令和5(わ)27 現住建造物等放火、殺人被告事件

裁判年月日・裁判所
令和7年9月17日 札幌地方裁判所
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判決文本文9,537 文字)

- 1 - 主文 被告人は無罪。 理由 第1 本件公訴事実及び争点 1 本件公訴事実の要旨は、被告人は、A(当時71歳)及びB(当時51歳)ら14名が現に住居に使用し、かつ、同人らが現にいる北海道北広島市所在の無料低額宿泊所「C」(以下「本件施設」という。)に放火して前記Aを殺害しようと考え、前記Bら他の入居者が死亡するかもしれないことを認識しながら、令和4年9月30日午前5時30分頃、本件施設213号室の当時の被告人方居室及び2階廊下等に灯油をまいた上、殺意をもって、ライターで紙片に火をつけ、これを用いて同居室内のカーテンに点火して火を放ち、その火を本件施設の床面及び壁等に燃え移らせ、よって、本件施設を全焼させて焼損するとともに、その頃から同日午前10時5分頃までの間に、本件施設201号室において前記Aを、本件施設206号室において前記Bを、それぞれ焼死させて殺害したというものである。 2 争点本件の争点は、責任能力である。すなわち、被告人は、本件犯行当時、自分がやろうとしていることの善悪を識別でき、その識別に従って自分の行動をコントロールできる能力がどの程度低下していたかが争点である。 検察官は、起訴前鑑定を担当した証人D(以下「D医師」という。)が証言した鑑定結果(以下「D鑑定」という。)に依拠して、被告人は犯行当時完全責任能力であったと主張する。これに対し、弁護人は、裁判員法50条による鑑定人E(以下「E医師」という)が証言した鑑定結果(以下「E鑑定」という。)に依拠して、被告人は犯行当時心神喪失であった疑いが残ると主張する。 当裁判所は、本件犯行当時の被告人の精神障害及び当該精神障害が本件犯行に与えた影響の仕方(機序)について、E鑑定が述べるところを排 に依拠して、被告人は犯行当時心神喪失であった疑いが残ると主張する。 当裁判所は、本件犯行当時の被告人の精神障害及び当該精神障害が本件犯行に与えた影響の仕方(機序)について、E鑑定が述べるところを排斥できない - 2 -ので、E鑑定に依拠して責任能力の有無及び程度を検討した結果、被告人は本件犯行当時心神喪失であった疑いが残ると判断した。以下ではその理由を詳述する。 第2 D鑑定及びE鑑定の要旨並びにこれらに対する評価 1 D鑑定及びE鑑定の要旨⑴ 検察官が依拠するD鑑定の要旨は次のとおりである。 被告人は、本件犯行当時、せん妄を発症していた。 被告人には、令和4年9月22日頃(以下、日付のみの記載は令和4年9月を指す。)から28日頃にかけて、せん妄の影響で、本件施設の部屋で死体を見たとの幻視及び死体の解体に入居者であるBが協力しているとの幻聴が生じており、本件犯行時にはこの幻視と幻聴が記憶として残っていたところ、従前より被告人がAや本件施設に抱いていた強い不満や不信感、被告人の物事をゆっくり深く考えない傾向、客観性に欠け主観が強い傾向等から、Aらが被告人の娘や孫を殺していて、次は被告人が殺されるという妄想様観念を抱くようになった。本件犯行当夜(29日夜から30日未明のことをいう。以下同じ。)、被告人は、「(被告人の名前)、表出てこい。」という脅かしのような声や廊下を歩く足音の幻聴を聞き、自分が殺される前に殺そう、娘や息子の仇を取ってやろうと思って本件犯行を決意したものであるが、本件犯行を決意後に何らかの精神症状が本件犯行に影響したことを示す明らかなものはなかった上、注意・記憶の障害、見当識の障害はほとんどなく、その頃の被告人の幻覚妄想は一定で関連性のあるものになっていたことから、本件犯行当時の被告人には意識障害の症状 したことを示す明らかなものはなかった上、注意・記憶の障害、見当識の障害はほとんどなく、その頃の被告人の幻覚妄想は一定で関連性のあるものになっていたことから、本件犯行当時の被告人には意識障害の症状はほとんどみられず、せん妄の症状は軽減傾向にあった。 ⑵ 弁護人が依拠するE鑑定の要旨は次のとおりである。 被告人は、本件犯行当時、急性一過性精神病性障害を発症していた。 被告人は、24日頃から出現した幻覚妄想により、Aやその仲間が被告人 - 3 -の娘や孫を殺害し、さらに住人を次々に殺害して解体していると思い込むようになり、本件犯行当夜は、「(被告人の名前)、表出てこい。」という声や廊下の足音といった幻聴のほか、自分の部屋の窓から打ち上げ花火の火の粉が降ってきて焼け死ぬ幻視が見え、とうとう自分が殺害される順番が回ってきたと思い、自分が殺されるのならその前に娘や孫の仇を取ろうと考えて放火に至ったものである。このような幻覚妄想に加え、考えや会話にまとまりを欠く連合弛緩等の症状も目立ち、意識の変動も混在し、もはや合理的な思考は困難な状態であった。本件犯行は、切迫した妄想の中で、部屋に灯油があったことや幻視により火の粉で人が焼け死ぬ映像が見えたことなどから放火という方法を思いついたのであり、追い詰められた状況で衝動性が高じ、連合弛緩も相まって、それ以外の選択肢を考えることができず、犯行に突き進んでしまったものであり、その激しい症状により被告人には犯行に至る過程を止められなかった。 2 両鑑定の評価⑴ 被告人の薬剤服用状況について本件で被告人の精神障害をせん妄と診断するか否かの分かれ目となるのは、被告人に器質性の原因、すなわち薬剤服用に関する原因が認められるか否かという点にある。この点、D鑑定は、せん妄の診断に必要とさ 本件で被告人の精神障害をせん妄と診断するか否かの分かれ目となるのは、被告人に器質性の原因、すなわち薬剤服用に関する原因が認められるか否かという点にある。この点、D鑑定は、せん妄の診断に必要とされる器質性の原因があったとする理由について、①被告人には、令和4年9月中旬から25日までの間に抗うつ剤又は睡眠剤を過量服用していたと疑われること、②同月中旬から25日までの間に服用する薬剤を変更した可能性があること、又は③睡眠剤であるフルニトラゼパムを同月中旬頃まで服用し、その頃に服用を中止したと疑われることを指摘する。 アこのうち、①(過量服用)の根拠としては、D医師は、㋐被告人が、起訴前鑑定時に、9月中旬頃から寝る前の薬6錠くらいを複数回飲んだと話していたことや、同月下旬に娘や入居者に薬を2回飲んだと話していたこ - 4 -とを挙げる。また、検察官は、㋑被告人に処方されていた薬剤の種類と数から計算すると2日以降被告人の手元には6種類の薬剤があったはずなのに、25日に本件施設の入居者であるFが被告人の部屋から持ち帰った内科の処方薬は4種類しかなかったので、2日から25日までの間に被告人が2種類の薬剤を過量服用した可能性があること、㋒被告人自身、本件犯行の9日後に録取された供述調書(乙11)において、2日から26日までの間、抗うつ剤と睡眠薬を1種類ずつ服用するよう処方されていたが、自分はそれを超えて、血圧の薬2種類(約2錠)と睡眠薬及び抗うつ剤約3錠の合計5錠くらいを飲んでいたと供述していることを指摘する。 しかし、D医師は、どの薬剤をどの程度服用すればせん妄を引き起こすかについて明確に指摘をしていない。また、被告人が、次女や入居者に対して薬を多く飲んだ旨話していたことについては、いつの時点の話をしているのかが不明であり、そ をどの程度服用すればせん妄を引き起こすかについて明確に指摘をしていない。また、被告人が、次女や入居者に対して薬を多く飲んだ旨話していたことについては、いつの時点の話をしているのかが不明であり、それが同じ1回を指しているのか、何度か薬剤を多く飲んだことがあったのかも不明である。そもそも、起訴前鑑定時の被告人の陳述も含めて、薬剤服用状況に関する被告人の供述内容は曖昧であり、ここから過量服用があった可能性が高いと認定できるほど具体性を有するものではない。さらに、Fが25日に被告人の部屋から回収した4種類の薬剤というのもどのような薬剤か不明であるところ、Fは、25日に回収した薬剤は睡眠薬2種類と抗うつ剤のようなものではないかと思うと供述するのであるから、被告人が睡眠薬や抗うつ剤を過量には服用しなかったため25日時点でこれらの薬剤が残っていた可能性も考えられる。そうすると、被告人が薬剤を過量服用していた可能性があると断ずるには疑問の余地がある。 イ次に、②(薬剤の変更)については、関係証拠をみても、被告人が服用する薬剤を変更したとうかがわせるものは見当たらず、抽象的な可能性を指摘するに過ぎないのであるから、せん妄を引き起こすような薬剤の変更 - 5 -があった可能性があると断ずることはできない。 ウそして、③(薬剤の服用中止)について、D医師は根拠となるべき具体的な推論過程を述べていないところ、検察官は、その根拠として、㋐被告人が依存性のあるフルニトラゼパムの服用を止められたとは考え難いこと、㋑被告人が処方どおりに薬剤を服用していたと仮定すると、2日の時点で被告人の手元にはフルニトラゼパムが16錠程度残っていたはずであり、被告人に精神的な不調が見え始めた23日までにはこれらのフルニトラゼパムを飲み切って服用を中止した可能性が高 定すると、2日の時点で被告人の手元にはフルニトラゼパムが16錠程度残っていたはずであり、被告人に精神的な不調が見え始めた23日までにはこれらのフルニトラゼパムを飲み切って服用を中止した可能性が高いことを指摘する。 しかし、Fが25日に持ち帰った各15~20錠ほどの薬剤には2種類の睡眠薬が含まれている可能性があるというのであるから、25日の時点では、被告人の手元には15~20錠ほどのフルニトラゼパムが残っていた可能性も否定できず、そうすると、被告人が2日から23日までの間にフルニトラゼパムを飲み切ってしまったとは考えられないことになる。したがって、被告人が薬剤、とりわけ服用中止による離脱作用のあるフルニトラゼパムを23日までに飲み切って服用を中止した可能性があると断ずるのにも疑問の余地がある。 以上のとおり、関係証拠上は、D医師の指摘する薬剤の過量服用又は服用の中止があった可能性は一応認められる一方で、過量といえるほどの薬剤の服用はなかった可能性もあるし、離脱症状を起こすような薬剤服用の中止がなかった可能性もある。そうすると、E医師が述べるように、被告人の服薬状況は明らかでないと判断することもあながち不合理とはいえない。この点、E鑑定も、被告人の服薬状況に関する供述調書に言及がないなど、被告人の服薬状況を慎重に把握しようとしたか若干疑問が残るものの、それでも、以上に述べたところによれば、薬剤の服用状況は明らかではないと判断し、また、鑑定時の被告人の陳述をもとに、服用したことを忘れた被告人が3日分の処方薬を重ねて服用したと仮に想定し、それでも薬剤の種類からせん妄を - 6 -引き起こす可能性は低いものとして検討を進めたことがあながち不合理とはいえない。 ⑵ 本件犯行当夜の被告人の幻覚妄想に関する評価について それでも薬剤の種類からせん妄を - 6 -引き起こす可能性は低いものとして検討を進めたことがあながち不合理とはいえない。 ⑵ 本件犯行当夜の被告人の幻覚妄想に関する評価についてD鑑定は、本件犯行当夜、被告人が「(被告人の名前)、表出てこい。」という脅かしのような声や廊下の足音の幻聴を聞き、本件犯行を決意したと指摘する。 しかし、関係証拠によれば、本件犯行当夜に被告人に生じた幻覚妄想はこれにとどまらず、火の粉が頭上からふりそそぎ、体中が真っ黒こげになって、周りには死人もいるとの幻視も生じており、「(被告人の名前)、表出てこい。」との声や足音の幻聴は消えたものの、被告人としては、いつ殺されるかわからず、恐怖がずっと続いているという心境にあったと認められる。D鑑定は、これらの幻視や恐怖感に関する検討が欠落しているといわざるを得ない。 また、D鑑定は、Aらが本件施設の入居者を次々と殺害して解体し、被告人の娘や孫も殺していて、次は被告人が殺される順番であるとの思い込みは、22日頃から28日頃にかけて生じていた幻視幻聴の記憶から生じたもので、内容に奇異性はなく、被告人の病的な要素を前提とすれば了解可能性も認められ、訂正可能性もあったことから、二次妄想である妄想様観念であるとする。 しかし、施設の管理者が入居者を次々と殺害して解体し、自身の娘や孫を殺害するという思い込みは一見して奇異に思われるが、にもかかわらず内容に奇異性がないとしたD鑑定の根拠は不明である。また、被告人の病的な要素を前提とすれば了解可能という点についても、そもそもの発端となる幻視幻聴が了解不可能なのであるから、これを前提としてなお了解可能とする説明には疑問が残る。したがって、被告人の思い込みを妄想様観念と評価したD鑑定の合理性 という点についても、そもそもの発端となる幻視幻聴が了解不可能なのであるから、これを前提としてなお了解可能とする説明には疑問が残る。したがって、被告人の思い込みを妄想様観念と評価したD鑑定の合理性には疑問が残るといわざるを得ない。 - 7 -これに対して、E鑑定は、犯行時に被告人に生じていた幻覚妄想を網羅的に評価して説明できており、被告人の思い込みが了解不可能な一次妄想である真正妄想とした点でも合理性が認められる。 ⑶ 本件犯行直後及び逮捕・勾留中の被告人の言動に関する評価について関係証拠によると、被告人は、本件犯行直後、本件施設から外に出た際、「殺し合いだ。」と叫びながら歩いており、警察官から事情聴取を受けた際にも、「AとGは去年からCに住んでいる人を何人も殺している。」「こいつらを一掃しないと次は自分がやられると思った。」と供述していたことが認められる。また、逮捕・勾留中の言動をみても、取調べを担当する警察官に対して、逮捕された本件犯行当日は「実はですね。その施設内で殺人が行われていたのははっきりしていました。」「俺の娘、孫娘ですね。悲惨な。 こいつらのせいで。それを知ったときに初めて殺意を感じました。」「あの火の粉が、こったらでしょ。狙って、頭からだーって。みんなだらだらですよ。全部死人ですよ。それ。それをなんとか、なんとかして解体する。」などと述べ、その後も同様の供述を続けていたほか、取調べ中に右側を気にして独り言を述べたり、上を見て手でOKのサインを出したり、後ろを振り払う仕草をして吹き出したりするなどしていたが、本件犯行の3日後である令和4年10月3日の取調べでは、警察官に対して次女が生きているかを尋ね、警察官から次女が生きている旨を聞かされると、呆然として「いやいや、そしたら完全に。」「娘は ていたが、本件犯行の3日後である令和4年10月3日の取調べでは、警察官に対して次女が生きているかを尋ね、警察官から次女が生きている旨を聞かされると、呆然として「いやいや、そしたら完全に。」「娘は死んだ感覚になってたから。」と述べるに至り、同月7日の取調べでは、「Cのことだとか。法律のことだとか。自分の体調のことだとかで。もうパニックになるっていうのかな。もうとにかくここで住んでて、安全に暮らせてれば、俺はいいと思ってたんだわ。何かおかしなことがあろうと、何しようと。でも毎日のようにその話を俺に振ってきて、どうのこうので。半分俺のほうも嫌になってたんだよね。ノイローゼ気味で。」と述懐するに至っている。 - 8 -被告人の同月3日頃までの妄想と思しき言動は、本件犯行当時の妄想と継続した一貫性のあるものと認められるので、本件犯行当時の被告人の精神障害の内容や本件犯行への影響の仕方(機序)を検討する上で重要な事情であると思われる。にもかかわらず、D鑑定ではこれらの点にほとんど触れられておらず、尋問結果を踏まえてみても、これらの点を十分に検討した様子は見受けられない。 また、D医師は、せん妄による幻覚妄想は意識障害の結果として生じるものであることを前提に、本件犯行時には被告人の意識障害がほとんどみられないことから、本件犯行にはせん妄による幻覚妄想が影響していないと指摘する。しかし、意識障害がほとんどみられなくなったにもかかわらず、本件犯行当時はもとより、本件犯行直後や逮捕・勾留中にもこれほど激しい妄想と思しき言動がみられるのは不自然といわざるを得ないところ、この点についてもD医師から納得のできる合理的な説明はなされていない。 これに対して、E鑑定は、本件犯行直後及び逮捕・勾留中の被告人の言動を詳細に分析し、本件犯行の3日 ざるを得ないところ、この点についてもD医師から納得のできる合理的な説明はなされていない。 これに対して、E鑑定は、本件犯行直後及び逮捕・勾留中の被告人の言動を詳細に分析し、本件犯行の3日後からは妄想が訂正可能となって被告人が困惑し、妄想の確信度が下がっていく経緯も分析した上で、これらを急性一過性精神病性障害の典型的な経過であると判断している。たしかにE鑑定は、被告人が急性一過性精神病性障害になった原因を究明していない点で説明不足の感は否めないが、急性一過性精神病性障害の診断基準を踏まえると、原因を究明することなく症状のみに着目して診断したことが不合理とまではいえないのであるから、本件犯行直後及び逮捕・勾留中の被告人の言動に関するE鑑定が不合理とはいえない。 ⑷ 被告人の本件施設やAに対する不平不満等の評価についてD鑑定は、被告人が有していたいくつかの幻視・幻聴のうち、本件施設やAに対する強い不平不満があったため、本件施設に関する幻視・幻聴が本件犯行動機の形成に強い影響を与えたと指摘する。しかし、関係証拠によると、 - 9 -たしかに被告人は本件施設に対していくらかの不満は有していたが、放火に結びつくほどの強いものであったとは認められない。また、Aとの関係では、本件施設の入居者らは被告人とAとの間で揉めている様子はなかったと述べているところ、被告人は、次女に対し、Aには日常的に世話になっているとして感謝の言葉を述べており、Aに恩義を感じていたと見受けられる面もある。このように、被告人は、Aに対して少なくとも殺害に結びつくほど強い不満があったとは認められない。このような事情を考慮すると、D鑑定が述べる本件犯行動機の形成過程についても、直ちに依拠するのは困難といわざるを得ない。 これに対して、E鑑定 びつくほど強い不満があったとは認められない。このような事情を考慮すると、D鑑定が述べる本件犯行動機の形成過程についても、直ちに依拠するのは困難といわざるを得ない。 これに対して、E鑑定では、以上の証拠関係も踏まえて、被告人が本件施設やAに対して少なくとも恨みを抱いているとは考えられないとしており、合理性が認められる。 3 以上に加えて、D鑑定は、当初は薬剤の過量服用のみをせん妄の原因としていたところ、その後になって薬剤の変更及び服用の中止による離脱をせん妄の原因に加えるなど、鑑定内容に変遷がみられることも踏まえると、責任能力の検討に当たってD鑑定に依拠するのには疑問が残る。 これに対し、E鑑定は、たしかに、犯行数日前からの被告人の言動につき見当識障害をうかがわせるものがある点に関する説明が不十分な面があるが、本件犯行当時から犯行後にかけての被告人の言動に関する評価には合理性があり、かかる評価を前提とすれば、本件犯行当時の被告人は重度の急性一過性精神病性障害の影響を強く受けていたとするE鑑定の見方があながち不合理なものとして排斥することはできない。そして、完全責任能力があると認定するのに合理的な疑いを入れるE鑑定を排斥することができない以上は、E鑑定に依拠して責任能力の有無及び程度を判断せざるを得ない。 第3 本件犯行当時の被告人の責任能力の有無及び程度そこで、E鑑定を前提に、本件犯行当時の被告人の責任能力の有無及び程度 - 10 -を検討する。 この点、たしかに本件犯行当時の被告人の行動には、自室内にとどまらず廊下にも灯油をまき、自室内にごみをまいて、紙片を媒介させてカーテンに点火するなど、個別的にみると目的に沿った合理的な行動を取ることができている。 また、犯行後には、「俺を逮捕してくれ。」「死刑を覚 廊下にも灯油をまき、自室内にごみをまいて、紙片を媒介させてカーテンに点火するなど、個別的にみると目的に沿った合理的な行動を取ることができている。 また、犯行後には、「俺を逮捕してくれ。」「死刑を覚悟している。」と述べるなど、本件犯行が違法であることを理解した発言も認められる。 しかし、本件犯行を全体としてみれば、A殺害を目的としながら、直接Aに手を下すのではなく、本件施設全体を放火するという迂遠な方法を選択したこと自体不合理といえる。また、A殺害を意図しているにもかかわらず、本件施設内全体に聞こえるように「逃げろ。」と叫んだり、タバコを購入するためにキャッシュカードをポケットに入れて外に出たにもかかわらず、その後現場にとどまって警察官からの事情聴取に応じたりするなど、目的に照らして不合理といえるような被告人の行動も存在する。そもそもE鑑定によると、本件犯行は、一次妄想と評価されるほどの異常な幻覚妄想に起因するのであるから、たとえ本件犯行当時の個々の被告人の行動が合目的的で違法性を理解しているように見えるとしても、元々の発端が異常というほかないのであって、本件犯行当時の個々の被告人の行動ぶりをもって責任能力があったことの根拠とすることはできない。 そして、E鑑定によれば、本件犯行は、異常な幻覚妄想の圧倒的な影響の下、重度の連合弛緩も相まって、それ以外の選択肢を考えることができず犯行に突き進んでしまったと認められる。また、被告人にはAを殺害しなければならないほどの強い恨みがあったとは認められない上、本件施設の入居者の供述によると、近年の被告人には粗暴性は認められないというのであるから、本件犯行は被告人の平素の人格とは異質なものである。そうすると、本件犯行当時の被告人には、善悪の識別に従って自分の行動をコントロールできる能力が失われて には粗暴性は認められないというのであるから、本件犯行は被告人の平素の人格とは異質なものである。そうすると、本件犯行当時の被告人には、善悪の識別に従って自分の行動をコントロールできる能力が失われていた疑いが残るといわざるを得ないのであるから、完全責任能力を有してい - 11 -たとは認められないし、心神耗弱であったとも認められず、責任能力が失われていたとの合理的な疑いが残る。 したがって、被告人による本件行為は、心神喪失者の行為として罪とならない(刑法39条1項)から、刑事訴訟法336条により、被告人に対して無罪の言渡しをする。 (求刑―懲役30年)令和7年9月17日札幌地方裁判所刑事第2部裁判長裁判官井戸俊一 裁判官織本もなみ 裁判官河村龍

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