平成14年4月15日判決言渡平成8年(ワ)第5008号損害賠償請求事件 主文 1 被告は,原告Aに対し,金3342万2429円及び内金2798万9552円に対する平成2年12月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 2 被告は,原告Bに対し,金1671万1214円及び内金1399万4776円に対する平成2年12月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 3 被告は,原告Cに対し,金1671万1214円及び内金1399万4776円に対する平成2年12月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 4 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。 5 訴訟費用は,これを3分し,その1を原告らの負担とし,その余は被告の負担とする。 6 この判決は,第1ないし第3項に限り,仮に執行することができる。ただし,被告が,原告Aについて金2000万円,原告Bについて金1000万円,原告Cについて金1000万円の担保を供するときは,それぞれの原告らによる上記仮執行を免れることができる。 事実及び理由 第1 請求被告は,原告Aに対し,金4967万4778円及び内金4272万4643円に対する平成2年12月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を,原告B及び原告Cそれぞれに対し,各金2483万7389円及び内金2136万2321円に対する平成2年12月20日から支払済みまで年5分の割合による各金員を支払え。 第2 事案の概要本件は,東京大学医学部附属動物実験施設(以下「本件施設」という。)に勤務中,同僚の技官により同施設内に保管されていた劇薬である酢酸タリウムの水溶液を飲み物に混入されて飲まされたために死亡したNの遺族である原告らが,被告に国家公務員であるNに対する安全配慮義務違反があったとして,あるいは,被告に 内に保管されていた劇薬である酢酸タリウムの水溶液を飲み物に混入されて飲まされたために死亡したNの遺族である原告らが,被告に国家公務員であるNに対する安全配慮義務違反があったとして,あるいは,被告に使用者責任があるとして,損害の賠償を求めた事案である。 1 争いのない事実等(証拠等の掲記のない事実は争いのない事実である。)(1) 当事者ア Nは,昭和51年11月から本件施設に勤務し,実験動物である犬の飼育管理等を担当していた文部技官であった。 Aは,Nの妻であり,B及びCは,NとAとの間の子である。 イ Iは,昭和47年9月に獣医師免許を取得し,昭和50年4月から本件施設に技術補佐員として勤務し,同年7月に文部技官として被告に正式に採用され,本件施設の実験動物の検疫や健康管理等の仕事に従事するようになった。 Iは,本件施設に勤務するようになって間もなく,Y助教授(昭和58年4月に教授となり本件施設の施設長に就任し,平成2年3月まで施設長を務めた。以下,「Y施設長」という。)及びM助手(昭和56年6月まで勤務。)の下で,微生物の一種であるマイコプラズマの研究を手伝うようになり,その関係で,Y施設長に教わって,マイコプラズマの培養液を作ったり,培地の中にかびなどの雑菌が増殖しないようにするため,酢酸タリウムの水溶液を使用していた。 M助手の後任であるD講師(昭和58年4月から昭和63年9月まで勤務。)及び同人の後任であるH助教授(平成元年7月から勤務。)もまたマイコプラズマの研究に携わっていたため,Iはその後もマイコプラズマ培養液の作成に従事していた。 本件施設においては,酢酸タリウムは無施錠で保管されており,平成2年4月にF教授(以下「F施設長」という。)が本件施設の施設長に就任したころからは,本件施設で使用する酢酸タリウムの注文 いた。 本件施設においては,酢酸タリウムは無施錠で保管されており,平成2年4月にF教授(以下「F施設長」という。)が本件施設の施設長に就任したころからは,本件施設で使用する酢酸タリウムの注文,受領,管理等は,もっぱらIが行っていた。 Iは,昭和63年ころからは,経験年数が長く,獣医師の資格も持っていたことから,本件施設内の技官等の職員の中で責任者のような立場にあった。 (2) 酢酸タリウムは,毒物及び劇物取締法2条2項別表第2第94号に定める毒物及び劇物指定令2条30号の3において劇物に指定されており,体重60kgくらいの成人の場合の平均致死量が1g程度と考えられている。酢酸タリウムは,酸臭のある白色結晶であるが,水に溶けやすく,水に溶かすと無色無臭となり,ほとんど無味である。(甲13)(3) 昭和60年ころから昭和63年ころまでの間に2,3回くらい,Nの使用していたタオルに異臭のするものが振り掛けられた。このときNは上記タオルをD講師に見せて検査を依頼したところ,検査の結果,上記タオルには酢酸タリウムが振り掛けられていたことが判明した(以下「タオル事件」という。)。 (4) 平成2年4月23日ころ,Nのコーヒー豆を入れていた容器の中に,白色の異物が混入された。このとき,Nが上記容器をH助教授に示して相談したことから,H助教授はNを伴い,上記容器を示してF施設長に報告した。Nは上記容器を警察に持っていくと話したが,F施設長は,上記容器を預かり,H助教授に対しペーハー検査を依頼するとともに,自らも異物の水溶液をマウスに注射する実験を行った(以下「コーヒー事件」という。)。 (5) Nは,既に本件施設から他の施設に異動していたD講師に連絡を取り,タオル事件の際に使用された薬品が酢酸タリウムであったことを確認した上で,平成2年7月ころ, 以下「コーヒー事件」という。)。 (5) Nは,既に本件施設から他の施設に異動していたD講師に連絡を取り,タオル事件の際に使用された薬品が酢酸タリウムであったことを確認した上で,平成2年7月ころ,F施設長に対し,上記異物が酢酸タリウムであり,これを混入したのはIではないかと申し出た。 (6) Iは,平成2年12月12日の業務時間中である午前11時過ぎころ,本件施設のW303号室でNが1人でマグカップでお茶を飲んでいたのを見た。なお,当時,Iは,部下職員らとともに本件施設3階の助手技官室のうちのW302号室を使用しており,Nは,部下職員らとともに同室の南隣に位置するW303号室を使用していた。 上記のとおり,IがW303号室内のNを見た直後,館内放送でNが呼び出され,W303号室には誰もいなくなった。それを知ったIは,W302号室の向かい側の施設研究室(E302号室)に入り,同室の薬品棚にIが無施錠で保管していた酢酸タリウムの瓶を取り出し,酢酸タリウム水溶液を作成すると,W303号室に入り,Nが飲んでいたマグカップ内のお茶に上記水溶液を混入した(以下「本件混入行為」という。)。 Nは,酢酸タリウム水溶液が混入しているものとは知らずに上記お茶を飲んだ。 (7) Nは,同月13日ころから,両手両足がしびれたり,腹の具合が良くなく,腰なども痛むといった症状を呈するようになり,歩行も困難な状態になるなどしたため,同月27日ころ,J病院に入院した。同病院において,Nは,脱毛,筋力低下,体感幻覚,精神異常などの症状が出現し,寝たきりの状態になったが,平成3年1月に至るまでその原因が不明であった。 同月になり,Nの上記症状の原因がタリウム中毒によるものであることが判明したが,Nは,同年2月14日,多臓器不全により死亡した。 (8) 平成5年になり,Iは,本 月に至るまでその原因が不明であった。 同月になり,Nの上記症状の原因がタリウム中毒によるものであることが判明したが,Nは,同年2月14日,多臓器不全により死亡した。 (8) 平成5年になり,Iは,本件混入行為の被疑者として殺人罪で逮捕,起訴され,平成7年12月19日,当庁において同罪で懲役11年の有罪判決を受けた。 平成8年11月21日,東京高等裁判所においてIの控訴を棄却する判決が下され,Iの上告も棄却され,上記有罪判決が確定した。(甲11,乙1,弁論の全趣旨) 2 争点(1) 被告の安全配慮義務違反の有無(2) 被告の民法715条による使用者責任の存否(3) 損害 3 争点に関する当事者の主張(1) 争点(1)(安全配慮義務違反)について(原告らの主張)被告には,本件施設の職員の生命身体の安全を損なわないよう施設及び備品を管理し,職員人事を管理すべき注意義務を果たさなかったという安全配慮義務違反がある。 具体的には,施設管理者は,使用保管している劇物や毒物のリストを保有し,またその毒物劇物の具体的な危険性について認識し,それを使用する者や管理する者にその危険性を認識させ,また適正な取扱い保管方法を指導し,それが実際に行われているか点検しなければならない。また,このような毒物劇物の使用者や管理者には,適性のある者を選任しなければならない。 そして,本件施設の管理者たる施設長としては,Nの生命あるいは身体に生じていた危険を回避するため,タオル事件とコーヒー事件の事実の究明と伊藤に対する人事上の処分すなわちIをNと別の職場にする,酢酸タリウムなど危険薬の取扱管理をさせない等の職務の変更,配置転換等によりNが危害を加えられないよう人事上の処置をなすべき義務があった。 しかし,本件の場合,以下のとおり,本件施設の施設長が上記に述べた安全配慮 ど危険薬の取扱管理をさせない等の職務の変更,配置転換等によりNが危害を加えられないよう人事上の処置をなすべき義務があった。 しかし,本件の場合,以下のとおり,本件施設の施設長が上記に述べた安全配慮義務を尽くしていなかったことは明らかである。 ア劇物管理について(ア) 本件混入行為当時,F施設長は,職務上酢酸タリウムが本件施設において使用されていることすら知らず,また酢酸タリウムの危険性及びその性質を全くといっていいほど知らなかった。仮にそのような認識があれば,平成2年4月23日にコーヒー事件の訴えを受けた後,酢酸タリウムの可能性も考慮に入れたより慎重な実験をすることができ,酢酸タリウム混入の事実が判明したはずである。そうすれば,混入行為をした疑いのあるIを酢酸タリウムの使用保管から外す等の措置を採ることができたし,酢酸タリウム混入の事実を職場で明らかにすることだけでも,本件混入行為への抑止効果となったはずである。 (イ) 前施設長の時期における指導管理の欠如と,施設長交替の際の管理引継ぎの不備F施設長が上記(ア)のような認識しか持たなかったのは,前任のY施設長の時期において職場での劇物管理等についての指導がされていなかったこと,及び,平成2年4月のF施設長への管理責任者としての引継ぎが劇物管理等に関することも含め一切されていなかったことも一因となっている。 すなわち,昭和60年から昭和63年にかけてのタオル事件について,Y施設長を補佐する立場にあって,Nから訴えを受けたD講師は,自ら調査をしてタオルに振り掛けられた薬品が酢酸タリウムであることを究明したが,毒物劇物の管理は万全でなければならないという指導が徹底されていなかったため,Iに直接問いただしはしたものの,このような重大な事件をY施設長に報告しなかった。 上記タオル事件以外にも とを究明したが,毒物劇物の管理は万全でなければならないという指導が徹底されていなかったため,Iに直接問いただしはしたものの,このような重大な事件をY施設長に報告しなかった。 上記タオル事件以外にも,昭和57,58年ころには,Nが脱毛する事件が,平成元年ころには,Nの同室者であったEとGが脱毛する事件も起きていたのであるから,劇物が傷害に使用された形跡はあり,調査究明すべきであったが,それがなされず,その後も漫然とIに酢酸タリウムの使用管理を継続させた。 そして,これらの事件が当時Y施設長に報告されて重大事実として記録され,後任のF施設長にも引き継がれていれば,平成2年4月のコーヒー事件でNが調査を申し出た際,ないし,その後の同年7月ころ,異物が酢酸タリウムではないかとのNからの訴えを受けた段階で,きちんとした調査を行い,異物が酢酸タリウムであることが明らかにされた可能性が十分にあるし,さらに,本件混入行為以後,酢酸タリウムが原因物質として速やかに特定され,その結果救命の可能性もあったはずである。 イ人事管理について本件施設においては,泥棒騒ぎが起きた昭和50年代半ば以降,平成2年までの約10年間,IとNの職場での人間関係は,職場で知らぬ者のいないほど極端に悪い関係であり続け,施設長もこれを十分に認識していた。また,Iの職場での性格は,人当たりが良い面はあるが,気分が変わりやすく不安定な面があり,昼間から飲酒をしたり遅刻及び欠勤をすることも多く,勤務態度は極めて不良であった。Nを「エヌッコロ」と呼んだばかりでなく,Y施設長をも「くそ水」と呼称するに至っては,極端な感情を自制することができない重大な人格的欠陥を窺わせるものであり,Iに劇物を扱わせるのは適当でないことは明白である。 したがって,遅くとも,平成2年4月23日にコーヒー事件が起 るに至っては,極端な感情を自制することができない重大な人格的欠陥を窺わせるものであり,Iに劇物を扱わせるのは適当でないことは明白である。 したがって,遅くとも,平成2年4月23日にコーヒー事件が起きてNがF施設長に調査を申し出た段階,ないし,その後同年7月ころNがF施設長に異物が酢酸タリウムではないかと訴えた段階で,Fは施設長として,Iを酢酸タリウムの保管者,使用者から外すべきであった。 ウコーヒー事件に対する対応について以上の点を前提として,F施設長は,平成2年4月23日にNからコーヒー事件についての真摯な訴えを受けたのであるから,施設管理長として正式の薬物鑑定調査を専門家に依頼すべきであり,少なくとも自己の施設で保管使用されている毒物劇物でないかどうかについての調査だけでもすべきであったが,同人が実際に行った調査は,①H助教授を通じてのペーハー測定と,②マウスへの注射実験のみにとどまり,この異物についての調査を不十分にしか行わなかったため,これが劇物であることを見逃してしまった。 また,F施設長は,同年7月ころ,改めてNからコーヒー事件の異物は酢酸タリウムではないか,入れたのはIではないかとの訴えを受けている。少なくとも,具体的な薬品名が出たこの段階で,同人は施設長として異物が酢酸タリウムではないかどうかの検査を行うべきであり,そうすれば異物が酢酸タリウムであることは確実に分かっていたはずであるし,そうなっていれば,本件混入行為を未然に防止することができた可能性は極めて高かった。 エ予見可能性公務員の生命,身体への危害の予見可能性が認められるときには,当該生命,身体への危害発生を防止するための適当な措置を講じる義務があるところ,本件混入行為に至る事実関係からすれば,被告において,本件混入行為についての予見可能性,すなわち,生 められるときには,当該生命,身体への危害発生を防止するための適当な措置を講じる義務があるところ,本件混入行為に至る事実関係からすれば,被告において,本件混入行為についての予見可能性,すなわち,生命,身体への危害の予見可能性は十分にあった。 死の結果が発生する,あるいは,殺人行為が行われるということについてまでの予見可能性は必要がないが,本件混入行為に至る事実経過からすると,コーヒー事件が起きた後の段階では,施設長として当然行うべき調査さえしておれば,コーヒー事件と同種の酢酸タリウムが飲食物中に混入される行為が繰り返し行われる可能性を予見し得たのであり,本件混入行為についての予見可能性があったといえる。 (被告の主張)ア予見可能性の不存在安全配慮義務の具体的内容は,公務員の職種,地位及び安全配慮義務が問題となる具体的状況等によって異なるべきものである(最高裁判所昭和50年2月25日第3小法廷判決・民集29巻2号143頁)から,被告が本件においてNの生命に対して負担する安全配慮義務の具体的内容についても,公務員であるNの生命に対する危険が現実化したIによる本件混入行為という具体的状況について観念されるべきであり,それ以外の状況において国が負担する安全配慮義務とは明確に区別されるべきものである。 すなわち,本件において,Iは,I個人のNに対する怨恨に基づき,I本人が常時実験等で使用,管理している酢酸タリウムを,本来の使用目的に反し,勝手に使用して,本件混入行為に及んだものであるところ,本件混入行為が行われた本件施設における公務は,一般に上記のような殺害行為の発生が予測できるような性質のものではないことはいうまでもないのであり,その意味で,本件は,職場に通常内在する危険の現実化に関する事故とは明らかに異なるのであるから,本件のような故意的 な殺害行為の発生が予測できるような性質のものではないことはいうまでもないのであり,その意味で,本件は,職場に通常内在する危険の現実化に関する事故とは明らかに異なるのであるから,本件のような故意的な加害行為による危険から被用者を保護する措置を施すべき使用者の作為義務を一般的に承認することはできないというべきである。国ないし使用者にこのような義務を認めることは,被用者をあらゆる危害から守るべしという使用者の一般的作為義務を設定するに等しく,使用者に不能を強いる極めて過大な要求であるといわざるを得ない。 本件のような故意的な加害行為の事例において,国の公務員に対する安全配慮義務が肯定されるためには,その前提として,公務員の生命に対する危険の発生について客観的な予見可能性及び回避可能性が認められることが必要であるというべきであり,本件においても,被告は,本件混入行為の発生が客観的に予測されるような特段の事情がある場合は格別,そのような事情のない限り,被告において本件施設において殺人事件を防止すべく人的物的諸条件を整える一般的な義務はないというべきである。 しかし,以下のとおり,被告において本件混入行為の発生が客観的に予測されるような特段の事情は存在しないのであるから,原告らの主張は理由がない。 (ア) 原告らは,タオル事件についてあたかもIの本件混入行為に直結するかのような事情として主張するが,客観的に見れば,タオル事件は殺人事件に発展することが予測されるものではなく,単なる「いやがらせ」あるいは「いたずら」程度の認識を与えるような性質のものでしかなかったのである。 また,原告らは,酢酸タリウムの毒性を強調するが,酢酸タリウムは皮膚に触れた程度では生命に対し危険を及ぼすものではないのであって,その意味でも,酢酸タリウムがタオルに振り掛けられたか ったのである。 また,原告らは,酢酸タリウムの毒性を強調するが,酢酸タリウムは皮膚に触れた程度では生命に対し危険を及ぼすものではないのであって,その意味でも,酢酸タリウムがタオルに振り掛けられたからといって,客観的に見て殺人事件に発展することが予測されるものでは到底ない。 (イ) 原告らは,コーヒー事件についても,あたかも本件混入行為に直結する事情であるかのように主張するが,同事件は,客観的に見て殺人事件に発展することが当然予測されるものではあり得ない。 コーヒー事件では,コーヒー豆の色と異物の色とは明らかに異なるものであることから,Nも,これを見せられたH助教授及びF施設長も一見して直ちに異物混入に気付いている。このことは,容器の中に入れられた物が酢酸タリウムであったとはいえ,Nにおいてこれに気付かず誤飲することはあり得なかったことを意味するのであって,少なくとも,コーヒー事件を直接認識した者において,当該事件が悪質ないたずらであると考える余地はあったとしても,殺人の実行行為ないし殺人事件に発展することが当然予測されるような事情であるとの認識は持ち得ないような性質のものである。実際,本件混入行為は多量の酢酸タリウム水溶液(無味,無臭,無色である。)を飲みかけのマグカップに混入させるという,およそ誰も気付かないような態様で行われていることからすると,コーヒー事件は殺人の未必の故意をもって行われた本件混入行為とは明らかに異質なものというべきである。 また,コーヒー事件の後である平成2年7月ころ,NがF施設長に対し,容器に入れられた異物は酢酸タリウムであり,入れたのはIであるなどと言ったらしいことが窺えるが,これを含めて考慮しても,当時の状況においては,コーヒー事件をもって本件混入行為を予測することは不可能であったというべきである。 (ウ) ムであり,入れたのはIであるなどと言ったらしいことが窺えるが,これを含めて考慮しても,当時の状況においては,コーヒー事件をもって本件混入行為を予測することは不可能であったというべきである。 (ウ) このように,タオル事件もコーヒー事件も,そのことから本件混入行為の発生が予測できるものではない。原告らの主張は,本件混入行為が発覚した後に判明した諸事情を強引に本件混入行為に結びつける,いわば結果論に過ぎないというべきであり,本件混入行為に至る経過における客観的な予見可能性をいうものとは到底いい難い。 (エ) さらに,原告らは,IとNの仲が極端に悪い関係であったなどと主張するが,単に極端に仲が悪かったとしても,それが殺人事件に発展することが通常あり得ないことは自明であり,仲が悪いということから直ちに本件混入行為の発生が当然予測されるものでないことは明らかである。 イ 「劇物管理について」の原告らの主張に対する反論(ア) 確かに,F施設長は免疫学等が専門であったことから,本件混入行為当時,酢酸タリウムの性質について詳細な知識を有しておらず,酢酸タリウムが本件施設で使用されていたことについて明確な認識を有していなかった。しかしながら,このような原告らの指摘は,あくまでも施設責任者が公務員の職務として一般的に負う公法上の職務義務に関するものであって,このような職務義務の内容を具体的な結果の予見可能性を前提とする安全配慮義務違反の主張に結びつけるのは正当ではない。 (イ) 原告らは,コーヒー事件について,F施設長において酢酸タリウムの性状等についての認識があれば,Nからコーヒー事件の訴えを受けた後,酢酸タリウムの可能性を考慮に入れたより慎重な実験ができ,酢酸タリウム混入の事実が判明したはずであると主張するが,当時,そもそも混入された異物が薬品であるか れば,Nからコーヒー事件の訴えを受けた後,酢酸タリウムの可能性を考慮に入れたより慎重な実験ができ,酢酸タリウム混入の事実が判明したはずであると主張するが,当時,そもそも混入された異物が薬品であるかどうかも分からない段階で,酢酸タリウムというおよそ一般になじみのない薬物を念頭において実験することを期待することはおよそ不可能であるから,原告らの上記主張も失当である。 (ウ) また,原告らは,「施設管理者は,使用保管している劇物や毒物のリストを保有し,またその毒物劇物の具体的な危険性について認識し,それを使用する者や管理する者にその危険性を認識させ,また適正な取扱い保管方法を指導し,それが実際に行われているか点検しなければならない。」旨主張するが,この点も一般的な職務義務に関する主張に過ぎない。 (エ) 「前施設長の時期における指導管理の欠如と,施設長交替の際の管理引継ぎの不備」について原告らは,被告の指導管理の欠如等として,タオル事件及びコーヒー事件を挙げ主張するが,同事件が本件混入行為を客観的に予測させるものではないことは前記のとおりであり,原告らが主張するような指導管理ないし管理引継ぎに関する義務を被告が負担する余地はないことから,この点に関する原告らの主張は失当である。 また,原告らは,Nが脱毛したこと,E及びGが脱毛したことを取り上げるが,これらが本件で被告が負う注意義務といかなる関連性を有するか全く不明であるから,これも失当である。 ウ 「人事管理について」の原告らの主張に対する反論(ア) 原告らは,「毒物劇物の使用者や管理者には,適正のある者を選任しなければならない。」と主張するが,この点も,一般的な職務義務に関する主張に過ぎない。また,Iは,本件施設の技官の中でただひとり獣医師の資格を有していたことから,研究者を除く他の のある者を選任しなければならない。」と主張するが,この点も,一般的な職務義務に関する主張に過ぎない。また,Iは,本件施設の技官の中でただひとり獣医師の資格を有していたことから,研究者を除く他の職員の中では基本的な薬品に関する知識を比較にならないほど有していたと思われるし,本件施設の教授らの実験を補助しているばかりではなく,自らも同施設教官らとの共同研究として論文を発表しているくらいであるから,酢酸タリウムの使用者,管理者として,一般的な意味での適性があった。 (イ) 原告らは,IとNの職場での人間関係が極端に悪かったから,施設長は人事異動を行うべきであったと主張するが,仲が悪いというだけで人事異動を行うことができないことはいうまでもない。また,人事異動を行うためには代替要員の確保その他の諸事情を考慮しなければならないところ,原告らの主張はその点について何ら考慮されておらず,現実的ではない。 (ウ) 原告らは,Iに重大な人格的欠陥があるかのように主張して,Iを酢酸タリウムの保管者,使用者から外すべきであったと主張するが,Iに酢酸タリウムの使用,管理について専門家としての適性があったことは既に述べたとおりであり,Iにおいてその職権を濫用逸脱していることが客観的に明らかであればともかく,本件においては,そのような事情は存せず,施設長においてIが本件混入行為に及ぶことを予見し得なかったことは前記のとおりであるから,Iを酢酸タリウムの保管者,使用者から外すべき義務が発生したということはできない。 エ 「コーヒー事件に対する対応について」の原告らの主張に対する反論原告らは,コーヒー事件の際,施設長としては,正式の薬物鑑定調査を専門家に依頼すべきであった旨主張するが,当時,そもそも混入された異物が薬品であるかどうかも分からない段階で,酢酸タリウムと する反論原告らは,コーヒー事件の際,施設長としては,正式の薬物鑑定調査を専門家に依頼すべきであった旨主張するが,当時,そもそも混入された異物が薬品であるかどうかも分からない段階で,酢酸タリウムというおよそ一般になじみのない薬物を念頭において実験することを期待することはおよそ不可能であるから,原告らの上記主張は,本件混入行為に酢酸タリウムが使用されたことが明らかになったからこそなし得る結果論であり,失当である。 なお,F施設長が行ったペーハー測定の実験は,本件のように異物の性状が不明であり,悪質ないたずらではないかと疑われる事情のもとになすべき実験として正当なものというべきであるし,さらに人体に対し有害かどうかを調べるためにマウスへの注射という動物実験まで行っているのであるから,F施設長は,本件のような事情のもとに負担すべき注意義務を果たしたというべきである。よって,上記のような実験の結果,一応人体に害はないであろうと判断して正式な薬物鑑定調査を行わず,経過を見守っていたとしても,これをもって被告の安全配慮義務違反となるものではない。 (2) 争点(2)(使用者責任)について(原告らの主張)Iの本件混入行為は,職務に関連して発生した動機に基づき職務期間中,職場においてなされたものであり,職務の執行につき行われた行為として,被告は,民法715条の使用者責任を負う。 (被告の主張)本件混入行為がIとNとの怨恨に基づくものであり,薬品を服用させて殺害するという常軌を逸した行為態様からすれば,Iの採った行為は,事業の執行でないことはもちろん,これと関連性を有するものとはいえない。 仮に,事業の執行に含まれるとしても,薬品を服用させて殺害するという常軌を逸した事態は,使用者として到底予見できるものではないから,選任及び事業の監督についての過失 関連性を有するものとはいえない。 仮に,事業の執行に含まれるとしても,薬品を服用させて殺害するという常軌を逸した事態は,使用者として到底予見できるものではないから,選任及び事業の監督についての過失はない。 (3) 争点(3)(損害)について(原告らの主張)ア Nの損害(ア) 葬儀費用 120万円原告らは,Nの葬儀費用として少なくとも120万円を支出した。 (イ) 逸失利益 7332万9285円Nは,本件混入行為当時38歳の健康な男子であり,本件施設勤務により,俸給,俸給調整額,扶養手当,調整手当,住居手当,期末手当,勤勉手当(以下「俸給等」という。)を支給され,死亡直前の平成2年の年収は472万5091円であった。その後,通常の昇格昇級の態様に照らせば,平成3年以降も勤務を継続できた場合,60歳の定年に達する平成25年3月まで,別紙逸失利益計算表記載のとおりの俸給等及び退職金を得ることができた。 さらに,定年退職後も67歳に達するまでは稼働して収入を得るのが通常であるといえ,その際,Nは,少なくとも別紙逸失利益計算表記載のとおり通常の男子年齢別平均収入を得ることができた。 以上の俸給等,退職金及び退職後の得べかりし利益につき,新ホフマン方式により年5分の割合による中間利息を控除してNの死亡時の現価に引き直した金額から,生活費3割及び死亡退職手当を控除すると,別紙逸失利益計算表記載のとおり,合計7332万9285円となる。 (ウ) 慰謝料a 入院慰謝料 92万円Nは,平成2年12月中旬ころから死亡する平成3年2月14日まで2か月間入院しており,これを慰謝すべき金額は92万円が相当である。 b 死亡慰謝料 3000万円Nは,毒殺という残酷,無残な態様によって死亡したものであって,その精神的苦痛は甚大であって,これを慰謝すべき金額は30 り,これを慰謝すべき金額は92万円が相当である。 b 死亡慰謝料 3000万円Nは,毒殺という残酷,無残な態様によって死亡したものであって,その精神的苦痛は甚大であって,これを慰謝すべき金額は3000万円が相当である。 イ損害の填補 2000万円原告らは,本件混入行為による損害につき,平成7年10月31日,Iから損害内金として2000万円を受領した。 ウ上記イの支払までの確定遅延損害金 486万8493円被告は,原告らに対し,Iから原告らに支払われた上記イの2000万円の損害賠償金につき,本件混入行為発生日の後である平成2年12月20日から上記支払の前日である平成7年10月31日までの間の民事法定利率5分の割合による遅延損害金486万8493円を支払う義務を負う。 エ弁護士費用 903万1778円原告らは,弁護士である原告ら訴訟代理人に本件訴訟手続の追行を委任し,第1審判決の時点において認容額の10パーセントに当たる903万1778円の弁護士費用を支払うことを約した。 オ原告ら各人の相続Nの上記各損害賠償請求権(ア,ウ及びエの合計額からイを控除した額,9934万9556円)につき,AはNの妻として,B及びCはNの子として,法定相続分に応じ,Aはその2分の1に当たる4967万4778円を,B及びCはそれぞれその4分の1に当たる2483万7389円を相続した。 (被告の主張)ア Nの損害(ア) (ア)は,不知(イ) (イ)のうち,Nは事故当時38歳の国家公務員(行政職(二)2級15号俸)で,平成2年の年収が472万5091円であったことは認め,その余は不知。 (ウ) (ウ)のaのうち,Nが平成2年12月27日から平成3年2月14日まで入院していたことは認め,その余は不知。 (ウ)のbは,不知イ認める。 ウ不知エ不知オ は認め,その余は不知。 (ウ) (ウ)のaのうち,Nが平成2年12月27日から平成3年2月14日まで入院していたことは認め,その余は不知。 (ウ)のbは,不知イ認める。 ウ不知エ不知オ相続関係は認める。 第3 争点に対する判断 1 争点(1)(安全配慮義務違反)について(1) 上記争いのない事実等に加え,証拠(甲11,14ないし31,33ないし35,37ないし45,乙2ないし4)及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の事実を認めることができる。 ア本件施設の職員は時期によって変動があるものの,補佐員を含め約13名であり,そのうち正規の職員は,施設長(Y施設長,その後任としてF施設長),助教授又は講師もしくは助手(M助手,その後任としてD講師,その後任としてH助教授)のほか,事務官1名,技官2名(N及びI)の5名であった。 F施設長の任務は,本件施設の運営及び管理並びに研究であって,具体的には,人事及び物品等業務推進に関する管理全般と研究の遂行であった。 イ Nは,もともと社交的な性格ではなく,言葉遣いや態度なども丁寧さに欠けるところがあり,職場の先輩であるIに対しても同様の態度をとっていた。 昭和55,56年ころ,本件施設内で数度にわたり現金等の盗難事件が発生し,本件施設の職員のうちIほか数名から,Nが上記盗難事件の犯人であると疑われたことがあった。Y施設長はNを呼び出して話を聞くなどしたが最終的に犯人は判明しなかった。Iは,上記盗難事件の犯人がNであると考えて,Nを許せないやつだと思うようになった。 Nは,勤務時間中に本件施設内の電話を使用して,たびたび中古車販売の仲介のアルバイトをするようになっていた。また,実験動物である犬に対するNの飼育管理に関し,実験者等が,Nが粗雑に取り扱っているなどといった苦情をIに対して述べるとい 使用して,たびたび中古車販売の仲介のアルバイトをするようになっていた。また,実験動物である犬に対するNの飼育管理に関し,実験者等が,Nが粗雑に取り扱っているなどといった苦情をIに対して述べるということもあった。Iは,このようなNの勤務態度につき再三にわたり注意をし,Y施設長に対してもNに注意をするよう訴えたりしていた。 これに対し,NがIからの注意を無視する態度に出たこともあり,昭和56,7年ころには,Iは,Nのことを嫌なやつで口も聞きたくない,目障りなやつだと思い,Nのことを「エヌッコロ」(同人のイニシャルと犬っころをかけた蔑称)と呼ぶようになった。そして,IとNは,必要な場合以外には会話しない状態となった。 Y施設長は,NとIとの関係が上記のように悪化していたことについて認識していた。 ウタオル事件Iは,以前酢酸タリウムを使って脱毛した事件があったということをD講師から聞いたことから,酢酸タリウムを使って嫌っているNを禿げさせよう,治療などのために暫く仕事を休めば目障りなNがいなくなってせいせいするであろうなどと考え,昭和60年ころから昭和63年ころまでの間に3回くらい,Nの使用していたタオルに酢酸タリウムの水溶液を振り掛けた。 Nは,そのうち少なくとも2回についてはタオルの異臭などからその異常に気付き,その都度D講師のところにタオルを持参し,検査を依頼したところ,検査の結果,振り掛けられたものが酢酸タリウムであることが判明した。D講師は,Nと仲の悪かったIが行ったのではないかと疑い,Iを呼び出して話を聞くなどしたが,Iが強く否定したため最終的に犯人が判明しなかった。D講師は,上記タオル事件についてY施設長に報告しなかった。 エ平成2年4月23日に行われた本件施設の職員による月例会議の席上で,IとNは,互いに相手の勤務態度を非 め最終的に犯人が判明しなかった。D講師は,上記タオル事件についてY施設長に報告しなかった。 エ平成2年4月23日に行われた本件施設の職員による月例会議の席上で,IとNは,互いに相手の勤務態度を非難しあって口論をした。 F施設長は,同月から本件施設の施設長に就任したものであったが,着任当初,IとNとはいわば犬猿の仲であるということを事務主任のKらから聞いており,また,その後の状況から2人がお互いを避けあっており,その不仲の状況を認識していた。また,本件施設の他の職員も同様の認識を有していた。 オコーヒー事件Iは,平成2年4月,Nが皆に仕事の段取り等を相談することもなく,連続して6日間の休暇をとったことにつき,それにより他の職員がその職務を代行しなければならないのに何を考えているのかなどと思い立腹したことから,再度酢酸タリウムを用いてNを禿げさせようと考え,タオル事件の時は失敗したので今度は絶対に成功させようと思って,同月中旬ころ,Nのコーヒー豆入れ容器の中に十数gの酢酸タリウム粉末を混入させた。 Nは,同月23日ころ,コーヒー豆の中に白色粉末が混入されている異常に気付き,コーヒー豆入れ容器をH助教授に示して相談したことから,H助教授は,その日のうちに,Nを伴い上記の容器を示してF施設長に報告した。その際Nは,「誰かに入れられたに違いない,もしこれが毒だったら,自分だけでなく女子職員達もやられてしまうではないか。」などと言って,粉末の検査を依頼した。さらに,Nは,「これからこれを警察に持っていって徹底的に捜査してもらう。」などと言ったが,F施設長は,「この粉末が何であるか分からないのであり,あまり騒ぎ立てないように」とNをなだめ,「調べてみるから預からせてくれ。」と言って,自分で上記容器を預かった。このとき,F施設長は,Nと仲の悪いIが 長は,「この粉末が何であるか分からないのであり,あまり騒ぎ立てないように」とNをなだめ,「調べてみるから預からせてくれ。」と言って,自分で上記容器を預かった。このとき,F施設長は,Nと仲の悪いIがコーヒー豆容器に白色粉末を混入したのではないかとの思いを持っていた。 なお,その数日後,Nは,F施設長に対し,本件施設の退出時に中村らが使用しているW303号室の鍵をかけて退出したいから合鍵を作成して欲しい旨希望し,作成された合鍵を受領した。 F施設長は,Nからコーヒー事件の訴えを受けた日,H助教授に対しペーハー検査をするよう命じた。上記ペーハー検査の結果は中性であったとの報告をH助教授から受けたF施設長は,人体に影響を与えるものではないという認識を持った。しかし,F施設長は,上記白色粉末の性質が依然気がかりであったため,同年6月上旬の新潟大学への出張の際,約0.1gの上記白色粉末を生理的食塩水で溶かし,用意したマウスのうちの一部のマウスの腹腔に0.2ccずつ注射をし,2日間,注射をしたマウスと何もしていないマウスの変化を観察した。この実験においてもマウスに異常は見られなかったことから,F施設長は,上記白色粉末が毒性のあるものではないと判断し,同月末ころ,Nに対し,「マウスで実験した結果,死ぬようなことはなかった。 」と実験の結果を伝えた。 その前後,Nは,既に本件施設から他所へ異動していたD講師に電話を掛け,タオル事件の時に使われた薬品の名前を確認した上,今度はコーヒー豆の中に入れられた旨を話したところ,D講師がすぐにF施設長に届けるよう助言したしたため,同年7月ころ再度F施設長に対し,「白色粉末は酢酸タリウムであり,Iが入れたのではないか,俺はIのことを常に頭の中に入れている,Iの薬品の棚でそれを見たことがある。」などと訴えた。F施設長は ため,同年7月ころ再度F施設長に対し,「白色粉末は酢酸タリウムであり,Iが入れたのではないか,俺はIのことを常に頭の中に入れている,Iの薬品の棚でそれを見たことがある。」などと訴えた。F施設長は,Iが酢酸タリウムを入れたことは間違いないとNが思い込んでいることを認識したが,そのようなことが本当にあり得るのだろうかとNの訴えを信じ難い気持ちでいた。その後,F施設長は,白色粉末が酢酸タリウムであるかどうかについて再度調査をすることはなく,白色粉末の混入していたコーヒー豆をビニール袋に移し替えて自分のロッカーに保管しておいた。 カ Nは,平成2年6月中旬ころ及び同年12月12日ころ,Iら本件施設職員数名を名指しにして,実際には欠勤しているのに出勤簿には出勤したように記載されているなど本件施設職員の出勤簿に不正な記載が行われていることをF施設長に直接報告した。また,同年9月末ころ及び同年10月末ころには同趣旨の内容を業務日誌に記載してF施設長に提出した。それを受けF施設長は,K事務主任に対してNの上記業務日誌の記載を見せ,出勤簿の整理は公平に処理することを命じ,さらに,同年11月5日の本件施設月例会議において,時間内勤務を遵守するよう出席者に話をした。 Iは,Nが業務日誌に上記のような記載をしたことをK事務主任から聞いて知った。Iは,K事務主任が出勤簿について上記のような処理を行ったのは,本件施設の職員のために行っているものだと思っていたため,Nが上記のような申し入れをしたことについてさらに怒りを募らせた。 キ Iは,平成2年4月23日の月例会議の後,Nを本件施設外へ配置転換させ他の者を本件施設に勤務させるトレードをするようF施設長に申し入れるなど画策していたが,交替要員の承諾を得ることができず,実現しなかった。 また,F施設長は,Iを本 ,Nを本件施設外へ配置転換させ他の者を本件施設に勤務させるトレードをするようF施設長に申し入れるなど画策していたが,交替要員の承諾を得ることができず,実現しなかった。 また,F施設長は,Iを本件施設外へ配置転換させなかったし,Iを酢酸タリウムの保管者や使用者から外したり,酢酸タリウムを同施設長の直接管理下に移すといった措置を講じなかった。 クこのような折,平成2年12月12日午前11時過ぎころ,上記第2の1の(2)に記載した状況下で,Iは,Nが席を離れた隙に本件混入行為を敢行した。 ケ翌13日ころから,Nに上記第2の1の(3)に記載した症状が現れ,同月27日ころ,NはJ病院に入院するに至った。 平成3年1月31日ころ,F施設長は,Nが入院していたJ病院の主治医からNの体内からタリウムが検出され,病名はタリウム中毒症であることを伝えられた。 しかし,F施設長は,免疫学を専門としており酢酸タリウムを使用することがなかったことから,酢酸タリウムについての知識はその名称を知っている程度であり,その危険性,本件施設における使用の実態,保管及び管理の状況等についての認識はなかったため,その時点では,カドミウムと同じ重金属中毒のようなものかとしか思わなかった。 F施設長は,上記告知を受けた際,コーヒー事件でコーヒー豆に混入されていた白色粉末も酢酸タリウムではないかとの疑念を抱き,同年2月4日ころ,自分のロッカーに保管していた白色粉末混入のコーヒー豆から白色粉末を掬ってJ病院に検査を依頼したところ,同月10日ころ,同病院医師から上記白色粉末も酢酸タリウムであるとの結果を伝えられた。 その後,同年2月12日ころ,F施設長は,H原澤助教授から,マイコプラズマを培養する際に培地の中にかびなどが増殖することを抑止するために酢酸タリウム水溶液を使用してい であるとの結果を伝えられた。 その後,同年2月12日ころ,F施設長は,H原澤助教授から,マイコプラズマを培養する際に培地の中にかびなどが増殖することを抑止するために酢酸タリウム水溶液を使用していること,酢酸タリウムには毒性があり,致死量は60kgの体重の者に対して1gであること,本件施設内で酢酸タリウムを使用する者はH助教授及びIのみであること,酢酸タリウムの保管場所等につき説明を受け,これらの事柄をこの時点で初めて認識した。 コ Nは,上記第1の1の(3)記載のとおり,同月14日,タリウム中毒を原因とする多臓器不全により死亡した。 (2) 以上の事実を前提にして,被告の安全配慮義務違反の存否について判断する。 ア国は,国家公務員に対し,国が公務遂行のために設置すべき場所,施設もしくは器具等の設置管理又は国家公務員が国もしくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたって,国家公務員の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務つまり安全配慮義務を負っている。そして,この安全配慮義務は,国が公務遂行にあたって支配管理する人的及び物的環境から生じうべき危険の防止について信義則上負担するものであるから(最高裁判所昭和50年2月25日第3小法廷判決・民集29巻2号143頁,最高裁判所昭和58年5月27日第2小法廷判決・民集37巻4号477頁参照),具体的な安全配慮義務の内容は,当該具体的状況のもとで予見可能な危険との関係で定まるものである。 イそこでまず,本件における被告の安全配慮義務の具体的内容につき検討するに,上記(1)で認定した,①平成2年4月に本件施設の施設長に就任したF施設長は,着任当初,K事務主任からIとNが犬猿の仲であると聞いており,また,同月23日に行われた本件施設の職員による月例会議の席上で2人が相手の勤務態度を非 2年4月に本件施設の施設長に就任したF施設長は,着任当初,K事務主任からIとNが犬猿の仲であると聞いており,また,同月23日に行われた本件施設の職員による月例会議の席上で2人が相手の勤務態度を非難しあって口論したこと等の状況を目の当たりにして2人の不仲の状況を認識していたこと,②同月に発生したコーヒー事件についてH助教授とNから報告を受け,白色粉末が混入されたコーヒー豆入り容器を見せられ,白色粉末の状況を現認したこと,③その報告を受けた際,Nから,上記粉末が毒物である可能性を指摘され,上記粉末の検査の実施を依頼されるとともに警察に捜査してもらうため届け出たいとの申し出を受けた上,同施設長としてもIが上記粉末を混入したとの疑いを持ったこと,④F施設長は,粉末が何であるか分からない段階で,余り騒ぎ立てない方がよいと考え,「この粉末はまだ何であるか分からないのであり,あまり騒ぎ立てないように」とNをなだめ,「調べてみるから預からせてくれ」と言って,粉末を預かったこと,⑤その約3か月後の同年7月ころには,D講師にタオル事件の時に使用された薬品が酢酸タリウムであったことを確認したNから,上記粉末が酢酸タリウムである疑いがあり,しかも,その薬品はIが管理する薬品の棚に存在するといった具体性をもった内容の報告を受け,さらにIが入れたのではないかとの疑問を呈示されたこと,⑥現に本件施設において,実験に用いるため,酢酸タリウムが保管されていたことなどの事実に鑑みれば,F施設長とすれば,遅くともNから再度の報告を受けた同年7月ころには,当該白色粉末がどういう物質であるのか,何のために何の目的でNのコーヒー豆に混入されたのかについては不明といわざるを得ないものの,再び本件施設内において白色粉末がNの飲食物に混入されることが起こり得ること,しかも,再度混 物質であるのか,何のために何の目的でNのコーヒー豆に混入されたのかについては不明といわざるを得ないものの,再び本件施設内において白色粉末がNの飲食物に混入されることが起こり得ること,しかも,再度混入される白色粉末が酢酸タリウムである可能性が存在することを認識し得たというべきである。 そして,このような状況下では,少なくとも,コーヒー事件における上記粉末に関し,Nから指摘のあった酢酸タリウムか否かについて,専門家の薬物鑑定調査を行い,酢酸タリウムであるかどうかを明確にすべき義務があったというべきである。 すなわち,その時点においては,白色粉末が酢酸タリウムである可能性も,酢酸タリウムでない可能性も存在したのであるが,白色粉末が酢酸タリウムであった場合には,再度の混入行為により,Nに死の危険が生じることもあり得たわけであるから,まず白色粉末が酢酸タリウムかどうかを確認することが,本件施設職員の生命及び身体を危険から保護するよう配慮するべき被告にとって,当然の義務となるといえる。 ウ他方,白色粉末が酢酸タリウムである可能性については,その根拠の大きな部分がNの申告によるものであって,F施設長の認識し得た事実からすると,白色粉末が酢酸タリウムである可能性がそれほど高いものとは当時認識できなかったものであるので,白色粉末が酢酸タリウムであることを想定して,酢酸タリウムの管理方法等を変更したり,Iに対する人事上の措置を執ることまで,当時の状況下における被告の義務とすることはできない。しかし,調査の結果,白色粉末が酢酸タリウムであることが判明したときには,酢酸タリウムが再度飲食物に混入されることが予見できることになるから,N及び職員に対する危害の可能性は飛躍的に高まることになる。そして,このような状況になれば,F施設長において,本件施設に保管され 酢酸タリウムが再度飲食物に混入されることが予見できることになるから,N及び職員に対する危害の可能性は飛躍的に高まることになる。そして,このような状況になれば,F施設長において,本件施設に保管されている酢酸タリウムの管理方法等を変更して管理を厳重にし,かつ,酢酸タリウムを混入させたものが誰であるかの内部調査を行い,再度このような混入行為が起こらないように,人事上の措置を含めて検討することが必要となってくる。すなわち,その時点で,被告のとるべき安全配慮義務の内容は,単なる調査義務を超えて,酢酸タリウムの管理方法等を変更したり,人事上の措置を含めた対策の検討という高度なものに変化していくことになるというべきである。 エところが,上記(1)に認定したとおり,F施設長は,Nからコーヒー事件の訴えを受けた後,警察に届け出るというNをなだめて自ら調査をする旨を述べながら,H助教授に上記粉末のペーハー検査をさせて中性との結果を得たり,マウスを使った実験を実施したにとどまり,その後は,平成2年7月ころにNから上記粉末が酢酸タリウムである可能性を指摘され,本件施設内に保管されていた劇物が目的外使用された事実を認知する機会があったにもかかわらず,上記粉末が酢酸タリウムかどうかを鑑定する検査を実施しなかった。しかも,前記のごとく,F施設長の行ったマウス実験は,生理的食塩水に白色粉末を溶かして行ったもので,事後的に見ると実験としては不十分なものであり,十分な調査を尽くしたということのできないものである。したがって,遅くとも,平成2年7月の時点で,被告にはNとの関係で安全配慮義務を怠った債務不履行があったと認めるのが相当である。 また,その後の経過からすれば,白色粉末の調査を実施しておれば,白色粉末が酢酸タリウムであることが判明したことは明らかである。そして で安全配慮義務を怠った債務不履行があったと認めるのが相当である。 また,その後の経過からすれば,白色粉末の調査を実施しておれば,白色粉末が酢酸タリウムであることが判明したことは明らかである。そして,酢酸タリウムであることが判明すれば,それに伴い被告には,上記のように,酢酸タリウムの管理方法等を変更したり,人事上の措置を含めた対策の検討を行う義務が生じるのであるから,結局,被告は,調査義務を懈怠したことによって,結果的にその後に生じる義務を果たすこともなく,結果として本件混入行為を防止することができず,本件死亡事故を防止することができなかった。被告の上記安全配慮義務違反と本件混入行為及びこれに基づくNの死亡との間の因果関係も認められるというべきである。 オ被告は,コーヒー事件に関し,容器に混入された白色粉末はコーヒーの豆の色と一見して異なるものであって,Nがこれに気付かず誤飲することはあり得なかったとして,単なるいたずらと認識される性質のものであり,IがNの生命に対する危険を加えることは予測し得なかった旨主張するが,酢酸タリウムはコーヒー豆に振り掛けられた状況にあり,コーヒー豆と混在した状態で挽かれ,Nに摂取される可能性は十分にあったというべきであって,客観的に見ても,単なるいたずらと認識される性質のものとは言い難い。F施設長の注意義務については,既に説示したとおり考えるべきである。 (3) 以上によれば,被告はNに対する安全配慮義務違反により生じた損害を賠償すべき義務を負うというべきである。 2 争点(3)(損害)について(1) 葬儀費用(主張額120万円) 120万円証拠(甲9)によれば,Nの死亡後原告らはNの葬儀を行ったことが認められるところ,本件と相当因果関係のある葬儀費用としては120万円を相当と認める 張額120万円) 120万円証拠(甲9)によれば,Nの死亡後原告らはNの葬儀を行ったことが認められるところ,本件と相当因果関係のある葬儀費用としては120万円を相当と認める。 (2) 逸失利益(主張額7332万9285円) 4985万9105円Nは,本件混入行為当時,本件施設勤務の技官であった38歳の男子であり,平成3年1月1日付けで行政職(二)2級15号俸に昇給し,その年の年収は463万3453円となるものであるから,少なくとも死亡時(38歳)から67歳までの約30年間,上記金額の年収を得る蓋然性を有していたというべきである。 この点につき,原告らは,通常の昇格昇給の態様(別紙逸失利益計算表記載のとおり)に従って昇格昇給した賃金により60歳定年までの逸失利益を計算し,その後67歳までの間も年齢別平均給与額表により各年齢における逸失利益を計算し,さらに,60歳定年まで本件施設にて勤務したことを前提にして支給されるべき退職金も逸失利益として考慮すべきと主張する。 しかし,昨今の経済状況,公務員制度改革,公務員の定員削減,国立大学の独立行政法人化の動向などの社会をめぐる不透明な情勢,昇格昇給に関する人事院規則等の定め方(人事院規則9-8第48条,給与法8条6項,人事院規則9-8第34条1項,人事院規則9-8の運用について(昭和44年5月1日給実甲第326号)第34条関係第1項)等に鑑みれば,60歳定年までNがその職務に継続して従事し,毎年確実に昇格昇給がなされ,かつ,原告ら主張の退職金額を取得し得るという蓋然性があるとまでいうことは困難である。したがって,原告らの上記主張は採用できない。 上記に従い,上記年収463万3453円を基礎に,生活費として30%を控除した上,ライプニッツ係数(30年=15.3724)を用い いうことは困難である。したがって,原告らの上記主張は採用できない。 上記に従い,上記年収463万3453円を基礎に,生活費として30%を控除した上,ライプニッツ係数(30年=15.3724)を用いて中間利息を控除して計算した金4985万9105円(1円未満切り捨て)を逸失利益として認める。 計算式 4,633,453×(1-0.3)×15.3724=49,859,105(3) 入院慰謝料(主張額92万円) 92万円Nは,平成2年12月中旬ころから平成3年2月14日の死亡時まで約2か月間入院しており,これを慰謝すべき金額は92万円が相当と認める。 (4) 死亡慰謝料(主張額3000万円) 2400万円本件において,Nの真摯な訴えにもかかわらず本件混入行為を防止することができなかった被告の安全配慮義務違反の内容,本件混入行為の態様,Nの年齢,Nが妻及び2人の未成年の子を扶養していた一家の支柱であったこと,その他本件に表れた一切の事情を考慮すると,Nの死亡慰謝料は2400万円が相当である。 (5) 損害の填補 2000万円Nの遺族である原告らが,平成7年10月31日にIから損害内金として2000万円を受領したことは,当事者間に争いがない。 (6) 確定遅延損害金(主張額486万8493円) 486万5753円上記(5)の2000万円に対する本件混入行為の後である平成2年12月20日から平成7年10月31日まで(1777日,ただし閏年は366日を1年として計算)の間の民事法定利率5分の割合による遅延損害金は486万5753円である。 (7) Nの損害の合計((1)+(2)+(3)+(4)+(6)-(5)) 6084万4858円(8) 相続Aは2分の1,B及びCは 法定利率5分の割合による遅延損害金は486万5753円である。 (7) Nの損害の合計((1)+(2)+(3)+(4)+(6)-(5)) 6084万4858円(8) 相続Aは2分の1,B及びCは各4分の1の割合で,それぞれNの損害賠償請求権を相続したから,Aが相続した損害賠償請求金額は3042万2429円(1円未満切り捨て),B及びCが相続した損害賠償請求金額はそれぞれ1521万1214円(1円未満切り捨て)となる。 (9) 弁護士費用(主張額903万1778円) 600万円本件訴訟の難易度,審理の経過,認容額等諸般の事情に鑑みると,被告に負担させるべき原告らの弁護士費用は,Aにつき300万円,B及びCにつき各150万円と認めるのが相当である。 3 結論以上によれば,その余の点を判断するまでもなく,原告らの本訴請求は主文掲記の限度で理由があるからこれを認容し,その余は理由がないから棄却する。 東京地方裁判所民事第14部裁判長裁判官山名学裁判官大嶋洋志裁判官宮崎拓也
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