に対する迫害が存在していたかは極めて疑わしい。 ウ原告固有の事情(ア) 原告の政治活動原告の主張ウ(ア)の事実は知らない。 原告は,1988(昭和63)年8月8日,ラングーンで大規模な反政府デモに参加したことから当局にマークされることになった旨主張するが,デモに参加した事実さえ信用し難いものであるし,同年,バングラデシュ,インド経由でパキスタンに出国した後も,1991(平成3)年にはミャンマーに帰国している。また,原告は,ミャンマー政府発行の真正な旅券を入手しているが,これを取得できた理由についても,当初は元軍人であった父のコネとお金の力によったと述べながら,裁判になるとブローカーに賄賂を払ったためと大きく供述を変遷させており,かつその変遷に合理的理由がないという不自然さが認められる。そもそも,賄賂によって差別から生じる問題を解決できるという程度のものであれば,迫害を受けているとはいえない。さらに,原告が,1991(平成3)年8月から10月までの いという不自然さが認められる。そもそも,賄賂によって差別から生じる問題を解決できるという程度のものであれば,迫害を受けているとはいえない。さらに,原告が,1991(平成3)年8月から10月までの間にミャンマーにおいて国際運転免許証を取得し,本邦滞在中の1993(平成5)年に運輸行政局から再発行を受けた事実や,平成7(1995)年から平成11(1999)年までの間,在京ミャンマー大使館において現在所持している旅券の更新手続を行っている事実は,原告がミャンマー政府から迫害どころか保護を受けていることを示しており,原告がミャンマー政府から手配されているとは考えられない。 次に,原告は,1988(昭和63)年9月,学生運動に加わり,シットウェ刑務所で受刑していたバングラデシュ人7,8名を解放した旨を主張するが,原告は,ミャンマーにおける政治活動のうち最も具体的かつ重要な事実である刑務所解放運動について,名入管による調査時に何ら供述していないこと,刑務所長が鍵を渡した理由が不合理であることなどに照らすと,原告は,かかる運動に参加していないことが強く推測されるというべきである。仮に,この解放運動を原因として,原告に対する手配が真実になされたとすれば,それは,暴力による「刑務所破り」という重大犯罪に対する通常の刑事手続の一環とみるのが妥当であるから,手配を受けたことをもって政治的意見を理由に迫害を受けたということはできない。 そして,原告は,本邦において反ミャンマー政府活動を行っているところ,これが既にミャンマー政府の知るところとなっており,軍政府が倒れるまで帰って来てはいけないなどと書かれた手紙が家族から送付されたと主張するが,原告は,本邦においてロヒンギャーグループが活動しているのを知りながら,タイで聞いた同グループの代表の電話番号につなが るまで帰って来てはいけないなどと書かれた手紙が家族から送付されたと主張するが,原告は,本邦においてロヒンギャーグループが活動しているのを知りながら,タイで聞いた同グループの代表の電話番号につながらなかったというだけの理由で,東京から何の縁もない名古屋に移動し,全く異なるグループで政治活動を行っていたというのであり,その後も当初のロヒンギャーグループとは一切連絡を取った様子がなく,不法就労で稼いだお金から毎月3万円くらいをタイのロヒンギャー民族の政治活動のメンバーに送金していたとの主張に関しても具体的な立証資料が全く提出されていないことからしても,原告が,真にロヒンギャー民族の権利回復のための反ミャンマー政府活動を行っていたかは疑問があるといわざるを得ないし,提出された手紙の消印,あて先等にも不審な点があって,ミャンマーの家族から送付されたものではなく,本邦にいる原告又は原告の関係者が原告の主張に合わせて作成したものと推認されるから,原告の供述に信ぴょう性はない。 (イ) 原告の民族的出自原告の主張ウ(イ)の事実は知らない。 原告は,ミャンマーの中ではロヒンギャー民族か否かについては一目で分かるという一方で,ロヒンギャー民族の風習については特に説明できないと述べているが,自分の民族の風習について説明できないということは,原告がロヒンギャー民族であること自体疑わしいということを示している。 また,ビルマ市民権法2条は,国籍を有する者として「市民」,「准市民」,「帰化市民」の3種類があること,同法3条は,完全な国民としての権利を有する市民の範囲にラカイン族を含めること,同法7条は,両親の一方が「市民」で他方が「准市民」又は「帰化市民」である子を「市民」とすること,以上のように規定しているところ,原告の所持する国民登録証明書の「民族」 範囲にラカイン族を含めること,同法7条は,両親の一方が「市民」で他方が「准市民」又は「帰化市民」である子を「市民」とすること,以上のように規定しているところ,原告の所持する国民登録証明書の「民族」欄の「バンガリー/ラカイン」の記載は,両親が「バンガリー族」と「ラカイン族」の出自であることを示すと考えるのが合理的であり,したがって,原告の母が「市民」である以上,原告も完全な国民である「市民」の扱いを受けているというべきである。このことは,同証明書右上の「ナイン」というミャンマー語が,同証明書の所持者がミャンマー国民であることを証明していることからも明らかである。 さらに,原告は,父が軍人であったと主張するが,国家権力そのものである軍隊の性質からして,軍隊に属する軍人は自国の国民であるのが当然であり,少なくとも自国から迫害を受けるおそれのある民族が軍人として採用されるとは考えられず,原告がミャンマー政府から迫害を受けていたとの主張と明らかに矛盾する。まして,原告の父は,上官であるj大尉から精米所の経営を許可されていたのであるから,国家から迫害を受けていたどころか,自営の道を認めるという保護を受けていたというべきである。なお,原告が,1984(昭和59)年ころ,ロヒンギャー民族であることから軍人に耳元でライフルを3発発射されたというのは,仮に発砲があったとしても,原告が荷物の運搬を断ったのに対して感情的になった軍人が,威嚇のため発砲したにすぎないと考えるのが合理的である。 加えて,原告は,ロヒンギャー民族には教育の機会が与えられず,また,居住権が否定され,ヤンゴンに居住することは認められない旨述べるが,他方で,原告は,ラカイン州シットウェの軍基地内のアタカという5年制の小学校及び5年制の高校で教育を受け,アキャブ市内の第6学校に在学し が否定され,ヤンゴンに居住することは認められない旨述べるが,他方で,原告は,ラカイン州シットウェの軍基地内のアタカという5年制の小学校及び5年制の高校で教育を受け,アキャブ市内の第6学校に在学し8学年まで進級したと述べているし,原告の家族はヤンゴンに移住し,全員ミャンマーで継続して生活しており,1人たりとも迫害を受けていることを理由に出国している者はおらず,どちらかといえばミャンマーでは恵まれており,本邦で不法就労する原告からの送金は必要ないほどであったというのであるから,このような家族の中にあって原告だけがロヒンギャー民族を理由に迫害を受けたとは考えられない。原告の親族が当局の暴力によって傷害を負ったというのは20年以上も前の話であって,その真偽は定かではないし,仮に真実であったとしても,迫害であるのか個人的な暴力であるのか,傷害の状態・程度などについても定かではない。 したがって,原告がミャンマー政府から国民として扱われておらず,迫害を受けていたとの主張は信ぴょう性がない上,上記のとおり,そもそも原告がロヒンギャー民族であるということ自体に重大な疑義があるから,ロヒンギャー民族であることを理由としてミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあると判断することはできないというべきである。 (ウ) 就労目的による原告の来日原告は,2度目の出国後タイに行き,本邦向けの偽造旅券を取得するのに4500ドル又は6000ドルを支払ったと供述するが,この金額は,ミャンマーの1997(平成9)年における1人当たり国民総生産の20倍前後に相当する莫大なもので,通常のミャンマー人に用意できる金額ではなく,まして,差別と迫害を受けて生活している原告の父が簡単に送金できる額であるとは考えられないから,原告は日本での就労を求めてブローカーに手続を依頼した ので,通常のミャンマー人に用意できる金額ではなく,まして,差別と迫害を受けて生活している原告の父が簡単に送金できる額であるとは考えられないから,原告は日本での就労を求めてブローカーに手続を依頼したと考えるのが合理的である。 このことは,原告が,平成11(1999)年12月6日に,不法入国したとして名入管に出頭した際の,会社が倒産して仕事を失ったためミャンマーに帰国しようと思った旨の供述とも整合性がある。 本邦に不法入国後,不法就労して金を稼いだ外国人が,地方入国管理局等に出頭し帰国するというケースは,経験則上非常に多いケースであり,しかも,原告は,その後名入管からの再出頭の要請に応じず,2年近く本邦に在留して不法就労を継続していた点を考慮すると,原告は,条約等上の難民ではなく,不法な手段により,より豊かな生活を求めて移住していく移住労働者であると見るのが合理的である。 原告は,来日の理由の一つに,父や兄弟が日本人に育てられたことを挙げるが,ロヒンギャー民族の居住地域は外国人の立入りが禁じられているというのであるから,日本人が育てることができたはずがないし,そのような経緯があって,ミャンマー政府から真に迫害を受けているのであれば,原告の家族も日本に来るはずであるが,原告以外に来日した家族はいない。 エまとめ原告の主張エは争う。 前記アのとおり,難民該当性については,難民認定申請者が主張立証すべき責任を負うところ,原告についていえば,イ,ウで述べたとおり,原告の供述は,関連状況との整合性も一貫性もなく,原告が,本邦に入国するまで,バングラデシュ,インド,パキスタン,タイ,香港及び台湾に入国しながら,全く難民申請をせずに,本邦入国後9年以上も不法就労し,名入管に収容されて初めて難民申請した事実からしても,ミャンマー政府から迫害を受け シュ,インド,パキスタン,タイ,香港及び台湾に入国しながら,全く難民申請をせずに,本邦入国後9年以上も不法就労し,名入管に収容されて初めて難民申請した事実からしても,ミャンマー政府から迫害を受けているという主張に信ぴょう性は認められず,これを立証する資料は提出されていない。したがって,原告が帰国した場合に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するとは到底認められるものではないから,原告は実質的な難民に該当しない。 なお,原告は,名入管に収容された後,UNHCRの難民申請をしたようであるが,マンデート難民として認定を受けたというような主張は何らされておらず,このことは,原告を本国へ送還した場合に人道上の問題が生じるおそれがないことを裏付けるものである。 (5) 争点(2)(本件裁決の適否)について(原告の主張)前記のとおり,原告は難民に当たるところ,被告大臣が難民該当性の実質を判断することなく在留特別許可を与えなかったのは,裁量権の濫用ないし逸脱があり,違法である。 また,本件裁決に至る過程において,名入管特別審理官による口頭審理期日が原告に通知されたのはわずか2日前であり,しかも代理人の同席を希望できることや期日の変更もできることも,日本語で説明されたため,原告はこれらを十分に理解することができず,実質的に代理人の立会いの機会を奪う結果となったから,本件裁決は適正手続を欠くものとして違法である。被告らは,原告が十分な日本語能力を有する旨主張するが,片言の日本語の会話ができたとしても,母国語での通訳を付す必要があるのは当然である。 (被告らの主張)原告の主張は争う。 国際慣習法上,国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく,我が国の憲法においても,外国人は,本邦に入国する自由を保障されているものでないこ 当然である。 (被告らの主張)原告の主張は争う。 国際慣習法上,国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく,我が国の憲法においても,外国人は,本邦に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん,在留の権利ないし引き続き本邦に在留することを要求する権利を保障されているものでもない。このことは,適法に在留している外国人を対象に申請権の認められた在留期間更新の許否についても同様であり,更新事由の有無の判断は,法21条3項所定の「相当性」という要件の下に法務大臣の裁量に任せられている。 まして,在留特別許可は,法律上退去強制事由が認められ退去させられるべき外国人を対象に,恩恵的に与え得るにすぎないもので,申請権は認められておらず,その要件についても法50条1項3号は何ら具体的に規定していない。加えて,特別在留許可は,「許可するかしないか」といういわゆる効果裁量の問題であって,入管難民法がこれを法務大臣の裁量に委ねることとした趣旨は,その許否を的確に判断するについて,多面的・専門的知識を要し,かつ,政治的配慮をしなければならないとするところにあり,その判断は,国内外の情勢に通暁し,常に出入国管理の衝に当たる者の裁量に任せるのでなければ,到底適切な結果を期待できないことを勘案すれば,法務大臣の在留特別許可の許否に関する裁量の範囲は,在留期間更新の許否に関するそれよりも,質的に格段に広範なものと解すべきである。 したがって,在留特別許可における法務大臣の判断については,当不当の問題を生じることがあるとしても,違法となる事態は容易には考え難いのであって,例外的にその判断が違法となり得る場合があるとしても,それは,在留特別許可の制度を設けた入管難民法の趣旨に明らかに反するなど極めて特別な事情が認められる場合に限られると解される。そ 難いのであって,例外的にその判断が違法となり得る場合があるとしても,それは,在留特別許可の制度を設けた入管難民法の趣旨に明らかに反するなど極めて特別な事情が認められる場合に限られると解される。その特別な事情としては,法律上当然退去強制されるべき外国人であっても,なおかつ本邦に在留することを認めなければならない積極的な理由が必要であり,このような極めて特別な事情が存する場合に,初めて在留特別許可を与えないことが違法となる余地が生ずるにすぎない。 この点に関し,原告は,難民であるのに在留特別許可を与えないのは裁量権の逸脱ないし濫用に当たると主張するが,そもそも,難民の認定に関する不服申立手続と退去強制事由の認定に関するそれとは,全く別個,独立のものであって,実体的に難民に当たるとしても,その事実のみによって,退去強制事由に係る違法性が阻却されるものではないと解され,法61条の2の8によれば,難民認定を受けている者についても法24条1項各号所定の事由が認められる限り,退去強制手続を進めなければならないものと解される。結局,難民認定申請をしていること又は難民認定を受けていること自体は,退去強制手続を当然に停止せしめるものではなく,単に法務大臣が在留特別許可を与えるか否かについて判断する際に考慮することとなる一事情に過ぎないというべきである。 しかるところ,原告は,他人名義の旅券により不法入国していて,法24条1号の要件を満たし,しかも,前記のとおり,難民に該当するとは認められない上,本国での「刑務所破り」について犯罪に当たるという認識が全くなく,初めて海外に行った際にも不法な出入国を繰り返し,偽造旅券による本邦入国についても悪いことであるとの意識は一切なかった旨供述するなど数々の違法行為を行い,また,原告が仮放免される前に収容されていた 初めて海外に行った際にも不法な出入国を繰り返し,偽造旅券による本邦入国についても悪いことであるとの意識は一切なかった旨供述するなど数々の違法行為を行い,また,原告が仮放免される前に収容されていた法務省入国者収容所西日本管理センターの担当医師から,原告の言動は計画的示威行為であり悪質である旨の報告を受けており,これらを併せて考慮すると,原告は,自分の欲求実現のためには手段を選ばない遵法精神に欠けた人物であるといわざるを得ず,虚偽と思われる言動を繰り返しているから,進んでわが国での在留を認めるべき理由は全くない。 以上のとおり,被告大臣は,原告には在留を認めるべき特別の事情があるとは認められないと判断して,在留特別許可を付与することなく本件裁決をしたものであり,同被告の判断にその裁量権の逸脱ないし濫用を認める余地はないものというべきである。 なお,原告は,日本語能力が相当あると考えられる知人の陳述書を,自ら日本語に翻訳しているほど,十分な日本語能力を有している上,名入管特別審理官も手続を簡易な日本語で説明している。 (6) 本件発付の適否(争点(3))について(原告の主張)被告主任審査官は,原告について難民該当性の最終的な判断がされていないにもかかわらず本件退令を発付しており,本国送還により原告のような難民に生じる回復不可能な損害にかんがみると,到底許されるものではない。 (被告主任審査官の主張)原告の主張は争う。 退去強制手続において,法24条各号の1に該当する疑いがある外国人が,同各号の1に該当するとの入国審査官の認定若しくは特別審理官の判定に服したとき又は被告大臣から異議の申出は理由がない旨の裁決を受けたときには,その通知を受けた被告主任審査官は,当該容疑者に対する退去強制令書を発付しなければならず(法47条4項,4 別審理官の判定に服したとき又は被告大臣から異議の申出は理由がない旨の裁決を受けたときには,その通知を受けた被告主任審査官は,当該容疑者に対する退去強制令書を発付しなければならず(法47条4項,48条8項,49条5項),退去強制令書を発付するか否かについて被告主任審査官に裁量の余地はないのであって,本件において,送還先に関する被告主任審査官の判断にも誤りは認められないから,本件発付は適法である。 第3 当裁判所の判断 1 60日ルールの合憲性等の有無(1) 問題の所在前記前提となる事実(1)及び(3)によれば,本件難民申請は,原告が本邦に上陸した日である平成4年6月22日から60日をはるかに過ぎた平成13年11月20日にされており,法61条の2第2項本文(60日ルール)に抵触する(なお,原告の主張によっても,原告が「本邦にある間に難民となる事由が生じた者」に当たらないことは明らかである。)ので,まず,この規定の国際法及び憲法98条2項又は憲法31条適合性の有無を判断する。 (2) 難民の概念条約等によれば,難民とは,条約1条A項(1)号に規定する者のほか,「人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」及び同様の立場にある無国籍者をいうとされている(同項(2)号,議定書1条2項)。他方,入管難民法は,2条3号の2によって,同法にいう難民が前記の条約等による難民を指すことを明らかにし,条約等と難民概念の一致を図っている。 ところで,条約等の締約国が,ある者を難民として扱うためには,その論理 法は,2条3号の2によって,同法にいう難民が前記の条約等による難民を指すことを明らかにし,条約等と難民概念の一致を図っている。 ところで,条約等の締約国が,ある者を難民として扱うためには,その論理的前提として,その者が実体的に上記の難民に当たるとの判断が先行するはずであり,したがって,その認定のために何らかの手続を設ける必要があることはいうまでもない。そして,条約等が難民の実体要件について詳細に規定しながら,認定手続について何ら定めていないのは,条約前文における「難民に対する庇護の付与が特定の国にとって不当に重い負担となる可能性のあること」との宣言に表れているとおり,難民といえども無条件に庇護してもらう権利が当然に付与されているわけではなく(換言すれば,締約国の立場からは,無条件の難民庇護義務があるとの国際的合意が成立していない。),各締約国がその主権の行使として,それぞれの国情に応じた手続要件を定めることが妥当であるとの判断によるものと解される。そして,条約上も,同じ難民でも,その滞在,居留が合法であるか否か等によって,その保護の程度に差が設けられているのも,国際社会において,外国に不法に入国,在留することは一般的に許容されていないとの共通認識に基づいて,難民に対しても,この規範の遵守を要求するのは,決して不当ではない(条約2条参照)との考慮に基づくと考えられるのであって,以上のことからすれば,実体的には難民である者からの難民認定申請について,締約国により,手続的要件の不遵守を理由に,その滞在等が合法的なものではないと判断される可能性は,条約等上も当然に予定されていると考えられる。したがって,どのような難民認定手続を設けるかは,基本的には当該締約国の立法裁量の問題であるから,我が国が他国と異なる手続を設けているからといって,直ち 条約等上も当然に予定されていると考えられる。したがって,どのような難民認定手続を設けるかは,基本的には当該締約国の立法裁量の問題であるから,我が国が他国と異なる手続を設けているからといって,直ちに条約等の国際法に反するものとはいえず,憲法98条2項に違反するものともいえない。 もっとも,手続はあくまで実体的要件の存否の的確な判断に資するためのものであるから,難民該当性を認定するための手続的要件が実質的には不可能を強いるものであり,手続的要件にかこつけて実体的要件を備える難民を不当に排除するような内容のものであった場合は,難民の実体的要件を定義した上でこれに該当する者に対して適切な保護を与えようとする条約等の趣旨を没却する結果を招くことになるから,かかる立法が許されないことも明らかである。 そして,難民認定手続が条約等の趣旨を没却するものか否かは,難民認定の効果とその認定手続の厳格性の両面を総合して判断すべきであるから,以下においては,この見地から,我が国における難民認定手続の特色である60日ルールの合憲性等の有無を検討する。 (3) 難民認定に関する条約等と入管難民法の規定条約等は,その締約国に対し,難民の定義に該当するすべての「難民」,「領域内にいる難民」,「合法的にその領域内にいる難民」,「合法的にその領域内に滞在する難民」等に分けて,各種の保護を与えることとしている(条約の関係各条及び議定書1条1項)。 他方,我が国においては,条約及び議定書がそれぞれ昭和56年10月15日及び昭和57年1月1日に承認され,いずれも後者の日から発効するのに合わせて,従前,「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」の4条により法律としての効力を有するものとされていた出入国管理令が,昭和56年法律 するのに合わせて,従前,「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」の4条により法律としての効力を有するものとされていた出入国管理令が,昭和56年法律第86号により,「出入国管理及び難民認定法」と改称された上,従前からの出入国管理に関する規定のほか,難民認定手続等についても新たな規定(18条の2,第7章の2(61条の2以下)及び70条の2)が設けられ,同日から施行されている。具体的には,法61条の2ないし同61条の2の4が難民認定及び不服申立ての手続について規定するとともに,難民の認定を受けた者について,同61条の2の6及び61条の2の7が難民旅行証明書の交付と難民認定証明書及び難民旅行証明書の返納の手続を,同61条の2の5及び61条の2の8が,法務大臣の永住許可といわゆる在留特別許可に際して,「難民の認定を受けている者」であることを特別考慮事由として掲げ,法18条の2が一時庇護のための上陸の許可について,法70条の2が難民の一定の罪に係る刑の免除について,それぞれ規定している。 (4) 難民認定の意義条約等と入管難民法の各規定を比較すると,「本邦に在留する外国人で難民の認定を受けているもの」に交付される法61条の2の6所定の難民旅行証明書は,条約28条に規定された「合法的にその領域内に滞在する難民」に対して発給されるべき「領域外への旅行のための旅行証明書」に当たるものであり,このことは,同条において旅行証明書を発給する除外事由として「国の安全又は公の秩序のためのやむを得ない理由」が掲げられていることに対応して,法61条の2の6第1項ただし書及び7項において,法務大臣が「日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認める」場合を,難民旅行証明書を交付せず又はその返納を命ずるこ いることに対応して,法61条の2の6第1項ただし書及び7項において,法務大臣が「日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認める」場合を,難民旅行証明書を交付せず又はその返納を命ずることができる事由として規定していることからも裏付けられる。これに対し,法70条の2は,「難民である」者が,その生命等が害されるおそれのあった領域から直接本邦に入った場合に,そのおそれがあることにより,いわゆる不法入国,不法上陸,不法残留及び不法在留の罪を犯した者について,犯罪後遅滞なく入国審査官にこれらの事実を申し出た場合には,必要的に刑を免除することを定めており,明らかに「その生命(等)が……脅威にさらされていた領域から直接来た難民」に対し,「不法に入国し又は不法にいることを理由として刑罰を科してはならない」旨を定めた条約31条1項を受けたものであると考えられる。 そうすると,法70条の2が,条約31条1項を受けて単に「難民であること」をもって要件の一部としているのとは異なり,法61条の2の6においては,難民認定を受けていることが要件として規定されているのは,条約上も,31条1項と異なって,28条においては,「合法的にその領域内に滞在する難民」に限って旅行証明書の発給を定めていることとのひょうそくを合わせたためであると解される。これに加えて,旅行証明書の交付を受けた者は,その有効期間中,再入国の許可を受けることなく,本邦に入国し,出国することができるとされている(法61条の2の6第3項)ことや,法61条の2の5及び61条の2の8が,難民認定の効果として,永住許可及び在留特別許可の各要件の緩和を定めていることも考慮すると,結局,入管難民法上の難民認定手続は,条約等上の難民が合法的に日本に滞在するための手続にほかならず,これ以上でもこれ以下で して,永住許可及び在留特別許可の各要件の緩和を定めていることも考慮すると,結局,入管難民法上の難民認定手続は,条約等上の難民が合法的に日本に滞在するための手続にほかならず,これ以上でもこれ以下でもないというべきである。したがって,難民認定を受けられなかったからといって,合法的に日本に滞在すること以外の保護が受けられないというものではなく,その意味で,当該外国人が実体的に「難民」でないことまで確定するものではないと解される。 この点に関し,原告は,入管難民法による難民認定は,いわゆる統一認定方式を定めるものである旨主張するが,前記(3)の立法経緯に照らすと,条約等の発効に合わせて入管難民法の第7章の2その他の難民に関する規定が設けられ,施行されたことが明らかであるにもかかわらず,前述した以上には,条約7条ないし34条の各個別条項に定められた各種の難民保護措置を受けたと思われる規定が存在しないことからすると,法は,従前からの他の制度の運用によってこれらの保護措置を賄うことを前提としているものと考えられるから,原告の上記主張は,事実上の問題点の指摘又は立法論としてはともかく,法解釈論としては採用することができない。 (5) 60日ルールの意義次に,我が国における難民認定の具体的な手続を定めた法61条の2第2項について検討する。同項本文は,合法又は不法に上陸し又は滞在しているとを問わず,本邦に上陸した日又は難民となる事由が生じたことを知った日のうち,いずれか遅い時期から60日以内に難民認定を申請すべきことを要求しているところ,前記のとおり,難民とは,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するものであるから,真実,難民に該当する者であるならば, とは,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するものであるから,真実,難民に該当する者であるならば,かかる恐怖から逃れるべく,速やかに保護を求める場合も多いと考えられるし,特に不法に上陸,滞在している難民については,その不法状態を速やかに解消すべく,一定期間内に難民である旨の申告を要求することも酷ではないというべきである(条約2条参照)。そして,このような申告を行うために一般的に必要と思われる準備期間を考慮しても,我が国における通信・交通手段の整備状況に照らせば,60日という期間が不当に短期間にすぎるとはいえない。 また,同項ただし書は,その期間を遵守できなかったことについて「やむを得ない事情」があるときは,この期間制限を外すこととしているから,後記のとおり,この期間内に申請を行うことが期待できない客観的な個別事情が存する場合には,60日の期間を経過してなされた申請に対しても,実体的な難民性の判断を受けることができる構造となっている。 そうすると,60日ルールは,難民認定申請を行おうとする者に対して実質的に不可能を強いるものであるとはいえない。 (6) まとめ-60日ルールの合憲性等の有無前記のとおり,我が国の難民認定手続は,条約上の難民が合法的に日本に在留するための手続であって,これを受けられなかったからといって,当該外国人が実体的に「難民」でないことまで確定するものではないし,その手続要件自体も,申請者に対して実質的に不可能を強いるものとはいえない。これに加えて,UNHCR執行委員会結論第15号(乙74)が,(i)項において,「(申請)期限を徒過したことまたは他の形式的要件が満たされなかったことによって庇護申請を審査の対象から除 はいえない。これに加えて,UNHCR執行委員会結論第15号(乙74)が,(i)項において,「(申請)期限を徒過したことまたは他の形式的要件が満たされなかったことによって庇護申請を審査の対象から除外すべきでない」としながら,「庇護希望者に対し一定の期限内に庇護申請を提出するよう求めることができる」と述べていることをも考慮すると,立法論的な当否はともかく,60日ルールが,条約等の趣旨を没却する内容のものであるとはいえず,したがって,国際法や憲法98条2項に反するものではないと判断するのが相当である。 また,原告は,60日ルールは憲法31条にも違反すると主張するが,同条が刑事手続のみならず行政手続に類推適用されるとしても,その内容からは,いわゆる不利益処分(行政手続法2条4号参照)を対象とするものと解するのが自然であるところ,本件のような難民認定はこれに当たらない上,実質的にみても,60日ルールが,同条の趣旨に反する不当に短い申請期間を定めたものであるともいえない。 2 本件不認定処分の適否(1) 「やむを得ない事情」の意義まず,法61条の2第2項ただし書にいう「やむを得ない事情」の意義につき検討するに,先に述べた難民認定の意義や60日ルールの趣旨,法律用語として通常使われる意味等からすれば,この期間内に申請を行うことが期待できない客観的な個別事情が存すること,具体的には,病気や災害による交通途絶等の理由により,そもそも難民認定を申請することが物理的に不可能であったと認められる場合のほか,我が国において合法的に在留する資格を有し,難民認定を申請すべき何らの動機付けも存しない場合や,難民認定を申請することにより,その者の家族等に対して危難が及ぶことが予想される場合など,難民認定の申請をするか否かの意思決定を行うことが客観的に困難な事情 請すべき何らの動機付けも存しない場合や,難民認定を申請することにより,その者の家族等に対して危難が及ぶことが予想される場合など,難民認定の申請をするか否かの意思決定を行うことが客観的に困難な事情を指すと解するのが相当であり,かかる場合には,これらの障害が解消した後相当な期間内に難民認定申請をすることにより,同項ただし書の「やむを得ない事情」が存したと評価されるべきである。 この点について,原告は,平穏に在留している以上,特段の事情がない限り,難民認定をしないことにつき定型的に「やむを得ない事情」が存在すると主張するところ,上記のように,平穏な在留が合法的なものであるならば,そのような外国人に対してあえて難民認定の申請を行うべき動機形成を期待することは難きを強いることになると考えられるが,それが違法な状態である場合には,外国に不法に入国,在留することは一般的に許容されないという国際社会における前記共通認識に照らすと,主権国家たる我が国がそのような状態の解消を期限をもって迫ることは当然であるし,当該外国人としても,かかる違法状態の速やかな解消に尽力すべきものであるから,上記主張は採用することができない。 (2) 本件における「やむを得ない事情」の有無以上を前提として本件について検討するに,前記前提となる事実(1)ないし(3)の事実に照らせば,原告は,他人名義の旅券を使って本邦に不法に上陸後,何らの在留資格を有することなく9年余の長期にわたって不法滞在を続けていたと認められるところ,このような長期にわたる病気,交通途絶等の物理的障害が認められないことは明らかである。 また,証拠(乙10ないし15)によれば,原告は,自らが他人名義の旅券で不法に本邦に上陸したことを十分に認識していたと認められるし,別の証拠(甲56,60の1・2,130 いことは明らかである。 また,証拠(乙10ないし15)によれば,原告は,自らが他人名義の旅券で不法に本邦に上陸したことを十分に認識していたと認められるし,別の証拠(甲56,60の1・2,130,乙29,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,原告は,平成9(1997)年ころから,名古屋の学生ボランティアグループのメンバーと親しくなって,遅くとも平成10(1998)年ころにはデモ等にも参加し,平成12(2000)年10月には,ミャンマー政府に反対する「民主主義と発展のための勉強グループ」(以下「SGDD」という。)やLDB名古屋の一員として,公然と政治活動をしていた事実が認められる。そうすると,後者の各証拠によって,ミャンマー本国に在住する原告の父や兄が,軍から原告と連絡を取っているとの疑いをかけられ,暴行を受けるなどしたため,やむなく父が原告とは縁を切った旨の新聞広告を出した事実が認められるにしても,少なくとも原告が公然と政治活動を始めた以上,難民申請を行うことを原因として家族らに危難を及ぼすおそれが発生することは考え難いから,それ以降相当な期間内に本件難民申請がされたとはいえない本件においては,同申請につき法61条の2第2項ただし書の「やむを得ない事情」があったと認めることはできない。 (3) 本件不認定処分の適法性そうすると,原告の主張する手続的違法の有無にかかわらず,原告からの本件難民申請に対し,「法61条の2第2項所定の期間を経過してされたものであり,かつ,原告の申請遅延の申立ては,同項ただし書の規定を適用すべき事情とは認められない」旨を理由としてなされた被告大臣の本件不認定処分は,適法というべきである。 3 本件裁決の適否(1) 問題の所在次に,原告は,本件裁決について,原告が難民であるにもかかわらず,被告大臣はそ い」旨を理由としてなされた被告大臣の本件不認定処分は,適法というべきである。 3 本件裁決の適否(1) 問題の所在次に,原告は,本件裁決について,原告が難民であるにもかかわらず,被告大臣はその該当性の実質を判断することなく在留特別許可をしなかったのは,裁量権を逸脱ないし濫用するものである旨主張するので,まず,この主張の法的な位置付けを検討する。 既述のとおり,ある者が60日ルールの適用によって難民認定をしないとされた場合でも,条約等との関係では,その者は,日本に合法的に在留する資格を有しないとされるにとどまるもので,およそ「難民」に該当しないことが実体的に確定されるものではない。そして,条約等上の「難民」に当たるとすれば,その滞在又は居留が不法であっても,条約33条1項のとおり,「いかなる方法によっても,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない。」とする,いわゆるノン・ルフルマン原則による保護の対象とされなければならない。しかるところ,我が入管難民法の体系においては,法24条各号所定の退去強制事由の一に該当する旨の入国審査官の認定(法47条2項),これに対する容疑者からの口頭審理の請求を受けてするその認定に誤りがない旨の特別審理官の判定(法48条7項)を経て,これに対する異議の申出が理由がない旨を法務大臣が裁決した場合,その通知を受けた主任審査官は,退去強制令書を発付しなければならないとされている(法49条5項)が,その送還先は,原則として,その者の国籍又は市民権の属する国とされ(法53条1項),この国に送還することができないときは,本人の希望に従って直前の居住国等のいずれかに送還される(同条2項)も )が,その送還先は,原則として,その者の国籍又は市民権の属する国とされ(法53条1項),この国に送還することができないときは,本人の希望に従って直前の居住国等のいずれかに送還される(同条2項)ものの,法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除いては,送還先には,条約33条1項に規定する領域の属する国を含まないものとする(法53条3項)ことによって,ノン・ルフルマン原則が担保されている。 しかしながら,一口に外国人を送還するといっても,送還先とされた相手国の同意や受入れ態勢を無視して実現できるものではなく,さらには,その国の国情いかんによっては,人道上の問題を生じかねないことから,どの国に送還するのが相当か,あるいは送還先として適当な国が見当たらないなどの場合に送還自体が相当かについて,各国の国情を踏まえた高度な政治的判断が求められるというべきところ,かかる判断主体としては,退去強制令書の発付につき裁量を有しない主任審査官ではなく,法務大臣が適当であることはいうまでもない。したがって,法務大臣は,上記異議の申出に対する裁決を行うに当たり,法50条所定の在留特別許可を与えるか否かを決する過程で,当該外国人の「難民」該当性を判断した上,これが肯定される場合は,送還先をどの国にするか,あるいは送還自体の適否を判断すべきであり,難民該当性が肯定されるにもかかわらず,上記のような判断を加えることなく,異議の申出は理由がないとの裁決をすることは,特段の事情のない限り,法務大臣に与えられた裁量権を逸脱ないし濫用するものとして,違法との評価を免れないというべきである。 このように,原告が条約等上の「難民」に当たるか否かは,裁決の適法性に影響を与えると考えられるから,以下において,その「難民」該当性について判断する。 (2) 難 価を免れないというべきである。 このように,原告が条約等上の「難民」に当たるか否かは,裁決の適法性に影響を与えると考えられるから,以下において,その「難民」該当性について判断する。 (2) 難民であることの立証責任の所在一般に,抗告訴訟における主張立証責任については,その適法性が問題とされた処分の性質によって,分配原則を異にするのが相当である。すなわち,当該処分が,自由を制限し,義務を課するいわゆる侵害処分としての性質を有する場合は,処分主体である行政庁がその適法性の主張立証責任を負担し,逆に,特別な利益・権利を取得し,あるいは法定の義務を免れるいわゆる受益処分としての性質を有する場合は,原告がその根拠法令の定める要件が充足されたこと(申請却下処分が違法であること)の主張立証責任を負担すると解するのが原則であり,これに根拠法令の規定の仕方や,要件に該当する事実との距離などを勘案して,総合的に決するのが相当である。 しかるところ,法50条所定の特別在留許可は,本来,当然には本邦に滞在する権利を有しない外国人(最高裁判所昭和53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)であって,法24条各号所定の退去強制事由に該当する者に対し,法務大臣の特別な裁量に基づき,本邦への在留を認めるものであり,これに,難民であることを基礎づける事実は,これを主張する者の生活領域内で生ずるのが通常であることを考慮すると,条約上の難民に該当する事実の主張立証責任は,これを主張する者が負担すると解するのが相当である。 もっとも,迫害を受け,あるいは受けるおそれがあることによって母国を出国した者については,経験則上,十分な客観的証明資料を所持していることを期待できず,出国してからも,これらの資料を収集するための協力を得ることが困難であることが多い おそれがあることによって母国を出国した者については,経験則上,十分な客観的証明資料を所持していることを期待できず,出国してからも,これらの資料を収集するための協力を得ることが困難であることが多いと考えられるから,難民と主張する者がこれらの資料を提出しないからといって,直ちに難民であることを否定すべきではなく,本人の供述するところを主たる材料として,恐怖体験や時間の経過に伴う記憶の変容,希薄化の可能性なども十分に考慮した上で,その基本的内容が首尾一貫しているか,不合理でないか等を吟味し,難民であることを基礎づける根幹的な主張が肯認できるか否かに基づいて,最終的な判断を下すべきである。 (3) ミャンマー情勢に関する事実ミャンマーの政治情勢及びロヒンギャー民族の待遇に関する当事者間に争いのない前記事実に,証拠(甲18の1,68及び69の各1・2,70,71,123,126の2,135ないし139,152,159,乙49ないし54,その他該当事実の末尾に略記された証拠)及び弁論の全趣旨を総合すると,ミャンマーの歴史及び社会情勢について,以下の各事実が認められる。 ア植民地化と独立ビルマにおいては,かつて,チベット・ビルマ語族の各民族がチベットから南下して割拠していたが,ビルマ民族が11世紀にこれを統一してパガン王朝が成立した。 ビルマは,1886(明治19)年,イギリス領インドに編入され,その植民地となって議会制民主主義の啓蒙を受け,戦後,その支配下で成立したアウン・サン将軍を首相とする暫定政権も,議会制民主政治を目指した。アウン・サン将軍は,1947(昭和22)年7月19日,側近らとともに暗殺されたが,後継のウ・ヌ首相は,1948(昭和23)年1月4日,独立を達成し,一時,1958(昭和33)年に副総理大臣であったネ・ウィン将軍 は,1947(昭和22)年7月19日,側近らとともに暗殺されたが,後継のウ・ヌ首相は,1948(昭和23)年1月4日,独立を達成し,一時,1958(昭和33)年に副総理大臣であったネ・ウィン将軍にクー・デタを起こされたものの,2年後には復位した。 イ社会主義独裁政権の成立ネ・ウィン将軍は,1962(昭和37)年3月,軍部を指揮して再度クー・デタにより政権を掌握し,ビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成して,一党独裁による独自の社会主義路線を押し進めたが,国全体は次第に経済的に困窮していった。 そうした中,同政権は,1978(昭和53)年3月にナガミン(竜王)作戦と称する「移民」排除計画を打ち出し,実力行使を伴う大規模な住民調査を実行したところ,その過程で迫害を受けた約20万人のロヒンギャー民族がバングラデシュに流出する結果を招いた。 それでもビルマにおける経済的な困窮は改善されず,1987(昭和62)年には,国連から後発発展途上国(いわゆる最貧国)に指定された。 ウ民主化運動と国軍による政権掌握1988(昭和63)年3月13日にラングーン工科大学の一学生が軍の諜報機関員に殺害された事件を契機に,同大学学生らの間でネ・ウィン体制に抗議する民主化運動が起こり,やがて市民の間でも同運動が広まっていった(甲166,170の6・14,171,172,174)。 民主化運動の盛り上がりにより,ネ・ウィン将軍はその地位を辞任したものの,国軍に対する影響力を依然として保持したままであり,同年7月23日には戒厳令が敷かれている。国軍は,同年9月18日,ソ・マウン将軍を議長とするSLORC(国家法秩序回復評議会)を組織して政権を掌握する(以下,「軍事政権」又は「軍政」ということがある。)とともに,事態を収束するため,2年後の5月に総選挙を 8日,ソ・マウン将軍を議長とするSLORC(国家法秩序回復評議会)を組織して政権を掌握する(以下,「軍事政権」又は「軍政」ということがある。)とともに,事態を収束するため,2年後の5月に総選挙を実施することを表明した。これと相前後する1988(昭和63)年9月24日ころ,アウン・サン将軍の長女スー・チーらが中心となって,NLDが結成された。 なお,SLORCは,翌1989(平成元)年6月18日,国名をミャンマーに,首都名をラングーンからヤンゴンに変更した。 エ総選挙の実施と結果の不尊重総選挙へ向けた政治活動に対して,SLORCは,1989(平成元)年7月20日,スー・チーらに対して自宅軟禁措置を課す等,圧迫と取締りを続けたが,1990(平成2)年5月27日に実施された複数政党による総選挙の結果は,全485議席中392議席をNLDが占める同党の圧勝であった。しかし,SLORCは,この結果を認めようとせず,当選者に当選を辞退するよう圧力をかけたり,当選したNLD議員を投獄したり,数千人単位の政治活動家とともに国外追放にしたりしたほか,民政に移管するには堅固な憲法が必要であることを理由として,この総選挙の結果に基づく国会を召集することをしなかった。 1992(平成4)年4月23日,ソ・マウンの後の議長に就任したタン・シュエ将軍の下,SLORCは,1993(平成5)年1月9日には,代議員をかなりの程度恣意的に指名する形で,憲法制定のための国民会議を発足させたが,1995(平成7)年11月29日,辛うじて指名されていたNLD所属の代議員らが,非民主的であることを理由に国民議会の審議をボイコットしたため,SLORCは2日後に同人らを国民議会から除名し,同議会は,1996(平成8)年3月以後,長期休会の状態を脱していない。 なお,SLOR 民主的であることを理由に国民議会の審議をボイコットしたため,SLORCは2日後に同人らを国民議会から除名し,同議会は,1996(平成8)年3月以後,長期休会の状態を脱していない。 なお,SLORCは,1997(平成9)年11月15日に国家平和開発評議会(SPDC)に改称された。 オ NLD及びスー・チーに対する抑圧スー・チーの自宅軟禁措置は,1995(平成7)年7月10日,一旦解除されたものの,その後,軍用物運搬,農業等の役務のための民間人に対する労働の強要が問題化する等して抗議行動が活発化し,軍政が民間人に対する強制労働を中止するための国軍令を発布することを余儀なくされた1996(平成8)年になると,スー・チーと外部の者との面会を徐々に制限し,同年12月2日に外出禁止命令を発するとともに,翌1997(平成9)年5月27日の総選挙記念日に開催されたNLD党大会も実力をもって中断させた。その後,SPDCは,諸外国からの批判を受けて,時折NLDの党大会開催やスー・チーの外出を許可することもあったが,2000(平成12)年9月21日ころから,三たびスー・チーを自宅軟禁状態に置き,2002(平成14)年5月6日には,軍事政権とNLDとの対話の進展に伴い,解放したが,2003(平成15)年5月30日深夜から翌31日早朝にかけて,北部地域のラカイン州等における遊説から戻る途中のスー・チーの身柄を四たび拘束して,そのまま現在に至っている(甲144の2ないし6,158の1・2,169)。 現状では,スー・チーに対する面会や挨拶を希望するだけでも軍事政権によって逮捕されることがあり,司法が軍政から独立した機能を有していないこともあって,1996(平成8)年以降も,先の総選挙の当選者を含む千人単位のNLD党員・党支持者らが政治犯として投獄されたまま よって逮捕されることがあり,司法が軍政から独立した機能を有していないこともあって,1996(平成8)年以降も,先の総選挙の当選者を含む千人単位のNLD党員・党支持者らが政治犯として投獄されたままであり,在監者への暴行もしばしばである。 カ強制労働の実態ミャンマーにおける軍事政権の特色の一つとして,民間人なかんずく少数民族に対する強制徴用,強制労働が挙げられるが,これを中止するための前記国軍令の発布後も,開発の名分の下に,児童も含む強制労働力が利用される実態は変わっておらず,国際労働機関(以下「ILO」という。)も,1997(平成9)年3月には,強制労働に関するILO規約違反の有無を調査するための委員会を設立して,調査団を派遣した。ILO総会は,2000(平成12)年6月,SPDCに対し,同規約に従った「具体的かつ詳細な方策」を11月30日までに施行するよう求めたが,同年10月の強制労働禁止を強化するSPDC令発令後である同年11月にも,ILO執行部は,施策が未了であるとして6月の上記総会決議を支持し,同年12月にはILO事務総長が加盟国に対して,SPDCとの関係見直しの検討を求めている。 なお,ミャンマーにおける近年の経済成長率は5パーセントを超え,1997(平成9)年6月までの半年で通貨チャットの対米ドル為替価格が3分の1に下落し,1年で物価が3倍になるほどのインフレーションに見舞われているが,賃金上昇率はこれに追いついておらず,国民の大半は経済的に苦しい生活を送っている。 キ少数民族等の待遇ミャンマーにおいては,少数民族並びにイスラム教徒及びキリスト教徒は,市民権が否定又は制限され,軍事政権等によって強姦等の虐待や,徴税,財産の没収の標的とされることも多い。 特にチベット系のビルマ民族と異なり,インド系の容貌を有する イスラム教徒及びキリスト教徒は,市民権が否定又は制限され,軍事政権等によって強姦等の虐待や,徴税,財産の没収の標的とされることも多い。 特にチベット系のビルマ民族と異なり,インド系の容貌を有するロヒンギャー民族は,現在のバングラデシュ方面に当たるベンガル地方からラカイン州に入ってきた外国人であると考えられていて,国内に135あるとされる民族の一つにすら数えられておらず,1990(平成2)年には,SLORCが,旧アラカン州について,同州に居住する仏教民族の名を取ってラカイン(ヤカイン)州と改称する等してロヒンギャー民族に圧迫を加えようとしたこともあり,1991(平成3)年12月ころから1992(平成4)年3月にかけて,迫害を恐れた同民族の約25万人が難民としてバングラデシュに流出した(甲166,172)。これに対し,国際的な枠組みで難民帰還策が実行に移され,UNHCRが,1994(平成6)年4月以降,ラカイン州に事務所を設置し,迫害の監視をしながら帰還を支援したこともあって,多くの者が原居住地に帰還したが,1997(平成9)年ころ,三たび1万人以上のロヒンギャー民族が流出したため,それまで黙認してきたバングラデシュ(条約等の締約国ではない。)政府も耐えかねて,これらのうち一部の者を不法入国の罪で摘発したり強制送還したことがあった。なお,2001(平成13)年以降もロヒンギャー民族が殺害される事件が起きている(甲146)。 (4) 原告の政治活動等に関する事実前記前提となる事実(1)及び2(2)で認定した事実に,証拠(甲6の1・2,56,61,63,66,129ないし131,乙10ないし16,28,29,57,原告本人,その他該当事実の末尾に略記した証拠)を総合すれば,原告及びその家族について,以下の各事実が認められる。 ア故郷等 1,63,66,129ないし131,乙10ないし16,28,29,57,原告本人,その他該当事実の末尾に略記した証拠)を総合すれば,原告及びその家族について,以下の各事実が認められる。 ア故郷等における状況原告は,1967(昭和42)年1月4日,ビルマ・アラカン州(現ヤカイン州)シットウェ市の第20歩兵連隊軍基地(カラヤ20)内で,イスラム教を信仰するロヒンギャー民族の父k(ビルマ名k’)及び母g(同g’)の子として出生し,f(同f’)と命名された(甲62,65の1・2,156)。父方の祖先は4世代前から,母方は10世代以上前からアラカン地方に居住していた。父は,ビルマの独立した1947(昭和22)年ころから工兵として軍に在籍する軍人であったが,1962(昭和37)年にネ・ウィン政権が成立した後は階級が上がることはなかった。 原告は,カラヤではビルマ語で生活していたが,5,6歳のころ,両親と兄姉弟を含む家族は,イスラム教の宗教学校があるインバリ村に引っ越して原告の父の妹家族とともに暮らすようになった。原告は,1973(昭和48)年又は1974(昭和49)年ころから,同村からシットウェ第6学校(アタカ)にビルマ名で通学するようになる(乙10)とともに,それとは別に寺院(バリ)に付属する宗教学校にも通い,そこで同じイスラム教徒だがカマン民族であるlと知り合った(甲113)。 原告が満11歳になった1978(昭和53)年3月,当時の社会主義政権が軍を指揮してロヒンギャー民族を国外に追放しようとしたナガミン作戦が展開され,インバリ村は,村ごと5キロメートルほど離れた不便な湿地に移住させられるなどしたため,ロヒンギャー民族であるとの自覚が強まった(甲165の1・2)。 また,原告は,1984(昭和59)年ころ,父の故郷であるチェインチョ 5キロメートルほど離れた不便な湿地に移住させられるなどしたため,ロヒンギャー民族であるとの自覚が強まった(甲165の1・2)。 また,原告は,1984(昭和59)年ころ,父の故郷であるチェインチョンを初めて訪れたが,そこで軍人に荷役労働を強要されて断ったところ,左の耳元でライフル銃を発射され,以後左の聴力が落ちた。 原告の父は,インバリ村に引っ越した後,カラヤに通勤するとともに,収益の半分をj大尉に賄賂として贈ることで,別の場所で精米所を経営することを黙認してもらっていたところ,同大尉の部下の兵士らが,収益をごまかさないように監視し,搾取し続けるのに我慢しきれなくなった原告が,1986(昭和61)年ころ,その兵士らが働かずに収益を搾取していることを非難したため,兵士らと喧嘩となり,その後,軍用車両数台が原告を逮捕すべく原告の家に来た。原告は隠とんしていたため難を免れたが,精米所はj大尉に接収された。 イ上京と政治活動等原告は,シットウェ第6学校では,ビルマ名を使用していたものの,ことあるごとに教師から差別されたことから勉学に身が入らず,5学年で1度留年した後,8学年では3度の留年をしたため,これ以上同校に通学し続けることができなくなった。そのため,原告は,ラングーン市タムウェに在住していた三姉mを頼るべく賄賂を使って海路上京し,進学のための専門学校に通ってアタカ卒業のための勉強をしたが,中途退学して電機関係の私立専門学校に入校した。そのころ,原告は,別に上京して岳父の経営する民族衣装(ロンジン)店を手伝っていたlを訪ねて再会し,最低でも月に1度ほどの頻度で会うようになった(甲113)。 原告は,1988(昭和63)年に民主化のための学生運動が高揚した際,軍政に反対する宣伝ビラの配布や,ゼネストへの参加等の政治活動に加わるようにな 月に1度ほどの頻度で会うようになった(甲113)。 原告は,1988(昭和63)年に民主化のための学生運動が高揚した際,軍政に反対する宣伝ビラの配布や,ゼネストへの参加等の政治活動に加わるようになり,そのころ,後にNLDの幹部となるd等の活動家とも知り合うようになった。 原告は,同年8月8日に行われた大規模ないわゆる8888デモ行進の際には,赤地に黄色の星と戦うクジャクを描いた植民地時代から闘争の際に用いられてきた旗を掲げて,ア・ロッタマ病院から出発したグループの先頭を歩いたところ,同月13日ころの深夜,軍情報部の者が写真を持って居候中の三姉の家に現れ,原告を捕まえると言って家中を捜索したが,たまたまdらとの活動のために不在であったため,難を免れた。帰宅後,捜索の事実を知った原告は,着るものだけを持って,かえって安全と思われた軍基地のある徒歩1時間ほどの距離のボータ・タウンに父の知人を頼り,事情を話したところ,かくまうことは断られたが1晩だけ泊めてもらい,そのままシットウェ市に帰郷することにした。(甲67)原告は,帰郷途中,ロヒンギャー民族に対する厳しい検問で有名なトウン・コッの検問所で,身分証明書を所持している理由やラングーンへ往復した理由を尋ねられたが,父の軍の番号,名称と基地名を告げたところ,通過を許された。 ウシットウェでの政治活動等原告は,帰郷後間もなく,インバリのロヒンギャー民族の集まりに参加して,シットウェ大学の学生グループとともに活動したり,ムスリム学生連盟にも参加したりしていたところ,1988(昭和63)年8月26日ころ,シットウェ刑務所内で発砲事件があり,在監中のロヒンギャー民族2名と学生1名が殺害されたのを契機に,全国7つの刑務所において,公務員を含む大規模な抗議運動が起こり,暴動が発生した(甲166,1 ろ,シットウェ刑務所内で発砲事件があり,在監中のロヒンギャー民族2名と学生1名が殺害されたのを契機に,全国7つの刑務所において,公務員を含む大規模な抗議運動が起こり,暴動が発生した(甲166,170の1ないし3・5・8・12・13,171ないし173)。原告も,シットウェ刑務所に対する抗議行動に参加して,仲間と共に複数台の車両に分乗して刑務所脇の所長の自宅へ押しかけ,鍵を開けるよう求めたところ,所長は,取り立てて抵抗することもなく,原告等のグループに刑務所の鍵を差し出したため,原告等は,収容されていた学生100名余り,バングラデシュ人7,8名を含む数百名を解放した(甲67,148,161)。 原告は,その後も活動に従事していたが,やがて,シットウェ市内に夜間外出禁止令(カーヒュー)が出され,その3日後くらいの同年9月26日ころ,インバリ村の入口近くに住んでいた原告の運動仲間2,3名が逮捕され,さらに村の入口から奥まった所に住んでいた原告を逮捕すべく軍関係者が向かっているとの報を聞いたため,直ちにチェインチョンに逃れた(甲67)。原告は,そのまま1か月ほど隠とんしていたが,その間,父と長兄が暴行を受けて取り調べられた旨の父からの手紙を受け取っている。 エバングラデシュへの脱出と帰国原告は,1988(昭和63)年10月ころ,バングラデシュ国境を越えて同国内のロヒンギャー難民キャンプに2週間ほど居留した後,インドを経由して,パキスタンのカラチでロヒンギャー民族の者たちが滞在していた地域に2年近く滞在したが,ロヒンギャー民族によるラカイン州の独立を企図する同地域の幹部と異なり,多民族の共生を目指していたため,1990(平成2)年5月のミャンマー総選挙でNLDが勝利した旨ラジオで聞いて帰国を決心し,海路タイのバンコクへ向かった。原告は 独立を企図する同地域の幹部と異なり,多民族の共生を目指していたため,1990(平成2)年5月のミャンマー総選挙でNLDが勝利した旨ラジオで聞いて帰国を決心し,海路タイのバンコクへ向かった。原告は,そこで同じロヒンギャー民族のnと知り合い,情報を得たタイ国内のミャンマー国境付近の村へ行ったところ,ミャンマー側の国境の村にlがいると聞きつけ,会いたい旨の伝言を送った。そして,原告は,タイ側まで迎えに来たlに帰国の意思を伝えたところ,同人の指南で国境のモエ川を越えて密入国することができ,さらに,トラック運転手に1万チャットを払って運転手の手伝いになりすまし,ヤンゴンに到着した(甲113)。 オヤンゴンでの活動再開と再度の国外脱出原告は,ヤンゴンで,NLDの党員になっていたdと相談して,親戚や知人の家を転々とし,カン・ド・レでも独り暮らしをするなどして,軍を退役した父と長兄の行商の仕事を手伝いながらも,同人らには隠れて,dから預かった連絡文書を届けたり,反軍政のビラ配りをしたりしていた。この間,原告は,「f””」名の偽名の身分証明書を作って移動の際に利用したり,万一の場合の国外逃亡をおもんぱかって,1991(平成3)年8月ころには,ブローカーのoに申請書類の偽造料等として2万チャットを払って旅券を入手し,国際運転免許証も取得した(甲165の1・2)。 1992(平成4)年4月ころ,原告が当時住んでいたカン・ド・レに,軍関係者2名が現れ,身分関係書類の原本を提出するよう求めた。原告は,これに対し,旅券についてはコピーのみを提出したため,出先事務所への出頭を求められ,翌朝出頭したところ,暴行を受けながら政治活動歴等を問いただされ,さらに翌日に経歴書を持参して出頭するよう求められた。原告は,翌日からは遠方で仕事があるため無理である旨述べて 所への出頭を求められ,翌朝出頭したところ,暴行を受けながら政治活動歴等を問いただされ,さらに翌日に経歴書を持参して出頭するよう求められた。原告は,翌日からは遠方で仕事があるため無理である旨述べて1週間の猶予を求めたところ,仕事から戻った後に直ちに出頭するよう命じられた。そこで,原告は,dと父に相談したところ,出頭したら逮捕は必至であると忠告されたため,国外逃亡することをを決意し,空路タイのバンコクへ脱出した。その際,ヤンゴンの空港では,ブローカーのoに航空券代のほかにさらに2万チャットを支払って特別通用口から搭乗待合室に入った。 カ来日と日本での状況バンコクでnを介して情報を収集した原告は,自由に反軍政活動ができると聞いた日本への亡命を決意し,ブローカーのpに会って希望を伝えたところ,pから数千米ドルの支払を要求されたため,ミャンマーの父に相談し,地下銀行を経由してpの指定した者に振り込んでもらうよう依頼した。原告自身は,送金の確認はしなかったが,pにミャンマーで入手した旅券と顔写真を渡したところ,約2週間後にpから原告の写真の貼られたa名義の旅券を渡され,そのままpとともに香港で航空機を乗り換え,台北を経由して平成4(1992)年6月22日に名古屋空港に到着し,日本に入国した(乙3,4,5の2)。原告は,空港から名古屋駅までのバスの中で,pの求めに応じ,使用したばかりの偽造旅券を手渡した。 原告は,pとともに上京し,JR中央線沿線の高尾でミャンマーとの貿易を業としていたミャンマー人qの下に身を寄せた。しかし,qは,原告を同居させていることがミャンマー政府に知られると貿易が不自由になるとして,2か月ほどして原告に退去するよう申し入れたので,原告は,qから電話番号を教えてもらった政治団体を当てにして,再び名古屋に戻ってきた(乙2 ことがミャンマー政府に知られると貿易が不自由になるとして,2か月ほどして原告に退去するよう申し入れたので,原告は,qから電話番号を教えてもらった政治団体を当てにして,再び名古屋に戻ってきた(乙20)。そして,原告は,愛知県内でミャンマー政府に反対する政治活動をしている者たちと安城市で会って話をするうち,KNUへの参加を求められたが,KNUは民族対立をあおるためにミャンマー政府当局に利用されている武装ゲリラ集団であると認識しており,かつ,自身がカレン民族でもなかったため,これを断った。そのため,原告は,同所に居づらくなって路頭をさまようなどしたが,名鉄犬山線上小田井駅近くの平田(地名)に仕事があるとの情報を頼りに,職探しをしたところ,r商会で塗装工兼溶接工の仕事を得た。 その後,原告は,nに架電した際に,pから真正な旅券を返してもらうよう度々依頼したが,2年ほどしてバンコクから送られてきたのは,原告の写真の貼られたv名義のさらに別の旅券(乙1)であり,事情をnに尋ねてもらちが明かないため,そのままその旅券を持っていることにした。r商会は間もなく倒産したが,原告は,本名で有限会社s,株式会社t,有限会社u等の職場を転々としながら(甲153,154),平成6(1994)年3月2日には旧東海銀行に「f”」名義の口座を開設したり(甲132,133),知人を介したり等して,時々バンコクやシンガポールに送金している。 原告は,その後,名古屋の学生ボランティアグループのメンバーと親しくなって,平成9(1997)年ころから同グループに参加し,平成12(2000)年1月16日には在日ミャンマー人によりSGDDを結成した(甲50の1・2)が,同グループは,間もなく同年12月10日に,ミャンマーに民主的な政権を平和的に擁立すること等を目的として宣伝活動 00)年1月16日には在日ミャンマー人によりSGDDを結成した(甲50の1・2)が,同グループは,間もなく同年12月10日に,ミャンマーに民主的な政権を平和的に擁立すること等を目的として宣伝活動等を行うLDBとして,ビルマ青年ボランティア協会(BYVA),東京の在日ビルマ人協会(BAIJ)及びビルマ解放学生連盟(SOLB)と統合し,その名古屋支部(LDB名古屋)となった(甲21ないし23の各1・2,48)。原告は,その活動方針に基づき,ビルマ伝統の太陰暦の年越しの祭りである水掛け祭り(ティンジャン)や毎年5月27日の総選挙記念日等の機会を利用しての,東京のビルマ市民フォーラム,ビルマ難民救済センター名古屋等とも協力したビラ配りや,在東京ミャンマー大使館前でのデモ,その作品が軍政により発禁となっているNLDの一員でもある作家wらを囲む集い等の政治・宣伝活動に実際に参加しており(甲12の1・2,13ないし17,24ないし27の各1・2,28,29,31ないし34,35の1・2,60の1・2,119の2・3,120の1,121,126の1ないし3,127,134,145,150の1ないし3,157,乙20),現在では,LDB名古屋の会計担当役員を務めている(甲21の1・2,43)。 キミャンマーでの家族らの状況ミャンマーの軍や諜報機関(MI)は,1994(平成6)年ころ,原告と連絡を取り合っていることを理由に,原告の父や長兄に暴行を加えている。これに心を痛めた原告からの依頼で,原告の父が,そのころ,原告と絶縁した旨の広告を現地の新聞に掲載した旨,原告は聞いているが,その後も,2001(平成13)年10月ころ,諜報機関が,原告の父を訪ねて原告について問いただし(甲57の1ないし4),さらに同年の年末から翌2002(平成14)年の年初に た旨,原告は聞いているが,その後も,2001(平成13)年10月ころ,諜報機関が,原告の父を訪ねて原告について問いただし(甲57の1ないし4),さらに同年の年末から翌2002(平成14)年の年初にかけては,父を連行し,腕又は手首や腹に傷害を負わせるほどの暴行を加えて取調べを行っている(甲58の1・2,59の1ないし3,77の1・2,113)。 (5) 原告の供述の信用性に関する被告らの主張について被告らは,以上の認定事実のうち,原告に関する個別事情を認定するための証拠として重要な役割を果たした原告の供述(供述調書,陳述書,本人尋問の結果等)について,一貫性,整合性を欠くから信用性がないなどと主張する。 しかしながら,以下のとおり,原告の供述の基本的内容は,平成13(2001)年11月22日に始まった退去強制事由に係る調査・審査手続の当初からほぼ首尾一貫しており,内容的にも,虚構であるならば容易に思いつき得ないと考えられる程度に具体性・迫真性に富んでいる部分が多く含まれていることが認められる。もっとも細部においては矛盾,食い違いも見受けられるが,これは,自己の果たした役割をできる限り大きく見せようとする難民認定申請者特有の心理によるものか,あるいは通訳を経由し,録取担当官自身も伝聞で調書を作成していることなどに伴う枝葉末節のそごであると解し得るから,原告の供述は,先に認定した事実に関する限り,信用性を備えているというべきである。 以下,被告らの主張のうち主だったものについて個別的な判断を加えるに,まず,被告らは,原告が,ミャンマーにおける政治活動のうち最も具体的かつ重要な事実であるシットウェ刑務所解放運動について,名入管による調査時に何ら供述していないこと,刑務所長が鍵を渡した理由が不合理であることなどに照らすと,原告は,かかる運動 活動のうち最も具体的かつ重要な事実であるシットウェ刑務所解放運動について,名入管による調査時に何ら供述していないこと,刑務所長が鍵を渡した理由が不合理であることなどに照らすと,原告は,かかる運動に参加していないことが強く推測されると主張する。なるほど,原告が不法残留の容疑で逮捕されて始まった退去強制手続や難民認定手続の過程で作成された調書(乙10ないし16,20,28,29)には,上記解放運動に関する記述がないことが明らかである。しかしながら,原告が,平成13(2001)年11月22日付けで作成した難民認定申請書(乙27)の3項や8項には,上記解放運動に参加した旨の記載があるから,その後にされた退去強制手続や難民認定手続に係る供述録取担当官としては,この事実の詳細を問いただし,その回答を調書に記載するのが当然であるところ,これが記載されていないことは,上記担当官がこの点に関する問題意識を全く持たず,発問することを怠った結果としか考えられない。また,刑務所長が鍵を渡した理由についても,原告が本人尋問で述べるように,民主化運動が盛り上がりを見せ,軍政が倒れる可能性があった当時の背景事情にかんがみれば,首肯できないものではないというべきである。 次に,被告らがミャンマー発の消印がないこと等を理由に,真正なものではないと主張する3通の手紙(甲57の1ないし4,乙60,62のもの,甲59の1ないし3,乙61のもの及び甲77の1・2のもの)についても,ミャンマーでは検閲がある(乙16)以上,タイまで信用できる人伝てで運搬が依頼された(原告本人)ことは十分に考えられるし,あて先のない手紙(甲59の1ないし3,乙61のもの)についても,原告の知人であるxが自ら運んだことが認められる(甲154,原告本人)から何ら不自然な点はなく,結局,被告らの上記 十分に考えられるし,あて先のない手紙(甲59の1ないし3,乙61のもの)についても,原告の知人であるxが自ら運んだことが認められる(甲154,原告本人)から何ら不自然な点はなく,結局,被告らの上記主張は採用できないばかりか,これらの証拠は,原告の供述の信用性をむしろ補強する証拠資料であると認められる。 また,被告らは,原告がロヒンギャー民族の風習については特に説明できないと述べたこと(乙28)を理由に,原告がロヒンギャー民族であること自体疑わしいと主張するが,その推論が正当と評価されるためには,ロヒンギャー民族の風習が現に他の民族のそれと異なっていることが前提となるところ,被告らは,そのような事実を主張もしていない。加えて,前記認定に係るロヒンギャー民族の形成の歴史に照らすと,同民族はいわゆるインド系の容貌を有し,いわゆるチベット系の容貌を有しているミャンマーのビルマ族とは一見して区別可能であるとの原告の供述は十分に信用できるところ,原告がインド系の容貌を有していることは,原告本人尋問を行った当裁判所に顕著である。 さらに,被告らは,原告がミャンマー政府発行の真正な旅券を入手できた理由につき,当初は元軍人であった父のコネとお金の力で取得できたと述べながら,裁判になるとブローカーに賄賂を払うことによって取得できたと大きく供述を変遷させて不自然である旨主張する。しかしながら,いずれの供述も金銭の支払を理由に含めているし,父のコネがブローカーとの接触を意味することも考えられるので,被告らの上記主張は,原告の供述内容が変遷しているとの前提自体を欠くというべきである。 最後に,被告らは,原告に対する退去強制事由についての調査・審査手続の始まる前に2年さかのぼる平成11(1999)年12月6日に,原告が名入管に出頭して帰国を求め,その際,日 というべきである。 最後に,被告らは,原告に対する退去強制事由についての調査・審査手続の始まる前に2年さかのぼる平成11(1999)年12月6日に,原告が名入管に出頭して帰国を求め,その際,日本への入国目的が仕事であって,勤めていたr商会が倒産して仕事を失ったために帰国したい旨述べた(乙5の1)ことを理由に,原告の場合も,不法就労目的で入国して金を稼いだ後入国管理局等に出頭して帰国するという入国管理事務手続上多くみられるケースと同視することによって,原告は不法就労者である旨主張するが,そもそも,原告は,違反調査のための再出頭の呼出し(乙5の3)にも応じなかったというのであるから,強制送還されることをもくろんで,費用をかけずに帰国するために入国管理局等に出頭する不法就労者とは明らかに異なるというべきである。そして,出頭の理由について,「母が危篤状態でタイの病院に入院しているので,タイに行きたいと考えて名入管に出頭したものの,入国の経緯等について事実を述べれば,審査に手間取ってタイへ行くのが遅くなると考えて嘘を言った。父とも電話で話したところ,タイへ行くのは危険だと言われて思いとどまることにした。」旨を述べる原告の供述(甲131,乙12,16)は,経緯として自然であり,信用できないものではないというべきである。 以上にみたとおりであって,時間の経過に伴う人間の記憶の変容,希薄化が避け難く,むしろ幾度となく行われた供述の内容が完全に一致することのほうが不自然というべきことからしても,原告の供述の信用性を否定する被告らの主張は,枝葉末節における食い違い等を過大視しているとの批判を免れない。まして不当な抑圧にさらされた者の心理状態にかんがみれば,体験した事実をありのまま第三者に明らかにすることは必ずしも期待できないというべきであるから,被 食い違い等を過大視しているとの批判を免れない。まして不当な抑圧にさらされた者の心理状態にかんがみれば,体験した事実をありのまま第三者に明らかにすることは必ずしも期待できないというべきであるから,被告ら指摘に係る細部における一貫性,整合性の欠如は,原告の供述の根幹部分における信用性を否定する根拠にはならないと判断するのが相当である。原告の供述の根幹は首尾一貫しており,かつ特段不合理な内容を含むものではなく,信用に値するというべきである。 (6) 原告の「難民」該当性の有無そこで,上記(3),(4)で認定した各事実に基づいて原告の「難民」該当性を判断するに,ミャンマーにおいては,特にビルマ民族による独裁政権が成立した1962(昭和37)年以降,ビルマ,ミャンマーの両時代を通じて,国軍優位,ビルマ民族優位の政策が押し進められ,ビルマ民族から構成されたネ・ウィン政権並びにSLORC及びSPDCの軍政により,民間人に対する強制労働と,少数民族,なかんずく国外のベンガル地方から来たとされるロヒンギャー民族に対する掃討作戦等の圧迫政策が,連続的ないし断続的に実施されてきたことが認められる。もっとも,UNHCRは,ロヒンギャー民族を常にマンデート難民と認めているわけではない(乙55)が,その理由は,経済的な困窮を原因の1つとして難民化したロヒンギャー民族も存在することにあると考えられる(甲69参照)ところ,そうした経済的な困窮自体が迫害によってもたらされた場合もあり得るであろうし,加えて,UNHCR自身も,バングラデシュへ到着したロヒンギャー民族を一応の難民とみなして,迫害の停止と安全な帰還の実現に尽力している事実が認められる以上,これにより前記の迫害の事実が否定されることにはならない。 しかるところ,1967(昭和42)年に生まれた原告は,父 難民とみなして,迫害の停止と安全な帰還の実現に尽力している事実が認められる以上,これにより前記の迫害の事実が否定されることにはならない。 しかるところ,1967(昭和42)年に生まれた原告は,父が軍人の経歴を有することから,公立学校に通学し,あるいはヤンゴンでの居住経験を有するなど,ロヒンギャー民族の中では,比較的恵まれた環境で生活することができたと認められるが,他方で,同民族が事業,教育,移動などの基本的自由を制限されている現状を目の当たりにし,さらには,父の財産も接収されるなどの体験を通じて,次第に民族的差別に対する反発を強め,特に軍事政権が成立して以後は,多民族共生による民主化を目指した政治活動に傾倒していったところ,やがてその活動が取締り当局の関心を引くようになり,現に,その家族には,原告との関係を理由として,ミャンマーにおいて現実に危害を加えられた者も存在しているなど,本件裁決時においては原告は,軍事政権による取調べや身柄拘束の対象とされている可能性が高いと認められる。そうすると,仮に原告がミャンマーに帰国すれば,軍事政権によって,身体的,精神的な危害が加えられることが容易に予想されるから,原告がミャンマーへの帰国に恐怖を覚えることにつき,客観的な根拠が存在するというべきである。 したがって,原告は,「人種」及び「政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」として,条約等上の「難民」に当たるというべきである。 (7) 原告の「難民」性を否定する被告らの主張についてこの点に関し,被告らは,原告の父がかつて軍に在籍していたり,原告自身も真 まないもの」として,条約等上の「難民」に当たるというべきである。 (7) 原告の「難民」性を否定する被告らの主張についてこの点に関し,被告らは,原告の父がかつて軍に在籍していたり,原告自身も真正な旅券の発給・更新や国際運転免許証,国民登録証明書の発給を受けており,後者には,ビルマ市民権法上,完全な市民であることを示す記載があるほか,公立学校(アタカ)にも通っていたこと,原告及び家族が,シットウェ,ラングーン(ヤンゴン)間を自由に移動していること,一度ミャンマーを脱出した後,一時帰国していたこと,原告が日本に来るためにミャンマーでは考えにくい大金をブローカーに支払う能力が原告の父にあったこと等を理由として,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれはない旨主張する。 しかしながら,原告の父は,ネ・ウィン政権の発足前に軍人になった上,工兵として技術を有していたから軍に在籍することができたとの原告の説明(甲130,原告本人)は,それ自体首肯するに足るものであるし,前記のとおり,父が軍に在籍していたことなどから,他の一般的なロヒンギャー民族よりも恵まれた境遇にあり,また蓄財する機会を得て,ラングーン(ヤンゴン)への移動等の利益を享受したとしても,それは少数民族として生きていくための知恵,工夫の結果にすぎないと評するべきであって,これをもって原告やその家族などに対する抑圧が存在しないとか,原告が「難民」であることを否定する理由にならないことは明らかである。 また,被告らは,国民登録証明書(甲65の1・2),旅券及び国際運転免許証の発給やアタカへの通学の事実を指摘するが,ミャンマーにおいては,お金次第でこれらを取得することが可能であるとの原告の供述をさて措いても,ここで問題なのは,飽くまで「ロヒンギャー民族として」これらの利益を享受していたのか否 事実を指摘するが,ミャンマーにおいては,お金次第でこれらを取得することが可能であるとの原告の供述をさて措いても,ここで問題なのは,飽くまで「ロヒンギャー民族として」これらの利益を享受していたのか否かの点にあるところ,これらはいずれもビルマ名によって享受することができたと認められるから,裏返せば,ロヒンギャー民族としてはこれらの利益を享受できない事実を裏付けるものというべきであり,被告らの主張のように,これらの書類の発給及び通学の事実それ自体を問題としても意味がないというべきである。また,国民登録証明書中の「民族…バンガリー-ラカイン」の記載が,仮に両親の出身民族を示し(もっとも,甲156によれば,原告の母もロヒンギャー名を持っている事実が認められることに照らすと,断定できるものではない。),右上の「ナイン」の記載が国民としての取扱いを受けていることを示しているとしても,それは現地での生活で不便を被らないため,不当な表記を受け入れた結果であるとも考えられる(甲147の2)から,同様に原告が「難民」であることを否定する理由にはならないというべきである。原告がミャンマーへ一時帰国したことも,1990(平成2)年の総選挙においてNLDが勝利したことに期待を寄せたためであるとの原告の説明に何らの不自然な点はない。 次に,旅券(乙1,58)の更新については,平成7(1995)年4月9日から平成11(1999)年まで在東京ミャンマー大使館内に実在した領事担当参事官(乙59)と同姓同名の「y」なる者による更新印があるが,仮に,被告ら主張のように,原告がこの更新手続のために上記大使館に赴き,その更新を受けることができたとしても,同旅券は「v(別名f''')」名義の偽造のものであり,原告の真正な旅券ではない以上,原告が,ロヒンギャー民族であるfとして の更新手続のために上記大使館に赴き,その更新を受けることができたとしても,同旅券は「v(別名f''')」名義の偽造のものであり,原告の真正な旅券ではない以上,原告が,ロヒンギャー民族であるfとして,ミャンマー政府から保護を受け得る立場にあったことにはならないことが明らかである。 さらに,被告らは,原告の家族が迫害を受けているはずであるのに来日していないことを理由に,原告の「難民」性を否定するが,迫害を受ければ国外へ出るはずであるとの主張は,論理があまりに飛躍している上,ロヒンギャー民族であること以上に,個人の政治的活動を理由とした迫害が強く予想される原告については,家族の「難民」性を問題とすること自体が無意味であるというほかない。同様に,被告らが,UNHCRが原告からの申請を受けながら(乙57),いまだマンデート難民と認定していないことをもって原告の「難民」性を否定する論拠とすることも,UNHCRの審査が法務大臣のそれとは全く別個の手続として行われる以上,ほとんど意味がないというべきである。 したがって,被告らの上記各主張は採用できず,原告が「難民」に当たるとの前記判断を覆すものではない。 (8) 本件裁決の適法性の有無以上によれば,被告大臣は,原告が法24条各号に掲げられた退去強制事由の一に該当するとしても,条約等上の「難民」に当たることを踏まえ,送還先について条約33条に反することのないよう十分に検討した上で,在留特別許可をするか否かを判断すべきであったと認められるところ,その後発付された本件退令において送還先がミャンマーとされているとおり,この点について全く検討された形跡がない。これは,原告の難民認定の申請に対し,60日ルールを適用して不認定としたことから,「難民」該当性について,それ以上の審査,判断を行うことがなかったた とおり,この点について全く検討された形跡がない。これは,原告の難民認定の申請に対し,60日ルールを適用して不認定としたことから,「難民」該当性について,それ以上の審査,判断を行うことがなかったためと推測される。 なお,この点について,被告らは,原告が関与した前記シットウェ刑務所解放運動は,「刑務所破り」という重大犯罪であって,原告には遵法精神が欠如していることなどを理由に,本件裁決は適法である旨主張するが,この事件は政治犯の解放等を目指す政治色の強い事件であり,かつ,その実行過程で,殺人,傷害等の重大な暴力行為が用いられていないこと,原告は,その後も政治活動を行うに当たり,武力闘争集団であるとの報告もあるKNU(甲138)等とは一線を画し,平和的民主化を志していると認められること,西日本入国管理センターにおける苦情(乙67)も,拘禁反応等により精神不安定になっていたことはうかがわせるものの,遵法精神の欠如を示すものとはいえないことなどを総合すると,「難民」該当性を前提とする在留特別許可の検討を不要とするものとはいえない。 そうすると,本件裁決は,条約等上の「難民」である原告について,条約33条2項に該当する者でないにもかかわらず,同条1項のいわゆるノン・ルフルマン原則に違反して,本国へ送還しようとするものであることが明らかであって,このような内容の裁決は,在留特別許可に際しての被告大臣の広範な裁量権を前提としても,それを逸脱ないし濫用するものというほかないから,本件裁決に至る過程における手続上の瑕疵について判断するまでもなく,本件裁決は違法というべきである。 4 本件発付の適否また,以上のように,本件裁決は違法であって,取り消されるべきものである以上,これを手段として退去強制という同一の目的を達成する関係にあり,これと相結合 法というべきである。 4 本件発付の適否また,以上のように,本件裁決は違法であって,取り消されるべきものである以上,これを手段として退去強制という同一の目的を達成する関係にあり,これと相結合してその効果を完成する一連の行為を構成する本件発付も,その前提要件を欠くものとして違法というべきである。 5 結論以上の次第で,原告の本件請求のうち,被告大臣に対して本件裁決の取消しと被告主任審査官に対して本件発付の取消しとを求める部分はいずれも理由があるから認容し,被告大臣に対して本件不認定処分の取消しを求める部分は理由がないから棄却し,訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条,64条本文を適用して(本件は,被告大臣に対しては原告一部勝訴,被告主任審査官に対しては原告全部勝訴の結論であるが,行政事件訴訟法35条により,いずれも国に対して効力を有することが明らかであるので,各被告ごとの負担割合を示すことは無意味である。),主文のとおり判決する。 名古屋地方裁判所民事第9部裁判長裁判官加藤幸雄裁判官舟橋恭子裁判官平山馨
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